最近、みことばから教えられたこと | | 1テサロニケ12?22から | 最近、ずっとディボーションでは、テサロニケの手紙を読んでいます。読みながら、いろいろなことを教えられました。
1章:第三版で、「信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐。」2017版のように訳さなくても、これで十分だと思います。エペソの人々もそうですが、私自身も、信仰と愛と希望が動いているなあ?と感じています。戦いや試みがないからではなく、その反対です。
福音を語るときにも、受けるときにも聖霊の働きがある。まさに、「苦しみの中で聖霊の喜びでみことばを受け入れていた」ことは、聖霊の働きそのものであると言えます。本物の聖霊の働きです!・・・教会生活のなかで、驚くほどに、みことばが、また説教のことばが、喜びをもって受け入れられているのを経験することがあります。これは、本当に驚きですし、聖霊の本当の働きを感じます。
2章:「母のように、父のように」…パウロの宣教と牧会から教えられます。確かに、この両方が私の牧会に必要ではないかと点検させられました。特に、「父のように」には、そこに本当の愛があるか、問われます。
19?20節から:ここに少しだけですが、御子の再臨時における、兄弟姉妹の間の交わりの姿を垣間見ることができます。御子の再臨時には、ほとんど、御子と私達の関係について書かれていますが、ここにはわずかですが、再臨の御子を中心に、パウロとテサロニケの人々の間の交わり、喜びをみます。
私も、その喜びの交わりの中に入れられているのです。
他にも、いろいろあるのですが、飛んで飛んで、5章に来ました。よく知られている5章12?22節には、短い勧め(命令)が列挙されています。数えると、ここには、原文で、15回命令形が使われています。これらは、ただ無目的に、思いつくままに並置されたのか、それとも、はっきりした意図をもって、順番も考えながら並置されたのでしょうか。
それなりの意図を感じますが、どうでしょうか。よく知られているのは、16‐18節ですが、それだけが重要ではなく、その前後の命令ともリンクしています。では、この15回の命令(形)で、中心(源)になる命令は何でしょうか。
かつて、16‐18節の三つの命令の中では、真ん中の「絶えず祈りなさい」が中心になるだろうと考えました。なぜなら、絶えず祈ることによって、「いつも喜び、すべてのことについて感謝できる」からです。
では、12‐22節全体からで言うと、どの命令が中心(源)になるでしょうか。私としては、すぐに、それは、「御霊を消してはなりません」であるにちがいないと思いました。20節と共に、ここは、否定的な命令として並んでいますが、意味は、肯定的であると考えたからです。つまり、20節の命令は、「預言を大切にしなさい(預言は聖霊の働きとして最も重要なものを表す)」で、19節は、「御霊を大切にしなさい」です。そして、聖霊を大切にすることこそ、「絶えず祈ること」につながり、それはまた、「いつも喜び、すべてのことについて感謝すること」になると思います。
みことばの沢山の教えと祝福に感謝します! | | 2026-03-13 20:18:00[投稿番号:474] |
最近、みことばから教えられたこと | | エペソ5:25-33から | ここは、「夫たち」への教えが書かれている箇所です。ただし、読んでお分かりのように、妻に対する夫の教えだけでなく、それが中心ですが、繰り返し、キリストと教会のことが引用されています。
ですから、この箇所も、(実は)キリストと教会の関係について教えている箇所ではないかと思ってしまいそうになります。これまでのブログでも触れましたように、エペソ書を書いているパウロの思いが非常に教会的で、何かきっかけがあれば、すぐに横道にそれて、教会について書いてしまっている感じです。
さて、この箇所から二つのことを特に教えられました。一つは、教会についての教え、もう一つは、夫についての教えです。
教会についての教えはいろいろあるのですが、特に今回、27節の後半に注目しています。2017訳では、このようにあります。「・・・聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
主語は、キリストです。目的語は教会です。直訳は、「(御子)ご自身が、栄光に輝く教会を、ご自身に対して(と共に)立たせるためである」となります。
第一に、ここでも、意識は個人ではなく、教会です。最後に、栄光に輝く教会は、御前に立つことができるのです。ひとり一人ではなく、ここでは、御子が御前に教会を立たせてくださると言われています。これは、一体どういう「絵」になるでしょうか。直観的ですが、これは凄いことになる、凄い絵であると思いました。・・・本当に傷だらけ、穴だらけ、汚れに満ちた人間的教会が、栄光に輝く教会として御前に立たせていただけるのです。これは、励ましです。たぶん、特に牧師たちにとってあわれみ、励ましになるのではないでしょうか。
第二に、ギリシャ語でここを読んでいて思った事ですが、「ご自身の前に」と訳されていますが、ここは「与格」なので、敢えて、「ご自身と共に」と訳したらどうだろうと考えました。主語が「御子」なので、この与格を「ご自身に向かって、対して、前に」と解釈されたと思われますが、私は、敢えて、「御子は、栄光に輝く教会をご自身と共に立たせる」と読みました。少し変かもしれませんが、最後の完成の時に、聖なる教会とされた私達は、御子と共に立つのです。これも、意味があって、すばらしい絵になるのではないでしょうか。教会は、キリストのからだであり、初めから、もともとキリストと一つだからです。
もう一つ教えられたことがあります。それは、妻に対してどのように愛するか教えられていることです。「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられたように」、「自分のからだのように」、「自分と同じように」と三重に、聖書は、妻に対する愛し方を教えています。私としては言い訳はできませんので、まず、25節を暗記しました。そして現在は、毎日の祈りの中で、25節をくりかえし暗唱しています。ただし、それでも実践はむずかしく、悔い改めを繰り返しております。ここでも、御霊に満たされ、導かれていく必要を思います。ハレルヤ! | | 2026-03-06 18:23:11[投稿番号:473] |
エペソ書の教会について(つづき) | | ・・・さらに教えられたこと | エペソ書そのものについて教えられることを挙げたいと思います。部分的に、前回触れたことも含まれています。
*第一に、エペソ書において、その初めから終わりまで、「教会」についての意識が非常に強いと思われます。より明確で、特に注目できる箇所だけ上げたいと思います。1章の最後、2章の最後。3章は「教会」という言葉は2回しか使われていませんが、全体的に、教会についての意識がより強いと思います。4章では、1-16節までより明確です。また、25-32節においては、教会の交わりの中でのあり方、言動について教えられています。5章18節以下も、教会の交わりや礼拝などが意識されています。21節以下の、妻に対する教えや夫に対する教えでは、突然、「教会」が出て来ています。そして最後に、6章では、「教会」という言葉はありませんが、霊的な戦いについての教えとすすめにおいて、教会の人々に対するパウロの熱い思いが伝わってきて、20節の「祈って下さい」に結びついていると言えます。
*第二に、エペソ書の「教会」は、前回も触れましたように、非常に広いです。地上における個々の教会だけでなく、超教派的でもあり、また天上の教会とも結びついています。天上には、御使い達や悪霊達がいますが、これらの世界とも関係していています(対立関係と密接な関係)。ですから、これまでの私自身の教会についての視野を、時間的にも、空間的にも拡大してくれたように思います。この教会は、やがて相続する御国(エペソ書で繰り返されている表現の一つ)と一つであると言えます。とにかく、私達が考えている「教会」(観、像)は狭すぎることが分かります。
*第三に、エペソ書の「教会」についての教え(勧め)において、それは、ほとんど同時的に、三位一体的であると言えます。もちろん、究極的には、または基本的には、「御父から(究極の源として)、御子にあって(究極の手段:十字架の贖いによる完全な備え)、御霊によって(現在の教会に内住し、現在的に終末的に導いておられる)」とまとめることができます。
*第四に、今回のブログのまとめでもあります。エペソ書から何よりも教えられることは、個人的(信仰生活)と教会的(教会生活)は分けられず、一つであるということです。
私達は、日曜礼拝のあと、それぞれ自分の家(自分の居所)に、地域や職場や学校に帰っていきます。教会堂から送り出す時の最善の言葉は見つからなくても、「(神様と共に)行ってらっしゃい!」と言って送り出すことは、よりよい送り出しになるかもしれません。
*使徒13章3-4節から:「…教会は彼らの上に手を置いて送り出した。それで、彼らは、御霊によって送り出され、○○に下って行った。」
「教会」の真の意味は、会堂ではなく、兄弟姉妹(の交わり)のことですから、会堂中心に考えることは、最善ではないかもしれません。日曜日には、確かに一つのところに集まり、教えと祈りと交わりと聖餐に共にあずかるわけですが、これが終わると、今度は、教会という交わりが(空間的に)拡大すると見たほうがよいと思われます。
いずれにしても、教会についての私達の目をもっともっと広げていただきたいと思います。お読みくださり、感謝します! | | 2026-02-27 21:03:47[投稿番号:472] |
エペソ書の「教会」について | | いろいろな発見がつづきます! | このところ、ずっとエペソ書を中心に、「教会」について学び直しております。理由はいくつかあります。
第一は、あと一年で稲沢教会での牧会を退職しますので、最後の年として、もう一度、教会の皆さんと「教会」について学び直し、共に教えられ、次の方にお渡ししたいと思ったからです。
第二は、第一のゆえに、「教会」について共に教えられていくための最善の聖書箇所は、エペソ書だと考え、1月から礼拝で共に学んでいるからです。
第三は、これも、第一と第二に関係することとして、私塾の冬学期のクラスで、「ギリシャ語でエペソ書を読んでいく」を続けているからです。
これまで、パウロの他の書簡のいくつかの学びはやっても、エペソ書は遠慮していました(部分的には学びましたが、1章からすべてを詳細に学んでいくことを避けて来ました。内容が本当に難しいからです)。
こうして、少しずつエペソ書を学んで、やっと5章まで来ましたが、感想は、やはり、「難しい!」の一語です。ただ、難しい中でも、学びを続けて行きますと、聖書ですから当然でもありますが、色々発見し、教えられることがドンドン増えてきます。
その中でも、何よりも今、「教会」について教えられています。どこまでまとめられるか分かりませんが、いくつか挙げてみたいと思います。
第一に、エペソ書(パウロ)の教会観(像)は、濃淡はあるものの、いつも二重で、宇宙的な天上の教会と地上の教会が共在しているということです。
第二に、この天上の教会は大きくて、被造物のすべてをも包含しているのではないかと考えます。ですから、天上の教会イコールエデンの園の再現、天の御国そのものと言ってよいでしょう。
第三に、天の御国は現在的で(最後に完成するのではなく、すでに完成して存在している!)、動的です(つまり、静的ではなく、地上の教会と関係が深く、地上の教会の動きと連動している部分があるように見えます)。『ジャンルを大切にして聖書を読む』の中で、天の御座の様子が動的で、地上の動きと連動している面があることに触れましたが、これと同じです。
第四に、地上の教会の成長の重要な要素として「横の交わり」の成熟がありますが(エペソ書の強調)、「縦の成長」は、天上の教会に呼応して、これに似ていく事ではないかと考えるようになりました。
第五に、第四で触れましたが、地上の教会にとって最も大切な事の一つは、横の交わりの成長(成熟)であると考えます。エペソ書で、このことが、一致の恵みを踏まえながら、繰り返し繰り返し語られているからです。
…エペソ書全体から、パウロがどれほど、このような「教会」のことを心にかけ、祈りつづけ、考え続けていたかよく分かります。
稲沢教会は、来週の日曜日午後に新年度総会があります。エペソ書が教えている「教会像」から学び、教えられ、一年間、ともに歩ませていただきたいと願っております。お読みくださり、感謝します。どうぞ、覚えてお祈りください。 | | 2026-02-20 18:03:43[投稿番号:471] |
最近、お一人お一人と直面する時が増えてきました! | | 本当に、祈ります。祈らされます! | コロナの感染問題がなくなり、教会の歩みが新しい段階にきたからでしょうか。それとも、あと一年の牧会を意識して、お一人お一人との対話を大切にしようと、より強く思うようになったからでしょうか。
最近、教会の内外のお一人お一人について祈るだけでなく、これらの人たちと、前以上に直面するようになったのではないかと思っております。頻度も内容も、です。
これまでは、どちらかというと、「しなさすぎた」かもしれませんが、最近は、「しすぎている」と言えるかもしれません。
ただし、「心」がしっかり守られているなあと思う時もありますが、「心」が恐れで一杯になり、一日の間でも繰り返し、「心」を守って下さいと祈ったり、自分の献身を点検し、再献身させられる時もあります。
これは、自分自身の思いを通そうとしているのか、それとも、神様のみこころが成ることを本当に求めているのか、徹底的に確認しなければならない時もありました。感謝なことに、神様に祈り、全てを神様にお委ねする時、神様は、いつも恐れから解放し、神様のみこころの道に戻してくださったように思います。
3月22日は、稲沢教会の総会です。教会の兄弟姉妹と、神様のみこころを分かち合い、新しい一年に向かって歩んでいくことを願っています。個人的にも、教会的には、内住のご聖霊を認め、信じ、御霊に満たされて、共に遣わされていきたいと思います。感謝します! | | 2026-02-13 18:15:13[投稿番号:470] |
本当にごめんなさい! | | ブログの更新をすっかり忘れていました! | 昨日、メモを見て、びっくりしました。「そう言えば、毎週金曜日に、ブログの更新をしていたんだ・・・」年末年始の慌ただしさの中で、すっかりブログのことを忘れてしまっていたようです。みなさん、すみませんでした。それにしても、一か月以上も、忘れていたのです…
たぶん、忙しさだけでなく、私の認知機能に問題が起こって来たしるしの一つではないかと思っております。今週、74歳になりました。イエス様を信じて、約57年、牧師とされて約50年です。神様のあわれみしかありませんが、どうも、心身共に弱くなり、認知機能にも柔軟性や粘り強さがなくなってきているのを感じます。
さて、あまりこんなことばかり書いてもいけませんので、2026年の第一回のブログとして、今、何を考え、求めているのか、少しだけ触れさせていただきたいと思います。
第一に、昨年の秋頃に教えられたことで。聖霊論にあって救済論と教会論の緊密さがありましたので、あと一年になりました稲沢教会で牧会において、この緊密さの実践を試みていきたいと願っております。実際にどうしたらよいか、まだ十分分かっていませんが、出来る限り、両者のギャップを縮めていきたいと思っています。つまり、極端な個人主義的救済論(信仰生活)ではなく、また極端な教会主義(教会生活)ではない、ということです。これらは、御霊にあってすでに一つで、統合されていることと考えています。
第二に、今、私塾で、「エペソ書の学び」をギリシャ語でやっています。エペソ書がこれ程むずかしいとは思っていませんでした。これまでの牧会の中で、エペソ書全体の厳密な学びはしてきませんでしたので、私にとっても、チャレンジであり、多くのことを発見しています。できれば、これらの発見の恵みを、私塾の春学期(ギリシャ語なしのエペソ書の学び)に生かしていきたいと思っています。
もう、春学期のクラス準備を頭の中で始めています。妻が、「食事だよ」と言っていますので、今晩のブログは、この辺で。
皆さん、本当にすみませんでした。また、できるだけ続けたいと思います。もし更新していなかったとしたら、何かあったか、召されたか、また忘れたか、どちらかです。。。神様がお許しくださったら、また、お会いしましょう。忘れませんように。 | | 2026-02-06 18:54:39[投稿番号:469] |
本当に教えられることの多かった一年でした! | | 東方教会の聖霊(論)について学び続けています | クリスマスおめでとうございます!
皆さんの教会におきましても、いろいろなクリスマス集会があったと思います。
知っていたはずですが、クリスマス「イブ」の真の意味は、クリスマス「前(夜)」ではなく、クリスマスそのものの夜(なぜなら、ユダヤでは、日没から一日が始まるので)を指していることにあらためて気づかされ、これまで以上に、熱い(?)クリスマスイブ礼拝になったような気がします。
365日の毎日がクリスマスですが、私の心は、すでに、次の28日の「年末感謝礼拝」、1月1日の「元旦礼拝」のメッセージをどうするかに傾いています(さらに、4日の新年礼拝についても)。
そんなことで、チャンと一年をふり返っているわけではありませんが、今回のブログのタイトルにありますように、今年は、本当に、神様から、あらたに、多くの大切なことを教えていただいた年であったなあと強く感じていることは確かです。
聖霊論的にも、聖書神学的アプローチから、組織神学的アプローチに移り、様々な角度から、歴史(通時)的に、また同時(共時)的に、
さらに、総合的に考えるようになり、新たな発見や注目点がいろいろ見つかりました。特に、西方教会と東方教会の比較は有益でした(今も、継続的に学び続けています)。
また、聖霊論的に、救済論も教会論も一つではないかと、より強く考えるようになりました。一つの御霊が個人的にも、教会的にも内住して最後の最後まで、導いておられることを確信しました。これも、大きな恵みの発見となりました。
また、みことばとして、これまでもいろいろと引用して来ましたが、特に第一コリント3章16節、6章19?20節、エペソ5章18節などが、聖霊論的核心になるのではないかと考えるようになりました。
稲沢教会の牧会は、あと一年ですが(2027年3月まで)、これらの御言葉を中心に据えながら、最後の牧会奉仕をさせていただければと願っております。
東方教会の神学(聖霊論)は、西方教会の神学と違うところがあります。理知的により明確に説明することよりも、神秘的、統合的、現実的なアプローチで、三位一体の神様(聖霊)を、表現するというよりも、詠おう(?)としていますので、比較できない(比較にならない)部分があるかもしれません。これからも、いろいろと難しさはありますが、少しでも、理知的に(?)、実際的に教えられていきたいと思います。
次回のブログは、たぶん、1月1日でお休みになると思います。また、1月8日にお会いしたいと思います。これまでの一年、忍耐をもってお読みくださり、感謝いたします
新しい一年も、御父と御子と御霊は変わりませんので、三位一体の神様の豊かな臨在、交わりの中で、歩ませていただきたいと願っております。皆さん、お一人お一人の上に、三位一体の神様との豊かなお交わりがございますように。ハレルヤ! | | 2025-12-26 17:47:23[投稿番号:468] |
感謝します。秋学期が終わりました! | | 聖霊論4のクラスについて | つづけて、東方教会(ギリシャ正教)における聖霊(論)について学んでいますが、きょうは、昨日終わった「聖霊論4」のクラスについて触れたいと思います。
私塾として、聖霊論1のクラスは約3年前に始まりましたが、今週、聖霊論4(「ちょうどいいかげんな聖霊論的組織神学的試み」)を終えることができ、本当にホッとし、また感謝しています。6人の方々が受講し、積極的に参加してくださったので、新たな発見や学びができただけでなく、クラスの中でも、聖霊の臨在と導きを覚えることができました。
クラスの皆さんにもお話し、おすすめしましたが、聖霊論5は、私も含めて、参加者一人ひとりの「適用」にあたると考えています。様々な神学的項目の中でも、聖霊論は、本当に、今の自分、今の信仰生活と教会生活に直接関わるものであり、適用すべき神学であると思っています。
内住の御霊の事実を、感覚ではなく、ただみことばによって信じること、その恵みに基づいて「聖霊に満たされる(満たされ続ける)こと」、そして、信仰生活・教会生活の中で応答していくこと(つまり、自分に満たされることを止め、御霊に満たされていくこと)…こうして、個人的にも教会的にも、聖霊による成熟に導かれ、御霊の実が結ばれていくことになります。
それぞれ、一人ひとりが遣わされ、置かれているところで、聖霊に満たされ、導かれていく神様の子どもとして歩んでいくことができますように。
本当に、恵み深い、聖霊深いクラスとその交わりが与えられ、感謝でした。ただ、神様に感謝をお捧げします。
来年の冬学期は、少し、牧会者を意識したクラスになるかもしれませんが、神様が、相応しい方々、必要を覚えておられる方々が送られてきますように。 感謝とともに。
それぞれのクリスマスの諸集会が豊かに祝され、用いられますように。 | | 2025-12-19 16:51:23[投稿番号:467] |
つづけて、東方教会(ギリシャ正教)における聖霊について | | 前回のつづき(その1として) | 前回は、東方教会の三位一体論について簡単にまとめさせていただきました。また、これに基づいて、聖霊理解についても少しだけ触れさせていただきました。今回もその続きになります(ただし、手もとにあります、資料や本などのすべてをチェックできないので、次回も、さらに東方教会の聖霊論について取り上げることになると思います)。
東方教会と西方教会を比較して、どうして、西方では、ご聖霊が後回しになってしまったのか、考えつづけています。前にも書いたと思いますが、その大きな理由の一つが、西方のフィリオクエ主義であると思います。ただし、フィリオクエだから、自動的に、聖霊が後回しになるとは言えないと思います。他に、いろいろな要因があったからだと思います(いつか、この点についても整理したいと思います)。
ここでは、「フィリオクエ」付加に反対した東方教会に注目します。つまり、永遠的に「御父と御子から聖霊が発出された」(他にも、これに近似した表現が歴史的にあります)のではなく、東方は、あくまでもこれまでの歴史的告白に従って、永遠的に「御父から、御子は生出し、御霊が発出した」ことを強調し続けています。
すると、ここから何が出て来るかと言いますと、聖書解釈的に正しいかどうかは別にして、三位一体の神様の一致を前提にしつつ、御父と御子と御霊という三位格の区別がよりはっきりしてくる、またこれに基づく、エネルゲイア理解も、これと相互関係にある「経綸的三位一体」理解も、西方に比べて、より明確なかたちであらわれてくる、更に、そのように理解されるだろうと考えます。また、2世紀のアイレナエウスの三位一体理解や、特に4世紀のカパドキア三教父たちの三位一体理解をより直接に引き継ぎ、三位格の区別がより明確なものになっていると思われます(西方の流れは、アンブロシウス→アウグスチヌス、さらにアンセルムス、トマス・アクィナスへ)。
したがって、聖霊の臨在と働きについての理解やその位置づけは、西方のものより、かなり明確であり、また御子との相互関係も明らかです。こうして、御子の生涯における聖霊の働き(例えば、マリアさんが妊娠した時の聖霊の働きから始めている)、また、ペンテコステにおける聖霊に対する御子の働き(御子は、御座から御霊を派遣された)は、重要な例になります。
今の私達の神学的区分として、一般的に、三位一体論、救済論、教会論、終末論などがありますが、東方においては、長い間、このような(概念的)神学の展開はほとんどなく、また、例えば、神学と霊性の区分(乖離)もなく、基本的に、これらは、神秘的で、実践的で、一つのものとされて来たと思われます。
したがって、東方の聖霊論も、20世紀以降に出版されたものの中で、一応、「聖霊論」という項目を設けている神学書はあるが、内容的には、かなり、神秘的、霊性的、実践的、また御子と御霊は、区別とともに相互的な取り扱いが多いと言えるでしょう。
次回、もう少し、つづけさせていただきます。分かりにくい文を読んでくださり、感謝します。なんとか、もう少し、概念的に整理できればと願っております。 | | 2025-12-13 11:01:34[投稿番号:466] |
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