神様にあるお交わりに感謝!
昨日、葬儀がありました。
 昨日、岩倉教会で葬儀があり、行ってきました。○さんは、90歳で天に召されました。とうとう、「時が来た!」という感じです。長い間のお交わりに感謝しています。

まだ信仰をもっておられない時、飲めないお酒を飲んで(飲まされて?)、フラフラの状態で、小牧市方面から歩いて来られた時のことを思い出します。教会会堂の玄関にバタッと倒れ、動けなくなっている○さんをかかえて車に乗せ、家まで送り届けたことがありました。後で、聞いたらほとんど覚えておられなかったのですが、とにかく、教会堂の屋根にある「十字架」を頼りに歩いてきたとのことでした。
私たちは、いつか、○さんが本当の意味で、十字架のイエス様を頼ることができるように祈りました。

何年も経ちましたが、○さんの家で家庭集会をするようになりました。○姉のお母さんは信仰を告白されるようになりましたが、○さんはなかなかでした。いつも、○さんは「自分は社守(神主?)の子、神の子である」とお話しされるばかりでした。
しかし私も行きたかったのですが、娘さんと相談して、(もう最後になるかもしれないので)○さんの故郷(奄美大島→加計呂麻島)に行く計画を立てました。こうして5人で、奄美に行ったのです。
○さんの故郷は、ほとんど昔の姿はなく、住んでおられる方々も疎らでした。そして子どもの頃遊んだと言われる海を見、地域を回りました。またかつて(特に戦争中)栄えていた神社にも行ってみました。しかし残念ながら、かつての面影は全くなく、ほとんど朽ちていくばかりでした。

楽しい旅と交わりが与えられましたが、○さんは帰ってから、人生の空しさと、人間が作った神々(神社)の儚さを悟り、天地を創造された真の神様を信じる告白をなさいました。

はからずも(神様がこの旅を何らかの形で用いてくださるように祈っていましたが)、奄美への旅が用いられて、○さんは信仰者としてその人生を再出発されたのです。

それ以来、娘さんに連れられて、毎週、三人で教会の礼拝に来られるようになりました。神様の不思議な導きとご支配、娘の○さんの長い間の祈りと証し、様々な労苦を覚え、神様のみ名を賛美します。心から、神様にあるお交わりを感謝します。今、○さんが神様のみもとにおられることを覚え、ハレルヤ!
2018-12-16 07:27:58[投稿番号:87]

天の御座におられる私たちの大祭司
ヘブル書8章を中心に教えられたこと
 天の御座に永遠性と現在性がある。天の御座におられる大祭司イエス様の臨在と御業にも、永遠性と現在性がある。

御子は、すべての贖いの御業を十字架の上で、また天の完全な御座において(ここは真の神殿)、成し遂げてくださった。だから贖いの御業も完全、永遠、絶対、一回で十分である。しかしこれもまた、ある意味で、現在的であると考える。つまり、毎日、毎瞬、毎週…大祭司であるイエス様が、贖いを続けておられるということである。

ヘブル書8章を読みながら、このことを考え、黙想し、教えられた。
なぜ、今も、天の御座という神殿に、御子は大祭司としておられるのか?確かに、御子の贖いの御業は完全であるから一度で十分、これで大祭司の働きを終えられたと考えてもよい。しかし今も、御子は天において、現在的に、大祭司として臨在し、働いていてくださる。なぜか?…それは、御子の働きが不完全であるというのではなく、地上の現在的な私たちのために現在的に働いておられるからである。

最近、自分があまりにも成長しないで、御霊に満たされて歩むのではなく、自分に満たされて歩んでいることに嫌気がさしていた。変わらない自分、変えられていかない自分に嫌気がさしていた。
毎日、断続的であるが、繰り返し、共にいてくださる三一の神様を見上げようと努めてきた。しかしなかなか成長していかない自分を認めなければならなかった。

そんな私であるが、きょうのみことばは助けになった。御子は、今も、大祭司として臨在し、毎瞬、毎秒、毎分、毎時、毎日、その完全な贖いの御業を成し遂げ続けていてくださることに気づいた。私は毎瞬、罪を犯しても、御子の贖いの業も毎瞬なので、私は完全に、毎瞬贖われていると言える。
罪人のかしらであることは変わらないが、あとは、このような聖なる父を崇め、この方と共に歩むことしかないだろう。ハレルヤ!
2018-12-14 07:14:07[投稿番号:86]

月曜日のプレッシャー
ヘブル6:1-5を読んで
 毎日、毎週、いろいろなプレッシャーがある。月曜日は、一応、休みの日であるが、なぜか一番、月曜日にプレッシャーを感じてしまう。
前日の疲れが原因で、身体的に、精神的に、霊的に、それが一挙に襲ってくるのかもしれない。また、これから始まる新しい一週間の予定などが、一度に束になって襲ってくるのを感じるからかもしれない。一度に全部やらなくてもいいのに、月曜日は休みなのに、そんな気分になってしまうことが時々ある。

今朝も、重い気分であった。神様の前に出てお祈りしていても、心は硬かった。できるだけ正直にお祈りして、少しずつ心の重荷が軽くなってきた。
そして何よりも助けられたのは、ヘブル書6章1,4-5節であった。1節の「成熟を目指して進もうではありませんが」を読んで、またプレッシャーを感じて、がっくりしたが。。。なかなか「成熟に進めない、進んでいない」自分にがっかりしたが、4-5節を読んで力をいただいた。

4-5節の御言葉は、まとめると、救いの素晴らしさを語っているのか、それとも、その際にあずかったご聖霊の祝福を語っているのか、その両方か、決めることは難しいが、とにかく、「私は、今朝も、聖霊のパートテーカーとされている。御霊は、天からの賜物であり、そのお方のみことばと力を受けている」ことを覚えたとき、プレッシャーから解放されていった。

そのあと、「お祈り散歩」に出かけたが、お祈りしながら、すでに与えられている「聖霊の賜物、聖霊のことばと力」を信じて、完全に、プレッシャーの呪縛から解放されることができた。

しばしば、月曜日のプレッシャーに潰されそうになるのですが、きょうも、みことばとお祈りと聖霊に助けられた。こんな私であるが、「聖霊のパートテーカー」にされていることを感謝します。ハレルヤ!
2018-12-10 07:16:58[投稿番号:85]

悪を許容される善なる神?
創世記50:15-21を読んで
 50章20節に「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」とある。

ヨセフの兄弟たちの悪の計らいと、それを善に変え、用いられた神様の計らいが対比されている。
最高善である神様が、兄弟たちの悪をこのように許容し、用いられ、善に変えられたのである。こんなことがあってもよいのだろうかと、私は初め考えた。

しかしこの世の罪、私たち人間の罪を神様は、ずっと許容してこられたのではないか。善なる神様がそのまま善を実行されたら、全ての悪や罪、私たち自身まで消えてなくなってしまうと言える。
神様は、様々な形とレベルで、私たちの罪や悪を許容して、神様の大きなご計画の中で用いられるのである。悪魔とその計らいも用いられると言える。これが、聖書にある善なる神様の存在と御業である!…私たちに、神様のこのような手法に何も言えない。

きょうも一日始まった。神様が、悪や罪も許容し用いられるなら、私たちの小さな業、少しでも神様に喜んでいただこうとして行うことが、この神様によって、どうして用いられないことがあろうか。…このことを信じて、きょうの歩み、きょうのご奉仕にあずかりたいと思う。ハレルヤ!
2018-12-05 07:04:14[投稿番号:84]

クリスマス・アドベント第一週
メッセージ準備をしながら考えたこと
 創世記3章22節に「…いのちの木から取って食べ、永遠にいきないように」とある。この「いのちの木」に関して、アダムたちは、エデンの園で、それまで「いのちの木の実」を食べていたのか、それともまだ食べていなかったのか、という議論がある。
これまで私はこの議論をそれほど重視してこなかったが、最近、その重要性に気づいた。エデンの園が、永遠のいのちの現れであり、神様と共に交わり、歩む「場」であったとするなら、アダムたちは、それまでいのちの木の実を食べていたと理解するほうが、よりふさわしいのではないかと思うようになった。
永遠のいのちの意味(ヨハネ17:3)から考えるとそうである。しかしアダムたちが罪を犯し、エデンの園におれなくなったのである。なぜなら、罪とエデンの園(永遠のいのち)とは一緒にならないからである。
ここでいう「罪」とは、自分たちを「王・神」として生きるようになることで、このことは、永遠のいのちの生き方と真逆の道である。

私たちが、御子を信じ、御子の十字架によって罪の問題から救われると、私たちに永遠のいのちがかえってくる来ることは当然のことになる。ある意味で、エデンの園に戻ることになり、全ての完成(特に、黙示録22:1−5の永遠のいのちの木)を待つことになる。

クリスマス・アドベント第一週を迎えた。クリスマスの主が、私たちを罪から救い、いのちを与えるために来られたことを心から歓迎したい。ハレルヤ!
2018-12-03 07:07:08[投稿番号:83]

ユ・ギソン著『霊性日記』から教えられたもう一つのこと
『神秘主義」にならないこと
 すでに、ユ・ギソン先生の『霊性日記』を読んだことはブログに書きました。「24時間イエス様を見つめる信仰の実験を始めよう」が、本書の中心的ゴールである。
しかし同時に、ユ師が書いておられるように、これは、「神秘主義」を勧めるものではない。「…従順が抜けると、24時間神様を見つめることは神秘主義になりがちです」(88頁)、「神様と人格的に交わり、親密に同行するとき、注意すべきことは神秘主義に陥ることです」(113頁)とある。

24時間神様を見つめ、神様と共に歩み続けていきたい。しかし、間違えると、確かに神秘主義になってしまう。大切なことは、「神様を愛すること、隣人を愛すること」、神様の御心に応答し、実践していくことです。

しかしいつも、振り返ると、ご聖霊に満たされて歩んでいることより、自分に満たされて歩んでいることが、いかに多いことか。きょうも、一日が始まる。繰り返し、信仰の実験をしながら、御霊に満たされて歩んで行きたい。ハレルヤ!
2018-11-30 07:26:38[投稿番号:82]

創世記47:27-31を読んだ
ヤコブの生涯を超えた祈り
 ヤコブの生涯は終わろうとしていた。しかし彼の祈りは、彼の生涯を超えていた。実際に、彼がエジプトに来るときに、神様は約束されたからである。「わたし自身が必ずあなたを再び導き上る」(46:4)」
自分の世代を超えて祈ることを教えられた。
?イスラエルに行ったとき、嘆きの壁で日本のリバイバルのために祈った。しかしまだ来そうにない。?ちょうど50年前、神様は、私が将来のことを考えていた時、「わたしについてきなさい。あなたを人間をとる漁師にしよう」と言われた。今、私は人間をとる漁師である(40年間)。しかしまだ、この約束が十分に成就したとは思っていない。まだまだ足りない!

ヤコブの祈りから考えさせられたことは、「人間をとる漁師とする」という約束は、私一代だけのことではなく、私の子どもたち、孫たちにも向けられているかもしれない、ということである。最近また、子どもたちの将来のことについて考え、祈るようになった。それぞれ今、仕事を得て、働いているが、神様はこれからどのように三人を導かれるだろうか。「人間をとる漁師」として導かれるかもしれない。

私一代を導かれるだけでなく、次の世代、さらに次の世代を導かれる、大きな大きな神様が共におられる!
きょうは一日神学校である。「人間をとる漁師になろう」としている次の世代の神学生たちのためにご奉仕ができることは大感謝である。ハレルヤ!
2018-11-27 07:08:22[投稿番号:81]

メッセージの準備をしながら教えられたこと
「永遠のいのち」と罪は一緒にならない!
 ほとんど毎週、礼拝メッセージをさせていただいている。いつも、2週間かけて準備をしている。以前は、一週間かけていた。その時、週末は本当に集中し、焦り、緊張していた。しかし2週間かけるようにしたら、週末もほとんど緊張せず、じっくり考え、祈り、準備できるようになった。
またメッセージ準備をしながら、よく教えられる。みことばの恵みを発見する。説教者自身(私)が一番、恵まれるのかもしれない。なんとか、皆さんにこの恵みを届けたいと思う。うまくいったかもと思うときと、まったく駄目だったなあと思うときがある。

今回は、「永遠のいのち」と罪(根源的な罪)は一緒にならないことを学んだ。この世でも、死んだあともである。だから、この根源的な罪を神様によって一掃してもらう必要がある。この世で一掃されるなら、永遠のいのちが始まるので、死んだあとも、永遠のいのちに生きることができる。今、罪の解決がないなら、死後も永遠のいのちはない。
御子の「生きていてわたしを信じる者は、永遠に決して死ぬことがない」ということばは、実に本当である(ヨハネ11:25)。生きていて、御子を信じ、永遠のいのちにあずかるのであるから、身体が死んでも、「決して永遠に死ぬことない」のです。罪赦され、罪が贖われているので、今、永遠の命に行き、のちも永遠のいのちに生きることができる。ハレルヤ!
2018-11-26 07:08:52[投稿番号:80]

創世記47章1-12節を読みました!
「私の齢は…わずかで、ふしあわせで」?
 昨日、東海聖書神学塾のリトリートが稲沢教会で開かれ、神学生のみなさんの研修のために三回のメッセージをさせていただいた。共通のテーマは、「スピリチュアルに生きる!」であった。ヤンシーは、神様は副詞を愛される神と言っていたが、本当に、「スピリチュアルに」という副詞は大切だ。
今朝、創世記47章9節のヤコブのことばに目が留まった。彼は、パロ王の前で、自分の人生について「わずかで、不幸せで」と言っている。2017訳は「いろいろなわざわいがあり」とここを訳している。ヘブル語の「ラアー」(複数形:ライーム)をどのように訳すかであるが、どちらの訳も「微妙?」で、両方含めてもよいかも。とにかくヤコブは、パロの前で、自分の人生を卑下しただけなのか、本当にそう思って言っていたのだろうか。いろいろ考えた・・・・
では、私の人生はどうか?…ヤコブの生涯ほどではなかったが、いろいろあった。しかし誰の前でも、ヤコブのように、「ライーム」だったなどと言えない。神様の愛とあわれみによって、確かにここまで導かれた。感謝!としか言えない。
いつまで、ご奉仕ができるかわからない。今年も、ほとんど、これで外部奉仕は終わった(二つの神学校でのご奉仕以外)。あとは、稲沢教会のクリスマスに専念できる。神の御子が、永遠のいのちのために来てくださったのであるから、この福音をお知らせしたい。きょうも感謝します。ハレルヤ!
2018-11-24 07:02:33[投稿番号:79]