最近考えている一つのこと | 神様と相談するということについて | 今年の1月7日(ブログ)にありますように、一日の歩みの中で、5時20分、10時、2時、7時半にスマホが鳴って、5つのことを確認し、祈るようにしています。午後2時は何かをやっていて離れることができずにスルーしてしまうこともありますが、とにかく、スマホが鳴ると、その場にひざまずき祈るようにしています。
しかし最近、第一項目の「大小に関わらず神様と相談する」ということについて、少し内容変更したほうがいいかもしれないと思うようになりました。「神様と相談する」とは、神様の御心を求めて相談するということでしたが、ある事柄に関しては、初めから神様が「わたし」に自由に判断してやりなさいと任せておられることもあることに気が付きました。
大切なことは、ふさわしく識別することだと思います。つまりこれは、本当に私の自由に任せられていることか、それとも、神様の御心を求めていくべきことか、ということです。本当にもっと時間をかけて、最後まで神様の御心を認めていくべきこともあると思います。
そんなことで最近は、できる限りどんなことでも、相談しお祈りをするようにしていますが、これに加えて、それが神様の御心を求めていくことか、それとも委ねられていることかについても考えるようになりました。
また、神様の御心を求めることは、ある意味でとても大切ですが、同時に、本当に難しいことでもあると言えます。なかなか、はっきりと神様の御心が分からないこともあるからです。
しかしその中で最も大切で素晴らしいことがあることを知りました。それは、今、少なくとも(できる範囲ですが)、神様と共に今を歩み、神様の喜ばれることを考えながら生きていくことです。もしこれが少しでもできれば、神様の御心の中を、またその近くを歩んでいることになると思うからです。神様の御心を求めていろいろ考えるよりも、今、神様と共に歩んで行くことこそ大切で、幸いなことかもしれません。どうでしょうか。 | 2018-07-20 21:02:09[投稿番号:63] |
忙しい一週間でした。 | KGK聖書合宿を終えて | お祈り感謝いたします。先週の金曜日と土曜日に、KGK聖書合宿で奉仕をさせていただきました。大学生の兄姉とともに、聖書の中の一書(ヨハネの福音書)全体を、三回に分けて学ぶことができました。部分的ではなく、全体的に聖書を読み、お話をさせていただくという企画はチャレンジでしたが、とてもよい学びの時となりました。21章もあるので、大変でしたが、それだけ、全体を何度も読み、学びことができました。こんなにヨハネの福音書を繰り返し、また集中的に学んだのは久しぶりのことでした。
たくさんの祝福を見つけ、その恵みをお分かちしましたが、少しでも、大学生の皆さんの励ましになればと願っています。また、再来週からの礼拝メッセージにここで教えられたことを、稲沢教会の皆さんにもお話しできればと考えています。
?永遠のいのちの意味の深さ、壮大さ、現在性と未来性について学ぶことができました。永遠のいのちはヨハネの福音書全体の目的になりますね(20:31)。
?今まで以上に、「真理の御霊」の意味について考えることができました。?さらに、「真の礼拝者は、霊とまことによって礼拝する」→「(2017訳)真の礼拝者は、御霊と真理によって礼拝する」という意味についても考えることができました。?御子と御父との関係の深さ(一つであること)を知ることができました。まさに、この方が、御父を解き明かしておられると言えます(1:18)。?また、御子が言われた「わたしの父であり、あなたがたの父である(2017訳がよりよいと思います)」の素晴らしさをしりました。?ヨハネの福音書における十字架の描写に関して、「完了した!」ことの強調を学ぶことができました(他の福音書にない特徴です)。しかも、御子は、自分が誰かによって十字架につけられたのではなく、御子ご自身が自分から十字架につかれる(田)ことが強調されていると言えます・・・・
2週間くらいは、ヨハネの福音書を読み、まとめ、準備することで本当に忙しかったです。しかし、このことを通して、たくさんの恵みを神様からいただきました。聖書を部分的に読む恵みもありますが、一書を全体的に読んでいく恵みもありますね。感謝します。ハレルヤ! | 2018-07-09 09:43:24[投稿番号:62] |
最近、みことばから教えられたこと | 神様がこんなに愛していてくださるので! | 聖書を読んでいて教えられることほど嬉しいことはありません。なぜなら、みことばを通して神様が語って(教えて)くださったと感じるからです。
?コリント16章22節は凄い…「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。」これは、クリスチャンたちに対する警告ですが、凄い祝福のことばでもあります。パウロはこの言葉を手書きで書いています(21節)。最後の結びとして、コリントの人々にどうしても言いたかったのでしょう。
私は、しばしば「なぜ?」という質問を投げかけながら、聖書を読むことにしています。この22節のことばを、パウロはどうして書いたのでしょうか。言いたかったのでしょうか。?それは、神様が私たちをどんなに愛していてくださるかよく知っていたからです。ですから敢えてこのように書いたのです。?またコリントの教会にはたくさんの問題があり、そのための対処の仕方をこの手紙全体で語ってきました。しかし最後に、最も大切な対処の仕方を教えているのです。つまり、主を愛することほど、問題に対する不可欠な対処(あり方)は他にないからです。実際の例として、コリント13章があります。ここはまさに愛の章としてよく知られている箇所です。ただしこれも、前後の流れから分かりますように、賜物の用い方に関して、パウロが、何よりも、愛をもって賜物を用いることを教えている章です。
「主を愛さない者はだれでも呪われよ」は、非常に強い、激しいことばです。しかしその背後で、それほど、私たちは神様から愛されていること、また様々な問題の対処は、まず何よりも、主を愛することから始まることが強調されていると言えます。
神様は、これほどに私たちを愛していてくださるので、「主は愛さない者はのろわれよ!」です。ハレルヤ! | 2018-06-29 10:20:53[投稿番号:61] |
御代田の教役者研修会にて | 昨日と今朝のデボで教えられたこと | 先ほど、散歩に出ようとしたら、雨が降っていたので、キャビンに戻り、ブログを書くことにしました。昨日も雨で、御代田に来るといつも散歩する「川べり」がありますが、今回はどうも行けないようです。とても綺麗で静寂の川べりなんですが、残念ですね。。。
昨日と今朝のディボーションで教えられた聖書箇所は、?コリント15章36節、52-54節です。たぶん、「あなたの蒔くもの」とは、私たちの身体のことでしょう。これは、「死ななければ、生かされない」というのです。つまり、死んで初めて、新しいキリストにあるいのち(御霊のからだ)になるということです。
同じキャビンの同労の友人たちと話をしていると、Aさんは、加齢で臭覚に問題があるようです。Bさんは、目の問題があって薬を飲み続けています。私は、本態性振戦(?)で手に震えが来ています。以前、お医者さんから加齢ですと言われました。同じキャビンの同労者たちの年齢はほぼ同じ。皆、歳をとり、それぞれ何らかの形で身体的な問題を抱えるようになっています。
しかしそんな中で、36節のみことばは恵みでした。ここは、老化や死を経験して初めて、新しい身体にあずかることができることを教えています。老化は嫌です。死も嫌です。しかし、新しい身体にあずかるプロセスとして、どうしても通らなければならない道なのです。これを知ったら、老化も死も、希望の道になります。朽ちるものは、朽ちないものを着る必要があります。今、その準備をしているのです。だから、老化は必要です。死とその向こうにある新しい身体に「脱皮?」するための不可欠な道なのです。
少しだけかもしれませんが、老化の益、積極的な意味を見つけることができました。
また、偉そうなことは言えませんが、この年になって初めて、信仰や人生を、より全体的に見れるようになったと言えるのではないでしょうか。若い時には若い時の、壮年には壮年の、老年には老年の意味、良さがありますね。ハレルヤ!
御代田で毎年開かれる教役者会に来て、参加者全員を見渡してびっくり。一人の宣教師の方を除いて、私たち三人が最年長者になっていました!(気持ちは青年なんですが…) | 2018-06-21 07:18:14[投稿番号:60] |
最近のいのり | 人間をとる漁師になれますように。 | 最近、ある方から電話があり、30分ほど話すことができました。これまでは一方的に話されることが多かったのですが、今回は電話で、ちゃんと「話し合う」ことができました。その中で、この方は二回こんなことを言われた。これまで、自分は、聖書をちゃんと読むことができなかった。しかし、先生のおかげで、聖書を読むことができるようになりました。
私は、これまで何度も、直接お会いしたり、また電話で話したりしてきたので、この言葉の重さ、凄さを感じ、涙が出そうになるくらい嬉しかった。この方にとって聖書は、ずっと恐怖の書、さばきの書だったからです。それが変えられ(変えられつつあって)、聖書を読むことができるようになったというのです。これは奇跡であり、ご聖霊の御業以外にないと思いました。
この奇跡の業に少しでも関らせていただけたことを神様に感謝しています。この方の聖書の読み方がさらに変えられ、神様の愛や恵み、赦しがわかるようになり、イエスキリストの救いがこの方の内にもまっとうされますように。そのときが来るのを祈りながら、待ち望みたいと思います。
あと何年、ご奉仕が続けられるかわかりません。そんなに長くできるとは思いません。ただ最近神様に祈っていることがあります。それは、50年前、神様は私に、「人間をとる漁師にしよう」と言われました。ですから、どうか残された人生、人間をとる漁師にしてくださいということです。
もっと人間をとる漁師になれますように…! | 2018-06-15 07:08:10[投稿番号:59] |
四回目のペンテコステ礼拝へ | 聖霊に満たされ、導かれて歩む | イースター礼拝を4月に五回ささげた。ゲストスピーカーの先生にもお願いして、イースターメッセージをしていただいた。今度は、5月の第三主日から6月の第二主日まで(たぶん)、ペンテコステ礼拝を続ける予定(明日で四回目)。とにかく、ペンテコステ礼拝を四回続けられることは本当に感謝。それくらい、ご聖霊のことは、私たちの信仰生活になくてはならないことだから。キャンプクリスチャンではなく、日曜日クリスチャンでもなく、毎日クリスチャンとして歩み、生きて行こうとしたら、ご聖霊が不可欠である。いや、そのためにご聖霊は来られて、内住していてくださる。それに気づき、それを意識して、感謝して、初めて、聖霊に満たされ、聖霊に導かれて歩めるのではないだろうか(もちろん、気づかなくても、ご聖霊はたくさんのことをしていてくださるが)。
ご聖霊に気づいて満たされると、父なる神様の臨在、御子の愛があふれて来る。この恵みによって、一日一日導かれることになる。内住のご聖霊を意識するようになると、ご聖霊のことばである神様の「みことば」も必要になる。ご聖霊は、みことばを大いに用いて教え、導いてくださるから。
明日の礼拝後、「ディボーションについて」の学び会をする予定である。これも、聖霊に満たされ、導かれて歩んで行くためにどうしても必要なことである。一日一日、神様にあって歩んで行こうとすると、御霊が不可欠であり、御言葉が必要であり、ディボーション(朝ごとの礼拝)も必要になる。
最近、聖書を読んでいても、他の書を読んでいても、感謝なことに教えられることが多い。そして、教えられたことを、他の兄姉にお分かちできる場(例えば、礼拝メッセージ)が、なお与えられていることは何と感謝なことか。
壁に向かってお話しするのではなく、退職して、なお新しい恵みの場(教会)が与えられていることはあわれみです。
ハレルヤ! | 2018-06-09 06:34:21[投稿番号:58] |
イエス・キリストのみ名! | 今朝のディボーションで教えられたこと | 使徒3−4章には、「美しの門」にいた足のきかない男の癒しが記されている。「み名」とは、そこに本体はないが、その代りとしての存在・臨在そのものがそこにあることを意味している。ここでは、イエス様はすでに昇天されて天の御座におられるので、そのイエス様の、地上における臨在そのものが「イエスのみ名」であると言える。弟子たちは、この臨在のイエス様を覚え、感じ、このみ名によって、生まれつき足のきかない男をいやしたのである。
ソロモンが神殿を献堂したときのお祈りを思い出す。「天も、天の天もお入れできない神様」なのに、神様がこの神殿に、神様ご自身の「名」を置くと言われたので、この大いなる恵みに基づいて彼は祈っている。「み名」は、そこに本体はなくても、地上的な臨在をもって本体が共にあることを表している。弟子たちは確かに御子を天に送ったが、御子の地上的な本体は、み名として弟子たちと共におられるのである。弟子たちのこの信仰は重大であり、今の私たちにも必要である。
このことを考えていたら、このイエス様のみ名こそ、天から私たちの地に来られた聖霊(御子の御霊)を実質的に指していることに増々確信が持てるようになった。
おそらく、使徒3−4章の背景から考えると、「聖霊によって歩きなさい」と言うより、「十字架で殺されたが、よみがえられた生けるキリストの名で歩きなさい」と言ったほうが、人々にはわかりやすかったのではないか。
いずれにしても、今、この地上で、私たちには、イエスのみ名であり、イエスキリストの御霊であるお方が共にいてくださるのである。天の御座は近くなった。ハレルヤ! | 2018-06-02 07:20:04[投稿番号:57] |
ペンテコステ礼拝 | ご聖霊が来られていることを歓迎します! | 4月の五つの礼拝をイースター「月」として、ゲストスピーカー(二人)にもお願いして、いろいろな視点からイースターについて学び、イースターの主を礼拝することにした。5月に入って前半の二つの週は三位一体の神様についてお話し共に礼拝をささげた。後半は、20日がペンテコステ礼拝で、そのあともしばらくご聖霊のことについて学び、ペンテコステ礼拝をつづけていきたいと思っています。
先週、神学校で学生の皆さんに、それぞれの教会でペンテコステ礼拝をどのように守ったか聞いてみた。予想に反して、特別なペンテコステ礼拝がなされていたというわけではなかった。別に、クリスマスのように、イースターのように「特別」である必要はないが。。。
ペンテコステ礼拝がなされていないから、ご聖霊を信じていないという意味ではない。でも、私たちのために、私のために、ご聖霊が来られて、共にいて内住していてくださることをほめたたえたい。共なる礼拝を通して、兄弟姉妹とともに、聖霊に賛美と感謝をささげたい。
もうしばらく、ペンテコステ礼拝をつづけたい。本当に、今は聖霊の時代だから。ご聖霊がこの私と共にいるために、またこの私の信仰を助けるために来てくださったのだから。こんなあわれみ深いことはない!内住の助け主を賛美します。ハレルヤ! | 2018-05-28 09:19:51[投稿番号:56] |
オンギジャンイの宣伝! | ペンテコステ礼拝を前にして | 12日の夜、一宮の教会でオンギジャンイのコンサートがあったので行ってきました。今回はメンバーの数が多くなかったので少し失敗していましたが大丈夫でした。メンバーのほとんどはよく知っている兄姉で、安定感があり、三曲のアカペラは抜群でした。
神様の福音は完全で、それを賛美しているので、言うことがありません。あとは、ご聖霊が豊かに用いてくださるように祈るだけです。稲沢教会でも、今週19日夜にオンギジャンイのコンサートがあります。神様が、豊かに用いてくださいますように。
今度の礼拝は待ちに待ったペンテコステです。すでに先週から、ご聖霊のどの点についてお話したらよいか、考えてきました。礼拝に来られる兄姉に、少しでも届いて、心にとどまり、また用いられるメッセージとなりますように祈り続けています。たぶん、イースターと同じく、今月から来月にかけて、何回かに分けてご聖霊についてメッセージをさせていただきたいと思っています。
ザアカイの家にイエス様が来られることを知って、驚き喜んだザアカイのように、私たちも聖霊を喜び、歓迎したいと思います。来週のペンテコステ礼拝が豊かに祝福されますように。ハレルヤ! | 2018-05-16 20:44:54[投稿番号:55] |
|