ワーダン・スピリット(みことばと御霊) | 先週と今週は忙しかった! | 先週と今週は特に忙しかった。出版社の「地引網出版」から、著者としてチェックするための最後の資料が届いたからだ。ほとんど「本」に近い版組で、合わせて700頁ほどあって、びっくりした。慄いた。確かに考えてみれば、以前、5年半の間連載させていただいたものを集めたわけであるから、それくらいになるはずである。
毎日、この700頁のものを最終チェックしたが、いろいろな問題が出てきて、書き直したり、訂正をお願いするのに相当な時間がかかった。出版準備していてくださる方々には相当な迷惑をかけ、たくさんのご苦労をお願いしていることになる。とにかく、申し訳ない気持ちである。
しかしまた、神様に対して大きな感謝が湧いていることも確かである。「ワーダン・スピリットの会」の活動を初めて19年になるが、やっとこの活動の半分である「ワード」についての学びをまとめることができるからだ。書名は、『ジャンルを大切にして聖書を読む』で、いよいよ出版の時が見えてきた。
もちろん、「ワード」と「スピリット」はいつも一つなので、本書の中にも、いろいろな形でご聖霊のことについて書いている。
これからは、さらに「スピリット」に関しては、学んできたこと、学びつづけていることをまとめていきたい。こうして、「ワーダン・スピリットの会」の働きを全うしていくことができればと考えている。
なお、『舟の右側』(10月、11月、12月)で、「ガラテヤ書における”キリストのピスティス”」について書かせていただいている。興味のある方は、ぜひ、お読みください。このような「叩き台」のような働きであるが、神様の憐みのゆえに、御国の働きの中に加えていただけたら本望である。ハレルヤ! | 2020-10-01 21:24:00[投稿番号:165] |
コロナ禍を生きる | 「忍耐をもって歩む」 | 「コロナ禍をどう生きるか」・・・これは、私の心にいつもある質問である。先週の礼拝メッセージのテーマも「コロナ禍を生きる?御父と御子と御霊によって歩む」であった。他の人たちに語るためだけでなく、自分自身がこれからも生きていくために必要な質問である。
最近、ディボーションでは、パウロの手紙が終わって、その後、ヘブル書、ヤコブ書、ペテロ書などを読んできた。特に、ヘブル書やペテロ書の背景には、最も激しい迫害があったことを強く思わされる。そのような中で、聖書記者は読者に何と教えているか。また、神様は、聖書記者を通して、何と語っておられるのか。現代の私たち(私)が期待しているような「完全な解答」では、ある意味、ないことに驚かされる。聖書記者も神様もそのようには語っておられないのだ。繰り返し教えていることは、「忍耐をもって歩む」ことである。
例えば、ヘブル12:1「・・・忍耐をもって走りつづけようではありませんか」、12:7「訓練と思って耐え忍びなさい」、ヤコブ1:3?4「信仰がためされると忍耐が生じる・・・その忍耐を完全に働かせなさい」、5:7?11「主が来られるまで耐え忍びなさい・・・あなたがたも耐え忍びなさい。」、1ペテロ2:19?20「善をおこなっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」
忍耐の裏側には、もちろん信仰がある。忍耐と信仰は聖書において一つである。そしてこの信仰は、私たちのために愛をもって耐え忍ばれた御子イエス様を覚えることである。聖書の記者たちは、ただ単に、終わりの時の完成を待望して、「耐え忍ぶように」と言っているだけではない。この待望は、また再び、今の忍耐の歩みに帰ってきて、今、置かれた時代を生きるための力、喜び、知恵になるのである。
最近、ポール・マーシャル著『わが故郷、天にあらず』を読んでいる。『今の世界をどのように生きていくのか』という、非常に大切なテーマを徹底的に、また分かりやすく実際的に取り扱っている稀有な書である。これを読んでいて驚いた。この本の最後に近いところに、『耐え忍ぶ』章があったのだ。やはり、ここにも、大切で不可欠なポイントが語られている。
イエス様が人となって来られたことの意味に関して、最近考えるようになったことがある。御子が「人」となられた瞬間から十字架の死まで(いや、今も天の御座で)、私たち人間が経験する「すべて」のことを負われ、味わわれたのだ。地震も津波も、飢饉も、戦争も、疫病(コロナ)も、病気(癌)も、とにかく、ありとあらゆることを身において、私たちの代表として、耐え忍んでくださったのだ。最近、このように考えるようになった。つまり、後の時代に起こるすべての問題も、地球の端っこで起こったすべての問題もである。これが、御子の受肉であり、生涯であり、十字架であると考える。
だから今の私たちの時代のコロナ禍も、御子はご存じで、共に負っていてくださり、共に忍耐していてくださると言える。私たちだけが、この問題を負って忍耐しているのではない。ハレルヤ! | 2020-09-14 20:56:07[投稿番号:164] |
8月の休暇から | 四つの目標 | 今週、休みをいただいてゆっくり過ごしている(?)。コロナ禍で長期間の旅行はできないが、休暇の間にやるべき(やりたい)四つの目標を立てた。
第一は、読みかけの本を読了すること・・・ダラス・ウィラードの『心の刷新を求めて』である。月曜日の私の安息日ごとにこの本を少しずつ読んでいたが、きょう、なんとか読み終えることができた。分量も内容もあって集中して読むのが大変だった。何回も繰り返して読んでいい本である。
第二は、地引網出版からほとんど最後の部の校正されたデータが届いたので、これを確認にして送ること・・・これも、すべて確認し、直すべきところを直して送り返すことができた。
第三は、家内が一番願っていることを実行すること・・・家内は海を見に行きたいと言うので、家族四人で知多の海まで出かけた。暑くて暑くて、熱中症になりそうだったが、一緒に食事をして帰ってくることができた。エビが美味しかった。
第四は、オンラインで、ハングルの学びを集中的にすること・・・娘が韓国人の兄弟と結婚したので、ハングルの学びをするための強い動機が与えられた。それで、オンラインを使って学びをするようになった。今回、自分の発音がどれほど駄目で、また聞くことに問題があることがよく分かった。
休暇もあっという間に終わろうとしている。
神様との交わりで教えられたことは、本当に正直に神様の前に出て、神様と交わり、祈ることであった。いつの間にか、神様との間にオブラートがかかったような感じになっていることに気づいた。あらためて神様に祈り、交わりを整えていただき、再出発することができた。
これがすべて、再出発するための「原点」ですね。ハレルヤ! | 2020-08-28 15:23:15[投稿番号:163] |
コロナ禍のBeingとDoing | ・・・今をどのように歩むか? | コロナ禍がいつ収まるのか誰も分からない。神様は、私たち人間にとって、「交わり」がどれほど大切で不可欠なものかよくご存じである。神様は、エデンの園時代から、私たちにこの恵みをずっと与え続けて来られた。教会の内外で「交わり」は必須である。しかしコロナ・ウィルスは、正に私たち人間に無くてはならないいのちの「交わり」にまで入って来た。私たちは、感染しないように、「交わり」とは真逆の「ソーシャル・ディスタンス」を選ばなければならなくなっている。
私たち人間が、神様によって与えられたこの素晴らしいいのちの恵みを、長い間乱用してきたことは否定できない。より良いことに使わないで、より悪いことに使って来たことは確かである。神様は、人間生活にとって欠くことのできないいのちの交わりをご存じの上で、敢えてこの恵みを止めてまでして、神様も痛みながら、この恵みの必要性とこれを相応しく用いることをもう一度、私たちに教えておられるのではないか。
今、コロナ禍の中で、自分自身の「Being」と「Doing」について考えている。これらの二つは実際には簡単には分けられないものであるが、ここでは一応、分けておきたい。
「Being」は、確かにコロナ禍において、時間的には増えて来たと言えるだろう。しかし、神様との交わりという観点から言うなら、どれくらい「交わり」が深まり、豊かにされていると言えるだろうか。わたし自身について言うなら、これまで考え、実行してきた「Doing」が少なくなってしまったことについて、くよくよ考えることがより多くなったと言えるかもしれない。忙しい「Doing」の合間に、貴重な時間を絞り出していた時のほうが、「Being」らしい時間の使い方ができていたかもしれない。・・・心鎮めて、神様の御前にこんな自分自身をも、そのまま注ぎださなければならない。これこそが、コロナ禍であろうとなかろうと、私にとっての「Being」の中心のはずであるから。
「Doing」は、コロナ禍で非常に制限を受けている。以前のように、牧会、教育、訪問、伝道のために走り回ることができなくなり、歯がゆい思いでいっぱいになることがある。ぜひ、祈っていただきたい。そんな中で、ヘブル書13章13節から考えさせられた。「ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」・・・宿営の外におられるイエス様のことを考える。宿営の外で辱めを受け十字架に掛られた。では、イエス様がおられる宿営の外に、今の私たちが行くとは、どんな意味なのか。イエス様は、今、宿営の中におられないということではないだろう(ここにもおられる!)。しかし宿営の外におられる御子に従うとは、何を意味するのか。さらに、外におられる御子の辱めを負って出ていくとは何か。ただ、何でもいいから外に出ればいいということではないだろう。
もしヘブル書の中にその答えがあるとしたら、12章2節にあるように、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」になるだろう。また4章14?16節にあるように、「…恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」になるだろう。…かつて、宿営の外で十字架にかかってくださった御子は、今、天の御座で大祭司として臨在し、日々取り成しつづけていて下さるのだから。
以前のようには外に出られないが(数は少ないがそれでも)、外で会う人たちとの出会いや、教会の会堂に来られる方々との交わりを大切にしながら歩んでいくようにしている。また、イエス様を信じていない人たちには、その人の救いを願いながら、クリスチャンたちには、霊的成長を願いながら、対応していこうと考えている。そして祈って、本当に大切なことと確信するなら、そう思うなら、いつでもどこへでも出て行こうと思っている。
今週は、ほとんど毎夕、家内とともに、教会の草刈りや木々の伐採を、熱中症にならない程度に続けている。これは、コロナ太り対策の一環であり、外に出るという行動の一つでもある。御霊に助けていただき、導いていただいて、外に出て行こう。イエス様も共におられるから。ハレルヤ! | 2020-08-15 21:38:22[投稿番号:162] |
J.I.パッカー逝去 | 恩師のめぐみ | きょう、クリスチャン新聞を開いたら、パッカー先生の逝去のニュースが第一面にあった。記事を読みながら、いろいろな恵みの思い出が溢れてきた。
パッカー先生と最初に出会ったのは、『神について(Knowing God)』という本を通してであった。みことばをベースにして、(組織)神学とスピリチュアリティ(霊性)が分かりやすく豊かに混ぜ合わされた本であった。読んだ時の感動とその影響は凄かったし、継続した。今でも、その時本書から学んだことが、自分の神学と信仰生活の核になっているのではと思う。
34年ぐらい前に、留学の導きを神様からいただき、その確信が与えられつつあったとき、もし学べるなら、この先生の下で学びたいと考えるようになった。そこで探したら、なんとイギリスではなくて、カナダのバンクーバーで教えておられることが分かり、カナダに行く準備を始めた。
神学校において、一人の教授と一対一で一学期間、個人的に毎週1回会って、アドバイスを受けることができるというクラスがあった。私は、もちろん、パッカー先生にお願いして、先生のもとで、聖霊論の学びをするようになった。そして、一学期間、アドバイスを受けなら、何本かのペーパー(小論文)を書くことができた(ヨハネの福音書の聖霊、ガラテヤ書の聖霊、聖霊論の歴史、セセーショニズムについてなど)。また、卒論のアドバイザーにもなってくださった。
先生の授業を受けていると、思わず、神様を礼拝したくなったり、日本に戻って、伝道の働きがしたくなったりしたものだ。そんな雰囲気の授業だった。
神様は、日本にいるときから、パッカー先生との出会いを備え、そして実現させ、今もその恵みの中に置いていてくださるように思う。
一言で言えないが、とにかく偉大な先生だった。しかしまた、この先生も、神様が生み出し、導き、育て、豊かに用いられて来られた神の子どもである。その大きな恵みの下に置き、その恵みを味合わせていただいたことを感謝したい。
今でも自分自身の神学、聖霊論、スピリチュアリティ(霊性)の源はパッカー先生にあるのではないかと考えている。
大きな感謝を神様と、神様にあるパッカー先生に捧げたい。ハレルヤ! | 2020-07-30 17:54:39[投稿番号:161] |
ユダヤ人と異邦人(!) | ローマ9?15章から教えられたこと | 大げさなタイトルをつけてしまった。
実は、昨晩、近所にイスラエル人がいて、店(キッチンカー)を開いていることが分かったので出かけて行った(実は、これで三度目である)。水曜日の夕方から夜にかけてだけ、自宅の駐車場で店を開いていることを、あとで知った。
簡単な挨拶をし(シャローム!)、日本語でイスラエルのことなどいろいろ話すことができた。イスラエルには、8年前と3年前に行ったが、本当に懐かしいイスラエルの食事(シャクシュカ)を買うことができた。ファラフェル(ひよこ豆、クスクス)も始めるとダニエルさんは言っていた。家に帰って、家内とイスラエルの話をしながら、シャクシュカとビーフラップを食べることができた。中東の味もよかった!
なぜ、こんな出来事を書いたかと言うと、最近、ローマ人への手紙を読みながら(特に後半の9章以降で)、ユダヤ人と異邦人の関係(ローマ教会内で、またそれを超えて)についてあらためて教えられることがあったから。終末的には、神様のみこころによって両者が一つとされていくことが書かれ、ユダヤ人を尊敬し、大切にする思いがさらに強くされたと言える。
ユダヤ人と異邦人(クリスチャン)との関係は、これまで多くの場合、最悪であったかもしれないが、世の終わりの完成に向かって、新しくされていくのではないかと考えている。いろいろな神学的な立場と解釈はあるが、私としては、民族としてのユダヤ人を尊び、少しでもよい交わりをもっていければと考えている。
トランプ流のやり方は認められないが、神様が最初に選び立てられた器であるユダヤ人から多くの霊的な恵みを受けて来たことは確かなので、今度は、なんらかの形で、霊的に物質的に応答していきたいと感じている(ローマ15:27)。
イスラエルの人々は、どのような形で御父と御子と御霊に戻って来るのか。これからも神様のくすしい導きの御手を信じ、待ち望んでいきたい。ハレルヤ! | 2020-07-09 07:01:42[投稿番号:160] |
ワーダン・スピリットとは? | 最近考えていること | 最近、ずっと学び考えていることは、ガラテヤ書やローマ書などにおける「ピスティス(信仰、真実、忠実)」(ギリシャ語)の意味についてである。新改訳(第三版、2017訳)と聖書協会共同訳を比較すると、ガラテヤ書もローマ書もだいたい3章あたりで、翻訳が違ってくる。新改訳は従来通り「キリストを信じること」とし、協会訳は「キリストの真実」としている。どちらをとるかによって、聖書解釈が少し変わってくる。
かなり時間がかかったが、やっとまとめに入ってきた。実際には、まとめるのが非常に難しい。解釈的な判断は簡単ではないことがよく分かった。しかし自分なりに、暫定的でもいいから結論を出さないといけないだろう。
論文を書いているとき、しばしば問われることがある。何のために書いているのか、だれのために書いているのか、である。自分の栄光のために書いていたら、意味はない。むなしい業である。神様が喜んでくださるために、また喜んでいただけるように書くことを、また最近教えられた。特にローマ書後半9章以下を学びながら、強く教えられた。論文を書き進めてきたが、書き直す必要もあるかもしれない。
また、私が大切にしてきたことは、「ワーダン・スピリット」だから、これにふさわしく考え、書く必要があることだ。つまり、「御言葉と御霊」を大切にすることだ。ややもすると、両者を分けて、御言葉を大切に、御霊を大切にしてきたかもしれない。そうではなくて、御言葉を大切にすることは同時に、御霊を大切にすることであり、御霊を大切にすることは御言葉を大切にすることである。両者はいつも一致し、いつも相互的に響き合うもののはずである。御言葉は御霊によって生み出され、御霊によって読んでいくものであり、御霊は御言葉によって知っていく、知らされていくお方である。「御言葉と御霊」は一つなんだということをあらためて教えられている。
そのように毎日御言葉を学び、御言葉から教えられ、御霊に導かれ歩ませていただきたい。この恵みに基づいて、なんとか、今の論文もまとめさせていただきたい。ハレルヤ! | 2020-07-06 06:49:15[投稿番号:159] |
主にある方々の召天を通して思うこと | 最近考えていることから | 交わりのあった同労者や姉妹たちの何人かが、最近イエス様のもとに召されて行かれた。70歳の姉妹で約40年間、主にある友人、同労者として共に歩ませていただいた。一年間の闘病を終えて今、神様のもとにおられる。
50代の牧師夫人で、約8年前まで稲沢教会のメンバーでした。お会いしたのは一回だけでしたが、主を愛し仕えて来られた姉妹でした。先週、ちょうど一か月経ったので、近くに住んでおられる姉妹のご両親を訪問した。姉妹の祈りは、遺された家族の救いだったに違いありません。
40代の姉妹で、子どもさんが一人おられた。癌であることを聞いたのは、一年位前だったか。いつからか分からないが、神様のもとに戻り、歩まれるようになった。訪問すると、神様をお証する「器」になりたいと言っておられた。
2コリント5章を読んで教えられたことがある。天に召されるということは、「着替え」が完了することを意味している。現在の身体は天的な永遠に間に合わないので、どうしても「新しいからだ、御霊のからだ」を着る必要がある。ある人の場合、この着替えに1年以上時間がかかるでしょう。また、ある人の場合には、突然着替えの時がくるでしょう。いや、クリスチャンにとっては、御子イエス様を信じて永遠のいのちをいただいたときから着替えが始まると言ってもよいでしょう。そして完成に向かって、少しずつ、少しずつ、着替えをしていくのである。
また、ローマ8:29からも最近教えられた。私たちは、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」とある。ですから、今も後も、御霊によって、私たちは「御子のかたち」に変えられていくのです。こうして、「多くの兄弟たちの中で御子が長子となる」のです。どうしても、御子が、私たちの「長子」になられることについて違和感があった。しかし私たちはその時に向かって、御霊によって変えられていくので、長子である御子の「弟?」にしていただけるのです。なんというあわれみでしょうか。御子は長子、私たちはその弟妹たちなのです。
終わりの時が近づいて来ているのを感じます。限りある人生の中で、「永遠のいのちのためにもう少し」働きたいと願っていますが、毎日毎日、大切な時間を自分のためだけに使ったり、与えられている永遠のいのちにふさわしく変えられていかない自分に苛立ったり、焦ったりします。
自分の力では何もできないので、きょうも、模範者であり長子である御子イエス様を仰ぎながら、御霊によって一歩一歩歩ませていただきます。ハレルヤ! | 2020-06-30 07:08:18[投稿番号:158] |
信仰のバトンタッチ! | 娘の結婚を通して考えていること | 先週の土曜日に娘の結婚式がありました。これまで何度も結婚式の司式をしてきましたが、娘と共にバージンロード(カーペットはありませんでしたが)を歩いたのは初めてでした。一番、緊張した瞬間でした。「ロボットのように歩かないで」、と周りから言われて、余計緊張しました。
コロナ問題の最中で、参加者も最少人数。婿の両親は韓国に住んでおられるので、結婚式に来ることができず、ユーチューブ(限定)で韓国、アメリカ、カナダにも、同時配信しました。
それでも、たくさんの感謝と恵みにあふれた結婚式になってよかったと思っています。娘が生まれた時に娘を神様に捧げましたが、結婚のときに(誓約の時?)、もう一度、神様に娘をお捧げしました。とにかく、神様の栄光が表された結婚式になったかもしれないと思っております。娘を私たちに与えてくださった神様に心からの感謝をお捧げします。
娘の結婚式を通して、いろいろ考えてきたことがありますが、その中で何よりも、心に強く残っていることがあります。それは、私たち夫婦の信仰を娘たちにバトンタッチすることができたなあ、ということです。大げさな言い方ですが、私たちの信仰のgeneration(神様と共に歩んできた信仰の道)を、新しいgeneration(娘たちの信仰の道)に手渡すことができたという感謝です。
もちろん、これから二人はどのような道を実際に進んでいくかわかりません。韓国人と日本人ということだけでも、たくさんの戦いや問題が予想されます。しかしこれらのことは大きな問題ではないでしょう。
彼らも、彼らのやり方で、彼らに神様が預けられた賜物を用いて、神様を喜び、神様の道を二人で共に歩んで行ってくれたらよいのです。私の信仰の道(generation)はもうすぐ終わりを迎えるでしょう。しかし、何らかの意味で、つながりをもって、彼らが新しい信仰の道(generation)を進んでくれることは何と幸いでしょうか。彼らのために何か特別なことをしたわけではありません。偉そうなことは全く言えません。すべては神様の憐みです。特別な遺産もありません。しかし私たちが歩んできた道から何らかのものを見つけて、繋いで行ってくれたらそれだけで嬉しいのです。
generationからgenarationへ、神様の大きな支配と導きは続きます。神様に感謝いたします。ハレルヤ! | 2020-06-18 07:10:18[投稿番号:157] |
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