神様の遍在と御霊の内住について
遍在の凄さ、内住の凄さ
朝の祈りの中でいつも告白していることばがあります。
その一部ですが、こんな感じです。「…無限、絶対、永遠、完全、遍在、栄光の神様は、私のお父さんです!」

この中で、最近いつも気になる言葉は、「遍在」です。これは、気になるだけではなく、時々、畏怖と親密さを感じるすごい言葉です。

「遍在」の意味は、神様がいつでも、どこにでも、おられるということで、祈っている時、祈っている私と共に、「いつでも、どこでも」共にいてくださるということでもあります。

時々、この偉大さを忘れてしまいますが、最近は違います。私自身が知っている偉大な神様が、今、祈っているこの私と共におられることをより強く意識します。短く黙想します。すると、これは、凄い事が起こっていることに気づくのです。遠い所に、今の私とほとんど無関係に神様がおられるのではなく、この私にも個人的に直面しておられ、個人的に臨在しておられ、個人的に交わっていてくださるのです。

もう一度いいますが、これは、凄いことが起こっていることを意味します。奇跡が起こっているのです。お祈りしている私の真ん前におられるのです!!

この遍在の神様の臨在感は、さらに「御霊の内住」に繋がります。私の知っている神様は、大きすぎて、偉大過ぎて、私の世界や社会、この地球に入って来れないのですが、その代わりに、代理として、ある意味で「身体のない御霊」が、なんと私のからだ(心と身体)に入って来て、住んでいて下さるのです。

毎朝、御霊の内住について意識し、祈るようにしていますが、偉大な神様の御霊が、私の心や身体に来て、住んでいて下さることも、大変な奇跡なのです。現在的で、継続的な奇跡を意味しています。これが、ある意味、毎朝、毎日起こっているのです。

こんなすごい現在的奇跡が毎日起こっているのに、これに慣れ、当たり前のようになってしまう私ですが、なんとか、この奇跡を思い起こし、感動し、味わい、歩み続けていきたいと思っています。

やっとホンの少し涼しくなりましたので、外に出て、黙想、瞑想の散歩をしていますが、神様の遍在の恵み、御霊の内住の恵みを感じ、味わうのに一番よいと思います。きょうも、皆さんに、おすすめしたいと思います。ハレルヤ!
2024-09-06 18:02:48[投稿番号:390]

もう一度、「祈り」について
いつまで経っても終わらない課題…いのり
最近、もう一度、「祈り」について考えている。
「祈り」と言えば、お願いの祈り、とりなしの祈り、感謝の祈り、悔い改めの祈り、礼拝の祈りなど・・・いろいろあります。これらを網羅する祈りは、またはこれらの祈りの中心にある祈りは、何かといえば、私は、「神様との交わり」と答えたい。これは、確かに祈りのすべてを網羅するが、同時に、すべての祈りの中心にあるものと言える。

最近、(自分の)願いの祈りと交わりの祈りの関係について、たぶん、初めて考えるようになった。このことを考えるきっかけになったことがある。それは、とりなしの祈りである。

とりなしの祈りとは、簡単に言えば、他の兄姉について、神様に祈り、とりなすことである。その多くは、兄姉がもっている願いに関係している。
さて、とりなしの祈りを毎日続けていて、気づいたことがある。それは、とりなしの祈りとは、ただその人の名前や祈祷課題を神様に申し上げることだけではない。重要なことは、神様との交わりの中で、他の兄姉について思い、考え、そして兄姉の願いを申し上げることである。時には、その願いを申し上げない場合もある。こうして、神様と私ととりなしているその人の関係が、正三角形(?)になるわけです。

なぜ、こんなことから、「願いのいのり」と交わりの祈りの関係について考えるようになったかと言いますと、「(自分の願いなどについての)お祈り」をしていると、その願いを言うことだけに気を取られて、耳を傾けていて下さる神様をあまり意識しないで祈っているのではないかと思ったからです。これでは、上記の正三角形ではなく、時には、神様以上に、願いや、願いを言うことのほうが重要になってしまう可能性があるのです。

こうして、願いの祈りをすることは多いのですが、その時には、「願い」や「願いを言うこと」が一番ではなく、神様との交わりを大切にしながら、それを意識しながら、その中で、願いを言い表すことが、真の「願いの祈り」ではないかと考えるようになりました。

まだまだ、十分ではありませんが、少しずつ、自分の「願いの祈り」を変えていきたいと思っています。変えられていきたいと思っています。

まだ、まだ、「祈り」についても、「悟れない」私ですが、真の祈りのあり方を求めていきたいと願っています。ハレルヤ!
2024-08-30 19:26:09[投稿番号:389]

私と孫たち
お祈りを感謝いたします!
今週、久しぶりにやってきた子どもたち、孫たちもいましたが、きょう、東京に戻りました。今週は、9人で一緒に食事をし、一緒に寝ましたので、本当に大変でした。ずっとキャンプをしているようで、かなり疲れました。妻と私は、本がある物置部屋のようなところに引っ越しをして眠りました。冷蔵庫の中のものはほとんど空っぽになりました。嬉しい限りですが、今、ホッとしているところ、いつものペースに戻ることができました。

子どもたちや孫たちが来ますと、毎回、お祈りのカードを渡して、書いて(更新して)もらうことにしています。今回も、書いてもらいました。祈りのカードを読みながら、子どもたちや孫たちの成長を感じます。とにかく、毎朝、これらの祈りのカードに目を向け、想像しながら、神様にお祈りをしています。

私の願っていることは、当然ですが、孫たちも、神様とお会いして、神様を個人的信じることです。無理やりにできませんし、「神様を信じてください!」とお願いすることもできませんが、祈りながら、ゆっくり、じっくりと、神様の時を待っています。

55年前に神様を信じましたが、たくさんの人々の祈りと献身、助けをとおしてここまで来ました。そして、少しでも、神様の憐れみと恵みによって、信仰の輪が広がっていくことを願っています。

帰っていく、子どもたちや孫たちを見送りながら、祈りました!
感謝いたします!ハレルヤ!
2024-08-23 18:21:28[投稿番号:388]

お祈りを感謝いたします。
ブログに書こうか、どうしようか、ずいぶん迷いましたが、小さなことではないので、少しだけ書かせていただくことにしました。

今週、「生体検査」の結果が出て、ステージ1であることが分かりました。経過観察か、手術か、放射線治療か、選ぶことになります。また、その前に、9月初めに転移がないか検査をすることになりました。

ご心配をおかけしてはいけませんので付け加えますと・・・自分で言うのもなんですが、落ち着いておりますし、今までと全く変わらない生活をつづけております。神様への信仰、信頼のせいか、それとも、「ステージ1」だからという変な安心感から分かりませんが、皆さん、大丈夫ですので、ご安心ください。

私の先輩たちや同年代の仲間たちの中で、少しずつ、天に召される兄姉の数が増えつつありますが、年齢的に、また癌的に(変なことばですが敢えて使いました)、2重に自分の生涯の終わりの「時」をこれまで以上に意識できることは感謝です。これまでは、年齢的にだけでしたが、癌をいただくことによって、さらに考えられるようになりました。

できれば、限られた歩みの中で、神様から委ねていただいた使命や働きをよりよく全うできればと考えております。
教会の奉仕も、ご聖霊についての学びも、「若手?牧師会」や「塾」の学びも、許される限り、続けていくことができれば幸いです。

ブログに書きながら、変なお願いですが、絶対ではありませんが、できるだけ、他言無用でお願いします。

皆さんのお祈りを感謝いたします。これからも、たぶん、変わらないとおもいますが(しばらくは・・・)、よろしくお願いいたします。ハレルヤ!
2024-08-16 19:58:16[投稿番号:387]

「御名」で祈れる幸い
難しさと素晴らしさ
今週の礼拝では、ヨハネの14‐16章にあるイエス様の遺言の一つから、祈りについて教えられた。テーマは、「み名で祈りなさい」でした。
メッセージの中でも繰り返しお話しましたが、これは、ただ私たちの祈りの言葉の最後に「イエス様のお名前で祈ります」ということではない。
もっともっと根本的で聖霊的なことです。「み名」は、この地上におけるイエス様の生ける臨在と言えますので、み名で祈ることは、御子と交わり、御子と一つになって祈ることと言えます。ほとんど、「永遠の命の交わり」と呼んでも間違いではないと思います。

とにかく、御子(と御父と御霊)との交わりの中で祈ることです。ですから、自分勝手な祈りは少なくなるはずです。もちろん、それでも、私達の思いは限られており、罪人のかしらなので、私の今の祈りは神様(イエス様)のみこころと完全に一つであるとは言えないでしょう。

「み名」で祈ることの限界や難しさがあります。これを認めて祈ることが大切です。しかし他方で、御子と御霊によって、私達が、み名で祈ることができるように、全て備えられていることも事実です。御子の十字架によって、御霊の臨在、助け、とりなし(うめき)によって、導かれて祈ることができるようにされている恵みは確かにあります。

「み名」で祈ることは、ただお願いの祈りをすることではないでしょう。ですから、それがすぐに聞かれたか、どうかでもありません。み名で祈ること、祈れることの中心的なことは、また、その幸いは、御子との交わり、御父、御霊との交わりがあるということです。

きょうも、御父と御子と御霊と交わりながら祈る喜び、幸いがあります。その中から、何を祈るか、また祈って何をすべきか、出て来るのではないでしょうか。

まとまりがありませんが、み名で祈ることの難しさや限界を認めながらも、み名で祈れる、み名の中で交われることの幸いを強調したいと思います。ハレルヤ!
2024-08-09 18:01:10[投稿番号:386]

今、毎日へブル書を読んでいます。
御子と御霊について
ディボーションでは、パウロ書簡が終わったので、今は、へブル書7章まで来ています。毎日の糧として読むことと、その中で、御子と御霊について意識して考えるようにしています。

へブル書ももちろん、三位一体ですが、それでも、へブル書は特に、キリスト論が中心、ほとんどすべてがイエス様のことを語っていると言えます。よく読んでいきますと、すでに1章から、キリスト中心で、特に、天の御座におられるキリスト、大祭司イエス様のことがずっと意識され、書かれています。あらためて読んでみて、びっくりするくらい、このことが徹底しています。

しかも、付け加えておきたいことは、御子がおられる天の御座は非常に「近い!」ということです。もちろん、今の私たちがいる地上とは絶対的な区別がありますが、しかしそれでも、その上で、教えられることは、御子がおられる天の御座は「近い!」ということです。

例えば、4章14‐16節を読んでみてください。大胆に恵みの御座に近づくことができます。しかも、折にかなった助けがあたえられるのです。つまり、タイムリーな助けが与えられるのです。これは、私たちにとってのタイムリーというより、神様の前にタイムリーということです。ハレルヤ!

さて、いつものように、ご聖霊についても考えてみました。聖霊のことについて何も書かれていないのではありません。特に、注目したことを二つ取り上げたいと思います。

一つは、3章7節(9章8節、10章15節)です。ここでの聖霊の働きは、昔、旧約時代に語られたみことばを後の時代(へブル書が書かれた時代、今の私たちの時代)に持って来て適用されることです。神学の用語では、「照明」の働きに含まれると思います。
とにかく、ご聖霊は、旧約のみことばを用いて、新約時代の人々に、また旧約と新約のみことばを用いて、今の私たちに語りかけてくださると言えるでしょう。これまでに、聖霊の啓示や霊感の働きについては触れて来たと思いますが、ここでは、照明の働きの例があると言えるでしょう。

聖霊に関して、もう一つ注目したことは、6章4節の「聖霊に与る者となる」というところです。これも、非常に意味のあるみことばです。ここには、よく知られている「コイノニア」(交わり)という言葉は使われていませんが、これに非常に近い「メトコス(一緒に持つ)」という言葉が使われています。「・・・に与る、名詞にすると、パートナー、パーテーカー」の意味になる言葉です。簡単に言うと、クリスチャンになると、「聖霊に与る人になる、聖霊のパートナーになる」ということです。

前後には、この言葉の詳しい説明はありませんが、そのまま読んで、クリスチャンは、イエス様を信じて、聖霊に与っている人、聖霊のパートナーになっている人と言えるでしょう。これだけでも、嬉しいことです。感謝いたします。

これからも、少しずつ、パウロ書以外で、御子と御霊がどのように語られているか注目し、教えられていきたいと思います。ハレルヤ!
2024-08-02 18:04:14[投稿番号:385]

3日入院して・・・
天井を見上げながら
検査入院なので、本当に入院しておられる方々から見れば、「入院」にあたらないと言われるかもしれません。確かにそうです。
ただ、私のとっては何年ぶりかの入院であり、ストレッチャーに乗ったのは初めて?、そして絶対安静(頭を枕から離してはいけない!)で17時間ベッドに「はりつけ」状態になりましたので、それなりに大変な経験でした。

今回の入院で特に考えさせられたのは、今与えられている「いのち」のために、病院で働く方々の一生懸命さ、集中、丁寧、システマティックなどについてです。身をもって経験させていただきました。「いのち」は大切なので、当然と言えば、当然のことと言えますが、私たちに今、与えられている「もう一つのいのち(永遠の命)」についてはどうであろうか、と考えました。

信じていない人にとっては関係がないものに見えるかもしれませんが、私たちクリスチャンや牧師にとっては重大なことだと言えます。「もう一つのいのち」とは、永遠のいのちのことですが、このいのちのために、集中する、一生懸命、丁寧、システマティックとはどういうことか、どうすることを意味しているのでしょうか。いろいろ考えさせられました。

まず何よりも、神様が、私たちに永遠の命を与えるために熱心、集中、一生懸命であり、そのためにこそ、クリスマスも、十字架もあったと言えます。

では、私や私たちの教会は、神様によって備えられた永遠のいのちについて、どんなことをすることがふさわしいと言えるのでしょうか。

神様は何よりも大切なものとして、「自由」を与えていて下さるので、「無理やり」も間違っているし、「マインドコントロール」も誤りです。ただ、心から愛をもって祈り、とりなし、待ち続け、与えられた機会を生かすことになるでしょう。それしかないかも。ただし、私たちは、永遠のいのちの素晴らしさを確認し、喜び、生き、お分かちしていくことが不可欠ですね。きょうも、二つの命が与えられ、二つの素晴らしい命で生かされているので、これを味わい、喜び、応答して歩ませたいただきたいですね。

どうしても焦ったり、ヤキモキしたりしてしまうのですが、まず今週も、与えられている二つのいのちを味わい、大切さと素晴らしさを確認したいと思います。アーメン!
2024-07-26 20:57:14[投稿番号:384]

エペソ書の聖霊
いろいろな発見!
『舟の右側』で、聖書の聖霊について連載させていただいていますが、旧約から新約、福音書から使徒の働き、そしてパウロの聖霊の中のローマ書まで来ています(テサロニケ、ガラテヤ、コリント、そして今、ローマ書です)。

あらためてじっくり聖書から学ぶことによって、聖霊について新たに教えられること、発見させられることがいろいろ出てきます。
実は、現在の私は、個人的に、ローマ書の後で、エペソ書の聖霊について学んでいます。今、ほとんど終わろうとしているところです。

エペソ書の聖霊の学びを通して驚いています。これまで、聖霊論的に、それほどエペソ書に注目したことがなかったからです。もちろん、5章18節(御霊に満たされなさい)など、重要な箇所がありましたので、部分的には学んで来ました。しかし、今回は、エペソ書全体における聖霊について学んでいく中でいろいろ大切なことを教えられました。以下にその一部ですが、紹介したいと思います。

 第一に、聖霊の臨在と働きに関して、何よりも重視されるのは聖霊の内住についての教えになると思いますが(エペソ書における聖霊についての教えも聖霊の内住が前提・土台)、ここでは、より明確に、「(文字通りに)聖霊が与えられるように」という祈りがなされています(1・17)。聖霊が「知恵と啓示」の御霊であることはこれまでの学びの中でも確認して来たとおりですが、ある意味で、「外」におられた御霊が私たちの「内」に来られるようにという祈りは珍しい例になると思います。聖霊は、内住だけの御霊ではないかことがここからも分かります。

 第二に、聖霊の教会論的関わりや働きについて、また、御子との関係についても知ることができます(一致と区別)。御子は、「キリストにあって」ということで教会に関わり、御霊は、「御霊によって」ということで教会に関わっておられると言ってよいでしょう。すべての面でということではありませんが、少なくとも、エペソ書のみことばにおいては、「キリストにあって」はこれまでのキリストの御業(十字架と復活)に基づいて、ということであり、「御霊によって」は、現在から未来へ、聖霊が教会に現在的に、終末論的に働き続けておられるということです(2・17?22、3・16‐17、4・1?5、5・18―6・9)。

  第三に、6章10‐20節などにありますように、非常に、悪魔・悪霊との霊的な戦いが意識され、そういう意味で、正統な聖霊理解、霊的な戦いとその実際についての教えがあるということです(他にも参考箇所として、2・1?7、4・14、4・27、他にも様々な罪や暗闇の業と悪魔・悪霊の働きは区別できない)。エペソの町を中心に、このような悪霊的、偶像的な問題が顕著であったと思わされますが、そのような文化的背景の中にいるエペソの人々への聖霊的な教えは必須だったと言えるでしょう。

  第四に、3章16‐17節を中心に、御子の内住と御霊の内住について考えることができました。御子も御霊も、三位一体的に一つであり、「内住」の恵みについても同様です。しかしさらに、ここでは、一致とともに、区別があることも確かです。パウロがそのように意識しているのですから、私たちも一致と区別を軽んじないようにしたいと思います。このことについては、前回のブログでも書いています。

  第五に、確かに、エペソ書には聖霊論的に、注目できる重要な御言葉があります。一つは、4章30節の「聖霊を悲しませてはいけません」で、もう一つは、5章18節以下の「御霊に満たされなさい」です。前者は、イザヤ63章10節からの引用であると思いますが、比喩ではなく、本当に聖霊が、人格的に「悲しまれる」お方であることは注目に値します。また、後者の「御霊に満たされなさい」からは、聖霊が、教会の礼拝や交わり、教会生活や家庭生活全体に深く関わっておられるお方であることが分かります。「御霊の満たし」の教え(命令)の深さ、広さを感じます。信仰生活について説明するとき、「御霊の満たし」なしに説明することはほとんどできないでしょう。

今回のエペソ書の聖霊についての学びを通して、聖霊論的に、エペソ書も重要な書のひとつであることがはっきり分かりました。ハレルヤ!
2024-07-19 19:58:00[投稿番号:383]

二つの内住のめぐみ
御霊の内住と御子の内住
すべてではありませんが、新約聖書にある「内住」、またはこれに近い表現から、私たちに与えられている二つの内住の恵みについて教えられたいと思います。

最近、エペソ書における聖霊について学んでいたとき、4章16‐17節に注目しました。16節には、解釈にもよりますが、「内なる人におられる御霊」について、17節には、「信仰による御子の内住」について記されているように思ったからです。ここでの違いは、御子の内住は、「信仰によって」与えられていることです。

ローマ8章10節は、「キリストがあなたがたのうちにおられるなら」とありますが、私としては、「キリスト(の御霊)」の省略があるのではないかと考えました。

ガラテヤ2章20節には、「キリストが私のうちに生きておられるのです」とあります。これは、その前の「もはや私が生きているのではなく」とありますように、比喩的な、信仰的な表現であることが分かります。実際に、20節の後半でも、「私は信仰によって、神の御子と生きている」と言っている通りです(これは、文字通りの意味に近いでしょう)。いずれにしても、この2章20節は、文字通りの、御子の内住とは言えないと思います。信仰による御子の内住です。

2コリント13章5節には、「自分のうちにイエス・キリストがおられることを」とあります。実は、5節の前半に「信仰に生きているかどうか、自分自身を試しなさい」とあって、信仰の内容が、端的に「自分のうちにキリストがおられること」を指していると思われます。これが正しいとしますと、私たちのうちにキリストがおられるということは、信仰の内容ということになります。

コロサイ1章27節には、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」とあります。ここの前後に「信仰」ということばはありませんが、「栄光の望み」が終末的で、再臨のキリストとその完成を指していることは確かです。ですから内容的に、この箇所も、信仰をもって、再臨のキリストを待ち望んでいるという意味で理解できると思います。

以上のことをまとめるとどんなことが言えるでしょうか。第一に、特に手紙を読む時には、個人的に、また教会的に読まなければなりません。どちらかについて言われている時と、両方が重ねられて語られていることがあるからです。第二に、空間的に言えば、御霊はいつも私たちの内に内住しておられ、御子は天の御座の御父の隣におられるということです。第三に、しかし同時に、三位一体的に言えば、御子の内住はあるし、何よりも、「信仰的に」ありうるということです。

私たちには、個人的に、教会的に、二つの内住の恵みが与えられています。一つは、事実通り(空間的に)、聖霊の内住はいつも与えられているということです。もう一つは、御子の内住が、三位一体的に、また信仰的に与えられていると言うことです。

聖書が教える内住に関しても、区別と一致(協働)があります。御霊と御子の内住は区別されていますが、同時に、神様の豊かな恵みとして、私たちに、事実通りの御霊の内住と、信仰による御子の内住が与えられていると言えます。内住の恵みも豊かです。ハレルヤ!ハレルヤ!
2024-07-12 21:05:21[投稿番号:382]