キリストとの交わり、御霊との交わり | | 以前、「御霊との交わり」について質問をいただいたことがあります。最近、いろいろ考えていましたので、両者の違いと共通点などについてまとめてみたいと思います。
キリストとの交わりについては、たとえば、1コリント1章9節にある通りです。「神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」
私にとって、イエス様との交わりは、福音書にあるイエス様(その生涯、十字架と復活など)のお姿を思いながら、また、パウロの手紙においてパウロが書いている御子についての教えに基づいて、イエス様と交わる感じだと思います。
御霊との交わりについては、たとえば、2コリント13章13節にある「御霊の交わり→御霊との交わり」にある通りです。ピリピ2章1節にもあります。これらについて、解釈の違いはありますが、私は、御子との交わりがあるように、これらは、御霊との交わりを教えている箇所であると考えています。
御霊との交わりは、使徒の働きにおける御霊とその働きを思い浮かべることは少なく、大抵は、パウロの手紙などでパウロが御霊について書いていることを大切にし、それらを暗唱し、祈りの中で、御霊と交わることが多いと思います。
御子との交わりと御霊との交わりが重ならないかという質問があるかもしれませんが、私は、むしろ、かなり三位一体的にお祈りすることが多いので、御父と交わり、御子と交わり、御霊と交わっている感じです。
そして、御父と御子と御霊は根本的に一つなので(より内在的に)、これはお任せして、御父と交わり、御子と交わり、御霊と交わっていると思います。
付け加えますと、御霊と交わっていると、いつの間にか、また意識的に、無意識的に、当然のことですが、御父との交わり、御子との交わりに導かれているようです。しかしまた、特別に、個別的に、内住の御霊に向かって、祈ることもあります。
わけが分からなくなってきたと言われるかもしれません。お読みくださり、感謝します。御父と御子と御霊に囲まれ、感謝します!ハレルヤ | | 2024-10-18 16:12:50[投稿番号:396] |
私塾「霊性?:祈り」のクラスが始まりました! | | 「霊性:祈り」の重大さについて | 今週、私塾の秋学期が始まりました。今回は、1科目でしたが、7人の兄姉が参加してくださり、感謝しています。まだ、始まったばかりですが、「祈り」を中心に、私達の霊性について考え、分かち合い、学ぶことができるのは本当に幸いです。
真摯に自分の霊性と向き合い、正直に分かち合うこと、また、共に神様を見上げることができる幸いは嬉しい経験になり、私にとっても励ましになります。
テキストは、聖書とヤンシー著『祈り』ですが、ヤンシーは、この本の中で、マルシアという人の言葉を引用しています。「…『祈りの生活はいかがですか。』と聞かれることがあります。でもクリスチャンにとって、その質問は『暮らしはいかがですか』というのとどう違うのでしょう。」
私も、本当にそう思います。そう思うようになっています。私たちの生活全体は「祈り」です。手を組んでいなくても、ほとんど一語も発していなくても、生活全体が祈りですね。
なぜ、こんなことを書いたかと言いますと、今回の「霊性?:祈り」のクラスは、狭い意味の「祈り」ではなく、広い意味での「神様との交わりの生活」について考え、学び、教えられたいと思っているからです。
私塾の中の一つのクラスですが、このような重要テーマについて、参加者の皆さんと率直に、正直に、ともに、学べることは何と幸いでしょうか。これこそ、私の教会生活、牧会生活の中心的なテーマに違いないと感じています。
子どもたちと、教会について話し合うことが大好きです。嬉しいことです。ありがたいこと、特権だと思っています。また、先日、子ども達の一人と、神様の御心について考え合う時が与えられました。
皆さん、こんなうれしいことはありません。神様が与えてくださった子ども達と「霊性」について話し合ったり、分かち合ったりできる幸いはなんとありがたいことでしょう。ハレルヤ! | | 2024-10-11 18:19:54[投稿番号:395] |
御子にあって、御霊によって | | 御子と御霊の関係 | 今は、エペソ書の聖霊とへブル書の聖霊について学び、まとめているところです。へブル書の聖霊は、パウロの手紙における聖霊といくらか違うところがあって興味深いです。また、エペソ書の聖霊は、特に教会論において御子と御霊の関係(一致と相違)を知ることができ、これも注目できます。
以下は、『舟の右側』用に準備した原稿の一部です(一部省略)。
エペソ2章21節と22節について:
まず、前後の流れについて確認しておきたいと思います。11節から、ユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つとされたことが繰り返し語られています。また、新改訳2017から引用すると、「キリストにあって」(13節)、「キリストは」(14節)、「キリストは」(15節)、「キリストは」(17節)、「キリストを通して」(18節)、「キリスト・イエスご自身が」(20節)、「このキリストにあって」(21節)、「このキリストにあって」(22節)とありますように、キリスト論的アプローチが中心です。ただしその中に僅かですが(18節と22節)、御霊についての直接的言及があります。さらに、この二節には、「御父、神」に対する言及もありますので、三位一体的であると言えます。
このような流れの中で、21節と22節に着目し、両者の関係を明らかにしたいと思います。
21節「キリストにあって」と22節「キリストにあって、御霊によって」は、構造的に内容的に、ほとんど同意的な並行文です。22節の聖霊は、教会に内住しておられる御霊を指していると思われます(1コリント3・16)。意味をまとめますと、御子のみわざ(11-20節)に基づいて建てられた教会(存在・交わり)は、「主にあって、御霊によって」、ともに組み合わせられ、建て上げられながら、聖なる宮(神の臨在の住い)として、さらに成長していく、ということになります。この場合、御子と御霊の働きは、「主にあって」と「御霊によって」の訳語で、よりふさわしく表現できると思います(ギリシャ語では同じ前置詞「?ν」)。両者は一つですが、完全に同じではなく、其々の働き(役割)において区別できます。
これまでも時々触れて来たことですが、ここも、「御子と御霊」の関係について考えさせられる箇所です。ギリシャ語では、「エン」という同じ前置詞が使われていますが、日本語訳になると、「御子にあって、御霊によって」と訳し分けることができます(これは、正しいと思います)。
教会論に関して、いつでもではないかもしれませんが、「御子にあって」と「御霊によって」で表現される「区別と一致」は明らかです。
どうして聖霊についてやるのか、イエス様のことで十分ではないかと時々思うことがありますが、エペソ書2章21節や22節を並べて考える時、御子と御霊に関する教会論的な区別と一致があって、これらを否定することはできないと思うのです。
これからも、救済論(救いと成長)や終末論だけでなく、教会論における御子と御霊の区別と一致についても考えていきたいと思います。
お読みくださり、感謝します! | | 2024-10-04 20:57:55[投稿番号:394] |
本と私? | | 今週、ある牧師さんに本を引き取っていただきました! | 今週、ある牧師さんに、牧会関係の本(200冊以上)を引き取っていただくことができました!妻は、本だなにすき間ができたのを見て、喜んでおりました!
いつか、その時が来ると覚悟しておりましたが、いざ、本棚のすき間を見て、寂しいような、ホッとしたような、複雑な思いになりました。持って行っていただく本を整理していたとき、これらの本を読んで学んでいた頃の自分を思い出したりしていました。
本を整理するとか、片付けるとか、処分するとか…これらは、これまでの自分自身の学びや牧会の働き、大げさに言えば、自分自身の生きて来たことを捨てていくこと、切り捨てていくを意味しています。
これも一つの再献身かもしれませんが、今の心身の状態、今後の生活やご奉仕などを考えながら、これに見合った生活リズム、生活内容に調整していく必要がありますね。そうでないと、後で家族が大変になります。
これからも、本を少しずつ、削って(?)いきたいと思っています。説教関係:40冊位、聖書解釈関係:100冊位、伝道や福音主義:100冊位、霊性:250冊位、聖霊(論):300冊以上。さらに注解書や聖書神学関係:500冊?組織神学、歴史神学…事典類…とにかく、キリがありませんが、身軽にしていきたいと思います。しなければなりません。
独り言のようなものを読んでくださり、感謝いたします。皆さんの中で、まとめて引き受けて下さる方がおられましたら、ご連絡ください。個別ではなく、ジャンルごとにまとめて引き受けて下さる方、大歓迎です!(まだ、しばらくは持っていたい本やジャンルもありますが)すべて感謝いたします! | | 2024-09-27 18:03:38[投稿番号:393] |
私と説教準備について | | 牧師として約47年間、説教させていただいた! | ある牧師さんから、「先生は、説教準備の中で、以前の説教原稿を見ますか」という質問を受けたことがあります。
私の答えは、「いえ、全くありません!探せば、前に説教した原稿はあると思いますが…」だったと思います。
以前、一度だけ(?)調べたことがありましたが、以前の説教原稿にあった内容のほうが優れていて、想像力も豊かであることを感じました。しかし、なぜか、使う気にはなれませんでした。その時はその時で、今の私と神様(みことば)と礼拝に来られる皆さんの状況は違うからです。また、その時点まで、タイムトゥリップするのが面倒だったのかもしれません。
正直言いますと、頭が固くなり、視野も狭くなり、もの忘れも激しくなり、苦しい現実があります(説教を聞いて下さる皆さんはもっと苦しい!)。また、しばしば、そういう現実に気づいていない自分もあります。
ただ、以前の自分とかなり違う部分の中で、多くのネガティブな事の中に、少しですがポジティブなことがあることも確かです。例えば、聖書を読んでいて、以前なら分からなかった箇所の意味がより広く、より深く考えられるようになったということです。もちろん、すべてではありませんが、今でも、いろいろと発見すること、気づくことがあり、感謝しています。
そしてそんなことを、すぐにではありませんが、(いつかの)説教に生かしていきたいと思っています。
説教イコール私自身の生き方ということにはなりませんが、少しでも日々教えられていることを説教として語り、また語ったことを自分自身の歩みの中に生かしていきたいと願っています。
そういう意味で、説教と私自身の生き方は切っても切れない関係にあります。神様との交わりの中にあるもの、教会の兄姉との交わりの中にあるものと言えるでしょう。
まとまりませんが、お読みくださり、感謝いたします。9月も後半に入ります。「私塾」が10月から始まりますので、いろいろと考えております。お祈りを感謝いたします。ハレルヤ! | | 2024-09-20 17:22:14[投稿番号:392] |
お祈り感謝いたします! | | 8月16日のブログのつづき | お祈りをかんしゃいたします!
8月16日のブログに、「転移」があるかどうかについて9月に検査結果が出ると書きましたので、報告をさせていただきます。
転移は幸いありませんでした。感謝いたします。
この結果次第で、「私塾」を考えなければならないかもしれないと思いましたが、大丈夫でしたので、私塾の秋学期の案内を皆さんに送りました。
今後のことに関して、放射線治療を考えておりましたが、医師からの勧めで、3か月毎の検査(経過観察)と一年後の生体検査をすることになりました。しばらくは、このまま、「癌」をいただきながら、歩ませていただきたいと思っております。お祈りをありがとうございました。
現在していることは、毎日の牧会の働きとともに、牧会書簡における聖霊についての学び(もう少しでおわります)、若手?牧師会で使用する予定の「リーダーシップを育てる」ことについて約30年前に書いた小論文(英語)がありましたので、これを日本語に訳しています。夏の間、少しずつやって来て、ほとんど終わったところです。関心のある方はご連絡ください。これから、稲沢教会の役員会の学びでも使用していきたいと考えています。
主にある変わらないお交わりを感謝いたします! | | 2024-09-13 18:10:11[投稿番号:391] |
神様の遍在と御霊の内住について | | 遍在の凄さ、内住の凄さ | 朝の祈りの中でいつも告白していることばがあります。
その一部ですが、こんな感じです。「…無限、絶対、永遠、完全、遍在、栄光の神様は、私のお父さんです!」
この中で、最近いつも気になる言葉は、「遍在」です。これは、気になるだけではなく、時々、畏怖と親密さを感じるすごい言葉です。
「遍在」の意味は、神様がいつでも、どこにでも、おられるということで、祈っている時、祈っている私と共に、「いつでも、どこでも」共にいてくださるということでもあります。
時々、この偉大さを忘れてしまいますが、最近は違います。私自身が知っている偉大な神様が、今、祈っているこの私と共におられることをより強く意識します。短く黙想します。すると、これは、凄い事が起こっていることに気づくのです。遠い所に、今の私とほとんど無関係に神様がおられるのではなく、この私にも個人的に直面しておられ、個人的に臨在しておられ、個人的に交わっていてくださるのです。
もう一度いいますが、これは、凄いことが起こっていることを意味します。奇跡が起こっているのです。お祈りしている私の真ん前におられるのです!!
この遍在の神様の臨在感は、さらに「御霊の内住」に繋がります。私の知っている神様は、大きすぎて、偉大過ぎて、私の世界や社会、この地球に入って来れないのですが、その代わりに、代理として、ある意味で「身体のない御霊」が、なんと私のからだ(心と身体)に入って来て、住んでいて下さるのです。
毎朝、御霊の内住について意識し、祈るようにしていますが、偉大な神様の御霊が、私の心や身体に来て、住んでいて下さることも、大変な奇跡なのです。現在的で、継続的な奇跡を意味しています。これが、ある意味、毎朝、毎日起こっているのです。
こんなすごい現在的奇跡が毎日起こっているのに、これに慣れ、当たり前のようになってしまう私ですが、なんとか、この奇跡を思い起こし、感動し、味わい、歩み続けていきたいと思っています。
やっとホンの少し涼しくなりましたので、外に出て、黙想、瞑想の散歩をしていますが、神様の遍在の恵み、御霊の内住の恵みを感じ、味わうのに一番よいと思います。きょうも、皆さんに、おすすめしたいと思います。ハレルヤ! | | 2024-09-06 18:02:48[投稿番号:390] |
もう一度、「祈り」について | | いつまで経っても終わらない課題…いのり | 最近、もう一度、「祈り」について考えている。
「祈り」と言えば、お願いの祈り、とりなしの祈り、感謝の祈り、悔い改めの祈り、礼拝の祈りなど・・・いろいろあります。これらを網羅する祈りは、またはこれらの祈りの中心にある祈りは、何かといえば、私は、「神様との交わり」と答えたい。これは、確かに祈りのすべてを網羅するが、同時に、すべての祈りの中心にあるものと言える。
最近、(自分の)願いの祈りと交わりの祈りの関係について、たぶん、初めて考えるようになった。このことを考えるきっかけになったことがある。それは、とりなしの祈りである。
とりなしの祈りとは、簡単に言えば、他の兄姉について、神様に祈り、とりなすことである。その多くは、兄姉がもっている願いに関係している。
さて、とりなしの祈りを毎日続けていて、気づいたことがある。それは、とりなしの祈りとは、ただその人の名前や祈祷課題を神様に申し上げることだけではない。重要なことは、神様との交わりの中で、他の兄姉について思い、考え、そして兄姉の願いを申し上げることである。時には、その願いを申し上げない場合もある。こうして、神様と私ととりなしているその人の関係が、正三角形(?)になるわけです。
なぜ、こんなことから、「願いのいのり」と交わりの祈りの関係について考えるようになったかと言いますと、「(自分の願いなどについての)お祈り」をしていると、その願いを言うことだけに気を取られて、耳を傾けていて下さる神様をあまり意識しないで祈っているのではないかと思ったからです。これでは、上記の正三角形ではなく、時には、神様以上に、願いや、願いを言うことのほうが重要になってしまう可能性があるのです。
こうして、願いの祈りをすることは多いのですが、その時には、「願い」や「願いを言うこと」が一番ではなく、神様との交わりを大切にしながら、それを意識しながら、その中で、願いを言い表すことが、真の「願いの祈り」ではないかと考えるようになりました。
まだまだ、十分ではありませんが、少しずつ、自分の「願いの祈り」を変えていきたいと思っています。変えられていきたいと思っています。
まだ、まだ、「祈り」についても、「悟れない」私ですが、真の祈りのあり方を求めていきたいと願っています。ハレルヤ! | | 2024-08-30 19:26:09[投稿番号:389] |
私と孫たち | | お祈りを感謝いたします! | 今週、久しぶりにやってきた子どもたち、孫たちもいましたが、きょう、東京に戻りました。今週は、9人で一緒に食事をし、一緒に寝ましたので、本当に大変でした。ずっとキャンプをしているようで、かなり疲れました。妻と私は、本がある物置部屋のようなところに引っ越しをして眠りました。冷蔵庫の中のものはほとんど空っぽになりました。嬉しい限りですが、今、ホッとしているところ、いつものペースに戻ることができました。
子どもたちや孫たちが来ますと、毎回、お祈りのカードを渡して、書いて(更新して)もらうことにしています。今回も、書いてもらいました。祈りのカードを読みながら、子どもたちや孫たちの成長を感じます。とにかく、毎朝、これらの祈りのカードに目を向け、想像しながら、神様にお祈りをしています。
私の願っていることは、当然ですが、孫たちも、神様とお会いして、神様を個人的信じることです。無理やりにできませんし、「神様を信じてください!」とお願いすることもできませんが、祈りながら、ゆっくり、じっくりと、神様の時を待っています。
55年前に神様を信じましたが、たくさんの人々の祈りと献身、助けをとおしてここまで来ました。そして、少しでも、神様の憐れみと恵みによって、信仰の輪が広がっていくことを願っています。
帰っていく、子どもたちや孫たちを見送りながら、祈りました!
感謝いたします!ハレルヤ! | | 2024-08-23 18:21:28[投稿番号:388] |
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