頼まれて、最近はじめていること | | 黙示録・・・ディボーションテキスト「マナ」の執筆 | 「いのちのことば社」で出しているディボーションテキスト「マナ」があります。「マナ」の8月号9月号で『黙示録』を取り扱うので、書いてくれるように、最近、執筆依頼がありました。迷って迷って、祈って祈って、お引き受けすることにしました。
お引き受けした理由は二つあります。一つは、今、神学校で『終末論』のクラスを担当しています。また、(多い時には)10人近くの牧師さんたちと黙示録を学ぶ会(GMYK→ギリシャ語で黙示録を読む会)をやっています(だんだん、GMYKがJ「Japanese」MYKになってきていますが)。ですから最近は、黙示録を読んだりすることが多く、少し視点を変えて、黙示録をディボーショナルに読むと、実際にどうなるのか考えてみたいと思ったからです。
もう一つは、たぶん、30年前ぐらいから、一つの重荷がありました。それは、聖書全巻のための良いディボーションテキスト(ガイドブック)が足りないので、書いてみる必要があるのではないかというものでした。しかし、今から24年前、カナダから日本に戻ったとき、聖書全巻のディボーションテキストが、日本において、すでにいくつかあって用いられていることをしりました。それでディボーションテキストを書くのを止めました。
ところがその後、(神様の不思議な導きによって)ディボーションテキストではありませんでしたが、聖書全巻をどのように「解釈していくか」について、ある雑誌で連載できるように導かれました(『リバイバル・ジャパン』『舟の右側』)。これは、毎日のディボーションにおいて、聖書をどのように読んでいったらよいかを教えるものです。・・・それが、なんと5年以上続いたのです。これは私にとって奇跡でしたが、本当に、大きなあわれみと恵みをいただいて、無事に終了することができました。・・・すべてを終えて数年経ちましたが、そんなところに、『黙示録』の執筆依頼がありました。ディボーションテキストを書きたい。書かなければと思っていた30年前の重荷を思い起こしながら、聖書の中でも、最も難しい書のひとつですが、執筆をお引き受けすることにしました。私にとっては、本当に本当に不思議な導きでした。。。
果たしてこれからどうなるか?本当に難しい書です。しかも、これが、皆さんの毎日のディボーション用テキストになるのです。またもう一つの難しさが加わっている感じです。なんとか、全ての章(22回分)の執筆ができますようにお祈りください。これも恵みです。ハレルヤ! | | 2019-02-19 07:42:04[投稿番号:99] |
最近教えられていること・・・神様の謙遜 | | ルカ9:46-48 | 「自分たちの中で誰が一番偉いか」という話を弟子たちがしていたと、46節にある。これに似た話は福音書の中に時々出てくる。そんな彼らを思って、御子が教えられたことは助けになる。「御子の名のゆえに子どもを受け入れる」→「御子を受け入れる」→「御子を受け入れる者は御子を遣わされた御父を受け入れる」
カギになる言葉は「御子の名のゆえに」だろう。人間のいろいろな理由や好み、言い訳ではなく、「御子の名のゆえに(私たちを愛して共にいて、十字架にまでかかられた御子ご自身そのものである)」が全てを変える理由になる。
「誰が一番偉いか?」は、私(たち)が知らず知らずのうちに陥る最も愚かで、日常的な罪ではないか。そしてこの罪こそ、愛することと真逆で、自分を物差し(神)とする偶像礼拝の一つであると言えるだろう。
御子イエス様から直接的に愛を受けていた弟子たちでさえ、なお、愚かな罪を繰り返していたことは、私(たち)に対する重大な警告になっていると言える。
最近、御父ほど謙遜なお方はないことについて考え続けている。私たちをチリから造り、いのちを与え、知性を与え、それだけでなく、神様と(ある意味で、同等に)交わり、生きることができるようにしておられる。こんな奇跡があるでしょうか。こんなあり得ない話があるでしょうか。ここに、御父の絶対的な謙遜を見るのです。「謙遜」という言葉さえ当てはまらない、絶対超越の神様の謙遜の事実に直面するのです。どうして神様は、思い切って(?)ここまでなさったのだろうと考えるのです。
神様の謙遜と私(たち)の愚かな不遜が現実にあるのです!それでも、御子と御霊によって、この間に、真の交わりが成り立っているのです。ハレルヤ! | | 2019-02-09 07:31:15[投稿番号:98] |
聖書を読むことについて | | 最近、考えさせられていること | 聖書を読むことについて教えられていることが二つある。
第一は、ディボーションの中で、聖書を読む(学ぶ)が、その直前に、「神様、肉の糧を与えてくださるように、霊的な糧も与えてください」とお祈りするようにしている。「主の祈り」の中で、私たちは、「日々の糧を与えてください」とお祈りする。最も基本的で大切な祈りである。では、「日々の霊的な糧を与えてください」と祈っているだろうか。これこそ、神様が私たちにあたえようとしておられる、与えたいと願っておられる糧ではないか。これほど、神様の御心に沿った祈り、聞かれる祈りはないだろう。きょうも、「日々の霊的糧も与えてください」と祈って、聖書を読み始める。私たちは、「神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」者たちである(マタイ4:4)。
第二は、聖書の学びにおいて、「個別的な意味」をもった聖書箇所をどのように、今の自分に適用するかである。ある意味で、聖書は、当時の人々に直接語られたもの(書かれたもの)なので、すべてが「個別的」であると言えるが、その中でも、特に個別的な意味をもった聖書箇所について考えたい。
例えば、マタイ4:19は非常に個別的である。当時、御子は、ガリラヤの漁師たちに、「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われた。しかし御子は、すべてのクリスチャンを、(ペテロたちに対する意味と同じせまい意味で)人間をとる漁師(すべてを置いて御子に従い、人々の救いのために専心する者たち)にしようとしておられるかというとそうではない。
同じような例はたくさんある。例えば、マタイ28:19で、御子は弟子たちに、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われた。ではここは、すべてのクリスチャンは、全世界に出ていく宣教師になれという教えなのか。マルコ5:18-20で、御子は、悪霊に憑かれていた青年を解放し救われ、彼に対して言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り…。」では、この箇所を読んだ全てのクリスチャンは、自分の家、家族の所に帰らなければならないのか。いや、そうではない。その箇所の意味を学ぶことが大切である。
聖書の、特にナラティブ(ストーリー)に多いが、当時の人々(だけ)に言われた「個別的なみことば」を読んで、今の自分に適用するとき、注意すべきことがある。それは、当時の人々に「個別的に」語られた言葉をそのまま、今の自分にも「個別的に」当てはめてはいけないということである。もちろん、時に神様は、当時語られた「個別的なみことば」をそのまま用いて、今の私たちに神様の御心を与えられることがあるだろう。ただし、いつも、そのようであるとは言えない。「御言葉が与えられた、御言葉が与えられた』というとき、十分注意したい。そのみことばの内容が私たちの人生に決定的な影響を与えるかもしれないようなときは、なおさらである。
私たちは、どうしたらよいか。私たちは、いつも、聖書を読んで祈りながら、御霊にお頼りし、みことばを私たちの毎日の生活に当てはめていく。ただし、「なまの」みことばをそのまま当てはめるのではなく、みことばの意味(真意)を求めて、ここで神様が何を教え、何を願っておられるのか考える必要があるだろう。こうして、みことばの意味(その御言葉のより普遍的な意味)をつかんで、これを今の自分に当てはめていきたい。
ナラティブ(ストーリー:新約で言うと、福音書や使徒の働きなど)を読むときの素晴らしさは、私たち読者を2000年前の世界に招き入れてくれることである。
私たちは、そのことのゆえに、ナラティブを喜び、味わい、楽しむことができる。ただし、そこで語られる御言葉は、まず何よりも、その世界に生きるその当時の人々のための「個別的な」みことばであることを覚えなければならない。このみことばが、神の御霊を通して、現代の私たちに届けられるのである。
きょうも、御霊は、何を教え、何を語られるか、求めていきたい。霊的な糧をいただいて、歩ませていただきたい。ハレルヤ! | | 2019-02-05 07:17:31[投稿番号:97] |
三人の子どもさんをもった若いお母さんが召された! | | 「なぜ」ですか、という質問 | ある若い姉妹が、くも膜下出血で先週の火曜日に倒れ、土曜日に天に召された。ご主人と三人の子どもたちが残された。小学校2年、4年、6年である。
私たちは教会全体で祈り、助け、支えて来たが、姉妹は天に導かれた。日曜日に、礼拝、納棺式を行った。午後の納棺式プラスさよなら賛美会に、たぶん、50人以上の方々が集まってこられたと思われる。月曜日に、葬儀を行った。もともと家族葬の予定であったが、愛する姉妹、愛される姉妹のゆえに、また残された家族を思って、たぶん100名以上の方々が参列してくださった。
これからやるべきことがたくさんある。教会として、牧師として。なんとかして、召された姉妹の祈りと願いを思いながら、遺族を支え、守っていきたい。
これまでにも、何度か、「なぜ?」という最も重い質問を神様にしたことがある。今回もそうである。以前、「なぜ?」という質問を、何年も握りしめていた時もあった。最も苦しい経験であったが、これほど、神様ご自身について学んだ時はなかった。
今回ほど、姉妹の癒しを求め、癒しの祈りをしたことはなかったと言えるかも。しかし最後に神様に私は言った。「もしこの癒しの祈りが聞かれないのなら、彼女が天に行かれることによって、それを通しでなければできない、起こらない特別な神様の祝福を遺族に注いでください。彼女が天に召されることが、本当に遺族にとっても祝福であったことが分かるようにしてください。」・・・なぜこんな祈りをしたかというと、使徒12章に、ヤコブの殉教死とペテロに対する奇跡の救出があったから(ヤコブは死に、ペテロは死を免れた!)。
姉妹が天に召されたことが、どうして遺族の祝福になるでしょうか。それはありえないことです。今の私たち、今の遺族にとって、まさにそう思えるのです。しかし、大きな大きな大きな神様の大きな大きな大きなみこころがある。そうだから、それが何よりも確かなので、神様の祝福が起こることを信じます。待ちます!
「なぜ?」という質問は、神様から離れる質問ではなく、神様にもっと近づき、本当の神様を知るときである。苦しい中で、ハレルヤ! | | 2019-01-29 07:20:45[投稿番号:96] |
最近、おしえられていること | | どちらの「平安」でいくか? | 最近、お祈りをしながら教えられたことがある。「当たり前のことでしょ」と言われそうであるが、自分自身に言い聞かせるためにも、思い切って書いておこうと思う。
人生に二つの「平安」がある。一つは、できるだけ考えないようにして避けて保つ「平安」、向き合わないようにする「平安」である。もう一つは、問題や課題に向き合うが、祈って考えて、最後に神様にすべてをゆだねてしまう「平安」である。
私は、最近、自分自身が、いろいろな課題や問題を避けて「平安」を保ってきたのではないかと思った。気が付いた。それで、お祈りしながら、直面することを決心して、すべてを神様にお委ねした。不思議なことに(不思議ではない!)、神様にある「本当の平安」が戻ってきた。しばしば、直面することは恐ろしい。しかしいつでも、どこでも、私の父である神様が一緒にいてくださるので、頑張って(?)、すべてをささげてみた。これでよかった!
私は、時々、前者の「平安」、「インスタントな平安」を求めてしまう。しかしこの平安は、長続きしない。浅はかな人間の知恵や小手先の平安であるから。これからも、失敗しそうであるが、インマヌエルの神様にある平安に立って、すべての問題や課題に直面していきたい。
神様にある平安に基づいて、昨日、思い切って、ある人に電話をした。私が予想し、想像し、先走って考えていた問題は全くなかったようだ。感謝します!
月曜日、しばしば私(牧師?)は不安定になるようだ。しかしいつも、戻れるところがあることに感謝します。助けられています。神よハレルヤ! | | 2019-01-22 06:41:07[投稿番号:95] |
ある方を訪問して感じたこと、思ったこと | | 認知症が、かなり進んでおられた! | 先日、久しぶりにある方を訪問した。お元気だと聞いていたが、お会いしてびっくりした。思っていた以上に、認知力が低下しておられることが分かったからだ。なんとかして、「私」を思い出してもらおうと、以前、楽しく分かち合ったことなど、いろいろ持ち出したが駄目だった。なんとか言葉のキャッチボールができたという感じだった。
久しぶりにお会いできて嬉しかったが、それ以上に、認知症が進んでおられたことに驚いた。もちろん、このような経験ははじめてではない。これまでも、認知症を患っておられる方々を何度も訪問し、お話しをしてきたから。しかし今回は、なぜだか分からないが、ショックが大きかった!長年お交わりが与えられ、親しかった方だからか、それとも、そこに近い将来の「自分自身」を見たからか。
やがて「時」が来て、私も召されるときが来る。どのように召されるか、自分では決められない。突然、その時が来るかもしれない。または、ある期間、認知症を患ってから、召されるかもしれない(今、もう始まっているかもしれない?)。ただ言えることは、その「時」は近い、近づいているということである。
私は、教会で、このような期間のことを、「着替え」の時、「衣替え」の時と呼んでいる。「肉」の身体から「霊(聖霊)」の身体に着替えて、天の御国に行くことになるからだ(1コリント15章後半)。この意味では、非常に光栄のある時期であるとも言える。耳が遠くなり、もの忘れが激しくなり、手も震えてくる(これが、現在、特に進行中で問題である「本態性震戦」)。しかし感謝なことに、これらの全ては、確実に天の御国に近づいている証拠である。
「その時」はわからないが、「着替え」を続けながら、この一年も、「御霊に満たされ、導かれて」歩んでいこう!ご聖霊こそ、贖いの日のための「証印」となっていてくださるから(エペソ1:13-14、4:30)。何もなくても、ご聖霊がおられる。ハレルヤ! | | 2019-01-19 07:40:03[投稿番号:94] |
新年おめでとうございます! | | 新しい一年に向かって「感謝」! | 昨年一年は、大げさに言っていますが、「激動の一年」でした。住所、住居が変わり、教会が変わり、人間関係、交わりも変わり、私たちの生活もずいぶん変わりました。この大変化についていくために必死だったと思いますが、この9箇月間、本当に守られ、支えられて来たことを実感しています。皆様からのたくさんのお祈りとお支えを感謝いたします。
新しい一年に際して、今、特に二つの大きな感謝をあげたいと思います。第一は、稲沢の地で、神様にある新しい家族が与えられたことです。単なる表面的な付き合いではなく、より深い交わりが与えられていることは大きな感謝です。新しい一年も、神様が備え、導いてくださった交わりが、さらに深められ、広げられ、導かれていくことができればと願っています。神様にある教会の交わりは生きていて、そういうものですから。
第二は、これまでの私のブログを読んでいただいてもお分かりになると思いますが、これまでの一年間も、また今も、神様は様々な形や方法で、また何よりも、みことばを通して語り、教え、導いてくださったことです。ですから、その恵みのみことばと教えを、稲沢教会の皆さんと分かち合ってくることができました。神様の恵みのみことばと教えを、共に分かち合う交わりが与えられていることは何と幸いなことでしょうか。「壁」に向かって話すのではなく、真摯に聞いてくださる兄姉が与えられていることは大感謝です。
これからも神様とより深く交わり、神様のみことばからより深く、より豊かに教えられながら、歩ませていただきたいと思います。まず、私自身が御言葉によって教えられ、御霊によって変えられていかなければ、神様の恵みのみことばが地に落ちてしまいます。神様、これからも助けてくださいと祈っていきたいと思います。ハレルヤ! | | 2019-01-05 07:08:02[投稿番号:93] |
詩篇105:4 | | 最近、教えられているみことば | 「絶えず御顔を慕い求めよ」…最近読んで、心にとめている御言葉である。
急いで、聖書に「御顔」と出ている箇所のすべてを調べてみた(70か所)。どれも重大に思われる。「神」とだけ言わないで、「神の御顔」とある。
もちろん、神様に関する霊的な比喩である。しかし敢えて、「御顔」としているところに意味がある。意図がある。
「神を慕い求めよ」でもよいが、詩篇105:4で、「神の御顔を慕い求めよ」とされていることにどんな意味が含まれているか。「神の御顔」を見ることは「死」を意味するほどであるが、それでも、敢えて「御顔」とある。
ここには、本当に親密な「神と私たち」との交わりの恵みがあると言える。これを求めるように促されている。命じられていると言ってもよい。
しかも、「絶えず」である。毎日毎日、神様と交わり、歩み続けることを願い、実行し、失敗し、悔い改め、また試みることの繰り返しであるが、この御言葉はありがたい。
私が、今一番必要としてることが命じられているのである。こんなありがたい命令が他にあるだろうか。しかも「絶えず」である!この御言葉は、神様の願い、求めであると言ってもよいだろう。まったく不十分で失敗だらけであるが、きょうも祈り、神様との交わりの恵みを求めていきたい。
クリスマスおめでとう。インマヌエルの神様を感謝します。ハレルヤ! | | 2018-12-24 15:22:25[投稿番号:89] |
2018年のクリスマス | | 罪の赦し→罪からの救い→永遠のいのち | 今年のクリスマスを迎えて、あらためてマタイ1章21節の「ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」の素晴らしさを感じている。ただの救いではなく、「罪からの救い」である。これはまた、罪の赦しも含まれ、永遠のいのちにつながっている「罪からの救い」である。
前のブログで、大祭司イエス様の贖いの完全さに触れた。これには、永遠性と現在性があって、毎秒毎秒、罪を犯しても、毎秒毎秒、御子の贖いが発揮されることである。
毎日、何度も、聖霊に満たされて歩もうとしているが、気が付くと、自分に満たされ歩んでいる自分に気づく。また、神様を愛し、隣人を愛して歩もうとするが、後で、本当に足りない自分に気づかされる。
ただ感謝なことは、御子の贖いの完全に頼り、御霊の導きによって、「あ」きらめない、「い」なおらない、「う」ぬぼれない、「え」んりょしない、「お」それないように、少なくとも、していることであろう。
今年も、あと10日である。まだまだ、クリスマス(諸集会)で忙しい。さらに年末感謝礼拝、元旦礼拝とつづく。本当に神様と共に歩んでいないと、真のメッセージは出てこない。『乾いた雑巾』を絞るのではなく、みことばと御霊から教えられ続けていきたい。ハレルヤ!メリークリスマス! | | 2018-12-21 21:27:06[投稿番号:88] |
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