創世記47:27-31を読んだ
ヤコブの生涯を超えた祈り
 ヤコブの生涯は終わろうとしていた。しかし彼の祈りは、彼の生涯を超えていた。実際に、彼がエジプトに来るときに、神様は約束されたからである。「わたし自身が必ずあなたを再び導き上る」(46:4)」
自分の世代を超えて祈ることを教えられた。
?イスラエルに行ったとき、嘆きの壁で日本のリバイバルのために祈った。しかしまだ来そうにない。?ちょうど50年前、神様は、私が将来のことを考えていた時、「わたしについてきなさい。あなたを人間をとる漁師にしよう」と言われた。今、私は人間をとる漁師である(40年間)。しかしまだ、この約束が十分に成就したとは思っていない。まだまだ足りない!

ヤコブの祈りから考えさせられたことは、「人間をとる漁師とする」という約束は、私一代だけのことではなく、私の子どもたち、孫たちにも向けられているかもしれない、ということである。最近また、子どもたちの将来のことについて考え、祈るようになった。それぞれ今、仕事を得て、働いているが、神様はこれからどのように三人を導かれるだろうか。「人間をとる漁師」として導かれるかもしれない。

私一代を導かれるだけでなく、次の世代、さらに次の世代を導かれる、大きな大きな神様が共におられる!
きょうは一日神学校である。「人間をとる漁師になろう」としている次の世代の神学生たちのためにご奉仕ができることは大感謝である。ハレルヤ!
2018-11-27 07:08:22[投稿番号:81]

メッセージの準備をしながら教えられたこと
「永遠のいのち」と罪は一緒にならない!
 ほとんど毎週、礼拝メッセージをさせていただいている。いつも、2週間かけて準備をしている。以前は、一週間かけていた。その時、週末は本当に集中し、焦り、緊張していた。しかし2週間かけるようにしたら、週末もほとんど緊張せず、じっくり考え、祈り、準備できるようになった。
またメッセージ準備をしながら、よく教えられる。みことばの恵みを発見する。説教者自身(私)が一番、恵まれるのかもしれない。なんとか、皆さんにこの恵みを届けたいと思う。うまくいったかもと思うときと、まったく駄目だったなあと思うときがある。

今回は、「永遠のいのち」と罪(根源的な罪)は一緒にならないことを学んだ。この世でも、死んだあともである。だから、この根源的な罪を神様によって一掃してもらう必要がある。この世で一掃されるなら、永遠のいのちが始まるので、死んだあとも、永遠のいのちに生きることができる。今、罪の解決がないなら、死後も永遠のいのちはない。
御子の「生きていてわたしを信じる者は、永遠に決して死ぬことがない」ということばは、実に本当である(ヨハネ11:25)。生きていて、御子を信じ、永遠のいのちにあずかるのであるから、身体が死んでも、「決して永遠に死ぬことない」のです。罪赦され、罪が贖われているので、今、永遠の命に行き、のちも永遠のいのちに生きることができる。ハレルヤ!
2018-11-26 07:08:52[投稿番号:80]

創世記47章1-12節を読みました!
「私の齢は…わずかで、ふしあわせで」?
 昨日、東海聖書神学塾のリトリートが稲沢教会で開かれ、神学生のみなさんの研修のために三回のメッセージをさせていただいた。共通のテーマは、「スピリチュアルに生きる!」であった。ヤンシーは、神様は副詞を愛される神と言っていたが、本当に、「スピリチュアルに」という副詞は大切だ。
今朝、創世記47章9節のヤコブのことばに目が留まった。彼は、パロ王の前で、自分の人生について「わずかで、不幸せで」と言っている。2017訳は「いろいろなわざわいがあり」とここを訳している。ヘブル語の「ラアー」(複数形:ライーム)をどのように訳すかであるが、どちらの訳も「微妙?」で、両方含めてもよいかも。とにかくヤコブは、パロの前で、自分の人生を卑下しただけなのか、本当にそう思って言っていたのだろうか。いろいろ考えた・・・・
では、私の人生はどうか?…ヤコブの生涯ほどではなかったが、いろいろあった。しかし誰の前でも、ヤコブのように、「ライーム」だったなどと言えない。神様の愛とあわれみによって、確かにここまで導かれた。感謝!としか言えない。
いつまで、ご奉仕ができるかわからない。今年も、ほとんど、これで外部奉仕は終わった(二つの神学校でのご奉仕以外)。あとは、稲沢教会のクリスマスに専念できる。神の御子が、永遠のいのちのために来てくださったのであるから、この福音をお知らせしたい。きょうも感謝します。ハレルヤ!
2018-11-24 07:02:33[投稿番号:79]

ユ・ギソン牧師の『霊性日記』を読みました!
「24時間イエス様を見つめる」?
 先月、韓国に行ったときに、よい本を紹介していただき、すぐに注文して読み始めた。昨晩、読了したが、私がずっと考え、求めていたことの多くが語られていた。それは、「24時間イエス様を見つめる」ということである。これは、実際に無理な話であるが、それを求めていくことの素晴らしさがある。本書では、「信仰の実験」と呼ばれている。
今まで、スマホを使って、日に三度、「自分自身→イエス様」を呼び出してもらったが、それでも、午後すぎになると、たるんでしまうので、日に四度、呼び出してもらうことにした。より良い感じである。しかしパーフェクトにはほど遠い。気づくとすぐに、この罪びとのかしらは、「聖霊ではなく、自分に満たされ、歩んでいる」!
以前、教会の一年の目標を、「霊性日記を書く」ことにしたが、かなりの努力が必要で、あまり続かなかった。私も頑張ったが、いつしか、書けなくなってしまった。しかしユ・ギソン牧師は、これを提唱し、しかも、書いた内容を小グループで分かち合うように勧めている。どこまで、これができるだろうか。ユ牧師の教会でこれがなされているのだろうか。一度、訪問してお聞きしたいと思っている。
これからまた、霊性日記を書くかどうか迷っている。実際今は、「本態性振戦」で手が震えて字はほとんど書けない。でもこれも言い訳である。今の時代、パソコンやスマホがある。キーボードはまだ使える。確かに、自分を見つめ、また24時間、イエス様を見つめて歩むために有効だろう。どうしたらよいか。迷っている。より良いことならやってみたいが。。。こんな良い本と出会って、感謝します。ハレルヤ!
2018-11-21 07:07:28[投稿番号:78]

一つになるために、一つであるために
ヨハネ17章の「主ご自身の祈り」から教えられる!
 礼拝では、この8月からずっとヨハネの福音書から学んでいる。集中して学び続けると、いろいろな発見と教えがある。これまで何度かヨハネの福音書から連続的な学び(礼拝説教)をしたことがあるが、それでもまた、今、教えられている。みことばは「スルメ」のようで、噛めば噛むほど、また教えられ、本当に感謝である。
17章を本当は一回のメッセージで終わる予定であった。いやその前に、17章は、果たして教会の兄姉といっしょに、礼拝において学ぶ価値のある「章」であるかとも考えた。
しかし昨日の礼拝で、17章の学びの三回目を終えることができた。17章も、当然のことながら、私の誤りが示され、本当に教えられることの多い学びとなった。
御子が、全クリスチャンに向かって、全教会に向かって、「一つになること、一つでありつづけること」をどんなに願っておられたか、よくわかった。そして今も、天の御座で祈っておられることを信じる。
だから、私も、この祈りに従わなければならないと思う。愛の一致の交わりがもっと深められ、もっと広げられるように、できる限り、このことをしていかなければならないと思わされている。教会の中でも、外でも、教団の中でも、超教派的にも、である。
御子の祈りが響いている。御霊の一致が既に与えられているので、この御霊に導かれて歩ませていただきたい。ハレルヤ!
2018-11-19 07:14:19[投稿番号:77]

『パウロ』という映画、観てきました!
神様にある2000年の歴史を感じた!
 昨晩、家内といっしょに名演小劇場で「パウロ」を観て来た。来週、まだやっていたら、教会の皆さんにお勧めしたいと思う。第一世紀のローマを再現し、特にネロ時代のキリスト者迫害がリアルに描かれている。こんな歴史を通って、御子の福音が全世界に広がったことを覚えさせられた。またちょうど、ヨハネの福音書を礼拝で学びつづけているが、「この世には患難がある。しかし勇敢でありなさい」という御子のことばを思い出した。
この映画をすでに観て来た兄姉から感想をお聞きしていたが、ぜひ観られることをお勧めしたい。今の時代の私たちの戦いと違う面もあるが、しかし忘れてはならない戦いがここに描かれている。
「困難に遭っても信じ続けるすべての人々に捧げます」という最後の字幕が非常に良かった。これは、原文では、「この映画を殉教者に捧げる」であったが、許可をもらって、訳を変えたそうである。現在の殉教者、またすべてのクリスチャンに捧げられた映画と言ってもよいだろう。感謝します!
2018-11-16 07:13:16[投稿番号:76]

神様の御業はつづく!
創世記46:1−4
 ヤコブの時代からヨセフたちの時代に移ろうとしている。そんな時、神様は、エジプトに下る決心をしたヤコブに現れ、語られた。「エジプトに下ることを恐れるな。私自身があなたといっしょにエジプトに下る。…わたしはそこで、あなたを大いなる国民にする」
神様の御業は、当然であるが、ヤコブ一代で終わるわけではない。彼を超えて、これからもヨセフ…モーセ…ダビデへと受け継がれていく。神様は偉大で、神様の御業も時代を超えて受け継がれていく。
私自身の生涯も本当に限りがあって小さな出来事のよう。しかし神様の臨在と御業は偉大で、無限に広がって完成に至る。50年前に神様からいただいた生涯の召しを思い出した。この召しに導かれてここまで来ることができた。しかし間もなく、ヤコブのように終わることになる。しかし神様の召しと神様の御業は私の生涯を超えて、受け継がれていくだろう。私は、こんな大きな神様に仕えていることを思い起こされた。「人間をとる漁師にする」と言われた神様の召しは、どんな形で、次の時代に受け継がれていくのだろうか。神様は、すべてを握っていてくださる!ハレルヤ!
2018-11-15 06:58:47[投稿番号:75]

最近、考えていること
ユ・ギソン牧師
 昨年、オンヌリ教会のリバイバル集会に参加させていただいて、ゲスト・スピーカーであった「ユ・ギソン牧師」のメッセージを聞いて感動した。今年、一年ぶりに韓国に行ってどうしても行きたかったところは、ユ・ギソン牧師が牧会しておられる「ソナンモクチャ教会」であった。ユ先生は不在でしたが、教会の隅から隅まで(?)見せていただき、玄関ホールにあるコーヒーショップで一休みさせていただいた。オンヌリのような巨大な会堂ではなかったが、ホットできる教会堂で近づきやすさを感じて、大満足した。
今、ユ・ギソン牧師の著書が翻訳されていると聞いて、注文し、『霊性日記』を読み始めている。「24時間イエス様を見つめる信仰の実験を始めよう」とある。本当に、私が今求め、願っていることにぴったりの書である。24時間イエス様と共に歩み、また歩もうと試みるときの様々な葛藤や感謝を「霊性日記」にすることが書かれている。教えられることの多い、お薦めしたい著書である。
2018-11-12 07:01:06[投稿番号:74]

神様の配剤?
創世記37-45章:ヨセフ物語
 創世記45章5-9節を読みながら、神様の深い、また大きな配剤について考えるようになった。後になって、神様の偉大な、奇しい御業と導きを知ることになる。ヨセフやその兄弟たち、父ヤコブもそうである。
最近、父と母のことを考えることがあった。父が亡くなる3か月(?)前に急きょ、カナダから日本に戻り、父と話をして一諸に祈ることができた。母とは、亡くなる前日(?)に思いがけなく訪問し、神様のことを話し、一諸に祈ることができた。まだ分からないことはたくさんあるが、ここにも、神様の不思議な配剤を感じる。
神様のご支配や導きのすべてとその意味を知ることができるのは、天の御国に行ってからのことであるが、その前にも、いくらかであるが、神様の配剤を知ることができるだろう。そして、聖なる神様、あわれみと恵みに富んでおられるお方の配剤を覚えるとき、私は大きな喜び、感動を覚える。ハレルヤ!
2018-11-10 07:17:58[投稿番号:73]