今、軽井沢の御代田に来ています!
いつもの生活から少し離れて考えています
 前回の「安息日」の続きにもなりますが、「永遠のいのち」のすばらしさを噛み締めています。また、聖書を読みながら、また誰かの書いたものを読みながら、「永遠のいのち」の視点からさらに考えるようにしています。そしていろいろな発見や確認ができるようになりました。

例えば、神様の創造の目的は、私たち人間に「永遠のいのち」を与えること。御子イエス様がこの世に来られた目的は、罪を犯して「永遠のいのち」を失った私たち人間に「永遠のいのち」を回復すること。

さらに天の御国は、まさに「永遠のいのち」の完成、実現である。だから今の世界はその前の状態で、「すでに」永遠のいのちの恵みをいただいているが、「まだ」、最後の完成の「永遠のいのち」ではないこと。

安息日は、まさに「永遠のいのち」を味わう日であり、教会は「永遠のいのち」に生きる者たちの協働・共同の交わりであり、また歩みの「場」であり、天の御国のひな型である。礼拝も、まさに永遠のいのちを体験する場であり、分かち合い、このいのちを確認するところと言える。

とにかく、聖書が教えるいろいろなことについて、「永遠のいのち」という視点から私たちは考えることができる。

御代田に来るまで、電車で4時間かかったが、その間、読んできたのは、J.I.Packerの「Knowing Man」であったが、その中でパッカーは、人間は「神のかたち」に造られたが、これを構成する5つの要素の内の一つとして、Community(共同体性)、Togetherness(一緒にいること)をあげていた。私たちが、他の人々との交わりに生きることにおいて、真に十分に、人間として生きることができると書いていた。まさに、これは、神様との交わりであり、また神様にあって、他の人々と共に交わることで、「永遠のいのち」のことであると言える。

「まだ」完全ではないが、「すでに」永遠のいのちが与えられていることを喜ぼう!ハレルヤ!
2019-06-19 15:58:30[投稿番号:117]

最近、考えていること
「安息日(日、月)」について
 最近読んでいる本や会話などをきっかけに、もう一度、「安息日」について考えています。牧師にとって安息日は、月曜日です。

私の最近の月曜日の過ごし方は、早朝は、まったくいつもと同じですが、朝食後からは、いつもと少し違います。?火曜日ほとんど一日、二つの神学校に行っていますので、そのクラスの準備をします(特に、ヘブル語は毎回、テスト・クイズをしていますので、その準備が必要です)。?家内と、一週間分の買い物に出かけます(実際には、一週間一回の買い物では足らないので、二回行くことになります)。?家内と、ゆっくり時間を過ごします。

ただ月曜日を「安息日」と考えますと(確かにそうです!)、Doingだけでなく、Beingがもっと必要ではないかと考えるようになりました。特に、神様と交わったり、自分自身について信仰的に点検したりすることです。バランスとして、Doingが多すぎるのではないかと考えます。

さて、本題です。ずっとこのところ、何かにつけ、「永遠のいのち」の祝福について考えていますが、最近、「安息日と永遠のいのち」の間の深い関係について考えるようになりました。「永遠のいのち」は、神様とのより深い交わりですから、正に「安息日」こそ、神様とのより深い交わりを楽しみ、共に歩むことを実践する日になるはずです。さらに安息日は、天の御国の『前味』ですから、確かに、永遠のいのちを喜び、味わい、楽しむことは自然なことであると言えます。

私自身の月曜日の使い方を考えるとき、「永遠の命」の恵み(「すでに」の恵みと「まだ」の恵みと共に)を味わうためには、まだ足りないところがあるのではないかと思うようになりました。一番大切であると言ってよい「永遠のいのち」を、安息日に楽しみ、味わうことについて、考え直し、やり直していく必要があります。これこそが、旧約以来の律法の変わらない、また重大な神様のみこころなのですから、従う必要があります。

また、日曜日を安息日として教会の礼拝に集って来られる信徒の方々のことについても、考えなければなりません。どうしたら、「永遠のいのち」の祝福を味わい、分かち合い、そのうえで、新しい一週間の準備をしてもらうことができるのか。もちろん、礼拝は第一で、永遠のいのちの祝福の起点ですが、その後の、礼拝後の歩みはどうしたらよいのでしょうか。また、土曜日も休みの人はどのように土曜日を使うといいのでしょうか。これはまた、日曜日(安息日)の使い方と無関係ではないでしょう。

今、永遠のいのちにふさわしい安息日(土、日、月)の使い方について考えています。
正直に言いますと、牧師として、初めて安息日の重大性、また祝福の大きさと、その用い方について、考え始めていると言ってよいかもしれません。遅すぎるかもしれませんが、とにかく、考えるようになったので、ハレルヤ!
2019-06-08 19:36:46[投稿番号:116]

今、はまっている「花」!
ブルースター
 去年も、チラッと見ましたが、今年も、教会の駐車場の隅っこに、ひとり生えで咲いている「ブルースター」にハマッテいます!感動していたら、家内も、同じ花に感動していることが分かりました(娘も?)。

写真をここに載せたいのですが、このブログは「字」だけのようなので、インターネットで探していただくか、稲沢教会の駐車場まで見に来てください(無料です!)。いろいろなタイプがあると思いますが、教会の「ブルースター」は渋いのです。ツボミの時は、渋いピンク、花が咲くと渋いブルーです。微かに花弁の縁はピンクかもしれません。

以前は、「アッツ桜」に感動していましたが(イースター頃に咲くピンクの小花)、今回は、ブルースターにシビレテいます。我が家の花壇にも、いろいろな花が増えてきました。熱帯、亜熱帯系の花ばかりですが、「ハイビスカス(ピンク、イエロー)、ブーゲンビリア(ピンク、レッド?)、台湾レンギョー(水色)、ジャカランタ(まだ咲いていません)、ガジュマル(咲きません)、そして、今回のブルースター」です。
花を造られた神様に感謝します。ハレルヤ!
2019-06-03 10:36:27[投稿番号:115]

今、考えていること
稲沢教会の牧師になること
 最近読んでいた本の中で、ある牧師さんが、「働きが成功したかどうかは、出席者数や献金額だけでなく、人々がどう作り変えられたかによって測るようになりました」と書いていましたが、今、自分は何を目的として牧会しているのだろうと考えるようになりました。出てきた答えは、「教会の皆さんが、御霊と御言葉によって変えられていること」でした。これ以上でも、これ以下でもないはず。
稲沢教会の牧師とされて二年目を迎えましたが、もう一度、牧師とは何か、どんな牧会を大切にしていくのか、あらためて確認させられました。そして、毎日、教会のメンバーの名前を挙げて祈るだけでなく、おひとりおひとりのこと(今の状況、戦い、必要、問題など)を想像しながら、祈るようになりました。「変えられていくこと」を求める牧会なら、当然、まず祈り続けることから始まらなければなりません。

いろいろな問題や課題に囲まれ、その中で学びつつ、教えられながら、やっと、稲沢教会の「二年生牧師」になりつつあるかな、と思うようになりました。ハレルヤ!
2019-05-31 21:09:36[投稿番号:114]

生まれて初めて、伝道トラクトをつくりました!
名前は、「5ステージ」です!
 伝道用のトラクトとして、「四つの法則(CCC),大いなる救い(総動員伝道)、字のない絵本(児童伝道)」などがあります。大学生時代に、「四つの法則」の研修会に参加し、その使い方を教えていただき、それ以来、いろいろな所で使ってきました(最近はあまり使っていませんが)。そして不思議ですが、あの単純な四つの法則が用いられ(?)、これまでに、何人かの方々が信仰決心に導かれました。最近、あらためて四つの法則の内容を見直しましたが、よくできていますね。非常に単純ですが、だれでも使えるような伝道用のトゥールになっています。

さて、最近、これまで学び、考え、教えられてきたことを土台にして、自分なりの伝道用のトラクト(小冊子)を作り、礼拝メッセージで披露しました。礼拝に来られた方々(特にクリスチャンでない方々)がどう思われたか、どれくらい届いたか全く分かりませんが、「永遠のいのちの交わり」を回復させ、この祝福に導こうとしておられる神様の深い愛のみこころが少しでも届くことを願っています。

5ステージの第一は、エデンの園で、天地を創造された神様とチリから造られた人間たちの間に「永遠のいのちの交わり」がある状態です。
第二ステージは、エデンの東(外)で、人間が、自分たちも「神になりたい」と罪を犯し、「永遠のいのちの交わり」を失ってしまった状態です。こうして、エデンの園で与えられていた全ての良い関係はゆがみ、私たち人間は、神様から離れ、罪に罪を繰り返しています。
第三ステージは、エデンの東(外)は同じですが、神様の愛と恵みは失われず、最後に、「永遠のいのちの交わり」を回復するために御子が来てくださり、十字架にかかり、復活してくださった状態です。エデンの園でもっていた「永遠のいのちの交わり」にもどる道(橋)が備えられたのです。
第四は、悔い改めの祈りによって、「すでに」備えられた「永遠のいのちの交わり」に入る恵みの状態です。ただし、「永遠のいのちの交わり」である神の国の完成は「まだ」なので、今は「すでに」と「まだ」の二重の恵みの中にいる状態、御子を信じ御霊に導かれて、御子の再臨まで神の子どもとして歩み続ける状態とも言えます。
第五ステージは、エデンの園の回復、新天新地の始まりです。ここにおいて、「まだ」はなく、すべてが完成して、「永遠のいのちの交わり」を経験している状態です。

実際に準備し、トラクトにしてみて、いろいろな問題や、まだまだ実用的でないことを発見しました。何回か、改訂を重ねて、よりよい実用的なトラクト(伝道用の小冊子)になればと考えています。 ハレルヤ!
2019-05-27 21:02:34[投稿番号:113]

共にみことばを学び、分かち合う喜び
GMYK(黙示録)が終わった!
 きょう、ちょうど「GMYk」が終わりました!「GMYK」とは、「Greekで、黙示録(M)を読む(Y)会(k)」の略で、昨年の4月から月一回、ないしは二回のペースで(主に)牧師さんたち約10人と一緒に学んできました。きょうは、最終回でもあり、ほとんど全員が集まり、黙示録20?22章について学び、考え、分かち合うことができました。段々、GMYKが、J(日本語)MYKになってきましたが。

例えば、?19章から20章へは、時間順に書かれているのか。?「(いわゆる)千年王国理解」をどう考えるか。?20章1?3節のサタンの捕縛はどの程度なのか。?4節の「彼らは生き返って」は、「生きて」ではいけないのか。?不信者も身体をもってよみがえるのか。?21章1節以下の「新天新地」は、今の私たちの世界とどのような関係にあるのか(連続性と非連続性の内容)。?21章24?27節をどのように理解するのか。?22章6節以下の「結び」の構造は何か。。。
とにかく、楽しく、思い思いに考え、分かち合うことができました。

私自身は、話し合い、学び合い、分かち合っている中で、新しく気づかさせられたり、教えられたこともいろいろありました。参加者の教団、教派は違うけれど、それでも、聖書の魅力、神様の御心の素晴らしさや大きさ、黙示録の難しさに魅かれて、自発的に集まり、学ぶことができました。これも、神様の恵みであり、神様が神の子どもたちに与えられた特権の一つであると思いました。すぐに、良い答えが、見つからなくても、神様にあって一つとされている恵みを味わい、分かち合うことができました。

神様に、また参加し、一年、共に学び合うことができた同労者の兄姉に感謝を表したい。こんな交わりの恵みもあるのです。 ハレルヤ!
2019-05-20 20:54:12[投稿番号:112]

『「霊性の神学」とは何か』を読んで
自分自身は分かっているようで分からない!
 最近、『「霊性の神学」とは何か』(篠原明著)を読んだ。全体的な内容や大切にされているポイントなど、私自身も考え、求めていることなので、共感をもって読むことができた(『福音主義神学』「霊性」37号にある通り)。
また、内容豊富で、より新しい情報も含まれていた。本書は、自分自身の霊性について吟味し教えられ、それを深めていくことよりも、より一般的に、「福音主義の霊性」について考えさせるものである。

それでも私自身の霊性について、特に教えられたことが一つあった。それは、「霊的同伴」が必要な理由に関してである(本書109頁以降)。カトリックの霊的指導者であるジャン・グルーのことばが引用されていた。

 自分を神に捧げようと真剣に望む者は、(他の誰かから霊的に)導きを受けることの大切さを十分にわきまえなければならない。なぜなら、最も優れた知恵のある者でも、自分自身の内なる生活には盲目であり、最も聖められていて人を霊的に導くのに適している者でも、敢えて自分自身を導こうなどと思わないからである。

このグルーのことばは本当だろうと思います。よく私たちは、「自分自身のことは自分が一番わかっている」と言いますが、どうも間違いのようです。

特に大切な判断において、私は自分の判断を信じません。すぐには信じないようにしています。なぜなら、たいてい、自分の都合のいいように判断しているからです。疑って、疑って、否定して否定して、最後の最後に、自分自身の判断を信じるようにしています。

「(上記の意味で)自分自身を信じないこと」とともに、「霊的同伴」が必要なようです。神様は毎日の霊的同伴者です。しかしそれだけなら、まだ不十分でしょう。なぜなら、ここで言う「神様」とは、私が解釈している「神様」だからです。それが多いからです。「霊的同伴(者)」について、もう少し考えていきたいと思います。ハレルヤ!
2019-05-09 07:16:55[投稿番号:111]

最近教えられていること
ルカ23章33-43節
 ルカ23章33-34節は、よく知られているところ。ここに、救いの原点がある。

この強盗(A)は、社会貢献ゼロ、善行ゼロ、道徳的行為や模範ゼロ・・・極悪犯だけが十字架刑になるのだから、それまでの生き方から良い面を見つけようとしても難しいだろう。また、もちろん十字架の上で、何か良いことをしようとしても無理であるから、ここにも良いことを見つけることはできない。しかし御子は見つけられ、最後に、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われた。何があったのか。何かよいことをしたというよりも、彼の心の中に何か良い変化が起こったとしか言いようがない。

「パラダイス」は、旧約ギリシャ語聖書に用例があるだけだが、これは、エデンの園とか、主の麗しい園の訳として「パラダイス」が使われている。ここでは、「天の御国」、また、かつてのエデンの園の回復された「主の園」のことであると言ってよいだろう。

この強盗Aに約束された御子の祝福(救い→天国)に、「洗礼」が条件になっていない。・・・だから、「洗礼」はどうでもよいというのではない。これが、救いの絶対条件になっていないということである。では、何が条件か。

標準的な教理とその実際もここにない。「神・罪・十字架復活信仰⇒救いの恵み」はない。この強盗が語った言葉から想像すると、彼には少なくとも、神様への恐れ、自分たちがしたことについての罪認識があったと思われる。あとは、41節後半と42節にみられる、「御子への信頼」である。

私は、教理がどうでもいいと思っていない。大切だし、必要であると思っている。しかしここにおいては、それも明確に表れているとは思わない。ある意味で、不十分と言えるかも。ただ(明確に)あるとしたら、御子に対する心からの信頼である。御子は、これを見て、良しとされ、43節にあることばを語られたのである。

今回、ルカ23章33-43節を読んで教えられたことは、御子に対する信頼の「すべて」(十分性)である。御子は、御子に信頼を置く者を退けられず、その信仰・信頼だけで十分としておられるということである。御子とこの強盗との関係(交わり)の中に、教理を持ち出す必要はないだろう。この信頼(だけ)こそ、永遠の命の交わりであり、永遠の死から永遠のいのちにすでに移っていることを表すものであると言える。

昔も今も、これからも、この信頼、永遠の命の交わりを大切にしていきたい。放蕩息子が父のもとに帰って来て、その前に決めていた「悔い改めのセリフ」を言ったとき、父は、それを聞いたか聞かずか、それさえ、遮るかのようにして、
放蕩息子を「しもべ」ではなく、「息子」として迎え、歓迎する準備を始めている。ここでも、すでに、永遠の命の交わりが始まっている! 

永遠の命の交わりを喜び、大切にする歩みをつづけたい! ハレルヤ!
2019-05-03 07:16:36[投稿番号:110]

イースターを迎えて!
当たり前のことですが、それでも!
 2019年のイースターを迎えて、特に教えられていることがある。第一コリント15章からもわかるように、「御子の十字架」と「御子の復活」は一つである。本質的に一つである。それなのに、最近は、この二つをあまりにも、分けて考えすぎているように思う。「十字架」の恵みだけ、「復活」の恵みだけ、という具合に。

しかし今回イースターを通して、十字架の恵みと復活の恵みを、敢えて分けて考えてみた。十字架の恵みは、神様の愛であり、あわれみである。神様の恵みがあふれている。そこに罪の赦し、罪からの救いの恵みがある。

では、復活の恵みは何か。それは、神様からの、死に対する勝利、栄光、永遠のいのちの恵み、宣教のための勇気や力などである。あらためて、イースターを通して、神様の愛と恵み、あわれみとともに、神様の力、栄光、いのち、喜びが溢れ、備えられていることに気がついた。

私は、復活の恵みのほうを忘れていたのではないか。小さくしすぎていたのではないか、と考えた。確かに、そうである。あらためて、御子の十字架と共に、復活を通して明らかにされ、備えられ、与えられている恵みを知った。ハレルヤ!
2019-04-22 18:05:45[投稿番号:109]