お祈りを感謝いたします。
ブログに書こうか、どうしようか、ずいぶん迷いましたが、小さなことではないので、少しだけ書かせていただくことにしました。

今週、「生体検査」の結果が出て、ステージ1であることが分かりました。経過観察か、手術か、放射線治療か、選ぶことになります。また、その前に、9月初めに転移がないか検査をすることになりました。

ご心配をおかけしてはいけませんので付け加えますと・・・自分で言うのもなんですが、落ち着いておりますし、今までと全く変わらない生活をつづけております。神様への信仰、信頼のせいか、それとも、「ステージ1」だからという変な安心感から分かりませんが、皆さん、大丈夫ですので、ご安心ください。

私の先輩たちや同年代の仲間たちの中で、少しずつ、天に召される兄姉の数が増えつつありますが、年齢的に、また癌的に(変なことばですが敢えて使いました)、2重に自分の生涯の終わりの「時」をこれまで以上に意識できることは感謝です。これまでは、年齢的にだけでしたが、癌をいただくことによって、さらに考えられるようになりました。

できれば、限られた歩みの中で、神様から委ねていただいた使命や働きをよりよく全うできればと考えております。
教会の奉仕も、ご聖霊についての学びも、「若手?牧師会」や「塾」の学びも、許される限り、続けていくことができれば幸いです。

ブログに書きながら、変なお願いですが、絶対ではありませんが、できるだけ、他言無用でお願いします。

皆さんのお祈りを感謝いたします。これからも、たぶん、変わらないとおもいますが(しばらくは・・・)、よろしくお願いいたします。ハレルヤ!
2024-08-16 19:58:16[投稿番号:387]

「御名」で祈れる幸い
難しさと素晴らしさ
今週の礼拝では、ヨハネの14‐16章にあるイエス様の遺言の一つから、祈りについて教えられた。テーマは、「み名で祈りなさい」でした。
メッセージの中でも繰り返しお話しましたが、これは、ただ私たちの祈りの言葉の最後に「イエス様のお名前で祈ります」ということではない。
もっともっと根本的で聖霊的なことです。「み名」は、この地上におけるイエス様の生ける臨在と言えますので、み名で祈ることは、御子と交わり、御子と一つになって祈ることと言えます。ほとんど、「永遠の命の交わり」と呼んでも間違いではないと思います。

とにかく、御子(と御父と御霊)との交わりの中で祈ることです。ですから、自分勝手な祈りは少なくなるはずです。もちろん、それでも、私達の思いは限られており、罪人のかしらなので、私の今の祈りは神様(イエス様)のみこころと完全に一つであるとは言えないでしょう。

「み名」で祈ることの限界や難しさがあります。これを認めて祈ることが大切です。しかし他方で、御子と御霊によって、私達が、み名で祈ることができるように、全て備えられていることも事実です。御子の十字架によって、御霊の臨在、助け、とりなし(うめき)によって、導かれて祈ることができるようにされている恵みは確かにあります。

「み名」で祈ることは、ただお願いの祈りをすることではないでしょう。ですから、それがすぐに聞かれたか、どうかでもありません。み名で祈ること、祈れることの中心的なことは、また、その幸いは、御子との交わり、御父、御霊との交わりがあるということです。

きょうも、御父と御子と御霊と交わりながら祈る喜び、幸いがあります。その中から、何を祈るか、また祈って何をすべきか、出て来るのではないでしょうか。

まとまりがありませんが、み名で祈ることの難しさや限界を認めながらも、み名で祈れる、み名の中で交われることの幸いを強調したいと思います。ハレルヤ!
2024-08-09 18:01:10[投稿番号:386]

今、毎日へブル書を読んでいます。
御子と御霊について
ディボーションでは、パウロ書簡が終わったので、今は、へブル書7章まで来ています。毎日の糧として読むことと、その中で、御子と御霊について意識して考えるようにしています。

へブル書ももちろん、三位一体ですが、それでも、へブル書は特に、キリスト論が中心、ほとんどすべてがイエス様のことを語っていると言えます。よく読んでいきますと、すでに1章から、キリスト中心で、特に、天の御座におられるキリスト、大祭司イエス様のことがずっと意識され、書かれています。あらためて読んでみて、びっくりするくらい、このことが徹底しています。

しかも、付け加えておきたいことは、御子がおられる天の御座は非常に「近い!」ということです。もちろん、今の私たちがいる地上とは絶対的な区別がありますが、しかしそれでも、その上で、教えられることは、御子がおられる天の御座は「近い!」ということです。

例えば、4章14‐16節を読んでみてください。大胆に恵みの御座に近づくことができます。しかも、折にかなった助けがあたえられるのです。つまり、タイムリーな助けが与えられるのです。これは、私たちにとってのタイムリーというより、神様の前にタイムリーということです。ハレルヤ!

さて、いつものように、ご聖霊についても考えてみました。聖霊のことについて何も書かれていないのではありません。特に、注目したことを二つ取り上げたいと思います。

一つは、3章7節(9章8節、10章15節)です。ここでの聖霊の働きは、昔、旧約時代に語られたみことばを後の時代(へブル書が書かれた時代、今の私たちの時代)に持って来て適用されることです。神学の用語では、「照明」の働きに含まれると思います。
とにかく、ご聖霊は、旧約のみことばを用いて、新約時代の人々に、また旧約と新約のみことばを用いて、今の私たちに語りかけてくださると言えるでしょう。これまでに、聖霊の啓示や霊感の働きについては触れて来たと思いますが、ここでは、照明の働きの例があると言えるでしょう。

聖霊に関して、もう一つ注目したことは、6章4節の「聖霊に与る者となる」というところです。これも、非常に意味のあるみことばです。ここには、よく知られている「コイノニア」(交わり)という言葉は使われていませんが、これに非常に近い「メトコス(一緒に持つ)」という言葉が使われています。「・・・に与る、名詞にすると、パートナー、パーテーカー」の意味になる言葉です。簡単に言うと、クリスチャンになると、「聖霊に与る人になる、聖霊のパートナーになる」ということです。

前後には、この言葉の詳しい説明はありませんが、そのまま読んで、クリスチャンは、イエス様を信じて、聖霊に与っている人、聖霊のパートナーになっている人と言えるでしょう。これだけでも、嬉しいことです。感謝いたします。

これからも、少しずつ、パウロ書以外で、御子と御霊がどのように語られているか注目し、教えられていきたいと思います。ハレルヤ!
2024-08-02 18:04:14[投稿番号:385]

3日入院して・・・
天井を見上げながら
検査入院なので、本当に入院しておられる方々から見れば、「入院」にあたらないと言われるかもしれません。確かにそうです。
ただ、私のとっては何年ぶりかの入院であり、ストレッチャーに乗ったのは初めて?、そして絶対安静(頭を枕から離してはいけない!)で17時間ベッドに「はりつけ」状態になりましたので、それなりに大変な経験でした。

今回の入院で特に考えさせられたのは、今与えられている「いのち」のために、病院で働く方々の一生懸命さ、集中、丁寧、システマティックなどについてです。身をもって経験させていただきました。「いのち」は大切なので、当然と言えば、当然のことと言えますが、私たちに今、与えられている「もう一つのいのち(永遠の命)」についてはどうであろうか、と考えました。

信じていない人にとっては関係がないものに見えるかもしれませんが、私たちクリスチャンや牧師にとっては重大なことだと言えます。「もう一つのいのち」とは、永遠のいのちのことですが、このいのちのために、集中する、一生懸命、丁寧、システマティックとはどういうことか、どうすることを意味しているのでしょうか。いろいろ考えさせられました。

まず何よりも、神様が、私たちに永遠の命を与えるために熱心、集中、一生懸命であり、そのためにこそ、クリスマスも、十字架もあったと言えます。

では、私や私たちの教会は、神様によって備えられた永遠のいのちについて、どんなことをすることがふさわしいと言えるのでしょうか。

神様は何よりも大切なものとして、「自由」を与えていて下さるので、「無理やり」も間違っているし、「マインドコントロール」も誤りです。ただ、心から愛をもって祈り、とりなし、待ち続け、与えられた機会を生かすことになるでしょう。それしかないかも。ただし、私たちは、永遠のいのちの素晴らしさを確認し、喜び、生き、お分かちしていくことが不可欠ですね。きょうも、二つの命が与えられ、二つの素晴らしい命で生かされているので、これを味わい、喜び、応答して歩ませたいただきたいですね。

どうしても焦ったり、ヤキモキしたりしてしまうのですが、まず今週も、与えられている二つのいのちを味わい、大切さと素晴らしさを確認したいと思います。アーメン!
2024-07-26 20:57:14[投稿番号:384]

エペソ書の聖霊
いろいろな発見!
『舟の右側』で、聖書の聖霊について連載させていただいていますが、旧約から新約、福音書から使徒の働き、そしてパウロの聖霊の中のローマ書まで来ています(テサロニケ、ガラテヤ、コリント、そして今、ローマ書です)。

あらためてじっくり聖書から学ぶことによって、聖霊について新たに教えられること、発見させられることがいろいろ出てきます。
実は、現在の私は、個人的に、ローマ書の後で、エペソ書の聖霊について学んでいます。今、ほとんど終わろうとしているところです。

エペソ書の聖霊の学びを通して驚いています。これまで、聖霊論的に、それほどエペソ書に注目したことがなかったからです。もちろん、5章18節(御霊に満たされなさい)など、重要な箇所がありましたので、部分的には学んで来ました。しかし、今回は、エペソ書全体における聖霊について学んでいく中でいろいろ大切なことを教えられました。以下にその一部ですが、紹介したいと思います。

 第一に、聖霊の臨在と働きに関して、何よりも重視されるのは聖霊の内住についての教えになると思いますが(エペソ書における聖霊についての教えも聖霊の内住が前提・土台)、ここでは、より明確に、「(文字通りに)聖霊が与えられるように」という祈りがなされています(1・17)。聖霊が「知恵と啓示」の御霊であることはこれまでの学びの中でも確認して来たとおりですが、ある意味で、「外」におられた御霊が私たちの「内」に来られるようにという祈りは珍しい例になると思います。聖霊は、内住だけの御霊ではないかことがここからも分かります。

 第二に、聖霊の教会論的関わりや働きについて、また、御子との関係についても知ることができます(一致と区別)。御子は、「キリストにあって」ということで教会に関わり、御霊は、「御霊によって」ということで教会に関わっておられると言ってよいでしょう。すべての面でということではありませんが、少なくとも、エペソ書のみことばにおいては、「キリストにあって」はこれまでのキリストの御業(十字架と復活)に基づいて、ということであり、「御霊によって」は、現在から未来へ、聖霊が教会に現在的に、終末論的に働き続けておられるということです(2・17?22、3・16‐17、4・1?5、5・18―6・9)。

  第三に、6章10‐20節などにありますように、非常に、悪魔・悪霊との霊的な戦いが意識され、そういう意味で、正統な聖霊理解、霊的な戦いとその実際についての教えがあるということです(他にも参考箇所として、2・1?7、4・14、4・27、他にも様々な罪や暗闇の業と悪魔・悪霊の働きは区別できない)。エペソの町を中心に、このような悪霊的、偶像的な問題が顕著であったと思わされますが、そのような文化的背景の中にいるエペソの人々への聖霊的な教えは必須だったと言えるでしょう。

  第四に、3章16‐17節を中心に、御子の内住と御霊の内住について考えることができました。御子も御霊も、三位一体的に一つであり、「内住」の恵みについても同様です。しかしさらに、ここでは、一致とともに、区別があることも確かです。パウロがそのように意識しているのですから、私たちも一致と区別を軽んじないようにしたいと思います。このことについては、前回のブログでも書いています。

  第五に、確かに、エペソ書には聖霊論的に、注目できる重要な御言葉があります。一つは、4章30節の「聖霊を悲しませてはいけません」で、もう一つは、5章18節以下の「御霊に満たされなさい」です。前者は、イザヤ63章10節からの引用であると思いますが、比喩ではなく、本当に聖霊が、人格的に「悲しまれる」お方であることは注目に値します。また、後者の「御霊に満たされなさい」からは、聖霊が、教会の礼拝や交わり、教会生活や家庭生活全体に深く関わっておられるお方であることが分かります。「御霊の満たし」の教え(命令)の深さ、広さを感じます。信仰生活について説明するとき、「御霊の満たし」なしに説明することはほとんどできないでしょう。

今回のエペソ書の聖霊についての学びを通して、聖霊論的に、エペソ書も重要な書のひとつであることがはっきり分かりました。ハレルヤ!
2024-07-19 19:58:00[投稿番号:383]

二つの内住のめぐみ
御霊の内住と御子の内住
すべてではありませんが、新約聖書にある「内住」、またはこれに近い表現から、私たちに与えられている二つの内住の恵みについて教えられたいと思います。

最近、エペソ書における聖霊について学んでいたとき、4章16‐17節に注目しました。16節には、解釈にもよりますが、「内なる人におられる御霊」について、17節には、「信仰による御子の内住」について記されているように思ったからです。ここでの違いは、御子の内住は、「信仰によって」与えられていることです。

ローマ8章10節は、「キリストがあなたがたのうちにおられるなら」とありますが、私としては、「キリスト(の御霊)」の省略があるのではないかと考えました。

ガラテヤ2章20節には、「キリストが私のうちに生きておられるのです」とあります。これは、その前の「もはや私が生きているのではなく」とありますように、比喩的な、信仰的な表現であることが分かります。実際に、20節の後半でも、「私は信仰によって、神の御子と生きている」と言っている通りです(これは、文字通りの意味に近いでしょう)。いずれにしても、この2章20節は、文字通りの、御子の内住とは言えないと思います。信仰による御子の内住です。

2コリント13章5節には、「自分のうちにイエス・キリストがおられることを」とあります。実は、5節の前半に「信仰に生きているかどうか、自分自身を試しなさい」とあって、信仰の内容が、端的に「自分のうちにキリストがおられること」を指していると思われます。これが正しいとしますと、私たちのうちにキリストがおられるということは、信仰の内容ということになります。

コロサイ1章27節には、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」とあります。ここの前後に「信仰」ということばはありませんが、「栄光の望み」が終末的で、再臨のキリストとその完成を指していることは確かです。ですから内容的に、この箇所も、信仰をもって、再臨のキリストを待ち望んでいるという意味で理解できると思います。

以上のことをまとめるとどんなことが言えるでしょうか。第一に、特に手紙を読む時には、個人的に、また教会的に読まなければなりません。どちらかについて言われている時と、両方が重ねられて語られていることがあるからです。第二に、空間的に言えば、御霊はいつも私たちの内に内住しておられ、御子は天の御座の御父の隣におられるということです。第三に、しかし同時に、三位一体的に言えば、御子の内住はあるし、何よりも、「信仰的に」ありうるということです。

私たちには、個人的に、教会的に、二つの内住の恵みが与えられています。一つは、事実通り(空間的に)、聖霊の内住はいつも与えられているということです。もう一つは、御子の内住が、三位一体的に、また信仰的に与えられていると言うことです。

聖書が教える内住に関しても、区別と一致(協働)があります。御霊と御子の内住は区別されていますが、同時に、神様の豊かな恵みとして、私たちに、事実通りの御霊の内住と、信仰による御子の内住が与えられていると言えます。内住の恵みも豊かです。ハレルヤ!ハレルヤ!
2024-07-12 21:05:21[投稿番号:382]

祈りについて
祈っていない時の祈りについて考える
祈りについて、ずっと前から考え、求めて来たことについて、また取り上げたいと思います。

それは、お祈りしていない時、どのように神様と交わり、神様と共に歩むか、生きるか、ということです。さらに、説明しますと、私は、毎朝5時20分に起き、準備し、だいたい5時半から教会の講壇の後ろでお祈りします。そして、その後、だいたい20分から30分位、個人聖研をします。そして、祈りの続きとして、また、個人聖研などで教えられたみことばの恵みをもとに、「お祈り散歩」に出かけます。最近は、身体の健康のことも考え、これを、20分間ではなく、30分間に延ばしています。前にも言いましたように、私は「散歩」は嫌いですが、みことばの恵みを思いめぐらしながら、また、神様と交わりながらの瞑想(黙想)でしたら、散歩は可能なので、これをつづけています。

ただ、最近は、朝と言っても、超暑いので、全体の時間を少し早めることも考えています。

その後、できるだけ(できないこともありますが)、午前10時、午後2時、5時、夜8時にお祈りの時間を持っています。長くありません。1分間かもしれないし、もう少し長いかもしれません。いずれにしても、ここで、神様との交わりを確認し、調整しています。そうでないと、自分のことしか考えないで一日が過ぎてしまう危険があるからです。

さて、本題です。私自身が問題にし、求めていることは、このような祈りと祈りの間に、どのように神様と交わり、歩むことができるかということです。当然のことですが、祈りと祈りの間には、仕事がありますと、学びがありますし、集会や交わりなどもあります。

雑用?もあるでしょうし、買い物や片付け、食器洗いやPCで調べものをしている時もあります。車を運転している時、電話をしている時もあります。私には、このような時にこそ、どのように神様と交わりながら、行動できるかという課題や問題があります。

集中する時、それは、二つのことではなく、ほとんど一つのことに集中します。ですから、神様と神様の臨在ではなく、仕事、学び、その他のこと、目の前におられる「人」に集中することになります。当然のこと、自然なことで、神様もよくご存知です。私の限界を!
ただ、私としては、このような場合でも、できる限り、神様とその臨在について考え、味わい、歩ませていただきたいのです。
時々、どうしたらいいのだろうか、と考えることがあります。人間である限り、この世界に生きている限り、不可能かもしれません。

ただ、最近考えていることを最後に付け加えさせていただきます。それは、エデンの園ではどうだったろうと考えました。神様と人(アダム)との交わりがありました。これは中心です。しかし、さらにアダムとエバの交わりがあり、また、彼らにもある種の「働き」があったと思われます。例えば、エデンを管理することとか。

私は、エデンの園において、これらのことについて、よいバランスがあったに違いないと思いました。神様との交わりを基にしながら、横の交わりも、またエデンでの様々な働きにおいても。

こんなことを考えていた時、天の御国の「完成」は、正にこれらのことのバランスや調和も含まれるのではないかと思いました。私は今、エデンの東において、もがいています。神様との交わりが一番素晴らしいのに、分かっていても、それが実現できないのに、終わりの時には、その完成が与えられるということです。これも、天の御国の喜びの一つではないでしょうか。ハレルヤ!
2024-07-05 18:20:58[投稿番号:381]

ローマ8章4‐6節
「御霊に従う者は御霊に属することを考え続けます」
まず、いつも書いていることが始めたいと思います。
キリスト論的に書く(思う)だけでなく、聖霊論的に書く(思う)ことは聖書的でしょうか。
私としては、前者だけでは足りないのではないかと考えます。しかし、時々、本当に「足りない!」のか、イエス様だけで十分ではないかと考えることもあります。

さて、後者を強調する理由の一つは、みことばを使って言えば、ヨハネの16章7節に、「わたしが去っていくことは、あなたがたの益になるのです。」と御子が言っておられるからです。
理由はいろいろ考えられます。御子には、この後、十字架と復活があるからです。こうして、御父のもとに帰られるからです。

また、御子が御座に戻られ、約束の御霊を天から注がれることになっているからです。こうして、(ある意味で)全く新しい時代が始まるのです。それは、聖霊の時代、教会の時代、福音宣教の時代、異邦人の時代です。これが、私の解釈によれば、真の聖霊のバプテスマです。

他に、御子は、この地上では時間と空間に人として限定されて歩まれましたが(これも、御子のへりくだりと私たち人間に対する一致)、御子の後に来られる御霊は、遍在の方です。ですから、全世界的に、同時的に、御霊は「益」の方と言えます。

さて、本題に移りたいと思います。「御霊に従う者は御霊に属することを考え続ける」というみことばは、上記のヨハネ16章7節と並んで、御霊の臨在や働きについて書く(思う)ための積極的な理由になるみことばの一つではないかと最近考えています。

ローマ8章14節を逆に読むことも正しいと思います。「神の子どもはみな、神の御霊に導かれる者である」ので、私たちが子どもとして、神様の御霊に従っていく時、、当然、御霊に属すること、関することについて、考えつづけるのです。これは、自然なことです。そしてその結果が次節にあるように、「いのちと平安」になるのです。

ここで言いたいことは、クリスチャンはみな、神の子どもたちであり、御霊に導かれて歩む存在なので、いつも、「御霊に属することについて考え続けている」ということです。そう言っていいのではないでしょうか。
ですから、結論になりますが、私たちが、ふだん、聖霊について考えることは普通のことであり、自然なことでもあると言うことです。間違いではないし、変なことでもないということです。

私たちが御父や御子について考え、思い、賛美し、語ることも、聖霊に属することですし、またご聖霊ご自身について考えることも、聖霊に属することと言えます。そうではないでしょうか。

最後に、ただ「聖霊について考えておればよい」ということではありません。
聖霊のことばである聖書に基づいて、聖霊について考え、思い、礼拝し、祈り、交わることになります。ハレルヤ!
2024-06-28 17:38:26[投稿番号:380]

教会論における御子と御霊の関係
エペソ2章17‐22節(特に、21節と22節の関係)から
これまでも時々御子と御霊の関係について考えて来ましたが、ここでは、教会(論)における御子と御霊について、特にエペソ書2章21節と22節に絞って考えてみたいと思います。

残念ながら、このブログにおいては、ギリシャ語に基づいた「センテンスフロー」を使って、この二つの節の構造的、内容的類似性を説明することができませんが、結論として、この二つの節は、ほとんど同意的な並行文と言ってよいと思います。

簡単に言えば、二つの節を通して、これまでに御子によって備えられたことに基づいて、教会という建物(交わり)は、主にあって、御霊によって、ともに組み合わせられながら、ともに聖なる宮(神の臨在の住い)へと成長していく、ということ教えられています。

この場合、御子の働きと御霊の働きは、「主にあって」と「御霊によって」で、区別して表現できると思います(ただし、ギリシャ語では同じ前置詞「?ν」が使われています)。
両者は一つですが、完全に同じではなく、其々の働き(役割)において区別できます。

18節も、上記の理解に基づいて同じように理解できます。
意味は、「キリストの御業によって救われ、一つにされた私たち(異邦人たち、ユダヤ人たち)は、一つの御霊によって御父に近づくことができます」ということです。

ここでの御霊の働きは何でしょうか。「一つの(御霊)」とありますので、意識は、御父に近づくことに関する働きというよりも、両者を一つとする交わり、またはそれ以上に、一つとされている両者の交わりを深めたり、導いたりすることを指していると考えます。それは実際に、次節において、「同じ国の民であり、神の家族なのです」とあるからです。

最後にまとめたいと思います。「キリストにあって」は、これまでのキリストの御業に基づいていることを指し、「(ひとつの)御霊によって」は、教会の交わりに対する聖霊の直接的で現在的な働きを意味していると思われます。

ゴールは、「ともに御父に近づき、神の家族(聖徒と同じ国の民)とされ、神の住い(聖なる宮)となる」ことです。18節は、1コリント12章13節とその前後の文脈と、22節は、使徒9・31などと繋がります。
もう一度繰り返して表現すれば、「キリスト」に関しては、御子が教会のためにすでにしてくださった御業に、「御霊」に関しては、現在とこれから教会のためにしていてくださる働きに、関わっておられると言ってよいでしょう。また、絶対とは言えませんが、キリスト論は静的に、聖霊論は動的に、教会(教会論)と関係していると言えるかもしれません。

まだまだ、分からないことが多くて大変ですが、これからも、終末論における御子と御霊の関係などについても考え、教えられていきたいと願っています。むずかしい所をお読みくださり、感謝いたします。
2024-06-21 17:49:27[投稿番号:379]