今回の奉仕と旅行の恵みから(2)
豊かな交わりが与えられました!
 第一に、神様との交わりが豊かに与えられました。毎日起こる出来事、出会う方々、出かける場所などは違っていましたが、神様との交わりは続きました。朝のディボーションは、飛行機の中だったり、友人宅の居間だったり、孫が寝ているすぐ側であったり、いろいろでしたが、特に、使徒の働き23章11節の「あなたはエルサレムでわたしのことを証したように、ローマでも証しなければならない」は、とても励ましになりました。バンクーバーでも、トロントでも、オハイオ州のダブリンでも、またその後、バンクーバーに戻っても、このみことばによって導かれ、それぞれの所で神様のことをお証することができたと思います。

また、これは、次回お話ししたいと思いますが、旅行に持って行った本がとても良くて、旅行の間もチョコチョコ読みながら、神様との交わりについて、いろいろより深く教えられました。

 第二に、神様との永遠のいのちの交わりに基づきながら、神様にある兄姉との交わりも非常によかったです。30年ぶり、20年ぶり、12年ぶりの兄姉たちとの再会は涙が出るほど素晴らしいものでした。今回で、カナダへの旅は最後になるかもしれないと思い、できるだけ多くの兄姉に会ってきました。8月4日は、三つの教会の礼拝に参加させていただきました。

 バンクーバーでも、トロントでも。また、ダブリンで息子たちが交わっている日本からの兄姉たちともお会いし、初めてなのに、親しいお交わりを経験しました。バンクーバーでは、行方不明かもしれないと言われていた夫妻に会ったり、今、本当に厳しい道を通っておられるとお聞きしていた夫妻とも涙ながらのお交わりをさせていただきました。

 ブログでは書ききれませんが、同じ神様にあって兄姉とされている幸いを豊かに経験、また再確認させていただいた旅となりました。再会が許された兄姉、また初めてお会いした兄姉の名前すべてをここに書きたいくらいですが、止めておきます。・・・とにかく皆さんに感謝いたします。
旅程の全てを守り、導き、また稲沢に戻してくださった神様のみ名を賛美いたします。ハレルヤ!
2019-08-15 18:00:07[投稿番号:126]

2週間余りの旅から戻りました
1:恵みがびっしり詰め込まれた旅でした!
 ほとんど初めてではないかと思うほどの長旅(?)で、二回も稲沢教会の礼拝を留守させていただきました。臨時のご奉仕も含めて、全部で9回の集会奉仕をさせていただきました。いずれも、異なったテーマでのメッセージ(また奨励や証し、学び会)でした。

中部国際⇒成田⇒バンクーバー⇒トロント⇒オハイオ州ダブリン(米国)⇒バンクーバー⇒成田・名古屋という旅程でした。主な理由は、トロントのいくつかの日系教会による修養会のために、講師としてお招きをいただいたからです。また、トロントに行くのであれば、懐かしいバンクーバーに立ち寄りたいとおもいましたし(7年間おりました)、トロントから約1時間離れたコロンバス(ダブリン)に長男一家が住んでおりますので、孫たちにも会いに行くことになりました。

今回、カナダへの旅は、私自身にとって12年ぶりのことで、これで最後の旅になるかもしれないと、できるだけ多くの友人たちに会い、心からの感謝を表したいと思いました。かなりきついスケジュールでしたが、それでも、次々にいろいろな友人たち、また兄弟姉妹たちと会い、神様にある多くの恵みを経験しました。ある人たちとは、約30年ぶり、25年ぶりの再会でした。涙を流し、ハグをして共に感謝しました。

旅の前に恐れていた「忘れ物?」もなく、様々な形の神様の奇跡を経験しました。乗る予定の飛行機が故障しキャンセルになり、飛行機会社が準備したホテルで一夜を過ごさなければならなくなったこと以外、旅はほとんど順調に進みました。

トロントでは、予定の7つの集会をほとんど連続で(7月26-28日)続けることができました。体力的に心配でしたが、稲沢教会で鍛えられていたので、大丈夫でした。観光はほとんどありませんでしたが、トロントの「もみじ」という日系人の老人ホームのようなところと、日系文化センターを訪ね、改めて、日系人の歴史を見せていただきました。また、長男一家(アメリカ)が住んでいる近くに、アーミッシュの人々が住んでいる地域があったので、そこに行くことができたことも嬉しい経験となりました。源流は、宗教改革時代の「再洗礼派」にまで遡りますが、現在の彼らの生活ぶりと信仰に直に触れる貴重な時になりました。

家内とともに、身体が守られ、それぞれの所での、神様にある交わりが祝され、神様とともにずっと歩ませていただきました。大きな大きな恵みに感謝いたします。お祈りを感謝いたします。まずは、簡単な報告です(1)!ハレルヤ!
(まだつづきます⇒2へ)
2019-08-09 06:12:21[投稿番号:125]

朝のいのりから
聖霊の満たされ導かれて・・・
 朝の最初の祈りには、二つの大きな柱があります。一つは、父なる神様を礼拝し、聖なる神様が私の「父」であることを喜ぶことです。もう一つは、きょうの一日を考えながら、どのように歩むか考え、備えて祈ることです。

まず、「聖なる」神様が私の父であること、全知全能をもってすべてを造られた神様が私の父であることを確認します。また「チリ」から造られた者にすぎないのに、御子と御霊によって備えられ、今、まさに「アバ父」と祈り、交わることができることを喜びます。また、三重の愛で取り囲み、三重の恵みで導かれていることを感謝します。

それからこの恵みに立って、?小さなことも大きなことも、そこに神様の御心を求め従って行けるように祈ります。また、?父と子の交わりの中に置かれているので、断続的に瞬間的に、交わり続けて行けるように祈ります。?また愛の父を「心を尽くして・・・」愛していけるように、また愛の父が何よりも愛しておられる隣人を「自分自身のように」愛していけるように祈ります(きょう、誰と会うことになっているかも考えます)。?また、キリストの十字架と復活の証人として歩めるように祈ります。?また、私のお父さんの栄光を表す歩みができるように祈ります。?また全てのことを神様の御手から受けて感謝するように祈ります。そして、10時の祈り、2時の祈り、5時の祈り、8時の祈り・・・と続きます。

しかし振り返ってみると、証しすることは僅かで、愛することも薄く、御父の栄光を表すことも乏しい現実に直面して、がっくりすることがあります。
自分に満たされていては、何も良いものは生まれませんね。。。

私自身の力でできないことこそ、御霊に満たされ、導かれていく必要があることをいやと言うほど教えられます。きょうも、御前に悔い改め、祈ります!

神様は豊かなお方なので、この夏も、皆さんを豊かに導かれますように。
このブログは、しばらくお休みになります。・・・またお会いしましょう!
2019-07-20 15:04:42[投稿番号:124]

最近考えていることから
神様の栄光を表すことについて
 最近考えていることの中で、クリスチャンとして最も大切なことと言える、「神様の栄光を表す」ことについて触れてみたい。

時々、著わされた本の前書きや後書きの最後などに、「soli deo grolia(ただ神に栄光あれ」というラテン語の短文(祈り)を見ることがある。これは、著者が著わした書物がただ神様の栄光のために用いられるようにという祈りのことばである。

またこれは、ウェストミンスター小教理問答の第1問「人の主な目的」についての答えとも一致していて、私たちクリスチャンにとって最も大切なあり方と行動を教えている。
問: 人の主な目的は何ですか。
答: 人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです 。

果たして自分は、毎日の生活において、どこまで、「神様の栄光を表す」ことを意識して歩んでいるか考えるようになった。今まで、考えたことはあったし、このことが最も重要であると思うことはあったが、どこまではっきり意識的に歩んでいたか考えると、それは本当に薄く、足らなかったように思う。あっても、一時的に頭の中で思うだけのことではなかったかと感じる。

あらためて、どのように生きることが、「神様の栄光を表すことになる」のか、またどのように生きることが、「神様の栄光を汚すことになる』のか考えている。また、「神様の栄光、栄光」と言いながら、じつは、自分の栄光や栄誉を追い求めていたことに気づくことがある。
いったい、どのように生きることが、神様の栄光のあらわれになるのか。。。

いろいろ考えていたときに、これまで考えていたある大切なことと「神の栄光」をあらわすこととが繋がった。それは、神様は私の父であり、私はこの神様の子どもであるということである。「神の栄光を表す」と言っても、重要であることはわかっていも、正直に言えば、私にはなかなかピーンと来ない表現であった。どこか遠くの、神学的な表現にすぎないような感じであった。しかし、「私のお父さんの栄光を表す」と言い換えた瞬間に、グッと身近なことばに思えるようになった。「そうだ。私のお父さんを喜び、私のお父さんが喜ばれ、称えられるように歩めがいいのだ」と考えられるようになった。

私の栄光と私の父の栄光と競争する必要はない。子どもは、お父さんの栄光を喜ぶし、お父さんも子どもの栄光を喜んでくださるにちがいない。子どもが、自分の栄光を独り占めにするようなワガママな子どもであってはいけない。悲しい!

まだ、「神様の栄光を表す」ことについて考え始めたにすぎない。しかし、ちょっと言い換えただけなのに、とても身近で分かりやすい表現になった。これからも、「私のお父さんの栄光を表すこと」を求め、また考えていきたい。

先のウェストミンスター小教理問答第一問も、少し変えてみた。
問:人の主な目的は何ですか。
答:人の主な目的は、私の父の栄光をあらわし、永遠に私の父を喜ぶことです 。

まだまだ、ほど遠い道ですが、ハレルヤ!
2019-07-11 21:57:52[投稿番号:123]

最近考えていること(前回、前々回のつづき)
「すでに」と「まだ」の恵み(3)
カナダの神学校で最も影響を受けた先生(ゴードン・フィー)が説明している「すでに」と「まだ」について説明です。

「初期の信者たちは自分たちが真に終末的な民であることを学んだ。彼らは、終わりの初めと終わりの完成との間の時代を生きていた。主の晩餐で、『主が来られるまで主の死』(第一コリント11・26)を告げ知らせ、自分たちが終末的存在であることを祝った。すでに彼らは神の無代価で完全な赦しを知っていたが、まだ完全なものではなかった(ピリピ3・7?14)。すでに死に対する勝利が彼らのものであったが(第一コリント3・22)、まだ死ぬ者であった(ピリピ3・20?21)。すでに彼らは御霊によって生きていたが、まだサタンの攻撃のある世界で生きていた(例えば、ガラテヤ5・16?26)。すでに彼らは義とされ、咎めのないものとされていたが(ローマ8・1)、まだ将来的な裁きは残っていた(第二コリント5・10)。彼らは神にある将来の民で、将来によって条件付けられていた。彼らは、その価値を知り、その価値に基づいて生きる者であった。しかし彼らは(私たちも)なお、今の世界において、その益や価値に生きなければならなかった。…新約の多く、特に御子の御業と教えに対する解釈学的カギは、このような緊張関係の中に見出すことができる」(Fee & Stuart 120?121頁からの引用)。

これは、今、私たちがどこに立っているのか、また「すでに」と「まだ」の緊張関係の中を歩んでいることを教える、大切な文です。

「ブログ」が、独り言ではなくなってきていますので、またいつもの「ブログ」に戻りたいと思います。「すでに」と「まだ」の恵みがあるので、ハレルヤ!
2019-07-05 18:15:00[投稿番号:122]

最近考えていること(前回のつづき)
「すでに」と「まだ」の恵み(2)
 15年前に書いた『ワーダン・スピリットの会』会報10号に以下のように書いた。

・・・最近のChristianity Today誌(2004、September)にあったフィリプ・ヤンシーのコラムからその一部を引用して終わりたいと思います。ヤンシーは、イスラエルの歴史においても、これまでのキリスト教会の歴史の中でも、経済的繁栄や社会的安定によって、いつも生まれてくる霊的な堕落や社会的退廃という「神を忘れるサイクル」に注目しています。そして、その中でウェスレーの次の言葉を引用しています。「リバイバルが、どうしたら長く継続することができるか私には分からない。」私たち(私も)は、リバイバルが起こることと、それが永遠に継続することを願っています。しかし聖書の歴史も、そのあとの私たちの歴史も証言していることを、もう一度真摯に考えなければならないと思います。「リバイバルは長く続くものではないらしい。」ブルームハルトのときも、エドワーズのときもそうでした(確かに、後の時代のために、偉大で素晴らしい影響を与えてくれましたが)。私たちは、今どんなリバイバルを願い祈っているでしょうか。世の終わりが近いので、私たちの時代のリバイバルは「最後の大リバイバル」だから、途中で無くなってしまうことなく、そのまま「神の国の完成」に至ると考えているのでしょうか。私もリバイバル渇望者の一人ですが、ブルームハルトの言葉と、二人のリバイバル体験と、その終わりと限界を通して、リバイバルやその他の聖霊の働き(特別な働きについても、そうでなくても)についてより現実的な見方をするようになったことも確かです。・・・

この文章は、ヨハン・クリストフ・ブルームハルト(ドイツ)とジョナサン・エドワーズ(アメリカ)が、それぞれ経験したと言われる「リバイバル」を比較し、類似点と相違点についてまとめた後で、最後に書いた文章です。

とても懐かしい文章ですが、今でも、真の「リバイバル」を求めていることに変わりはありません。ハレルヤ!
2019-07-05 18:01:41[投稿番号:121]

最近ずっと考えていること
「すでに」と「まだ」という恵みの中で生きている(1)
 「すでに」の恵みと「まだ」の恵みについては、今から30年ほど前に、神学校のクラスで聞いたことばである。それ以来、ずっと忘れられない二つの恵みになっている。

これは、かつては、どちらかというと聖書の学びの中でしばしば考えるテーマであったが、今は、説教準備の中で、さらに今自分が生きている世界の中で非常に身近なこととして考えている。

「すでに」の恵みとは、イエス様を信じたことによって、すでに罪赦され、神の子どもとされ、永遠のいのちを受け、三位一体の神様と交わり、祈り、礼拝し、神の国にあずかっていることである。
「まだ」の恵みとは、神様にあって確かなことを待望する恵みで、終わりの完成の時が来ると、罪の赦しの完成にあずかり、完全に神の子どもとされ、そのように振る舞い生きることになり、永遠のいのちの恵みを完全に体験し、神様と顔と顔を合わせて交わり、祈り、礼拝するようになる。神の国が、まさに私の内外に実現することである。これらを待望しながら今を歩むことができるのが「まだ」の恵みである。

たくさんあって説明しきれないが、今私たちは、「すでに」の恵みと「まだ」の恵みの中に生かされているということである。

さらに「まだ」の恵みに関して、二つのことを最近考えるようになった。「まだ」の恵みには、二つの面がある。一つは、「まだ」なので、確かに「完全」ではないということである。もう一つは、待望する喜びがあるということである。まだ「完全」ではないことを認めることは重大である。これは、「諦め」とまったく違う。なぜなら、待望の恵みが凄いから。しかしまた、私たちは、この世(クリスチャン生活、教会生活、教会)に関して、あとでやってくる神の国の「完全」を求めすぎてはいけないということである。

以前の私は、もっと強く、今の時代の「完全」を主張し、求めていた。しかし、諦めではなく、神様にあって、聖書的に、「まだ」の恵みのゆえに、今の世界において、「完全」を求めすぎてはいけないと思うようになった。本当の「完全」は、後に備えられているからである。そのような神様の御業を信じ、待たなければならない。

今、リバイバルが起こったとしても、ここに「完全」を求めてはいけない。それは、リバイバルはやがて来る天の御国と違うので、しばらくしたら静まり、終わっていくからである。このことは、これまでのリバイバルの歴史が証明している。

このことを考えていたら、ずっと前に「Christianity Today,2004年」に載せられていたJ.ウェスレーの意味深な言葉を思い出した。ずっとずっと忘れていたことばであったが、急に思い出した。それは、「リバイバルが、どうしたら長く継続することができるか私には分からない」という言葉である。

探して探して、やっと見つけた。・・・リバイバルは、ある意味で、神の国の完全が到来したかのように思わせる現象である。しかしそれでも、これは、やがて来る神の国の完全とは違う。そしてどんなに素晴らしいリバイバルや霊的現象でも、長期には続かなかったし、続かないのだ。それは、今は、「まだ」という恵みの中にあるからである。

「すでに」と「まだ」については、ずっと考えている重大なテーマなので、また、後日、続きを書かせていただきたい(続く…)。二つの恵みが十分与えられているので、ハレルヤ!
2019-07-03 18:52:14[投稿番号:120]

最近、聖書から教えられた事
牧会について
 使徒14章21?23節から…最近、パウロたちの伝道・牧会から教えられたことがある。一つは、「引き返して」信仰のフォローアップをしていることである。これは、15章36節にもある。もう一つは、救われたばかりの弟子たちは、これから「多くの苦しみを経験していく」のであるが、それでも彼らを「信じている主にゆだねた」ことである。

一方で出来る限り、信仰のフォローを続けていくが、それだけでなく、他方で、神様とそのみことば(使徒20:32)に委ねることも重要である。
5月31日のブログで、「信徒のみなさんが、聖霊とみことばによって変えられていく」ことこそ、私の牧会の目的であると書いたが、ここにも、できるかぎり信仰のフォローをしていくことと、しかしまた、神様に全面的にお委ねしていくことがどんなに重大かを教えられる。

時々、バランスをとることは難しい。自分の力と経験に頼ると失敗する。しかし同時に、これは、神様に委ねていると言いながら、何もしないことではない。毎日、一人ひとりのことを祈りながら、一体、自分に何ができるのだろうかと考え、また神様にとりなしのお祈りをつづけている。今必要と思えば、実行する!

きょうも、御霊に満たされ、導かれて、歩んでいこう!ハレルヤ!
2019-06-27 07:06:13[投稿番号:119]

「永遠のいのち」のつづき
御代田で散歩しながら、さらに考えた!
 前回のつづき:
私たちの証しや伝道(宣教)も永遠のいのちと深い関係がある。それは、私たちが証しするとき、伝道するとき、その内容(また究極の目的)は、永遠のいのちの素晴らしさを伝えることになるから。これこそ、神様のみこころであり、願いであると言える。ヨハネの福音書に「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています」(12:50)とある。御子に対する御父の(強い)みこころは、御子が永遠のいのちを語ること、またそのために歩むことだと言える。

私たちは今、御子イエス様とその御業の証人として生かされている。「証人として生きる」ことは、永遠のいのちを喜び、味わい、生きることであり、それを分かち合い、伝えることであると言える。イエス様の十字架と復活が実際にあったことを伝えるだけでない。その意味や目的、結果を伝える必要がある。それが、永遠のいのちであると言える。

朝、御代田で散歩していたら「馬を連れて散歩している外人(?)」と出くわした。挨拶をし、ちょっと話したら、日本語ペラペラの宣教師(の娘)さんであった。本当にびっくり。それからイロイロお話しをして別れた。

・・・それからまた、考えた。キリストの証人として歩むことは、永遠のいのちを伝えるだけでなく、途中でクリスチャンと出会ったら、それをまた、共に分かち合い喜ぶことでもあると。わずかでも、クリスチャンとの交わりは励ましであり、今(すでに)与えられている、永遠のいのちの恵みのひとつである。

さらにさらに、永遠のいのちについて考えていきましょう。ハレルヤ!
2019-06-22 06:39:29[投稿番号:118]