エペソ5:18「聖霊に満たされ続けなさい」 | | いろいろ考えています! | ある人の言葉です。「三位一体を説明してみなさい。そうしようとすれば、気が狂ってしまうでしょう。三位一体を否定してみてください。そうすれば、あなたの魂が失われるでしょう。」アウグスチヌスの言葉です:「もしあなたが三位一体を理解できるなら、それは、神ではない。」
これまでも書きましたように、ずっと御子と御霊の関係について考えています。これ以上考えなくてもいいのではないか、と思う時もあります。しかしもし、ある点や領域で、聖書が御子と御霊を区別しているなら、聖書にしたがって、その区別を理解したいと思います。
神様が、私達をおつくりになった時、造られた私たちについて、最も大切なものとして与えてくださったものがあります。いろいろあるかもしれませんが、私は、何よりも、「真の自由」であると言いたいと思います。これは、神様の愛と憐れみのしるしであり、一番の恵みであると考えます。
神様は、昔も今も、私達の自由を大切にし、取り扱っておられます。ですから、神様の特別介入は少ないのだと思います。私たちの自由に制限を与えるような神様の働きは極力少なくして、できるだけ多くのことに関して、多くの領域において、私達に自由を許しておられると考えます。
しかし多くの場合、私たちの自由の使い方は自己中心的であり、その最悪の問題の結果が「戦争」であると思います。自由を与え、尊び、任せておられる神様は、昔も今も、悲しんでおられます。
ただし、自由を与えていてくださる神様は、私たちをそのまま放っておられるわけではありません。第一に、これまでもそうでしたし、最後の時もそうですが、自由な私たちに、神様は最終的なさばきをくだし、自由の恵みをどのように使ったかを明らかにされます。これは、正に、神様の最後の介入と言えます。
第二に、神様は、そのようにならないように、なる前に、私たちにいくつかの助けと導きを与えていて下さいます。簡単に言えば、聖なる神様を畏れること、御子イエス様の十字架の愛に動かされること、内住の御霊に満たされ、導かれることです。
話は長くなりましたが、私たちに自由を与え、これをいつも尊んでいて下さる神様の方法の一つは、私たちの心に御霊が内住して、私たちを内側から満たし、導くということです。私たちの自由を何よりも大切にしていて下さる神様は、私たちの心に聖霊を遣わし、聖霊が内側から私たちを変え、私たちの自己中心を癒し、導こうとしておられるのです。
何よりも自由を大切にしておられる神様の、現在的で、最も有効な方法が「御霊の満たし」になるのではないかと考えます。これが、神様のギリギリの方法ではないでしょうか。御父を畏れること、御子の愛に促されることとともに、これは、何よりも、有効な神様の方法ではないかと考えるのです。
御子とその愛に満たされる、と言えないことはありませんが、内住の御霊に満たされることこそ、神様の最後の方法、三位一体的な最後の方法と言えるのではないでしょうか。ハレルヤ! | | 2024-06-16 18:06:46[投稿番号:378] |
今、学んでいるエペソ書の聖霊について | | 3章16節と17節のパウロの祈りについて | ローマ書の聖霊の学びがほとんど終わりましたので、いま、エペソ書の聖霊について学び続けています。今は、まだ初めの段階で、より正確に、より深く学ぶ段階ではありませんが、興味のある箇所を見つけました。3章16節と17節のパウロの祈りです。
第三版の訳と2017の訳と比べるとよくわかりますが、訳の違いがかなりあります。ここは、ギリシャ語や英訳聖書を見た方がよいと思います。一か所だけ、解釈上の重要な判断が要る箇所がありますが、それが、16節です。直訳をしますと、「(御父が)ご自身の栄光の豊かさにしたがって、内なる人におられる聖霊によって、力をもって、あながたがたを強めてくださるように(あなたがたが強められますように)。信仰によって、あなたがたのこころにキリストが住まれますように。」
第三版よりも、2017訳のほうがよいと思いますが、さらにNIV訳、ESV訳などのほうがよいと思います。一つだけ難しい判断が要る箇所があると言いましたが、それは、「内なる人の中に(中へ)」と「聖霊」の修飾関係を明らかにする必要があるということです。私は、次の17節をも参照して(つまり、16節と17節はほとんど同意的な並行文だと考えます)、上記の訳を考えています。
もしこの理解(訳)が正しいとしますと、16節にも17節にも、「内住」があるということです。16節には聖霊の内住、17節には御子の内住です。ですから、最初のところで、興味のある箇所を見つけた、と書いたのです。
では、皆さん。この箇所は、御霊の内住と御子の内住がブツカル所でfしょうか。私は、二重の内住が記されていることに喜び、おどろき、感謝しています。
ただし、厳密に言いますと、聖霊の内住は、パウロが繰り返し書いているように事実ですし、パウロの教えの不動の基盤です。では、御子の内住とは何でしょうか。ちゃんと、17節に「信仰によって」とある通りです。御霊は、事実通り、私たちの心に内住していて下さいますが、御子は、「私達の信仰によって」内住してくださるのです。
これが、パウロの祈りです。敢えて言うならば、内住の聖霊によって私たちは力を受け、強められます。また、御子の内住によって、キリストの愛を知るのです(19節)。
御子と御霊の内住によって私たちは溢れるのです。ハレルヤ! | | 2024-06-07 18:36:17[投稿番号:377] |
「みことばが与えられること」について | | 最近、考えていることの一つ | 「みことばが与えられる」ことについて、皆さんはどんなふうに考えておられるでしょうか。
私のこれまでの信仰生活において、このことについてはかなり否定的、または消極的であったように思います。ただし、全否定してはいません。
実際に、高校三年生の時(55年前)、自分の将来について考え祈っていたとき、みことばが与えられたからです。今でもそう思っています(マタイ4章19節)。「 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
当時は、別の思いがあって、それが神様の御心であるように願いつつ祈っていました。しかし最後に、すべてをお委ねしたときに、その時読んでいた聖書箇所(マタイ4:19)が私の心に特別な意味をもって飛び込んで来ました。私は、すぐに、神様が「人間をとる漁師にしよう」としておられることを確信しました。
ただし、その後の道がすべて順調だったというわけではありません。大学4年のとき、もう一度、この体験が本当に神様からのものなのか、私が勝手に判断し、みことばを自分自身に当てはめただけなのか、正直にこの問題に直面し、時間をかけてじっくり吟味しなければならなかった時期がありました。迷いに迷って、最後に、再献身して、やっとこのみことばに戻ることができました。
さて、本題に戻りますが、神様は、私達の生活や歩みに関連して、聖書のみことばを通して、直接的に語ってくださるのでしょうか。これらについて、みことばが与えられるように祈るべきでしょうか。
私は、これまでの50年以上の信仰生活の中で、生涯に関わる重大な岐路に立って、「みことばが与えられました!」という証しを何ども聞いて来ました。しかし、あとで分かるのですが、それらの御言葉の解釈や適用が間違っていて、多くの場合、成就していないのを見てきました。
みことばを個別的に解釈適用しすぎる問題、乱用する問題を見てきました。そんなに気軽にみことばを適用してよいだろうかと考えてきました。
ですから、みことばを求めるとか、みことばが与えられたとかについては、かなり躊躇してしまうのです。
しかし、最近少し見方が変わってきたように思います。もちろん、みことばを求めたり、みことばが与えられましたと言うとき、それは重大なことであり、本当に神様を恐れ、遜り、吟味して、自分が間違って解釈適用していないか慎重であるべきことは変わりません。これらのことを軽視できません。
神様が私たちを導かれる時に用いられる恵みの手段はいろいろあります。教会の交わり、兄弟姉妹からのアドバイスや祈り、状況の変化(理性的な吟味や分析、判断も)、礼拝や学び会などを挙げることができます。しかし、これらの中で、一番大切な神様の導きの手段は何かと考えたら、やはり、真っ先に出て来るのは、「聖書のみことば」です。
私たちは、みことばが全ての時代の全ての人々のために書かれた(語られた)ものと考えています。つまり、みことばは、普遍的なものです。しかし、神様の御心によって、御心次第で、普遍的なみことばが、敢えて個別的に、御霊によって用いられることもあるということです。
神様は、おそらく、他の何ものよりも、みことばを用いて、時に個別的に、ご自身のみこころを語り、また明らかにされるということです。
神様のみことばを気軽に使い、乱用する問題はつづいています。ですから、時間をかけ、じっくりと吟味する必要があります。しかしそれでも、神様は、「本当に」個別的に、「あなた自身」に、また「私自身」に、語りかけ続けていてくださると信じます。ただし、最後にもう一度、気軽にみことばを解釈適用する「自分自身」を信じてはいけないこと、まず疑うべきことの必要を強調したいと思います。
ハレルヤ! | | 2024-05-31 19:24:17[投稿番号:376] |
イザヤ51章1節から | | 揖斐キリスト教会の献堂式! | 今朝のディボーションで読んだ箇所は、イザヤ51章1節でした。皆さんもご存知かもしれませんが、「あなたがたが切り出された岩、掘り出された穴に目を留めよ。」とあります。
イスラエルの人々にとって、それは、次節にありますように「アブラハムとサラ」を考えることになります。
私にとっては何だろう、どこだろうとあらためて考えてみました。やはり、それは、私にとっての母教会「揖斐キリスト教会」です。
そこに、神様の奇しい御業や導きがありました。また、兄弟姉妹たちの祈りや励まし、交わりがありました。また、そこに、共なる礼拝、証し、学び、派遣がありました。
今でも、当時の兄弟姉妹たちの「顔」を思い浮かべることができます。また、手取り足取りで、導いてくださった宣教師の先生、伝道師の先生を覚えます。
実は、ちょうど、今度の日曜日の午後に、揖斐キリスト教会の新会堂の献堂式があります。台風で牧師館が破損し、会堂も道の拡幅工事で移動することになり、新会堂建築の導きが与えられ、このほど完成し、献堂式が持たれることになりました。
牧師先生や信徒の皆さんたちの祈りと献身によって、ここまで導かれたことは、夢のようであり、神様の奇跡であると思っています。
現在の「揖斐川町」の人口は、近隣の村々との合併を通して、約2万人ですが、この小さな町に教会があり、新会堂が与えられたことは驚きです!
本当に「村の小さき教会」ですが、これからも、神様の奇しい導きの中で、礼拝がささげられ、交わりと祈りがあって、この地域の「光」として、「証し」として用いられていくことを願っています。
私にとって、揖斐教会は切り出された岩、掘り出された穴として今も生きた教会として守られていることを賛美いたします!ハレルヤ! | | 2024-05-24 17:47:22[投稿番号:375] |
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ローマ8:28について | | ローマ書の聖霊について | 現在、ローマ書の聖霊について学んでいるところです。いろいろな課題がありますが、その一つが8章28節をどのように解釈するかということです。少しまとまってきましたので、お分かちさせてください。
28節についても確認することがいくつかあります。第一に、最も重要なこととして、この節の「主語」は何か、誰かです。例えば、新改訳第三版での主語は「神」で、2017訳では「すべてのこと」です。英訳聖書でも同様に分かれています(NIV訳:God、ESV訳:All things)。
まず考えるべきこととして写本上の問題があります。これは、すべての議論の前提になりますので軽視できません。この点についてのより詳細な取り扱いをしている専門家たちの見解は以下のとおりです。Cranfield(425頁以下)は「すべてのことが共に働く」を支持)、Moo(508頁、527頁以下)は条件付きですがCranfieldと同じです。フィー(587頁以下)も「? θε??(神)」が後で加えられたと判断しています。ただし、だからと言って「π?ντα(すべてのこと)」がそのまま主語になるかどうかは決められないとし(「π?ντα」は文法的に主格と対格が同形なので)、最終的にはこれを対格とし、動詞の「συνεργε?」から主語を「彼」と判断しています。とにかく写本上の問題として、「? θε??(神)」が主語になっている写本はありますが、上記の専門家たちが判断しているように、写字生による(意図的?)追加と見てよいと思われます。
第二に、注目点は「π?ντα συνεργε? ε?? ?γαθ?ν」における「π?ντα」の機能と意味です。この点で、上記のとおり、CranfieldとMooは「π?ντα」を主格ととっていますが(「すべてのことがともに働く」)、フィーは「π?ντα」を対格とし、動詞「συνεργε?」から主語を「彼(御霊)」としているからです(「御霊はすべてのことをともに働かせる」)。
それぞれの議論を比較した上で私としては、フィーの議論を支持したいと思います(「π?ντα」は対格で、「συνεργε?」の主語の「彼」は御霊を指している)。ただし、CranfieldやMooのように、「π?ντα」が主格であったとしても、この背後に「御父」というよりも、26節以下の文脈理解から、「御霊」の働きがあると考えたい。
第三に、「π?ντα」が主格か、対格かという議論以上に大切なことがあります。それは、これまで学んで来たこと(特に26、27節)とこの28節がどのような関係があるかということです(もちろん28節は、この後の29節、30節とも関係しています)。
?26節と27節には、終末を生きていく中で弱さを覚える神の子どもたちのために聖霊がうめきのとりなしによって助けてくださることが語られていましたが、28節(29?30節)にも同様な終末論的意識があることは確かです。
?26?27節にある御霊のとりなし(助け)の過程と結果が28節にあるではないかと考えます。それが、「すべてのことについて益となる」という表現に現れていると思います。
?私たち(26節)、聖徒たち(27節)、神を愛する人たち、召された人たち(28節)は、全て同じで、神の子どもたちを指しています。
?これらの共通点、類似点から、26?27節と28節が緊密な関係にあることが分かりますので、28節において主体的な働きをされる方を御霊と考えてよいのではないかと考えます。ただし、上記でも触れましたように、「π?ντα」を主格にとって「全てのことが共に働く」と理解しても、意味はほとんど同じで、基本的にここで意識されている主体は御霊であると思われます(2コリント3・18、ピリピ3・21)。
8章28節は、私たちが大好きな聖書箇所の一つで、よく引用されています。私としては、この箇所の学びのまとめとして、「すべてのことが、私たちの益になるように共に働いている」と言えますが、文脈的に考えると、この背後に、聖霊の豊かな働きがあるから、と言えるのではないでしょうか。ハレルヤ! | | 2024-05-17 17:56:57[投稿番号:373] |
望みがある | | イザヤ書を読みながら・・・ | エレミヤ書のあと、ディボーションで少しずつ、イザヤ書を読んでいます。本当に、エゼキエル書、エレミヤ書、イザヤ書・・・いずれも、大預言書と呼ばれるものですが、それぞれ特徴があります。
イザヤ書は、これまでのところ、あまり構造らしいものを見つけることができません。突然、いろいろなタイプの預言が始まります。基本となっている預言は、当時のイスラエルに対するさばきです。
しかし、今、11章まで来ていますが、読みながら感じたことを書きたいと思います。実は、さばきばかりが目に留まる預言の中に、三種類の「希望」の預言を見つけました。希望があるのです。
イザヤは神様によって召された時(再召命?)、絶望的な使命を受けました。6章9節以下にあるとおりです。「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな」(さらにつづく)。イザヤが語って、人々が聴いて悔い改め、神様に立ち返るのではありません。逆なのです。人々が増々心を頑なにするために語っていくようです。こんな望みの薄い奉仕があるでしょうか。。。
しかし、イザヤ書を読んでいきますと、イザヤの時代に成就しませんが、少なくとも、三種類の希望を語る預言者とされています。第一は、やがてイスラエル(全世界)に完全な平和が来ること、第二に、やがて神のメシアが来られること、第三に、イスラエルの民は全て裁かれて滅びるのではなく、「残りの民」が備えられること。
イザヤという預言者は、自分が語った「のぞみ」を実際に体験することはなかったと思いますが、これらの三つの望みは実現していくのです。すでにメシアは来られました。残りの民(レムナント)は確かにいました。いつの時代も、レムナントは存在していると言えるでしょう。そして、最後の完成のときはまだです。
今の時代、これからの時代について、ますます神様の救いに遠い、福音を聞いても悟れない、悟らない人々が増大していきそうな気配です。果たして、次の時代はどのような時代になるでしょうか。
私は、いろいろ心配して、ネガティブにもなるのですが、イザヤが預言したように、三種類の希望を大切にしながら、これからも歩んでいきたいと思います。今の時代に、神様の前にやるべきことをすることができますように。祈り! | | 2024-05-10 19:49:48[投稿番号:372] |
エレミヤ書のつづき | | 特に、45章5節から | ずっとエレミヤ書を読んで来て、「哀歌」に移ったところです。エレミヤ書から教えられたことの中から一つを選んで、終わりにしたいと思います。
エレミヤ45章5節にこうあります。
「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──【主】のことば──。しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。』」
バルクという人は、エレミヤのことばを実際に書き記した、そして、このエレミヤ書を私たちに残した重要な人でしたが、ある日、たぶん、エルサレムの陥落直前の頃に、神様は、エレミヤではなく、彼の側にいたバルクに語られました。
一つは、「自分のために大きなことを求めるな」で、もう一つは、「あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える」です。
少し、推測しながら考えなければなりませんが、第一の意味は、バルクはこれまでも、エレミヤのために重要な働きをして、彼をサポートしてきましたが、個人的に、またイスラエルに関して、さらに、より偉大なことをしようと願い、祈っていたと思われます。しかし、神様の答えは、そうではありませんでした。たぶん、今、与えられている仕事(最後まで、エレミヤを支え、エレミヤ書の準備すること)をつづけ、全うすることを神様は命じておられるようです。
第二の意味は、たいてい「戦利品」(分捕りもの)は、戦いに勝った兵士たちが負けた兵士たちやその地から奪い取って、持ち帰る物品を指していますが、ここで神様が彼に与えると約束しておられる「戦利品」はただ一つのものでした。つまり、それは彼のいのち(だけ)です。これは、何を意味しているかと言いますと、たぶん、戦いには敗れますが、いのちだけは失われず、助けられるという意味であると考えます。
これは、今から2600年ほど前の話ですが、この箇所を読んだときに教えられることがありました。若い時には、私も、神様のために(ひょっとしたら、じぶんのために?)大きなことをしようと考えていました。伝道者ピリー・グラハムのように神様に用いられる人になろうと思ったこともありました。
47年間、牧師をさせていただきましたが、今でも、「神様のため」と言いながら、じつは、「自分のために」大きなことをしようとしていないか、考えさせられています。
体力も知力も、衰えて来ていますが、自分の「肉の力」はまだ強く、居残っているようです。
ただ、神様のみこころのままに、最後まで歩んでいくことができますように。キリストのゆえに、御霊によって進んでいけますように。神様が、最後の最後に、「戦利品として、あなたに永遠のいのちを与えます」と言ってくださいますように。ハレルヤ! | | 2024-05-03 18:31:30[投稿番号:371] |
エレミヤ書のつづき | | 教えられたことなど・・・ | 前回につづいて、エレミヤ書から教えられたことなどをいくつか上げてみたいと思います。
14:17…「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。」
神様は、わざわざエレミヤに言われました。「ユダ・エルサレム」のために祈ってはならない。これは、神様が本当に私たちの祈りに耳を傾け、祈りに答えてくださることを表しています。エレミヤも祈ることについて真剣ですが、神様も祈りに答えることに真実です。ですから、「祈るな!」と言っておられるのです。ユダやエルサレムに対する神様のみこころが定まっていたからです。
16:19-20「【主】よ、私の力、私の砦、苦難の日の私の逃れ場よ。あなたのもとに、諸国の民が地の果てから来て言うでしょう。『私たちの父祖が受け継いだものは、ただ偽りのもの、何の役にも立たない空しいものばかり。人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではない』と。」
これは、エレミヤ自身の言葉ですが、本当にいつか、日本も含めて、「諸国の民」が神様のもとに来て、このように言うことができますように。この日はいつ来るでしょうか。本当にこの時が来ることを願っています。
29:7「わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』
これは、ユダの民が神様のさばきをうけ、連れて行かれたバビロンの地ですべきことが語られています。それは、「その地のシャロームの為に祈れ」ということです。初めここを読んで信じられませんでしたが、しかし神様は、捕らわれの地バビロンでのユダの民のことを考えてこのように言っておられる事が分かります。これは、おどろきの言葉です。彼らは、裁かれて、バビロンの地に行く(行った)のです。
42:5?6「彼らはエレミヤに言った。「【主】が、私たちの間で真実で確かな証人であられますように。私たちは必ず、あなたの神、【主】が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、【主】の御声に聞き従います。私たちの神、【主】の御声に聞き従って幸せを得るためです。」
ユダの人々は、このように言って神様の御心を求めたのです。「良くても悪くても・・・聞き従います」・・・しかし、実際には、どうであったかというと、彼らは、エレミヤを通して神様のみこころを聞くことができたのに、「よくなった」ので、従わなかったです。
本当に残念なことがここに書かれています。このことを、私自身に当てはめてみたいと思います。「神様。私の目に善(よい)と見えても、悪(悪い)と見えても、最後の最後まで、あなたに従っていくことができますように。」
いろいろなことを教えられる預言書です。感謝します。あと少しで、エレミヤ書が終わります。恵まれたゴールデン・ウィークとなりますように。 | | 2024-04-26 17:56:18[投稿番号:370] |
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