私と説教準備について
牧師として約47年間、説教させていただいた!
ある牧師さんから、「先生は、説教準備の中で、以前の説教原稿を見ますか」という質問を受けたことがあります。
私の答えは、「いえ、全くありません!探せば、前に説教した原稿はあると思いますが…」だったと思います。

以前、一度だけ(?)調べたことがありましたが、以前の説教原稿にあった内容のほうが優れていて、想像力も豊かであることを感じました。しかし、なぜか、使う気にはなれませんでした。その時はその時で、今の私と神様(みことば)と礼拝に来られる皆さんの状況は違うからです。また、その時点まで、タイムトゥリップするのが面倒だったのかもしれません。

正直言いますと、頭が固くなり、視野も狭くなり、もの忘れも激しくなり、苦しい現実があります(説教を聞いて下さる皆さんはもっと苦しい!)。また、しばしば、そういう現実に気づいていない自分もあります。

ただ、以前の自分とかなり違う部分の中で、多くのネガティブな事の中に、少しですがポジティブなことがあることも確かです。例えば、聖書を読んでいて、以前なら分からなかった箇所の意味がより広く、より深く考えられるようになったということです。もちろん、すべてではありませんが、今でも、いろいろと発見すること、気づくことがあり、感謝しています。
そしてそんなことを、すぐにではありませんが、(いつかの)説教に生かしていきたいと思っています。

説教イコール私自身の生き方ということにはなりませんが、少しでも日々教えられていることを説教として語り、また語ったことを自分自身の歩みの中に生かしていきたいと願っています。
そういう意味で、説教と私自身の生き方は切っても切れない関係にあります。神様との交わりの中にあるもの、教会の兄姉との交わりの中にあるものと言えるでしょう。

まとまりませんが、お読みくださり、感謝いたします。9月も後半に入ります。「私塾」が10月から始まりますので、いろいろと考えております。お祈りを感謝いたします。ハレルヤ!
2024-09-20 17:22:14[投稿番号:392]

お祈り感謝いたします!
8月16日のブログのつづき
お祈りをかんしゃいたします!

8月16日のブログに、「転移」があるかどうかについて9月に検査結果が出ると書きましたので、報告をさせていただきます。
転移は幸いありませんでした。感謝いたします。

この結果次第で、「私塾」を考えなければならないかもしれないと思いましたが、大丈夫でしたので、私塾の秋学期の案内を皆さんに送りました。

今後のことに関して、放射線治療を考えておりましたが、医師からの勧めで、3か月毎の検査(経過観察)と一年後の生体検査をすることになりました。しばらくは、このまま、「癌」をいただきながら、歩ませていただきたいと思っております。お祈りをありがとうございました。

現在していることは、毎日の牧会の働きとともに、牧会書簡における聖霊についての学び(もう少しでおわります)、若手?牧師会で使用する予定の「リーダーシップを育てる」ことについて約30年前に書いた小論文(英語)がありましたので、これを日本語に訳しています。夏の間、少しずつやって来て、ほとんど終わったところです。関心のある方はご連絡ください。これから、稲沢教会の役員会の学びでも使用していきたいと考えています。

主にある変わらないお交わりを感謝いたします!
2024-09-13 18:10:11[投稿番号:391]

神様の遍在と御霊の内住について
遍在の凄さ、内住の凄さ
朝の祈りの中でいつも告白していることばがあります。
その一部ですが、こんな感じです。「…無限、絶対、永遠、完全、遍在、栄光の神様は、私のお父さんです!」

この中で、最近いつも気になる言葉は、「遍在」です。これは、気になるだけではなく、時々、畏怖と親密さを感じるすごい言葉です。

「遍在」の意味は、神様がいつでも、どこにでも、おられるということで、祈っている時、祈っている私と共に、「いつでも、どこでも」共にいてくださるということでもあります。

時々、この偉大さを忘れてしまいますが、最近は違います。私自身が知っている偉大な神様が、今、祈っているこの私と共におられることをより強く意識します。短く黙想します。すると、これは、凄い事が起こっていることに気づくのです。遠い所に、今の私とほとんど無関係に神様がおられるのではなく、この私にも個人的に直面しておられ、個人的に臨在しておられ、個人的に交わっていてくださるのです。

もう一度いいますが、これは、凄いことが起こっていることを意味します。奇跡が起こっているのです。お祈りしている私の真ん前におられるのです!!

この遍在の神様の臨在感は、さらに「御霊の内住」に繋がります。私の知っている神様は、大きすぎて、偉大過ぎて、私の世界や社会、この地球に入って来れないのですが、その代わりに、代理として、ある意味で「身体のない御霊」が、なんと私のからだ(心と身体)に入って来て、住んでいて下さるのです。

毎朝、御霊の内住について意識し、祈るようにしていますが、偉大な神様の御霊が、私の心や身体に来て、住んでいて下さることも、大変な奇跡なのです。現在的で、継続的な奇跡を意味しています。これが、ある意味、毎朝、毎日起こっているのです。

こんなすごい現在的奇跡が毎日起こっているのに、これに慣れ、当たり前のようになってしまう私ですが、なんとか、この奇跡を思い起こし、感動し、味わい、歩み続けていきたいと思っています。

やっとホンの少し涼しくなりましたので、外に出て、黙想、瞑想の散歩をしていますが、神様の遍在の恵み、御霊の内住の恵みを感じ、味わうのに一番よいと思います。きょうも、皆さんに、おすすめしたいと思います。ハレルヤ!
2024-09-06 18:02:48[投稿番号:390]

もう一度、「祈り」について
いつまで経っても終わらない課題…いのり
最近、もう一度、「祈り」について考えている。
「祈り」と言えば、お願いの祈り、とりなしの祈り、感謝の祈り、悔い改めの祈り、礼拝の祈りなど・・・いろいろあります。これらを網羅する祈りは、またはこれらの祈りの中心にある祈りは、何かといえば、私は、「神様との交わり」と答えたい。これは、確かに祈りのすべてを網羅するが、同時に、すべての祈りの中心にあるものと言える。

最近、(自分の)願いの祈りと交わりの祈りの関係について、たぶん、初めて考えるようになった。このことを考えるきっかけになったことがある。それは、とりなしの祈りである。

とりなしの祈りとは、簡単に言えば、他の兄姉について、神様に祈り、とりなすことである。その多くは、兄姉がもっている願いに関係している。
さて、とりなしの祈りを毎日続けていて、気づいたことがある。それは、とりなしの祈りとは、ただその人の名前や祈祷課題を神様に申し上げることだけではない。重要なことは、神様との交わりの中で、他の兄姉について思い、考え、そして兄姉の願いを申し上げることである。時には、その願いを申し上げない場合もある。こうして、神様と私ととりなしているその人の関係が、正三角形(?)になるわけです。

なぜ、こんなことから、「願いのいのり」と交わりの祈りの関係について考えるようになったかと言いますと、「(自分の願いなどについての)お祈り」をしていると、その願いを言うことだけに気を取られて、耳を傾けていて下さる神様をあまり意識しないで祈っているのではないかと思ったからです。これでは、上記の正三角形ではなく、時には、神様以上に、願いや、願いを言うことのほうが重要になってしまう可能性があるのです。

こうして、願いの祈りをすることは多いのですが、その時には、「願い」や「願いを言うこと」が一番ではなく、神様との交わりを大切にしながら、それを意識しながら、その中で、願いを言い表すことが、真の「願いの祈り」ではないかと考えるようになりました。

まだまだ、十分ではありませんが、少しずつ、自分の「願いの祈り」を変えていきたいと思っています。変えられていきたいと思っています。

まだ、まだ、「祈り」についても、「悟れない」私ですが、真の祈りのあり方を求めていきたいと願っています。ハレルヤ!
2024-08-30 19:26:09[投稿番号:389]

私と孫たち
お祈りを感謝いたします!
今週、久しぶりにやってきた子どもたち、孫たちもいましたが、きょう、東京に戻りました。今週は、9人で一緒に食事をし、一緒に寝ましたので、本当に大変でした。ずっとキャンプをしているようで、かなり疲れました。妻と私は、本がある物置部屋のようなところに引っ越しをして眠りました。冷蔵庫の中のものはほとんど空っぽになりました。嬉しい限りですが、今、ホッとしているところ、いつものペースに戻ることができました。

子どもたちや孫たちが来ますと、毎回、お祈りのカードを渡して、書いて(更新して)もらうことにしています。今回も、書いてもらいました。祈りのカードを読みながら、子どもたちや孫たちの成長を感じます。とにかく、毎朝、これらの祈りのカードに目を向け、想像しながら、神様にお祈りをしています。

私の願っていることは、当然ですが、孫たちも、神様とお会いして、神様を個人的信じることです。無理やりにできませんし、「神様を信じてください!」とお願いすることもできませんが、祈りながら、ゆっくり、じっくりと、神様の時を待っています。

55年前に神様を信じましたが、たくさんの人々の祈りと献身、助けをとおしてここまで来ました。そして、少しでも、神様の憐れみと恵みによって、信仰の輪が広がっていくことを願っています。

帰っていく、子どもたちや孫たちを見送りながら、祈りました!
感謝いたします!ハレルヤ!
2024-08-23 18:21:28[投稿番号:388]

お祈りを感謝いたします。
ブログに書こうか、どうしようか、ずいぶん迷いましたが、小さなことではないので、少しだけ書かせていただくことにしました。

今週、「生体検査」の結果が出て、ステージ1であることが分かりました。経過観察か、手術か、放射線治療か、選ぶことになります。また、その前に、9月初めに転移がないか検査をすることになりました。

ご心配をおかけしてはいけませんので付け加えますと・・・自分で言うのもなんですが、落ち着いておりますし、今までと全く変わらない生活をつづけております。神様への信仰、信頼のせいか、それとも、「ステージ1」だからという変な安心感から分かりませんが、皆さん、大丈夫ですので、ご安心ください。

私の先輩たちや同年代の仲間たちの中で、少しずつ、天に召される兄姉の数が増えつつありますが、年齢的に、また癌的に(変なことばですが敢えて使いました)、2重に自分の生涯の終わりの「時」をこれまで以上に意識できることは感謝です。これまでは、年齢的にだけでしたが、癌をいただくことによって、さらに考えられるようになりました。

できれば、限られた歩みの中で、神様から委ねていただいた使命や働きをよりよく全うできればと考えております。
教会の奉仕も、ご聖霊についての学びも、「若手?牧師会」や「塾」の学びも、許される限り、続けていくことができれば幸いです。

ブログに書きながら、変なお願いですが、絶対ではありませんが、できるだけ、他言無用でお願いします。

皆さんのお祈りを感謝いたします。これからも、たぶん、変わらないとおもいますが(しばらくは・・・)、よろしくお願いいたします。ハレルヤ!
2024-08-16 19:58:16[投稿番号:387]

「御名」で祈れる幸い
難しさと素晴らしさ
今週の礼拝では、ヨハネの14‐16章にあるイエス様の遺言の一つから、祈りについて教えられた。テーマは、「み名で祈りなさい」でした。
メッセージの中でも繰り返しお話しましたが、これは、ただ私たちの祈りの言葉の最後に「イエス様のお名前で祈ります」ということではない。
もっともっと根本的で聖霊的なことです。「み名」は、この地上におけるイエス様の生ける臨在と言えますので、み名で祈ることは、御子と交わり、御子と一つになって祈ることと言えます。ほとんど、「永遠の命の交わり」と呼んでも間違いではないと思います。

とにかく、御子(と御父と御霊)との交わりの中で祈ることです。ですから、自分勝手な祈りは少なくなるはずです。もちろん、それでも、私達の思いは限られており、罪人のかしらなので、私の今の祈りは神様(イエス様)のみこころと完全に一つであるとは言えないでしょう。

「み名」で祈ることの限界や難しさがあります。これを認めて祈ることが大切です。しかし他方で、御子と御霊によって、私達が、み名で祈ることができるように、全て備えられていることも事実です。御子の十字架によって、御霊の臨在、助け、とりなし(うめき)によって、導かれて祈ることができるようにされている恵みは確かにあります。

「み名」で祈ることは、ただお願いの祈りをすることではないでしょう。ですから、それがすぐに聞かれたか、どうかでもありません。み名で祈ること、祈れることの中心的なことは、また、その幸いは、御子との交わり、御父、御霊との交わりがあるということです。

きょうも、御父と御子と御霊と交わりながら祈る喜び、幸いがあります。その中から、何を祈るか、また祈って何をすべきか、出て来るのではないでしょうか。

まとまりがありませんが、み名で祈ることの難しさや限界を認めながらも、み名で祈れる、み名の中で交われることの幸いを強調したいと思います。ハレルヤ!
2024-08-09 18:01:10[投稿番号:386]

今、毎日へブル書を読んでいます。
御子と御霊について
ディボーションでは、パウロ書簡が終わったので、今は、へブル書7章まで来ています。毎日の糧として読むことと、その中で、御子と御霊について意識して考えるようにしています。

へブル書ももちろん、三位一体ですが、それでも、へブル書は特に、キリスト論が中心、ほとんどすべてがイエス様のことを語っていると言えます。よく読んでいきますと、すでに1章から、キリスト中心で、特に、天の御座におられるキリスト、大祭司イエス様のことがずっと意識され、書かれています。あらためて読んでみて、びっくりするくらい、このことが徹底しています。

しかも、付け加えておきたいことは、御子がおられる天の御座は非常に「近い!」ということです。もちろん、今の私たちがいる地上とは絶対的な区別がありますが、しかしそれでも、その上で、教えられることは、御子がおられる天の御座は「近い!」ということです。

例えば、4章14‐16節を読んでみてください。大胆に恵みの御座に近づくことができます。しかも、折にかなった助けがあたえられるのです。つまり、タイムリーな助けが与えられるのです。これは、私たちにとってのタイムリーというより、神様の前にタイムリーということです。ハレルヤ!

さて、いつものように、ご聖霊についても考えてみました。聖霊のことについて何も書かれていないのではありません。特に、注目したことを二つ取り上げたいと思います。

一つは、3章7節(9章8節、10章15節)です。ここでの聖霊の働きは、昔、旧約時代に語られたみことばを後の時代(へブル書が書かれた時代、今の私たちの時代)に持って来て適用されることです。神学の用語では、「照明」の働きに含まれると思います。
とにかく、ご聖霊は、旧約のみことばを用いて、新約時代の人々に、また旧約と新約のみことばを用いて、今の私たちに語りかけてくださると言えるでしょう。これまでに、聖霊の啓示や霊感の働きについては触れて来たと思いますが、ここでは、照明の働きの例があると言えるでしょう。

聖霊に関して、もう一つ注目したことは、6章4節の「聖霊に与る者となる」というところです。これも、非常に意味のあるみことばです。ここには、よく知られている「コイノニア」(交わり)という言葉は使われていませんが、これに非常に近い「メトコス(一緒に持つ)」という言葉が使われています。「・・・に与る、名詞にすると、パートナー、パーテーカー」の意味になる言葉です。簡単に言うと、クリスチャンになると、「聖霊に与る人になる、聖霊のパートナーになる」ということです。

前後には、この言葉の詳しい説明はありませんが、そのまま読んで、クリスチャンは、イエス様を信じて、聖霊に与っている人、聖霊のパートナーになっている人と言えるでしょう。これだけでも、嬉しいことです。感謝いたします。

これからも、少しずつ、パウロ書以外で、御子と御霊がどのように語られているか注目し、教えられていきたいと思います。ハレルヤ!
2024-08-02 18:04:14[投稿番号:385]

3日入院して・・・
天井を見上げながら
検査入院なので、本当に入院しておられる方々から見れば、「入院」にあたらないと言われるかもしれません。確かにそうです。
ただ、私のとっては何年ぶりかの入院であり、ストレッチャーに乗ったのは初めて?、そして絶対安静(頭を枕から離してはいけない!)で17時間ベッドに「はりつけ」状態になりましたので、それなりに大変な経験でした。

今回の入院で特に考えさせられたのは、今与えられている「いのち」のために、病院で働く方々の一生懸命さ、集中、丁寧、システマティックなどについてです。身をもって経験させていただきました。「いのち」は大切なので、当然と言えば、当然のことと言えますが、私たちに今、与えられている「もう一つのいのち(永遠の命)」についてはどうであろうか、と考えました。

信じていない人にとっては関係がないものに見えるかもしれませんが、私たちクリスチャンや牧師にとっては重大なことだと言えます。「もう一つのいのち」とは、永遠のいのちのことですが、このいのちのために、集中する、一生懸命、丁寧、システマティックとはどういうことか、どうすることを意味しているのでしょうか。いろいろ考えさせられました。

まず何よりも、神様が、私たちに永遠の命を与えるために熱心、集中、一生懸命であり、そのためにこそ、クリスマスも、十字架もあったと言えます。

では、私や私たちの教会は、神様によって備えられた永遠のいのちについて、どんなことをすることがふさわしいと言えるのでしょうか。

神様は何よりも大切なものとして、「自由」を与えていて下さるので、「無理やり」も間違っているし、「マインドコントロール」も誤りです。ただ、心から愛をもって祈り、とりなし、待ち続け、与えられた機会を生かすことになるでしょう。それしかないかも。ただし、私たちは、永遠のいのちの素晴らしさを確認し、喜び、生き、お分かちしていくことが不可欠ですね。きょうも、二つの命が与えられ、二つの素晴らしい命で生かされているので、これを味わい、喜び、応答して歩ませたいただきたいですね。

どうしても焦ったり、ヤキモキしたりしてしまうのですが、まず今週も、与えられている二つのいのちを味わい、大切さと素晴らしさを確認したいと思います。アーメン!
2024-07-26 20:57:14[投稿番号:384]