「御霊によって祈る」とは?
エペソ6章18節を中心に
二つのことがきっかけで、「御霊に祈ること」とは何か、考えています。一つは、『舟の右側』の原稿の締め切りが来たので、あらためて、エペソ書の聖霊について確認し、その中に(6章18節)、「御霊によって祈りなさい」というパウロの命令がありました。これは、霊的な戦いにおける武具の一つです。
もう一つは、今週、私塾の「霊性?:祈り」の学びで、イエス様の生涯における祈りに注目し、教えられたことがありました。

後者から始めますと、御子の生涯は祈りの生涯で、どんな時も御父と交わり歩んで来られたと言えます。誕生から、また特に、ヨルダン川での洗礼から十字架まで、御父と交わり、祈りつづけておられました。そしてここに、もう一つ重大な要素があります。絶対に忘れてはいけないことですが、しばしば、陰に隠れてしまう可能性のあることです。それは、御霊によって祈り、御霊によって御父と交わり続けて来られたということです。これは、イザヤ42章1節、61章1節の成就であり、ヨルダン川での聖霊体験から明らかです。纏めますと、私達の信仰生活の模範、祈りの生活の模範である御子は、当然のこととして、当たり前のこととして、御霊に導かれて祈りの生活を続けられたと言えます。御霊によって祈ることは、普通のことです。

前者についても、触れてみたいと思います(これは、『舟の右側』の原稿の一部になりますが簡単にまとめます)。…「御霊によって祈る」とは何か。これは、様々な聖霊的武具の中で理解することが最も難しい武具の一つです。「祈り」だけには武具の比喩がありません。ひょっとしたら、「祈り」の多様な働きのゆえに、何か特定の武具に喩えることができなかったのかもしれません。実際に「祈り」には、様々な修飾語がかかっています。17節は、文法的に、動詞はなく現在分詞ですが、これまでの命令形(13節:武具を取りなさい、14節:堅く立ちなさい、16節:信仰の盾を取りなさい、17節:救いのかぶとをかぶりなさい、御霊の剣を(取りなさい))に基づき、命令として考えることができるでしょう(「御霊によって祈りなさい」)。
  
様々な修飾語が、18節の「祈りなさい」にかかっています。18節の前半と後半は並行文で、後半はより詳細な内容になっています。では、「御霊によって祈る」とは何でしょうか。前後に明確な説明がありませんが、その概略について聖書全体から考えてみたいと思います。

第一に、内住の御霊に満たされていることが前提になります。第二に、御霊は、御父と御子、そのみこころと一つなので、聖書のみことば(教え)に基づいて祈ることが不可欠です。聖書のみことばは聖霊のことばだからです。第三に、御子の模範から教えられます。御子こそ、生涯の初めから終わりまで、御霊によって御父と交わり、祈り続けておられた方です(ルカ3・21―22)。第五に、ローマ8章26‐27節にある「御霊のうめきのとりなし」を信じ、期待することができます。第六に(これが一つの結論です)、「御霊によって祈る」ことについて、私たちは何か特殊な祈りを想像するかもしれません。しかし上記のように、聖書は、むしろ「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも‥‥‥目を覚まして、忍耐の限りを尽くして」祈るものであることを教えています。聖書から分かる範囲ですが、これらが「御霊による祈り」の基本的要素、あり方であると思われます。

私自身への適用です。私は、お祈りしているとき、御霊のことを意識することはほとんどなかったと思います。6章18節の命令に基づき、御霊の臨在と導きを信じ、また助けを意識して、祈っていきたいと思います。ここにも、御霊の助けがあることを信じ、感謝します。ハレルヤ!
2024-11-08 18:28:22[投稿番号:399]

祈りのステージ(Stages)
祈りとは何か。
この10月から私塾の秋学期が始まっていますが、クラス名は、「霊性?:祈り」です。霊性?では、聖霊論を軸にしながら、「霊性」について学びましたが、今回は、その中でも、特に「祈り」に焦点を合わせて学んでいます。

「祈り」はあまりにも不思議なもので、永遠に「祈りが分かった!」とは言えないだろうと思っています。上がったり、下がったり、形だけになったら、リアルになったり、深められたり、浅かったり、いろいろです。とても奇跡的、超自然的であったり、自然的、現実的であったり。。。

クラスの学びには二つの柱があって、一つは、聖書から学ぶのですが、もう一つのテキストとして、ヤンシーの『祈り」を使っています。時々、英語版を参考にしますが、それでも分からない、分かりにくい部分があります。

『祈り』は、クラスで使うので、数年ぶりに開いて、読み直していますが、いろいろと再発見することがあります。最近のことで言いますと、クラスの中でもお話したことですが、8章の「祈りの段階(ステージ)」から教えられました。実際に、読みながら、これは、最近、自分がやっていることではないかとびっくりしました。

英語で「Stage」をどう訳したらいいのか迷います。「段階、舞台、行程…。」とにかく、ヤンシーは、祈りに関して三つのステージについて触れていました。

?単純に、子どものようにお願いするステージです。ただし、「子どものように」と書きましたが、だからと言ってこのステージが幼稚な段階という意味ではありません。

?瞑想などのステージです。神様と親しく交わることです。この中で、私たちの願いの祈りも変えられていきます。神様をもっと知り、自分についてもっと知らされ、祈りも新しくされていくからです。

?献身をもって神様のみこころに応答していくステージです。神様との交わりの中で、神様のみこころに巻き込まれていくことに喜びを感じ、応答していくということでしょうか。

私自身、前回のブログでも書きましたように、祈りつつ、迷っているところがあります。そんな中で、一番多いのは、おそらく、?のステージです。しかし、その前には?のステージありました。また、最近は、?のステージかもしれません。しかし、いつでもどこでも、祈りの核心部分になっているのは、?のステージではないかと思います。その中で、?へ行ったり、?になったりしているということです。

今回も、いろいろ書きすぎてしまったかもしれません。お読みくださり、感謝します!ヤンシーの『祈り』をおすすめします。祈りをとおして、私たちの信仰生活全体が新たにされていくことを願っております。ハレルヤ!
2024-11-01 17:35:47[投稿番号:398]

今、考え、祈っていること
「神様のみこころ」について(その一)
10月も終わりに近づいて来て、特に祈っていることがあります。具体的には、まだ言えませんが、それは複数あります。まとめれば、一つになるでしょう。

それは、神様のみこころはなんだろうということです。以前、「神様のみこころ(の求め方)について考え、調べたことがありました。

例えば、聖霊派の皆さんでしたら、かなり奇跡的に御心が与えられることを求めることが多いだろうと思います。

きよめ派の皆さんも、この点では、聖霊派に近い面があったと思います。「あった」と書いたのは、かつて、このような求め方が多かったように思うからで、今は、かなり違ってきているだろうと想像しています。

改革派系やデスペンセーション派(Revisedまで)の皆さんは、奇跡的なことは(だいたい)1世紀末で終わったと考えることが多いので、神様のみこころの求め方は、かなり理性的です。いろいろ考え、熟慮して判断していくのではないかと思います。

福音派の皆さんは、「福音派」の定義にもよりますが、上記の教派やグループの影響が様々にありますので、上記で大雑把に説明したようなことが実際には起こっていると思います。奇跡的な事を求めたり、特別な形で御言葉を求めたり、また、理性的に色々考え、判断したり、しているということです。

私自身のこれまでの歩みを振り返っても、神様のみ心を求めた方法は色々あったように思います。また、神様が、私自身に神様のみ心をお伝えくださる方法も色々あったと、言い換えることもできます。

突然、神様の方から一方的に語って下さったこともありました。また別の時には、山の上で、そのみこころが信じられず、反論を繰り返したこともありました。また、みことばが不思議な形で与えられることがありましたが、数年後にこの出来事を疑い、もう一度、それが偶然であったか、それとも真正な経験であったか祈り、吟味したこともありました。再献身した直後に御心(だと思っていること)が明らかにされたり、いろいろ熟慮して、判断したり、他の人から神様のみこころが来たり(本当に、これが神様からのものか、吟味しなければなりあませんでしたが)、いろいろありました。

逆に、これは、絶対に神様のみこころだと確信していたのに、実現しなくて、ひどく失望、絶望したこともありました。

神様のみこころを求めることに、また、あたえられることに、「王道」はありませんね。かつて、この方法がよかったので、次もこの方法で、とは言えないようです。

神様のみこころを真に求めていく時、再献身は不可欠ですね。再献身していないで、神様のみこころを聞かせてください、という厚かましさは間違っていると思います。
神様のみこころを真にもとめていくとき、徹底的に、信仰が振るわれますね。これを待つとき、本当に忍耐を試されます。本当に、自分の心や方法ではなく、神様のみこころを求めているのか、問われます。

ただ待つだけでなく、自分の側でやるべきことをしなければならないということもあります。逆に、もうやるべきことをしたので、後は、献身的にすべてを委ねて、待つべきであることもあります。

信仰は不思議ですね。むずかしいですね。神様のみこころを求めることは、自分自身の信仰が問われるし、信仰のないことが明らかにされるし、試されますね…

また、「続き」をいつか書いてみたいと思います。そんなことで、今回は、「その一」とさせていただきます。長文をお読みくださり、感謝いたします。最善のみこころがなされるように、お祈りください。ハレルヤ!
2024-10-25 19:52:27[投稿番号:397]

キリストとの交わり、御霊との交わり
以前、「御霊との交わり」について質問をいただいたことがあります。最近、いろいろ考えていましたので、両者の違いと共通点などについてまとめてみたいと思います。

キリストとの交わりについては、たとえば、1コリント1章9節にある通りです。「神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」

私にとって、イエス様との交わりは、福音書にあるイエス様(その生涯、十字架と復活など)のお姿を思いながら、また、パウロの手紙においてパウロが書いている御子についての教えに基づいて、イエス様と交わる感じだと思います。

御霊との交わりについては、たとえば、2コリント13章13節にある「御霊の交わり→御霊との交わり」にある通りです。ピリピ2章1節にもあります。これらについて、解釈の違いはありますが、私は、御子との交わりがあるように、これらは、御霊との交わりを教えている箇所であると考えています。

御霊との交わりは、使徒の働きにおける御霊とその働きを思い浮かべることは少なく、大抵は、パウロの手紙などでパウロが御霊について書いていることを大切にし、それらを暗唱し、祈りの中で、御霊と交わることが多いと思います。

御子との交わりと御霊との交わりが重ならないかという質問があるかもしれませんが、私は、むしろ、かなり三位一体的にお祈りすることが多いので、御父と交わり、御子と交わり、御霊と交わっている感じです。
そして、御父と御子と御霊は根本的に一つなので(より内在的に)、これはお任せして、御父と交わり、御子と交わり、御霊と交わっていると思います。

付け加えますと、御霊と交わっていると、いつの間にか、また意識的に、無意識的に、当然のことですが、御父との交わり、御子との交わりに導かれているようです。しかしまた、特別に、個別的に、内住の御霊に向かって、祈ることもあります。

わけが分からなくなってきたと言われるかもしれません。お読みくださり、感謝します。御父と御子と御霊に囲まれ、感謝します!ハレルヤ
2024-10-18 16:12:50[投稿番号:396]

私塾「霊性?:祈り」のクラスが始まりました!
「霊性:祈り」の重大さについて
今週、私塾の秋学期が始まりました。今回は、1科目でしたが、7人の兄姉が参加してくださり、感謝しています。まだ、始まったばかりですが、「祈り」を中心に、私達の霊性について考え、分かち合い、学ぶことができるのは本当に幸いです。

真摯に自分の霊性と向き合い、正直に分かち合うこと、また、共に神様を見上げることができる幸いは嬉しい経験になり、私にとっても励ましになります。

テキストは、聖書とヤンシー著『祈り』ですが、ヤンシーは、この本の中で、マルシアという人の言葉を引用しています。「…『祈りの生活はいかがですか。』と聞かれることがあります。でもクリスチャンにとって、その質問は『暮らしはいかがですか』というのとどう違うのでしょう。」

私も、本当にそう思います。そう思うようになっています。私たちの生活全体は「祈り」です。手を組んでいなくても、ほとんど一語も発していなくても、生活全体が祈りですね。

なぜ、こんなことを書いたかと言いますと、今回の「霊性?:祈り」のクラスは、狭い意味の「祈り」ではなく、広い意味での「神様との交わりの生活」について考え、学び、教えられたいと思っているからです。

私塾の中の一つのクラスですが、このような重要テーマについて、参加者の皆さんと率直に、正直に、ともに、学べることは何と幸いでしょうか。これこそ、私の教会生活、牧会生活の中心的なテーマに違いないと感じています。

子どもたちと、教会について話し合うことが大好きです。嬉しいことです。ありがたいこと、特権だと思っています。また、先日、子ども達の一人と、神様の御心について考え合う時が与えられました。
皆さん、こんなうれしいことはありません。神様が与えてくださった子ども達と「霊性」について話し合ったり、分かち合ったりできる幸いはなんとありがたいことでしょう。ハレルヤ!
2024-10-11 18:19:54[投稿番号:395]

御子にあって、御霊によって
御子と御霊の関係
今は、エペソ書の聖霊とへブル書の聖霊について学び、まとめているところです。へブル書の聖霊は、パウロの手紙における聖霊といくらか違うところがあって興味深いです。また、エペソ書の聖霊は、特に教会論において御子と御霊の関係(一致と相違)を知ることができ、これも注目できます。

以下は、『舟の右側』用に準備した原稿の一部です(一部省略)。

エペソ2章21節と22節について:
まず、前後の流れについて確認しておきたいと思います。11節から、ユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つとされたことが繰り返し語られています。また、新改訳2017から引用すると、「キリストにあって」(13節)、「キリストは」(14節)、「キリストは」(15節)、「キリストは」(17節)、「キリストを通して」(18節)、「キリスト・イエスご自身が」(20節)、「このキリストにあって」(21節)、「このキリストにあって」(22節)とありますように、キリスト論的アプローチが中心です。ただしその中に僅かですが(18節と22節)、御霊についての直接的言及があります。さらに、この二節には、「御父、神」に対する言及もありますので、三位一体的であると言えます。

このような流れの中で、21節と22節に着目し、両者の関係を明らかにしたいと思います。

21節「キリストにあって」と22節「キリストにあって、御霊によって」は、構造的に内容的に、ほとんど同意的な並行文です。22節の聖霊は、教会に内住しておられる御霊を指していると思われます(1コリント3・16)。意味をまとめますと、御子のみわざ(11-20節)に基づいて建てられた教会(存在・交わり)は、「主にあって、御霊によって」、ともに組み合わせられ、建て上げられながら、聖なる宮(神の臨在の住い)として、さらに成長していく、ということになります。この場合、御子と御霊の働きは、「主にあって」と「御霊によって」の訳語で、よりふさわしく表現できると思います(ギリシャ語では同じ前置詞「?ν」)。両者は一つですが、完全に同じではなく、其々の働き(役割)において区別できます。

これまでも時々触れて来たことですが、ここも、「御子と御霊」の関係について考えさせられる箇所です。ギリシャ語では、「エン」という同じ前置詞が使われていますが、日本語訳になると、「御子にあって、御霊によって」と訳し分けることができます(これは、正しいと思います)。

教会論に関して、いつでもではないかもしれませんが、「御子にあって」と「御霊によって」で表現される「区別と一致」は明らかです。

どうして聖霊についてやるのか、イエス様のことで十分ではないかと時々思うことがありますが、エペソ書2章21節や22節を並べて考える時、御子と御霊に関する教会論的な区別と一致があって、これらを否定することはできないと思うのです。

これからも、救済論(救いと成長)や終末論だけでなく、教会論における御子と御霊の区別と一致についても考えていきたいと思います。

お読みくださり、感謝します!
2024-10-04 20:57:55[投稿番号:394]

本と私?
今週、ある牧師さんに本を引き取っていただきました!
今週、ある牧師さんに、牧会関係の本(200冊以上)を引き取っていただくことができました!妻は、本だなにすき間ができたのを見て、喜んでおりました!

いつか、その時が来ると覚悟しておりましたが、いざ、本棚のすき間を見て、寂しいような、ホッとしたような、複雑な思いになりました。持って行っていただく本を整理していたとき、これらの本を読んで学んでいた頃の自分を思い出したりしていました。

本を整理するとか、片付けるとか、処分するとか…これらは、これまでの自分自身の学びや牧会の働き、大げさに言えば、自分自身の生きて来たことを捨てていくこと、切り捨てていくを意味しています。

これも一つの再献身かもしれませんが、今の心身の状態、今後の生活やご奉仕などを考えながら、これに見合った生活リズム、生活内容に調整していく必要がありますね。そうでないと、後で家族が大変になります。

これからも、本を少しずつ、削って(?)いきたいと思っています。説教関係:40冊位、聖書解釈関係:100冊位、伝道や福音主義:100冊位、霊性:250冊位、聖霊(論):300冊以上。さらに注解書や聖書神学関係:500冊?組織神学、歴史神学…事典類…とにかく、キリがありませんが、身軽にしていきたいと思います。しなければなりません。

独り言のようなものを読んでくださり、感謝いたします。皆さんの中で、まとめて引き受けて下さる方がおられましたら、ご連絡ください。個別ではなく、ジャンルごとにまとめて引き受けて下さる方、大歓迎です!(まだ、しばらくは持っていたい本やジャンルもありますが)すべて感謝いたします!
2024-09-27 18:03:38[投稿番号:393]

私と説教準備について
牧師として約47年間、説教させていただいた!
ある牧師さんから、「先生は、説教準備の中で、以前の説教原稿を見ますか」という質問を受けたことがあります。
私の答えは、「いえ、全くありません!探せば、前に説教した原稿はあると思いますが…」だったと思います。

以前、一度だけ(?)調べたことがありましたが、以前の説教原稿にあった内容のほうが優れていて、想像力も豊かであることを感じました。しかし、なぜか、使う気にはなれませんでした。その時はその時で、今の私と神様(みことば)と礼拝に来られる皆さんの状況は違うからです。また、その時点まで、タイムトゥリップするのが面倒だったのかもしれません。

正直言いますと、頭が固くなり、視野も狭くなり、もの忘れも激しくなり、苦しい現実があります(説教を聞いて下さる皆さんはもっと苦しい!)。また、しばしば、そういう現実に気づいていない自分もあります。

ただ、以前の自分とかなり違う部分の中で、多くのネガティブな事の中に、少しですがポジティブなことがあることも確かです。例えば、聖書を読んでいて、以前なら分からなかった箇所の意味がより広く、より深く考えられるようになったということです。もちろん、すべてではありませんが、今でも、いろいろと発見すること、気づくことがあり、感謝しています。
そしてそんなことを、すぐにではありませんが、(いつかの)説教に生かしていきたいと思っています。

説教イコール私自身の生き方ということにはなりませんが、少しでも日々教えられていることを説教として語り、また語ったことを自分自身の歩みの中に生かしていきたいと願っています。
そういう意味で、説教と私自身の生き方は切っても切れない関係にあります。神様との交わりの中にあるもの、教会の兄姉との交わりの中にあるものと言えるでしょう。

まとまりませんが、お読みくださり、感謝いたします。9月も後半に入ります。「私塾」が10月から始まりますので、いろいろと考えております。お祈りを感謝いたします。ハレルヤ!
2024-09-20 17:22:14[投稿番号:392]

お祈り感謝いたします!
8月16日のブログのつづき
お祈りをかんしゃいたします!

8月16日のブログに、「転移」があるかどうかについて9月に検査結果が出ると書きましたので、報告をさせていただきます。
転移は幸いありませんでした。感謝いたします。

この結果次第で、「私塾」を考えなければならないかもしれないと思いましたが、大丈夫でしたので、私塾の秋学期の案内を皆さんに送りました。

今後のことに関して、放射線治療を考えておりましたが、医師からの勧めで、3か月毎の検査(経過観察)と一年後の生体検査をすることになりました。しばらくは、このまま、「癌」をいただきながら、歩ませていただきたいと思っております。お祈りをありがとうございました。

現在していることは、毎日の牧会の働きとともに、牧会書簡における聖霊についての学び(もう少しでおわります)、若手?牧師会で使用する予定の「リーダーシップを育てる」ことについて約30年前に書いた小論文(英語)がありましたので、これを日本語に訳しています。夏の間、少しずつやって来て、ほとんど終わったところです。関心のある方はご連絡ください。これから、稲沢教会の役員会の学びでも使用していきたいと考えています。

主にある変わらないお交わりを感謝いたします!
2024-09-13 18:10:11[投稿番号:391]