創世記から黙示録までの聖霊
お祈りを感謝いたします!
約三年前に、『舟の右側」(地引網出版)の代表の谷口さんから許可をいただいて、創世記から黙示録までの聖霊についての連載が始まりました。

そして今週、暫定的で、原稿の段階ですが、黙示録の聖霊の学びを終えることができました!本当に感謝いたします!途中、体調の問題などありましたが、ここまで守られ、感謝いたします!

一つは、ゴードン・フィー先生の『God`s Empowering Presence』(パウロ書簡全体における聖霊についての研究)がありますが、これと対話しながら、パウロの手紙すべてにおける聖霊について、自分なりにもう一度学び直したいという思いがありました。

もう一つは、フィー先生のものは、パウロ書簡だけなので、旧約も、新約の他の書における聖霊についても、徹底的な学びたいという思いがありました。

こうして、3年ちょっとかかりましたが、聖書全体における聖霊について、自分なりのやり方でしたが、すべてを終えることができました。
ここまで、守って下さった神様に感謝しましたし、このために協力し、助け、励ましてくださった兄姉の皆さんに感謝したいと思います。

あとは、最後に、これらをどのようにまとめるかですが、少しでも使いやすく、分かり易い形で、まとめていきたいと考えています。「ちょうどいいかげんに」まとめることができますように!

これまでの皆さんのお祈りを感謝いたします!神様のみ名を賛美いたします!
2025-02-18 17:31:51[投稿番号:424]

黙示録の学びから
「悔い改め」のめぐみ
1月から毎週木曜日の聖書研究祈祷会で黙示録を学ぶようになりました。最も難しい書(の一つ)だと言えますが、皆さんとじっくり学ぶようにしています。

今週で5回目になりますが、2章が終わったところです。2章と3章に7つの手紙がありますので、そのうちの4つの手紙が終わりました。これまでの学びで、特に気づいたのは、御子と御霊によって、4つの内の3つの教会に「悔改め」の命令が繰り返されていることです。3章は来週以降に学ぶ予定ですが、3章でも、3つの教会の内の2つの教会に対して「悔い改め」が求められています。

あらためて、「悔い改め」の大切さと、これが、エデンの東で、神の子ども達として生かされている者達に対する神様の憐れみの命令であることを知ります。「悔い改める」ことほど、本質的なことばはないし、すでに成就した御子の贖いの業と現在的な聖霊の内住の働きに適ったあり方はないと考えます。

悔い改めることは、御子の贖いのめぐみに立ち返ることであり、罪をそのままにされない内住の御霊のうながしに従うことです。私達の神様は、私達に与えていてくださる「恵みの道」に、このような悔い改めの道を教え、促し、命じ、そしてまた、ともに歩もうとしていてくださるのです。

きょうも、自分自身に向き合い、吟味させていただき、へりくだって、悔い改め、恵みの道を進ませていただきたいと思います。ハレルヤ!
2025-02-07 18:34:48[投稿番号:413]

御霊の人格(性)から三位一体を知る!
聖霊についての学びから
何年か前に、エホバの証人の長老さんたちの家を訪問し、ご聖霊について議論したことがありました。以前、イエス様のことについて議論したことがあるので、今回は、ご聖霊のことについて話し合いましょう、と私のほうから提案しました。

実は、エホバの証人の方々にとって聖霊は、神的な「力」であって、人格のないものであるからです。私は、聖書のいくつかの箇所から、御霊の人格性について説明しましたが、長老さんたちの答えは、一貫して、それらは「比喩」であるというものでした。

後で、また話し合いましょうと連絡したら、あなたは、私達の信仰の害になるので、話し合うことはできませんと断られてしまいました。

ご聖霊の人格性について、少しだけ触れさせていただきたいと思います。なぜなら、このことによって、聖霊をよりふさわしく知り、私達の三位一体理解はより現実的で、より確かなものとなるのではないかと考えるからです。

聖書の中から、特に聖霊の人格性が明らかになる箇所を選んでみたいと思います。?エペソ4章30節「神の聖霊を悲しませてはいけません」…これはまた、イザヤ63章10節から引用であると思われます。 

?マタイ12章31-32節(また、他の類似箇所)「聖霊に対する冒涜は赦されません。聖霊に逆らうことを言う者は・・・赦されません。」御子の誕生の時から関わり、公生涯の間中、御子を導かれた聖霊を、御子イエス様はよくご存知で、このように言っておられます。

?また、御子が聖霊について語っておられる表現などからも聖霊の人格性を知ることができます。たとえば、ヨハネ14‐16章における「もう一人の助け主」、また御霊は、ギリシャ語でPneumaですが、文法的には中性名詞で、「It」で受けるところを「He」で受けている例があります。ご聖霊は、「もの」ではなく、「お方」です。

?さらに、ご聖霊が、ご自身から語っておられる例があります。ここまで来ると比喩とは言えないでしょう。例えば、使徒8章29節、10章19節、さらに13章1?4節は重大です。御霊は、ご自身に関係して、「私のために、私が召した」と言っておられます。さらに、黙示録14章13節という非常に大切な箇所でも、御霊は語っておられます。

ご聖霊の人格性が分かってくると、本当の意味で、三位一体の神様の信仰と理解が生きて来ると思います。理論ではなく、御父と御子と御霊によって、私達が生かされ、導かれていることがよりはっきりとしてくると思います。三位一体の神様の恵みを感謝します!ハレルヤ!
2025-01-31 19:14:32[投稿番号:412]

きょうはちょっと難しいかも??
三位一体のかたちについて
2000年の間、三位一体について、特に、御父と御子と御霊の関係についていろいろな議論がありました。どれでも、絶対に正しいとは言えませんが、「助け」になるものがありますので、紹介させていただきます。

最初は、「フィリオクエ(意味:と御子)」で、「御父と御子から」、聖霊が来られたという順序に基づいて、逆三角形(また、逆の二等辺三角形)が三位一体のかたちになりました(ただし、これを絶対不動のものにはできないと思います)。

また、縦の直線の上端に御父を置き、下端に御霊を置き、その間に御子を置くようなイメージで、三位一体を考える場合もあると思います。これは、例えば、ヨハネ14-16章における御子の教えに近いと言えるかもしれません。

ペリコレーシスというイメージもあります。これは、三位一体の三者が手を取ってダンスをしているイメージで、正三角形を描けると思います。

また、2世紀後半の神学者でアイレナエウス(イレナエウス)が語ったもので、御子と御霊は御父の(両)手であるというものです。つまり、御父から遣わされた御子と御霊がそれぞれの役割を行っておられるというイメージです。これは、たぶん、二等辺三角形になると思います。

私は、毎朝、御父と御子と御霊という三者の交わり(三角形をイメージして)の中に自分を置き、三者に囲まれている自分を意識するようにしています。

また、最近、三つの座布団をイメージするようになりました。下から数えて、一番下の座布団は御父で、二番目は御子、三番目は御霊です。御父の座布団は変わりませんが、状況によって、二番目と三番目は入れ替わります。私は、その上に座っています。偉ぶっているのではありません。三枚の座布団の上には、御父と御子と御霊の、臨在と安心、恵みと交わりが溢れています。ここでは、ホッとすることができ、休むことができます。一番安心できるところです!

あなたは、どうでしょうか。この三枚の座布団に座ってみませんか。ハレルヤ!
2025-01-24 19:01:55[投稿番号:411]

パイナップルのうれしい話
以前書かせていただいたパインの話のつづき
今晩は、全く神学的でない話を書かせていただきたいと思います。何か、教訓があるとしたら、「4年間、忍耐して待つ!」ということになるでしょうか。

以前、パイナップルの王冠の部分を取って水栽培をしているという話を書かせていただきました。今は、それを植木鉢に入れ替えて、二、三日おきに水をやっています(もちろん、外は寒いので、室内に移しています)。
それが、なんと、たぶん4年たって、根元からやっと30?40センチほどに成長し、最近では、その中央部に、小さなパインの頭ができるまでになっています。まだ、こぶし大までにはなっていないのですが、今年の春か夏までには立派なパインができるのではないかと期待しています。これが、皆さん、なんと5鉢(5個)できています。

やっと4年して、パインらしいものができて来たので、大喜びしています。皆さんが、お近くにおられたら、おすそ分けしたい気分です!
まだまだ、時間がかかるかもしれませんが、希望が湧いてきました。これまで、妻や子どもたちから、「本当にパインができるの??」って言われ続けてきましたが、家族の顔色が変わりました!

今晩は、変な話ですみません。覚悟が要りますが、やっと報われそうです。感謝!
2025-01-17 20:52:12[投稿番号:410]

聖霊論3が始まりました!
どうして聖霊に注目するのか。
聖霊論3のクラスが今週始まりました!ご聖霊に関して、受講された皆さんとの交わりや質問などを受けながら、時々考えることがあります。
それは、聖霊の学びは「益」になるのか。どんな「益」があるのか、です。

天に帰られる直前、イエス様は弟子たちに「私が去って行くことはあなたがたの益になる」と言われ、さらに「行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします」と約束されました。「益」の中心に聖霊とその到来があることは確かです。

ヨハネの福音書を中心に、聖書的に「益」について学び、確認することができますが、これは、今までも、いろいろ説明させていただいたことなので、ここでは、より一般的に、今の私たちのクリスチャン生活においてどんな益があるか、考えてみたいと思います。

第一に、生活の中で、三位一体の神様の臨在と働きを意識しながら、御父と御子と御霊と交わりながら歩むことができるようになると思います。

第二に、聖霊の内住という現代的な奇跡を覚え、今すでに私たちひとり一人の心に来て、導いていてくださる、または導こうとしておられる聖霊を覚えて、毎日の信仰生活をすすめることができます。

第三に、すでに以前触れたように、ヨハネの神学(永遠の命をもって歩む)、パウロの神学のほとんどゴールと言える神の子どもとされ、神の子どもとして生きる恵みに深く関わり、密接なお方としての聖霊とその働きについての信仰と理解によってこの恵みが増々豊かにされていくと言えます。

最後に、宣教論的に、教会論的に、救済論的に、終末論的に、聖霊とそのお働きなしに語れないし、語れない領域があると思いますが、どうでしょうか。ハレルヤ!
2025-01-10 18:40:52[投稿番号:409]

詩篇119篇から教えられたこと
神様との交わりにおける御言葉の大切さ
新年、明けましておめでとうございます。

最近、ディボーションで、詩篇を読んでいますが、今、119篇まで来ています。ここから教えられたことをまとめてみたいと思います。

119篇の形式は「いろは歌」のようになっていて、どこを読んでも、みことば(さとし、みおしえ、おきて、ことば、仰せ、戒め)の大切さが語られています。

まず第一に、教えられたことは、詩篇の記者と神様の率直な交わりとその継続です。このような表現を取っていますが、確かに、記者と神様の交わりの緊密さには驚かされます。これが、119篇全体に及んでいます。

第二に、この交わりを前提にしながら、神様のみことば(他の色々な表現)の大切さ、不可欠さ、有用性などが繰り返し語られています。神様とみことばは一つですが、忘れてはならないことは、みことばは神様ご自身の御思いを確実に表し、神様ご自身と直結しているということです。

第三に、重なってきますが、私達が神様との交わりにおいて神様を知ろうとするとき、みことばなしに神様を知ることができないということです。それほどに、みことばは神様ご自身を語るものであり、神様はこれをよしとして、みことばを用い続けておられ、御言葉を通してご自身を表し続けておられるということです。

第四に、こうして、みことばは記者(私達)の歩みを規定しますが、58節にあるように、みことばは神様ご自身をも規定するということです。「どうか、みことばのとおりに、私をあわれんでください」とあるとおりです。したがって、私達は、「みことばに、○○があるから、○○してください」と願うことができるということです。

第五に、記者は、みことばを喜び、慕い求めているということです。なぜなら、そこに神様の御思いがあり、これをもとに、神様と交わり、歩むことができるからです。なによりも、そこに、神様の愛と憐れみが満ちているからです。

新しい一年が始まりましたが、あらためて、聖書を学び、聖書に聞くことの大切さを確認できます。聖書のみことばを通して、私達は神様とその御心を知り、喜び、生きることができます。この一年も、祈ること(私達から神様へ)とみことばに聞くこと(神様から私達へ)を大切にしていきましょう。ハレルヤ!
2025-01-03 17:53:40[投稿番号:408]

パウロ神学のゴールとヨハネ神学のゴール
神の子とされ、子として歩むことと永遠のいのちを受けて歩むこと
パウロ神学においていろいろ重要な要素がありますが、何と言っても、パウロの救済論において「子とされること、子として歩むこと」は、パウロ神学のゴール(の一つ)と言ってよいと思います。

私たちは御子によって罪が贖われ、信仰によって義とされ、神の子どもとされます。こうして、今、最後の完成に至るまで、御子のゆえに、御霊によって神の子どもとして歩み続ける恵みの中にいます。聖書にあります。「ガラテヤ 3:26:あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。」また、ローマ書の中心になる8章でも繰り返し語られている通りです(他に、1ヨハネ3:1?3でも)。

ヨハネ神学においてもいろいろ重要な要素がありますが、何と言っても、ヨハネの救済論において、「永遠のいのち、永遠のいのちにあずかること」は、ヨハネ神学のゴールと言えます。実際に、ヨハネの福音書は、私たちが御子を信じて「永遠のいのち」を受けるために書かれていますし、1ヨハネの手紙において、手紙が書かれたのは、「永遠のいのちを持っていることを、分からせるため」とあるとおりです(5:13)。また、パウロも、「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(6:23)と言っている通りです。

パウロ神学のゴールとヨハネ神学のゴールとの関係は非常に密接であると言えます。なぜなら、「永遠のいのち」の意味は、私たちが神様を知り、神様との交わりに生きることで、まさに、私たちが、神様を父と知り、父と呼び、子として交わり、生きることだからです。ヨハネ10章14?15節と21章17節をお読みください。「…わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

この一年(3月から)、ヨハネの福音書をあらためて学び、礼拝で説教させていただきましたが、ここからたくさんのことを教えられました。何よりも、永遠のいのちの中心性、広さ、素晴らしさについて学びました。そして、このことと、それ以前に学んで来たパウロの神学とが豊かに一体的であることを確認しています。これは、大きな感謝です!

この一年、お読みくださり、感謝いたします。新しい一年も、主にあって宜しくお願いいたします。ハレルヤ!
2024-12-27 17:25:42[投稿番号:407]

聖霊に対する祈り
…色々な議論がありますが…
きょうは、少し「聖霊に対する祈り」について考えてみたいと思います。私はたいてい、御父に向かってお祈りしますが、時にイエス様、さらに御霊に祈ることもあります。

特に、聖霊が担っておられること(聖書の教えに従って)に関係して祈るときは、御父に、また聖霊に向かって祈ります。例えば、十字架はイエス様が担っておられたことですが、御霊が担っておられることもいろいろあります。

例えば、?福音宣教の拡大や深化、?救いの実現そのもの、?私たちの心に内住しておられること、?私達を「子としてくださること、子として歩ませてくださること」、?信仰生活全体における成熟、聖化のための導きに、?教会の働きや交わりに内在しておられること、?私たちの祈りを助け、導かれることなど ・・・いろいろ上げることができます。これらについては、私達は祈ることができると思います。

三位一体の枠組み、聖書のみことば、御子の救いの愛と恵みなどにしっかり根差していないと、私達はすぐに「自己満足的な神秘主義」に陥ってしまいますので十分注意する必要がありますが、御父に、御子に、御霊に、三位一体的に祈る恵みが与えられていると思います。

最後に、恩師の一人であるJ.I.パッカー先生の言葉を引用します!

御霊に祈ることは適切であるか?聖書のどこにもそのような例はないが、御霊は神であるから、正当な理由があれば、御霊を呼び求め、御霊に語りかけることは間違いではない。
新約聖書においては、父なる神への祈りが普通であるが(それはイエスご自身が実践し、教えられた祈り方だからである)、イエスへの祈りもまた適切である(パウロが癒し主イエスに三度祈ったようにである、2コリント12、8-10)。

そして、私たちが御霊に求めるものが、イエスとのより親密なコミュニケーションであり、私たちの人生においてイエスの似姿に導かれることであるなら、御霊への祈りも同様に適切である。
2024-12-20 18:04:21[投稿番号:406]