祈りについて | 祈っていない時の祈りについて考える | 祈りについて、ずっと前から考え、求めて来たことについて、また取り上げたいと思います。
それは、お祈りしていない時、どのように神様と交わり、神様と共に歩むか、生きるか、ということです。さらに、説明しますと、私は、毎朝5時20分に起き、準備し、だいたい5時半から教会の講壇の後ろでお祈りします。そして、その後、だいたい20分から30分位、個人聖研をします。そして、祈りの続きとして、また、個人聖研などで教えられたみことばの恵みをもとに、「お祈り散歩」に出かけます。最近は、身体の健康のことも考え、これを、20分間ではなく、30分間に延ばしています。前にも言いましたように、私は「散歩」は嫌いですが、みことばの恵みを思いめぐらしながら、また、神様と交わりながらの瞑想(黙想)でしたら、散歩は可能なので、これをつづけています。
ただ、最近は、朝と言っても、超暑いので、全体の時間を少し早めることも考えています。
その後、できるだけ(できないこともありますが)、午前10時、午後2時、5時、夜8時にお祈りの時間を持っています。長くありません。1分間かもしれないし、もう少し長いかもしれません。いずれにしても、ここで、神様との交わりを確認し、調整しています。そうでないと、自分のことしか考えないで一日が過ぎてしまう危険があるからです。
さて、本題です。私自身が問題にし、求めていることは、このような祈りと祈りの間に、どのように神様と交わり、歩むことができるかということです。当然のことですが、祈りと祈りの間には、仕事がありますと、学びがありますし、集会や交わりなどもあります。
雑用?もあるでしょうし、買い物や片付け、食器洗いやPCで調べものをしている時もあります。車を運転している時、電話をしている時もあります。私には、このような時にこそ、どのように神様と交わりながら、行動できるかという課題や問題があります。
集中する時、それは、二つのことではなく、ほとんど一つのことに集中します。ですから、神様と神様の臨在ではなく、仕事、学び、その他のこと、目の前におられる「人」に集中することになります。当然のこと、自然なことで、神様もよくご存知です。私の限界を!
ただ、私としては、このような場合でも、できる限り、神様とその臨在について考え、味わい、歩ませていただきたいのです。
時々、どうしたらいいのだろうか、と考えることがあります。人間である限り、この世界に生きている限り、不可能かもしれません。
ただ、最近考えていることを最後に付け加えさせていただきます。それは、エデンの園ではどうだったろうと考えました。神様と人(アダム)との交わりがありました。これは中心です。しかし、さらにアダムとエバの交わりがあり、また、彼らにもある種の「働き」があったと思われます。例えば、エデンを管理することとか。
私は、エデンの園において、これらのことについて、よいバランスがあったに違いないと思いました。神様との交わりを基にしながら、横の交わりも、またエデンでの様々な働きにおいても。
こんなことを考えていた時、天の御国の「完成」は、正にこれらのことのバランスや調和も含まれるのではないかと思いました。私は今、エデンの東において、もがいています。神様との交わりが一番素晴らしいのに、分かっていても、それが実現できないのに、終わりの時には、その完成が与えられるということです。これも、天の御国の喜びの一つではないでしょうか。ハレルヤ! | 2024-07-05 18:20:58[投稿番号:381] |
ローマ8章4‐6節 | 「御霊に従う者は御霊に属することを考え続けます」 | まず、いつも書いていることが始めたいと思います。
キリスト論的に書く(思う)だけでなく、聖霊論的に書く(思う)ことは聖書的でしょうか。
私としては、前者だけでは足りないのではないかと考えます。しかし、時々、本当に「足りない!」のか、イエス様だけで十分ではないかと考えることもあります。
さて、後者を強調する理由の一つは、みことばを使って言えば、ヨハネの16章7節に、「わたしが去っていくことは、あなたがたの益になるのです。」と御子が言っておられるからです。
理由はいろいろ考えられます。御子には、この後、十字架と復活があるからです。こうして、御父のもとに帰られるからです。
また、御子が御座に戻られ、約束の御霊を天から注がれることになっているからです。こうして、(ある意味で)全く新しい時代が始まるのです。それは、聖霊の時代、教会の時代、福音宣教の時代、異邦人の時代です。これが、私の解釈によれば、真の聖霊のバプテスマです。
他に、御子は、この地上では時間と空間に人として限定されて歩まれましたが(これも、御子のへりくだりと私たち人間に対する一致)、御子の後に来られる御霊は、遍在の方です。ですから、全世界的に、同時的に、御霊は「益」の方と言えます。
さて、本題に移りたいと思います。「御霊に従う者は御霊に属することを考え続ける」というみことばは、上記のヨハネ16章7節と並んで、御霊の臨在や働きについて書く(思う)ための積極的な理由になるみことばの一つではないかと最近考えています。
ローマ8章14節を逆に読むことも正しいと思います。「神の子どもはみな、神の御霊に導かれる者である」ので、私たちが子どもとして、神様の御霊に従っていく時、、当然、御霊に属すること、関することについて、考えつづけるのです。これは、自然なことです。そしてその結果が次節にあるように、「いのちと平安」になるのです。
ここで言いたいことは、クリスチャンはみな、神の子どもたちであり、御霊に導かれて歩む存在なので、いつも、「御霊に属することについて考え続けている」ということです。そう言っていいのではないでしょうか。
ですから、結論になりますが、私たちが、ふだん、聖霊について考えることは普通のことであり、自然なことでもあると言うことです。間違いではないし、変なことでもないということです。
私たちが御父や御子について考え、思い、賛美し、語ることも、聖霊に属することですし、またご聖霊ご自身について考えることも、聖霊に属することと言えます。そうではないでしょうか。
最後に、ただ「聖霊について考えておればよい」ということではありません。
聖霊のことばである聖書に基づいて、聖霊について考え、思い、礼拝し、祈り、交わることになります。ハレルヤ! | 2024-06-28 17:38:26[投稿番号:380] |
教会論における御子と御霊の関係 | エペソ2章17‐22節(特に、21節と22節の関係)から | これまでも時々御子と御霊の関係について考えて来ましたが、ここでは、教会(論)における御子と御霊について、特にエペソ書2章21節と22節に絞って考えてみたいと思います。
残念ながら、このブログにおいては、ギリシャ語に基づいた「センテンスフロー」を使って、この二つの節の構造的、内容的類似性を説明することができませんが、結論として、この二つの節は、ほとんど同意的な並行文と言ってよいと思います。
簡単に言えば、二つの節を通して、これまでに御子によって備えられたことに基づいて、教会という建物(交わり)は、主にあって、御霊によって、ともに組み合わせられながら、ともに聖なる宮(神の臨在の住い)へと成長していく、ということ教えられています。
この場合、御子の働きと御霊の働きは、「主にあって」と「御霊によって」で、区別して表現できると思います(ただし、ギリシャ語では同じ前置詞「?ν」が使われています)。
両者は一つですが、完全に同じではなく、其々の働き(役割)において区別できます。
18節も、上記の理解に基づいて同じように理解できます。
意味は、「キリストの御業によって救われ、一つにされた私たち(異邦人たち、ユダヤ人たち)は、一つの御霊によって御父に近づくことができます」ということです。
ここでの御霊の働きは何でしょうか。「一つの(御霊)」とありますので、意識は、御父に近づくことに関する働きというよりも、両者を一つとする交わり、またはそれ以上に、一つとされている両者の交わりを深めたり、導いたりすることを指していると考えます。それは実際に、次節において、「同じ国の民であり、神の家族なのです」とあるからです。
最後にまとめたいと思います。「キリストにあって」は、これまでのキリストの御業に基づいていることを指し、「(ひとつの)御霊によって」は、教会の交わりに対する聖霊の直接的で現在的な働きを意味していると思われます。
ゴールは、「ともに御父に近づき、神の家族(聖徒と同じ国の民)とされ、神の住い(聖なる宮)となる」ことです。18節は、1コリント12章13節とその前後の文脈と、22節は、使徒9・31などと繋がります。
もう一度繰り返して表現すれば、「キリスト」に関しては、御子が教会のためにすでにしてくださった御業に、「御霊」に関しては、現在とこれから教会のためにしていてくださる働きに、関わっておられると言ってよいでしょう。また、絶対とは言えませんが、キリスト論は静的に、聖霊論は動的に、教会(教会論)と関係していると言えるかもしれません。
まだまだ、分からないことが多くて大変ですが、これからも、終末論における御子と御霊の関係などについても考え、教えられていきたいと願っています。むずかしい所をお読みくださり、感謝いたします。 | 2024-06-21 17:49:27[投稿番号:379] |
エペソ5:18「聖霊に満たされ続けなさい」 | いろいろ考えています! | ある人の言葉です。「三位一体を説明してみなさい。そうしようとすれば、気が狂ってしまうでしょう。三位一体を否定してみてください。そうすれば、あなたの魂が失われるでしょう。」アウグスチヌスの言葉です:「もしあなたが三位一体を理解できるなら、それは、神ではない。」
これまでも書きましたように、ずっと御子と御霊の関係について考えています。これ以上考えなくてもいいのではないか、と思う時もあります。しかしもし、ある点や領域で、聖書が御子と御霊を区別しているなら、聖書にしたがって、その区別を理解したいと思います。
神様が、私達をおつくりになった時、造られた私たちについて、最も大切なものとして与えてくださったものがあります。いろいろあるかもしれませんが、私は、何よりも、「真の自由」であると言いたいと思います。これは、神様の愛と憐れみのしるしであり、一番の恵みであると考えます。
神様は、昔も今も、私達の自由を大切にし、取り扱っておられます。ですから、神様の特別介入は少ないのだと思います。私たちの自由に制限を与えるような神様の働きは極力少なくして、できるだけ多くのことに関して、多くの領域において、私達に自由を許しておられると考えます。
しかし多くの場合、私たちの自由の使い方は自己中心的であり、その最悪の問題の結果が「戦争」であると思います。自由を与え、尊び、任せておられる神様は、昔も今も、悲しんでおられます。
ただし、自由を与えていてくださる神様は、私たちをそのまま放っておられるわけではありません。第一に、これまでもそうでしたし、最後の時もそうですが、自由な私たちに、神様は最終的なさばきをくだし、自由の恵みをどのように使ったかを明らかにされます。これは、正に、神様の最後の介入と言えます。
第二に、神様は、そのようにならないように、なる前に、私たちにいくつかの助けと導きを与えていて下さいます。簡単に言えば、聖なる神様を畏れること、御子イエス様の十字架の愛に動かされること、内住の御霊に満たされ、導かれることです。
話は長くなりましたが、私たちに自由を与え、これをいつも尊んでいて下さる神様の方法の一つは、私たちの心に御霊が内住して、私たちを内側から満たし、導くということです。私たちの自由を何よりも大切にしていて下さる神様は、私たちの心に聖霊を遣わし、聖霊が内側から私たちを変え、私たちの自己中心を癒し、導こうとしておられるのです。
何よりも自由を大切にしておられる神様の、現在的で、最も有効な方法が「御霊の満たし」になるのではないかと考えます。これが、神様のギリギリの方法ではないでしょうか。御父を畏れること、御子の愛に促されることとともに、これは、何よりも、有効な神様の方法ではないかと考えるのです。
御子とその愛に満たされる、と言えないことはありませんが、内住の御霊に満たされることこそ、神様の最後の方法、三位一体的な最後の方法と言えるのではないでしょうか。ハレルヤ! | 2024-06-16 18:06:46[投稿番号:378] |
今、学んでいるエペソ書の聖霊について | 3章16節と17節のパウロの祈りについて | ローマ書の聖霊の学びがほとんど終わりましたので、いま、エペソ書の聖霊について学び続けています。今は、まだ初めの段階で、より正確に、より深く学ぶ段階ではありませんが、興味のある箇所を見つけました。3章16節と17節のパウロの祈りです。
第三版の訳と2017の訳と比べるとよくわかりますが、訳の違いがかなりあります。ここは、ギリシャ語や英訳聖書を見た方がよいと思います。一か所だけ、解釈上の重要な判断が要る箇所がありますが、それが、16節です。直訳をしますと、「(御父が)ご自身の栄光の豊かさにしたがって、内なる人におられる聖霊によって、力をもって、あながたがたを強めてくださるように(あなたがたが強められますように)。信仰によって、あなたがたのこころにキリストが住まれますように。」
第三版よりも、2017訳のほうがよいと思いますが、さらにNIV訳、ESV訳などのほうがよいと思います。一つだけ難しい判断が要る箇所があると言いましたが、それは、「内なる人の中に(中へ)」と「聖霊」の修飾関係を明らかにする必要があるということです。私は、次の17節をも参照して(つまり、16節と17節はほとんど同意的な並行文だと考えます)、上記の訳を考えています。
もしこの理解(訳)が正しいとしますと、16節にも17節にも、「内住」があるということです。16節には聖霊の内住、17節には御子の内住です。ですから、最初のところで、興味のある箇所を見つけた、と書いたのです。
では、皆さん。この箇所は、御霊の内住と御子の内住がブツカル所でfしょうか。私は、二重の内住が記されていることに喜び、おどろき、感謝しています。
ただし、厳密に言いますと、聖霊の内住は、パウロが繰り返し書いているように事実ですし、パウロの教えの不動の基盤です。では、御子の内住とは何でしょうか。ちゃんと、17節に「信仰によって」とある通りです。御霊は、事実通り、私たちの心に内住していて下さいますが、御子は、「私達の信仰によって」内住してくださるのです。
これが、パウロの祈りです。敢えて言うならば、内住の聖霊によって私たちは力を受け、強められます。また、御子の内住によって、キリストの愛を知るのです(19節)。
御子と御霊の内住によって私たちは溢れるのです。ハレルヤ! | 2024-06-07 18:36:17[投稿番号:377] |
「みことばが与えられること」について | 最近、考えていることの一つ | 「みことばが与えられる」ことについて、皆さんはどんなふうに考えておられるでしょうか。
私のこれまでの信仰生活において、このことについてはかなり否定的、または消極的であったように思います。ただし、全否定してはいません。
実際に、高校三年生の時(55年前)、自分の将来について考え祈っていたとき、みことばが与えられたからです。今でもそう思っています(マタイ4章19節)。「 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
当時は、別の思いがあって、それが神様の御心であるように願いつつ祈っていました。しかし最後に、すべてをお委ねしたときに、その時読んでいた聖書箇所(マタイ4:19)が私の心に特別な意味をもって飛び込んで来ました。私は、すぐに、神様が「人間をとる漁師にしよう」としておられることを確信しました。
ただし、その後の道がすべて順調だったというわけではありません。大学4年のとき、もう一度、この体験が本当に神様からのものなのか、私が勝手に判断し、みことばを自分自身に当てはめただけなのか、正直にこの問題に直面し、時間をかけてじっくり吟味しなければならなかった時期がありました。迷いに迷って、最後に、再献身して、やっとこのみことばに戻ることができました。
さて、本題に戻りますが、神様は、私達の生活や歩みに関連して、聖書のみことばを通して、直接的に語ってくださるのでしょうか。これらについて、みことばが与えられるように祈るべきでしょうか。
私は、これまでの50年以上の信仰生活の中で、生涯に関わる重大な岐路に立って、「みことばが与えられました!」という証しを何ども聞いて来ました。しかし、あとで分かるのですが、それらの御言葉の解釈や適用が間違っていて、多くの場合、成就していないのを見てきました。
みことばを個別的に解釈適用しすぎる問題、乱用する問題を見てきました。そんなに気軽にみことばを適用してよいだろうかと考えてきました。
ですから、みことばを求めるとか、みことばが与えられたとかについては、かなり躊躇してしまうのです。
しかし、最近少し見方が変わってきたように思います。もちろん、みことばを求めたり、みことばが与えられましたと言うとき、それは重大なことであり、本当に神様を恐れ、遜り、吟味して、自分が間違って解釈適用していないか慎重であるべきことは変わりません。これらのことを軽視できません。
神様が私たちを導かれる時に用いられる恵みの手段はいろいろあります。教会の交わり、兄弟姉妹からのアドバイスや祈り、状況の変化(理性的な吟味や分析、判断も)、礼拝や学び会などを挙げることができます。しかし、これらの中で、一番大切な神様の導きの手段は何かと考えたら、やはり、真っ先に出て来るのは、「聖書のみことば」です。
私たちは、みことばが全ての時代の全ての人々のために書かれた(語られた)ものと考えています。つまり、みことばは、普遍的なものです。しかし、神様の御心によって、御心次第で、普遍的なみことばが、敢えて個別的に、御霊によって用いられることもあるということです。
神様は、おそらく、他の何ものよりも、みことばを用いて、時に個別的に、ご自身のみこころを語り、また明らかにされるということです。
神様のみことばを気軽に使い、乱用する問題はつづいています。ですから、時間をかけ、じっくりと吟味する必要があります。しかしそれでも、神様は、「本当に」個別的に、「あなた自身」に、また「私自身」に、語りかけ続けていてくださると信じます。ただし、最後にもう一度、気軽にみことばを解釈適用する「自分自身」を信じてはいけないこと、まず疑うべきことの必要を強調したいと思います。
ハレルヤ! | 2024-05-31 19:24:17[投稿番号:376] |
イザヤ51章1節から | 揖斐キリスト教会の献堂式! | 今朝のディボーションで読んだ箇所は、イザヤ51章1節でした。皆さんもご存知かもしれませんが、「あなたがたが切り出された岩、掘り出された穴に目を留めよ。」とあります。
イスラエルの人々にとって、それは、次節にありますように「アブラハムとサラ」を考えることになります。
私にとっては何だろう、どこだろうとあらためて考えてみました。やはり、それは、私にとっての母教会「揖斐キリスト教会」です。
そこに、神様の奇しい御業や導きがありました。また、兄弟姉妹たちの祈りや励まし、交わりがありました。また、そこに、共なる礼拝、証し、学び、派遣がありました。
今でも、当時の兄弟姉妹たちの「顔」を思い浮かべることができます。また、手取り足取りで、導いてくださった宣教師の先生、伝道師の先生を覚えます。
実は、ちょうど、今度の日曜日の午後に、揖斐キリスト教会の新会堂の献堂式があります。台風で牧師館が破損し、会堂も道の拡幅工事で移動することになり、新会堂建築の導きが与えられ、このほど完成し、献堂式が持たれることになりました。
牧師先生や信徒の皆さんたちの祈りと献身によって、ここまで導かれたことは、夢のようであり、神様の奇跡であると思っています。
現在の「揖斐川町」の人口は、近隣の村々との合併を通して、約2万人ですが、この小さな町に教会があり、新会堂が与えられたことは驚きです!
本当に「村の小さき教会」ですが、これからも、神様の奇しい導きの中で、礼拝がささげられ、交わりと祈りがあって、この地域の「光」として、「証し」として用いられていくことを願っています。
私にとって、揖斐教会は切り出された岩、掘り出された穴として今も生きた教会として守られていることを賛美いたします!ハレルヤ! | 2024-05-24 17:47:22[投稿番号:375] |
 | | | 2024-05-24 16:20:28[投稿番号:374] |
ローマ8:28について | ローマ書の聖霊について | 現在、ローマ書の聖霊について学んでいるところです。いろいろな課題がありますが、その一つが8章28節をどのように解釈するかということです。少しまとまってきましたので、お分かちさせてください。
28節についても確認することがいくつかあります。第一に、最も重要なこととして、この節の「主語」は何か、誰かです。例えば、新改訳第三版での主語は「神」で、2017訳では「すべてのこと」です。英訳聖書でも同様に分かれています(NIV訳:God、ESV訳:All things)。
まず考えるべきこととして写本上の問題があります。これは、すべての議論の前提になりますので軽視できません。この点についてのより詳細な取り扱いをしている専門家たちの見解は以下のとおりです。Cranfield(425頁以下)は「すべてのことが共に働く」を支持)、Moo(508頁、527頁以下)は条件付きですがCranfieldと同じです。フィー(587頁以下)も「? θε??(神)」が後で加えられたと判断しています。ただし、だからと言って「π?ντα(すべてのこと)」がそのまま主語になるかどうかは決められないとし(「π?ντα」は文法的に主格と対格が同形なので)、最終的にはこれを対格とし、動詞の「συνεργε?」から主語を「彼」と判断しています。とにかく写本上の問題として、「? θε??(神)」が主語になっている写本はありますが、上記の専門家たちが判断しているように、写字生による(意図的?)追加と見てよいと思われます。
第二に、注目点は「π?ντα συνεργε? ε?? ?γαθ?ν」における「π?ντα」の機能と意味です。この点で、上記のとおり、CranfieldとMooは「π?ντα」を主格ととっていますが(「すべてのことがともに働く」)、フィーは「π?ντα」を対格とし、動詞「συνεργε?」から主語を「彼(御霊)」としているからです(「御霊はすべてのことをともに働かせる」)。
それぞれの議論を比較した上で私としては、フィーの議論を支持したいと思います(「π?ντα」は対格で、「συνεργε?」の主語の「彼」は御霊を指している)。ただし、CranfieldやMooのように、「π?ντα」が主格であったとしても、この背後に「御父」というよりも、26節以下の文脈理解から、「御霊」の働きがあると考えたい。
第三に、「π?ντα」が主格か、対格かという議論以上に大切なことがあります。それは、これまで学んで来たこと(特に26、27節)とこの28節がどのような関係があるかということです(もちろん28節は、この後の29節、30節とも関係しています)。
?26節と27節には、終末を生きていく中で弱さを覚える神の子どもたちのために聖霊がうめきのとりなしによって助けてくださることが語られていましたが、28節(29?30節)にも同様な終末論的意識があることは確かです。
?26?27節にある御霊のとりなし(助け)の過程と結果が28節にあるではないかと考えます。それが、「すべてのことについて益となる」という表現に現れていると思います。
?私たち(26節)、聖徒たち(27節)、神を愛する人たち、召された人たち(28節)は、全て同じで、神の子どもたちを指しています。
?これらの共通点、類似点から、26?27節と28節が緊密な関係にあることが分かりますので、28節において主体的な働きをされる方を御霊と考えてよいのではないかと考えます。ただし、上記でも触れましたように、「π?ντα」を主格にとって「全てのことが共に働く」と理解しても、意味はほとんど同じで、基本的にここで意識されている主体は御霊であると思われます(2コリント3・18、ピリピ3・21)。
8章28節は、私たちが大好きな聖書箇所の一つで、よく引用されています。私としては、この箇所の学びのまとめとして、「すべてのことが、私たちの益になるように共に働いている」と言えますが、文脈的に考えると、この背後に、聖霊の豊かな働きがあるから、と言えるのではないでしょうか。ハレルヤ! | 2024-05-17 17:56:57[投稿番号:373] |
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