1列王記17章から・・・5つの奇跡を求めて | 最近のディボーションから教えられて | 毎日のディボーションで、旧約のナラティブをずっと読み、学んでいます。最近、列王記に入り、17章まで来ました。ここは、皆さんもご存知のエリヤが登場して来るところです。アハブ王が来ると、エリヤが出てきます。
そして、次々に神様の奇跡が描かれています。カラスによって養われたこと。カメの粉も壺の油も尽きず。最後に、やもめの大切な息子が死んだのに生き返っています。
私は、これらの出来事を読みながら、自分自身の約47年間の生涯を思い起こしました。「死んだのに生き返った」経験はありませんでしたが、確かに、「カラス(?)」によって養われ、「カメの粉(?)や油(?)」は尽きなかったと言えます。
神学生の時だけでなく、生涯において、何度か、経済危機がありましたが、神様の奇跡によってここまで来ることができたことを、もう一度思い起こし、膝まづいて神様に感謝しました。経済危機だけは、「他言無用」の哲学で生きて来ました。
お祈りしながら、自分の信仰があまりにも常識的になってしまっていたことに気づきました。そして、あらためて、生涯の最後までに、ということで、「5つの奇跡」をお願いしました。神様を試してはいけませんし、それなら、全く意味がありませんが、神様との交わりの中で、5つのことを最後まで求め、祈りつづけていくことにしました。
神様は、いつ、どのようにして、5つの奇跡を起こしてくださるでしょうか。ひょっとしたら、天に召された後で実現することもあるかもしれません。いずれにしても、これらのことを楽しみながら、歩ませていただきたいと思います。
「5つのこと」って何?…とお訊ねになりたいと思いますが、これは、私と神様との間のことです。
どうぞ、カレブのように、最後の最後まで、「従い通していくことができますように」!ハレルヤ! | 2025-09-12 18:08:42[投稿番号:454] |
救済論における御子と御霊について | ここも、御子にあって、御霊によって、か? | これまで、約10回に渡って、聖書研究祈祷会の前半で、聖霊論の学びを続けています。ある程度まで、救済論(私達の救いと信仰生活)における聖霊の臨在と働きについての学びが終わりましたので、最後のまとめとして、救済論における御子と御霊について、またその中での御子と御霊の相互関係について考えています。
当然、難しいことが含まれますが、大切なことなので、少しだけ取り上げさせていただきたいと思います。
1)信仰の初め(回心・入信)において:
*御子と御子の十字架のみわざを信じて救われ(罪の贖い、赦し)、御霊によって救いの恵みにあずかる(救いの適用:例えば、テトス3:4?6)。
*御子を信じて永遠のいのちを受けるが(ヨハネ6:40、47、51)、実際にいのちを与えるのは御霊である(ヨハネ6:63、4:14と7:38-39)。
2)三位一体の神様と私たちの関係について:
*御子の復活・昇天、ペンテコステ後の三位一体の神様を空間(場所)的に見分けると…(これは表なので記載が難しく、省略しました)
三位一体の神様(御父…御子…御霊)
天の御座(無限の空間)と私たちの世界(被造世界)と私たちの教会と私たちの心(内住)
*三位一体の神様(御父、御子、御霊)は、私たちとともにおられる。
*御父:旧約において繰り返し語られている(例:詩46:11、申命20:1、マタイ1:23)
*御子:マタイ28:20「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
*御霊:御霊が、イスラエル(私たち)とともにおられるという明確な表現は少ない(ヨハネ14:17、ローマ8:16。ただし、類似表現は非常に多い)
*三位一体の神様(御父、御子、御霊)との交わりについて(@交わりの定義…相互的で自由な交際、交流)
*御父:明確な表現はないが、交わりを意味する様々な形や内容の事例は多い。
*御子:「1コリント1:9:神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」他にも、福音書には人となられた御子と弟子たちの交わりがある。
*御霊:「2コリント13:13「御霊(と)の交わり」、ピリピ2:1「御霊(と)の交わり」(別解釈あり)」「御霊との交わり」を表す聖書的事例はないかも(上記の「交わり」の定義に立てば、御霊の場合はほとんど一方的なもの)。ただし、それでも御霊の「人格性」を考慮すると、「御霊との交わり」は否定できないだろう。
*三位一体の神様と「内住」について(御父と御子の内住に関して、微妙な箇所があるが否定できないだろう):
*御父の内住の可能性について:下記のヨハネ14:23には、御父と御子の内住の可能性がある。
*御子の内住の可能性について:「ヨハネ14:23:イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」また、三位一体的に考えるなら、御父と御子の内住も否定できないだろう。
以上は、今週学んだことですが、たぶん、続きは、次回になると思います。
今の私達の信仰生活における、御子の現在性、御霊の現在性について考えています。三位一体的には変わりはないと思いますが、それでも、御子は「御子にあって」、御霊は「御霊によって」、現在的に私達に関わっていてくださるのかな?と思っています。
きょうも、三重に、豊かに、御父と御子と御霊との交わりの中に入れられていることを感謝します!ハレルヤ! | 2025-09-05 18:28:28[投稿番号:453] |
聖霊の働きにおける救済論と教会論 | 今、特に感じていること | つづけて、「ちょうどいいかげんな組織神学的聖霊論」について考えている中で、これまで私が考えていた以上に、聖霊の臨在と働きにおいて、(個人的な)救済論と教会論が密接であることが分かってきました。
簡単に言えば、ご聖霊は、個人的にも、共同体(教会)的にも、ほとんど同時に、また、類似した働きを、両方の領域で合わせて続けておられるということです。したがって、あまりに個人的な面だけを強調するのも(現代)、聖霊の真の働きから外れるし、教会的な面だけを強調するのも(かつて、特にカトリック教会の時代)、間違っていると言えるでしょう。
聖霊の、広い意味での、救済論的な働きには、個人的な面と共同体的な面が共存しているという感じです。またこれは、旧約時代からずっと、新約時代も、今も継続しています。こうして、御国の完成においても、確かに、この両面が一つとして完成(回復)していると言えます。
どちらかでは、決してありません。
最近、妻と私は一体で、二人で「一人前」なんだと考えるようになりました。やっと考えられるようになったと言ったほうがいいかもしれません。
私の側は不明ですが、妻がしていることを考えると、私個人では絶対できないことをしていて、しかも、それが、結果的に、(私も含めて)私たちがやったことになっているということです。二人は一体だからです。ありがたい、というか、感謝なことです。
考えてみますと、このようなことはたくさんあります。子育てもそうです。子どもたちが今、一所懸命子育て(孫育て)をしているのを見ていると、本当に子育ては大変なんだとつくづく感じます。妻は、それをずっとやってきたのです(四人の子ども)。
しかし、四人の子育ても、本当は妻がほとんどをやってきたので、私も含めて、二人がやってきたことになっています。
なんで、こんなお話をしたかと言いますと、「二人で一人前」ということは、ある意味で、教会にも、その中のスモールグループにも、教団にも・・・当てはめることができると思ったからです。
教会は、それこそ、色々なタイプや賜物の人たちの集まりですが、バラバラではなく、それで、神様の前に「一人前(一つのからだ)」になるからです。それで、稲沢教会という一つの群れになるのです。
飛躍するかもしれませんが、個人性と教会性(共同体)は、神様の前では、私たちが思っているほど、別個のものではなく、御子にあって、御霊によって一つのからだ(一人前)であると考えられるのではないでしょうか。
最近、感じていることを、忘れないうちに、ちょっとだけ触れてみました。ハレルヤ! | 2025-08-30 16:47:43[投稿番号:452] |
お祈り感謝いたします! | 生検の検査結果が出ました。 | 皆さん、お祈り感謝いたします。
生検の検査結果が出て、昨年は問題があってステージ1という診断でしたが、今回は何もなかった(!)ということでした。
結果を聞くために、昨日病院に行きました。進行しているかもしれないし、同じかもしれないし、ひょっとしたらなくなっているかもしれないと思っておりましたが、答えは、何も見つからなかったということでした。
思わず、お医者さんの前で「感謝!」と叫んでしまいました。もちろん、生検で全て分かった訳ではありませんので、これからも、3か月ごとに経過観察していくことになります。
いずれにしても、お祈りを感謝いたします。ちょうど、子ども達も帰ってきておりましたので、皆で、感謝を分かち合いました。
ちょうど木曜日の朝は、2サムエル記7章を読みました。神様がダビデに対して溢れるばかりの恵みと憐れみをもって語られました。ダビデは、この神様に対して心からの感謝を捧げている箇所でした。18節にこうあります。
「ダビデ王は【主】の前に出て、座して言った。「【神】、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。」
病院に行く前も、まさにこのみことばを心に留め、祈りました。
「私は何者でしょうか、私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。」
神様は、これからどのように導かれるか分かりません。ただ、「人間をとる漁師にしてくださった」ので、この召しを最後まで全うさせていただきたいと思います。
感謝とともに、また再出発させていただきます。 | 2025-08-22 18:08:42[投稿番号:451] |
「ちょうどいいかげんな組織神学的聖霊論」を求めて | 今朝、訂正した最終稿を送りました! | 今朝、校正していただいた最終稿をチェックして再送しました。これで、全て終わりました。神様と出版社の谷口さんたちに感謝し、お祈りしました。
以前触れましたように、現在は、「ちょうどいいかげんな聖霊神学的聖霊論」に基づいて、「ちょうどいいかげんな組織神学的聖霊論」の準備をしています。10月から始まる秋学期のクラス準備(私塾:聖霊論IV)であり、また導かれれば、また『舟の右側』用の原稿として再執筆することになるかもしれません。どのようであっても、神様のみこころなら、そうなるし、そうでなければ、そうならないでしょう。
「組織神学的な聖霊論」の準備の中で、あらためて、聖霊論が、神学の世界でも、実際の牧会やクリスチャン生活でも、なぜ「後回し」になってしまったのか理由を考え、整理しています。
確かに、御子イエス様が中心であり、「それでいいではないか」という意見もあります。ただし、キリスト中心だけで本当にいいのか、また、御子と御霊中心はいけないのかを考えながら、聖霊論をやりつづけています。この質問は、私の心の中で、たぶんずっと続いていくと思います。
私としては、確かにキリスト中心であるが、キリストの御霊も色々な面で、私達の領域で重大であることを確認したり、訴えたり、実践したりしていきたいと願っています。これが、私自身のささやかな「聖霊運動」です!
さて、少しだけ、ご聖霊のことが「第三のお方」になるだけでなく、実際的に、なぜ「後回し」になってしまったか、理由をいくつか挙げてみたいと思います。これらは、歴史的、神的的、実際的理由です。
第一:「フィリオクエ」の問題があります。私としては、これが、最大の歴史的神学的問題で、現在の私達にも、ここからの影響が続いていると考えます。また、いつか詳細に触れたいと思います。
第二:第一とつながっていますが、これを受け継いだカトリック教会(ギリシャ正教と分離)では、例外があるかもしれませんが、聖霊はあまり重視されず、むしろ、「教会」が重視され、聖霊(の働き)は、「恵み」ということば置き換えられていったと思われます。
第三:このカトリック教会の傾向を、この後、出て来るプロテスタント教会(プロテスタントの初期のリーダーたちはいずれも、元カトリック教徒)も受け継いだと思われます。もし例外を上げると、カルヴァンは、彼が書いたよく知られている「キリスト教綱要」の中でご聖霊のことを非常によく取り上げています(後の改革派に大きな影響を与えている)。
第四:その後出て来るリベラルな神学者たちにとって、また、クリスチャンでない多くの人々にとって、三位一体論もそうですが、ご聖霊のことについては、一番理解しにくい問題の一つであったと思われます。ヨハネ14章17節にあるとおりです。聖霊は、目で見ることができず(その働きの結果は見えても)、一番信仰が必要なお方、教えであると言えます。
第五:第四の続きですが、クリスチャンたちにとっても、ご聖霊ほど信仰の要るお方はいないからです。体験もありますが、基本的には、聖霊についての聖書のみことばを信じるだけだからです。変な言い方ですが、みことば信仰が必要です!
第六:「灯台下暗し」という問題もあります。ご聖霊は、私(たち)ひとり一人のあまりにも近くで、ともにいて(内住)、ともに導いてくださるので、聖霊の臨在と働きに気づかない、気づけないという問題があると思います。
最後にもう一つだけ触れておきましよう。
第七:20世紀に入って、第一、第二、第三の聖霊の波が起こりました。そして、そのたびに、キリスト教界に様々な混乱や問題が起こりました。そんなことで、他の教会(聖霊派ではない福音派)の多くが、そのような問題に直面し、また見聞きして、ある種の聖霊運動だけでなく、ご聖霊ご自身からも「引いてしまう」という問題が起こりました。実際にあったし、今もあると思います。
また、それぞれについて、機会が与えられれば、より詳しくお話ができれば感謝です!ここまで、お読みくださり、感謝します! 猛暑の中も、守られますように。 | 2025-08-15 18:17:58[投稿番号:450] |
2泊3日の入院から戻りました! | お祈りを感謝いたします。 | 昨日、退院したのですが、本当に疲れてしまいました。一年前にも、生検のための入院をしたのですが、今回は特に大変でした。しかし、戻ることができ、きょうはだいぶ元気になれました。お祈りを感謝いたします。
入院中は、他の、入院しておられたり、治療中の兄姉の大変さを感じたり、目がさえている時には、教会の兄姉やその他の方々のこと、ひとり一人を思いながら、お祈りしました。第一日目は、たくさん本を読みましたが、二日目は全くなにもできませんでした。
今度の礼拝に、ゲストスピーカーをお願いしています。本当によかったです。神様が、豊かに語ってくださいますように。
すみません。短いですが、きょうはここまでです。感謝いたします。 | 2025-08-08 20:04:27[投稿番号:449] |
サムエル記からも教えられています! | いよいよ、『舟の右側」の原稿も最後になりました | 8月に入りましたので、『舟の右側」の原稿(第45回用)も最後になりました。これまで、三年半以上、「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動を求めて」の連載をさせていただきましたが、最終回を迎えました。
このような機会をいただかなければ、決して考えることがなかったであろう、ご聖霊についての様々な学びと発見があります。最近のことで言えば、聖霊論のゆえに、(個人的な)救済論と教会論の近似性があります。ご聖霊の働きから見れば、両者はほとんど同時で、ほとんど一つで、相互に親密な関係があることが分かります。現代的には、個人性と教会性を必要以上に区分してしまいそうですが、聖霊の働きから言えば一つです。
かつて、「教会性」を非常に強調していた時代(また考え方)がありましたが、たいていそういう場合には、教会は聖霊を飲んでいたと思われます。今、あらためて、個人と教会の緊密な関係を聖霊論的視点から見直したいと思っています。
今は、私塾の秋学期のために、上記の続きとして、「ちょうどいいかげんな組織神学的な聖霊論をもとめて」を準備しています。これまでの聖書神学的な聖霊論を組織神学的なものにまとめられれば幸いです。
今年の1月16日から創世記のディボーションを始め、モーセ五書の後は、ヨシャア記、士師記、ルツ記、歴代誌、エズラ、ネヘミヤ、エステル記に来ました。ここからどこに行こうかと迷いましたが、もう一つの歴史である、サムエル記、列王記に戻ることにしました。
今は、サムエル記11章まで来ましたが、サムエル記に戻って本当によかったと思っています。ハンナの献身、預言者サムエルの働き、不思議な王サウルなどから、また新しく教えられるからです。忘れることが多いので、新鮮な思いで、みことばに向き合い、新しく教えられる恵みは格別です!
これからも、少しずつ少しずつ、教えられていきたいですね。。ハレルヤ! | 2025-08-01 20:32:13[投稿番号:448] |
永遠のいのちの豊かさや広がり | 神様にある色々な交わりの恵み | 「永遠のいのち」とは、永遠の神様との交わり、神様を知り、神様に知られる交わりであると言えます。ヨハネ17章3節にある通りです。類似した言い方としては、同じヨハネ10章14-15節にもあります。
これらのことについては以前も触れたことがありますので、今回は、さらにこの永遠のいのちの交わりの結果、またその豊かさや広がりについて触れたいと思います。つまりこれは、神様との交わりを基にして、さらに同じ神様を信じ、永遠のいのちの恵みに与っている他の兄姉との交わりのことです。「交わり」とは、同じ神様にあって、与えられている本当の自由(つまり、全く強制のないこと)の中で、互いに知り合い、影響し合っていくことだろうと思います。
神様との永遠のいのちの交わりの恵みは、確かに、同じ神様にある兄姉との交わりに繋がっており、これは、当然のこととして広がったり、狭まったり、豊かなものです。例えば、私の最近の予定で言いますと、来週の月曜日はオンラインで、「若手?牧師会」がありますし、火曜日は、初めての試みですが、近所の牧師さんたちとの交わり食事会をする予定です。水曜日も、市内と近隣の牧師さんたちとの祈り会や分かち合いをすることになっていますし、木曜日は教会の聖書研究祈祷会です。
なんでこんなに「交わり」をするんでしょうか。ただ、交わりが好きだからというだけではなく、言いわけかもしれませんが、先ほどの永遠のいのちの恵みの祝福の効果(いい意味の副作用)であると考えます。神様は、私たちに、まず何よりも神様ご自身との交わりを与えてくださいますが、それだけではなく、さらにこの恵みを広げてくださいます。つまり、神様にあって、他の兄姉との交わりを導き、広げ、深めてくださるということです。たぶん、これが、天国の交わりの準備や予型になっていくのでしょう。
以前いただいたぶどうが美味しかったので、その種を土に埋めておいたら、発芽し、今では、その枝は、縦60センチ、横1メートル以上に伸びています。これからどうしようと不安になってきているほど、ドンドン増大しています。ただ、この様子を見ながら、ヨハネの15章5節などにある、イエス様のぶどうの木のたとえを思い出しています。これは、イスラエルであり、永遠のいのちの交わりを表しています。今は、もうほとんど、「ぶどうの木(中心の軸)」(イエス様)とその「枝」(私たち)の区別ができないほどになっています。
これこそ、永遠のいのちの交わりの本当の姿ではないかと考えます。中心は、私たちと神様(御子)との交わりです。しかしそれだけではなく、神様との交わりを中心に、他の兄姉(ぶどうの木の枝)との交わりも豊かに備えられています。
神様にあるいろいろな交わりは、永遠のいのちの恵みのしるしであり、結果であり、天の御国の交わりを指し示していると思います。「交わり」を大切にしましょう! 「交わり」の恵みを感謝します。 ハレルヤ! | 2025-07-25 17:42:52[投稿番号:447] |
最近読んでいる聖書から… | 「ネヘミヤ書」のすばらしさ! | 最近、ディボーションで「ネヘミヤ書」を読んでいます。久しぶりに読んだ書なのか、いろいろなことを発見し、教えられ、恵まれています。前半の7章までをまとめてみました。
*1章:自分と自分の家の罪を告白し、神様の前にへりくだっています。イスラエルが、バビロン捕囚にあってから何年経ったのか正確には分かりませんが(神殿が再建されてから70年位経過)、この時期にも、真のイスラエル(レムナント?)がここにいたのです。
*2章:王の質問に、彼は、まず「ネヘミヤの神様」に祈ってから答えたとあります。彼にとって、神様がどんなに身近なお方であったか、また、当時の彼の王より偉大なお方であったか、よく分かります。大切なことであればあるほど、まず神様にお聞きしたいです。
*3?4章:城壁の再建に対して様々な抵抗がある中で、ネヘミヤたちが「神様に祈りつつ、また日夜見張りをおいた」と記されている所に注目しました。この場合、一方だけでなく、両方を同時に行っていたと思われます。このことは、現代の様々な出来事に適用できると思います。
*5?6章:最後の19節に、ネヘミヤらしい祈りのことばがあります。それは、「私の神よ!」です。この後も、繰り返し「私の神」が出て来ています。この書は、ネヘミヤ自身の霊的日記のようです。私たちも、ネヘミヤのようにいつでも、個人的に呼びかけられる神様がおられることに大感謝です。
*7章(?8章以下へ):ついに、城壁の完成!こうしてネヘミヤは、さらに神のみことば(律法)に基づき、神殿を中心とした、神様にある新しい生活を教え、導いていく(8章以下へ)。ここで、どうしても必要なことは、神殿と城壁だけでなく、神様のみことばです。彼は、エズラを用いて、イスラエルの民が、神様の教えに理解し、これに従い、生活を整えていくことを導いていきます。
ネヘミヤ書は、これほどに豊かな教えを含んでいます。皆さんも、ぜひお読みください。ハレルヤ! | 2025-07-18 17:57:59[投稿番号:446] |
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