きょう、教えられたこと
願いごとのお祈りもすること
 黙示録のディボーションガイド(マナ)用の原稿を準備するために、このところ、自分のディボーション箇所を黙示録にしていました。原稿のほうはやっと、三分の二、16章まで来ることができました。あと、もう少しですが、大変です。。。黙示録を読んで、恵まれて、これをまた、『マナ』用の原稿にすることは。。。

黙示録をディボーションで読むことが終わったので、またルカの福音書にもどりました。今日の箇所は、11章1-13節でした。イエス様がここで教えておられることは三つです。?祈りの内容、?真剣に、しつこく、祈り続け求めること、?よいものを備えてくださる父なる神様を信頼すること。

どうして神様は、「しつこく(8節)」祈ること求められるのでしょうか。これは、ほとんど、神様のためではなく、私たち祈り手のためでしょう。理由をいろいろ考えてみた。間違った答えもあるかもしれませんが・・・?もっと真剣に祈ること、続けて祈ることを教えておられるから。?こうして神様との祈りの交わりを深めようとしておられるから。?答えられたとき、感謝が増えるから。?神様の「最善の時」があるので待つことを教えておられるから。?本当に祈りの答えとして受け取ることを教えるために。?天の父は、よりよいものをくださるので、本当に信じて待ち、それを受け取るために。

今朝、神様に(久しぶりに?)求めの祈りをした。いくつかのお願いごとを神様にお話しした。そうしたら、午前中に、その中の一つの祈りが答えられた!!
速い!・・・もう少し、願い事の祈りも、増やしたほうがよいのかもしれない。ハレルヤ!
2019-03-09 20:06:52[投稿番号:102]

最近、考えていること
私と主との交わり
 毎日10時、2時、5時、8時にスマホが鳴ってくれるので、何か特別に手が離せないことをしているときを除いて(例えば、集会中、面談中、クラスで講義中など)、その場でお祈りすることができる。そして祈り、個人的に礼拝することによって、しばしば助けられる。そうしないと、いつの間にか、神様や神様の臨在を忘れてしまうからである。

考えてみると確かに、四六時中、神様のことを考え続けることは不可能である。食事をしているとき、初めにお祈りするが、あとは、目の前の美味しい食事に夢中になる。面談したり、誰かと聖書の学びをしたりしていれば、当然一緒にいる人に集中するし、聖書箇所に集中する。それは悪いわけではない。良いこと、必要なことである。韓国ドラマで、何か面白いものをやっていれば、その間(一時間?)ドラマに夢中になる。これも、悪いわけではないでしょう(今、毎週月曜日に、オクニョを観ています!)

ただ問題は、何かに集中したあと、すぐに神様や神様の臨在に戻れないことだ。いや、それが多すぎる。スマホが鳴るまでそれが続くこともある。もっともっと神様を喜び、父なる神様との交わりを喜ぶはずであるが、徐々に薄れていく問題がある。神様にあって、何かに集中することは、ある種の「良い自立(?)」として、神様も喜んでくださるだろう。例えば、一所懸命仕事をしているとか、奉仕をしているとか、伝道や証しをしているとか。。。愛の業に励んでいるとか、これらは皆、神様が喜んでくださること。

私は、何かに集中したあと、より速く神様とその臨在に戻れることを願っている。しかし、他方で、私の心には、すぐに神様に戻ることを喜ばない、自分を王・神とする心がある。自分に満たされて歩んでも、よいことは全くないのに、それでも、そのように流れてしまう。だから赦していただいて、きょうも、明日も、御霊にお頼るするしかない。御霊に満たされ、導かれて歩ませていただこう!神様と神様の臨在を意識していなくても、神様が共にいてくださるめぐみを感謝します。ハレルヤ!
2019-03-01 21:10:54[投稿番号:101]

「なぜ」という信仰
いい加減な妥協をしないで待ち望みましょう!
 これまでの信仰生活において、何度か、小さな「なぜ」、大きな「なぜ」という質問を発したことがありました。最も大きな「なぜ」は、覚えている限り、二回あります。
一つは、失恋したときです。祈りながら、すべてが整っていく中で、突然、駄目になりました。詳しくは、やばいので(?)、書けませんが、少しだけ。。。それまで、私の信仰は非常に強いもの(?)でした。一度確信をもつと、本当にその確信通りに、神様は答えてくださり、時には奇跡までも起こしてくださいました。自分の信仰に自信がありました(?!)。しかしその信仰(?)は、ある日、見事に打ち砕かれました。確信をもって行動していたことなのに、突然、駄目になってしまったのです。失恋したこともショックでしたが、それまでの自分の信仰的自信が崩れてしまったこともショックでした。立ち直るのに、実際に、何年もかかりました。しかしこの経験から、学んだことはそれまでのどんな学びよりも、偉大でした。
何度、「なぜ」ですか、という質問を神様に向かって発したことでしょうか。しかし、すぐには「なぜ」の答えはみつかりませんでした。こうして何日も、信仰的につらい日々がつづきましたが、やがて神様は、少しずつでしたが、私の心と信仰を癒し、今まで全く学んだことのなかったような貴重な教えを、私に与えてくださいました!?神様は、私の確信よりも、もっともっと大きなお方であること。?自分の信仰に確信を持ちすぎてはいけないこと⇒それから、私はまず、自分の確信には徹底的に疑うようになりました(最後の最後に、自分を信じますが・・・)。こうして神様は、以前以上に、神様を信じ、信頼して歩むことができるようにしてくださいました。

もう一つの「なぜ」は、父が亡くなったときです。その時、私たちはまだカナダにいました。あともう少しで日本に帰るところでした(半年後)。もちろん、神様は憐れんでくださり、父が亡くなる前の夏に、父の具合が良くないことを知り、一時帰国していました。父と会い、話し合い、お祈りしました。しかしそれでも、父が亡くなったことはショックでした。しばらく悶々とした日々がつづきましたが、神様は、そんな私をあわれみ、ローマ8章38-39節にある「死も」から、私を救いだしてくださいました!

人生において、信仰生活において、いろいろありますね。。。もちろん、「なぜ」という質問を発するときもあります。大声で叫ばざるを得ないようなことも起こります。そんなとき、口先だけの薄っぺらなアドバイスでは通用しません。よい治療薬、救済方法も、なかなか見つからないかもしれません。しかし、そんなときこそ、私たちは、これまで知らなかった、これまで以上の本当の神様と出会い、本当の神様を知る機会となります。時間がかかるかもしれません。じっと、じっと、忍耐を働かせて、神様の時と御言葉を待ち望みましょう。ハレルヤ!
2019-02-22 07:19:07[投稿番号:100]

頼まれて、最近はじめていること
黙示録・・・ディボーションテキスト「マナ」の執筆
 「いのちのことば社」で出しているディボーションテキスト「マナ」があります。「マナ」の8月号9月号で『黙示録』を取り扱うので、書いてくれるように、最近、執筆依頼がありました。迷って迷って、祈って祈って、お引き受けすることにしました。

お引き受けした理由は二つあります。一つは、今、神学校で『終末論』のクラスを担当しています。また、(多い時には)10人近くの牧師さんたちと黙示録を学ぶ会(GMYK→ギリシャ語で黙示録を読む会)をやっています(だんだん、GMYKがJ「Japanese」MYKになってきていますが)。ですから最近は、黙示録を読んだりすることが多く、少し視点を変えて、黙示録をディボーショナルに読むと、実際にどうなるのか考えてみたいと思ったからです。

もう一つは、たぶん、30年前ぐらいから、一つの重荷がありました。それは、聖書全巻のための良いディボーションテキスト(ガイドブック)が足りないので、書いてみる必要があるのではないかというものでした。しかし、今から24年前、カナダから日本に戻ったとき、聖書全巻のディボーションテキストが、日本において、すでにいくつかあって用いられていることをしりました。それでディボーションテキストを書くのを止めました。
ところがその後、(神様の不思議な導きによって)ディボーションテキストではありませんでしたが、聖書全巻をどのように「解釈していくか」について、ある雑誌で連載できるように導かれました(『リバイバル・ジャパン』『舟の右側』)。これは、毎日のディボーションにおいて、聖書をどのように読んでいったらよいかを教えるものです。・・・それが、なんと5年以上続いたのです。これは私にとって奇跡でしたが、本当に、大きなあわれみと恵みをいただいて、無事に終了することができました。・・・すべてを終えて数年経ちましたが、そんなところに、『黙示録』の執筆依頼がありました。ディボーションテキストを書きたい。書かなければと思っていた30年前の重荷を思い起こしながら、聖書の中でも、最も難しい書のひとつですが、執筆をお引き受けすることにしました。私にとっては、本当に本当に不思議な導きでした。。。

果たしてこれからどうなるか?本当に難しい書です。しかも、これが、皆さんの毎日のディボーション用テキストになるのです。またもう一つの難しさが加わっている感じです。なんとか、全ての章(22回分)の執筆ができますようにお祈りください。これも恵みです。ハレルヤ!
2019-02-19 07:42:04[投稿番号:99]

最近教えられていること・・・神様の謙遜
ルカ9:46-48
 「自分たちの中で誰が一番偉いか」という話を弟子たちがしていたと、46節にある。これに似た話は福音書の中に時々出てくる。そんな彼らを思って、御子が教えられたことは助けになる。「御子の名のゆえに子どもを受け入れる」→「御子を受け入れる」→「御子を受け入れる者は御子を遣わされた御父を受け入れる」
カギになる言葉は「御子の名のゆえに」だろう。人間のいろいろな理由や好み、言い訳ではなく、「御子の名のゆえに(私たちを愛して共にいて、十字架にまでかかられた御子ご自身そのものである)」が全てを変える理由になる。

「誰が一番偉いか?」は、私(たち)が知らず知らずのうちに陥る最も愚かで、日常的な罪ではないか。そしてこの罪こそ、愛することと真逆で、自分を物差し(神)とする偶像礼拝の一つであると言えるだろう。
御子イエス様から直接的に愛を受けていた弟子たちでさえ、なお、愚かな罪を繰り返していたことは、私(たち)に対する重大な警告になっていると言える。

最近、御父ほど謙遜なお方はないことについて考え続けている。私たちをチリから造り、いのちを与え、知性を与え、それだけでなく、神様と(ある意味で、同等に)交わり、生きることができるようにしておられる。こんな奇跡があるでしょうか。こんなあり得ない話があるでしょうか。ここに、御父の絶対的な謙遜を見るのです。「謙遜」という言葉さえ当てはまらない、絶対超越の神様の謙遜の事実に直面するのです。どうして神様は、思い切って(?)ここまでなさったのだろうと考えるのです。

神様の謙遜と私(たち)の愚かな不遜が現実にあるのです!それでも、御子と御霊によって、この間に、真の交わりが成り立っているのです。ハレルヤ!
2019-02-09 07:31:15[投稿番号:98]

聖書を読むことについて
最近、考えさせられていること
 聖書を読むことについて教えられていることが二つある。
第一は、ディボーションの中で、聖書を読む(学ぶ)が、その直前に、「神様、肉の糧を与えてくださるように、霊的な糧も与えてください」とお祈りするようにしている。「主の祈り」の中で、私たちは、「日々の糧を与えてください」とお祈りする。最も基本的で大切な祈りである。では、「日々の霊的な糧を与えてください」と祈っているだろうか。これこそ、神様が私たちにあたえようとしておられる、与えたいと願っておられる糧ではないか。これほど、神様の御心に沿った祈り、聞かれる祈りはないだろう。きょうも、「日々の霊的糧も与えてください」と祈って、聖書を読み始める。私たちは、「神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」者たちである(マタイ4:4)。

第二は、聖書の学びにおいて、「個別的な意味」をもった聖書箇所をどのように、今の自分に適用するかである。ある意味で、聖書は、当時の人々に直接語られたもの(書かれたもの)なので、すべてが「個別的」であると言えるが、その中でも、特に個別的な意味をもった聖書箇所について考えたい。

例えば、マタイ4:19は非常に個別的である。当時、御子は、ガリラヤの漁師たちに、「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われた。しかし御子は、すべてのクリスチャンを、(ペテロたちに対する意味と同じせまい意味で)人間をとる漁師(すべてを置いて御子に従い、人々の救いのために専心する者たち)にしようとしておられるかというとそうではない。

同じような例はたくさんある。例えば、マタイ28:19で、御子は弟子たちに、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われた。ではここは、すべてのクリスチャンは、全世界に出ていく宣教師になれという教えなのか。マルコ5:18-20で、御子は、悪霊に憑かれていた青年を解放し救われ、彼に対して言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り…。」では、この箇所を読んだ全てのクリスチャンは、自分の家、家族の所に帰らなければならないのか。いや、そうではない。その箇所の意味を学ぶことが大切である。

聖書の、特にナラティブ(ストーリー)に多いが、当時の人々(だけ)に言われた「個別的なみことば」を読んで、今の自分に適用するとき、注意すべきことがある。それは、当時の人々に「個別的に」語られた言葉をそのまま、今の自分にも「個別的に」当てはめてはいけないということである。もちろん、時に神様は、当時語られた「個別的なみことば」をそのまま用いて、今の私たちに神様の御心を与えられることがあるだろう。ただし、いつも、そのようであるとは言えない。「御言葉が与えられた、御言葉が与えられた』というとき、十分注意したい。そのみことばの内容が私たちの人生に決定的な影響を与えるかもしれないようなときは、なおさらである。

私たちは、どうしたらよいか。私たちは、いつも、聖書を読んで祈りながら、御霊にお頼りし、みことばを私たちの毎日の生活に当てはめていく。ただし、「なまの」みことばをそのまま当てはめるのではなく、みことばの意味(真意)を求めて、ここで神様が何を教え、何を願っておられるのか考える必要があるだろう。こうして、みことばの意味(その御言葉のより普遍的な意味)をつかんで、これを今の自分に当てはめていきたい。

ナラティブ(ストーリー:新約で言うと、福音書や使徒の働きなど)を読むときの素晴らしさは、私たち読者を2000年前の世界に招き入れてくれることである。
私たちは、そのことのゆえに、ナラティブを喜び、味わい、楽しむことができる。ただし、そこで語られる御言葉は、まず何よりも、その世界に生きるその当時の人々のための「個別的な」みことばであることを覚えなければならない。このみことばが、神の御霊を通して、現代の私たちに届けられるのである。

きょうも、御霊は、何を教え、何を語られるか、求めていきたい。霊的な糧をいただいて、歩ませていただきたい。ハレルヤ!
2019-02-05 07:17:31[投稿番号:97]

三人の子どもさんをもった若いお母さんが召された!
「なぜ」ですか、という質問
 ある若い姉妹が、くも膜下出血で先週の火曜日に倒れ、土曜日に天に召された。ご主人と三人の子どもたちが残された。小学校2年、4年、6年である。

私たちは教会全体で祈り、助け、支えて来たが、姉妹は天に導かれた。日曜日に、礼拝、納棺式を行った。午後の納棺式プラスさよなら賛美会に、たぶん、50人以上の方々が集まってこられたと思われる。月曜日に、葬儀を行った。もともと家族葬の予定であったが、愛する姉妹、愛される姉妹のゆえに、また残された家族を思って、たぶん100名以上の方々が参列してくださった。

これからやるべきことがたくさんある。教会として、牧師として。なんとかして、召された姉妹の祈りと願いを思いながら、遺族を支え、守っていきたい。

これまでにも、何度か、「なぜ?」という最も重い質問を神様にしたことがある。今回もそうである。以前、「なぜ?」という質問を、何年も握りしめていた時もあった。最も苦しい経験であったが、これほど、神様ご自身について学んだ時はなかった。

今回ほど、姉妹の癒しを求め、癒しの祈りをしたことはなかったと言えるかも。しかし最後に神様に私は言った。「もしこの癒しの祈りが聞かれないのなら、彼女が天に行かれることによって、それを通しでなければできない、起こらない特別な神様の祝福を遺族に注いでください。彼女が天に召されることが、本当に遺族にとっても祝福であったことが分かるようにしてください。」・・・なぜこんな祈りをしたかというと、使徒12章に、ヤコブの殉教死とペテロに対する奇跡の救出があったから(ヤコブは死に、ペテロは死を免れた!)。

姉妹が天に召されたことが、どうして遺族の祝福になるでしょうか。それはありえないことです。今の私たち、今の遺族にとって、まさにそう思えるのです。しかし、大きな大きな大きな神様の大きな大きな大きなみこころがある。そうだから、それが何よりも確かなので、神様の祝福が起こることを信じます。待ちます!

「なぜ?」という質問は、神様から離れる質問ではなく、神様にもっと近づき、本当の神様を知るときである。苦しい中で、ハレルヤ!
2019-01-29 07:20:45[投稿番号:96]

最近、おしえられていること
どちらの「平安」でいくか?
 最近、お祈りをしながら教えられたことがある。「当たり前のことでしょ」と言われそうであるが、自分自身に言い聞かせるためにも、思い切って書いておこうと思う。

人生に二つの「平安」がある。一つは、できるだけ考えないようにして避けて保つ「平安」、向き合わないようにする「平安」である。もう一つは、問題や課題に向き合うが、祈って考えて、最後に神様にすべてをゆだねてしまう「平安」である。

私は、最近、自分自身が、いろいろな課題や問題を避けて「平安」を保ってきたのではないかと思った。気が付いた。それで、お祈りしながら、直面することを決心して、すべてを神様にお委ねした。不思議なことに(不思議ではない!)、神様にある「本当の平安」が戻ってきた。しばしば、直面することは恐ろしい。しかしいつでも、どこでも、私の父である神様が一緒にいてくださるので、頑張って(?)、すべてをささげてみた。これでよかった!

私は、時々、前者の「平安」、「インスタントな平安」を求めてしまう。しかしこの平安は、長続きしない。浅はかな人間の知恵や小手先の平安であるから。これからも、失敗しそうであるが、インマヌエルの神様にある平安に立って、すべての問題や課題に直面していきたい。

神様にある平安に基づいて、昨日、思い切って、ある人に電話をした。私が予想し、想像し、先走って考えていた問題は全くなかったようだ。感謝します!
月曜日、しばしば私(牧師?)は不安定になるようだ。しかしいつも、戻れるところがあることに感謝します。助けられています。神よハレルヤ!
2019-01-22 06:41:07[投稿番号:95]

ある方を訪問して感じたこと、思ったこと
認知症が、かなり進んでおられた!
 先日、久しぶりにある方を訪問した。お元気だと聞いていたが、お会いしてびっくりした。思っていた以上に、認知力が低下しておられることが分かったからだ。なんとかして、「私」を思い出してもらおうと、以前、楽しく分かち合ったことなど、いろいろ持ち出したが駄目だった。なんとか言葉のキャッチボールができたという感じだった。

久しぶりにお会いできて嬉しかったが、それ以上に、認知症が進んでおられたことに驚いた。もちろん、このような経験ははじめてではない。これまでも、認知症を患っておられる方々を何度も訪問し、お話しをしてきたから。しかし今回は、なぜだか分からないが、ショックが大きかった!長年お交わりが与えられ、親しかった方だからか、それとも、そこに近い将来の「自分自身」を見たからか。

やがて「時」が来て、私も召されるときが来る。どのように召されるか、自分では決められない。突然、その時が来るかもしれない。または、ある期間、認知症を患ってから、召されるかもしれない(今、もう始まっているかもしれない?)。ただ言えることは、その「時」は近い、近づいているということである。

私は、教会で、このような期間のことを、「着替え」の時、「衣替え」の時と呼んでいる。「肉」の身体から「霊(聖霊)」の身体に着替えて、天の御国に行くことになるからだ(1コリント15章後半)。この意味では、非常に光栄のある時期であるとも言える。耳が遠くなり、もの忘れが激しくなり、手も震えてくる(これが、現在、特に進行中で問題である「本態性震戦」)。しかし感謝なことに、これらの全ては、確実に天の御国に近づいている証拠である。

「その時」はわからないが、「着替え」を続けながら、この一年も、「御霊に満たされ、導かれて」歩んでいこう!ご聖霊こそ、贖いの日のための「証印」となっていてくださるから(エペソ1:13-14、4:30)。何もなくても、ご聖霊がおられる。ハレルヤ!
2019-01-19 07:40:03[投稿番号:94]