私の黄金律2
1月7日(投稿番号36)と共に
 2週間前にインフルエンザに罹りましたが、そのとき休みながら考えた「私の黄金律2」を少し手直ししてみました。「私の黄金律1」は、1月7日(投稿番号36)のブログにあるもので、一日の歩みの中で、より豊かに神様と共に歩んでいくためのものでした(今も繰り返しています)。「私の黄金律2」は、信仰生涯全体において最後まで大切にしていきたいことを「あ・い・う・え・お」でまとめたものです。
?「あ」:あきらめないで、最後まで神様を信頼して歩みつづける。?「い」:居直らないで、最後まで神様を信頼して歩みつづける。?「う」:飢え渇き、神様の御顔を求めて歩みつづける。?「え」:遠慮しないで、祈り求めて歩みつづける。?「お」:遅くなっても悔い改め、歩みつづける。
すでに御子イエス様を信じて、「御霊の水と御子のパン」をいただいているので、新しい一週間も、神様の子どもとして神様を信頼して歩み続けていきたいですね。
2018-02-03 06:40:32[投稿番号:41]

孤独と交わりのすすめ
ヨハネ6:15−21
 以前頼まれてある雑誌に「孤独と交わりのすすめ」という文を書いたことがある。きょう、ディボーションで読んだ箇所にも、イエス様の孤独と交わるを見ることができた。15節に「(御子が)…ただひとり、また山に退かれた」とあり、20−21節に「(弟子たちは)イエスを喜んで舟に迎えた」とあるとおり。孤独と交わりのバランスは不可欠である。ただし前者の「孤独」と言っても、単に一人になることではない。御子がそうであったように、私たちにとって孤独とは、神様との個人的な交わり、祈りのことである。
こんなことを考えていたら、最近もう一度読み始めた良書『賢者の生活リズム』(ケン・シゲマツ著)で言われていたことを思い出した。「成長しているクリスチャンは、聖霊によって与えられた生活のルールを持っています」(21ページ)。孤独と交わりも大切な生活のルールの一つと言えるでしょう。本書は、「現代の忙しい生活の中でも、私の生活のあらゆる面で神との関係を楽しみながら、修道士的な生き方(カトリックというよりも、ケルトの修道士)を送ること」を考えていて、お薦めの一書です。著者はこのようにも書いています。「生活のルールとは、単純な生活リズムであり、生活のすべての中で神を経験することによって、私たちをイエスに似た者に成長させるものです」(14−15ページ)。
私も、今の生活リズムを大切にしようと、小雪の舞う公園に散歩に出かけました。真っ白な雪の道。まだ誰も歩いたことのない真っ白な道を一歩、一歩、転ばないように、また神様と交わりつつ歩きました。。。これも、私の生活リズムの一つだから大切にしていきたいと思います。
2018-01-26 07:00:14[投稿番号:40]

40度を超え!
今週は家族全員がインフル!
 覚えている限りですが、今週初めて、40度を超える経験をしました。インフルエンザにかかり、足はフラフラ、起き上がることも難しく、歩くとそばの壁や扉に頭を打ったりして大変でした。…こんな状況で、神様を思い、神様と共に歩むことは簡単なことではありませんでした。
?全てのことについて感謝しなさいは、単に喜ぶことではなく、インフルも含めて全てのことを神様の御手から受け取ることでしょう。?愛の実践と言っても、介助してくれた家内に「ありがとう!ありがとう!」と言うだけでした。?あとは、熱が下がり、いつもの奉仕ができるようになる時をひたすら待ち続けました。しかし全てを支配し導いていてくださる神様を見上げることはなんと少なかったことでしょう。…弱さを覚えるとき、神様を見上げるようになるというふうには行きませんでした。むしろ、自分と薬の力で自分自身を癒そうとしていたように思います。
多くの兄姉の祈りと祈りのメールをいただいて、はげまされました。回復させていただき感謝いたします。
2018-01-19 23:04:11[投稿番号:39]

新改訳2017のヨハネ4:23−24
『御霊と真理によって』礼拝する
新改訳2017と新改訳3版を比較しながら読んでいるが、今回、2017訳のヨハネ4章23−24節を読んでびっくりした。3版ではこれまで「霊とまことによって」であったが、2017訳において、「御霊と真理によって」になっていたからである…思い切った訳になったなあ…というのが最初の感想である。
この箇所をどう解釈するかについては、これまでずい分考えてきた。なかなか決められず、決め手もなかった。細かな議論はここでするつもりはないが、この箇所の理解(訳)について、「御霊と真理(キリストとその教え)」であることを期待していたことは確かであるが、なかなかはっきりと表明するほどの確信はなかった。2017訳を繰り返し読みながら、この訳に期待するようになった。そして最終的に、支持してもよいのではないかと考えるようになった。
次いで、「神は霊ですから」も、Spiritualと理解したいし、以前取り上げた3章6節の「御霊によって生まれた者は霊です」の「霊」も、Spiritual(つまり、聖霊的、聖霊に属している)と理解していきたい。
第三版と2017訳とを比較しながら読むと面白い。翻訳者のご労に感謝したい。これからも、比較しながら読んで行こう!
2018-01-10 17:22:04[投稿番号:37]

夜中に目が覚めて…
神様と共に歩むとは?
夜中に目が覚めて、「神様と共に歩む」とは、いったいどういうことになるのか、いろいろ考えた。これほど真剣に(?)、また具体的に考えてのは初めてかもしれない。これまで、何度も、礼拝メッセージや他の機会に、このことの大切さや素晴らしさについて話してきた。しかし実際に、毎日の生活の中で、神様と共に歩むとは何を意味しているのか。どのように歩んでいくことなのか。
毎日の歩みには、仕事や学びがある。いろいろな用事がある。そのために集中しなければならない。また、他の人々と話し合ったり、打ち合わせをしたり、確認したり、分かち合ったり、お喋りすることも必要である。では、そのようなときに、私たちはどのように、神様と共に歩んで行くことができるのか。また、どのように歩むことがよいのか。「神様と共に歩む」とは何を意味しているのか。
朝起きてから寝るまで、いつも以上に、「神様と共に歩む」ことを意識しながら、一日を歩んでみた。「神様と共に歩む」とはどういうことかについても考えた。また、「神様の臨在を意識し、御顔を求めて歩む」ようにした。
結果として、神様と共に歩むことがどんなに難しいかよくわかった。しかし同時に、ほんの少しだけであるが、その幸いを感じることもできた。神様を私たちと共に歩むことを願っておられる。では、実際に私たちが、毎日をどのように歩むことを願っておられるのか。まだ結論はないが、次のことを大切にしようと思い、スマホのリマインダーに書き込んだ。また、スマホのアラームが鳴る時刻を増やし、リマインダーにあるメモを繰り返し思い起こせるようにした。?大小に関わらず神様に相談。?全てのことについて感謝!?瞬間の祈り、断続的な祈りをする。?神様に対して、他の人々に対して愛の実践をする。?できる限り思い起こして、神様の臨在の恵みを味わうようにする。
2018-01-07 07:08:54[投稿番号:36]

今朝のディボーションから
ヨハネの福音書3章6節
明けましておめでとうございます! 
よく知っている箇所であるが、今朝読んでいて特にヨハネ3章6節に注目した。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」ギリシャ語から詳訳するとこうなる。「(冠詞あり)肉の中から生まれた、生まれている(完了形の動詞)者は肉のままである(この場合の肉は、最初の肉と同じ名詞であるが冠詞はない。形容詞的に訳されるかも。⇒肉的、肉に属している、肉のまま)。(冠詞あり)御霊のうちから生まれた、生まれている(完了動詞)者は霊のままである(または冠詞はないが、意味として、聖霊的である、聖霊に属している、囲まれている)。
果たして、最後の「…霊です」という新改訳(三版、2017)の訳はこれでいいのか。ここでの「霊」の意味を、単に「肉」と対比される「霊、霊的」と理解されてしまいそうである。しかしここでの「霊」の意味は、前節の「神の国にはいる」ことの近い意味として考えれば、私は、ここは、「聖霊的、聖霊に属している、聖霊に囲まれている、導かれている」と訳したい。
今朝、このみことばを味わい、考えながら散歩した。こんなに素晴らしいみことばがあるだろうか。私たちは、イエス様を信じたことを通して、御霊の内から生まれ、今も後も、聖霊的なもの、聖霊に属するもの、囲まれ、導かれている者とされているのである!
私たちが「聖霊的!」とされていることのしるしはあるのか。少なくとも言えることは、?聖霊が充満しておられる御国に属している者とされて喜び、御国の完成に向かっていること、?ヨハネ17章3節にあるように、御父と御子を知り、御父と御子を慕い求めていることだろう。
最近、詩篇の記者たちが、「神様の御顔を慕い求めている」とか、「御顔の光を輝かせてください」とか、「御顔を隠さないでください」と祈っている祈りが気になっている。
私たちの信仰は、キリスト教という宗教、教理、教え、プログラム、組織や伝統、歴史、ある種のグループ意識でもなく、その中心に、神様ご自身への慕い求めがあると言ってよいだろう。そしてこれこそが、「聖霊的」とされていることの現れ、しるしではないか。新しい一年の歩みの中で、また神様ご自身を、御霊によって慕い求めていきたい。
2018-01-03 21:50:30[投稿番号:34]

私は説教を信じる!
人格をもった神様が現れよ!
 今年は、4月から、一か月に一回、牧師のためのアドバンスコースを担当している。午前、説教について、午後、牧会について学び、共に分かち合いの時をもっている。そんなことで、いつでも「説教」とは何かについて考え続けていると言ってよいだろう。説教の奉仕を始めて、約50年近くになる。それでもなお、説教とは何かについて考え、より良い、よりふさわしい説教を求めている。
最近、説教の意義について再発見したことがある。それは、「人が語って初めて、神様というお方が伝わること」である。つまり、人格をもった神様をよりふさわしくお伝えするためには、語る側も、人格をもって、人格を通して語る必要があるということである。聖書の学びも意味がある。聖書朗読も意味がある。大切である!しかし読んだり、学んだりするだけでなく、やはり人が語ったものを聴く必要があるだろう。そして何よりも、その福音メッセージは、人格的に語られる必要があるのではないか。…これによって、最も大切な、神様のご人格が伝えられるのではないか。
イエス様の教えとイエス様ご自身とは切っても切れない関係にある。同じように、聖書の教え(メッセージ)も、説教者(たぶん、一番より良いのは、聴衆がよく知っている牧会者)を通して、人格的に、人格的な交わりや触れ合いを通しながら、語られることがよりふさわしいのではないか。
これさえあれば大丈夫ということではないが、説教の中心は、人格的に語ることにあると言っても過言ではないだろう。これこそ、人格をもった神様が、より豊かに現されることになる。明日、礼拝説教奉仕があるが、では、どのように語ったらいいだろうか?
…単なるお話や聖書の説明に終わるのではなく、人格をもっておられる神様ご自身が現れてくださいますように。
2017-12-30 20:35:45[投稿番号:33]

祝祷の奉仕
今日の礼拝奉仕。。。
 きょうの礼拝奉仕は、久しぶりに祝祷奉仕のみであった。しかしこれも重大な奉仕。皆さんをあたたく迎えることも奉仕!
静かに祈っていると大好きな賛美 が聞こえて来た。「愛する天の父よ・・・」そしてザイラーの祈りの言葉を思い出した。「神よ。私はこの朝、あなたに向かって目覚めました。私の最初の言葉は、”神よ。我が父よ。”という言葉です。私の最初の喜びは、あなたが私の父であられることです。
共に父なる神様を礼拝できる家族が与えられていることを感謝します!
2017-12-21 20:54:42[投稿番号:32]

霊性のクラス 5回目
毎日の礼拝!
 霊性のクラスは、今週5回目を迎えます。前半は霊性史の学び(カトリックの歴史、ギリシャ正教の歴史、そしてプロテスタントの歴史へ)、後半は今、毎日の礼拝(ディボーション)についての学びや分かち合いを続けています! とても大切な学びだと思います。皆さんと最も大切な学びが出来ることを感謝します!
2017-11-06 22:36:06[投稿番号:30]