永遠のいのちの豊かさや広がり
神様にある色々な交わりの恵み
「永遠のいのち」とは、永遠の神様との交わり、神様を知り、神様に知られる交わりであると言えます。ヨハネ17章3節にある通りです。類似した言い方としては、同じヨハネ10章14-15節にもあります。

これらのことについては以前も触れたことがありますので、今回は、さらにこの永遠のいのちの交わりの結果、またその豊かさや広がりについて触れたいと思います。つまりこれは、神様との交わりを基にして、さらに同じ神様を信じ、永遠のいのちの恵みに与っている他の兄姉との交わりのことです。「交わり」とは、同じ神様にあって、与えられている本当の自由(つまり、全く強制のないこと)の中で、互いに知り合い、影響し合っていくことだろうと思います。

神様との永遠のいのちの交わりの恵みは、確かに、同じ神様にある兄姉との交わりに繋がっており、これは、当然のこととして広がったり、狭まったり、豊かなものです。例えば、私の最近の予定で言いますと、来週の月曜日はオンラインで、「若手?牧師会」がありますし、火曜日は、初めての試みですが、近所の牧師さんたちとの交わり食事会をする予定です。水曜日も、市内と近隣の牧師さんたちとの祈り会や分かち合いをすることになっていますし、木曜日は教会の聖書研究祈祷会です。

なんでこんなに「交わり」をするんでしょうか。ただ、交わりが好きだからというだけではなく、言いわけかもしれませんが、先ほどの永遠のいのちの恵みの祝福の効果(いい意味の副作用)であると考えます。神様は、私たちに、まず何よりも神様ご自身との交わりを与えてくださいますが、それだけではなく、さらにこの恵みを広げてくださいます。つまり、神様にあって、他の兄姉との交わりを導き、広げ、深めてくださるということです。たぶん、これが、天国の交わりの準備や予型になっていくのでしょう。

以前いただいたぶどうが美味しかったので、その種を土に埋めておいたら、発芽し、今では、その枝は、縦60センチ、横1メートル以上に伸びています。これからどうしようと不安になってきているほど、ドンドン増大しています。ただ、この様子を見ながら、ヨハネの15章5節などにある、イエス様のぶどうの木のたとえを思い出しています。これは、イスラエルであり、永遠のいのちの交わりを表しています。今は、もうほとんど、「ぶどうの木(中心の軸)」(イエス様)とその「枝」(私たち)の区別ができないほどになっています。

これこそ、永遠のいのちの交わりの本当の姿ではないかと考えます。中心は、私たちと神様(御子)との交わりです。しかしそれだけではなく、神様との交わりを中心に、他の兄姉(ぶどうの木の枝)との交わりも豊かに備えられています。

神様にあるいろいろな交わりは、永遠のいのちの恵みのしるしであり、結果であり、天の御国の交わりを指し示していると思います。「交わり」を大切にしましょう! 「交わり」の恵みを感謝します。 ハレルヤ!
2025-07-25 17:42:52[投稿番号:447]

最近読んでいる聖書から…
「ネヘミヤ書」のすばらしさ!
最近、ディボーションで「ネヘミヤ書」を読んでいます。久しぶりに読んだ書なのか、いろいろなことを発見し、教えられ、恵まれています。前半の7章までをまとめてみました。

*1章:自分と自分の家の罪を告白し、神様の前にへりくだっています。イスラエルが、バビロン捕囚にあってから何年経ったのか正確には分かりませんが(神殿が再建されてから70年位経過)、この時期にも、真のイスラエル(レムナント?)がここにいたのです。

*2章:王の質問に、彼は、まず「ネヘミヤの神様」に祈ってから答えたとあります。彼にとって、神様がどんなに身近なお方であったか、また、当時の彼の王より偉大なお方であったか、よく分かります。大切なことであればあるほど、まず神様にお聞きしたいです。

*3?4章:城壁の再建に対して様々な抵抗がある中で、ネヘミヤたちが「神様に祈りつつ、また日夜見張りをおいた」と記されている所に注目しました。この場合、一方だけでなく、両方を同時に行っていたと思われます。このことは、現代の様々な出来事に適用できると思います。

*5?6章:最後の19節に、ネヘミヤらしい祈りのことばがあります。それは、「私の神よ!」です。この後も、繰り返し「私の神」が出て来ています。この書は、ネヘミヤ自身の霊的日記のようです。私たちも、ネヘミヤのようにいつでも、個人的に呼びかけられる神様がおられることに大感謝です。

*7章(?8章以下へ):ついに、城壁の完成!こうしてネヘミヤは、さらに神のみことば(律法)に基づき、神殿を中心とした、神様にある新しい生活を教え、導いていく(8章以下へ)。ここで、どうしても必要なことは、神殿と城壁だけでなく、神様のみことばです。彼は、エズラを用いて、イスラエルの民が、神様の教えに理解し、これに従い、生活を整えていくことを導いていきます。

ネヘミヤ書は、これほどに豊かな教えを含んでいます。皆さんも、ぜひお読みください。ハレルヤ!
2025-07-18 17:57:59[投稿番号:446]

ご聖霊について今考えていること、やっていること
聖書神学的な聖霊論のまとめが終わろうとしています!
3年半ちょっと続きましたが、全部で45回、『「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動」を求めて』を終わることができます(あと一回)。

聖霊神学はそれなりにまとめることができたかもしれませんが、その後にある聖霊運動はどうなってしまったかな、と思っています。あと付け(いいわけ)ですが、これが聖書的な聖霊論に少しでも近いものであれば、ここから、聖書的な、真の聖霊運動が生まれて来るに違いないと思っています。また、そのように願っています。読んで下さっている兄姉の心と生活の中(また其々の教会の交わり)に、聖書的で、真の、ご聖霊の臨在と働きが生まれて来ることを願っています。これこそ、真の、聖霊運動であると言えるでしょう。

今は、少しずつですが、これまで横にしてきたもの(聖書神学的な聖霊論)を縦にしたい(組織神学的な聖霊論)と試みています。大それたことはできませんが、聖書神学的にまとめたものは、今の私たちの信仰生活や教会生活に適用されていく必要があります。今の状況を意識しながら、少しでも、聖霊論的な問いかけをしていきたいと思っています。

かつて読んだ、聖霊論関係の書物を引っ張り出し、もう一度調べ直していますが、たくさんのことを忘れてしまっていることにショックを覚えています。いろいろメモったり、線は引いてあるのですが・・・。どこまでできるか分かりませんが、「ちょうどいいかげんな組織神学的な聖霊論」を求め、またその恵みによって生かされていきたいと願っています。共にいてくださる神様のお許しと助けの中で、導かれていきたいと思います。これも、ハレルヤです!
2025-07-11 18:00:30[投稿番号:445]

私塾の春学期が終わりました!
ヨハネの福音書(前半)、教会形成論、旧約の解釈学?(前半)
今週、私塾の春学期が終わりました。今学期は、新しい多くの塾生が与えられて、共にゆっくり進めることができました。そのために、ヨハネの福音書のクラスも旧約の解釈学?も、予定の半分くらいしか進めず、どちらも、夏学期でも続けてやることになりました。これも感謝です。

今回、初めて「教会形成論」をやりました。要望がありましたので、これまで、「若手?牧師会」で学んできました「教会の刷新を求めて」という論文を基にして、一緒に学ぶことができました。トリニティー神学校(大学)で学んだこと(牧会学)を少しでもお分かちできたらと願っていましたので、よい機会が与えられ、感謝します。参加して下さった方々は、神学生、または神学校を卒用したばかりの兄姉で、教会形成、または牧会などに非常に関心をもっておられ、たくさんの質問を受けながら、クラスを進めることができました。これも、感謝でした!

前にもどこかで書きましたが、私自身、ここまで来るまでに、なんと多くの方々から学ぶ恵みが与えられたことでしょうか。少しでも、この恵みを、次世代の兄姉にお返しすることが私の願いであり、また喜びです。

来週から、また夏学期が始まります。今回は、ヨハネの福音書(後半)と旧約の解釈学?(後半)で、春学期の続きになります。クラスの数は一つ減り、少しホッとしています。何とか、暑い(熱い)夏学期も乗り切り、守られますように。感謝いたします。

『舟の右側」の連載もあと二回です。きょう、原稿を送りましたので、残すところあと一回になります。内住の御霊と向き合い、御霊に満たされて歩ませていただきたいと思います。ハレルヤ!
2025-07-04 16:09:20[投稿番号:444]

永遠のいのちの交わりの継続…
先週のつづき?
今週は、月曜日から水曜日まで、掛川市のつま恋で、4団体(福音自由、聖契、聖約、同盟福音)の牧師たちの研修会・交わり会がありました。14年ぶりに開催され、約120人の牧師たち、宣教師たちが集まりました。

参加を決心する前にはいろいろ迷いましたが、最後の交わりになるかもしれないと思い、行くことにしました。できるだけ知らない人とも交わりたいと思っていましたが、それだけではなく、何十年ぶりにお会いできた懐かしい方々もいました。

時々、何かの集会の案内があっても、参加しないほうを選んでしまいがちでしたが、今回は、思い切って出て行ってよかったと思いました。確かに、私と同年代の方々は少なく、私よりも先輩の牧師たちは僅かでしたが、教えられました。身体的に弱さをもっておられるにもかかわらず、頑張って交わりに入って来られていました。私の何年か先を見ているようでした。いろいろな交わりがありましたが、どれも感謝です。神様にある永遠のいのちの交わりの素晴らしさを感じました!

二日目の午後には自由時間があり(自由な分科会とスポーツ)、私は、この時間を使って、「聖霊について」のお話をさせていただきました。ほとんど準備しないで、参加者の皆さんとの「座談会」風のものを考えておりましたが、たぶん、そんな感じの分科会になったようです。15人位の方々が参加してくださいました。ご聖霊のことについて、そこまで学べたことは初めてでした、という牧師さんもおられました。予定の時間は、1時間半でしたが、なんと、3時間続きました。いろいろ、質問やコメントをしてくださった皆さんに感謝いたします。これからも、御父と御子と御霊の枠組みのなかでの、ご聖霊の臨在と働き(役割)についてさらに考え、求めていきたいと思います。ハレルヤ!
2025-06-27 19:47:39[投稿番号:443]

神様にある永遠のいのちの交わり
今週、一週間は凄かったです。
永遠のいのちの交わりには、二つの面があります。神様との交わりと、神様にある兄姉との交わりです。今週の月曜日から、毎日、神様にあるいろいろな永遠のいのちの交わりが与えられました。正に、豊かな「永遠のいのち」の交わりの一週間でした。

月曜日の午前は、毎月一回やっている「若手?牧師会」の交わりで、牧会において直面する様々な問題について話し合いました。午後には、久しぶりに、中部地区の神学会の総会に出かけました。久しぶりの方々ばかりでしたが、よい交わりの中で、中部地区神学会の今後のあり方についても話し合いました。

火曜日の午前、午後には、母教会が同じで、現在も牧師として奉仕をつづけておられる方と、たぶん、50年ぶり(?)にお会いしました。また、息子さんも一緒に来られ、留学から一時帰国しておられたので、これからの学び(論文)などについてもいろいろお聞きすることができました。50年ぶりにもかかわらず、全く、それを感じさせない親しい交わりが与えられ、たくさんの励ましをいただきました。

水曜日の午後は、祖父江教会で市内牧師会がありましたが、しばらく前から、岩倉地区(古知野や北名古屋も)の牧師たちも参加されるようになりましたので、約10人で交わり、祈り合うことができました。毎月一回持っていますが、直面している問題や課題、感謝の証しなど自由に分かち合いました。

木曜日の午前には、聖書研究祈祷会がありましたが、今回は、前任の牧師(ベルンス宣教師夫妻)も参加してくださり、全部で、16人で、聖書の学び、分ち合い、祈り、そして歓迎の感謝会を開きました。ベルンス先生夫妻からは、現在の北ドイツやヨーロッパの宣教状況について詳しくお聞きすることができました。懐かしい交わりの時になりましたが、宣教師夫妻もお元気そうで、すぐに、より深い交わりに導かれました。

きょう(金曜日)は、旅行から無事に戻って来た娘一家との交わりが与えられています。疲れもあると思いますが、元気で守られ、感謝しました。

永遠のいのちの交わりは凄いですね。毎日、毎週、同じ神様にあって、様々なタイプの永遠のいのちの交わりが与えられます。この交わりは、アコーディオンのように、広がったり、小さくなったり、深められたり、本当に多様ですが、豊かです。同じ神様にあるので、恵まれ、励まされます。そして、毎日、毎週、妻との交わりがずっと与えられ続けています。不思議ですが、凄いですね。み名を賛美いたします!

神様にあるこのような永遠のいのちの交わりを感謝します。
2025-06-20 20:19:52[投稿番号:442]

私にとっての喜びの二つの源!
あなたにとっての喜びの源は何か?
今週、ある時に、ハッと気づいたことがあります。それは、私には喜びの源が二つある!ということです。

だれでも、喜びの源を一つ持っています。それは、この世に属しているもので、家族だったり、友人たちだったり、仕事や学びの中に、趣味や「推し」に関係するものだったり、です。

かつて、野球が大好きであった時(巨人ファンでした!)、巨人が試合に勝つと嬉しくて嬉しくて、その夜、またその後の一日ぐらいは喜びが続いていたと思います。しかし、巨人だけでなく、そのほか、どんなことでも・・・この世のすべてのものには限りがあって、残念ながら、長続きするものではありません。少し時間が経ったり、状況が変化したり、いろいろな要因はありますが、この世に属しているものを源にしている喜びは、しばらくするとドンドン小さくなっていきます。

もちろん、だからと言って、この世の喜びを否定しているのではありません。これらも、神様が与えてくださっている恵みの一つであると思っています。ただし、残念ながら、先ほども言いましたように、それは、私(たち)が願っているようには続かないのです。

今週、はっきりと、私は、喜びのためのもう一つの源を持っている!与えられている!と思いました。それは、永遠のいのちという喜びです。神様を知り、知られるという神様との交わりで、これは永遠に続くものです。いつでも、どこでも、ただ、これに気づけばいいのです。

これは、上記でお話したこの世に属するものではなく、神様に属するものです。ただ、どんな時でも、どんな状況でも、これに気づけば、喜びが湧いて来るのです。たとえ、この世に属することから来る喜びがなくても、すでに与えられている永遠のいのちに心を向けると、すぐに、私(たち)のこころは、永遠のいのちの喜びに満たされるのです。

これは、いいですね。この素晴らしさ、豊かさ、永続性に、あらためて気づきました。私には、二種類の喜び(の源)が与えられているのです。
喜びのないときでも、このいのちに目を向けると、喜びが湧いてくるのです。本当に、ありがたいことです。私達には、二つの喜び(の源)が与えられています。皆さんはお持ちでしょうか。永遠のいのちにある喜びに気づいておられるでしょうか。
2025-06-13 20:29:35[投稿番号:441]

『舟の右側」「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動を求めて」
第43号の原稿を書き終えて…
今週、『舟の右側』の編集者の谷口さんに43回目の原稿を送りました。黙示録における聖霊の「まとめ」(1000字位)が残っていますが、これで新約の聖霊のほとんどに触れ、終えることになります。最後は、「新約の聖霊」についてまとめたいと思います。これまでに3年半かかりました。谷口さんや読者の皆さんに支えられ、ここまで来ることができました。あらためて感謝し、神様のみ名を賛美いたします!

こんなに大変で、また時間がかかるとは思いませんでしたが、聖書からたくさんの発見をし、教えられたことが多くありました。以前、『聖書神学事典』で「聖霊」について書かせていただいた時、聖霊についてこのようにまとめました。「聖霊は、キリスト者にとって長くて、広くて、深くて近いお方である。」

このことは、「聖霊」について今も変わることのない、私自身の告白です。聖霊は、第一に、天地創造の時から再臨の時まで、ずっと私たちと共にいてくださる「長い」お方です。
第二に、聖霊の臨在と働きは、神様がお造りになった全世界のすべての者たちに及ぶものであると言えます。ですから御霊は、「広い」お方です。
第三に、聖霊は、誰よりも何よりも、私たちに深くて近いお方です。神(御父)の深みに及び、また私たちに内住して私たちの深みに及び、呻きをもって執り成して下さるお方です。この意味で、聖霊は、「深くて近い」お方であると言えます。

また、聖霊は、本当に豊かなお方です。個人的であると同時に、教会的であり、終末論的なお方です。花嫁なる教会とともに、再臨のイエス様に向かって「来てください」と叫ばれるお方です。また、ご聖霊は、表に出られるというよりも、多くの場合、「私たちの側」におられ、私たちに内住し、私たちの思いや行動と共に、臨在し、また働かれるお方です。

明後日は、ペンテコステ礼拝です。私たちのために、助け主、真理の御霊としてお出で下さったご聖霊を思い、歓迎し、特に聖霊の内住の恵みを分かち合いましょう。ハレルヤ!
2025-06-06 19:57:30[投稿番号:440]

最近教えられたことです!
モーセを用いられた神様について
今週、礼拝メッセージで出エジプト記32?34章から説教させていただきました。存続の危機に直面していたイスラエルのために、モーセは命がけのとりなしをしました。結果として、モーセのとりなしを通して、イスラエルはこの後も神様の臨在と導きを失うことなく歩めるようになりました。

一方で、聖なる神様の厳命(怒りやさばき)と、憐れみを求めてとりなすモーセの献身を対比して見ることができますが、神様がこのようなモーセをあえて用いてご自身に向かって語らせておられると取れないことはないと考えました。

神様は、全知全能の方であり、聖であり義であるとともに、怒るのに遅く、愛と憐れみに富んだお方なので(これらは、すべて神様の本性に属すること)、このような導きは、真の神様においてありうると思ったからです。

また実際に、神様は、似たようなこと(さらにそれ以上のこと)を、御子イエス様の十字架を通してやって来られたのです。神様は、一方で義なるお方、聖なるお方です。このことは変わることがありません。しかし同時に、愛と憐れみに富んだお方として、御子ご自身のいのちを通して、このことを表しておられると言えます。

人間にはできませんが、神様にはできます。ある意味で、自己矛盾になると言えるかもしれませんが、神様は、ご自身の本性の二つの面を同時に表すために、御子イエス様、ご聖霊、そしてまた、ここでは、モーセを用いて、ご自身の、時には二つの相反するような本性を表し、実行しておられると言えるのではないでしょうか。

このことを考えますと、モーセのいのちがけのとりなしの凄さからも教えられますが、その裏で、このようなモーセを敢えて用いて、ご自身のもう一つのみこころ(愛や憐れみのご性質)をも全うしていかれる神様の凄さに圧倒されてしまいます。

義なる神様は、ここまでして、イスラエルを赦し、また私たちをも贖い、赦しておられると言えます。讃美歌262番に「十字架のもとぞ、いと安けき、神の義と愛の会えるところ」とありますが、まさに、十字架の上で、神様ご自身の義と、御子の愛の裏側になる神様(御父)の愛がぶつかっていると言えるでしょう。ハレルヤ!
2025-05-30 18:30:20[投稿番号:439]