「御霊に満たされ導かれる」とは? | | 最近教えられたこと・・・ルカ21:1-4 | 手元に「レプタ銅貨」が2枚ある。一枚は模造品であるが、これを喜んでいたら、友人の牧師が本物(?)のレプタ銅貨一枚くれた。本当にうれしくて、この2枚を宝物のようにしている。
最近、ルカ21:1-4を読んでいて教えられた。どうしてこの人は、「貧しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのか」考えた。・・・毎日同じように捧げていたら生きていけなくなっただろう。たまたま、嬉しいことがあって、その感謝にと、すべてを捧げた可能性は「ゼロ」とは言えないが、この人は、おそらく、時々、このような捧げものをしたいたのではないだろうか。
そしてさらに考えた。この人は、どうしてここまでの捧げものをしたのか。できたのか。強制的にさせられていたとしたら意味はない。また、「私はこんなに犠牲を払って捧げていますよ」と考えて、捧げているとしたら、これも意味はない。彼女は、こんなの犠牲と思っていない。喜んで捧げているに違いない。捧げ終わって、何とも思っていない。ただ神様に感謝し、礼拝しているのだろう。
私は思った。これも、一つの「聖霊に満たされ導かれていること」ではないか。何週間か前から、「御霊に満たされ、導かれる」とは、実際、どのようになることなのか、いろいろ考えるようになっていた。・・・そんなこともあったので、レプタ銅貨2枚捧げた人も(人こそ)、聖霊に満たされ導かれている人ではないかと考えるようになった。
本当に自分を忘れ、自分が一生懸命していることも忘れて、神様に向かっていることこそ、聖霊に満たされ、導かれていることではないかと、少しずつ感じるようになった。ほど遠い道であるが、少しでも、この人のようになれますように。ハレルヤ! | | 2019-04-19 19:54:38[投稿番号:108] |
受難週を迎えて! | | 十字架上の七言から | 今週の礼拝メッセージは、受難週が始まったこともあって、「十字架の七つの言葉」からでした。準備しながら、教えられたことがありました。この箇所から初めて教えられたと言っていいでしょう。それは「父よ、私の霊をあなたの御手にゆだねます」という御言葉です。
これは、御子イエス様が息を引き取られる直前のことばです。私は今まで、これは御子ご自身の最後のことばであって自分とは関係がないと思っていました。しかしそうではなくて、ここにも、私自身に対するメッセージが含まれていることを知ったのです。
「エリエリレマサバクタニ」という叫びも、「私は渇く」という叫びも、いずれも、御子ご自身のことばであるとともに、私たちのための代わりのことばであると言えます。もしそうだとすると(そうなのです!)、この第七のことばも、私たち自身の代わりのことばと言ってよいのではないでしょうか。
第一に、御子はここで、先に「エリエリレマサバクタニ」と言って、御父との断絶を告白しておられましたが、ここでは、すべてが「完了した」ので、再び、「父よ」と言っておられるのです。御子と御父との交わりが回復していることが分かります。
第二に、御子は、それゆえに、最後に自分自身のすべて(「わが霊」)を、御父の御手にゆだねておられます。交わりの回復のゆえに、それができるたのです。
そしてこの二つの恵みはまた、私たちにも与えられている恵みと言えます
御子が十字架で確かに苦しまれ、捨てられてくださったから、また、御父の御心のすべてを「完了」してくださったから、私たち罪びとも、御子のように、御父との交わりを回復し、今も、また最後の時にも、御子のように、「父よ、私の霊(すべて)をあなたの御手にゆだねます」と祈ることができるのです!
こんな素晴らしい恵みがあることを、御子の最後のことばから発見しました。
御子の十字架の七言から教えられ、受難週を歩んで行きましょう!ハレルヤ! | | 2019-04-15 17:43:46[投稿番号:107] |
黙示録の学びが終わります? | | 頭の中に、黙示録の色々な幻があります! | ディボーション・ガイドブック『マナ』用の原稿(黙示録)が準備でき、今、いのちのことば社に送ることができました。たぶん、何回か、編集上の打ち合わせがあるでしょうが、とにかく、ホ・・・・ットしています。学びだけでなく、ディボーショナルな視点から、『黙示録』を読んでいかないと、ディボーションガイドにはならないので。。。
今、黙示録に出てくるいろいろな幻が心に浮かび、たくさんの恵みを感じています。天上での賛美の幻、地での悪霊たちの働きの幻、七つの封印・七つのラッパ・七つの鉢の幻、イエス様の再臨の幻、新天新地の幻、エデンの園の回復のような幻・・・これらの幻の中を歩む教会への励まし、警告、約束、勧めなどがあります。
これまで約一年、何人かの先生たち(約10人)と、黙示録を読む会(GMYK)を始め、この学び会もあと一回で終わります。聖書の中で、最も難解な箇所を一緒に分かち合いながら、学ぶことができ、本当に感謝です。特に、若い先生たちが、これからの牧会や学び、説教のよい準備になればと願っています。
ここ数年は、ずっと黙示録を学び続けてきたと言っていいと思います。きっかけは、『ジャンル別新聖書解釈入門』のために、徹底的に黙示文学と黙示録の学びをしたことでした。それから、何かにつけ、黙示録と関わってきました。今、静かに目を閉じると、自分が黙示録の大きな波の中に置かれているようです。いつか、再臨の主が来られて、さばきと希望の全てを完成してくださいます。感謝します。ハレルヤ! | | 2019-04-10 17:35:43[投稿番号:106] |
稲沢教会に来て1年経ちました! | | 神様にあるDoingとBeingで | 過ぎてしまえばあっという間ですが、本当にたくさんのことがあった一年でした。昨年は、4月1日がイースターで、朝の7時に、合同のイースター礼拝が稲沢公園であり、参加しました。これが、稲沢に来て最初の集まりで、イースターと共に一年が始まりました!
たくさんの「Doing」がありましたが、これに負けないくらい、たくさんの「Being」も与えられました。そのおかげで、Doingが支えられたと言っていいでしょう。Beingなしに、Doingばかりでしたら、心身ともに潰れていたかもしれません。しかし神様との交わりが源となり、そこで力と恵みを受け、たくさんのDoingに向かうことができたと言ってよいと思います。
新しい一年も、Doingを支えるBeingを大切にしながら、神様と共に歩ませていただきたいと思います。それが、全ての力や知恵や喜びの支えですから。もっともっと、「神様の御顔を慕い求め」、もっともっと「イエス様を深く掘り」、もっともっと「御霊に満たされ導かれて」行きたいと願っています。そうでないと、油が切れてしまいますから。
4月1日と2日には、家族三人で、久しぶりに掛川の花鳥園に行ってきました。観たいと思っていました「ハシビロコウ」に会ってきました。この鳥のように、じっとじっと神様を待ち望みたいと思います。
稲沢での一年守られて、二年目を迎えることができました。皆さんのお祈りを心より感謝いたします! | | 2019-04-03 20:45:14[投稿番号:105] |
最近、考え教えられていること | | 受難節にあたって | 今年の受難節は3月6日からで、受難週は4月14日から。ちょうど礼拝メッセージも、3月10日から「キリスト論」になっています。イースターまでキリスト論が続きます。
そんな中で、特に最近考え、教えられていることがあります。それは、私たちに「キリストの模範がある!」ということです。これまで、あまりイエス様の模範について考えることはなかったと思います。それは、イエス様の模範は、あまりにも私(たち)の実際の歩みからほど遠く思っていたからです。確かに、イエス様は神の子です。このことは変わりません。しかし、御子が完全に人となり、人として歩んでいてくださったからには、そして御子も御霊を受け、御霊され導かれて生涯を歩み続けられたからには、ここに私たちに対する「模範」があることはたしかです。
最近、自分の信仰の足りないこと、愛のないことを知らされ続けています。学んでも学んでも、体験をしても体験をしても、まだ足らないことを覚えています。
御霊に満たされ、導かれて歩むことを確認して、一日をはじめていますが、それでも、しばらくすると「なっていない自分」を知らされるのです。
どうしたらいいか、しばらく考えていました。何日考えたか分かりませんが、そんな中で、発見したのは、私に「模範」があるということです。愛の御霊に満たされ導かれていくとともに、私の前に、心に、愛をもって歩んでおられる御子とその生涯、十字架が与えられていることを知りました。
「愛する」ことをよく知らない人間(私自身)にとって必要なものは、真の愛を受けることと、愛する力である御霊によって毎日満たされ導かれることと、「キリストの愛の模範」を繰り返し思い起こすこと、ですね。遅々たる歩みですが、最後まで教えられ続けていきたいと思います。1コリント13章1-7節まで読みましょう!ハレルヤ! | | 2019-03-23 09:10:56[投稿番号:104] |
二冊の書 | | 誰かにお薦めしたい本です。 | 最近、アマゾンを通して、二冊(中古?)の本を買いました。以前、持っていたはずなのに、どこかに行ってしまったらしいのです。そんなことで探していましたら、アマゾンで見つけました。どちらも安かったので、注文して手に入れることができました。大げさに言うと、放蕩息子が帰ってきた感じです。
その一冊は、私の義兄(千代崎秀雄)の書いた『愛なしには生きられぬ』です。信仰の入門書としてとてもよいので、これまでにもいろいろな人(特に、求道中の方々)に読んでもらいました。いつも、手元において、誰かにお勧めしたい本の一つです。
もう一冊は、私の神学校時代の教師(ヘンリー綾部先生)が書いた本で、『新約聖書入門』です。使徒の働きと、他の書簡(パウロの手紙とか)が書かれた時期とを関係付けてまとめられたもので、新約聖書の学びとしては、より良い入門書だと思います。
何か月前になるか覚えていませんが、ある兄弟から、神学校に入ることは考えていませんが、これから自分の信仰成長のために必要な「本」を読んでいきたいので、そのためにふさわしい本があったら紹介してほしいというお願いがありました。それ以来、何か月かずっと、私のもっている本の中から選んでお貸しして来ました。本を読んだ後に簡単な感想やコメント聞いて、次の本を選ぶという感じです。そんな中で、『新約聖書入門』を思い出し、これを読んでもらおうと思ったのですが、私の本棚になく、注文したわけです。
私の本棚にも、いろいろな人たちが書いた本がたくさんありますが、これらも、神様の恵みですね。もっともっとお分かちしていかなければと思います。ハレルヤ! | | 2019-03-16 07:30:58[投稿番号:103] |
きょう、教えられたこと | | 願いごとのお祈りもすること | 黙示録のディボーションガイド(マナ)用の原稿を準備するために、このところ、自分のディボーション箇所を黙示録にしていました。原稿のほうはやっと、三分の二、16章まで来ることができました。あと、もう少しですが、大変です。。。黙示録を読んで、恵まれて、これをまた、『マナ』用の原稿にすることは。。。
黙示録をディボーションで読むことが終わったので、またルカの福音書にもどりました。今日の箇所は、11章1-13節でした。イエス様がここで教えておられることは三つです。?祈りの内容、?真剣に、しつこく、祈り続け求めること、?よいものを備えてくださる父なる神様を信頼すること。
どうして神様は、「しつこく(8節)」祈ること求められるのでしょうか。これは、ほとんど、神様のためではなく、私たち祈り手のためでしょう。理由をいろいろ考えてみた。間違った答えもあるかもしれませんが・・・?もっと真剣に祈ること、続けて祈ることを教えておられるから。?こうして神様との祈りの交わりを深めようとしておられるから。?答えられたとき、感謝が増えるから。?神様の「最善の時」があるので待つことを教えておられるから。?本当に祈りの答えとして受け取ることを教えるために。?天の父は、よりよいものをくださるので、本当に信じて待ち、それを受け取るために。
今朝、神様に(久しぶりに?)求めの祈りをした。いくつかのお願いごとを神様にお話しした。そうしたら、午前中に、その中の一つの祈りが答えられた!!
速い!・・・もう少し、願い事の祈りも、増やしたほうがよいのかもしれない。ハレルヤ! | | 2019-03-09 20:06:52[投稿番号:102] |
最近、考えていること | | 私と主との交わり | 毎日10時、2時、5時、8時にスマホが鳴ってくれるので、何か特別に手が離せないことをしているときを除いて(例えば、集会中、面談中、クラスで講義中など)、その場でお祈りすることができる。そして祈り、個人的に礼拝することによって、しばしば助けられる。そうしないと、いつの間にか、神様や神様の臨在を忘れてしまうからである。
考えてみると確かに、四六時中、神様のことを考え続けることは不可能である。食事をしているとき、初めにお祈りするが、あとは、目の前の美味しい食事に夢中になる。面談したり、誰かと聖書の学びをしたりしていれば、当然一緒にいる人に集中するし、聖書箇所に集中する。それは悪いわけではない。良いこと、必要なことである。韓国ドラマで、何か面白いものをやっていれば、その間(一時間?)ドラマに夢中になる。これも、悪いわけではないでしょう(今、毎週月曜日に、オクニョを観ています!)
ただ問題は、何かに集中したあと、すぐに神様や神様の臨在に戻れないことだ。いや、それが多すぎる。スマホが鳴るまでそれが続くこともある。もっともっと神様を喜び、父なる神様との交わりを喜ぶはずであるが、徐々に薄れていく問題がある。神様にあって、何かに集中することは、ある種の「良い自立(?)」として、神様も喜んでくださるだろう。例えば、一所懸命仕事をしているとか、奉仕をしているとか、伝道や証しをしているとか。。。愛の業に励んでいるとか、これらは皆、神様が喜んでくださること。
私は、何かに集中したあと、より速く神様とその臨在に戻れることを願っている。しかし、他方で、私の心には、すぐに神様に戻ることを喜ばない、自分を王・神とする心がある。自分に満たされて歩んでも、よいことは全くないのに、それでも、そのように流れてしまう。だから赦していただいて、きょうも、明日も、御霊にお頼るするしかない。御霊に満たされ、導かれて歩ませていただこう!神様と神様の臨在を意識していなくても、神様が共にいてくださるめぐみを感謝します。ハレルヤ! | | 2019-03-01 21:10:54[投稿番号:101] |
「なぜ」という信仰 | | いい加減な妥協をしないで待ち望みましょう! | これまでの信仰生活において、何度か、小さな「なぜ」、大きな「なぜ」という質問を発したことがありました。最も大きな「なぜ」は、覚えている限り、二回あります。
一つは、失恋したときです。祈りながら、すべてが整っていく中で、突然、駄目になりました。詳しくは、やばいので(?)、書けませんが、少しだけ。。。それまで、私の信仰は非常に強いもの(?)でした。一度確信をもつと、本当にその確信通りに、神様は答えてくださり、時には奇跡までも起こしてくださいました。自分の信仰に自信がありました(?!)。しかしその信仰(?)は、ある日、見事に打ち砕かれました。確信をもって行動していたことなのに、突然、駄目になってしまったのです。失恋したこともショックでしたが、それまでの自分の信仰的自信が崩れてしまったこともショックでした。立ち直るのに、実際に、何年もかかりました。しかしこの経験から、学んだことはそれまでのどんな学びよりも、偉大でした。
何度、「なぜ」ですか、という質問を神様に向かって発したことでしょうか。しかし、すぐには「なぜ」の答えはみつかりませんでした。こうして何日も、信仰的につらい日々がつづきましたが、やがて神様は、少しずつでしたが、私の心と信仰を癒し、今まで全く学んだことのなかったような貴重な教えを、私に与えてくださいました!?神様は、私の確信よりも、もっともっと大きなお方であること。?自分の信仰に確信を持ちすぎてはいけないこと⇒それから、私はまず、自分の確信には徹底的に疑うようになりました(最後の最後に、自分を信じますが・・・)。こうして神様は、以前以上に、神様を信じ、信頼して歩むことができるようにしてくださいました。
もう一つの「なぜ」は、父が亡くなったときです。その時、私たちはまだカナダにいました。あともう少しで日本に帰るところでした(半年後)。もちろん、神様は憐れんでくださり、父が亡くなる前の夏に、父の具合が良くないことを知り、一時帰国していました。父と会い、話し合い、お祈りしました。しかしそれでも、父が亡くなったことはショックでした。しばらく悶々とした日々がつづきましたが、神様は、そんな私をあわれみ、ローマ8章38-39節にある「死も」から、私を救いだしてくださいました!
人生において、信仰生活において、いろいろありますね。。。もちろん、「なぜ」という質問を発するときもあります。大声で叫ばざるを得ないようなことも起こります。そんなとき、口先だけの薄っぺらなアドバイスでは通用しません。よい治療薬、救済方法も、なかなか見つからないかもしれません。しかし、そんなときこそ、私たちは、これまで知らなかった、これまで以上の本当の神様と出会い、本当の神様を知る機会となります。時間がかかるかもしれません。じっと、じっと、忍耐を働かせて、神様の時と御言葉を待ち望みましょう。ハレルヤ! | | 2019-02-22 07:19:07[投稿番号:100] |
|