If I Were Starting My Ministry Again | もう一度牧師をやり直せるなら | 最近、ジョン・ドレッシャーの「日本語タイトル:若い牧師・教会リーダーのための14章」(もしも私が再び奉仕を始めるなら)を読んだ。本の内容が良かっただけでなく、この本のタイトルから考えさせられた。英語のタイトルから考えると、「自分はもう牧師になれない(年齢的に牧会はできない)が、もし万が一できるとするなら、どんな牧会をしたいか」ということになる。
私は、昨年2月で65歳になった。年齢的に言うなら、同盟福音という教団では牧師の退職年である。…ああ、私もこれで牧師という働き(奉仕)を終えることになるかもしれないと考えていた。実際に、牧師たちの中で、昨年、牧師を(完全に?)引退した友人もいた。
しかし、約50年前に神様が、この私に「人間を捕る漁師にしてあげよう」と語ってくださった御言葉が、私の人生で完全に成就したとまでは言えない何かを感じていた。
幸い、神様の憐みと稲沢教会のお招きを通して、もう一度、牧会することができるように導かれた。「If I Were…」ではなくて、なおもう少し、「人間を捕る漁師」としてご奉仕を続けるお許しをいただいたように思っている。
何ができるかわからない。どのようにできるかわからない。しかし最後の最後として、神様から再びいただいたお許しを大切にして、神様と教会にお仕えしていきたい。御霊と共に! | 2018-02-19 21:50:27[投稿番号:44] |
再献身をつづける! | ディボーション:イザヤ6:1−8 | ディボーションの中で、イザヤ書6:1−8を読んだ。どうしてイザヤは、「私はもうだめだ。(2017訳…私は滅んでしまう)」と叫んだのに、8節で「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と言ったのか、言えたのか、
いろいろ考えた。「聖なる、聖なる、聖なる神様」の臨在の前に、イザヤが叫んだ叫びは自然である。当然である。それなのに、どうして彼は、神様の「誰を遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」という神様の声を聞いて、「私を遣わしてください」と言えたのか。
答えは、第一に、イザヤのよく知っている神様の求めを聞いたから、そのままにできなかった。逃げられなかった。知らないふりはできなかった。第二に、彼は、自分が汚れていることを自覚していたが、セラフィムのひとりによって本当にきよめられたことを知っていたから。罪があるにもかかわらず、罪赦され、生かされていることを知ったから。第三に、人々の必要、時代の必要があったから。イザヤの奉仕は特殊だった…人々の心がますます頑なになる…しかしそれでも、この時代に神様のみこころを預言し、残しておく必要があった。
いろいろ考えながら、私自身の4月からのご奉仕にも当てはめることができた。「もうだめだ」⇒「神様からのきよめ、ゆるし」⇒「神様の派遣と献身の応答」
これらを繰り返しながら、私も、神様のみこころに応答し、遣わされていきたい。 | 2018-02-15 21:14:04[投稿番号:43] |
ダニエル6章10節から | 日に三度祈った! | 続けて、一日24時間において、どのように神様と共に歩んだらいいのか考えている。また教えられたいと願っている。
11日の朝、ダニエル書6章を読み、ダニエルが一日に三度神様に祈っていた箇所に目が留まった。
それからずっと、一日三度神様の前に出て祈ることは習慣だったのか、当時のユダヤ人にとっての決まり、または標準的なことだったのか考えるようになった。
またこのことが示す、現代の私たちに対する教えは何にか。これは、当時の習慣にすぎないことなのか、絶対的普遍的な教えなのか、またはクリスチャンとしての標準的なあり方なのか。
私たちは、イスラムの人々とは違うが、一日に三度祈ること(もちろん、祈りの質も重大!)を標準的なこととして考えてもいいのではないか。朝のディボーションや就寝前の祈りも入れると、5回になるかもしれない。しかし、今の忙しい時代だからこそ、それくらいいのりつつ、歩んでもよいのではないかと考えるようになった。 | 2018-02-06 12:11:17[投稿番号:42] |
私の黄金律2 | 1月7日(投稿番号36)と共に | 2週間前にインフルエンザに罹りましたが、そのとき休みながら考えた「私の黄金律2」を少し手直ししてみました。「私の黄金律1」は、1月7日(投稿番号36)のブログにあるもので、一日の歩みの中で、より豊かに神様と共に歩んでいくためのものでした(今も繰り返しています)。「私の黄金律2」は、信仰生涯全体において最後まで大切にしていきたいことを「あ・い・う・え・お」でまとめたものです。
?「あ」:あきらめないで、最後まで神様を信頼して歩みつづける。?「い」:居直らないで、最後まで神様を信頼して歩みつづける。?「う」:飢え渇き、神様の御顔を求めて歩みつづける。?「え」:遠慮しないで、祈り求めて歩みつづける。?「お」:遅くなっても悔い改め、歩みつづける。
すでに御子イエス様を信じて、「御霊の水と御子のパン」をいただいているので、新しい一週間も、神様の子どもとして神様を信頼して歩み続けていきたいですね。 | 2018-02-03 06:40:32[投稿番号:41] |
孤独と交わりのすすめ | ヨハネ6:15−21 | 以前頼まれてある雑誌に「孤独と交わりのすすめ」という文を書いたことがある。きょう、ディボーションで読んだ箇所にも、イエス様の孤独と交わるを見ることができた。15節に「(御子が)…ただひとり、また山に退かれた」とあり、20−21節に「(弟子たちは)イエスを喜んで舟に迎えた」とあるとおり。孤独と交わりのバランスは不可欠である。ただし前者の「孤独」と言っても、単に一人になることではない。御子がそうであったように、私たちにとって孤独とは、神様との個人的な交わり、祈りのことである。
こんなことを考えていたら、最近もう一度読み始めた良書『賢者の生活リズム』(ケン・シゲマツ著)で言われていたことを思い出した。「成長しているクリスチャンは、聖霊によって与えられた生活のルールを持っています」(21ページ)。孤独と交わりも大切な生活のルールの一つと言えるでしょう。本書は、「現代の忙しい生活の中でも、私の生活のあらゆる面で神との関係を楽しみながら、修道士的な生き方(カトリックというよりも、ケルトの修道士)を送ること」を考えていて、お薦めの一書です。著者はこのようにも書いています。「生活のルールとは、単純な生活リズムであり、生活のすべての中で神を経験することによって、私たちをイエスに似た者に成長させるものです」(14−15ページ)。
私も、今の生活リズムを大切にしようと、小雪の舞う公園に散歩に出かけました。真っ白な雪の道。まだ誰も歩いたことのない真っ白な道を一歩、一歩、転ばないように、また神様と交わりつつ歩きました。。。これも、私の生活リズムの一つだから大切にしていきたいと思います。 | 2018-01-26 07:00:14[投稿番号:40] |
40度を超え! | 今週は家族全員がインフル! | 覚えている限りですが、今週初めて、40度を超える経験をしました。インフルエンザにかかり、足はフラフラ、起き上がることも難しく、歩くとそばの壁や扉に頭を打ったりして大変でした。…こんな状況で、神様を思い、神様と共に歩むことは簡単なことではありませんでした。
?全てのことについて感謝しなさいは、単に喜ぶことではなく、インフルも含めて全てのことを神様の御手から受け取ることでしょう。?愛の実践と言っても、介助してくれた家内に「ありがとう!ありがとう!」と言うだけでした。?あとは、熱が下がり、いつもの奉仕ができるようになる時をひたすら待ち続けました。しかし全てを支配し導いていてくださる神様を見上げることはなんと少なかったことでしょう。…弱さを覚えるとき、神様を見上げるようになるというふうには行きませんでした。むしろ、自分と薬の力で自分自身を癒そうとしていたように思います。
多くの兄姉の祈りと祈りのメールをいただいて、はげまされました。回復させていただき感謝いたします。 | 2018-01-19 23:04:11[投稿番号:39] |
新改訳2017のヨハネ4:23−24 | 『御霊と真理によって』礼拝する | 新改訳2017と新改訳3版を比較しながら読んでいるが、今回、2017訳のヨハネ4章23−24節を読んでびっくりした。3版ではこれまで「霊とまことによって」であったが、2017訳において、「御霊と真理によって」になっていたからである…思い切った訳になったなあ…というのが最初の感想である。
この箇所をどう解釈するかについては、これまでずい分考えてきた。なかなか決められず、決め手もなかった。細かな議論はここでするつもりはないが、この箇所の理解(訳)について、「御霊と真理(キリストとその教え)」であることを期待していたことは確かであるが、なかなかはっきりと表明するほどの確信はなかった。2017訳を繰り返し読みながら、この訳に期待するようになった。そして最終的に、支持してもよいのではないかと考えるようになった。
次いで、「神は霊ですから」も、Spiritualと理解したいし、以前取り上げた3章6節の「御霊によって生まれた者は霊です」の「霊」も、Spiritual(つまり、聖霊的、聖霊に属している)と理解していきたい。
第三版と2017訳とを比較しながら読むと面白い。翻訳者のご労に感謝したい。これからも、比較しながら読んで行こう! | 2018-01-10 17:22:04[投稿番号:37] |
夜中に目が覚めて… | 神様と共に歩むとは? | 夜中に目が覚めて、「神様と共に歩む」とは、いったいどういうことになるのか、いろいろ考えた。これほど真剣に(?)、また具体的に考えてのは初めてかもしれない。これまで、何度も、礼拝メッセージや他の機会に、このことの大切さや素晴らしさについて話してきた。しかし実際に、毎日の生活の中で、神様と共に歩むとは何を意味しているのか。どのように歩んでいくことなのか。
毎日の歩みには、仕事や学びがある。いろいろな用事がある。そのために集中しなければならない。また、他の人々と話し合ったり、打ち合わせをしたり、確認したり、分かち合ったり、お喋りすることも必要である。では、そのようなときに、私たちはどのように、神様と共に歩んで行くことができるのか。また、どのように歩むことがよいのか。「神様と共に歩む」とは何を意味しているのか。
朝起きてから寝るまで、いつも以上に、「神様と共に歩む」ことを意識しながら、一日を歩んでみた。「神様と共に歩む」とはどういうことかについても考えた。また、「神様の臨在を意識し、御顔を求めて歩む」ようにした。
結果として、神様と共に歩むことがどんなに難しいかよくわかった。しかし同時に、ほんの少しだけであるが、その幸いを感じることもできた。神様を私たちと共に歩むことを願っておられる。では、実際に私たちが、毎日をどのように歩むことを願っておられるのか。まだ結論はないが、次のことを大切にしようと思い、スマホのリマインダーに書き込んだ。また、スマホのアラームが鳴る時刻を増やし、リマインダーにあるメモを繰り返し思い起こせるようにした。?大小に関わらず神様に相談。?全てのことについて感謝!?瞬間の祈り、断続的な祈りをする。?神様に対して、他の人々に対して愛の実践をする。?できる限り思い起こして、神様の臨在の恵みを味わうようにする。 | 2018-01-07 07:08:54[投稿番号:36] |
今朝のディボーションから | ヨハネの福音書3章6節 | 明けましておめでとうございます!
よく知っている箇所であるが、今朝読んでいて特にヨハネ3章6節に注目した。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」ギリシャ語から詳訳するとこうなる。「(冠詞あり)肉の中から生まれた、生まれている(完了形の動詞)者は肉のままである(この場合の肉は、最初の肉と同じ名詞であるが冠詞はない。形容詞的に訳されるかも。⇒肉的、肉に属している、肉のまま)。(冠詞あり)御霊のうちから生まれた、生まれている(完了動詞)者は霊のままである(または冠詞はないが、意味として、聖霊的である、聖霊に属している、囲まれている)。
果たして、最後の「…霊です」という新改訳(三版、2017)の訳はこれでいいのか。ここでの「霊」の意味を、単に「肉」と対比される「霊、霊的」と理解されてしまいそうである。しかしここでの「霊」の意味は、前節の「神の国にはいる」ことの近い意味として考えれば、私は、ここは、「聖霊的、聖霊に属している、聖霊に囲まれている、導かれている」と訳したい。
今朝、このみことばを味わい、考えながら散歩した。こんなに素晴らしいみことばがあるだろうか。私たちは、イエス様を信じたことを通して、御霊の内から生まれ、今も後も、聖霊的なもの、聖霊に属するもの、囲まれ、導かれている者とされているのである!
私たちが「聖霊的!」とされていることのしるしはあるのか。少なくとも言えることは、?聖霊が充満しておられる御国に属している者とされて喜び、御国の完成に向かっていること、?ヨハネ17章3節にあるように、御父と御子を知り、御父と御子を慕い求めていることだろう。
最近、詩篇の記者たちが、「神様の御顔を慕い求めている」とか、「御顔の光を輝かせてください」とか、「御顔を隠さないでください」と祈っている祈りが気になっている。
私たちの信仰は、キリスト教という宗教、教理、教え、プログラム、組織や伝統、歴史、ある種のグループ意識でもなく、その中心に、神様ご自身への慕い求めがあると言ってよいだろう。そしてこれこそが、「聖霊的」とされていることの現れ、しるしではないか。新しい一年の歩みの中で、また神様ご自身を、御霊によって慕い求めていきたい。 | 2018-01-03 21:50:30[投稿番号:34] |
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