組織神学的な聖霊論の試み | 聖霊論的聖書論について(旧約から) | これまでの聖書神学的な聖霊論から、少しずつ、組織神学的な聖霊論の試みを始めています。どうなるか分かりませんが、「試み」なので、いいでしょうと自分に言い聞かせています。
まず、一つの重要な科目として、「聖霊論的聖書論」があります。これは、私自身が始めたことではなく、S.グレンツのものです。いろいろ考え調べたのですが、これは非常に有効で、支持できるものではないかと思っています。以下の通りです。
*聖書(論)を「アプリオリ」なものとして、全ての組織神学的試みの前提にしている組織神学書があるが、私は、なんと言っても、これを聖霊論の中で取り扱っていきたい。これが、神学であり、よりふさわしい形であると思う。
*まず旧約に注目したい。神様(御父)と御霊と預言者(祭司)の基本的な関係は明らかですが(2歴代誌24章20節、エゼキエル1章3節以下、ミカ3章8節、ゼカリヤ7章12節)、特に、御霊と預言者の関係は密接です(1列王記18章12節、2列王記2章15節、エゼキエル11章5節)。神様(御父)の啓示は御霊を通して預言者などに与えられますが、神様のことばである聖書に関しても、預言者だけとは言えませんが、全ての書き手に対して、類似した流れを持っていると言えます(御父から御霊を通して預言者、聖書の書き手へ)。
*他にも、聖霊と預言者の関係について注目すべき箇所がある:イザヤ48・16、34・16、ゼカリヤ7章12節。
*御霊による「霊感」の働きについて(啓示、霊感、照明は一つで分けられない!):特に、「神様が書き記せ」、と言っておられるところに聖霊の霊感の働きがある、または隠されていると言えるだろう。
*この後は、新約からどんなことが分かるか、さらに調べ、考えてみたい。
今、特に考えていることは、聖霊論的救済論と聖霊論的教会論の関係です。教会論は、聖霊論的救済論に含まれるかどうか。また、これは、聖霊論的救済論プラスアルファかどうか。今後も、聖霊論を中心にいろいろ学び、考えていきたいと思います。お読みくださり、感謝いたします。 | 2025-05-02 19:11:05[投稿番号:435] |
パウロの聖霊から:パート5 | 神様が御顔を隠されるとは? | 今、あらためて旧約の救済論(救い)と新約の救済論(救い)を比較しながらいろいろ考えています。両者の間にある連続性と非連続性は何か、考えています。詩篇の記者や預言者イザヤは次のように祈り、叫んでいます。「詩 69:17 あなたのしもべに御顔を隠さないでください。私は苦しんでいます。早く私に答えてください。」、「イザ 8:17 私は【主】を待ち望む。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みを置く。」他にも、申命記31章17-18節、32章20節など。
出エジプト記32章から34章において、大事件が起きました。その結果、イスラエルの民の大罪のゆえに、神様がもうイスラエルと共に行かれないと言っておられるのです。モーセは自分の全てをかけてとりなし、この大問題が起こることを阻んだことが記されています。
私は、神様がイスラエルから完全に撤退されることと「御顔を隠される」こととの間には、たぶん、違いがあるだろうと推測しています。後者は、ある意味で、ある期間、イスラエルから退かれるが、完全ではないということ、回復の希望が残っているということです。
新約時代(以降)に関して、聖霊論的に考えますと、新しい契約に基づき、イエス様の贖いは完全(動物による贖いではない!)です。そして、新しい契約の時代に、まさに御霊は私達のうちに内住されて、私達を回心から完成に至るまで導かれます。では、このような恵みの時代において、神様が御顔を隠されるような、これに匹敵するようなことが起こる可能性があるでしょうか。
聖霊論的に、これに近いことがあるとしたら、エペソ3章30節の「神の聖霊を悲しませること」、1テサロニケ5章19節の「御霊を消すこと」になるでしょうか。
答えは、なかなか見つかりませんが、私たちの自由を誰よりも尊重して共にいてくださる内住の御霊ご自身を信じ、認め、満たされ、従い、導かれていかないと、事実上、「御霊を消し続けている」状態になることは否定できないでしょう。ただし、少なくとも、最後の最後まで、御霊は私たちを待っておられると言えます!
?教会論的聖霊(これは、上記?の回心において、またその直後に、教会論的聖霊の働きが始まる):
*聖霊と教会の関係について:
*御霊は、上記のように個人的に働かれますが、同時に教会的に働かれる方でもあります(ガラテヤ5・6、13-26、6・1?10)。しかししばしば、両者を区別することは簡単ではありません(@聖霊として一つの働きだから)。
*聖霊的な教会論のために基軸となる二つのみことばがあります。一つは、1コリント書3章16節にある、「あなたがたは知らないのですか。あなたがたは神の宮であり、神の御霊はあなたがたのうちに住んでおられるのです。」(私訳)で、キリストのからだなる教会への聖霊の内住(内在)を教えています。もう一つは、1コリント書12章13節で、パウロは、私たちがイエス様を信じた時に起こったことを教会論的に語っています。「私たちはみな、一つの御霊の中にバプティゾー(浸)され、一つの御霊を飲み、一つのからだとされました」(私訳)。表現は同じではありませんが、これらには旧約との連続性があります。
*御霊は、教会の初めから終わり(キリストの再臨)までともにおられ、キリストの教会を導き続けておられます(ナラティブとして:使徒の2章から。また、ガラテヤ3章、1テサロニケ1章から。命題的には、例えば、1コリント12章13節から)。教会の初めについては、使徒の働き2章にある通りですが、個別的にも、聖霊は、教会を始め、建て上げ、導いておられます(上記?と?参照。1テサロニケ1・5?6、ガラテヤ3・1?5)。こうして、御霊が、最後の完成まで教会とともにおられ、導かれることは明らかです(ローマ8・23、エペソ2・18?22。黙示22・17参)。
*聖霊と教会生活(交わりと奉仕など)について:
*多様な私たちは、そのままでは罪のゆえに分離や分裂しかありませんが、一つの御霊にあって(の中で)一つとされ、「キリストのからだ」の一員にされています。
*御霊は、教会(何よりもその交わり)に内住され、多様な私たちを、神様のみこころにふさわしく整え、「一つの神の国の民、一つの神の家族、主にある聖なる宮、神の御住まい」(エペソ2・18?22)として導いて下さいます。パウロは、次の箇所からも、聖霊と教会(生活)について語っています(ローマ14・17「神の国は御霊による義と平和と喜び」、1コリント12・4-11「多様な賜物は一つの御霊の現れ」、ガラテヤ5・16-6・10「御霊によって歩み、互いに愛し合うこと」、エペソ4・1?6「御霊による一致を熱心に保ち続けること」、ピリピ2・1?4「キリストにある交わり、御霊との交わり」、コロサイ1・8「交わりにおける御霊による愛」)。
*一つの御霊にある様々な賜物(奉仕)は、キリストのからだなる教会の交わりや活動のために与えられ、最終的には教会を建て上げ、「イエス・キリストを通して神があがめられる」(1コリント14・12。1ペテロ4・7?11参)ためです。賜物を主に行使する「場」は教会(特にその交わりや活動)においてですが、パウロは、様々な賜物とそれを用いる奉仕について具体的に取り上げています。例えば、(永遠のいのちのために)御霊に仕える奉仕(2コリント3・6?11)、礼拝などにおける様々な賜物とその使用(「知恵のことば、知識のことば、信仰、癒やし、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、種々の異言、異言を解き明かす力」1コリント12・4-11、「使徒たち、預言者たち、力あるわざ、癒しの賜物、援助、管理、種々の異言」27?28。他に、ローマ12・3?8、エペソ5・18?21など)、また賜物の中で、特に「預言(の賜物)」は特に重要です(1コリント14・1、39、1テサロニケ5・19?22、1テモテ1・18)。@預言の定義(76頁:2024年2月号)
*「御霊の人」(ガラテヤ6・1)は、御霊に満たされ、導かれて歩む人のことですが、ガラテヤ書の文脈から、その人が行動的で教会的であることが分かります(参照1コリント14・37)。
*教会論における御子と御霊について
*御霊は、御子とともに、教会に豊かに関わっておられます。教会は「キリストのからだ」ですが、御霊は、この教会に内住(内在)しておられます(1コリント3・16)。詳しくは、エペソ書などで取り上げています(本シリーズ第35回73頁以下参照)。
*教会は、御子にあって、御霊によって建て上げられていく神を信じる者たちの群れです(エペソ2・17-22)。御子と御霊の臨在と働きを区別することは簡単ではありませんが、基本的には、御子が備えてくださったことに基づいて、御霊が、より直接的に、キリストの教会を導いておられると言えます。これを、「御子にあって」、「御霊によって」と適切に表現できるでしょう。
?終末論的聖霊(「すでに」と「まだ」に関わる聖霊の臨在と働き):
*パウロの聖霊理解は、旧約の聖霊理解(旧約の終末預言とその成就)と約束の聖霊の到来、御霊の現在的な臨在と働きの経験から、旧約の聖霊理解のゆえに、いつも終末論的であると言えます。つまり約束通り、御子と御霊が来られたことによって終わりの時代が始まり、私たちは今、御子にあって御霊によって、終わりの完成に向かって歩んでいるということです。
*パウロが、「保証」としての御霊(2コリント1・21-22、5・5、エペソ1・13-14、4・30)について語るとき、ここに、より明確に、二重の意味(「すでに」と「まだ」)があることを教えています。御霊は、「すでに」与えられている救いのしるし(証拠)であり、「まだ」実現していない最後の救いの完成の保証(手付金)です(エペソ4・30の「証印」も、文脈から終末的な意味があることが分かります)。
*またパウロが、「御霊の初穂(御霊という初穂)」と言うとき(ローマ8・23)、これも、キリストの復活の場合と同じように(1コリント15・20?23「御子の復活は、終わりの時の、キリストにある者たちの復活」の初穂)、終わりの時の、神の子どもとしての完成(からだの贖い)の保証になっていると思われます。
*教会的にも(個々の教会とそのすべての教会)、個人的にも、聖霊は、「終わりの初めの御霊」(旧約における終末的な聖霊預言の成就)であり、「終わりの完成の御霊」です(ローマ8・23「初穂」、2コリント1・21?22、ガラテヤ3・1?5など)。また、これらの二つの間で、私たちを「完成に向かって導く御霊」です(ローマ8・14?17、23?28、2コリント3・18、ガラテヤ5・5、6・8。黙示録22・17参照)。 | 2025-04-25 18:34:41[投稿番号:434] |
パウロの聖霊から:パート4 | 神様と神様の国を相続する恵み! | ローマ8章17節では、「私たちは…キリストとともに共同相続人である」とありますが、これまであまり「相続人」であることに注目しませんでした。しかし、文脈的に(ここでは、特にガラテヤ3章終わりから4章にかけての文脈ですが)、私(たち)が、真の子どもとして相続人であることの当然さ、また素晴らしさについて考えた時に、相続人であることも、真の子どもとして重要な姿、要素であることがわかりました。
それ以来、私自身が子どもであることは、御国の相続人、さらにイエス様との共同相続人であることの偉大さを意識するようになりました。
最近あったことです。旧約聖書をよく読むようになっているのですが、突然、「レビ族」のことが心に浮かびました(私もある種のレビ族だ!)。それは、彼らが、他の兄弟達(部族)と違って、約束の地を相続するのではなく、「神様」ご自身を相続する者であるということです。
私自身のことになりますが、今後の行方について祈り、考えています。時に、心配したり、焦ったりすることもありますが、「私も(ある種の)ユダ族だから」と思う時、大きな安心が与えられます。なぜなら、一番よいところ(神ご自身と神の国)を相続できるのですからです。
*内住の御霊への応答
*御霊が内住していてくださるので、私たちは内住の御霊とその恵みを覚え、応答して歩んでいきます。この応答のあり方や行動についてパウロは教えています。最も基本的な命令は、「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5・16、18)です。
*「御霊による心の割礼(者)」(ローマ2・29)は、新しい契約の時代に生き、内住の御霊によって愛の律法を全うする者たちのことです(ローマ7・6、2コリント3・6、ガラテヤ5・16-26)。
*「御霊に蒔く」(ガラテヤ6・8)という比喩的表現は、ガラテヤ書のほとんど最後において、これまで語られてきた内住の御霊の恵みによって歩んでいくことの全てを一語にまとめて表現していると思われます。具体的には、御霊によって、愛し合い、助け合い、善を行っていくことです。
*「聖霊に満たされ続けなさい」(エペ5・18-21)。これは、個人的、教会論的勧めですが、聖霊の内住が前提にあることは明白です。「内住の聖霊に満たされ続けない」と言えます。
*ローマ書12章1?2節に、「変えられつづけていきなさい」(2017訳「自分を変えていただきなさい」)とあります。ここに、御霊(の内住)の直接的言及はありませんが、内住の御霊の働きなしに何も語ることはできないでしょう(2コリント3・18「変えられていきます」、エペソ4・23「新しくされ続け」)。
*「御霊を消してはいけません」(1テサロニケ5・19-22)や「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エペ4・30、イザヤ60・30)も御霊の内住が前提で、御霊の導きに対する献身と積極的な応答を教えています。
*また、パウロ書簡にある様々な勧めも、すべて内住の御霊とその働きが前提になっていると言えるでしょう。霊的な戦い(御霊の剣、御霊の祈り:エペ6・17-18)も、御霊によって吟味をすることも(1コリント12・3、1テサロニケ5・19?22。1ヨハネ4・1?6参照)、また、「いのり」(ローマ8・26、エペソ6・18)、「礼拝」(ピリピ3・3)、「仕えること」(ローマ7・6、2コリント3・6)など、信仰生活、教会生活に属するあらゆることが含まれます。
*御霊について、内住だけに限定できない恵みもある。
*聖書の聖霊は、内住の御霊であるだけではありません。時々区別することはできませんが、(ある意味で)外から私たちをとり囲み、導いてくださるお方でもあります。例えば、エペソ書1章17節に「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」とあります。これは、より広く一般的に、聖霊のことが意識されているように思いますが、旧約の聖霊理解をそのまま引き継いでいると言えるでしょう(例えば、本シリーズ第6回43頁以下、第13回38頁参照)。 | 2025-04-18 17:10:47[投稿番号:433] |
パウロの聖霊から:パート3 | 妻と散歩! | 土曜日と日曜日を除いて、毎朝「お祈り散歩」をしていますが、きょうは、久しぶりに、夕方、妻と一緒に散歩をしました。以前でしたら、一緒に散歩していても、私がドンドン先に進んで行ってしまうので、「一緒の散歩」になりませんでした。しかし、今日の散歩は以前と違い、ほとんど同じペースで歩けるようになりました。いろいろなことについて一緒に話しながら歩いたからとも言えますが、私の足腰がだいぶ弱くなって来たからだとも言えるでしょう(確かに!)。
やっと暖かな春が来たという感じです。神様は、冬も造られたましたが、「春を造られた神様♪♪」に感謝します!
(パウロの聖霊はたくさんありますので、以下は、パート3(救済論的聖霊のつづき)になります)
*入信後の信仰生活における御霊の働き(継続的な聖化、成熟):ここで特に重要なことは、聖霊による継続的な聖化、成熟の働きは、「聖霊の内住」の恵みのしるしであり結果なので、これを中心にまとめたいと思います。
*御霊の内住:
*クリスチャン生活・教会生活に関するパウロの教えの基軸は「キリストにあること」と言えますが、実際には、これと密接で切り離すことができないもう一つの基軸として、「御霊によること」を挙げることができます。
「御霊によること」に関するパウロの教えで、最も重要で、信仰生活・教会生活のすべてに関わるのは「御霊の内住」ではないかと考えます(ローマ8・4?17、ガラテヤ3・14、4・6、5・16?26、エペソ5・18?21、2テモテ1・14)。
*パウロの教えによれば、聖霊は、個人的に、また教会的に内住されます。(@旧約時代の内住の可能性について:本シリーズ第7回40頁以下参)
*キリストの内住と聖霊の内住の意味と関係については、以下の箇所がよい例になります(ローマ8・9?13、エペ3・16,17)。詳細については、本シリーズ第32回74頁以下、第35回35頁以下など参照)。
*御霊の内住の事実:
*御父は、御霊を私たちの心に派遣されました(ガラテヤ4・4?7)。パウロは、様々な箇所で、御霊の内住について繰り返し語っています(ローマ8:9-11、1コリント6・19?20、2テモテ1・14)。神様の内住(私たちの間に住む)については、旧約においても最も重要な真理の一つですが(特に聖霊に関しては、本シリーズ第6回43頁以下、第13回38頁参照)、パウロにおいては、このことが二重に語られていると言えます(個人的に、教会的に)。
*御霊の内住の恵み:
*御霊の内住は、比喩ではなく事実ですが、それだけで終わりません。これは、私たちの信仰生活、教会生活における特別な恵みを表しています。
第一に、御霊は人格を持ったお方なので、御子の場合と同じように(1コリント1・9)、私たちは聖霊との交わりの中に招かれています(2コリント13・13、ピリピ2・1)。現実には、私たちは今、内住の御霊との交わりの中に置かれていると言えます。
*第二に、これは、私たちの信仰生活の最も重要で素晴らしい恵みを表していますが、それは、御子の贖いのみわざを通して神の子どもとされた私たちが、内住の御霊によって神の子どもであることを知り、確信し、子どもとして祈り(交わり)、子どもとして導かれるということです(ローマ8・14?17、ガラテヤ4・4-7)。
*第三に、私たちは、内住の御霊によって、律法主義でも無律法主義でもなく、聖霊主義によって歩むことができるように備えられています(ローマ8・3?8、2コリント3・1?18、ガラテヤ5・5。エゼキエル36:26-28参)。こうして、私たちは御霊によって愛の律法を全うすることができるように導かれます(ガラ5:13-6:2)。言い換えれば、御子による義に基づいて、実際の生活の中で御霊によって義を全うしていくということです。また私たちは、御子によって備えられた永遠のいのちの恵みに基づき、いのちの御霊によって導かれ、歩んで行くことを意味しています(ローマ8:1?8、ガラテヤ6・8)。
*第四に、内住の御霊によって歩むことはまた、教会的です。ガラテヤ書6・1以下にある通りです(下記?の教会論的聖霊について詳述します)。また御霊は、教会とその交わりや活動においても内住しておられます。
*第五に、私たちは、内住の御霊によって(ゆえに)、御霊の実を結んでいきます(ガラ5・22-23)。また、牧会書簡に多用されている「敬虔」とも繋がっていると考えます。「愛をもって、柔和な心で」(1コリント14・1?19)も内住の聖霊から来ます(他に、2コリ3・12?18、ガラテヤ5・25、6・8、エペソ4・23)。
*第六に、内住の御霊は、弱い私たちとその祈りを助け、「うめき、とりなし」導いてくださいます(ローマ8・26?30)。他にも、御霊は、個人的にも教会的にも、私たちのあり方や行動においても、内側から助け、導いてくださいます。
*御霊の内住を前提に考えられること:
*「御霊に属する人」(1コリント3・1以下)、「預言者、御霊の人」(1コリ14・37-38)、「御霊の人」(ガラテヤ6・1以下)などは、それぞれの文脈は異なっていますが、いずれも、御霊の内住を前提に考えることができます。また、「S/spirit」も御霊の内住に基づいて解釈した結果です(1コリント4・20、5・3?5、6・17、14・32、ピリピ4・23、2テモテ4・22)。 | 2025-04-11 17:52:36[投稿番号:432] |
パウロの聖霊から:パート2 | 私塾:春学期について | 私塾:春学期の申し込みの締め切りをしました。今回は、三つのクラスを開くことになりました。火曜日の夜は、「ヨハネの福音書」で8人、水曜日の夜は、「教会形成論」で4人、木曜日は「旧約の解釈1」で4人の予定です。
春学期はどうなるだろうかと思っていましたが、参加者が多く与えられ、かえって、チャンとやっていけるだろうかと心配になってきています。神様に助けていただきながら、準備していきたいと思っています。また、新しい方々も参加されますので、よい交わりになりますように。
つづけて、パウロの聖霊論(パート2)のまとめです。お読みください。
3)宣教論的聖霊(以下の聖書論、救済論、教会論につながる):
*旧約の「力の御霊」の働きは多様でしたが(パート8、43頁、パート9、39頁参照)、パウロにおける「力の御霊」は、直接、または間接に福音宣教に関わっておられるお方であると考えます。
*(一般的に)聖霊は、使徒の働きにおいてだけでなく、パウロ書簡からも宣教の御霊であることが分かります(ローマ15・18-19、1コリント2・1?5、2コリント3・6?11、1テサロニケ1・5?6、2テモテ1・14)。宣教内容はキリストご自身とその御業に基づく福音のことですが、宣教は、御霊が、キリストを信じる者たち(教会)とともに、また彼らを用いて進められます。
*いつもではないかもしれませんが、福音宣教において、聖霊の特別な出来事が起こっています(1コリント2・4,ガラテヤ3:1‐5、1テサロニケ1・5?6)。これは、使徒の働きにおいても記されているとおりです(使徒8・17、9・17?18、10・44-45、19・6)。また聖霊は、福音が語られる時にだけ働かれるのではなく、語られた福音を守る働きもされます(2テモテ1・14)。
4)聖書論的聖霊(上記?の宣教論的聖霊と一つ):
*聖霊は、上記のように、神様(御父)のみこころを啓示する方で、このことは旧約時代も新約時代も変わることがありませんが(ローマ8・27)、パウロにおいて、聖霊が、特に福音の真理を啓示する方として明示されています(1コリント2・6?16、エペソ3・5-7)。特に1コリント書2章10節では、「御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られる」とありますように、啓示の御霊が、どのように神様から啓示を得られるかについても触れられています。また、聖霊の霊感の働きについては2テモテ書3章16節にあります。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」
5)救済論的聖霊…聖霊の内的働きについての詳細な説明(特に、上記?の宣教論的聖霊の働きの結果として?救済論的聖霊(教会論的聖霊)を位置づけられます。
*回心(入信)における聖霊の働き:様々な観点から、救いにおける聖霊の働きが描かれています(ローマ5・5、2コリント1・21、テトス3・6、エペソ1・13、4・30、1コリント2・12、2コリント11・4,1テサロニケ2・13、ローマ15・16、ローマ2・29、1コリント6・17、1コリント6・11…フィーから、箇所のみ引用)。
*上記?と直結していますが、ここでは、私たちのうちに神様の救いを実現してくださる聖霊の働きについてまとめたいと思います。宣教の御霊のことが、第一テサロニケ書1章5節にありますが、次節の「聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ(1テサロニケ1・6)」は、回心(入信)における聖霊の働きを如実に表していると言えます(2コリント3・1?3)。ただし、「初めの喜び」は救済論的に重要ですが、喜びは初めだけにとどまるものではありません(使徒8・8、39、13・52、14・17、1ペテロ1・8?9など参照)。
*回心(入信)時に聖霊の聖別の働きがあります。第一コリント書6章11節に、「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは、現れ、聖なる者とされ、義と認められた」とある通りです(他に、2テサロニケ2・13、テトス3・4?6)。(@パウロの用語として、聖化は回心時に適用して使われている)。さらに聖霊による聖別の働きは完成まで継続します(ローマ12・1?2、2コリント3・18、エペソ4・23)。 | 2025-04-04 20:24:04[投稿番号:431] |
パウロの聖霊から:パート1 | 民数記20章7節以下から教えられたこと | 私塾の冬学期が終わりました。また、若手?牧師会も終わりました。少し寂しいですが、また春学期に向かって準備していきたいと思います。
すでに、二つのクラスが決まりました。?ヨハネの福音書の学び(木)、?旧約聖書の解釈?(火)です。感謝します!
最近、御言葉の学びから教えられたことがあります。民数記20章7節以下です。神様は、「岩に命じれば岩は水を出す」と言われたのに、モーセたちは、杖で岩を二度打って、自分たちがイスラエルのために水を出させたかのように見せたことが問題になっています。
私も、神様の栄光を自分のものにしてしまう誘惑(欲)を感じるとき、「岩を二度たたいてはならない」ことを心に留めるようにしています。これは、リーダーたちが陥る問題のひとつです。本当に、胆に銘じなければならないことで、モーセの失敗を繰り返したくないですね。
パウロの聖霊のパート1として、以下にまとめましたので、お読みください。
?パウロの聖霊の前提(特徴など):
*パウロ書簡における聖霊について量的にも内容的にも特別です(特に、ローマ書、1、2コリント書、ガラテヤ書、エペソ書)。
*直接触れられていないように見えても、パウロの聖霊理解の背後に、旧約の聖霊(特にイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ヨエル書などにある聖霊の終末預言)があることは否定できません(ローマ2・29、7・6、2コリント3・1?18、1テサロニケ4・8?)。旧約にある最も重要な聖霊預言の一つが、エゼキエル書36章26?27節にあります。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」@第13回、40?41頁
*パウロの聖霊理解に、さらに大きな影響を与えているものとして、パウロ自身の聖霊体験を上げることができます。一つは、パウロ自身の回心における聖霊体験(使徒9・1?22)、もう一つは、福音宣教におけるパウロ(たち)の聖霊体験です(ガラテヤ3・1?5、1テサロニケ1・5?7、1コリント2・3?5。使徒9・17?20参照)。他にも、12弟子やその他のクリスチャンたちの様々な聖霊体験とその報告があったにちがいありません。
?聖霊ご自身のこと:
*聖霊は、神の御霊、キリストの御霊であり、三位一体の神のひとり(一位格)である:
*御霊は、御父のもとから来られた方で(ガラテヤ4・6、2コリント5・5、エペソ1・17、1テサロニケ4・8、テトス3・6)、御父と親密な関係をもっておられたことは明らかです。特に、ローマ書8章26‐27節と1コリント書2章10-12節などから、神(御父)と御霊の相互関係がよく分かります(他に、ローマ5・5、15・16、1コリント2・11-12、2コリント1・22、5・5、2テサロニケ2・13、テトス3・5参照)。
*御子との関係も密接です(「キリストの御霊」ローマ8・9、「神の御子の御霊」ガラテヤ4・6、「イエス・キリストの御霊」ピリピ1・19、「主の御霊」2コリント3・17など)。名称だけでなく、実際に御子と御霊のより深い関係を見ることができます(ローマ8・9?11、15・18-19、2コリント1・21-22、エペソ3・16?17)。御霊は、全体的にキリスト中心的な御霊ですが、担っておられる働き(役割)に区別があることも確かです(復活のキリスト=聖霊ではない)。例えば、救済論的にガラテヤ書4章4?7節、教会論的にエペソ書2章18?22節などにおいて、御子と御霊の働きの違いは明らかです。
*パウロにも、「三位一体」という用語はありませんが、御父と御子と御霊という区別とともに三者(三位格)の非分離で完全に一つであるという体験と理解と礼拝・祈りがあると言えます。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(2コリント13・13)という祝祷はその典型です。聖霊は、三位一体の神のおひとり(一位格)です(ローマ8・1?2,9?11、2コリント13・13、ガラテヤ4・4?7、エペソ2・18-22、テトス3・6)。
*御霊の神性、人格性について:
*御霊の神性や人格性については、類似した次のみことばから明らかです(「神のみこころにしたがって……とりなしてくださる」ローマ8・26?27、「神の深みさえさぐられる」1コリント2・10)。また御霊は、次のような神的わざをなさる方なので、ここにも、その神性や人格性を見ることができます。?啓示のみわざ(1コリント2・12、エペソ1・17):御霊は、神(御父)の啓示を明らかにし、私たちにそれを伝える方です(これも、神以外にはできない働きです)。?救いのみわざ(1コリント6・11、テトス3・4?7):御霊は、御子を信じる者たちを神様の救いに導かれる方です(御霊は、誰もできない、御使いさえもできない、最も難しい救いのわざを実現されます)。?成長・成熟のみわざ(2コリント3・18、ガラテヤ5・16?25):御霊は、救いのみわざだけでなく、救いに続く信仰生活全体を導かれる方です。?教会のためのみわざ(1コリント12・4-11、エペソ2・18?22):御霊は、キリストの教会を建て上げや支え、神のみこころに従ってこれを導く方です。?終末論的なみわざ(2コリント1・22、エペソ1・13?14):御霊は、私たちひとり一人や教会の信仰と歩みを最後まで守り、全ての完成まで導く方です。
*聖霊の性質について:
*聖霊は、その名のとおり、「聖なる御霊」です(ローマ1・4、15・16、1テサロニケ4・3?8、2テサロニケ2・13)。また「愛の御霊」であり(ローマ5・5、15・30、2テモテ1・7)、「知恵の御霊」(1コリント2・13、12・8,エペソ1・17、2テモテ1・7)、「力の御霊」です(ローマ15・13、19、1コリント2・1?5、1テサロニケ1・5、2テモテ1・7)。 | 2025-03-28 17:47:18[投稿番号:430] |
黙示録の聖霊 | 新約の最後の書において色々注目できることがあります | これまで少しずつ、新約の聖霊についてまとめたものを紹介していますが、きょうは、黙示録の聖霊です。
新約の中で最後に書かれた書かどうか、正確には分かりませんが、新約の最後の書において、また内容的に、正に最後について預言している書において、御霊が、また三位一体の神様のことがどのように記されているか、注目する価値があると思います。
聖霊(三位一体の神)に関して、へブル書以降の9つの書の中で、内容的に最も豊かで、重要な教えが含まれていると言えます。
*三位一体の神:七つの教会への祝福の挨拶(祈り)からも明らかです(1・4‐5)。また七つの手紙の差出人は御子と御霊ですし、その内容も御子と御霊のものです(七回の繰り返し:2-3章)。
他にも、聖霊のことばがありますし(14・13)、22章17節にある、再臨のキリストに対する「来てください」という「御霊と花嫁(教会)」の呼びかけも注目できます。
御霊と御子の一体性についても確認できます。「(屠られた姿で立っている)子羊」は「七つのともしび、七つの目である七つの御霊」を持っておられるあるとおりです(3・1、4・5、5・6)。また、御霊と御父の関係について、御霊は、御父の御座(の前)におられるとともに、全時代の全世界において、御父のみこころを明らかにし、これを実行しておられます(4・5「御座の前では」、11・11「いのちの息(御霊)が神から出て」、19・10「神を礼拝しなさい。イエスを証しするのは預言の御霊です」)。
*御霊の臨在と働き:「七つ(七重)の御霊」(3・1,4・5)は、御霊の完全さとともに、御霊の遍在性が強調されていると思われます(アジアの七つの教会とともに、全世界のすべての教会とともにおられる)。また5章6節に、「その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった」とありますが、ここにも、御子と一つである御霊が、全世界に遣わされ、見守っておられるという意味が込められていると考えます。聖霊は、「いのちの御霊(息)」(11・11)と呼ばれ、「二人の証人たち」をよみがえらせるお方でもあります。
*啓示と預言の御霊:預言者ヨハネを実際に導いておられるのは、(御使いとともに)聖霊です(1・10、4・2、17・2、21・10)。預言の御霊は、旧約時代のように(ゼカリヤ7・12、ヨエル2・28)、御父の啓示を、幻(絵、動画)を通してヨハネに与える(または経験させる)働きをしておられます。19章10節についていくつかの解釈がありますが、聖霊が御子について証しされる預言の御霊であることが明らかにされていると思われます。
*御霊と教会の緊密な関係:御霊は、七つの教会に送られた手紙とその内容に、御子とともに緊密に関わっておられます(1・4以下)。また22章17節から分かるように、御霊は、最後まで、また最後においても、花嫁なる教会と一つであり、教会とともに再臨のキリストを待つお方です。さらに14章13節後半には、最後の厳しい迫害下にある教会に対する御霊のことばがあります。聖霊は、最後まで、終末論的御霊としてこの世界に遣わされ、また教会とともにいてくださるお方です(5・6、14・13、22・17)。
個人的には、14章13節後半の御霊のことばと、22章17節の「御霊と花嫁(教会)」のことばに注目しています。 | 2025-03-21 17:21:27[投稿番号:429] |
まとめ:へブル書からヨハネの手紙までの聖霊 | 簡単にまとめると… | これまで、共観福音書、使徒の働き、ヨハネの福音書の聖霊をまとめてきました(または、その一部を紹介させていただきました)。あとは、パウロの聖霊と、へブル書から黙示録までの聖霊についての紹介です。
パウロの聖霊はたくさんあって、しかも内容が豊かです。先に、へブル書以降の聖霊をやってから、パウロに戻りたいと思います。ご了解ください。
ここではまず、へブル書からヨハネ書の聖霊について一部を紹介します。来週は、黙示録の聖霊です。
?へブル人への手紙における聖霊:
*御霊の現在性:「第二世代」における聖霊の現在的臨在と働きを見ることができます。特別啓示の時代は続いていましたが、後の時代の「聖霊の照明」の働きに繋がる事例もあります(3・7、9・8、10・15-17)。
*御霊の人格:聖霊は明確に人格を持ったお方です(上記の例に加え、「恵みの御霊を侮る者」があります:10・29)。
*御霊との交わり:御子を信じることによって御子との交わりに入るように(1コリント1・9)、聖霊との交わりにも入れられます(6・4、他に2コリント13・13、ピリピ2・1参照)。
*御子と御霊の関係(三位一体):御子は、御霊によってご自身を御父に捧げられました(十字架:9・14)。
?ヤコブへの手紙における聖霊:
*私たちを愛しておられる内住の御霊:文脈的に、内住の御霊は私たちを愛し、慕っておられます(4・5)。
?I、IIペテロの手紙における聖霊:
*三位一体の神:「父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって(救い)、イエス・キリストに従うように」(I、1・2)とありますように、ここでも、御父と御子と御霊の三位一体の神様のことが明らかです。
*御子と御霊:聖霊は、十字架で死なれた御子を復活に導かれ(3・18)、キリストについて証しされる方です(1・11)。
*私たちと御霊:終末論的な御霊は、今も後も、キリストの栄光に与る者として私たちを最後まで守り導いてくださいます(4・14)。
?ユダの手紙における聖霊:
*聖霊の内住と祈り:「御霊を持っていない」という表現から、御霊に属している、またその支配や導きの中にいる者たち、さらに御霊の内住についても考えることができるでしょう(19、「御子を持つ者」:1ヨハネ5・12)。そしてこのような者たちは、御霊によって祈ります(エペソ6・18と同じ)。
?Iヨハネの手紙における聖霊:
*聖霊の内住:「内住」ということばはありませんが、「(神が)私たちに与えてくださった御霊によって」(3・24)と「神はご自身の御霊を私たちに与えておられるから」(4・13)などから考えることができます(他に、「注ぎの油」:2・20、27。「神の種」:3・9も関係があるでしょう)。
*聖霊が明らかにしてくださること:第一に、「神が私たちのうちにとどまっておられること」(3・24)と「私たちも神のうちにとどまっていること」(4・13)から、このことを知ることができます(個人的、教会的な「私たち」)。
第二に、神の霊か、反キリストの霊か、見分けることができます。この場合は、御霊の直接的な働きというよりも、御霊の働きの結果として「イエス・キリスト」を告白しているかどうかで、見分けることができるという意味でしょう(1コリント12・3参照)。
第三に、真理の御霊として、御子を証しするお方です。「水」と「血」は御子の公生涯全体を指していると思われますので、御霊は、これらを用いて、御子を証しされるお方であるとも言えます(5・6?8)。
次回は、黙示録の聖霊からになります。
よろしくお願いします。 | 2025-03-14 19:35:32[投稿番号:428] |
まとめ:ヨハネの福音書における聖霊 | ヨハネの聖霊もすごい! | ルカ(使徒の働き)の聖霊もすごいのですが、ヨハネの聖霊も特別です。使徒の働き(前回)の聖霊は、どちらかというと、伝道的、活動的です。ルカがそのような視点で書いたとも言えます。
ヨハネの福音書においても、ヨハネは聖霊の働きについて書いていますが、それでも視点は、私達と聖霊の関係、特に永遠のいのちにおける聖霊との関係、また御子の昇天後の、弟子達と聖霊の関係について詳しく書いていると言えます。特に、14-16章にある御子の遺言説教の中での、このような聖霊についての説明は注目に値します。
その一部を紹介したいと思います。ハレルヤ!
*聖霊は永遠のいのちの御霊であること
*永遠のいのちの御霊:旧約時代に「いのちの御霊」であったお方が、新約時代において(ヨハネの福音書)、「永遠のいのちの御霊(永遠のいのちを回復するお方)」であることが分かります。「人は、水と御霊によって生まれなければ」(3・5)とありますように、御霊によって生まれること(5-8節)は、御子を信じて永遠のいのちを得ること(神の国に入ること・見ること)を表しています。ここでは、御霊の主権的ないのちの働きが明らかにされています(6・63)。
*永遠のいのちの豊かさ:4章13-14節と7章37-39節からも、聖霊(水)が私たちの内に来られ、永遠のいのちへの「泉」となり、「川」となってくださることが分かります。「泉」と「川」の比喩は、聖霊がもたらす救いの恵みだけでなく永遠のいのちの祝福の豊かさを表していると思われます(入信後の生活全体に及び、広がるいのちの祝福)。「いつまでも、決して渇くことがありません」(4・14)、「生ける水の川が流れ出るようになります」(7・38))。しかも、この出来事が実際に起こる「時」についてもヨハネ自身が明らかにしています(39節「御子が栄光を受けられてから」)。御霊と真理によって御父を礼拝するのもこの時以降を指していると考えます(4・19?24)。
*永遠のいのちの生き方:御子を信じ、御霊によって永遠のいのちを受けた者たちの生き方については、以下の14-16章の中でさらに詳しく見ることができます。 | 2025-03-07 18:10:03[投稿番号:427] |
|