ダニエル祈祷会を視聴して
韓国教会の多様性の恵み
 ダニエル祈祷会を紹介していただいたので、思い切って、11月1日から、毎晩、インターネットを通して、ライブ中継されているダニエル祈祷会を視聴している。毎晩、8時から10時まで、11月21日まで続く。1万何千という、韓国を中心に全世界の教会が参加しているという。

初めは、ただ「試聴」するだけだったが、ドンドン引き込まれて、続けて見るようになった。メッセージというよりも、証しが中心で聴きやすく、内容も面白い。時間がどうしてもないときは、メッセージ(証し)の時間が、だいたい8時30分から9時30分頃までなので、それだけを視聴している。

初めは、人間の側の「信仰」が強調され、(心から本当に)信じれば、その通りになり、どんな病も癒されることが強調された。私は、これには反対である。人間の側の真実な信仰を強調するとともに、それでもなお、最終的には、神様の主権的みこころを第一にして、すべてを委ねなければならないと思っている。ただ、「信仰」を強調する証しから、教えられたことも確かで、もう一度、自らの信仰について探られ、吟味され、新しくされた。

ところが、ダニエル祈祷会が始まって1週間になろうとしているが、内容が変わってきた。証者として登場してくる人々(牧師や信徒、宣教師など)も多様であるが、その証しの内容、強調点などの多様性から、逆に、上記で触れた、主の主権的御心とそれに何があってもなくても、従い続けていくことの大切さが強調されるようになった。前もって証し者たちの証しの内容をみて、ダニエル祈祷会の主催者側が、それぞれの奉仕者の順番を考えておられたのかもしれない。とにかく、ダニエル祈祷会をリードする方々の多様な考え方、実際に奉仕をする人々の証し(メッセージ)の多様性を見て、大変驚き、感謝している。

韓国というと、どうしてもある種の信仰の姿勢だけを考えてしまいがちであったが、ダニエル祈祷会を見続けながら、その多様性、その懐の深さや広さを強く感じ反省した。

飛行機で一時間半で行ける隣国の諸教会から学べることがまだまだ、たくさんあることを感じるようになった。先月、教会から8人で韓国を訪問し、とてもよい経験をさせていただいた。二つのメガチャーチも見せていただいた。集会にも参加させていただいた。その流れの中で、また、ダニエル祈祷会に参加させていただいているという感じである。失礼な言い方であるが、まだまだ、韓国の諸教会から学べることがたくさんあると言いたい。

これからも続けてダニエル祈祷会を視聴していきたいと思っている。「ダニエル祈祷会」(日本語同時通訳つき)のサイトが分からない場合は、ご連絡ください。たくさんの恵みを感謝します。今、もう一度、忘れてしまったハングルに挑戦しています。こんな近いところに、リバイバル(?)の国があったことに感謝します。ハレルヤ!
2019-11-09 07:00:31[投稿番号:138]

つづけて、「教会」について考えている
聖書的な「教会」とは?
 前回につづいて、きょうも「教会」について考えたい。重複するかもしれないが、「教会」ほど、この世的なものはない。また、「教会」ほど、この世の人間的な要素、文化的歴史的な要素が含まれているものはない。それが、「教会」である。聖書も、「教会」について、あまり絶対的なことを言っていない。いや、絶対的、普遍的なことについてより少なく語っていると言っておこう。これが、聖書の「教会論」である。だから、教会の制度、組織、礼拝のプログラムなどは、絶対はなく多様であり、それらは私たちに任せられていることだと言える。

ただし、だからと言って、何でもよいのではない。重要で、これは変えてはいけない普遍的な要素もある。今回の礼拝メッセージ(教会についての学びのシリーズ)準備で、エペソ書を繰り返し読んできた。また、聖書的な「教会」とは何か、どこまでが「聖書的規範」と言えるかなど、いろいろ考えてきた。

「教会」は、クリスチャンにとって当たり前の存在だが、それだけでなく、いつの間にか、我流の教会観を、勝手に自分で作ってしまって、これに慣れてしまっているのではないかと思うようになった。聖書を学ぶと、これまでの自分自身の「教会観」が崩されていくような気がする。

「教会」は、一方で、本当に「この世的な存在」である。良い意味でも、悪い意味でも。他方で、「教会」は非常に神の国的で、この世で全く異質の存在として建てられていることを確認したい。本当に、キリストのからだ、聖霊の宮であり、ただの存在、集まり、交わり、集団ではない、ということである。

まだまだ分からないことがたくさんある。神秘である。少しでも、キリストのからだとして、聖霊の宮として、また、「キリスト」に似る存在として、この世に置かれているので、少しでも成長していきたい。非常に世的でも、「教会」が、キリストのものとされ、聖霊の臨在をいただく存在とされていることのゆえに、ハレルヤ!
2019-11-02 06:59:50[投稿番号:137]

最近、考えていること・・・
「教会」とは?
 礼拝メッセージで、キリスト論⇒救済論⇒教会論と来て、教会についての学びも終わろうとしている。牧会者として、当然ながら、「教会」について考え続けている。神学論の中で、これほど分かりにくい「論」はないだろう。非常に多様で、しかも様々な人間的要素、歴史的、文化的要素が含まれている。これが、教会論であると言ってもよい。ある専門家は、聖書の中に、教会を表す比喩(など)が80以上あると言っていた。それほど、教会は一言で言えないもの、またそれぞれの時代や地域に任せられているものとも言える。だから、聖書は、教会について普遍的なこと、絶対的なことを多く言っていないとも言えるだろう。

しかしそれでも、忘れてはいけない、軽視してはいけない、失ってはならない、人間的要素によって消されてはならない重要な含まれている。第一に、教会は、建物ではなく、イエス様を信じ、御霊の臨在にあずかっている私たち自身とその集まりであること。第二に、教会は、どこまで行っても、「On the Way」であり、完成は、終わりのときであること。第三に、教会について、神様は、何よりも教会の交わりが深められ、成長していくことを願っておられるということ。第四に、教会における多様性と一致(調和)を何よりも大切にしていくこと。第五に、以上のことに立ちながら、「自分の家族と思えるような教会家族をつくる」こと(Leading a Church Family Like My Own Family)である。これは、ピーター・スキャゼロの本からのことばである。

これほど難しいことはない。交わりが深まれば深まるほど、霊的に深くされていないと交わりは傷んで来るからである。しかし御子イエス様は、この世に、神様の教会を建てられ、よしとされ、導いて来られた。教会は、この世界で、ただ、一つの機関(器官)として存在するのではなく、本当の家族(民、群れ)として建てられ、導かれているはず。少しでも、そのようになることを願いつつ、共に変えられていきたい。ハレルヤ!
2019-10-29 07:11:03[投稿番号:136]

四日間の韓国旅行!
本当に恵まれたよい旅でした!
 私も含めて、教会から8人で韓国ソウルに行ってきました。1か月先の気候を考えて、オーバーやズボン下まで準備しましたが、まったく必要がなく、連日晴天に恵まれました。
参加者のほとんどは、私たち夫婦を除いて、韓国は初めてでしたので、観光は基本的な所を選びました(キョンボックンや韓国村、仁寺洞、明洞など)。食事は、高価なものは避けたのですが、ほとんどが「当たり!」で、とてもおいしかったです。
また二つのメガチャーチ(サラン教会とオンヌリ教会)を訪問し、前者は日本語部の先生が、後者は親しくしていただいている日本語部の姉妹が助け、導いてくださいました。オンヌリ教会では、早天祈祷会と夜のリバイバル集会に参加させてもらいました。私たち夫婦にとって、リバイバル集会はこれで、三回目(三年連続)になります。参加されたメンバーにとっても、大教会の大集会を体験できたことは大きな喜び、励ましになったようです。違う国の違った教会を体験して、少しでも、神様の教会の広さ、多様性を知っていただくことも、この韓国旅行の目的でしたので、本当に良かったと思っています。

またずっと4日間、8人で共に行動することができ、お互いの交わりが深められたことも祝福でした。病気や怪我、そして「忘れ物」が心配でしたが、これもなく、とてもスムーズに四日間の旅を終えることができました。旅行の最後に、
中部国際空港のフードコートで感謝会をし、共に恵みを分かち合い、すべてを導いてくださった神様に感謝をお捧げしました。

私は、8人でしたが、これも一つの牧会と思っていましたが、本当に、互いによく知りあい、交わることができた「教会」だったなあと思っています。互いに、さらに一歩近くなったような気がしています。ハレルヤ!
神様と交わりながら、旅行のガイドをしようと思っていたのですが、一日目はうまく行きましたが、その後2日目以降は駄目でした。神様と親しく交わりながら、なすべきことをしていくことは難しいですね。。。

前回のブログで触れました、「ディボーション一日研修」のDVD(三巻)が完成しました。来週から、名古屋CLCで販売する予定です。お近くの方はぜひご購入ください。私からの直接販売ですと、300円位安くなります。←これは宣伝です。
2019-10-21 07:22:02[投稿番号:135]

公開公開講演「キリストの真実とキリスト者の信仰」
聖書協会共同訳セミナーに出席して
 今週の火曜日夜、久しぶりに名古屋の栄に行きました。浅野淳博先生(関西学院教授)による講演会があり、タイトルは「キリストの真実とキリスト者の信仰」でした。ずっと前から気にしていた課題でもありましたので、家内と娘まで誘って、出かけました。
これまでほとんどの翻訳聖書におきまして、「ピスティス・クリストゥ(信仰・忠実など+キリストの)」の訳は、「キリストに対する信仰」と訳してきましたが、聖書協会からの新しい訳(協会共同訳)は、「キリストの真実」と訳すようになりました。

文法的には、「キリストに対する信仰」でも、「キリストによる忠実さ」でも、「キリストが与えられる(示された)真実」でも、間違っていませんが、あとは、文脈(また神学)的に考えて、訳語が決定されるわけです。・・・このあたりの説明が、詳しくなされると期待して出かけたのですが、・・・どうもあまりなくて・・・、分からないまま終わってしまった感じです。私の理解力の問題もありますね。。。

私としては、「真実」と訳された訳語の意味をもっと知りたかったのですが、(まだ、「忠実」なら分かりますが。。。)。せっかく、三人で張り切って(?)出かけたのに残念でした。結局、自分で学びなさい、ということでしょうか。それでも、三人で、夜の「栄」を楽しんで(?)、帰ってきました。

昨年から、少し本を集め、サンダースのもの、ダンのもの、ライトのものなどを読んでいます。また中間時代以降の歴史を学んで、当時の「律法主義(?)」は、どんなものだったのか、調べています。これらが、最終的には、ローマ書やガラテヤ書の学びに関わり、上記の「ピスティス(信仰、真実、忠実など)」にもかかわってくることになります。早く終わりたいのですが、これからもかなり時間がかかりそうです。。。大変だ!

前回、書きました「DVD:ディボーション一日研修」がほぼ、完成しました。豊かに用いられるように願っています。こうして、「ディボーション・プラス」運動が広がりますように。ハレルヤ!
2019-10-11 21:44:29[投稿番号:134]

最近、教えられていること、やっていること
「一日ディボーション研修」の収録、編集。。。。
 9月16日(月、祝日)に「一日ディボーション研修」が終わり、その時、DVDに収録したものを三枚、トロントに送りました(90分プラス90分プラス60分)。そして10月5日(土)に、トロントの教会でも、同じ「一日ディボーション研修」が行われました。今は、DVDに収録してくださった兄弟が、さらに、たくさんの時間をかけて編集し直してくださったので、なんとか他の皆さんにも使っていただけるようにしようと考えています。なんといっても、「ディボーション」と「ディボーションの後」は大切ですから。また、ディボーションの中で、みことばを学び、教えられ、歩んで行くことは、毎日の霊的な糧、力になりますから。

ディボーションに関して最近教えられていることがあります。前にもブログにかきましたように、今、一日に4回(10時、2時、5時、8時)スマホが鳴り、できない時もありますが、できるだけ、その場で祈るようにしています。そして祈るたびに、まず早朝のディボーションの時にみことばから教えられたことを思い出すようにしています。ところが、多くの場合、何を教えられたか思い出せないのです。もう一度、聖書を読みなおしたり、ディボーションノートを引っ張り出して確認したりしなければなりません。。。なんと忘れやすい者でしょう!しかしこれを繰り返していくと、朝のみことばの恵みが再び、思い出されて、力になるのです。。。皆さんも、試されることをおすすめします。

この一か月ちょっとの間に、なんとワーダン・スピリットの会員が、10人ほど増えました。嬉しいかぎりです。そんなことで、HPをそろそろ刷新したいと考えております。よろしくお願いいたします。ハレルヤ!
2019-10-07 18:28:11[投稿番号:133]

ルカの福音書を読みながら注目していること
御子イエス様の人性について
 ディボーションで、最近はずっとルカの福音書を読み続けています。その中で、一か所だけでなく、いくつかの箇所において特に注目していることがあります。それは、御子イエス様の「人性」です。

「人性」に注目するようになったきっかけは、一つは、新しいからだをもって現れた復活のイエス様について考えるようになったことからです。この新しいからだは、私たちの「後の新しいからだ」について教える、大切なしるし(モデル)になっていると思いました。もしそうなら、それだけでなく、御子とその生涯全体も、今の私たちとその歩みの大切なしるし(モデル)になっているのではないかと考えました。

もう一つは、ルカ3章22節(他の共観福音書の箇所も参考に)で、いよいよ公生涯が始まる御子に対して、天的に、二重の励ましや導き、備えがあったということです。御霊の降臨と臨在、導きが始まりました(新たな意味で)。また御父の愛の励ましのことばがありました。御霊と御父が、御子を励ましておられるのです。

最近、特に注目している箇所は、ルカ9章28節以下で、御子の変貌山での経験です。御子が、モーセとエリヤと、生涯の最期について話をしておられたのです。御子の「神性(だけ)」で考えたら、生涯の最期について、話をすることにほとんど意味はなかったのではないでしょうか。まして、「相談」はありえないと思いました。しかし「人性」について考えると、「相談」もあり、かもしれないとおもいました。

もう一つは、ルカ9章37節以下に(特に41節)、御子の嘆き、叫び、(ひょっとして)怒りがあるのです。ここでは、愛のイエス様が、不信仰に対して、嘆き、叫び、怒っておられるのです。私は、ここにも、人性のイエス様を見たのです。

以前より、もっと御子の「人性」について考えるようになり、もっともっと身近なお方として味わうようになりました。御子は、様々な面での人間の弱さをも引き受けておられます。身体的な弱さも、疲れも、渇きや眠気もあります。上記の箇所で言うなら、「相談」を必要とするような弱さもあったのかも。「嘆き、叫び、怒り」もあった。。。

もしこれが正しいなら、クリスチャンとしての「嘆き、叫び、怒り」もあると言えます(御子もそうなのですから)。少しずつ、これまでの御子ご自身の姿、特に「人性」理解が変わりつつあるように思います。そして、そこからもなんと、自分自身に対する慰めや励ましをみつけるようになって来たと言えます。

だからこそ、御子が、御霊に満たされ、御霊に導かれて歩んで行かれたことの意味は大きいと言えます。これからも、もっともっと御子の人性について考え、教えられていきたいと思います。ハレルヤ!
2019-09-23 11:54:54[投稿番号:132]

最近考え、教えられていること
「聖化から栄化へ」の憐み
 これは何と麗しい、あわれみ深いみことばでしょうか。第一ヨハネ3章1-3節にこうあります。

「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。」

私たちが今、「神の子ども」であることが、二度、三度、繰り返されています。私たちは、御子を信じて、「今すでに神の子」なんです。これは、それこそ、初めに書かれていたように、父なる神様の愛の現れです。私たちが、神のこどもであるということは、私たちの神様は、「父なる神様」であるということです。

しかも、御子が最後に現れてくださるとき(再臨)、私たちは、「キリストに似た者」になるのです。これは、「聖化から栄化」であり、本物の神の子ども、完成された神の子どもの姿が約束されているのです。神と御子の聖なる姿に接し、目の当りにしたら、私たちは、塩をかけられた「ナメクジ」のように、溶け去ってしまうような私たちですが、それなのに、私たちはこのとき、御子に似た「(完全な)神の子ども」の恵みにあずかるのです。

これは、なんという恵み、あわれみでしょうか。私たちがどれほど、聖化を願い、この世で、たとえどれほど聖化されたとしても、まだ、神様の栄光には程遠いのです。しかし最後の最後に、ほど遠い聖化の状態であっても、神様は最後に、栄化して、完全な子どもとして迎え、「キリストのありのままを見ることができる」ようにしてくださるのです。

みなさん、これはなんというあわれみでしょうか。しかも、「自分は、最終的に天国に行けば栄化されるので、今、聖化の道にあっても何もしないよ」と、ヨハネは言っていないのです。この恵みとあわれみに感じて、「キリストがきよくあられるように、自分をきよくする」と言っているのです。

クリスチャンの年代によって、考えることは違うかもしれません。しかし歳が進んでくると、感謝なことの一つとして、キリスト者の全行程について考えることができるようになり、しかも、最後の栄化についても、心が行くようになります。身体はガタガタして来ていますが、これは、何という幸い、恵みでしょうか。ハレルヤ!
2019-09-18 20:08:26[投稿番号:131]

安息日を守る?
最近考えていることのひとつ
 今週の月曜日に、意識的に「安息日」を守るようにしました。以前、ブログで少し書かせていただきましたように、「安息日を守る」ことについていろいろかんがえています。今週、初めて試みました。

「安息日(→主日)」の意味は、簡単にまとめますと、第一に、休む日、休ませる日です(出エジプト23・12)。文脈的に、社会的弱者に対する配慮が強調されています。実際に12節で、家畜、女奴隷の子、在留異国人を「休ませ、息をつかせる」ように命じられています。 第二に、安息日は、神様とイスラエルの民との間のしるしです(出エジプト31・13?17)。「安息日」の解釈、適用はともかく、安息日がユダヤ人の永遠のしるしになっています(今の私たちには?)。第三に、安息日は「聖なる会合の日(New International Version訳聖書:sacred assembly)」です(レビ23・3)。安息日は、ともすれば「休みの日、何もしない日」とだけ考えてしまいますが、実際には、ともに集まり、神様を礼拝する日です。確かにこれこそ、安息(休み)の中心、また源であると言えます。さらに申命記5章15節にも、イスラエルの人々が、どのように安息日を過ごすべきか教えられています。それは、彼らが、エジプトで奴隷状態であったことと、神様が、そこから彼らを救い出して下さったことを思い起こすことです(安息日の守り方・・・質も重要です!)。今の私たちに当てはめると、神様の救いの恵みを深く思いめぐらすことと言えるでしょう(ディスカバー新聖書解釈入門から引用)。

さて、ほとんど初めてかもしれませんが、意識して「安息日」を守ってみました。午前中は、スキャゼロ著『情緒的に健康な教会をめざして』1章を読み、思いめぐらし、自分に当てはめました。最後に、神様に対する再献身のお祈りをしました。ややもすると、牧師(私)は、日曜日に礼拝メッセージをすれば、また教会に来られる方々と交わり、必要があればさらに個人的に交われば、牧会的な奉仕をすれば、「安息日」を守っているかのように思っていました。月曜日は、時々、頭痛がして(今は頭痛はほとんどありませんが、疲れがドッと出てきます。いや、火曜日に出て来るかも?)できるだけ身体を休めるのが安息日の使い方であると何となく考え、実行してきました。しかし今週の月曜日の午前は、安息日で一番大切なことだと考える、神様との交わりの刷新、神様の前での自己吟味、新しい一週間に向けての再献身のある再出発などを試みました。

午後は、娘が休みだったので、家内と三人で、ほとんど初めて、カラオケ(ボックス?)に行ってきました。初めて(たぶん)、カラオケを使ってうたったのですが、音楽(歌詞)の動きについていけず、ちゃんと歌えないことがわかりました。全部歌えた曲はありませんでした。「涙そうそう、ザワワ、愛燦々?、What a Wonderful world・・・・」あっという間の一時間でした。これが、カラオケなんだ・・・。よく分かりました。これも、感謝!カルピス一杯で、三人で騒ぐことができました。

そのあと、いつものようにカネスエで半週分の買い物をし、帰って、ハングルの「連音の文法」を確認し(頭に入らない!)、一日が終わりました。
安息日を守るって、これでいいでしょうか?ハレルヤ!
2019-09-11 07:24:32[投稿番号:130]