最近ずっと考えていること | 「すでに」と「まだ」という恵みの中で生きている(1) | 「すでに」の恵みと「まだ」の恵みについては、今から30年ほど前に、神学校のクラスで聞いたことばである。それ以来、ずっと忘れられない二つの恵みになっている。
これは、かつては、どちらかというと聖書の学びの中でしばしば考えるテーマであったが、今は、説教準備の中で、さらに今自分が生きている世界の中で非常に身近なこととして考えている。
「すでに」の恵みとは、イエス様を信じたことによって、すでに罪赦され、神の子どもとされ、永遠のいのちを受け、三位一体の神様と交わり、祈り、礼拝し、神の国にあずかっていることである。
「まだ」の恵みとは、神様にあって確かなことを待望する恵みで、終わりの完成の時が来ると、罪の赦しの完成にあずかり、完全に神の子どもとされ、そのように振る舞い生きることになり、永遠のいのちの恵みを完全に体験し、神様と顔と顔を合わせて交わり、祈り、礼拝するようになる。神の国が、まさに私の内外に実現することである。これらを待望しながら今を歩むことができるのが「まだ」の恵みである。
たくさんあって説明しきれないが、今私たちは、「すでに」の恵みと「まだ」の恵みの中に生かされているということである。
さらに「まだ」の恵みに関して、二つのことを最近考えるようになった。「まだ」の恵みには、二つの面がある。一つは、「まだ」なので、確かに「完全」ではないということである。もう一つは、待望する喜びがあるということである。まだ「完全」ではないことを認めることは重大である。これは、「諦め」とまったく違う。なぜなら、待望の恵みが凄いから。しかしまた、私たちは、この世(クリスチャン生活、教会生活、教会)に関して、あとでやってくる神の国の「完全」を求めすぎてはいけないということである。
以前の私は、もっと強く、今の時代の「完全」を主張し、求めていた。しかし、諦めではなく、神様にあって、聖書的に、「まだ」の恵みのゆえに、今の世界において、「完全」を求めすぎてはいけないと思うようになった。本当の「完全」は、後に備えられているからである。そのような神様の御業を信じ、待たなければならない。
今、リバイバルが起こったとしても、ここに「完全」を求めてはいけない。それは、リバイバルはやがて来る天の御国と違うので、しばらくしたら静まり、終わっていくからである。このことは、これまでのリバイバルの歴史が証明している。
このことを考えていたら、ずっと前に「Christianity Today,2004年」に載せられていたJ.ウェスレーの意味深な言葉を思い出した。ずっとずっと忘れていたことばであったが、急に思い出した。それは、「リバイバルが、どうしたら長く継続することができるか私には分からない」という言葉である。
探して探して、やっと見つけた。・・・リバイバルは、ある意味で、神の国の完全が到来したかのように思わせる現象である。しかしそれでも、これは、やがて来る神の国の完全とは違う。そしてどんなに素晴らしいリバイバルや霊的現象でも、長期には続かなかったし、続かないのだ。それは、今は、「まだ」という恵みの中にあるからである。
「すでに」と「まだ」については、ずっと考えている重大なテーマなので、また、後日、続きを書かせていただきたい(続く…)。二つの恵みが十分与えられているので、ハレルヤ! | 2019-07-03 18:52:14[投稿番号:120] |
最近、聖書から教えられた事 | 牧会について | 使徒14章21?23節から…最近、パウロたちの伝道・牧会から教えられたことがある。一つは、「引き返して」信仰のフォローアップをしていることである。これは、15章36節にもある。もう一つは、救われたばかりの弟子たちは、これから「多くの苦しみを経験していく」のであるが、それでも彼らを「信じている主にゆだねた」ことである。
一方で出来る限り、信仰のフォローを続けていくが、それだけでなく、他方で、神様とそのみことば(使徒20:32)に委ねることも重要である。
5月31日のブログで、「信徒のみなさんが、聖霊とみことばによって変えられていく」ことこそ、私の牧会の目的であると書いたが、ここにも、できるかぎり信仰のフォローをしていくことと、しかしまた、神様に全面的にお委ねしていくことがどんなに重大かを教えられる。
時々、バランスをとることは難しい。自分の力と経験に頼ると失敗する。しかし同時に、これは、神様に委ねていると言いながら、何もしないことではない。毎日、一人ひとりのことを祈りながら、一体、自分に何ができるのだろうかと考え、また神様にとりなしのお祈りをつづけている。今必要と思えば、実行する!
きょうも、御霊に満たされ、導かれて、歩んでいこう!ハレルヤ! | 2019-06-27 07:06:13[投稿番号:119] |
「永遠のいのち」のつづき | 御代田で散歩しながら、さらに考えた! | 前回のつづき:
私たちの証しや伝道(宣教)も永遠のいのちと深い関係がある。それは、私たちが証しするとき、伝道するとき、その内容(また究極の目的)は、永遠のいのちの素晴らしさを伝えることになるから。これこそ、神様のみこころであり、願いであると言える。ヨハネの福音書に「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています」(12:50)とある。御子に対する御父の(強い)みこころは、御子が永遠のいのちを語ること、またそのために歩むことだと言える。
私たちは今、御子イエス様とその御業の証人として生かされている。「証人として生きる」ことは、永遠のいのちを喜び、味わい、生きることであり、それを分かち合い、伝えることであると言える。イエス様の十字架と復活が実際にあったことを伝えるだけでない。その意味や目的、結果を伝える必要がある。それが、永遠のいのちであると言える。
朝、御代田で散歩していたら「馬を連れて散歩している外人(?)」と出くわした。挨拶をし、ちょっと話したら、日本語ペラペラの宣教師(の娘)さんであった。本当にびっくり。それからイロイロお話しをして別れた。
・・・それからまた、考えた。キリストの証人として歩むことは、永遠のいのちを伝えるだけでなく、途中でクリスチャンと出会ったら、それをまた、共に分かち合い喜ぶことでもあると。わずかでも、クリスチャンとの交わりは励ましであり、今(すでに)与えられている、永遠のいのちの恵みのひとつである。
さらにさらに、永遠のいのちについて考えていきましょう。ハレルヤ! | 2019-06-22 06:39:29[投稿番号:118] |
今、軽井沢の御代田に来ています! | いつもの生活から少し離れて考えています | 前回の「安息日」の続きにもなりますが、「永遠のいのち」のすばらしさを噛み締めています。また、聖書を読みながら、また誰かの書いたものを読みながら、「永遠のいのち」の視点からさらに考えるようにしています。そしていろいろな発見や確認ができるようになりました。
例えば、神様の創造の目的は、私たち人間に「永遠のいのち」を与えること。御子イエス様がこの世に来られた目的は、罪を犯して「永遠のいのち」を失った私たち人間に「永遠のいのち」を回復すること。
さらに天の御国は、まさに「永遠のいのち」の完成、実現である。だから今の世界はその前の状態で、「すでに」永遠のいのちの恵みをいただいているが、「まだ」、最後の完成の「永遠のいのち」ではないこと。
安息日は、まさに「永遠のいのち」を味わう日であり、教会は「永遠のいのち」に生きる者たちの協働・共同の交わりであり、また歩みの「場」であり、天の御国のひな型である。礼拝も、まさに永遠のいのちを体験する場であり、分かち合い、このいのちを確認するところと言える。
とにかく、聖書が教えるいろいろなことについて、「永遠のいのち」という視点から私たちは考えることができる。
御代田に来るまで、電車で4時間かかったが、その間、読んできたのは、J.I.Packerの「Knowing Man」であったが、その中でパッカーは、人間は「神のかたち」に造られたが、これを構成する5つの要素の内の一つとして、Community(共同体性)、Togetherness(一緒にいること)をあげていた。私たちが、他の人々との交わりに生きることにおいて、真に十分に、人間として生きることができると書いていた。まさに、これは、神様との交わりであり、また神様にあって、他の人々と共に交わることで、「永遠のいのち」のことであると言える。
「まだ」完全ではないが、「すでに」永遠のいのちが与えられていることを喜ぼう!ハレルヤ! | 2019-06-19 15:58:30[投稿番号:117] |
最近、考えていること | 「安息日(日、月)」について | 最近読んでいる本や会話などをきっかけに、もう一度、「安息日」について考えています。牧師にとって安息日は、月曜日です。
私の最近の月曜日の過ごし方は、早朝は、まったくいつもと同じですが、朝食後からは、いつもと少し違います。?火曜日ほとんど一日、二つの神学校に行っていますので、そのクラスの準備をします(特に、ヘブル語は毎回、テスト・クイズをしていますので、その準備が必要です)。?家内と、一週間分の買い物に出かけます(実際には、一週間一回の買い物では足らないので、二回行くことになります)。?家内と、ゆっくり時間を過ごします。
ただ月曜日を「安息日」と考えますと(確かにそうです!)、Doingだけでなく、Beingがもっと必要ではないかと考えるようになりました。特に、神様と交わったり、自分自身について信仰的に点検したりすることです。バランスとして、Doingが多すぎるのではないかと考えます。
さて、本題です。ずっとこのところ、何かにつけ、「永遠のいのち」の祝福について考えていますが、最近、「安息日と永遠のいのち」の間の深い関係について考えるようになりました。「永遠のいのち」は、神様とのより深い交わりですから、正に「安息日」こそ、神様とのより深い交わりを楽しみ、共に歩むことを実践する日になるはずです。さらに安息日は、天の御国の『前味』ですから、確かに、永遠のいのちを喜び、味わい、楽しむことは自然なことであると言えます。
私自身の月曜日の使い方を考えるとき、「永遠の命」の恵み(「すでに」の恵みと「まだ」の恵みと共に)を味わうためには、まだ足りないところがあるのではないかと思うようになりました。一番大切であると言ってよい「永遠のいのち」を、安息日に楽しみ、味わうことについて、考え直し、やり直していく必要があります。これこそが、旧約以来の律法の変わらない、また重大な神様のみこころなのですから、従う必要があります。
また、日曜日を安息日として教会の礼拝に集って来られる信徒の方々のことについても、考えなければなりません。どうしたら、「永遠のいのち」の祝福を味わい、分かち合い、そのうえで、新しい一週間の準備をしてもらうことができるのか。もちろん、礼拝は第一で、永遠のいのちの祝福の起点ですが、その後の、礼拝後の歩みはどうしたらよいのでしょうか。また、土曜日も休みの人はどのように土曜日を使うといいのでしょうか。これはまた、日曜日(安息日)の使い方と無関係ではないでしょう。
今、永遠のいのちにふさわしい安息日(土、日、月)の使い方について考えています。
正直に言いますと、牧師として、初めて安息日の重大性、また祝福の大きさと、その用い方について、考え始めていると言ってよいかもしれません。遅すぎるかもしれませんが、とにかく、考えるようになったので、ハレルヤ! | 2019-06-08 19:36:46[投稿番号:116] |
今、はまっている「花」! | ブルースター | 去年も、チラッと見ましたが、今年も、教会の駐車場の隅っこに、ひとり生えで咲いている「ブルースター」にハマッテいます!感動していたら、家内も、同じ花に感動していることが分かりました(娘も?)。
写真をここに載せたいのですが、このブログは「字」だけのようなので、インターネットで探していただくか、稲沢教会の駐車場まで見に来てください(無料です!)。いろいろなタイプがあると思いますが、教会の「ブルースター」は渋いのです。ツボミの時は、渋いピンク、花が咲くと渋いブルーです。微かに花弁の縁はピンクかもしれません。
以前は、「アッツ桜」に感動していましたが(イースター頃に咲くピンクの小花)、今回は、ブルースターにシビレテいます。我が家の花壇にも、いろいろな花が増えてきました。熱帯、亜熱帯系の花ばかりですが、「ハイビスカス(ピンク、イエロー)、ブーゲンビリア(ピンク、レッド?)、台湾レンギョー(水色)、ジャカランタ(まだ咲いていません)、ガジュマル(咲きません)、そして、今回のブルースター」です。
花を造られた神様に感謝します。ハレルヤ! | 2019-06-03 10:36:27[投稿番号:115] |
今、考えていること | 稲沢教会の牧師になること | 最近読んでいた本の中で、ある牧師さんが、「働きが成功したかどうかは、出席者数や献金額だけでなく、人々がどう作り変えられたかによって測るようになりました」と書いていましたが、今、自分は何を目的として牧会しているのだろうと考えるようになりました。出てきた答えは、「教会の皆さんが、御霊と御言葉によって変えられていること」でした。これ以上でも、これ以下でもないはず。
稲沢教会の牧師とされて二年目を迎えましたが、もう一度、牧師とは何か、どんな牧会を大切にしていくのか、あらためて確認させられました。そして、毎日、教会のメンバーの名前を挙げて祈るだけでなく、おひとりおひとりのこと(今の状況、戦い、必要、問題など)を想像しながら、祈るようになりました。「変えられていくこと」を求める牧会なら、当然、まず祈り続けることから始まらなければなりません。
いろいろな問題や課題に囲まれ、その中で学びつつ、教えられながら、やっと、稲沢教会の「二年生牧師」になりつつあるかな、と思うようになりました。ハレルヤ! | 2019-05-31 21:09:36[投稿番号:114] |
生まれて初めて、伝道トラクトをつくりました! | 名前は、「5ステージ」です! | 伝道用のトラクトとして、「四つの法則(CCC),大いなる救い(総動員伝道)、字のない絵本(児童伝道)」などがあります。大学生時代に、「四つの法則」の研修会に参加し、その使い方を教えていただき、それ以来、いろいろな所で使ってきました(最近はあまり使っていませんが)。そして不思議ですが、あの単純な四つの法則が用いられ(?)、これまでに、何人かの方々が信仰決心に導かれました。最近、あらためて四つの法則の内容を見直しましたが、よくできていますね。非常に単純ですが、だれでも使えるような伝道用のトゥールになっています。
さて、最近、これまで学び、考え、教えられてきたことを土台にして、自分なりの伝道用のトラクト(小冊子)を作り、礼拝メッセージで披露しました。礼拝に来られた方々(特にクリスチャンでない方々)がどう思われたか、どれくらい届いたか全く分かりませんが、「永遠のいのちの交わり」を回復させ、この祝福に導こうとしておられる神様の深い愛のみこころが少しでも届くことを願っています。
5ステージの第一は、エデンの園で、天地を創造された神様とチリから造られた人間たちの間に「永遠のいのちの交わり」がある状態です。
第二ステージは、エデンの東(外)で、人間が、自分たちも「神になりたい」と罪を犯し、「永遠のいのちの交わり」を失ってしまった状態です。こうして、エデンの園で与えられていた全ての良い関係はゆがみ、私たち人間は、神様から離れ、罪に罪を繰り返しています。
第三ステージは、エデンの東(外)は同じですが、神様の愛と恵みは失われず、最後に、「永遠のいのちの交わり」を回復するために御子が来てくださり、十字架にかかり、復活してくださった状態です。エデンの園でもっていた「永遠のいのちの交わり」にもどる道(橋)が備えられたのです。
第四は、悔い改めの祈りによって、「すでに」備えられた「永遠のいのちの交わり」に入る恵みの状態です。ただし、「永遠のいのちの交わり」である神の国の完成は「まだ」なので、今は「すでに」と「まだ」の二重の恵みの中にいる状態、御子を信じ御霊に導かれて、御子の再臨まで神の子どもとして歩み続ける状態とも言えます。
第五ステージは、エデンの園の回復、新天新地の始まりです。ここにおいて、「まだ」はなく、すべてが完成して、「永遠のいのちの交わり」を経験している状態です。
実際に準備し、トラクトにしてみて、いろいろな問題や、まだまだ実用的でないことを発見しました。何回か、改訂を重ねて、よりよい実用的なトラクト(伝道用の小冊子)になればと考えています。 ハレルヤ! | 2019-05-27 21:02:34[投稿番号:113] |
共にみことばを学び、分かち合う喜び | GMYK(黙示録)が終わった! | きょう、ちょうど「GMYk」が終わりました!「GMYK」とは、「Greekで、黙示録(M)を読む(Y)会(k)」の略で、昨年の4月から月一回、ないしは二回のペースで(主に)牧師さんたち約10人と一緒に学んできました。きょうは、最終回でもあり、ほとんど全員が集まり、黙示録20?22章について学び、考え、分かち合うことができました。段々、GMYKが、J(日本語)MYKになってきましたが。
例えば、?19章から20章へは、時間順に書かれているのか。?「(いわゆる)千年王国理解」をどう考えるか。?20章1?3節のサタンの捕縛はどの程度なのか。?4節の「彼らは生き返って」は、「生きて」ではいけないのか。?不信者も身体をもってよみがえるのか。?21章1節以下の「新天新地」は、今の私たちの世界とどのような関係にあるのか(連続性と非連続性の内容)。?21章24?27節をどのように理解するのか。?22章6節以下の「結び」の構造は何か。。。
とにかく、楽しく、思い思いに考え、分かち合うことができました。
私自身は、話し合い、学び合い、分かち合っている中で、新しく気づかさせられたり、教えられたこともいろいろありました。参加者の教団、教派は違うけれど、それでも、聖書の魅力、神様の御心の素晴らしさや大きさ、黙示録の難しさに魅かれて、自発的に集まり、学ぶことができました。これも、神様の恵みであり、神様が神の子どもたちに与えられた特権の一つであると思いました。すぐに、良い答えが、見つからなくても、神様にあって一つとされている恵みを味わい、分かち合うことができました。
神様に、また参加し、一年、共に学び合うことができた同労者の兄姉に感謝を表したい。こんな交わりの恵みもあるのです。 ハレルヤ! | 2019-05-20 20:54:12[投稿番号:112] |
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