今年さいごの祈り
何をもって?
「何をもって、私は【主】の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のささげ物、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。【主】は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の背きのために、私の長子を、私のたましいの罪のために、胎の実を献げるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、【主】があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」ミカ6:6?8

元旦礼拝のメッセージ準備をしながら、心に浮かんだことは、「何をもって、主の前に行くべきか」でした。その答えは、ただ「・・・へりくだって、あなたの神とともに歩むこと」でした。感謝します!

新しい一年において、何が起こるでしょうか。不安材料はいろいろありますが、誰も何も分かりません。ただ、神様が、「何?」ではなく、「ともに歩みなさい」、と言っておられるようです。

また、再献身の恵みをいただいて、「キリストに満たされ、御霊によって」、神様とともに歩んで行きたいと思います。

新しい年も、皆様お一人おひとりの上に神様の豊かな臨在と導きがございますように。一年、共に歩んでくださり、感謝いたします。 ハレルヤ!
2019-12-31 11:49:05[投稿番号:144]

クリスマスおめでとうございます!
2019年のクリスマスを迎えて
 クリスマスおめでとうございます。昨日、クリスマス礼拝と祝会がおわりました。2019年のクリスマスは、個人的にも特別でした。あらためて、救いのために御子イエス様が来られたことを喜んでいます。昨日の礼拝でも、そのことをお話ししました(この前から、Youtubeでのライブ放送が、動画で始まりましたので毎回、緊張感があります。例えば、変なことを言ったら、口がすべっても、その瞬間、全世界の隅々まで映像が飛んでいくので、取り返しがつかなくなるという問題があります)。

あとは、24日のキャンドルサービスで、ショートメッセージをさせていただくと、年末感謝礼拝、元旦礼拝、新年礼拝と移っていきます。早(速)いですね。。。今年もアッという間に終わり、あたらしい年を迎えることになります。

先ほどまで月曜日の安息時間として、もう一度、『情緒的に健康な教会をめざして』を読んでいました。教えられることが多い本です。一度読んでも忘れるので、また感動をもって読むことができます。一回目読んだときには気づかなかったことに気づいて驚くこともあります。良書がたくさんありますね。これらによっても、確かに育てられてきたと思っています。

前回のブログで書きました『黙示録の読み方と実際』ができました。このホームページの「出版案内」でも紹介する予定です。意外と早く準備ができました。今度は、本丸の『聖霊の満たされ導かれて』をどのように準備し、まとめ、どんな形で公けしていくかです。しばらくは祈りながら、考えていきたいと思います。メッセージの形にしたら、たぶん、5回分は必要になるでしょう。

年末年始にかけて、与えられている課題がいくつかありますが、祈りつつ、集中して準備していきたいと思っています。皆様にとって、豊かなクリスマス、豊かな年末年始となりますように。ハレルヤ!
2019-12-23 09:12:11[投稿番号:143]

最近の状況から
クリスマスおめでとうございます!
 クリスマス・アドベント第三週を迎えました。今度の主日には、クリスマス礼拝、午後にクリスマス祝会、そして24日の夜には、キャンドルサービスをする予定です。クリスマスの祝福をもっと稲沢の方々にお伝えしたいです。今週は、チラシをもって家々を巡りたいと思っています。皆様のクリスマスの上にも、神様の豊かな祝福と導きがございますように。

個人伝道のための福音トラクト『ファイブ・ステージ:永遠のいのちへの道』が、ほぼ完成しました。これは、神様が私たちのために備えてくださった永遠のいのち(その交わり)を受けるための5つのステップを、簡潔にまとめたものです。5つの写真(絵)と簡単な解説があります。実は、この『ファイブ・ステージ』は5種類あります。第一のものは、『ファイブ・ステージ』について、以前メッセージしたことがありますので、そのCDです。第二は、このメッセージのテープ起こしをしたものです。ですから、このメッセージで文で読むことができます。第三は、『フィイブ・ステージ』のA6版です。小さいので、いつでもどこでももっていくことができます。A5版はすでにありますので、A6番は業者に発注する予定です。第四は、この『ファイブ・ステージ』の各ステージに「簡単な解説」をつけたものです。第五は、この『ファイブ・ステージ』の各ステージに「約1000字以内のストーリ(小話)」をつけたものです。
実は、この五番目のステージに使用している「絵」は、私の大好きな天国の絵です。御子イエス様が一人の人を天でハグして迎えている姿と、イエス様の顔がいいのです。25年ほど前に、カナダで見つけた絵で、それからずっと、私の書斎に飾っているものです。先週、やっとこの絵を描いた人の名前が分かり、メールでいろいろ説明して、直接、そのクリスチャンの画家からこの絵を使用許可をもらうことができました。ですから、五番目の「絵」は貴重です。他の4つの写真も大切で、それぞれ、背後にストーリーがあります。

あとは、これらを使って、訪問伝道するだけです。今週から始めたいと思います。メリークリスマス!

この後、神様が許してくだされば、「黙示録(終末論)のディボーショナルな読み方と実際」についてまとめてみたいと思っています。今年の8月に、いのちのことば社の「マナ」(ディボーションテキスト)に「黙示録」22章分のディボーションメッセージを書かせていただきましたので、これを再利用して作りたいと思います。次々に課題が与えられることを感謝いたします。

私の身体のことです。11月に検査をしましたら、肺に問題があるかもと言われ、再検査しました。肺には問題はないということでしたが、今度は、甲状腺に問題があるかもと言われ、今度は甲状腺の検査です。これが終わると、さらに大腸検査がまっています。今年の年末は、身体的にいろいろあります。だんだん、天の御国が近づいて来ているのかもしれません。

御手にお委ねして、今週も歩ませていただきたいと思います。メリークリスマス!
2019-12-16 07:11:00[投稿番号:142]

最近考えていること
・・・なかなか答えが出てこない?
 最近、ディボーションで、ガラテヤ書を読んでいます。1章から4章まで来ました。ガラテヤ書は、しばらくぶりなので(?)、新しい気持ちで読むことができました。それとともに、いろいろな発見もするようになりました。

「キリストを信じる信仰」か、「キリストの真実」かも重要ですが、私にとっては、3章の「アブラハムへの祝福と約束の御霊」の関係(14節)、4章の「アバ父」と呼ぶ御霊(6節)とローマ書8章の「子とする御霊」の関係(表現は類似していますが、文脈は随分異なっています)、4章の「あなたがたのうちにキリストが形作られる」ことと、5章の聖霊の働きと私たちの応答の関係など・・・が気になっています。もう一度、徹底的に御言葉を学んでいかないと答えが見つけられそうにありません。ただ、以前考えていたよりも、ガラテヤ書全体が、もっと相互に深く絡んでいることが分かってきたような気がします。

何人かの牧師さんたちと、HDYK(ヘブル語で伝道者の書を読む会)をやっています。今週、4章まで来ました。こんなに伝道者の書の解読が難しいとは思いませんでした。解釈の可能性がいろいろありますし、専門家たちの意見も様々です(また、知りたい所を論じていてくれません!)。そんな状況の中で、暫定的ではありますが、解釈を進めていかなければなりません。
HDYKを通して、伝道者の書から、チャンとした(?)釈義・解釈に基づいた「伝道説教」ができるようになれば、他の先生方のお助けになるだろうと思っていたのですが、伝道者の書は、本当に手ごわいです。ヘブル語で読もうとすればするほど、それを強く感じます。とにかく、学びを続けていきましょう。次回は、来年1月末の予定です。

最後に、第三版では、ガラテヤ4:20は、「・・・あなたがたのことをどうしたらよいか困っているのです。」とありますが、2017訳は「・・・あなたがたのことで、途方に暮れているのです」、協会共同訳もほとんど同じです。第三版の「困っている」という訳語は少し弱いので、もう少し強く、「困惑している」と訳したほうがよいかもしれません。2017や協会共同訳は、両方とも、「途方に暮れている」と、さらに強い訳語を使っています。

パウロが、ガラテヤ教会について、「途方に暮れている」と言っているとしたら(これが正しい訳語とすると)、これは、多くの牧会者にとっての慰めのことばになるかもしれません。今、三つの翻訳聖書があることで、より豊かに聖書が読めるようになって来ています。また、ガラテヤ書を久しぶりに読むようになって、私自身、いろいろな発見をしています。以前、たくさん学んだはずですが、忘れることはいいことですね。ハレルヤ!
2019-12-04 21:17:02[投稿番号:141]

最近考えていること、していること
安息日(時間)もほとんど続けています。
 最近、教えられたり、考えさせられたりしていることがあります。安息日(時)にいつも続けて読んでいる本に、『情緒的に健康な教会をめざして』があります。少しずつ読んできて、きょう、やっと読了しました。スキャゼロの本は、考えさせられること、教えられることが本当に多いです。この夏から、『情緒的に健康なリーダー・信徒をめざして』、『Emotionally Healthy Spirituality』、そしてきょうを読み終えた書と、つづけて、じっくり読んできました。

これまで、私は「感情」をどちらかというと否定的にとらえて来たように思います。確かに、感情があることによって、人生は楽しく、また豊かになりますが、私はどちらかというと、否定的な方向で考えすぎて来たことに気づきました。
そしてさらに、きょう読んだ本の前書きで、レイトン・フォードが、イエス様の人性における「感情」の存在についての指摘には価値があると思いました。御子こそ、人として、喜び、悲しみ、怒り、歩んでおられたことに、ある種の慰めをも感じるようになりました。

ディボーションにおいて、ずっとルカの福音書を読んできましたが、もっともっと、受肉され完全な人として歩まれた御子とその感情にも注目して、さらに読み、教えられていきたいと願っています(来年度へ)。

しばらく前に、ケン・シゲマツ氏の奥様からのニュース・レターに、「ケンは、これまで<I think>を使っていたが、<I feel>を日常的に使うようになった」ことが記されていました。これも、スキャゼロが強調していること、また最近の霊性リーダーたちが考えていることと呼応しているように思います。

まだまだ、始まったばかりですが、私自身の感情・情緒的な世界についても、三位一体の神様に寄り添っていただき、導いていただく必要をより強く感じるようになってきました。ハレルヤ!

最近やっていることのまとめ:*「ディボーション一日研修」のDVDが完売し、また作る必要が出てきました。感謝します。*ワーダン・スピリットの会のHPも少し改訂しました。ご確認ください。*現在は、「5ステージ:永遠のいのちへの道」という個人伝道用のトラクトの制作準備中です。*いのちのことば社のディボーションテキスト「マナ」(黙示録)に書かせていただきましたので、その原稿(全22回分)を使って、『黙示録の読み方と実際』という感じで、まとめてみたいと思っています。
2019-11-25 21:31:42[投稿番号:140]

「教会」とは何か?
メッセージで、5回続けて「教会」について学んできた
礼拝メッセージで、5回続けて「教会」について学んできた(新ホームページ、または、YouTubeで)。いろんなことを学ぶことができ、本当に感謝しています。

特に教えられたことを箇条書きにして書き出してみたいと思います。?私たちの教会は、どれも「途上の教会:Church On the way」であること。?すべての完成は、天の御国であるから、あまりに理想主義的であってはならないこと。?初代教会は、「交わり」を大切にして、交わりに専心していたこと(使徒2:42)。?エペソ4章11-16節の意味は、非常に難しいが、これは、個人だけでなく、教会も全体として、「キリストに似る者」となっていくことが求められているということ。?教会は、この地上にあって非常にこの世的であるが、本当に「キリストのからだ」であり、「聖霊の宮」であることを真剣に信じて受け入れるべきであること。?今、与えられている教会(各個教会)での出会いや交わりを大切にして、その中で、共に変えられ、成長していくことを求めていくこと。?「クリスチャン」ってこういう者だ、という変な理解、「教会」ってこういうものでしょう、という変な常識を止めて、もう一度、新しい目で聖書から、「教会」について考え、学んでいく必要があること。

これまでの「教会」についてのいろいろな学びから、またその実として、今週から二つのことが稲沢教会で始まりました。?月に二回、小グループとそれに続くリーダー会。?できるだけ多くの兄姉との「洗礼後会」。今週の水曜日から、洗礼後会がスタートします。現在のところ、参加者は、すでにやっている兄姉も含めて、24名です。少しでも、みことばと交わりに専心する教会となれますように。ハレルヤ!
2019-11-18 20:35:02[投稿番号:139]

ダニエル祈祷会を視聴して
韓国教会の多様性の恵み
 ダニエル祈祷会を紹介していただいたので、思い切って、11月1日から、毎晩、インターネットを通して、ライブ中継されているダニエル祈祷会を視聴している。毎晩、8時から10時まで、11月21日まで続く。1万何千という、韓国を中心に全世界の教会が参加しているという。

初めは、ただ「試聴」するだけだったが、ドンドン引き込まれて、続けて見るようになった。メッセージというよりも、証しが中心で聴きやすく、内容も面白い。時間がどうしてもないときは、メッセージ(証し)の時間が、だいたい8時30分から9時30分頃までなので、それだけを視聴している。

初めは、人間の側の「信仰」が強調され、(心から本当に)信じれば、その通りになり、どんな病も癒されることが強調された。私は、これには反対である。人間の側の真実な信仰を強調するとともに、それでもなお、最終的には、神様の主権的みこころを第一にして、すべてを委ねなければならないと思っている。ただ、「信仰」を強調する証しから、教えられたことも確かで、もう一度、自らの信仰について探られ、吟味され、新しくされた。

ところが、ダニエル祈祷会が始まって1週間になろうとしているが、内容が変わってきた。証者として登場してくる人々(牧師や信徒、宣教師など)も多様であるが、その証しの内容、強調点などの多様性から、逆に、上記で触れた、主の主権的御心とそれに何があってもなくても、従い続けていくことの大切さが強調されるようになった。前もって証し者たちの証しの内容をみて、ダニエル祈祷会の主催者側が、それぞれの奉仕者の順番を考えておられたのかもしれない。とにかく、ダニエル祈祷会をリードする方々の多様な考え方、実際に奉仕をする人々の証し(メッセージ)の多様性を見て、大変驚き、感謝している。

韓国というと、どうしてもある種の信仰の姿勢だけを考えてしまいがちであったが、ダニエル祈祷会を見続けながら、その多様性、その懐の深さや広さを強く感じ反省した。

飛行機で一時間半で行ける隣国の諸教会から学べることがまだまだ、たくさんあることを感じるようになった。先月、教会から8人で韓国を訪問し、とてもよい経験をさせていただいた。二つのメガチャーチも見せていただいた。集会にも参加させていただいた。その流れの中で、また、ダニエル祈祷会に参加させていただいているという感じである。失礼な言い方であるが、まだまだ、韓国の諸教会から学べることがたくさんあると言いたい。

これからも続けてダニエル祈祷会を視聴していきたいと思っている。「ダニエル祈祷会」(日本語同時通訳つき)のサイトが分からない場合は、ご連絡ください。たくさんの恵みを感謝します。今、もう一度、忘れてしまったハングルに挑戦しています。こんな近いところに、リバイバル(?)の国があったことに感謝します。ハレルヤ!
2019-11-09 07:00:31[投稿番号:138]

つづけて、「教会」について考えている
聖書的な「教会」とは?
 前回につづいて、きょうも「教会」について考えたい。重複するかもしれないが、「教会」ほど、この世的なものはない。また、「教会」ほど、この世の人間的な要素、文化的歴史的な要素が含まれているものはない。それが、「教会」である。聖書も、「教会」について、あまり絶対的なことを言っていない。いや、絶対的、普遍的なことについてより少なく語っていると言っておこう。これが、聖書の「教会論」である。だから、教会の制度、組織、礼拝のプログラムなどは、絶対はなく多様であり、それらは私たちに任せられていることだと言える。

ただし、だからと言って、何でもよいのではない。重要で、これは変えてはいけない普遍的な要素もある。今回の礼拝メッセージ(教会についての学びのシリーズ)準備で、エペソ書を繰り返し読んできた。また、聖書的な「教会」とは何か、どこまでが「聖書的規範」と言えるかなど、いろいろ考えてきた。

「教会」は、クリスチャンにとって当たり前の存在だが、それだけでなく、いつの間にか、我流の教会観を、勝手に自分で作ってしまって、これに慣れてしまっているのではないかと思うようになった。聖書を学ぶと、これまでの自分自身の「教会観」が崩されていくような気がする。

「教会」は、一方で、本当に「この世的な存在」である。良い意味でも、悪い意味でも。他方で、「教会」は非常に神の国的で、この世で全く異質の存在として建てられていることを確認したい。本当に、キリストのからだ、聖霊の宮であり、ただの存在、集まり、交わり、集団ではない、ということである。

まだまだ分からないことがたくさんある。神秘である。少しでも、キリストのからだとして、聖霊の宮として、また、「キリスト」に似る存在として、この世に置かれているので、少しでも成長していきたい。非常に世的でも、「教会」が、キリストのものとされ、聖霊の臨在をいただく存在とされていることのゆえに、ハレルヤ!
2019-11-02 06:59:50[投稿番号:137]

最近、考えていること・・・
「教会」とは?
 礼拝メッセージで、キリスト論⇒救済論⇒教会論と来て、教会についての学びも終わろうとしている。牧会者として、当然ながら、「教会」について考え続けている。神学論の中で、これほど分かりにくい「論」はないだろう。非常に多様で、しかも様々な人間的要素、歴史的、文化的要素が含まれている。これが、教会論であると言ってもよい。ある専門家は、聖書の中に、教会を表す比喩(など)が80以上あると言っていた。それほど、教会は一言で言えないもの、またそれぞれの時代や地域に任せられているものとも言える。だから、聖書は、教会について普遍的なこと、絶対的なことを多く言っていないとも言えるだろう。

しかしそれでも、忘れてはいけない、軽視してはいけない、失ってはならない、人間的要素によって消されてはならない重要な含まれている。第一に、教会は、建物ではなく、イエス様を信じ、御霊の臨在にあずかっている私たち自身とその集まりであること。第二に、教会は、どこまで行っても、「On the Way」であり、完成は、終わりのときであること。第三に、教会について、神様は、何よりも教会の交わりが深められ、成長していくことを願っておられるということ。第四に、教会における多様性と一致(調和)を何よりも大切にしていくこと。第五に、以上のことに立ちながら、「自分の家族と思えるような教会家族をつくる」こと(Leading a Church Family Like My Own Family)である。これは、ピーター・スキャゼロの本からのことばである。

これほど難しいことはない。交わりが深まれば深まるほど、霊的に深くされていないと交わりは傷んで来るからである。しかし御子イエス様は、この世に、神様の教会を建てられ、よしとされ、導いて来られた。教会は、この世界で、ただ、一つの機関(器官)として存在するのではなく、本当の家族(民、群れ)として建てられ、導かれているはず。少しでも、そのようになることを願いつつ、共に変えられていきたい。ハレルヤ!
2019-10-29 07:11:03[投稿番号:136]