秋に向かって・・・ | 今、やっていること、考えていること? | 9月に入り、これからの四か月間、どのようにあるべきか、どのように行動していくべきか考えています。身体的には確実に歳をとっています。先日、久しぶりに、自転車に乗りました。何年も乗っていなかったというだけでなく、手が震えてチャンと乗れず、冷や冷やしながら駅から教会まで帰ってきました。これは、おそらく、手の震え(本態性震戦?)と連動していると思います。
今まで当たり前にやっていたことができなくなっているという事実に直面して愕然としました。字も書けなくなってきました。ただ、コンピューターは普通に使えますし、車の運転も問題はありません(ハレルヤ!)。書くことは、ほとんど家内に頼んでいます。
年齢が進み、少しずつ保守的になり、行動範囲も、思考能力(範囲)も狭くなってきているかもしれません。この夏、12年ぶりにカナダとアメリカに行きましたが、かなりの決心と力が必要になりました。ご奉仕で呼ばれましたので決心がついたと言えます。ただ、そのおかげで、少し自信がついて、もう少し行動的に歩もうと思うようになったかもしれません。
今、考えやっていることは次のことです。*「ヘブル語で伝道者の書を読む会(HDYK)」の準備をしています(これで2回目です)。*9月16日の祝日に、「一日ディボーション研修」を企画し、教会、教団内外の皆さんに呼びかけています。*伝道トラクト「ファイブ・ステージ」の改訂をしています。いつか、これをもちいるための研修会を開きたいと準備をしています。*毎週火曜日のセミナリーデイが始まりました、午前はCBSでヘブル語クラス、午後は、TBSでヘブル語と聖霊論のクラスを担当しています(火曜日の夕方は、ヘトヘトです)。*10月15日から教会の有志のみなさんたち(8人)と、韓国(観光とオンヌリ教会集会参加)に行く準備をしています。*メダカを飼っていますが増えて来たので、水槽を大きくすることを考えています。*先週から、ハングルの学びを再開しました。*また、生活のリズムとして、毎日一時間、勉強時間をとる決心をしました(ずっとそうでしたが最近、さぼり気味だったので)。*毎週の私の安息日に、神様との交わりを深めるための特別な時間を確保するために、本を買ってきました。たぶん、よい本だろうと思います。『情緒的に健康な教会をめざして』(キャロザース著)です。*「ファイブ・ステージ」が終われば、今度は、『聖霊に満たされ導かれて』という本を書くか、DVDの準備をしたいと願っています。
皆さん、今、ディボーションテキストの『マナ』(9月号)をお読みください。発売中です。黙示録全体(22回分)をディボーショナルに読むために執筆させていただきました。
今、やっていることをいろいろ書いてみました。焦っているのでしょうか。神様が、天に呼んでくださるときが近いと感じたからでしょうか。クリスチャン新聞に、佐竹十喜雄先生がアメリカの家族訪問中に体調をくずされ、そのまま召されたことが書かれていました。なにか、身近なことのように感じました。
今朝、「お祈り散歩」をしながら、神様に祈りました。神様にもっと近づきたい、神様との交わりがもっとふかめられるように。この世界で、いろいろ迷いながら、いろいろ行動しながら、しかし何よりも、神様と共により近く、より深く歩ませていただきたいのです。すでに、「子とする御霊」が内住しておられるのですから。ハレルヤ! | 2019-09-05 07:31:31[投稿番号:129] |
今回の奉仕と旅行の恵みから(4) | おまけ…アーミッシュの人々 | 今回の旅行で、一つだけ観光をした。息子たちが住んでいるオハイオ州ダブリンの近くにアーミッシュの人々が住んでいるところがあると聞いて、連れて行ってもらった。
歴史的に言えば、彼らは16世紀の再洗礼派から始まり、迫害を逃れてオランダに移り、メノナイト派と呼ばれ、さらにドイツやスイスからアメリカに移住した人々の群れである。「アマン(?)」と言うリーダー名から、アーミッシュという名が付いたらしい。初めは、主にペンシルベニア州にいたが、その後、カナダも含め、隣州のオハイオ州などにも広がっていった。
とにかく、以前NHKで放映されていた『大草原の小さな家』を思わせるように建物や人々の生活ぶりがそのまま存在しているという感じであった。自動車は使わない。移動手段は、自転車と馬車である。一般的な電気は使わないが、水力・風力からの電気は使っている。なぜか、台所などでは、ガス(?)もあった。
部落や家によって、現代文明をどれくらい利用するかという判断が異なり、多様な変化や展開もあるようだ。
大草原の真っただ中を走り、何キロもトウモロコシ畑が続いていた。まさに、アメリカの広さ、多様性、また現存するアメリカの昔、キリスト教の歴史に触れることができ、とても感動する旅となった。
今、私の机の上(ほとんど真正面)に、アーミッシュの子どもたち(?)が馬車に乗って一本の道を畑に出かける(または畑から帰宅する)様子を写した写真が立てかけてある。これは、とても美しい、味のあるお気に入りの写真である。
たくさんの人々との出会いと交わりに感謝するとともに、このような旅が与えられたことを神様に感謝します。ハレルヤ! | 2019-08-26 07:08:44[投稿番号:128] |
今回の奉仕と両行の恵みから(3) | 旅行中に読んだ本から・・・ | 旅行するときには、必ず本をもっていく。今回の旅にも、5-6冊持って行った。一冊は、これから礼拝メッセージにおいて「救済論」の学びをするので、参考になればと思って、マイケル・グリーンの『The Meaning of Salvation』をもって行った。走り読みしかできなかったが、旧約時代の「救い」について、よい説明があるのを見つけた。その一つは、旧約時代にも、「○○からの救い」だけでなく、「○○への救い」があるという指摘である。
二冊目は、マックス・ルケードの『イエスのように』である。これは、古本で買ったが、もとの値段より高かったので(2000円)、「ムム!」と思ったが、本当に価値のある本であった。信じた後の私たちがどのように、何に向かって成長していくべきか、率直に、またいろいろな楽しいストーリーを交えながら、説明していた。読みやすくて、非常に納得のいく本であった。
三冊目は、『情緒的に健康なリーダー・信徒を目指して』(スキャゼロ著)である。これは、教団牧師会の中のスモールグループで分かち合っていくことになったテキストである。全体で600頁近くあり、1章がながいので、なかなか読めないでいたが、良さそうな本だったので旅に持っていくことにした。飛行機の中など、集中できそうなときに、長い長い各章を集中的に読むことができた。本当に集中しないと読めない内容であるが、これも読む価値のある、本当に教えられることの多かった書である。教団で必読書として指定されなかったら、読まなかったかもしれない。本当に感謝した。稲沢教会の読書会で使用している『賢者の生活リズム』(シゲマツ著)とも、内容的に重なる、トップランクの書になるだろう。個人的には、この本の背表紙に「三ッ星」をつけた。
四冊目は、同じスキャゼロ著の『Emotionally Healthy Spirituality』である。これは、最近出版されたもので(2014年⇒増補版:2017年)、前の書をさらに進め、まとめ、より実践的に、真の霊性をもとめるものである。これも、お薦めの書である。たぶん、日本語に翻訳されると思います。スキャゼロの書いたものが非常によいので、他の書も今、集めています。『情緒的に健康な教会をめざして」も、すでに翻訳出版されていましたので、注文しました。
とにかく、これらの書を通して、神様との交わりが点検され、深められたと思っています。このような書が出版されていることは恵みです。本当に感謝しました。皆さんも、どうぞお読みください。ハレルヤ! | 2019-08-20 07:26:10[投稿番号:127] |
今回の奉仕と旅行の恵みから(2) | 豊かな交わりが与えられました! | 第一に、神様との交わりが豊かに与えられました。毎日起こる出来事、出会う方々、出かける場所などは違っていましたが、神様との交わりは続きました。朝のディボーションは、飛行機の中だったり、友人宅の居間だったり、孫が寝ているすぐ側であったり、いろいろでしたが、特に、使徒の働き23章11節の「あなたはエルサレムでわたしのことを証したように、ローマでも証しなければならない」は、とても励ましになりました。バンクーバーでも、トロントでも、オハイオ州のダブリンでも、またその後、バンクーバーに戻っても、このみことばによって導かれ、それぞれの所で神様のことをお証することができたと思います。
また、これは、次回お話ししたいと思いますが、旅行に持って行った本がとても良くて、旅行の間もチョコチョコ読みながら、神様との交わりについて、いろいろより深く教えられました。
第二に、神様との永遠のいのちの交わりに基づきながら、神様にある兄姉との交わりも非常によかったです。30年ぶり、20年ぶり、12年ぶりの兄姉たちとの再会は涙が出るほど素晴らしいものでした。今回で、カナダへの旅は最後になるかもしれないと思い、できるだけ多くの兄姉に会ってきました。8月4日は、三つの教会の礼拝に参加させていただきました。
バンクーバーでも、トロントでも。また、ダブリンで息子たちが交わっている日本からの兄姉たちともお会いし、初めてなのに、親しいお交わりを経験しました。バンクーバーでは、行方不明かもしれないと言われていた夫妻に会ったり、今、本当に厳しい道を通っておられるとお聞きしていた夫妻とも涙ながらのお交わりをさせていただきました。
ブログでは書ききれませんが、同じ神様にあって兄姉とされている幸いを豊かに経験、また再確認させていただいた旅となりました。再会が許された兄姉、また初めてお会いした兄姉の名前すべてをここに書きたいくらいですが、止めておきます。・・・とにかく皆さんに感謝いたします。
旅程の全てを守り、導き、また稲沢に戻してくださった神様のみ名を賛美いたします。ハレルヤ! | 2019-08-15 18:00:07[投稿番号:126] |
2週間余りの旅から戻りました | 1:恵みがびっしり詰め込まれた旅でした! | ほとんど初めてではないかと思うほどの長旅(?)で、二回も稲沢教会の礼拝を留守させていただきました。臨時のご奉仕も含めて、全部で9回の集会奉仕をさせていただきました。いずれも、異なったテーマでのメッセージ(また奨励や証し、学び会)でした。
中部国際⇒成田⇒バンクーバー⇒トロント⇒オハイオ州ダブリン(米国)⇒バンクーバー⇒成田・名古屋という旅程でした。主な理由は、トロントのいくつかの日系教会による修養会のために、講師としてお招きをいただいたからです。また、トロントに行くのであれば、懐かしいバンクーバーに立ち寄りたいとおもいましたし(7年間おりました)、トロントから約1時間離れたコロンバス(ダブリン)に長男一家が住んでおりますので、孫たちにも会いに行くことになりました。
今回、カナダへの旅は、私自身にとって12年ぶりのことで、これで最後の旅になるかもしれないと、できるだけ多くの友人たちに会い、心からの感謝を表したいと思いました。かなりきついスケジュールでしたが、それでも、次々にいろいろな友人たち、また兄弟姉妹たちと会い、神様にある多くの恵みを経験しました。ある人たちとは、約30年ぶり、25年ぶりの再会でした。涙を流し、ハグをして共に感謝しました。
旅の前に恐れていた「忘れ物?」もなく、様々な形の神様の奇跡を経験しました。乗る予定の飛行機が故障しキャンセルになり、飛行機会社が準備したホテルで一夜を過ごさなければならなくなったこと以外、旅はほとんど順調に進みました。
トロントでは、予定の7つの集会をほとんど連続で(7月26-28日)続けることができました。体力的に心配でしたが、稲沢教会で鍛えられていたので、大丈夫でした。観光はほとんどありませんでしたが、トロントの「もみじ」という日系人の老人ホームのようなところと、日系文化センターを訪ね、改めて、日系人の歴史を見せていただきました。また、長男一家(アメリカ)が住んでいる近くに、アーミッシュの人々が住んでいる地域があったので、そこに行くことができたことも嬉しい経験となりました。源流は、宗教改革時代の「再洗礼派」にまで遡りますが、現在の彼らの生活ぶりと信仰に直に触れる貴重な時になりました。
家内とともに、身体が守られ、それぞれの所での、神様にある交わりが祝され、神様とともにずっと歩ませていただきました。大きな大きな恵みに感謝いたします。お祈りを感謝いたします。まずは、簡単な報告です(1)!ハレルヤ!
(まだつづきます⇒2へ) | 2019-08-09 06:12:21[投稿番号:125] |
朝のいのりから | 聖霊の満たされ導かれて・・・ | 朝の最初の祈りには、二つの大きな柱があります。一つは、父なる神様を礼拝し、聖なる神様が私の「父」であることを喜ぶことです。もう一つは、きょうの一日を考えながら、どのように歩むか考え、備えて祈ることです。
まず、「聖なる」神様が私の父であること、全知全能をもってすべてを造られた神様が私の父であることを確認します。また「チリ」から造られた者にすぎないのに、御子と御霊によって備えられ、今、まさに「アバ父」と祈り、交わることができることを喜びます。また、三重の愛で取り囲み、三重の恵みで導かれていることを感謝します。
それからこの恵みに立って、?小さなことも大きなことも、そこに神様の御心を求め従って行けるように祈ります。また、?父と子の交わりの中に置かれているので、断続的に瞬間的に、交わり続けて行けるように祈ります。?また愛の父を「心を尽くして・・・」愛していけるように、また愛の父が何よりも愛しておられる隣人を「自分自身のように」愛していけるように祈ります(きょう、誰と会うことになっているかも考えます)。?また、キリストの十字架と復活の証人として歩めるように祈ります。?また、私のお父さんの栄光を表す歩みができるように祈ります。?また全てのことを神様の御手から受けて感謝するように祈ります。そして、10時の祈り、2時の祈り、5時の祈り、8時の祈り・・・と続きます。
しかし振り返ってみると、証しすることは僅かで、愛することも薄く、御父の栄光を表すことも乏しい現実に直面して、がっくりすることがあります。
自分に満たされていては、何も良いものは生まれませんね。。。
私自身の力でできないことこそ、御霊に満たされ、導かれていく必要があることをいやと言うほど教えられます。きょうも、御前に悔い改め、祈ります!
神様は豊かなお方なので、この夏も、皆さんを豊かに導かれますように。
このブログは、しばらくお休みになります。・・・またお会いしましょう! | 2019-07-20 15:04:42[投稿番号:124] |
最近考えていることから | 神様の栄光を表すことについて | 最近考えていることの中で、クリスチャンとして最も大切なことと言える、「神様の栄光を表す」ことについて触れてみたい。
時々、著わされた本の前書きや後書きの最後などに、「soli deo grolia(ただ神に栄光あれ」というラテン語の短文(祈り)を見ることがある。これは、著者が著わした書物がただ神様の栄光のために用いられるようにという祈りのことばである。
またこれは、ウェストミンスター小教理問答の第1問「人の主な目的」についての答えとも一致していて、私たちクリスチャンにとって最も大切なあり方と行動を教えている。
問: 人の主な目的は何ですか。
答: 人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです 。
果たして自分は、毎日の生活において、どこまで、「神様の栄光を表す」ことを意識して歩んでいるか考えるようになった。今まで、考えたことはあったし、このことが最も重要であると思うことはあったが、どこまではっきり意識的に歩んでいたか考えると、それは本当に薄く、足らなかったように思う。あっても、一時的に頭の中で思うだけのことではなかったかと感じる。
あらためて、どのように生きることが、「神様の栄光を表すことになる」のか、またどのように生きることが、「神様の栄光を汚すことになる』のか考えている。また、「神様の栄光、栄光」と言いながら、じつは、自分の栄光や栄誉を追い求めていたことに気づくことがある。
いったい、どのように生きることが、神様の栄光のあらわれになるのか。。。
いろいろ考えていたときに、これまで考えていたある大切なことと「神の栄光」をあらわすこととが繋がった。それは、神様は私の父であり、私はこの神様の子どもであるということである。「神の栄光を表す」と言っても、重要であることはわかっていも、正直に言えば、私にはなかなかピーンと来ない表現であった。どこか遠くの、神学的な表現にすぎないような感じであった。しかし、「私のお父さんの栄光を表す」と言い換えた瞬間に、グッと身近なことばに思えるようになった。「そうだ。私のお父さんを喜び、私のお父さんが喜ばれ、称えられるように歩めがいいのだ」と考えられるようになった。
私の栄光と私の父の栄光と競争する必要はない。子どもは、お父さんの栄光を喜ぶし、お父さんも子どもの栄光を喜んでくださるにちがいない。子どもが、自分の栄光を独り占めにするようなワガママな子どもであってはいけない。悲しい!
まだ、「神様の栄光を表す」ことについて考え始めたにすぎない。しかし、ちょっと言い換えただけなのに、とても身近で分かりやすい表現になった。これからも、「私のお父さんの栄光を表すこと」を求め、また考えていきたい。
先のウェストミンスター小教理問答第一問も、少し変えてみた。
問:人の主な目的は何ですか。
答:人の主な目的は、私の父の栄光をあらわし、永遠に私の父を喜ぶことです 。
まだまだ、ほど遠い道ですが、ハレルヤ! | 2019-07-11 21:57:52[投稿番号:123] |
最近考えていること(前回、前々回のつづき) | 「すでに」と「まだ」の恵み(3) | カナダの神学校で最も影響を受けた先生(ゴードン・フィー)が説明している「すでに」と「まだ」について説明です。
「初期の信者たちは自分たちが真に終末的な民であることを学んだ。彼らは、終わりの初めと終わりの完成との間の時代を生きていた。主の晩餐で、『主が来られるまで主の死』(第一コリント11・26)を告げ知らせ、自分たちが終末的存在であることを祝った。すでに彼らは神の無代価で完全な赦しを知っていたが、まだ完全なものではなかった(ピリピ3・7?14)。すでに死に対する勝利が彼らのものであったが(第一コリント3・22)、まだ死ぬ者であった(ピリピ3・20?21)。すでに彼らは御霊によって生きていたが、まだサタンの攻撃のある世界で生きていた(例えば、ガラテヤ5・16?26)。すでに彼らは義とされ、咎めのないものとされていたが(ローマ8・1)、まだ将来的な裁きは残っていた(第二コリント5・10)。彼らは神にある将来の民で、将来によって条件付けられていた。彼らは、その価値を知り、その価値に基づいて生きる者であった。しかし彼らは(私たちも)なお、今の世界において、その益や価値に生きなければならなかった。…新約の多く、特に御子の御業と教えに対する解釈学的カギは、このような緊張関係の中に見出すことができる」(Fee & Stuart 120?121頁からの引用)。
これは、今、私たちがどこに立っているのか、また「すでに」と「まだ」の緊張関係の中を歩んでいることを教える、大切な文です。
「ブログ」が、独り言ではなくなってきていますので、またいつもの「ブログ」に戻りたいと思います。「すでに」と「まだ」の恵みがあるので、ハレルヤ! | 2019-07-05 18:15:00[投稿番号:122] |
最近考えていること(前回のつづき) | 「すでに」と「まだ」の恵み(2) | 15年前に書いた『ワーダン・スピリットの会』会報10号に以下のように書いた。
・・・最近のChristianity Today誌(2004、September)にあったフィリプ・ヤンシーのコラムからその一部を引用して終わりたいと思います。ヤンシーは、イスラエルの歴史においても、これまでのキリスト教会の歴史の中でも、経済的繁栄や社会的安定によって、いつも生まれてくる霊的な堕落や社会的退廃という「神を忘れるサイクル」に注目しています。そして、その中でウェスレーの次の言葉を引用しています。「リバイバルが、どうしたら長く継続することができるか私には分からない。」私たち(私も)は、リバイバルが起こることと、それが永遠に継続することを願っています。しかし聖書の歴史も、そのあとの私たちの歴史も証言していることを、もう一度真摯に考えなければならないと思います。「リバイバルは長く続くものではないらしい。」ブルームハルトのときも、エドワーズのときもそうでした(確かに、後の時代のために、偉大で素晴らしい影響を与えてくれましたが)。私たちは、今どんなリバイバルを願い祈っているでしょうか。世の終わりが近いので、私たちの時代のリバイバルは「最後の大リバイバル」だから、途中で無くなってしまうことなく、そのまま「神の国の完成」に至ると考えているのでしょうか。私もリバイバル渇望者の一人ですが、ブルームハルトの言葉と、二人のリバイバル体験と、その終わりと限界を通して、リバイバルやその他の聖霊の働き(特別な働きについても、そうでなくても)についてより現実的な見方をするようになったことも確かです。・・・
この文章は、ヨハン・クリストフ・ブルームハルト(ドイツ)とジョナサン・エドワーズ(アメリカ)が、それぞれ経験したと言われる「リバイバル」を比較し、類似点と相違点についてまとめた後で、最後に書いた文章です。
とても懐かしい文章ですが、今でも、真の「リバイバル」を求めていることに変わりはありません。ハレルヤ! | 2019-07-05 18:01:41[投稿番号:121] |
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