新年おめでとうございます! | 新しい一年に向かって「感謝」! | 昨年一年は、大げさに言っていますが、「激動の一年」でした。住所、住居が変わり、教会が変わり、人間関係、交わりも変わり、私たちの生活もずいぶん変わりました。この大変化についていくために必死だったと思いますが、この9箇月間、本当に守られ、支えられて来たことを実感しています。皆様からのたくさんのお祈りとお支えを感謝いたします。
新しい一年に際して、今、特に二つの大きな感謝をあげたいと思います。第一は、稲沢の地で、神様にある新しい家族が与えられたことです。単なる表面的な付き合いではなく、より深い交わりが与えられていることは大きな感謝です。新しい一年も、神様が備え、導いてくださった交わりが、さらに深められ、広げられ、導かれていくことができればと願っています。神様にある教会の交わりは生きていて、そういうものですから。
第二は、これまでの私のブログを読んでいただいてもお分かりになると思いますが、これまでの一年間も、また今も、神様は様々な形や方法で、また何よりも、みことばを通して語り、教え、導いてくださったことです。ですから、その恵みのみことばと教えを、稲沢教会の皆さんと分かち合ってくることができました。神様の恵みのみことばと教えを、共に分かち合う交わりが与えられていることは何と幸いなことでしょうか。「壁」に向かって話すのではなく、真摯に聞いてくださる兄姉が与えられていることは大感謝です。
これからも神様とより深く交わり、神様のみことばからより深く、より豊かに教えられながら、歩ませていただきたいと思います。まず、私自身が御言葉によって教えられ、御霊によって変えられていかなければ、神様の恵みのみことばが地に落ちてしまいます。神様、これからも助けてくださいと祈っていきたいと思います。ハレルヤ! | 2019-01-05 07:08:02[投稿番号:93] |
詩篇105:4 | 最近、教えられているみことば | 「絶えず御顔を慕い求めよ」…最近読んで、心にとめている御言葉である。
急いで、聖書に「御顔」と出ている箇所のすべてを調べてみた(70か所)。どれも重大に思われる。「神」とだけ言わないで、「神の御顔」とある。
もちろん、神様に関する霊的な比喩である。しかし敢えて、「御顔」としているところに意味がある。意図がある。
「神を慕い求めよ」でもよいが、詩篇105:4で、「神の御顔を慕い求めよ」とされていることにどんな意味が含まれているか。「神の御顔」を見ることは「死」を意味するほどであるが、それでも、敢えて「御顔」とある。
ここには、本当に親密な「神と私たち」との交わりの恵みがあると言える。これを求めるように促されている。命じられていると言ってもよい。
しかも、「絶えず」である。毎日毎日、神様と交わり、歩み続けることを願い、実行し、失敗し、悔い改め、また試みることの繰り返しであるが、この御言葉はありがたい。
私が、今一番必要としてることが命じられているのである。こんなありがたい命令が他にあるだろうか。しかも「絶えず」である!この御言葉は、神様の願い、求めであると言ってもよいだろう。まったく不十分で失敗だらけであるが、きょうも祈り、神様との交わりの恵みを求めていきたい。
クリスマスおめでとう。インマヌエルの神様を感謝します。ハレルヤ! | 2018-12-24 15:22:25[投稿番号:89] |
2018年のクリスマス | 罪の赦し→罪からの救い→永遠のいのち | 今年のクリスマスを迎えて、あらためてマタイ1章21節の「ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」の素晴らしさを感じている。ただの救いではなく、「罪からの救い」である。これはまた、罪の赦しも含まれ、永遠のいのちにつながっている「罪からの救い」である。
前のブログで、大祭司イエス様の贖いの完全さに触れた。これには、永遠性と現在性があって、毎秒毎秒、罪を犯しても、毎秒毎秒、御子の贖いが発揮されることである。
毎日、何度も、聖霊に満たされて歩もうとしているが、気が付くと、自分に満たされ歩んでいる自分に気づく。また、神様を愛し、隣人を愛して歩もうとするが、後で、本当に足りない自分に気づかされる。
ただ感謝なことは、御子の贖いの完全に頼り、御霊の導きによって、「あ」きらめない、「い」なおらない、「う」ぬぼれない、「え」んりょしない、「お」それないように、少なくとも、していることであろう。
今年も、あと10日である。まだまだ、クリスマス(諸集会)で忙しい。さらに年末感謝礼拝、元旦礼拝とつづく。本当に神様と共に歩んでいないと、真のメッセージは出てこない。『乾いた雑巾』を絞るのではなく、みことばと御霊から教えられ続けていきたい。ハレルヤ!メリークリスマス! | 2018-12-21 21:27:06[投稿番号:88] |
神様にあるお交わりに感謝! | 昨日、葬儀がありました。 | 昨日、岩倉教会で葬儀があり、行ってきました。○さんは、90歳で天に召されました。とうとう、「時が来た!」という感じです。長い間のお交わりに感謝しています。
まだ信仰をもっておられない時、飲めないお酒を飲んで(飲まされて?)、フラフラの状態で、小牧市方面から歩いて来られた時のことを思い出します。教会会堂の玄関にバタッと倒れ、動けなくなっている○さんをかかえて車に乗せ、家まで送り届けたことがありました。後で、聞いたらほとんど覚えておられなかったのですが、とにかく、教会堂の屋根にある「十字架」を頼りに歩いてきたとのことでした。
私たちは、いつか、○さんが本当の意味で、十字架のイエス様を頼ることができるように祈りました。
何年も経ちましたが、○さんの家で家庭集会をするようになりました。○姉のお母さんは信仰を告白されるようになりましたが、○さんはなかなかでした。いつも、○さんは「自分は社守(神主?)の子、神の子である」とお話しされるばかりでした。
しかし私も行きたかったのですが、娘さんと相談して、(もう最後になるかもしれないので)○さんの故郷(奄美大島→加計呂麻島)に行く計画を立てました。こうして5人で、奄美に行ったのです。
○さんの故郷は、ほとんど昔の姿はなく、住んでおられる方々も疎らでした。そして子どもの頃遊んだと言われる海を見、地域を回りました。またかつて(特に戦争中)栄えていた神社にも行ってみました。しかし残念ながら、かつての面影は全くなく、ほとんど朽ちていくばかりでした。
楽しい旅と交わりが与えられましたが、○さんは帰ってから、人生の空しさと、人間が作った神々(神社)の儚さを悟り、天地を創造された真の神様を信じる告白をなさいました。
はからずも(神様がこの旅を何らかの形で用いてくださるように祈っていましたが)、奄美への旅が用いられて、○さんは信仰者としてその人生を再出発されたのです。
それ以来、娘さんに連れられて、毎週、三人で教会の礼拝に来られるようになりました。神様の不思議な導きとご支配、娘の○さんの長い間の祈りと証し、様々な労苦を覚え、神様のみ名を賛美します。心から、神様にあるお交わりを感謝します。今、○さんが神様のみもとにおられることを覚え、ハレルヤ! | 2018-12-16 07:27:58[投稿番号:87] |
天の御座におられる私たちの大祭司 | ヘブル書8章を中心に教えられたこと | 天の御座に永遠性と現在性がある。天の御座におられる大祭司イエス様の臨在と御業にも、永遠性と現在性がある。
御子は、すべての贖いの御業を十字架の上で、また天の完全な御座において(ここは真の神殿)、成し遂げてくださった。だから贖いの御業も完全、永遠、絶対、一回で十分である。しかしこれもまた、ある意味で、現在的であると考える。つまり、毎日、毎瞬、毎週…大祭司であるイエス様が、贖いを続けておられるということである。
ヘブル書8章を読みながら、このことを考え、黙想し、教えられた。
なぜ、今も、天の御座という神殿に、御子は大祭司としておられるのか?確かに、御子の贖いの御業は完全であるから一度で十分、これで大祭司の働きを終えられたと考えてもよい。しかし今も、御子は天において、現在的に、大祭司として臨在し、働いていてくださる。なぜか?…それは、御子の働きが不完全であるというのではなく、地上の現在的な私たちのために現在的に働いておられるからである。
最近、自分があまりにも成長しないで、御霊に満たされて歩むのではなく、自分に満たされて歩んでいることに嫌気がさしていた。変わらない自分、変えられていかない自分に嫌気がさしていた。
毎日、断続的であるが、繰り返し、共にいてくださる三一の神様を見上げようと努めてきた。しかしなかなか成長していかない自分を認めなければならなかった。
そんな私であるが、きょうのみことばは助けになった。御子は、今も、大祭司として臨在し、毎瞬、毎秒、毎分、毎時、毎日、その完全な贖いの御業を成し遂げ続けていてくださることに気づいた。私は毎瞬、罪を犯しても、御子の贖いの業も毎瞬なので、私は完全に、毎瞬贖われていると言える。
罪人のかしらであることは変わらないが、あとは、このような聖なる父を崇め、この方と共に歩むことしかないだろう。ハレルヤ! | 2018-12-14 07:14:07[投稿番号:86] |
月曜日のプレッシャー | ヘブル6:1-5を読んで | 毎日、毎週、いろいろなプレッシャーがある。月曜日は、一応、休みの日であるが、なぜか一番、月曜日にプレッシャーを感じてしまう。
前日の疲れが原因で、身体的に、精神的に、霊的に、それが一挙に襲ってくるのかもしれない。また、これから始まる新しい一週間の予定などが、一度に束になって襲ってくるのを感じるからかもしれない。一度に全部やらなくてもいいのに、月曜日は休みなのに、そんな気分になってしまうことが時々ある。
今朝も、重い気分であった。神様の前に出てお祈りしていても、心は硬かった。できるだけ正直にお祈りして、少しずつ心の重荷が軽くなってきた。
そして何よりも助けられたのは、ヘブル書6章1,4-5節であった。1節の「成熟を目指して進もうではありませんが」を読んで、またプレッシャーを感じて、がっくりしたが。。。なかなか「成熟に進めない、進んでいない」自分にがっかりしたが、4-5節を読んで力をいただいた。
4-5節の御言葉は、まとめると、救いの素晴らしさを語っているのか、それとも、その際にあずかったご聖霊の祝福を語っているのか、その両方か、決めることは難しいが、とにかく、「私は、今朝も、聖霊のパートテーカーとされている。御霊は、天からの賜物であり、そのお方のみことばと力を受けている」ことを覚えたとき、プレッシャーから解放されていった。
そのあと、「お祈り散歩」に出かけたが、お祈りしながら、すでに与えられている「聖霊の賜物、聖霊のことばと力」を信じて、完全に、プレッシャーの呪縛から解放されることができた。
しばしば、月曜日のプレッシャーに潰されそうになるのですが、きょうも、みことばとお祈りと聖霊に助けられた。こんな私であるが、「聖霊のパートテーカー」にされていることを感謝します。ハレルヤ! | 2018-12-10 07:16:58[投稿番号:85] |
悪を許容される善なる神? | 創世記50:15-21を読んで | 50章20節に「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」とある。
ヨセフの兄弟たちの悪の計らいと、それを善に変え、用いられた神様の計らいが対比されている。
最高善である神様が、兄弟たちの悪をこのように許容し、用いられ、善に変えられたのである。こんなことがあってもよいのだろうかと、私は初め考えた。
しかしこの世の罪、私たち人間の罪を神様は、ずっと許容してこられたのではないか。善なる神様がそのまま善を実行されたら、全ての悪や罪、私たち自身まで消えてなくなってしまうと言える。
神様は、様々な形とレベルで、私たちの罪や悪を許容して、神様の大きなご計画の中で用いられるのである。悪魔とその計らいも用いられると言える。これが、聖書にある善なる神様の存在と御業である!…私たちに、神様のこのような手法に何も言えない。
きょうも一日始まった。神様が、悪や罪も許容し用いられるなら、私たちの小さな業、少しでも神様に喜んでいただこうとして行うことが、この神様によって、どうして用いられないことがあろうか。…このことを信じて、きょうの歩み、きょうのご奉仕にあずかりたいと思う。ハレルヤ! | 2018-12-05 07:04:14[投稿番号:84] |
クリスマス・アドベント第一週 | メッセージ準備をしながら考えたこと | 創世記3章22節に「…いのちの木から取って食べ、永遠にいきないように」とある。この「いのちの木」に関して、アダムたちは、エデンの園で、それまで「いのちの木の実」を食べていたのか、それともまだ食べていなかったのか、という議論がある。
これまで私はこの議論をそれほど重視してこなかったが、最近、その重要性に気づいた。エデンの園が、永遠のいのちの現れであり、神様と共に交わり、歩む「場」であったとするなら、アダムたちは、それまでいのちの木の実を食べていたと理解するほうが、よりふさわしいのではないかと思うようになった。
永遠のいのちの意味(ヨハネ17:3)から考えるとそうである。しかしアダムたちが罪を犯し、エデンの園におれなくなったのである。なぜなら、罪とエデンの園(永遠のいのち)とは一緒にならないからである。
ここでいう「罪」とは、自分たちを「王・神」として生きるようになることで、このことは、永遠のいのちの生き方と真逆の道である。
私たちが、御子を信じ、御子の十字架によって罪の問題から救われると、私たちに永遠のいのちがかえってくる来ることは当然のことになる。ある意味で、エデンの園に戻ることになり、全ての完成(特に、黙示録22:1−5の永遠のいのちの木)を待つことになる。
クリスマス・アドベント第一週を迎えた。クリスマスの主が、私たちを罪から救い、いのちを与えるために来られたことを心から歓迎したい。ハレルヤ! | 2018-12-03 07:07:08[投稿番号:83] |
ユ・ギソン著『霊性日記』から教えられたもう一つのこと | 『神秘主義」にならないこと | すでに、ユ・ギソン先生の『霊性日記』を読んだことはブログに書きました。「24時間イエス様を見つめる信仰の実験を始めよう」が、本書の中心的ゴールである。
しかし同時に、ユ師が書いておられるように、これは、「神秘主義」を勧めるものではない。「…従順が抜けると、24時間神様を見つめることは神秘主義になりがちです」(88頁)、「神様と人格的に交わり、親密に同行するとき、注意すべきことは神秘主義に陥ることです」(113頁)とある。
24時間神様を見つめ、神様と共に歩み続けていきたい。しかし、間違えると、確かに神秘主義になってしまう。大切なことは、「神様を愛すること、隣人を愛すること」、神様の御心に応答し、実践していくことです。
しかしいつも、振り返ると、ご聖霊に満たされて歩んでいることより、自分に満たされて歩んでいることが、いかに多いことか。きょうも、一日が始まる。繰り返し、信仰の実験をしながら、御霊に満たされて歩んで行きたい。ハレルヤ! | 2018-11-30 07:26:38[投稿番号:82] |
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