パイナップルのうれしい話 | | 以前書かせていただいたパインの話のつづき | 今晩は、全く神学的でない話を書かせていただきたいと思います。何か、教訓があるとしたら、「4年間、忍耐して待つ!」ということになるでしょうか。
以前、パイナップルの王冠の部分を取って水栽培をしているという話を書かせていただきました。今は、それを植木鉢に入れ替えて、二、三日おきに水をやっています(もちろん、外は寒いので、室内に移しています)。
それが、なんと、たぶん4年たって、根元からやっと30?40センチほどに成長し、最近では、その中央部に、小さなパインの頭ができるまでになっています。まだ、こぶし大までにはなっていないのですが、今年の春か夏までには立派なパインができるのではないかと期待しています。これが、皆さん、なんと5鉢(5個)できています。
やっと4年して、パインらしいものができて来たので、大喜びしています。皆さんが、お近くにおられたら、おすそ分けしたい気分です!
まだまだ、時間がかかるかもしれませんが、希望が湧いてきました。これまで、妻や子どもたちから、「本当にパインができるの??」って言われ続けてきましたが、家族の顔色が変わりました!
今晩は、変な話ですみません。覚悟が要りますが、やっと報われそうです。感謝! | | 2025-01-17 20:52:12[投稿番号:410] |
聖霊論3が始まりました! | | どうして聖霊に注目するのか。 | 聖霊論3のクラスが今週始まりました!ご聖霊に関して、受講された皆さんとの交わりや質問などを受けながら、時々考えることがあります。
それは、聖霊の学びは「益」になるのか。どんな「益」があるのか、です。
天に帰られる直前、イエス様は弟子たちに「私が去って行くことはあなたがたの益になる」と言われ、さらに「行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします」と約束されました。「益」の中心に聖霊とその到来があることは確かです。
ヨハネの福音書を中心に、聖書的に「益」について学び、確認することができますが、これは、今までも、いろいろ説明させていただいたことなので、ここでは、より一般的に、今の私たちのクリスチャン生活においてどんな益があるか、考えてみたいと思います。
第一に、生活の中で、三位一体の神様の臨在と働きを意識しながら、御父と御子と御霊と交わりながら歩むことができるようになると思います。
第二に、聖霊の内住という現代的な奇跡を覚え、今すでに私たちひとり一人の心に来て、導いていてくださる、または導こうとしておられる聖霊を覚えて、毎日の信仰生活をすすめることができます。
第三に、すでに以前触れたように、ヨハネの神学(永遠の命をもって歩む)、パウロの神学のほとんどゴールと言える神の子どもとされ、神の子どもとして生きる恵みに深く関わり、密接なお方としての聖霊とその働きについての信仰と理解によってこの恵みが増々豊かにされていくと言えます。
最後に、宣教論的に、教会論的に、救済論的に、終末論的に、聖霊とそのお働きなしに語れないし、語れない領域があると思いますが、どうでしょうか。ハレルヤ! | | 2025-01-10 18:40:52[投稿番号:409] |
詩篇119篇から教えられたこと | | 神様との交わりにおける御言葉の大切さ | 新年、明けましておめでとうございます。
最近、ディボーションで、詩篇を読んでいますが、今、119篇まで来ています。ここから教えられたことをまとめてみたいと思います。
119篇の形式は「いろは歌」のようになっていて、どこを読んでも、みことば(さとし、みおしえ、おきて、ことば、仰せ、戒め)の大切さが語られています。
まず第一に、教えられたことは、詩篇の記者と神様の率直な交わりとその継続です。このような表現を取っていますが、確かに、記者と神様の交わりの緊密さには驚かされます。これが、119篇全体に及んでいます。
第二に、この交わりを前提にしながら、神様のみことば(他の色々な表現)の大切さ、不可欠さ、有用性などが繰り返し語られています。神様とみことばは一つですが、忘れてはならないことは、みことばは神様ご自身の御思いを確実に表し、神様ご自身と直結しているということです。
第三に、重なってきますが、私達が神様との交わりにおいて神様を知ろうとするとき、みことばなしに神様を知ることができないということです。それほどに、みことばは神様ご自身を語るものであり、神様はこれをよしとして、みことばを用い続けておられ、御言葉を通してご自身を表し続けておられるということです。
第四に、こうして、みことばは記者(私達)の歩みを規定しますが、58節にあるように、みことばは神様ご自身をも規定するということです。「どうか、みことばのとおりに、私をあわれんでください」とあるとおりです。したがって、私達は、「みことばに、○○があるから、○○してください」と願うことができるということです。
第五に、記者は、みことばを喜び、慕い求めているということです。なぜなら、そこに神様の御思いがあり、これをもとに、神様と交わり、歩むことができるからです。なによりも、そこに、神様の愛と憐れみが満ちているからです。
新しい一年が始まりましたが、あらためて、聖書を学び、聖書に聞くことの大切さを確認できます。聖書のみことばを通して、私達は神様とその御心を知り、喜び、生きることができます。この一年も、祈ること(私達から神様へ)とみことばに聞くこと(神様から私達へ)を大切にしていきましょう。ハレルヤ! | | 2025-01-03 17:53:40[投稿番号:408] |
パウロ神学のゴールとヨハネ神学のゴール | | 神の子とされ、子として歩むことと永遠のいのちを受けて歩むこと | パウロ神学においていろいろ重要な要素がありますが、何と言っても、パウロの救済論において「子とされること、子として歩むこと」は、パウロ神学のゴール(の一つ)と言ってよいと思います。
私たちは御子によって罪が贖われ、信仰によって義とされ、神の子どもとされます。こうして、今、最後の完成に至るまで、御子のゆえに、御霊によって神の子どもとして歩み続ける恵みの中にいます。聖書にあります。「ガラテヤ 3:26:あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。」また、ローマ書の中心になる8章でも繰り返し語られている通りです(他に、1ヨハネ3:1?3でも)。
ヨハネ神学においてもいろいろ重要な要素がありますが、何と言っても、ヨハネの救済論において、「永遠のいのち、永遠のいのちにあずかること」は、ヨハネ神学のゴールと言えます。実際に、ヨハネの福音書は、私たちが御子を信じて「永遠のいのち」を受けるために書かれていますし、1ヨハネの手紙において、手紙が書かれたのは、「永遠のいのちを持っていることを、分からせるため」とあるとおりです(5:13)。また、パウロも、「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(6:23)と言っている通りです。
パウロ神学のゴールとヨハネ神学のゴールとの関係は非常に密接であると言えます。なぜなら、「永遠のいのち」の意味は、私たちが神様を知り、神様との交わりに生きることで、まさに、私たちが、神様を父と知り、父と呼び、子として交わり、生きることだからです。ヨハネ10章14?15節と21章17節をお読みください。「…わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
この一年(3月から)、ヨハネの福音書をあらためて学び、礼拝で説教させていただきましたが、ここからたくさんのことを教えられました。何よりも、永遠のいのちの中心性、広さ、素晴らしさについて学びました。そして、このことと、それ以前に学んで来たパウロの神学とが豊かに一体的であることを確認しています。これは、大きな感謝です!
この一年、お読みくださり、感謝いたします。新しい一年も、主にあって宜しくお願いいたします。ハレルヤ! | | 2024-12-27 17:25:42[投稿番号:407] |
聖霊に対する祈り | | …色々な議論がありますが… | きょうは、少し「聖霊に対する祈り」について考えてみたいと思います。私はたいてい、御父に向かってお祈りしますが、時にイエス様、さらに御霊に祈ることもあります。
特に、聖霊が担っておられること(聖書の教えに従って)に関係して祈るときは、御父に、また聖霊に向かって祈ります。例えば、十字架はイエス様が担っておられたことですが、御霊が担っておられることもいろいろあります。
例えば、?福音宣教の拡大や深化、?救いの実現そのもの、?私たちの心に内住しておられること、?私達を「子としてくださること、子として歩ませてくださること」、?信仰生活全体における成熟、聖化のための導きに、?教会の働きや交わりに内在しておられること、?私たちの祈りを助け、導かれることなど ・・・いろいろ上げることができます。これらについては、私達は祈ることができると思います。
三位一体の枠組み、聖書のみことば、御子の救いの愛と恵みなどにしっかり根差していないと、私達はすぐに「自己満足的な神秘主義」に陥ってしまいますので十分注意する必要がありますが、御父に、御子に、御霊に、三位一体的に祈る恵みが与えられていると思います。
最後に、恩師の一人であるJ.I.パッカー先生の言葉を引用します!
御霊に祈ることは適切であるか?聖書のどこにもそのような例はないが、御霊は神であるから、正当な理由があれば、御霊を呼び求め、御霊に語りかけることは間違いではない。
新約聖書においては、父なる神への祈りが普通であるが(それはイエスご自身が実践し、教えられた祈り方だからである)、イエスへの祈りもまた適切である(パウロが癒し主イエスに三度祈ったようにである、2コリント12、8-10)。
そして、私たちが御霊に求めるものが、イエスとのより親密なコミュニケーションであり、私たちの人生においてイエスの似姿に導かれることであるなら、御霊への祈りも同様に適切である。 | | 2024-12-20 18:04:21[投稿番号:406] |
ディボーションで教えられたこと | | 詩篇92篇…92歳の年老いた記者の詩 | きょうのディボーションで教えられたことです。きょうは、詩篇92篇を読み、しばらくいろいろと思い巡らしました。特に、目が留まった箇所は、その中の13節と14節でした。
「彼らは【主】の家に植えられ、私たちの神の大庭で花を咲かせます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ青々と生い茂ります。」
以下は、ここでいろいろ考えたことの一部です…「年老いて実を実らせる、青々と生い茂る」とはどういうことか。これは、あり得ないこと。しかし、確かに「年老いてもなお」とある。老年期になって、外的に、人間的に実を結ぶことがあるだろうか。これは、内的なこと、霊的なことを言っているのか。
身体的にいろいろな問題が出て来ると、自分中心に、人間的に、その問題のことばかり考えてしまう。しかし、この箇所の主語(彼ら)は、「主の家に植えられている、神の大庭にいる!」とある。これが、老年期の秘訣かもしれない!
老年期に何が必要か、あらためて教えられる。それは、「主の家にいること、神の大庭にいる」こと。これこそ、老年期に不可欠なことであると言える。ここから、感謝や賛美が生まれて来る。
私は、92篇を書いた記者も、老年期を迎えていたのではないかと勝手に考えるようになりました。そしてその視点で、92篇を読んでみると、確かにそのように読めるような気がしました。
こうして、全く勝手な判断ですが、この詩篇の記者を92歳の記者であると決めることにしました(笑)!ハレルヤ! | | 2024-12-13 17:38:33[投稿番号:405] |
ヨハネの手紙から黙示録へ | | 聖霊についての学び | 『舟の右側』に連載させていただいて丸三年になります。あともう少しで、聖書の聖霊についての学びが終わります。今は、ヨハネの手紙第一の聖霊で、このあと、黙示録の聖霊に入ります。12月末までに終えることができればと考えています。
ヨハネの手紙第一の聖霊について学んでいて、興味深いことがあります。すでに学んだことですが、ヨハネの福音書における聖霊は、現在的な面と未来的な面がありました。現在的な面は、イエス様と聖霊の関係です。未来的な面は弟子たち(教会)と聖霊の関係です。
イエス様は、弟子たちに、やがて来られる聖霊について何度も教え約束しておられます。また、福音書を書いたヨハネ自身も、福音書の中で未来的な聖霊に触れています。ただし、ヨハネ自身が福音書を書いている時には、その未来的な聖霊は現実になっていました(7:39)!!
さて、今、同じヨハネが書いた手紙を読んでいますが、この手紙に出て来る聖霊について非常に興味深いところがあります。なぜなら、福音書において、未来的なお方として書かれていた聖霊が、手紙では、現在的なお方として書かれているからです。
第一ヨハネの手紙3章24節にこうあります。「神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。」聖霊は、ヨハネやヨハネの教会にとって、現在的なお方になっておられるということです。
さらに、4章13節でもはっきりしています。「神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。」神様が聖霊を与えて下さったとありますが、動詞は完了形なので、ヨハネたちにとって聖霊が現在的なお方として臨在し、働いておられることが分かります。さらに、5章6節にもあります。
このようにして、ヨハネの福音書の聖霊と第一ヨハネの手紙の聖霊を比較するとき、聖霊について新しいことを発見し、教えられます!
あともう少しですが、最後の書であり、最後のことを語っている黙示録からも、聖霊について教えられたいと思っています。ハレルヤ! | | 2024-12-06 19:40:38[投稿番号:404] |
ヨハネの手紙から黙示録へ | | 聖霊についての学び | | | | 2024-12-06 19:19:24[投稿番号:403] |
詩篇69篇2節「足がかり」 | | 救われる前の「救い」を思い出して | 最近は、ディボーションで詩篇を読んでいますが、今週、詩篇69篇2節を読んだ時に、「ハッ」とさせられました。珍しい言葉が使われていました。「足がかり」…詩篇の記者は、今の自分の苦しみについて、「私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。」と叫んでいました。
この言葉を読んだ瞬間、以前、クリスチャンになる前、たぶん、中学生?の頃の一つの体験を思い出しました。一度、家の前の川(揖斐川)を泳いで横断したいと思っておりましたが、ある日、夏でかなり川の水が減って来た時を狙って横断を試みることにしました。
川に飛び込み(?)、泳ぎ始めました。真ん中位まで来た時でした。そのあたりの水は渦を巻いていて、泳いでも泳いでも、前進できないのです。そのうち、水は飲むし、パニック状態になりました。「あーー!もうダメだ!」と思って川底に向かって沈んでいく瞬間、なんと私の片足が、三メートル以上の深さがあるはずの川底に触れたのです。実は、川底のその場所だけが、不思議にもせり上がって、いわば「足がかり」のようなものができていたのです!…私は、そこで一息つくことができ、そこから、無我夢中で泳いで渡り切ることができました。
長くなりました。詩篇の記者は、自分には苦しみの中で「足がかりもない」と言っていますが、私には、神様を信じる前だったと思いますが、神様によって「足がかり」が備えられていたのです。揖斐川の真ん中どころにだったと思います。神様の守りは不思議ですね。。。
信じた後もそうですが、信じる前にも、何度か危機的な経験をしましたが、神様の「足がかり」によって助けられ、守られ、ここまでくることができたことを神様に感謝しました。
皆さんにも、これまで、様々なかたちで神様が備えられた「足がかり」があったと思います。これからもあると思います。
あとどれくらい、神様の召しに応答しながら、歩ませていただけるか分かりませんが、このような憐れみ深い神様にあって、最後の最後までついて行きたいと思います。お祈りを感謝いたします。ハレルヤ! | | 2024-11-29 17:25:43[投稿番号:402] |
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