小預言書(ホセア書)を読みながら | …神様の愛の苦悩… | ディボーションで、エゼキエル書からダニエル書、そして今は、ホセア書からヨエル書を読んでいます。特に、ホセア書を読みながら、感じたことがあります。
主に、北イスラエルの裁きについての預言が続いていますが、これを読みながら、ある意味ですが、神様の混乱(預言者の混乱かも?)、苦しみ、悲しみを見ます。また、毅然とした裁き、滅びの宣言があります。しかしまた、神様の愛と憐れみ、赦しのことばがあります。回復の約束もあります。これらが、時々、繰り返されています。・・・ですから、ホセア書には構造はほとんどないかもしれないと思うほどです。
北イスラエルに対する神様の愛がなければ、これほどの苦悩はなかったのではないかと考えます。愛し、憐れんでくださるからこそ、神様は苦しんでおられます。そして、じっと、イスラエルが、悔い改めて神様のもとに戻って来るのを待っておられます。
神様の裁きは懲らしめであり、悔い改めて戻ってくるための最後の手段ではないでしょうか。親は、子どもに対して愛するがゆえに、似たような苦しみを経験します。それは、神様が全能、全知だと言っても同じでしょう。ここには、愛のゆえに苦しむ神様が描かれています。また、ホセア書の文言の背後に、神様の愛の苦しみを読みとることができます。
今、日本でも、世界でも様々な苦しみが蔓延しています。人々は苦しみ、泣いています。しかし本当は、その背後で、神様の愛の苦しみをもって悲しんでおられることを忘れてはいけないと思います。苦しみは、人間だけでなく、被造物全体だけでなく、神様も「産みの苦しみ」をしておられます。
それは、そのような悲しみや苦しみを許された神様が、私たちが悔い改めて、神様のもとに戻ってくるためでしょう。神様は、「今」を終末的な最後の日(エスカトン)としてすべての時代を終わりにすることもお出来になりますが、なお、待ち続けておられると言えます。
日本の多くの同胞は、残念ながら、苦しみのただ中で神様を見上げることができず、誰に向かって祈り求め、また悔い改めるのかを知りません。このままでいいだろうか、と考えています。
毎朝、「上に立つ権威」(ローマ13:1以下)のために祈り続けています。北朝鮮、中国、ミヤンマー、アフガニスタン、パレスチナ、ウクライナ、これらに関わるリーダーたちのために祈っています。
御父の愛の苦悩、御座での御子のとりなし、内住の御霊のうめきを覚えながら、神様の最善を求めて、祈り続けていきたいと思います。 | 2024-03-08 17:30:18[投稿番号:363] |
私塾の春学期に向かって! | 一年を振り返って | 3月に入りましたので、私塾の一年の歩みを振り返りながら、春学期の準備をしています。一年に四学期、どの学期にも、塾生の皆さんが与えられて、こうしてともに一年学び続けることができ、感謝しています。
この一年を通して、持つことができたクラスは、聖霊論?、聖霊論?、霊性、終末論、聖書解釈(新約)、聖書解釈(旧約)、終末論、ヨハネの福音書、牧会学+アルファです。聖霊論や霊性などは繰り返しクラスをもちました。
新しい一年(4月から)は、どうなるでしょうか。最低限の宣伝はしますが、後は、神様が送って下さる方を待ち、クラスが成立しなければ、その分、ゆっくり休もうと思っています。
ズームですが、それでも皆さんと一緒に学ぶことの楽しさを感じます。出し下さる「質問」がいいですね。チャレンジになる質問もありますし、頭のよい体操になります。忘れていたことなどを思い出させてくれます。また、それらがよい刺激となって、新しいことを発見したり、教えられたりします。
他の分野についてはともかく、神様(のみことば)の分野で最後まで、学び続けることの幸いは大きいですね。また、皆さんと共に学び、分かち合うことできることは素晴らしい恵みです。
私も、最初の神学校を卒業して47年になりますが、それ以来、いろいろな方々を通して学び、教えられ続けて来ましたので、この恵みをお返しできればと願っています。
いつ、この塾の働きが終わるか分かりません。また、いつ神様からの「召し」が終わるか分かりませんが、新しい一年も、神様がお許しになる間、私塾をつづけさせていただきたいと願っています。ハレルヤ! | 2024-03-01 20:33:51[投稿番号:362] |
最近の学びから教えられたこと | エゼキエル36章と37章について | 最近、ディボーションでエゼキエル書を学んでいますが、後半の33章から39章は、特に教えられることが多くあります。
その一つとして、36章と37章があります。以前は、36章と37章を別々に読んでいたのですが、この二つ、36章26,27節前後と37章の幻が一つであることに気づきました。「遅い」と言われるかもしれませんが。。。37章のイスラエルの回復の幻はよく知られていますが、私はいつのまにか、この幻が「イスラエル民族の存在的回復」と考えるようになっていました。昔、この箇所の映画を見たこともありました(ムーディーの映画)。映画の影響か、とにかく、イスラエルの民の存在的回復が預言され、約束され、1948年のイスラエルの国家再建で、これが成就したと考えていたようです。
しかし、36章と合わせて考えてみますと、この幻預言は、単なるイスラエルの存在回復の預言ではなく(これも否定しませんが)、何よりも、イスラエルの霊的刷新の預言と考えるべきだということです。37章14節も、39章29節もそうです。
それは、33章から39章まで、何よりも、イスラエルの悔い改めと聖霊の注ぎがカギとして語られ、このことによって、イスラエルは真に「新しい契約」の民とされ、新しい存在として神のものとして歩んでいくことになるからです。
私は、37章の幻預言について、あまりにも、イスラエルの存在的回復ばかりを見ていて、真の霊的な回復について、36章から37章を読んでいなかったことに気づかされました。
現在のイスラエルの国とその存在が、この37章の預言とどれくらい関係しているか分かりませんが、真の存在的回復のためには、悔い改めと御霊の傾注が不可欠であることが分かります。
一つの適用として、私自身にとっても、悔い改めと聖霊の注ぎは不可欠であることを教えられました。感謝いたします。ハレルヤ! | 2024-02-23 18:05:34[投稿番号:361] |
「交わり」って何でしょう? | 最近考えていることから… | 今やっています私塾のクラスの一つに「牧会学+(プラス)」がありますが、その中で、今、「(教会の)交わり」について考えています。
教会はオリンピックと違うので、ただ「参加すればいい(行けばいい)」というものではないでしょう。やはり、教会の存在にとって、「まじわり」は必須のものと言えます。
では、「交わり」とは何でしょうか。旧約時代において、特に、モーセの時代に神様がイスラエルの民と契約を結ばれましたが、その時から、神の民としての交わりが始まったと言えるでしょう。もちろん、それ以前にも、いつでもどこでも、交わりはありましたが。。。
新約時代において、弟子たちがイエス様に召された時から、キリストの弟子としての交わりが始まったと言えます。私たちも、神様を信じて、キリストのからだなる教会に入れられた時から、交わりが始まりました。また、「交わり」は、人格的なものであり、様々な面で触れあうものなので、目に見えない教会の交わりというよりも、目に見える、個々の教会における交わりを考えることになると思います。
オンラインの交わりはありますが(私も、塾でズームを使って経験していますが)、やはり、これは、補助的な交わりと言った方がよいと思います。
さて、「交わり」とは何でしょうか。いろいろ考えました。自分自身の子どもの時から今に至るまで(大げさに書きました)。教会の内外の交わりについても考えました。
いろいろ考えて、私自身の結論は、「交わり」は、神様の恵みだということです。交わりは、伝統ではない。決まり(ルール)ではない。強制ではない。・・・ない、ない、ない。「交わり」は、神様からの恵みです。
確かに、その中に、(現実的に言えば)訓練があったり、努力や忍耐、苦しみもありますが、恵みです。
まず、神様との交わりについては明らかです。詩篇の記者たちが神殿や神様の大庭について賛美している通りです。
では、兄弟姉妹との交わりはどうでしょうか。神殿や大庭に、他の人がいない訳ではありませんが、中心は神様との交わりです。私は、やはり、まずエデンの園について考えたいです。神様がおられ、そこにアダムとエバがいたからです。永遠のいのち(の木)がありましたので、神様との交わりも、お互いの交わりも、豊かに命に溢れていたのではないでしょうか。交わりは恵みです!
教会の交わりも恵みです。もちろん、先に言いましたように、訓練もあります。また、教会は、エデンの園のようで、また同時に、エデンの東に属しています。神様にあるパラダイスはまだです(Already, but not yet)。
教会の交わりは恵みです。イエス様がかしらであり、ご聖霊は充満しておられ、「神の宮」としていてくださるからです。神様との交わりがありますし、この恵みの交わりに立って、兄弟姉妹との交わりがありますから、これは恵みです。
課題はいっぱいあります。どうしたら、教会の交わりを「交わり」とするかです。いろいろな現実がありますが、その中で、神様にある、互いの交わりの恵みを味わっていきたいのです。
とにかく、このような恵みを作り、備えてくださった神様の御名を賛美します。ハレルヤ! | 2024-02-16 18:32:46[投稿番号:360] |
約55年間の信仰生涯 | エゼキエル16章6節から | ディボーションの中で、次の一節を読んだとき、これまでの信仰生涯が思い出されました。
「わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、わたしは血に染まったあなたに「生きよ」と言い、血に染まったあなたに、繰り返して「生きよ」と言った。わたしはあなたを野原の新芽のように育て上げた。」
正確な数字は覚えていませんが、早く産まれたため、確か2000グラムもなかったと聞いています。いつ死んでもしかたがないと思われていたようですが、生き続けることができました(もちろん、今のような保育器はありませんでした)。
そして高校2年の9月に宿題をやるために、初めて教会に行きましたが、それから人生の虚しさの答えを求めて、教会に続けていくようになりました。こうして、55年前の冬の夜、神様のほうから声をかけて下さいました。「あなたは罪人です。・・・そういうあなたを愛しています」
クリスチャンとして生きるようになりましたが、一年も経たないうちに、「人間をとる漁師」としての召しをもらい、それから、牧師伝道者になる道を進んでいきました。神学校を卒業後、田舎に戻り、牧師として働きましたが、その時は、25歳でした。ですから、牧師になってから、47年が過ぎたことになります。
なぜ、こんなことを書いたかと言いますと、振り返ってみて、私自身が神様に向かって何か特別なことをしたというのではなく、より重要なことについては、神様のほうから、私に向かっていろいろなことをしてくださったことに気づいたからです。
たぶん、二か月ほどの早産の子どもでしたが、生き延びることができました。神様のほうから「声」をかけてくださり、救われることができました。神様のほうから、選び、導いて、「人間をとる漁師」に召してくださいました。もちろん、私のほうからもいろいろ考え、いろいろ決心し、行いましたが、やはり、神様の側からの働きかけが確かにあったし、これが大きかったと言えます。カナダに留学に行く時も、これも、自分のほうから神様の求めたとか、お尋ねしたのではありませんでした。神様のほうから明らかにされたと思っています。
私が、あまりにも鈍感で、神様のみこころに気づくことに鈍かったので、神様のほうからイニシアティブをとってくださったのかもしれません。そんなことを考えています。神様の方法はいろいろですし、みこころの求め方(聞き方)もいろいろですから、一つに絞り、またそれだけを期待することはできませんが、これからも、神様の側からの働きかけに期待しながら、歩んでいきたいと思っています。
お読みくださり、感謝いたします。すべての導き手である神様にハレルヤ!! | 2024-02-09 17:38:47[投稿番号:359] |
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神様からの召しについて | ディボーションの中で教えられたこと | 最近は、神様からいただいている奉仕や召しについて考えることがよくあります。前回もそうでしたが、今回も、神様からの召しについて教えられたことをお分かちさせてください。
これまで、ディボーション箇所として、新約のパウロ書簡に絞って、繰り返し繰り返し読んで来ました。何度、読んでも教えられるし、何度読んでも分からない箇所(難しいか箇所)が出てきました。
さて、最近、ローマ書が終わりましたので、どこにしようか考え、久しぶりに旧約を開くことにしました。さらに考えて、行く着いたところは、エゼキエル書でした。
でも、面白いですね。いろいろと教えられることが出てきました。エゼキエルはもともと祭司でしたが、神様の特別な導きによって、預言者として立てられたのです。しかも、反逆のイスラエルに送ると神様は言っておられます。大変な時代(バビロン捕囚の時代)で、エゼキエル自身も、捕囚の民イスラエルと共に、バビロンに行ったのです。ですから、置かれている時代も大変、置かれている場所も大変、預言者として遣わされ、エゼキエルのことばを聞くことになっている民も大変でした。不信仰で、頑なで、結局、裁きによってバビロンに来た人々です。
ただ教えられたことは、私たちは自分の置かれている時代、場所、人々の間で神様に仕え、神様のみことばを語るだけであるということです。人々が語ることばをよく聞いてくれるか聞いてくれないかは二の次です。神様が遣わしておられるなら、それが、私(たち)の「場」であるということです。あとは神様次第であり、それが、「召し」というものでしょう。
私は、召しの場所や召しの人々について、条件を付けてしまいますが、私にとって大切なことは、神様の召しを知って、ただ召しに応答するだけであることを知らされました。
もちろん、こんな老体に向かって、神様が召されるならばですが。。。生かされている限り、献身を新しくしながら、神様に仕え続けていくことの大切さ、そしてそれが、一番幸いであることを確認しました。ハレルヤ! | 2024-02-02 17:53:05[投稿番号:357] |
ご奉仕について | 今朝のディボーションから | 最近、自分自身の奉仕について考えるようになりました。あと、どれくらい牧師として奉仕を続けられるか。教団の退職年齢(75歳)もありますし、知的身体的能力もあります。そして何よりも、神様はどんなふうに考えておられるのか、いろいろ考え、祈っています。
教団の規約というある種の枠組みは、ある意味で捨て、自由になりました。カナダから戻って29年になりますが、その時から、ずっと教団の枠組みを受け入れ(ある意味で、神様のみこころとして)、その中を無意識に(?)歩んで来ました。しかし、少し前に「ハッ」としました。教団の規約イコール神様のみこころではなかったのです。それから、「自由」になりました。もちろん、規約を破るつもりはありませんが、残された人生について、自由に考え、祈るようにしました。
もちろん、「自由」は簡単なものではありません。「自由」だからこそ、一歩一歩に祈り、神様の御心と信じる道を歩んでいくことを意味します。
今朝のディボーション箇所にこのようにありました。ローマ15:15-16「私は、神が与えてくださった恵みのゆえに、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。」
ある意味で、パウロは牧師であり、教師であり、伝道者、預言者でした。しかし、ここで注目したのは、「祭司」という言葉です。祭司も、旧約時代に語る人、教える人でしたが、ここでパウロは、自分の働きについて、「異邦人を捧げものとして捧げる祭司の働き」をしていると言っています。
私も、牧師、伝道者、教師の働きをさせていただいて来たのですが、もう一度、「祭司」としての働きがあることを教えられました。働きのすべてを、神様に捧げていくのです。これも、奉仕のあり方として、大切な要素、忘れてはいけないことであると思います。感謝します。ハレルヤ! | 2024-01-26 18:04:02[投稿番号:356] |
私塾:冬期(1?3月)について | | 1月の第二週から、私塾がまた始まりました。今回は、三つのクラス(牧会学、聖霊論1,ヨハネの福音書)を始めることができました。
聖霊論1は、昨年と同じですが、牧会学とヨハネの福音書は初めての試みです。きょうは、牧会学とヨハネの福音書の様子について書かせていただきたいと思います。
牧会学に関しては、これまでに、実際に牧会をしておられる牧師さんたちのために担当したことがありますし、現在も、「若手?牧師会」の中で、いろいろ牧会についてお話をさせていただいています。しかし、今回は、これから牧会などの奉仕に入ろうとしておられる神学生の皆さんのための牧会学なので、内容についても、前もっていろいろ考えなければなりません。まだ一回しかやっていませんが、実践的な教会論に基づく牧会学になればと考えています。
主に、アメリカのトリニティ神学校で学んだことと、牧師になって約47年になりますので、この間教えられたことなどを混ぜ合わせています。参加者のひとり一人が、自分なりの「牧会像」(牧会哲学)を描いていくための助けになればと願っています。
もう一つのクラスは、ヨハネの福音書です。資料がいろいろありますので、これを使いながら、クラスを進めているところです。参加者の皆さんに、どうしてヨハネの福音書の学びを選ばれたか、お聞きしたのですが、大部分の兄姉は、新約27巻の中でヨハネの福音書が大好きであると言っておられました。私も好きですが、びっくりしました。
学び方としては、顕微鏡的に細かく読むことと同時に、望遠鏡的(?)に全体を見ながら読むことを大切にしていきたいと思っています。また、単なる学びで終わらないで、これも神様のみことばの一つなので、解釈と適用も、強調したいと思っています。
今回、ヨハネの福音書のクラスの中で教えられたことがあります。ある方の質問を通して確認できたことですが、ヨハネには、他の共観福音書のように、イエス様のヨルダン川での経験が書かれていないということです。これを前提にして、1章29節から、ただバプテスマのヨハネの証言が書かれているということです。他の共観福音書とヨハネの福音書の違いと言えばそうなのですが、ここにも、記者ヨハネの神学的強調があるように思いました。
もう一つは、2章13節以下の記事です。これもある方の質問が契機となりましたが、ここにはすでに、記者ヨハネによって、御子の十字架と復活のメッセージが含められていることが分かりました。ヨハネの福音書においては、まだ2章ですが、すでにここに、御子の生涯の終わりに起こる十字架と復活についての言及があるのです!!これが、ヨハネの手法であるとも言えます。ヨハネはいつも、今のイエス様と終わりの時のイエス様を見ていると言えるでしょう。
牧会学もヨハネ書も、ある意味で、私にとっても初めてクラス経験ですが、いろいろ考えながら、教えられながら、進めていきたいと思っています。ハレルヤ! | 2024-01-19 20:33:32[投稿番号:355] |
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