「交わり」って何でしょう? | | 最近考えていることから… | 今やっています私塾のクラスの一つに「牧会学+(プラス)」がありますが、その中で、今、「(教会の)交わり」について考えています。
教会はオリンピックと違うので、ただ「参加すればいい(行けばいい)」というものではないでしょう。やはり、教会の存在にとって、「まじわり」は必須のものと言えます。
では、「交わり」とは何でしょうか。旧約時代において、特に、モーセの時代に神様がイスラエルの民と契約を結ばれましたが、その時から、神の民としての交わりが始まったと言えるでしょう。もちろん、それ以前にも、いつでもどこでも、交わりはありましたが。。。
新約時代において、弟子たちがイエス様に召された時から、キリストの弟子としての交わりが始まったと言えます。私たちも、神様を信じて、キリストのからだなる教会に入れられた時から、交わりが始まりました。また、「交わり」は、人格的なものであり、様々な面で触れあうものなので、目に見えない教会の交わりというよりも、目に見える、個々の教会における交わりを考えることになると思います。
オンラインの交わりはありますが(私も、塾でズームを使って経験していますが)、やはり、これは、補助的な交わりと言った方がよいと思います。
さて、「交わり」とは何でしょうか。いろいろ考えました。自分自身の子どもの時から今に至るまで(大げさに書きました)。教会の内外の交わりについても考えました。
いろいろ考えて、私自身の結論は、「交わり」は、神様の恵みだということです。交わりは、伝統ではない。決まり(ルール)ではない。強制ではない。・・・ない、ない、ない。「交わり」は、神様からの恵みです。
確かに、その中に、(現実的に言えば)訓練があったり、努力や忍耐、苦しみもありますが、恵みです。
まず、神様との交わりについては明らかです。詩篇の記者たちが神殿や神様の大庭について賛美している通りです。
では、兄弟姉妹との交わりはどうでしょうか。神殿や大庭に、他の人がいない訳ではありませんが、中心は神様との交わりです。私は、やはり、まずエデンの園について考えたいです。神様がおられ、そこにアダムとエバがいたからです。永遠のいのち(の木)がありましたので、神様との交わりも、お互いの交わりも、豊かに命に溢れていたのではないでしょうか。交わりは恵みです!
教会の交わりも恵みです。もちろん、先に言いましたように、訓練もあります。また、教会は、エデンの園のようで、また同時に、エデンの東に属しています。神様にあるパラダイスはまだです(Already, but not yet)。
教会の交わりは恵みです。イエス様がかしらであり、ご聖霊は充満しておられ、「神の宮」としていてくださるからです。神様との交わりがありますし、この恵みの交わりに立って、兄弟姉妹との交わりがありますから、これは恵みです。
課題はいっぱいあります。どうしたら、教会の交わりを「交わり」とするかです。いろいろな現実がありますが、その中で、神様にある、互いの交わりの恵みを味わっていきたいのです。
とにかく、このような恵みを作り、備えてくださった神様の御名を賛美します。ハレルヤ! | | 2024-02-16 18:32:46[投稿番号:360] |
約55年間の信仰生涯 | | エゼキエル16章6節から | ディボーションの中で、次の一節を読んだとき、これまでの信仰生涯が思い出されました。
「わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、わたしは血に染まったあなたに「生きよ」と言い、血に染まったあなたに、繰り返して「生きよ」と言った。わたしはあなたを野原の新芽のように育て上げた。」
正確な数字は覚えていませんが、早く産まれたため、確か2000グラムもなかったと聞いています。いつ死んでもしかたがないと思われていたようですが、生き続けることができました(もちろん、今のような保育器はありませんでした)。
そして高校2年の9月に宿題をやるために、初めて教会に行きましたが、それから人生の虚しさの答えを求めて、教会に続けていくようになりました。こうして、55年前の冬の夜、神様のほうから声をかけて下さいました。「あなたは罪人です。・・・そういうあなたを愛しています」
クリスチャンとして生きるようになりましたが、一年も経たないうちに、「人間をとる漁師」としての召しをもらい、それから、牧師伝道者になる道を進んでいきました。神学校を卒業後、田舎に戻り、牧師として働きましたが、その時は、25歳でした。ですから、牧師になってから、47年が過ぎたことになります。
なぜ、こんなことを書いたかと言いますと、振り返ってみて、私自身が神様に向かって何か特別なことをしたというのではなく、より重要なことについては、神様のほうから、私に向かっていろいろなことをしてくださったことに気づいたからです。
たぶん、二か月ほどの早産の子どもでしたが、生き延びることができました。神様のほうから「声」をかけてくださり、救われることができました。神様のほうから、選び、導いて、「人間をとる漁師」に召してくださいました。もちろん、私のほうからもいろいろ考え、いろいろ決心し、行いましたが、やはり、神様の側からの働きかけが確かにあったし、これが大きかったと言えます。カナダに留学に行く時も、これも、自分のほうから神様の求めたとか、お尋ねしたのではありませんでした。神様のほうから明らかにされたと思っています。
私が、あまりにも鈍感で、神様のみこころに気づくことに鈍かったので、神様のほうからイニシアティブをとってくださったのかもしれません。そんなことを考えています。神様の方法はいろいろですし、みこころの求め方(聞き方)もいろいろですから、一つに絞り、またそれだけを期待することはできませんが、これからも、神様の側からの働きかけに期待しながら、歩んでいきたいと思っています。
お読みくださり、感謝いたします。すべての導き手である神様にハレルヤ!! | | 2024-02-09 17:38:47[投稿番号:359] |
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神様からの召しについて | | ディボーションの中で教えられたこと | 最近は、神様からいただいている奉仕や召しについて考えることがよくあります。前回もそうでしたが、今回も、神様からの召しについて教えられたことをお分かちさせてください。
これまで、ディボーション箇所として、新約のパウロ書簡に絞って、繰り返し繰り返し読んで来ました。何度、読んでも教えられるし、何度読んでも分からない箇所(難しいか箇所)が出てきました。
さて、最近、ローマ書が終わりましたので、どこにしようか考え、久しぶりに旧約を開くことにしました。さらに考えて、行く着いたところは、エゼキエル書でした。
でも、面白いですね。いろいろと教えられることが出てきました。エゼキエルはもともと祭司でしたが、神様の特別な導きによって、預言者として立てられたのです。しかも、反逆のイスラエルに送ると神様は言っておられます。大変な時代(バビロン捕囚の時代)で、エゼキエル自身も、捕囚の民イスラエルと共に、バビロンに行ったのです。ですから、置かれている時代も大変、置かれている場所も大変、預言者として遣わされ、エゼキエルのことばを聞くことになっている民も大変でした。不信仰で、頑なで、結局、裁きによってバビロンに来た人々です。
ただ教えられたことは、私たちは自分の置かれている時代、場所、人々の間で神様に仕え、神様のみことばを語るだけであるということです。人々が語ることばをよく聞いてくれるか聞いてくれないかは二の次です。神様が遣わしておられるなら、それが、私(たち)の「場」であるということです。あとは神様次第であり、それが、「召し」というものでしょう。
私は、召しの場所や召しの人々について、条件を付けてしまいますが、私にとって大切なことは、神様の召しを知って、ただ召しに応答するだけであることを知らされました。
もちろん、こんな老体に向かって、神様が召されるならばですが。。。生かされている限り、献身を新しくしながら、神様に仕え続けていくことの大切さ、そしてそれが、一番幸いであることを確認しました。ハレルヤ! | | 2024-02-02 17:53:05[投稿番号:357] |
ご奉仕について | | 今朝のディボーションから | 最近、自分自身の奉仕について考えるようになりました。あと、どれくらい牧師として奉仕を続けられるか。教団の退職年齢(75歳)もありますし、知的身体的能力もあります。そして何よりも、神様はどんなふうに考えておられるのか、いろいろ考え、祈っています。
教団の規約というある種の枠組みは、ある意味で捨て、自由になりました。カナダから戻って29年になりますが、その時から、ずっと教団の枠組みを受け入れ(ある意味で、神様のみこころとして)、その中を無意識に(?)歩んで来ました。しかし、少し前に「ハッ」としました。教団の規約イコール神様のみこころではなかったのです。それから、「自由」になりました。もちろん、規約を破るつもりはありませんが、残された人生について、自由に考え、祈るようにしました。
もちろん、「自由」は簡単なものではありません。「自由」だからこそ、一歩一歩に祈り、神様の御心と信じる道を歩んでいくことを意味します。
今朝のディボーション箇所にこのようにありました。ローマ15:15-16「私は、神が与えてくださった恵みのゆえに、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。」
ある意味で、パウロは牧師であり、教師であり、伝道者、預言者でした。しかし、ここで注目したのは、「祭司」という言葉です。祭司も、旧約時代に語る人、教える人でしたが、ここでパウロは、自分の働きについて、「異邦人を捧げものとして捧げる祭司の働き」をしていると言っています。
私も、牧師、伝道者、教師の働きをさせていただいて来たのですが、もう一度、「祭司」としての働きがあることを教えられました。働きのすべてを、神様に捧げていくのです。これも、奉仕のあり方として、大切な要素、忘れてはいけないことであると思います。感謝します。ハレルヤ! | | 2024-01-26 18:04:02[投稿番号:356] |
私塾:冬期(1?3月)について | | 1月の第二週から、私塾がまた始まりました。今回は、三つのクラス(牧会学、聖霊論1,ヨハネの福音書)を始めることができました。
聖霊論1は、昨年と同じですが、牧会学とヨハネの福音書は初めての試みです。きょうは、牧会学とヨハネの福音書の様子について書かせていただきたいと思います。
牧会学に関しては、これまでに、実際に牧会をしておられる牧師さんたちのために担当したことがありますし、現在も、「若手?牧師会」の中で、いろいろ牧会についてお話をさせていただいています。しかし、今回は、これから牧会などの奉仕に入ろうとしておられる神学生の皆さんのための牧会学なので、内容についても、前もっていろいろ考えなければなりません。まだ一回しかやっていませんが、実践的な教会論に基づく牧会学になればと考えています。
主に、アメリカのトリニティ神学校で学んだことと、牧師になって約47年になりますので、この間教えられたことなどを混ぜ合わせています。参加者のひとり一人が、自分なりの「牧会像」(牧会哲学)を描いていくための助けになればと願っています。
もう一つのクラスは、ヨハネの福音書です。資料がいろいろありますので、これを使いながら、クラスを進めているところです。参加者の皆さんに、どうしてヨハネの福音書の学びを選ばれたか、お聞きしたのですが、大部分の兄姉は、新約27巻の中でヨハネの福音書が大好きであると言っておられました。私も好きですが、びっくりしました。
学び方としては、顕微鏡的に細かく読むことと同時に、望遠鏡的(?)に全体を見ながら読むことを大切にしていきたいと思っています。また、単なる学びで終わらないで、これも神様のみことばの一つなので、解釈と適用も、強調したいと思っています。
今回、ヨハネの福音書のクラスの中で教えられたことがあります。ある方の質問を通して確認できたことですが、ヨハネには、他の共観福音書のように、イエス様のヨルダン川での経験が書かれていないということです。これを前提にして、1章29節から、ただバプテスマのヨハネの証言が書かれているということです。他の共観福音書とヨハネの福音書の違いと言えばそうなのですが、ここにも、記者ヨハネの神学的強調があるように思いました。
もう一つは、2章13節以下の記事です。これもある方の質問が契機となりましたが、ここにはすでに、記者ヨハネによって、御子の十字架と復活のメッセージが含められていることが分かりました。ヨハネの福音書においては、まだ2章ですが、すでにここに、御子の生涯の終わりに起こる十字架と復活についての言及があるのです!!これが、ヨハネの手法であるとも言えます。ヨハネはいつも、今のイエス様と終わりの時のイエス様を見ていると言えるでしょう。
牧会学もヨハネ書も、ある意味で、私にとっても初めてクラス経験ですが、いろいろ考えながら、教えられながら、進めていきたいと思っています。ハレルヤ! | | 2024-01-19 20:33:32[投稿番号:355] |
聖霊の交わり(2コリント13:13) | | ピリピ2:1(御霊の交わり)、その他 | 2コリント13章13節の「聖霊の交わり」における「の」の意味について。
47年前の卒論のテーマは、「コイノニア:キリストの交わり、聖霊の交わり」でした。可能性として、キリストが与えて下さった交わり、聖霊が与えて下さった交わりもありましたが、結論は、いずれも、キリストとの交わり、聖霊との交わりでした。
これを思い出しながら、あらためて「聖霊の交わり」について考えておりました。キリストとの交わりは、まだ想像しやすいのですが、聖霊との交わりは具体的になんだろうか。
ちょうど、今朝のディボーション箇所が、ローマ8章26-30節で、これまでの文脈を大切にしながら読んで行きました。すると、これまで、何度も読んで来た箇所ですが、これまで以上に文脈的に読むことができ、しかも、あらためて、26節を味わうことができました。非常に苦しい今の時代において、弱い私たちを助けて下さる聖霊、祈りをも助けて、うめいていてくださることを改めて考えました。
私達の為に、または私達の代わりに、とりなし、うめいていてくださることを知りました。そうして、この御霊の執成しの祈りと導きによって、どんなことが起こるのかについても知ることができました。それが、28節以下にあるとおりです。
分かったことは、ここに正に、聖霊との交わりの具体的な内容があるということです。弱い私達の為にとりなしてくださる。祈りを助け、呻いておられる。私達のために、私達の代わりに。
8章15-16節にも、すこし、聖霊との交わりの内容がありますが、26節以下にもあることを知りました。もう少し、厳密に注意しながら、26?30節までを学んでみたいと思います。
御霊との交わりがあることを信じます。とりなし、呻いていて下さるお方が内住していてくださいます。ハレルヤ! | | 2024-01-12 17:55:27[投稿番号:354] |
病気とスピリチュアリティ(霊性) | | コロナに感染しました! | クリスマス前にインフルエンザに罹りましたが、今週、またコロナであることが分かりました。この約4年間、コロナとインフルエンザから守られてきましたが、年末年始、一挙に、二つの病気がまとめて、やって来た感じです。
病気になると普段考えないことをイロイロ考えますね。ちゃんと考えていることか、悪夢か区別がつかない場合もあります。これから書かせていただきますのは、そのつづきかもしれません。
病気になって分かったことは、私のスピリチュアリティは随分、応答的で、行動的であるということでした。病気になり、熱で苦しんでいる時、当然ですが、何もできませんでした。私にとっての理想的な霊性(そういうあり方)を実行する事が全くできなくなりました。ほとんど毎日つづけている個人聖研もストップしました。お祈り散歩もできませんでした。
考えたことは、「熱?」のことや熱で「苦しんでいる自分」のことばかり。時に、この苦しみに終わりはないかもしれないと恐れることもありました。「神様助けて下さい」と祈っても、ちゃんとした祈りになっていません。いつも祈っている祈りの言葉を発しても、途中で切れてしまいます。
やっと熱が下がってきて落ち着いてきた時、病気と霊性について考えてみました。考えられるようになりました。もしあるとしたら、病気の時の霊性とは、三位一体の神様が全て、私の応答なしに、取り囲んでいてくださること、ただこれを信じること、委ねることと言えるでしょう。私がどうであるか、何をしているか、どれだけ応答しているかではありません。
全く、一方的に、天的に共いて、取り囲んでいてくださるというめぐみです。それだけです。それがすべてではないでしょうか。
特別なことは書けませんでした。
熱が下がって来て、次のステップは、いつ、どのようにして、いつもの応答的、行動的霊性に切り替えていくかでした。
果たして、真の霊性とは何でしょうか。病気であっても、病気でなくても。あらためて、神様との交わりを大切にしながら生きているとはどういうことか、考えています。これからも、考え続けていくことになりそうです。
新しい一年、どうぞよろしくお願いいたします。ハレルヤ! | | 2024-01-05 19:39:04[投稿番号:353] |
今年もあと二日です。 | | 御子と御霊について | 2023年もあとわずかになりました。『舟の右側』の連載も、パウロの聖霊になったこともあって、より正しく、より詳細に学びを進めることになりました。これまで、パウロ書簡の学びは難しい箇所が多くあったので、後回しにしてきた箇所もいろいろあったように思います。今回は、詳細に解釈しながら、聖霊について学びたいと思っています。たぶん、これが、最後の学びになるだろうと思っています。
さて、最近読んだ聖書箇所(2コリント書)から、御子と御霊の関係について考えることがありましたので、以下に書かせていただきたいと思います。私にとって、パウロにおける御子と御霊の関係は重大なことです。
聖書箇所は、2コリント5章4節以下です。「確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって?み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。」
パウロは、今の生活と後の天的な生活を比較しています。やがて始まる天的な生活を切望しながら、今の生活において「うめいている」と言っています。
ここで注目したいのは、このような状況において、御子と御霊のことがどのように語られているかです。パウロによれば、御霊は、天的な保証として今、自分たちに与えられているので、「いつも心強い」と言っています。
しかし、パウロと御子の関係については、今の状況において「主から離れている」(6節)と告白しているのです。しかも、続けて、7節で、「信仰によって歩んでいる」と語っています。
つまり、御霊は、今の地上のうめきの生活をしているパウロたち(の心)に来ておられるが(内住)、御子は、天におられて「離れておられる」と言っているのです。しかし、「信仰によって歩んでいる」と言い、だからまた、「心強い」とも言っています(8節)。
ここは、さらに詳細に学ぶ必要がありますが、パウロには、二重の意味で「心強い」と言っているようです。一つは、確かに今、聖霊は保証として来ておられるからです(聖霊の内住の恵み)。もう一つは、御子は、天におられて、今の自分たちからは、物理的に離れておられるのであるが(これを知り、認めている)、それでも信仰によって歩むことによって、心強いというのです。
御霊については、今の自分たちと共におられる(内住)と言えますが、御子については、物理的には、今の自分たちと離れておられますが、信仰によって歩むことができると言っています。
私たちは、間もなく、新しい年を迎えますが、御子と御霊によって、二重の「心強さ」をいただいて歩むことができるです。一体、新しい一年はどんな年になるでしょうか。平和の改善がみられるでしょうか。もっと恐ろしい時代になるでしょうか。
どちらであっても、私たちには、御子と御霊のゆえに、二重の励ましをいただいて歩むことが許されていると言えます。
新しい年も、変わることのない神様とそのみことばによって歩ませていただきましょう。皆さん、この一年、お読みくださり感謝いたします。ハレルヤ! | | 2023-12-29 18:04:20[投稿番号:352] |
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