『「霊性の神学」とは何か』を読んで
自分自身は分かっているようで分からない!
 最近、『「霊性の神学」とは何か』(篠原明著)を読んだ。全体的な内容や大切にされているポイントなど、私自身も考え、求めていることなので、共感をもって読むことができた(『福音主義神学』「霊性」37号にある通り)。
また、内容豊富で、より新しい情報も含まれていた。本書は、自分自身の霊性について吟味し教えられ、それを深めていくことよりも、より一般的に、「福音主義の霊性」について考えさせるものである。

それでも私自身の霊性について、特に教えられたことが一つあった。それは、「霊的同伴」が必要な理由に関してである(本書109頁以降)。カトリックの霊的指導者であるジャン・グルーのことばが引用されていた。

 自分を神に捧げようと真剣に望む者は、(他の誰かから霊的に)導きを受けることの大切さを十分にわきまえなければならない。なぜなら、最も優れた知恵のある者でも、自分自身の内なる生活には盲目であり、最も聖められていて人を霊的に導くのに適している者でも、敢えて自分自身を導こうなどと思わないからである。

このグルーのことばは本当だろうと思います。よく私たちは、「自分自身のことは自分が一番わかっている」と言いますが、どうも間違いのようです。

特に大切な判断において、私は自分の判断を信じません。すぐには信じないようにしています。なぜなら、たいてい、自分の都合のいいように判断しているからです。疑って、疑って、否定して否定して、最後の最後に、自分自身の判断を信じるようにしています。

「(上記の意味で)自分自身を信じないこと」とともに、「霊的同伴」が必要なようです。神様は毎日の霊的同伴者です。しかしそれだけなら、まだ不十分でしょう。なぜなら、ここで言う「神様」とは、私が解釈している「神様」だからです。それが多いからです。「霊的同伴(者)」について、もう少し考えていきたいと思います。ハレルヤ!
2019-05-09 07:16:55[投稿番号:111]

最近教えられていること
ルカ23章33-43節
 ルカ23章33-34節は、よく知られているところ。ここに、救いの原点がある。

この強盗(A)は、社会貢献ゼロ、善行ゼロ、道徳的行為や模範ゼロ・・・極悪犯だけが十字架刑になるのだから、それまでの生き方から良い面を見つけようとしても難しいだろう。また、もちろん十字架の上で、何か良いことをしようとしても無理であるから、ここにも良いことを見つけることはできない。しかし御子は見つけられ、最後に、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われた。何があったのか。何かよいことをしたというよりも、彼の心の中に何か良い変化が起こったとしか言いようがない。

「パラダイス」は、旧約ギリシャ語聖書に用例があるだけだが、これは、エデンの園とか、主の麗しい園の訳として「パラダイス」が使われている。ここでは、「天の御国」、また、かつてのエデンの園の回復された「主の園」のことであると言ってよいだろう。

この強盗Aに約束された御子の祝福(救い→天国)に、「洗礼」が条件になっていない。・・・だから、「洗礼」はどうでもよいというのではない。これが、救いの絶対条件になっていないということである。では、何が条件か。

標準的な教理とその実際もここにない。「神・罪・十字架復活信仰⇒救いの恵み」はない。この強盗が語った言葉から想像すると、彼には少なくとも、神様への恐れ、自分たちがしたことについての罪認識があったと思われる。あとは、41節後半と42節にみられる、「御子への信頼」である。

私は、教理がどうでもいいと思っていない。大切だし、必要であると思っている。しかしここにおいては、それも明確に表れているとは思わない。ある意味で、不十分と言えるかも。ただ(明確に)あるとしたら、御子に対する心からの信頼である。御子は、これを見て、良しとされ、43節にあることばを語られたのである。

今回、ルカ23章33-43節を読んで教えられたことは、御子に対する信頼の「すべて」(十分性)である。御子は、御子に信頼を置く者を退けられず、その信仰・信頼だけで十分としておられるということである。御子とこの強盗との関係(交わり)の中に、教理を持ち出す必要はないだろう。この信頼(だけ)こそ、永遠の命の交わりであり、永遠の死から永遠のいのちにすでに移っていることを表すものであると言える。

昔も今も、これからも、この信頼、永遠の命の交わりを大切にしていきたい。放蕩息子が父のもとに帰って来て、その前に決めていた「悔い改めのセリフ」を言ったとき、父は、それを聞いたか聞かずか、それさえ、遮るかのようにして、
放蕩息子を「しもべ」ではなく、「息子」として迎え、歓迎する準備を始めている。ここでも、すでに、永遠の命の交わりが始まっている! 

永遠の命の交わりを喜び、大切にする歩みをつづけたい! ハレルヤ!
2019-05-03 07:16:36[投稿番号:110]

イースターを迎えて!
当たり前のことですが、それでも!
 2019年のイースターを迎えて、特に教えられていることがある。第一コリント15章からもわかるように、「御子の十字架」と「御子の復活」は一つである。本質的に一つである。それなのに、最近は、この二つをあまりにも、分けて考えすぎているように思う。「十字架」の恵みだけ、「復活」の恵みだけ、という具合に。

しかし今回イースターを通して、十字架の恵みと復活の恵みを、敢えて分けて考えてみた。十字架の恵みは、神様の愛であり、あわれみである。神様の恵みがあふれている。そこに罪の赦し、罪からの救いの恵みがある。

では、復活の恵みは何か。それは、神様からの、死に対する勝利、栄光、永遠のいのちの恵み、宣教のための勇気や力などである。あらためて、イースターを通して、神様の愛と恵み、あわれみとともに、神様の力、栄光、いのち、喜びが溢れ、備えられていることに気がついた。

私は、復活の恵みのほうを忘れていたのではないか。小さくしすぎていたのではないか、と考えた。確かに、そうである。あらためて、御子の十字架と共に、復活を通して明らかにされ、備えられ、与えられている恵みを知った。ハレルヤ!
2019-04-22 18:05:45[投稿番号:109]

「御霊に満たされ導かれる」とは?
最近教えられたこと・・・ルカ21:1-4
 手元に「レプタ銅貨」が2枚ある。一枚は模造品であるが、これを喜んでいたら、友人の牧師が本物(?)のレプタ銅貨一枚くれた。本当にうれしくて、この2枚を宝物のようにしている。

最近、ルカ21:1-4を読んでいて教えられた。どうしてこの人は、「貧しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのか」考えた。・・・毎日同じように捧げていたら生きていけなくなっただろう。たまたま、嬉しいことがあって、その感謝にと、すべてを捧げた可能性は「ゼロ」とは言えないが、この人は、おそらく、時々、このような捧げものをしたいたのではないだろうか。

そしてさらに考えた。この人は、どうしてここまでの捧げものをしたのか。できたのか。強制的にさせられていたとしたら意味はない。また、「私はこんなに犠牲を払って捧げていますよ」と考えて、捧げているとしたら、これも意味はない。彼女は、こんなの犠牲と思っていない。喜んで捧げているに違いない。捧げ終わって、何とも思っていない。ただ神様に感謝し、礼拝しているのだろう。

私は思った。これも、一つの「聖霊に満たされ導かれていること」ではないか。何週間か前から、「御霊に満たされ、導かれる」とは、実際、どのようになることなのか、いろいろ考えるようになっていた。・・・そんなこともあったので、レプタ銅貨2枚捧げた人も(人こそ)、聖霊に満たされ導かれている人ではないかと考えるようになった。

本当に自分を忘れ、自分が一生懸命していることも忘れて、神様に向かっていることこそ、聖霊に満たされ、導かれていることではないかと、少しずつ感じるようになった。ほど遠い道であるが、少しでも、この人のようになれますように。ハレルヤ!
2019-04-19 19:54:38[投稿番号:108]

受難週を迎えて!
十字架上の七言から
 今週の礼拝メッセージは、受難週が始まったこともあって、「十字架の七つの言葉」からでした。準備しながら、教えられたことがありました。この箇所から初めて教えられたと言っていいでしょう。それは「父よ、私の霊をあなたの御手にゆだねます」という御言葉です。

これは、御子イエス様が息を引き取られる直前のことばです。私は今まで、これは御子ご自身の最後のことばであって自分とは関係がないと思っていました。しかしそうではなくて、ここにも、私自身に対するメッセージが含まれていることを知ったのです。
「エリエリレマサバクタニ」という叫びも、「私は渇く」という叫びも、いずれも、御子ご自身のことばであるとともに、私たちのための代わりのことばであると言えます。もしそうだとすると(そうなのです!)、この第七のことばも、私たち自身の代わりのことばと言ってよいのではないでしょうか。

第一に、御子はここで、先に「エリエリレマサバクタニ」と言って、御父との断絶を告白しておられましたが、ここでは、すべてが「完了した」ので、再び、「父よ」と言っておられるのです。御子と御父との交わりが回復していることが分かります。
第二に、御子は、それゆえに、最後に自分自身のすべて(「わが霊」)を、御父の御手にゆだねておられます。交わりの回復のゆえに、それができるたのです。

そしてこの二つの恵みはまた、私たちにも与えられている恵みと言えます
御子が十字架で確かに苦しまれ、捨てられてくださったから、また、御父の御心のすべてを「完了」してくださったから、私たち罪びとも、御子のように、御父との交わりを回復し、今も、また最後の時にも、御子のように、「父よ、私の霊(すべて)をあなたの御手にゆだねます」と祈ることができるのです!
こんな素晴らしい恵みがあることを、御子の最後のことばから発見しました。

御子の十字架の七言から教えられ、受難週を歩んで行きましょう!ハレルヤ!
2019-04-15 17:43:46[投稿番号:107]

黙示録の学びが終わります?
頭の中に、黙示録の色々な幻があります!
 ディボーション・ガイドブック『マナ』用の原稿(黙示録)が準備でき、今、いのちのことば社に送ることができました。たぶん、何回か、編集上の打ち合わせがあるでしょうが、とにかく、ホ・・・・ットしています。学びだけでなく、ディボーショナルな視点から、『黙示録』を読んでいかないと、ディボーションガイドにはならないので。。。
今、黙示録に出てくるいろいろな幻が心に浮かび、たくさんの恵みを感じています。天上での賛美の幻、地での悪霊たちの働きの幻、七つの封印・七つのラッパ・七つの鉢の幻、イエス様の再臨の幻、新天新地の幻、エデンの園の回復のような幻・・・これらの幻の中を歩む教会への励まし、警告、約束、勧めなどがあります。

これまで約一年、何人かの先生たち(約10人)と、黙示録を読む会(GMYK)を始め、この学び会もあと一回で終わります。聖書の中で、最も難解な箇所を一緒に分かち合いながら、学ぶことができ、本当に感謝です。特に、若い先生たちが、これからの牧会や学び、説教のよい準備になればと願っています。

ここ数年は、ずっと黙示録を学び続けてきたと言っていいと思います。きっかけは、『ジャンル別新聖書解釈入門』のために、徹底的に黙示文学と黙示録の学びをしたことでした。それから、何かにつけ、黙示録と関わってきました。今、静かに目を閉じると、自分が黙示録の大きな波の中に置かれているようです。いつか、再臨の主が来られて、さばきと希望の全てを完成してくださいます。感謝します。ハレルヤ!
2019-04-10 17:35:43[投稿番号:106]

稲沢教会に来て1年経ちました!
神様にあるDoingとBeingで
 過ぎてしまえばあっという間ですが、本当にたくさんのことがあった一年でした。昨年は、4月1日がイースターで、朝の7時に、合同のイースター礼拝が稲沢公園であり、参加しました。これが、稲沢に来て最初の集まりで、イースターと共に一年が始まりました!

たくさんの「Doing」がありましたが、これに負けないくらい、たくさんの「Being」も与えられました。そのおかげで、Doingが支えられたと言っていいでしょう。Beingなしに、Doingばかりでしたら、心身ともに潰れていたかもしれません。しかし神様との交わりが源となり、そこで力と恵みを受け、たくさんのDoingに向かうことができたと言ってよいと思います。

新しい一年も、Doingを支えるBeingを大切にしながら、神様と共に歩ませていただきたいと思います。それが、全ての力や知恵や喜びの支えですから。もっともっと、「神様の御顔を慕い求め」、もっともっと「イエス様を深く掘り」、もっともっと「御霊に満たされ導かれて」行きたいと願っています。そうでないと、油が切れてしまいますから。

4月1日と2日には、家族三人で、久しぶりに掛川の花鳥園に行ってきました。観たいと思っていました「ハシビロコウ」に会ってきました。この鳥のように、じっとじっと神様を待ち望みたいと思います。

稲沢での一年守られて、二年目を迎えることができました。皆さんのお祈りを心より感謝いたします!
2019-04-03 20:45:14[投稿番号:105]

最近、考え教えられていること
受難節にあたって
 今年の受難節は3月6日からで、受難週は4月14日から。ちょうど礼拝メッセージも、3月10日から「キリスト論」になっています。イースターまでキリスト論が続きます。
そんな中で、特に最近考え、教えられていることがあります。それは、私たちに「キリストの模範がある!」ということです。これまで、あまりイエス様の模範について考えることはなかったと思います。それは、イエス様の模範は、あまりにも私(たち)の実際の歩みからほど遠く思っていたからです。確かに、イエス様は神の子です。このことは変わりません。しかし、御子が完全に人となり、人として歩んでいてくださったからには、そして御子も御霊を受け、御霊され導かれて生涯を歩み続けられたからには、ここに私たちに対する「模範」があることはたしかです。

最近、自分の信仰の足りないこと、愛のないことを知らされ続けています。学んでも学んでも、体験をしても体験をしても、まだ足らないことを覚えています。
御霊に満たされ、導かれて歩むことを確認して、一日をはじめていますが、それでも、しばらくすると「なっていない自分」を知らされるのです。

どうしたらいいか、しばらく考えていました。何日考えたか分かりませんが、そんな中で、発見したのは、私に「模範」があるということです。愛の御霊に満たされ導かれていくとともに、私の前に、心に、愛をもって歩んでおられる御子とその生涯、十字架が与えられていることを知りました。

「愛する」ことをよく知らない人間(私自身)にとって必要なものは、真の愛を受けることと、愛する力である御霊によって毎日満たされ導かれることと、「キリストの愛の模範」を繰り返し思い起こすこと、ですね。遅々たる歩みですが、最後まで教えられ続けていきたいと思います。1コリント13章1-7節まで読みましょう!ハレルヤ!
2019-03-23 09:10:56[投稿番号:104]

二冊の書
誰かにお薦めしたい本です。
 最近、アマゾンを通して、二冊(中古?)の本を買いました。以前、持っていたはずなのに、どこかに行ってしまったらしいのです。そんなことで探していましたら、アマゾンで見つけました。どちらも安かったので、注文して手に入れることができました。大げさに言うと、放蕩息子が帰ってきた感じです。

その一冊は、私の義兄(千代崎秀雄)の書いた『愛なしには生きられぬ』です。信仰の入門書としてとてもよいので、これまでにもいろいろな人(特に、求道中の方々)に読んでもらいました。いつも、手元において、誰かにお勧めしたい本の一つです。

もう一冊は、私の神学校時代の教師(ヘンリー綾部先生)が書いた本で、『新約聖書入門』です。使徒の働きと、他の書簡(パウロの手紙とか)が書かれた時期とを関係付けてまとめられたもので、新約聖書の学びとしては、より良い入門書だと思います。

何か月前になるか覚えていませんが、ある兄弟から、神学校に入ることは考えていませんが、これから自分の信仰成長のために必要な「本」を読んでいきたいので、そのためにふさわしい本があったら紹介してほしいというお願いがありました。それ以来、何か月かずっと、私のもっている本の中から選んでお貸しして来ました。本を読んだ後に簡単な感想やコメント聞いて、次の本を選ぶという感じです。そんな中で、『新約聖書入門』を思い出し、これを読んでもらおうと思ったのですが、私の本棚になく、注文したわけです。

私の本棚にも、いろいろな人たちが書いた本がたくさんありますが、これらも、神様の恵みですね。もっともっとお分かちしていかなければと思います。ハレルヤ!
2019-03-16 07:30:58[投稿番号:103]