ペンテコステ礼拝を迎えて! | ご聖霊が来てくださったことを歓迎します! | 皆さん、ペンテコステ、おめでとうございます!
どんな問題があってもなくても、ご聖霊の臨在と導き、内住の恵みは変わりません。傷んでいるこの世界とともに、また私たちに心にあって、御霊は、「言いようもない呻きをもって」叫んでいてくださいます。
今回、「キリストの律法とは何ぞや」(舟の右側3月号)のスピンオフとして、「ガラテヤ書の聖霊」についてまとめたものを、舟の右側6月号に載せていただきましたので、買ってお読みください(財政的に戦っている地引網出版をお支えください)。7000字という限定がありましたが、なんとかまとめることができました。また、10000字以上のより詳しいものも、「会員資料室」に入れたいと思います。お待ちください。
現在は、「キリストの律法とは何ぞや」のスピンオフの第二として、「キリストの信仰(信頼、真実、忠実)」か、「キリストを信じること」か、について学びまとめております。ガラテヤ書やローマ書を読んでいきますと、この翻訳(解釈)の違いにぶつかりますので、なんとかできないものかと考えております。ぜひ、新改訳と聖書協会共同訳などとを比較してみてください。また、「舟の右側」4月号で、この問題について特集が組まれておりますので、お読みくだされば、その概観を知っていただくことができるでしょう。
今回のペンテコステ礼拝とガラテヤ書の聖霊についての学びを通して、もう一度、教えられたことがあります。それは、ガラテヤ4章6節にありますように、御父は、私たちの心に、「アバ父と叫ぶ御子の御霊」を遣わされたということです。「アバ父と叫ぶ」のは、御子ではなく、御霊です。ギリシャ語から明確に分かります。つまり、御子がその生涯において、「(アバ)父よ」と叫んでおられたのは、実は、御霊によって、ということです。そして、その御子の御霊が、今度は、私たちの心に御父によって来られたのです。ですから、私たちは、御子のように、いつでも、「アバ父」と叫びながら、歩むことができるのです。
御父と交わり、喜び、祈り、礼拝し、共に歩むことができるのです。
こんなすごい御霊とその恵みが、私たち一人一人の心に注がれているのです。ですから、私は、断続的に、「アバ父」と叫びながら、毎日の歩みをさせていただきたいのです。皆さんは、どうでしょうか?「アバ父」と叫ぶ、叫ばしてくださる御子と御霊が、私たち一人ひとりの心に来て、内住し、導いていてくださるのです。
ですから、ペンテコステの御霊を歓迎ます。ハレルヤ! | 2020-06-02 06:56:39[投稿番号:156] |
最近考えていること | 「神様の畑」を少し広くすること | 愛知県の緊急事態宣言が解除されました。
これによって、私たちの教会の礼拝や諸活動をどのようにしていったらよいのか、考えています。慌てて前のようなやり方に戻すことはできません。お祈りしながら、知恵をいただき、今の時代状況にふさわしい判断をしていきたいと願っています。神様が今、私たちをこの世界、この日本、この状況においていてくださることは確かなので、その中で、よりふさわしい礼拝、伝道、神の子どもとしての生き方を求めていきたいと願っています。
以前、1コリント3章を読んでいた時に教えられました。特に4節から11節までです。私が奉仕をさせていただいているところは、「神の畑、建物」です。そして、これまで、ずっとこの神様の畑で、種を蒔いたり、水をやったりしてきました。このことは、最後まで、神様が神様のもとに私を呼んでくださるときまで、続くでしょう。
ただ、今回この3章を読みながら、思ったことがあります。それは、これからも同じように「種を蒔き、水を灌ぐ」奉仕を続けていくことは変わりませんが、神様が私自身を置いていてくださる「神の畑」を、もう少し広げてもいいかもしれないということです。
どのように広げていくかはまだよく分かりませんが、教会に来られる方々との出会いや交わり、突然、飛び込んでくるメールなどを通しての出会いや交わりを大切にするようになりました。これまでも、大切にしてきたつもりですが、ここにも、「神様の畑」があるかもしれないと考えるようになったことは確かです。
稲沢教会、同盟福音基督教会・・・これが、神様が私を置いていてくださる第一の「神様の畑」です。そして毎週火曜日の神学校での奉仕は「おまけ」と考えていました。また、他の教会での奉仕、聖書を学んで論文を書いたり、メールなどで交わったり・・・これらも、「おまけ」と考えていました。
しかし、少し見方が変わってきました。それは、これらの「おまけ」は、「おまけ」ではなく、これらも、大切な「神様の畑」で、種を蒔いたり、水をやったりする「奉仕」であると考えるようになったということです。
これまで、神様は色々な経験、助け、導き、出会いや交わり、家族、教会、賜物などを私に与えてくださしました。これらはすべて、ある期間、神様から預けられた「恵み」です。ですから、これらを総動員して、神の畑で、種を蒔いたり、水を灌ぐために用いていきたいと、今まで以上に、より強く考えるようになりました。
昨日、この50年間共に歩んできたある姉妹を、家内と一緒に訪問しました。癌を宣告されて以来、この一年間、最低限の治療だけでこれまで歩んで来られた姉妹です。母教会が同じで、これまでも直接間接にお交わりが与えられ、また一緒にご奉仕をさせていただいたこともありました。
足は水ぶくれしてとても辛そうでしたが、今までと変わらないお交わりをいただき、お祈りして帰ってきました。このままですと、おそらく間もなく、今の身体の「着替えの時」が来るでしょう。これまでの交わりとご奉仕を感謝いたします!
私も、時は分かりませんが、近づいて来ている「衣替えの時」を思いながら、「神様の畑」を、これまでより少し広げて、種まきと水やりをしていきたいと思います。ハレルヤ! | 2020-05-19 07:08:09[投稿番号:155] |
最近のディボーションから | 「あらゆる慰めの父がほめたてられますように」 | 最近のディボーションでは、第二コリント人への手紙を読み始めています。1章を読んで驚くことは、1章3節から7節までで、「慰め(パラクレーシス:名詞)、慰める(パラクレオー:動詞)」が、繰り返しなんと、10回も出てくるのです。驚きました!
3節では、御父について「あらゆる慰めの神」と呼ばれています。解釈としては、あらゆる状態状況において、ご自身の慰めで私たちを満たし、導いてくださるお方であるということでしょう。
また、5節では、キリストによって、私たちに与えられている慰めが溢れるとも、あります。6節以下では、こうして、私たちの間で、神様の慰めが響き合い、共鳴し合い、分かち合われていくのです。より広く、より深く!
コロナ・ウィルス問題に直面しているこの世界、この世界のあらゆる地域にいる人々に、三位一体の神様の真の慰めが届くようにと祈ります。すでに、響いているので、それが感じ取られ、それが受け止められていきますように。
5月31日は、ペンテコステ礼拝です。ご聖霊の別名は、「パラクレートス」です。この言葉も、上記の「パラクレーシス、パラカレオー」と同じ仲間で、形容詞が名詞化したことばです。ご聖霊こそ、「慰めの神」ご自身です。
「パラクレーシス(そのグループのことば)」を、ただ「慰め」と訳すだけでは足らないでしょう。この語は、時には、「励まし、勧め、なだめ、弁護、助け」などと訳されることばで、一言では完全に訳しきれないことばです。訳者は、文脈によってそれによりふさわしいと思われる訳語を考えることになります。
ですから、私は、このことばの定義を「私たちのすぐそばに来て、その状況に最も必要な助けを与えること」としています。ですから、ときには、「慰め」、ときには、「弁護」になるのです・・・。
今、三位一体の神様が、三重の慰め、いや、「三重のパラクレーシス」をこの世界に、この地域に、私たち一人ひとりに注いていてくださるので、私たちがこの神様のパラクレーシスを、御子の出来事を思い起こすことによって、御霊の深い導きや促しを通して、気づき、感じ、再確認して、この神様からの「パラクレーシス」をもって、隣人の中に入って行けますように。こうして、神様のパラクレーシスが、私たちの間で響き渡りますように。
5月31日は、ペンテコステ礼拝ですので、今度の『舟の右側』に、「ガラテヤ書の聖霊」という拙論を載せていただく予定です。ともに、パラクレートスの御霊を歓迎し、分かち合いたいと思います。ハレルヤ! | 2020-05-09 07:25:26[投稿番号:154] |
さらに最近、考えていること | | 一つは、以前のブログで触れていたことで、ナウエンから教えられたことです。それは、他の人との交わりの間に、臨在していてくださる神様(ご聖霊)を置いて、覚えることです。
私は、一日の間に5回以上祈りの時をもっています(できない時もありますが)。しかし祈るたびにしばしば思うことは、繰り返し祈っていても祈っても、祈りと祈りの間において、神様の臨在や聖霊の内住、導きを考えないで、過ごしてしまうことが時間がなんと多いことかということです。
この問題(悩み)を解決してくれそうな道があることを知ったのです。それは、祈りと祈りの間にしていることの多くは、誰かと会って話していることですが、
その人と自分の間におられる神様を意識することです。
御霊は、私たち一人ひとりの内に住んでくださるだけでなく、キリストのからだなる教会、その交わりの間にも住んでいてくださるからです。
もう一つは、これもいつも祈っていることですが、「永遠のいのちのためにもう少し」働かせてくださいということです。しかし、いったい何をしたら、そのような働きができるでしょうか。コロナ問題で、外に出て行って伝道することの困難もあります。以前のように簡単に出ていくことにも注意しなければなりません。
最近、第一コリントの手紙3章6-9節を読んでいて、教えられました。ある人は、神の畑で、種を蒔きます。ある人は、神の畑で、水をやります。私が今いるところも、「神の畑」です。ですから、その中で、種を蒔いたり、水をやったりすることが、神様が喜んでくださるはたらきです。一人ひとり働きは違います。しかし、自分が置かれた所が「神の畑」なので、そこで、(福音の)種を蒔いたり、すでに蒔かれたものに水をやるのです。こうして、神様が成長させてくださるのです。
大切なことは、今置かれた所(神の畑)で、種を蒔いたり、これに水をやることです。あらためて、「永遠のいのちのために働く」ことの意味や、働きの内容について教えられました。それぞれ、働きは違います。違っていいのです。しかし、神様が委ねていてくださる賜物を通して、種を蒔いたり、水をやったりするのです。
残された生涯において、何をしたらいいのか、「永遠のいのちのために」働くとはどういうことなのか、改めて教えられたように思います。
ハレルヤ! | 2020-04-27 15:36:11[投稿番号:153] |
最近考えていることの一つ! | 創世記11章1-9節 | コロナ・ウィルスは相変わらず、日本で、世界中で猛威をふるっています。いつ、この大問題が収束するか見当もつきません。一つ(ある時期、ある地域)終わっても、またもう一つという具合になりそうです。
私の心からの願いは、この大問題が少しでも早く真の解決に至ることです。入院し苦しんでいた方々が癒され、自分の家(場所)に戻れるようになることです。また、この問題ですべてを捧げて労苦しておられるすべての方々に休みと平安が戻ってくることです。
ただし、今年の一月の初めに、このような問題が起こることなど全く何も知らないで、新年を迎え、「おめでとうございます!」と挨拶し合った、全く同じ「世界・社会・生活・生き方」に戻ることが本当の幸いでしょうか。ただ戻って、同じようになればよいのでしょうか。そのようになれるように、一所懸命お祈りすることがふさわしいのでしょうか。
私が恐れていることは、仮にこのコロナ問題が終わったとしますと、また私たち人間は、自分たち(人間力)の勝利をほめたたえ、創世記11章4節のように、自分たちの王国を建て上げたよう(再建?)とするのではないか、ということです。
大切なことは、この世界を造り、治め、完成へと導いておられる神様を恐れ、へりくだり、問題があってもなくても、このお方を自分の神様、王として歩んで行くことではないでしょうか。二度と、人間を神のようにすることがありませんように。
神様を恐れて愛して、神様が大切にしておられるこの世界(おかれているところ、地域)で隣人を愛して、必要なとりなしと親切を実行していきたいのです。
今週も、「罪人のかしら」のままですが、御霊に満たされ、導かれて、なすべきことを求め、実行していきましょう。
*神様に愛されている子どもとして、神様を愛し、隣人を愛しましょう。
*大きなことも小さなことも、あわれみ深い父なる神様が喜んでくださることを、子どもとして見分けて、行いましょう。・・・このようにして、神様の栄光をあらわしましょう。
*「永遠のいのちのために、もう少し」働くことができますように。・・・神様の畑で、種を蒔いたり、蒔かれた種に水をやることができますように(
今週も、神様のお守りがありますように。主は共におられます!ハレルヤ! | 2020-04-20 07:34:25[投稿番号:152] |
ナウエン著『すべて新たに』を読んで | コロナ対策・・・ | きょうの安息時に、『すべて新たに』を読み終えた。100頁足らずの小冊子であったが、本当に価値のある、スピリチュアルな本であった。全ての人にお薦めしたい。
第三部の『求めなさい」には、一人で静まる修練とコミュニティの修練について記されていた。特に後半から、いろいろ考えさせられた。兄姉の間に臨在して導いておられる御霊に目を向け、御霊に聴くようにという勧めであった。私は、ややもすると、コミュニティに入ると、共にいてくださる「神様」を忘れてしまう。いくら、日に4度、5度、時間を決めて祈っていても、コミュニティ(神様にあるいろいろな交わり、関係)に入ると、臨在を忘れてしまう問題を抱えている。もちろん、他の兄姉と話しているとき、その兄姉に集中するのは当然である。しかし、ナウエンは、さらに、そこにおられる聖霊の語りかけに注目せよと言っているようである。ここは、私が学ぶところ、教えられるべきところであろう。
さて、今日のディボーション箇所は、1コリントの3章で、16節に、教会に内住しておられる神の御霊のことが書かれていた。
私は、コロナ問題に直面しながら、どうしたら、教会の交わりを再生することができるか考えていた。家内の最近の口癖だが、コロナ・ウィルスは、私たちにとって最も大切なところである「交わりや関係」をどんどん切っていく。教会内の関係、国と国、民族と民族、地域と地域、家族内で、親子や夫婦の間を切っていく。
確かにそうである。これは、もっとも大切で、ひょっとしたら最も弱い部分であるかもしれない。しかしきょう、みことばとナウエンから教えられたことは、それでも、教会の交わり(関係)にご聖霊は内住し、これを守り導いておられるということである。だから何もしなくていいという意味ではないが、御霊は、コロナが切っていくところを、または、切ろうとしているところを、つなぎ続け、癒し、守っていてくださるということである。ハレルヤ!
もっともっとご聖霊の内住とお働きを信じていこう!ハレルヤ! | 2020-04-06 18:05:47[投稿番号:151] |
前回の続き…コロナ対応! | ヘンリ・ナウエン著『すべて新たに」 | つづけて、教会として、牧師として、今のコロナ問題にどのように対応していったらいいのか、考えています。
この問題が、世界大に広がり続け、また半年、一年以上つづくことを考えて(予想して)、その上での教会形成、牧会のあり方を再考していく必要があるでしょう。例えば、会堂中心主義を見直していく、より多くの人々が集まって、より多くの人々と共に、より多くの活動していくあり方、やり方の変更・・・
今、振り返ってみますと、DoingとBeingのバランスを考えながら、牧会をさせていただいてきたと思っていましたが、多くの教会活動が止まってしまった後・・・思っていた以上に、どんなに多くのdoingがあったか(ありすぎていたか)、考えています。
こういう時には、聖書の初代教会時代に戻って、もう一度、「教会とは?」について考える必要があるようです。2000年後の今の時代にやっていることを、初代教会の時代に戻すことはできませんが、教会の根本的なあり方について確認し、もう一度、大切なこと(だけ)に立って、今の時代にふさわしい適用を求めていくことになるでしょう。
使徒の働きの2章42節からは、初代教会が、4つの大切なことに専心していたことを見ることができます。「みことば、まじわり、せいさん、いのり」です。
これらの4つを、今の時代(今の緊急時?)に当てはめながら、再度、考え、適用していきたいと考えるようになりました。
これまで、月曜日の安息日(時間)には、スキャゼロ著『情緒的に健康な教会をめざして』を読んできました。本当に教えられることの多い本でした。これで、2回、3回(?)読んだことになります。良書は、何度読んでもいいし、教えられます。
先週からは、ヘンリ・ナウエンの『すべて新たに』を読んでいます。小冊子ですが、これもまた、お薦めできる本です。カトリックの超有名な先生ですが、何年も前から、プロテスタント・福音派の中でもよく知られるようになりました。いくつかの著書はすでに日本語に翻訳されています。
本書は、私自身が求めている『スピリチュアリティ』の真のあり方、方向性などと、ピタリ一致していて、しかも分かりやすく説明しています。御父と御子の関係、御子が人として来られたことの意味、そのあとの聖霊の働きなど、聖書的で教えられることが多くあります。伝統的神学の中で、しばしば聖霊のことを、御父と御子の間の「愛」と呼ぶことがあり、ナウエンもそう言っていて、賛成しませんが(御霊はそれ以上のお方なので)、しかし読んでいただく価値は大いにあると思います。
コロナ対応の牧会的知恵があたえられますように。ハレルヤ! | 2020-03-30 11:15:10[投稿番号:150] |
最近、教えられていること | コロナ・ウィルスのこと(2) | 教会の中でも外でも、まず話題になるのはコロナ・ウィルスのこと。前回、3月3日にこのことについて書きましたが、もう3週間以上経ってしまいました。考え、祈っていることはあまり変わりませんが、ヘブル書を読みながら教えられたことがありましたので、付け加えさせていただきます。
新約聖書に含まれる27書の中で、人々(聖書読者)が迫害の中で最も苦しんでいるように見えるのは、ペテロの手紙、黙示録、そしてヘブル書です。ヘブル書を読みながら、書かれたみ言葉の端々から、人々の苦しみが伝わってきます。そんな中で、ヘブルの著者は勧めています。
「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか(10:23?25)。・・・ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります(10:35)。
其々おかれた状況、迫害の内容は違いますが、どのようにして、今の私たちは、「自分たちの集まりをやめたりせず、励まし合って」いくことができるでしょうか。確かに、クリスチャンにとって最も大切なことの一つである「交わり」、迫害や苦難において、なおさら必要になる「交わり」が失われていくことを考えると、これはサタンの知恵ある仕業であると言わなければならないでしょう。クリスチャンにとって最も本質的で、最もナイーブなところを突いて来ているとも言えるでしょう。
今、牧師として、どのようにこの問題に対処し、補っていけるか考えています。これが、このまま、2か月、3か月以上続いて行ったら本当に大変です。サタンが「シメシメ」と喜ぶだけです。また、「問題」の中で、どのように「教会」は歩み続け、牧師はどのように「牧会」をしていくのか、今までの「通常?の」牧会を変えていくことになります。また、教会の皆さんにも、「問題」の中でのクリスチャンとしての(新しい?)生き方をお勧めしていく必要もあるでしょう。
私たちがこれまで大切にしてきた「土台」は変わりませんが、変わるところ、変えていくところはあるでしょう。
私のヘブル書の学びは終わっていませんが(ディボーションで)、ヘブル書の著者は、少なくとも、四つの大切なことを教えていることが分かります。第一に、私たちには、天の御座に、憐み深い大祭司がおられます。第二に、私たちには、私たちを真の子として扱い、訓練していてくださる御父がおられます。第三に、御言葉を通して語りかけ、ふさわしい適用に導かれるご聖霊がおられます。第四に、教会(小さなグループから、世界大のグループまで)の交わりが与えられています。
ヘブル書12章から教えられることは、これらの酷い迫害や苦難も、私たちの御父にあっては、愛する子どもに対する「訓練」になっているということです。ただ、サタンが傍若無人にこの世界を荒らしまわっているだけではないのです。すべてを支配し導いておられる神様は、これらを敢えて用いて、これらも愛する子どもたちへの「訓練」に変えて、用いておられるということです。
増々、三位一体の神様を恐れへりくだり、さらに近づき、ともに歩んで行きましょう。ハレルヤ! | 2020-03-27 07:19:59[投稿番号:149] |
コロナ・ウィルスのこと | …どう考え、どう行動するか? | 東日本大震災が起こった時、いろいろ考えさせられたが、今回は、コロナ・ウィルスが蔓延していく中でいろいろ考えるようになった。
2月中ごろに東京に住む友人から「コロナ肺炎のために祈りましょう」というメールを受けた。これをもらった時、この問題は、まだまだ対岸の火事のようで、「そうだ、そうだ、祈らなければ」とまでは思わなかった。しかしこの火事は、見る見るうちに燃え広がり、今、目の前まで来ている感じである。気づくのが遅すぎると言われればそれまでだが、今、神様の前に祈りつつ、いくつかのことを確認しておきたいと思うようになった。
コロナ・ウィルスが出て来たのは、人為的なものか、より自然的突然変異的なものであるかわからないが、ここに、人間の罪と愚かさとともに、悪魔の働きがあることは確かである。ただし、その背後で、これを神様が敢えて許しておられることも見逃してはならないと思う。
私は、コロナウィルス問題の早期解決のために祈るとともに、これらを通して、私たちがよく学び、神様の前にへりくだり、正しい恐れをもって、歩むことの大切さを教えられている。
このウィルス蔓延に加担しないように自分の行動を注意するとともに、その問題の渦中で、積極的に、個人として、教会としてできることは何か、求めていきたい。ただ、ウィルスから自分たちを守ることだけを考えるのではなく、このような状況にある人々、社会に対してどのように応答していくことがよりよいのか、教えられていきたい。
この問題が出てくる前、私たちの世界とその中に住む私たち人間の知恵と力は、全知全能の神のようであった。「AI」を利用しながら、何でもできるような勢いであった。しかし今、本当に微細なウィルスによって、この人間社会の脆弱が晒されている。政治経済、社会、すべてが揺り動かされている。あの「神の声だ」とたたえられたヘロデ王が一匹の虫によって突然、いのちの息の根を止められたように(使徒12章)、また神様によって、瞬く間に人間の力の象徴であったバベルの塔建設が頓挫してしまったように(創世記11章)・・・である。
もう一度、本当にすべてを支配しておられる神様こそ、正しく恐れたい。しばらく静まり、祈り、礼拝したい。その上で、その神様から愛と知恵をいただいて、今の時代、今の社会になすべきことは何か、個人として、教会としてよく考え、祈り、求めていましょう。
今も後も、永遠のいのちとその約束が与えられているので、人間的な恐れに縛られないで、どんな時も神様と共に歩ませていただきましょう。普通の日々も、そうでない日々も、ハレルヤ! | 2020-03-03 07:29:56[投稿番号:148] |
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