まとめ:使徒の働きにおける聖霊
出来るだけ、簡単に!
少しずつまとめていますが、まとめることも大変です。特に、使徒の働きにおいて、聖霊の臨在と働きについての言及は非常に多く、また豊かだからです。プニューマ(霊・御霊)は、使徒の働きに70回以上使われ、そのうち、少なくとも55回は、神の御霊聖霊のことを指しています。

使徒の働きの「聖霊」だけを見ていたら、聖霊は決して隠れたお方であるとは言えないことが分かります。まとめの一部を紹介します!

使徒の働きにおける聖霊について新しくなったこと:

☆旧約の聖霊預言と御子の予告どおりに、約束の聖霊が特別な意味(新しい次元)で、この世界に来られたこと:
ペンテコステの出来事は、聖霊の単なる来臨に留まらず、天的に壮大で、三位一体的な大事件です。

 *「力」の御霊:旧約聖書においても、「力」なる御霊はおられ、その働きは明らかですが、使徒の働きにおける「力」の御霊について特に注目できることがあります。この方は、何よりも、キリストの教会(弟子たちや彼らを通して信じた者たちの群れ)を通して、エルサレムから地の果てまで福音宣教を導く「力」の御霊であるということです(特に1・8、28・31、他に、ルカ4・14、24・49)。
  
☆救いの御霊について(旧約の「救い」と同じではない)
*救い(回心)を呼び起こし、これを達成する聖霊(9・17?18):使徒の働き2章は、聖霊に満たされて語るペテロたちの説教を通して、人々の心に認罪や謝罪の思いが与えられ、悔い改めて救いに導かれたことの良い例になります。このことは、個人的(9章のパウロの救い)、また集団的(13章のコルネリウスたちの救い)に関わらず、また聖霊の働きについての直接的言及の有無にかかわらず、使徒の働きのすべての救い(回心)の出来事に聖霊の救い(回心)の働きがあったことは否定できません。

*「救いのしるし」(証し)としての聖霊(8・14-24、10・34-38、44-48、11・4?18、15・8、19・1?7、):御霊による救いの出来事から、またある場合において(すべてではなくても)、特に聖霊の顕著な働き(回心直後の可視的な超自然的現象)のゆえに、聖霊が救いのしるし(特に異邦人たち)になっていたことも事実です。異邦人の救いの真偽を確認するためにも聖霊とその現れは重要なしるしであったと言えます。

☆三位一体の神について(御子と御霊の関係、御父と御子の関係):
*御父:使徒の働きにおける御父は、すべてのことがらの源であり、支配者ですが、またすべての出来事の「背後に」おられると言えるでしょう。

*御子:御子は、天に戻られ、天の御座におられるお方ですが(1・9,7・55)、同時に、その御名において、地にいる弟子たちとともに働かれ、弟子たちもしばしば、この御名を用いています(3-5章:「名」12回使用、14・3)。ルカの記述に従えば、御子の語りかけ(スピーチ)や超自然的な御業などもあります(18・9‐10、23・11)。御子は天に戻られましたが、同時に(三位一体的に)弟子たちと共におられるお方です(1・24、7・59、11・21)。

*三位一体の神:聖霊は、福音宣教をはじめ、様々な分野でリーダーシップをとっておられますが、必要な状況においては(文脈から分かります)、御子が現れ、語られたり、御業を行ったりしておられる箇所があります(例えば、3・6以下「弟子達と共に生きて働いておられる御子(の名)が強調されている」、23・11「御子がパウロ個人的に励ましておられる」。他にも、御子への祈り(1・24、7・59)、御父への祈り(4・23―30)がありますが、この場合、御霊は祈り手と共におられ、祈りを助け、導いておられると考えてよいでしょう(ローマ8・26?27、エペソ6・18)。
 
☆ペンテコステの意味:これは、聖霊による福音宣教が始まったというだけでなく、聖霊にある新しい時代が始まったことを意味しています。新たな形(次元)での聖霊の臨在と働きが始まり、新たな救いのパターン(御子を信じて救われるというあり方)が生じ、更に救われた人々の群れ(「教会」という神の民)が起こされたということです。また、教会と教会(ユダヤ人教会と異邦人教会も含め)連携や交わりが生まれ、これが増大していきました。これらすべてにおいても、聖霊のリーダーシップ(臨在と導き)が豊かにあったことが分かります。これらは本シリーズの副題。「聖霊様、新約時代に何が新しくなりましたか?」の答えの一つになります。御子が予告された「聖霊によって(聖霊の中に)バプティゾーされること」については、ヨハネの福音書(1・32―34)やパウロの手紙(1コリント12―13やローマ6・3?4「キリスト」)などにある例と合わせて、さらに考えたいと思います。
2025-02-28 18:25:52[投稿番号:426]

まとめ:共観福音書における聖霊
…できるだけ簡潔にまとめたいと思いますが。。。
旧約の聖霊の副題が、「聖霊様、旧約時代に何をしておられましたか」で、新約の聖霊の副題が、「聖霊様、新約時代に何が新しくなりましたか」でした。

そんなことで、これから、しばらく、新約時代に入って(つまり、新約聖書において)、ご聖霊についての現象や意味が、どのように変わったのか、新しくなったのかについて、まとめていきたいと思います。  今回は、共観福音書における聖霊について新しくなったこと、です。

?御子は、旧約の聖霊預言通りに(イザヤ42・1?4、61・1?2)、御霊に導かれて生涯を歩み、神様のみこころを全うされたこと(マタイ12・17?21、ルカ4・14?21)。

*公生涯の初め:御子は、ヨルダン川で洗礼を受けられた直後に、天から御父の声と御霊を受けられました。これらは、正に御子の公生涯の始まりを表す出来事でしたが、マルコ1章10節では、「御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった」とあります。ここに使われているギリシャ語の前置詞は、「エイス:の中に」(他の福音書は「エピ:の上に」)で、より明確に、御子に対する聖霊の内住を示唆している可能性があります。

*公生涯において:御子の公生涯における聖霊の臨在や働きに関しては、御霊が御子を荒野に導かれたことから始まります(マタイ4・1、マルコ1・12、ルカ4・1)。その後の御子と御霊については、特にルカ書に注目できるでしょう(ルカ4・1、14「公生涯の初期における御子と御霊」、16-22「イザヤ61:1?2の預言成就の確認」、10・21「聖霊による(とともに)喜び」、11・20「神の指(聖霊)による悪霊の追い出し」。他に、マタイ12・28「御霊による悪霊の追い出しは神の国が来ているしるし」、使徒10・34-38など)。

?御子が(最後に)語られたことの中に聖霊についての教えがあること
*御子による御霊についての様々な言及がありますが(マタイ12・28(上記の通り)、マルコ12・36「ダビデが、聖霊によって、こう言っています」、ルカ11・20(上記の通り)、ルカ12・9‐10「聖霊を冒涜する罪」(他に、マタイ12・31-32、マルコ3・28)、その中に、特にペンテコステ以降の聖霊を指していると思われる例があります(マタイ10・20「話すのは‥‥‥あなたがたの父の御霊です」、マルコ13・11「聖霊が話される」、ルカ11・13「御霊が与えられる」、ルカ12・12「聖霊が語るべきことばを教えてくださる」、ルカ24・49「力(聖霊)の予告」など)。

?聖霊の神性(三位一体の神)、人格性について
*旧約聖書にも聖霊の神性やその働きが様々なかたちで示されていましたが、新約の共観福音書において、さらに明らかになっています。特に注目できる箇所を取り上げたいと思います。御子による最後の命令「父、子、聖霊の名において」(マタイ28章19-20節)から三位一体の神について、「聖霊を冒涜する罪」についての御子のことば(ルカ12章9‐10節など)から御霊に対する御子の尊敬や親密さなどについて、ルカ12章12節の「聖霊が語るべきことばを与えて下さる」から聖霊の人格性などについても明らかです。他にも、マリヤの妊娠におけるいのちの御霊の働きも重要です(マタイ1・18、ルカ1・35)。

?他に、共観福音書において注目できる聖霊とその働きについて
*「聖霊と火のバプテスマ(聖霊と火で、聖霊と火の中に、バプティゾーされる)」について:バプテスマのヨハネの予告(マタイ3・11、マルコ1・8、ルカ3・16)からも、聖霊の単なる到来だけでなく、その特別さや時間的空間的広さについて教えられます。

*ペンテコステ前(旧約時代、中間時代からの流れの中で)の聖霊の臨在と働きについて:バプテスマのヨハネ(ルカ1・15「聖霊に満たされ」)、マリア(マタイ1・18、20、ルカ1・35「聖霊による妊娠」)、エリザベツ(ルカ1・41「聖霊に満たされた」)、ザカリヤ(ルカ1・67「聖霊に満たされて預言した」)、シメオン(2・25-28「聖霊が彼の上におられた、聖霊によって告げられていた、御霊に導かれて」)などから見ることができます。
2025-02-21 18:05:37[投稿番号:425]

創世記から黙示録までの聖霊
お祈りを感謝いたします!
約三年前に、『舟の右側」(地引網出版)の代表の谷口さんから許可をいただいて、創世記から黙示録までの聖霊についての連載が始まりました。

そして今週、暫定的で、原稿の段階ですが、黙示録の聖霊の学びを終えることができました!本当に感謝いたします!途中、体調の問題などありましたが、ここまで守られ、感謝いたします!

一つは、ゴードン・フィー先生の『God`s Empowering Presence』(パウロ書簡全体における聖霊についての研究)がありますが、これと対話しながら、パウロの手紙すべてにおける聖霊について、自分なりにもう一度学び直したいという思いがありました。

もう一つは、フィー先生のものは、パウロ書簡だけなので、旧約も、新約の他の書における聖霊についても、徹底的な学びたいという思いがありました。

こうして、3年ちょっとかかりましたが、聖書全体における聖霊について、自分なりのやり方でしたが、すべてを終えることができました。
ここまで、守って下さった神様に感謝しましたし、このために協力し、助け、励ましてくださった兄姉の皆さんに感謝したいと思います。

あとは、最後に、これらをどのようにまとめるかですが、少しでも使いやすく、分かり易い形で、まとめていきたいと考えています。「ちょうどいいかげんに」まとめることができますように!

これまでの皆さんのお祈りを感謝いたします!神様のみ名を賛美いたします!
2025-02-18 17:31:51[投稿番号:424]

黙示録の学びから
「悔い改め」のめぐみ
1月から毎週木曜日の聖書研究祈祷会で黙示録を学ぶようになりました。最も難しい書(の一つ)だと言えますが、皆さんとじっくり学ぶようにしています。

今週で5回目になりますが、2章が終わったところです。2章と3章に7つの手紙がありますので、そのうちの4つの手紙が終わりました。これまでの学びで、特に気づいたのは、御子と御霊によって、4つの内の3つの教会に「悔改め」の命令が繰り返されていることです。3章は来週以降に学ぶ予定ですが、3章でも、3つの教会の内の2つの教会に対して「悔い改め」が求められています。

あらためて、「悔い改め」の大切さと、これが、エデンの東で、神の子ども達として生かされている者達に対する神様の憐れみの命令であることを知ります。「悔い改める」ことほど、本質的なことばはないし、すでに成就した御子の贖いの業と現在的な聖霊の内住の働きに適ったあり方はないと考えます。

悔い改めることは、御子の贖いのめぐみに立ち返ることであり、罪をそのままにされない内住の御霊のうながしに従うことです。私達の神様は、私達に与えていてくださる「恵みの道」に、このような悔い改めの道を教え、促し、命じ、そしてまた、ともに歩もうとしていてくださるのです。

きょうも、自分自身に向き合い、吟味させていただき、へりくだって、悔い改め、恵みの道を進ませていただきたいと思います。ハレルヤ!
2025-02-07 18:34:48[投稿番号:413]

御霊の人格(性)から三位一体を知る!
聖霊についての学びから
何年か前に、エホバの証人の長老さんたちの家を訪問し、ご聖霊について議論したことがありました。以前、イエス様のことについて議論したことがあるので、今回は、ご聖霊のことについて話し合いましょう、と私のほうから提案しました。

実は、エホバの証人の方々にとって聖霊は、神的な「力」であって、人格のないものであるからです。私は、聖書のいくつかの箇所から、御霊の人格性について説明しましたが、長老さんたちの答えは、一貫して、それらは「比喩」であるというものでした。

後で、また話し合いましょうと連絡したら、あなたは、私達の信仰の害になるので、話し合うことはできませんと断られてしまいました。

ご聖霊の人格性について、少しだけ触れさせていただきたいと思います。なぜなら、このことによって、聖霊をよりふさわしく知り、私達の三位一体理解はより現実的で、より確かなものとなるのではないかと考えるからです。

聖書の中から、特に聖霊の人格性が明らかになる箇所を選んでみたいと思います。?エペソ4章30節「神の聖霊を悲しませてはいけません」…これはまた、イザヤ63章10節から引用であると思われます。 

?マタイ12章31-32節(また、他の類似箇所)「聖霊に対する冒涜は赦されません。聖霊に逆らうことを言う者は・・・赦されません。」御子の誕生の時から関わり、公生涯の間中、御子を導かれた聖霊を、御子イエス様はよくご存知で、このように言っておられます。

?また、御子が聖霊について語っておられる表現などからも聖霊の人格性を知ることができます。たとえば、ヨハネ14‐16章における「もう一人の助け主」、また御霊は、ギリシャ語でPneumaですが、文法的には中性名詞で、「It」で受けるところを「He」で受けている例があります。ご聖霊は、「もの」ではなく、「お方」です。

?さらに、ご聖霊が、ご自身から語っておられる例があります。ここまで来ると比喩とは言えないでしょう。例えば、使徒8章29節、10章19節、さらに13章1?4節は重大です。御霊は、ご自身に関係して、「私のために、私が召した」と言っておられます。さらに、黙示録14章13節という非常に大切な箇所でも、御霊は語っておられます。

ご聖霊の人格性が分かってくると、本当の意味で、三位一体の神様の信仰と理解が生きて来ると思います。理論ではなく、御父と御子と御霊によって、私達が生かされ、導かれていることがよりはっきりとしてくると思います。三位一体の神様の恵みを感謝します!ハレルヤ!
2025-01-31 19:14:32[投稿番号:412]

きょうはちょっと難しいかも??
三位一体のかたちについて
2000年の間、三位一体について、特に、御父と御子と御霊の関係についていろいろな議論がありました。どれでも、絶対に正しいとは言えませんが、「助け」になるものがありますので、紹介させていただきます。

最初は、「フィリオクエ(意味:と御子)」で、「御父と御子から」、聖霊が来られたという順序に基づいて、逆三角形(また、逆の二等辺三角形)が三位一体のかたちになりました(ただし、これを絶対不動のものにはできないと思います)。

また、縦の直線の上端に御父を置き、下端に御霊を置き、その間に御子を置くようなイメージで、三位一体を考える場合もあると思います。これは、例えば、ヨハネ14-16章における御子の教えに近いと言えるかもしれません。

ペリコレーシスというイメージもあります。これは、三位一体の三者が手を取ってダンスをしているイメージで、正三角形を描けると思います。

また、2世紀後半の神学者でアイレナエウス(イレナエウス)が語ったもので、御子と御霊は御父の(両)手であるというものです。つまり、御父から遣わされた御子と御霊がそれぞれの役割を行っておられるというイメージです。これは、たぶん、二等辺三角形になると思います。

私は、毎朝、御父と御子と御霊という三者の交わり(三角形をイメージして)の中に自分を置き、三者に囲まれている自分を意識するようにしています。

また、最近、三つの座布団をイメージするようになりました。下から数えて、一番下の座布団は御父で、二番目は御子、三番目は御霊です。御父の座布団は変わりませんが、状況によって、二番目と三番目は入れ替わります。私は、その上に座っています。偉ぶっているのではありません。三枚の座布団の上には、御父と御子と御霊の、臨在と安心、恵みと交わりが溢れています。ここでは、ホッとすることができ、休むことができます。一番安心できるところです!

あなたは、どうでしょうか。この三枚の座布団に座ってみませんか。ハレルヤ!
2025-01-24 19:01:55[投稿番号:411]

パイナップルのうれしい話
以前書かせていただいたパインの話のつづき
今晩は、全く神学的でない話を書かせていただきたいと思います。何か、教訓があるとしたら、「4年間、忍耐して待つ!」ということになるでしょうか。

以前、パイナップルの王冠の部分を取って水栽培をしているという話を書かせていただきました。今は、それを植木鉢に入れ替えて、二、三日おきに水をやっています(もちろん、外は寒いので、室内に移しています)。
それが、なんと、たぶん4年たって、根元からやっと30?40センチほどに成長し、最近では、その中央部に、小さなパインの頭ができるまでになっています。まだ、こぶし大までにはなっていないのですが、今年の春か夏までには立派なパインができるのではないかと期待しています。これが、皆さん、なんと5鉢(5個)できています。

やっと4年して、パインらしいものができて来たので、大喜びしています。皆さんが、お近くにおられたら、おすそ分けしたい気分です!
まだまだ、時間がかかるかもしれませんが、希望が湧いてきました。これまで、妻や子どもたちから、「本当にパインができるの??」って言われ続けてきましたが、家族の顔色が変わりました!

今晩は、変な話ですみません。覚悟が要りますが、やっと報われそうです。感謝!
2025-01-17 20:52:12[投稿番号:410]

聖霊論3が始まりました!
どうして聖霊に注目するのか。
聖霊論3のクラスが今週始まりました!ご聖霊に関して、受講された皆さんとの交わりや質問などを受けながら、時々考えることがあります。
それは、聖霊の学びは「益」になるのか。どんな「益」があるのか、です。

天に帰られる直前、イエス様は弟子たちに「私が去って行くことはあなたがたの益になる」と言われ、さらに「行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします」と約束されました。「益」の中心に聖霊とその到来があることは確かです。

ヨハネの福音書を中心に、聖書的に「益」について学び、確認することができますが、これは、今までも、いろいろ説明させていただいたことなので、ここでは、より一般的に、今の私たちのクリスチャン生活においてどんな益があるか、考えてみたいと思います。

第一に、生活の中で、三位一体の神様の臨在と働きを意識しながら、御父と御子と御霊と交わりながら歩むことができるようになると思います。

第二に、聖霊の内住という現代的な奇跡を覚え、今すでに私たちひとり一人の心に来て、導いていてくださる、または導こうとしておられる聖霊を覚えて、毎日の信仰生活をすすめることができます。

第三に、すでに以前触れたように、ヨハネの神学(永遠の命をもって歩む)、パウロの神学のほとんどゴールと言える神の子どもとされ、神の子どもとして生きる恵みに深く関わり、密接なお方としての聖霊とその働きについての信仰と理解によってこの恵みが増々豊かにされていくと言えます。

最後に、宣教論的に、教会論的に、救済論的に、終末論的に、聖霊とそのお働きなしに語れないし、語れない領域があると思いますが、どうでしょうか。ハレルヤ!
2025-01-10 18:40:52[投稿番号:409]

詩篇119篇から教えられたこと
神様との交わりにおける御言葉の大切さ
新年、明けましておめでとうございます。

最近、ディボーションで、詩篇を読んでいますが、今、119篇まで来ています。ここから教えられたことをまとめてみたいと思います。

119篇の形式は「いろは歌」のようになっていて、どこを読んでも、みことば(さとし、みおしえ、おきて、ことば、仰せ、戒め)の大切さが語られています。

まず第一に、教えられたことは、詩篇の記者と神様の率直な交わりとその継続です。このような表現を取っていますが、確かに、記者と神様の交わりの緊密さには驚かされます。これが、119篇全体に及んでいます。

第二に、この交わりを前提にしながら、神様のみことば(他の色々な表現)の大切さ、不可欠さ、有用性などが繰り返し語られています。神様とみことばは一つですが、忘れてはならないことは、みことばは神様ご自身の御思いを確実に表し、神様ご自身と直結しているということです。

第三に、重なってきますが、私達が神様との交わりにおいて神様を知ろうとするとき、みことばなしに神様を知ることができないということです。それほどに、みことばは神様ご自身を語るものであり、神様はこれをよしとして、みことばを用い続けておられ、御言葉を通してご自身を表し続けておられるということです。

第四に、こうして、みことばは記者(私達)の歩みを規定しますが、58節にあるように、みことばは神様ご自身をも規定するということです。「どうか、みことばのとおりに、私をあわれんでください」とあるとおりです。したがって、私達は、「みことばに、○○があるから、○○してください」と願うことができるということです。

第五に、記者は、みことばを喜び、慕い求めているということです。なぜなら、そこに神様の御思いがあり、これをもとに、神様と交わり、歩むことができるからです。なによりも、そこに、神様の愛と憐れみが満ちているからです。

新しい一年が始まりましたが、あらためて、聖書を学び、聖書に聞くことの大切さを確認できます。聖書のみことばを通して、私達は神様とその御心を知り、喜び、生きることができます。この一年も、祈ること(私達から神様へ)とみことばに聞くこと(神様から私達へ)を大切にしていきましょう。ハレルヤ!
2025-01-03 17:53:40[投稿番号:408]