最近のディボーションから
「ディボーション・プラス」運動のすすめ
最近のディボーションで変わってきていることがいくつかあります。

第一は、毎日、10時、2時、5時、8時にお祈りをしていますが、少し図々しくなって、何かの途中でも、できるだけ時間を止めて、祈るようになりました。
誰かと話をしているときでも、テレビを見ているときでも、できるだけ…。

第二は、10月18日の礼拝メッセージでお話しをしたと思いますが、祈りの目的は「祈り」ではなく、「神様を意識し、神様と交わり、歩み続けていく」準備です。ですから、できるだけ、「お勤め」としての祈りではなく、「祈り」と「祈り」の間も、神様と共に歩むことができるように、準備の色合いが強くなってきたように思います。

第三は、以下にあるように、「ディボーション・プラス」運動のための「祈りのしおり」を、もう一度思い起こしながら、始めています。これは、本当にお祈りを助けてくれますね。皆さんも、参考にして、祈ってみてください。おすすめします。ハレルヤ!


祈りを助ける「祈りのしおり」」
第一:朝のディボーションで教えられたことを思い出します(忘れている場合は、聖書を開いて確認します)。

第二:三位一体の神様の三重の愛と恵みで導かれていることを黙想し味わいます(これは永遠のいのちの恵みです)。

第三:それまでに起こったことを、神様の御手から受けとり、感謝します(祈りと祈りの間に起こったことです)。

第四:大きなことも小さなことも神様と相談し、父なる神様が喜んでくださることを選びます(また、神様のみ心を求めて待ちつづけますが、委ねられていることも多いので、どちらなのか確認していきます)。

第五:瞬間の祈りを断続的にします(いつでもどこでも、短くても、神様が「アバ父」であることを覚え、御父と交わり、祈りつづけることを確認します)。

第六:神様のみ心は、私たちが神様を愛し、隣人を愛することです(マルコ12章29-31節)。神様に従って行かないと神様の臨在感は薄れていきます(瞑想やお祈りが終わったら、愛(御心)の実践が不可欠です)。

第七:御霊に満たされ、導かれて歩むことを確認します(御霊の満たしと導きなしに、愛を実践することはできません。「子とする御霊」が内住しておられることを確認し、御父の栄光を表す神の子どもとして出て行きます)。
2020-12-03 18:20:35[投稿番号:171]

最近、教えられていることから
礼拝メッセージから教えられる(つづき)
 11月16日にブログを更新したつもりでしたが、ここに出てないので、少しびっくりしました。振り返るとともに、最近教えられていることも付け加えたいと思います。

11月8日の礼拝メッセージから、説教者として特に教えられたことがあります(ルカ11:29?36)。この時点で御子は、はっきりとご自分のことを「この時代のためのしるしとなる」(30節)と表明されたことに注目しました。「しるし」の意味は、この場合、多くの奇跡のわざではなく、「十字架と復活」のことです。イエス様は、ご自身に対する不信仰で反抗的な人々に向かってこのように語っておられるのです。「十字架と復活」は一方で本当に信仰の要るしるしですが、またここに、十字架と復活に向かっていかれる御子の愛と献身の姿を見ることができます。御子の愛の献身がしるしなのです!

11月15日の礼拝メッセージから説教者としてとくにおしえられたことは(ルカ11::33?54)、私自身も、パリサイ人たちと共に御子の教えを聞かなければならないということでした。ややもすると、御子や弟子たちと一緒になって、律法主義的な人々の問題を責めてしまうところでしたが、自分にも、同じ問題があることに気づかされ、御子の教えに聴き従うことを教えられました。律法主義には、成長はありません。律法主義者たちを教師にするのではなく、御子を教師にするように導かれていることに感謝しました。

11月22日の礼拝メッセージから説教者として特に教えられたことは(ルカ12:1?12)、自分も本当に怖がり(ビビり)で、「恐れ」から解放され続けていく必要を教えられました。私たちを愛して守っていてくださる神様に、心の奥底に隠れている恐れも含めて、お委ねすること、そして、真に恐れるべき神様を恐れることが、間違った恐怖から解放される道であることを教えられました。人を恐れる者から、人を愛する者に変え続けてくださるようにいのりました。

最近、ずっとディボーションでは、詩篇を読んでいるのですが、52篇8節から教えられました。「しかし私は、神の家に生い茂るオリーブの木。私は世々限りなく、神の恵みにより頼む。」
実は、私の書斎の机から2?3メールの所(窓のすぐ外)に、オリーブの木が茂っているのです。1か月前に、苦労しながら、生い茂っていたオリーブをカッティング(剪定?)をしました。一年前にもキレイにカッティングしたのに、またこんなに伸びたんだと、その生命力に驚き、呟いたのですが、そのことを8節を読みながら思い出しました。

皆さん、オリーブの木の生命力は凄いです!一年で、「倍」とは言いませんが、凄く成長します。このオリーブの木を考えながら、今回は、「私は世々限りなく、神の恵みにより頼む」という詩篇の記者の凄い意気込み、やる気、力強い告白を覚えました。

「霊性」というと、まず静かで、ゆっくりと、へりくだって主に従い、主と交わっている姿を思いますが、ここからは、むしろ、力強い、忍耐強い、生命力のある「霊性」の姿を感じます。ハレルヤ!
2020-11-25 20:27:50[投稿番号:170]

最近、教えられていることから
礼拝メッセージから教えられる
 最近、礼拝メッセージの準備をしながら、また実際にメッセージを語りながら、また、メッセージの後、小グループで、みことばや礼拝メッセージで教えられたことなどを分かち合いながら、よく教えられるのです。。。

教会に来ておられる兄弟姉妹は、たいてい、礼拝メッセージとそのみことばから教えられるのですが、説教者は、礼拝メッセージをしながら教えられていきます。本当にそうです。メッセージの奉仕をしながら、教えられ、礼拝を捧げていくのです。

最近、教えられていることとして、例えば、10月18日と25日のメッセージからは、神様との交わり(縦の基軸)と神様にある互いの交わり(横の基軸)の大切さについてお話ししました。そして、横の基軸を大切にしていくと、これがまた、縦の基軸とその祝福に戻っていくことを教えられました。ですから、縦の基軸がもっと恵まれる方法は、横の基軸を大切にするということです。

10月25日のメッセージ箇所は、1ペテロ4:7?11からでしたので、あらためて、神様が私たちに委ねれている「賜物」についてお話ししました。第一コリント書などから私たちは、特定の賜物だけを「賜物」として考えがちですが、ローマ12章からは、「賜物」がもっと広く使われていることが分かります。そして今回は、もっと広く、私たち一人が、それぞれ最高の形で、神様の前に「賜物」であることを学びました。「賜物」の原意は、恵みであり、その表れが「賜物」です。私たち一人ひとりは、豊かに、神にある「賜物」として育てられ、導かれ、今があるし、これからがあるのです。そう、思わされました。

11月1日のメッセージ箇所は、もう一度、ルカの福音書11章14節以下に戻りました。ここは、霊的な戦いについて書かれているところで、準備する前から、ここは難しい、大変だぞ、と思っていました。しかし箇所に書かれているままをまとめ、お話しすることができました。「霊の戦い」、「霊的戦い」と言いますと、すぐさま、戦いそのものに目が行ってしまいますが、霊的戦いのイエス様にこそ目を向ける必要があります。御子がすでに、御霊によって霊的戦いの勝利者であることが強調されています。これまでも、これからも、そして神様の霊的ご計画の完成においても、すでに御子が勝利者であることを信じ信頼して、従っていくことの大切さを教えられます。霊的戦いよりも、すでに勝利が与えられているので、御子を信頼してついていくことの大切さが分かります。

ほとんど毎週、礼拝メッセージの奉仕が与えられています。大変ですし、いろいろな意味でチャレンジです。あまりに大変なので、礼拝メッセージの準備期間を、1週間ではなく、2週間に変えました。それから、安心できるようになりました。緊張感が減り、じっくり、ゆっくり考え、祈り、準備できるようになりました。もっとも昔から、若い時からこのようにすればよかったと思っています。
とにかく、礼拝メッセージの奉仕が与えられていることは大感謝です。準備しながら、語りながら、振り返り、分かち合いながら、教えられます。ハレルヤ!
2020-11-09 15:58:22[投稿番号:169]

「Word」an「Spirit」の一つの実として
今後の働きについて
 きょう、編集者から印刷会社に送られたデータを受け取りました。いよいよ、『ジャンルを大切にして聖書を読む』の最終段階に入りました。ただお祈りしていることは、この本が少しでも用いられ、私たちの歩みが聖書のみことばに近づき、神様の御心に沿った歩みに導かれていくことです。毎日のディボーションが豊かに導かれ、これをもとにして、神様との交わりが祝福されたものになっていくことです。

2001年に「ワーダン・スピリットの会」を公にしましたが、その働きの一つの実として、特に「ワード(みことば)」に関する働きの一つのまとめになるかもしれないと考えております。
これからは、オンラインを利用して、出版される本の読書会を開くことを考えています。たぶん、毎週定期的に、継続していきたいので、本が出版されたら、「読書会」の計画を公にしたいと思っています。ご希望の方は、またブログなどでお知らせしたいと思いますので、メールでお申し込みください(たぶん、先着順で、20名位からスタート予定)。

また、現在、オンラインで、主に牧師さんたちと、二週間おきにある本を使っての読書会(月)、またHDYK(ヘブル語で伝道者の書を読む会)をやっていますが(これは月一回、月曜日)、「ワーダン・スピリット」の「スピリット」のほうを共にオンラインで学ぶ、「聖霊について学ぶ会(みことばから、また何かふさわしい本を使用して:SMK)」も始めたいと考えております。関心のある方、この会に関して要望のある方はご連絡ください。例えば、聖霊に関するテーマ、聖書箇所、推薦し共に読みたい著作など(まずメールでお願いします)。後で、ラインなどを使った情報交換も考えております。

とにかく、コロナ禍を通してですが、これほどにオンラインでの活動(主にZoom)が広まり、利用できるとは思いもよりませんでしたが、WordanSpiritの会も、この機会に、「Word」に関して、また「Spirit」に関しても、互いに学び、分かち合う機会を作っていきたいと考えております。いろいろなアイデアをお待ちしております。よろしくお願いいたします。

なお、「キリストのピスティス」の第三回の原稿を編集者に送りました。これで最後の原稿になりますが、『舟の右側』(10月、11月、12月号)をお読みください。コロナ禍で戦っておられるキリスト教文書活動を続けておられる方々をお支えください。

今回もお読みくださり、感謝いたします。ハレルヤ!
2020-11-03 15:53:23[投稿番号:168]

あらためて、「祈り」について
最近、教えられていること
「祈り」についての本が、私の書棚に20冊以上あります。全部読んだわけではありませんが、大部分は読んできたと思います。またある本は、繰り返し何度も何度も読んだものもあります。

その中で「一番教えられたと思う「祈りの本」を言って!」と言われたら、私は、ヤンシーの『祈り』を挙げるでしょう。550頁ほどありますが、皆さんにお薦めしたい「祈りの本」です。訳者の山本氏がこの貴重で長い本をよく訳されたと感謝したいと思っています。

ヤンシーとは、もう30年位前からのお付き合いです(一度も会ったことはありませんが)。英語のもの、日本語のもの・・・とにかく、これらの書によって、育ててもらったなあって思っています。J.I.パッカーの本を読んで(また講義を聴いて)、スピリチュアリティを感じますが、ヤンシーの本を読みながらも、スピリチュアリティを感じます。・・・両者とも、スピリチュアリティの領域の専門家ではありませんし、彼らの著書もちょっと違う分野に属していますが。

最近、ヤンシーの『祈り』の結論にあたる22章のある一部を読んで感じたことがあります。「この訳は正しいだろうか。ヤンシーの結論がちゃんと表れていないのではないか。」それで、自分なりに、英文のオリジナルは知らなかったのですが、ここは、こんな訳になるのではないかと、推測しながら、その訳文の脇にメモ書きをしておきました。そして、できるだけ安い値段で、中古の英文のオリジナルを注文しました。そして先週、それが届いたのです。

オリジナルを見て確認しました。やはり、私が想像していたような英文の内容でした。少し説明も加えながら、訳し直した箇所は、以下の通りです。

 ヤンシーの『祈り』から:22章(512-513頁)について:

…マルシアという画家の話を聞きながら、私は、どんなに安易に自分の生活を、区切っているかということに気づいた。
私は、祈りというものが、霊的な行動として、自分の生活の祈り以外の部分とは不釣り合いで関係しないもののように考えて来た。
私は義務感から時間をとって、時に喜び、時にそうでなく。それから、一日の実際の仕事に向かって行ったものであった。
(しかし)それ以来、私は、祈りがあることをする前のウォーミング・アップの運動のようなものとして見るようになった。
つまり、祈り自体が目的ではなく、他のすべての時間において、神様を意識することを増大させるという目的のための手段として考えるようになった。
(途切れなく)
私は、二つの祈りの違いについて、今学んでいるところである。一つの祈りは行動としての祈りである。もう一つは、より深い魂の姿勢のことで、私たちの思い(the mind)を神様に向かせる祈りのことである。
この意味で、祈ることは、雪かきからコンピューターのハードディスクを最適化(デフラグ)することまで、すべての行動(活動)を、新しいものに変えることができる。


どうして、そんなにここにこだわるのかと言われるかもしれませんが、私は、そしてヤンシーも(本書の結論?)、祈りと祈り以外の時間とが、相互に緊密な関係にあることを強調したいと思うからです。

「祈り」とは、神様との交わりであり、神様との交わりとは祈りであるからです。ですから、ヤンシーが言っているように、いのりは目的ではなく、祈りのゴールは、祈り以外の時間も神様と共に交わり歩んで行くことであると信じるからです。

もっともっと「祈り」が変えられていくことを願っています。ハレルヤ!
2020-10-21 18:05:17[投稿番号:167]

私の「隣人」は?
最近、考えていること!
 マルコの福音書12章に大切なみことばがある。「あなたは、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。・・あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(30-31節)

毎朝のディボーションで繰り返し確認し、御霊によって実行できるように祈っているみことばである。これは、正に「霊性・スピリチュアリティ」のゴールであると言ってよいから、これからもずっと大切にしていきたいと願っている。

以前、G.フィーが、「スピリチュアリティ(霊性)」の意味について説明の中で、これは「According word」だと言っていた。つまり、ここに空気をどれだけ入れるかで、その意味もいろいろ変わってくるということだ。
「隣人」も、正にアコーディオン・ワード」である。きょう、一日、どれくらいの人々と出会ったか、どんな人々のことについて考えたか、祈ったか、によって、「隣人」の中身が変わって来るからだ。大きくなったり、狭くなったり・・

ほとんどいつもいる人は、妻である。まさに「隣人の中の隣人!」そして、朝のディボーションの時に、きょう一日、どんな人と会うか、会うことになっているか、考えながら祈る。時には、その中にオンライで会うことになっている人々もいる。また朝考えなかった人が、、突然、電話やメール、ラインなどでやってくる場合もある。

とにかく、どんな形であるにせよ、神様が送ってくださった「隣人」を大切にして応答したいと願っている。しかしいつも、うまくいくとは限らない。大失敗することもある。奉仕(仕事)などに追われ焦っていて、チャンと対応できない人々もいる。セールスの電話は大変!?

あとでがっかりして、悔い改めることもある。いつも愛をこめて、「自分自身のように隣人を愛することは大変。」愛する父なる神様が大切に思っておられる隣人なので、少しでも大切に応答していきたいと願っている。

コロナ禍で実際にお会いする人々の数は減っている。ただ、人数が少なくても、出会いを大切にしていきたい。昨晩、アマゾンの荷物をブラジル人らしい人が運んできてくれた。しかし、「パス・デ・セニョール(主の平安)」と挨拶し、感謝することを忘れてしまった!

私が愛している父なる神様は、どんなものよりも、「隣人」を大切にしておられる。だから、その子どもとされている私も、「隣人」を大切にしていきたい。失敗しても、失敗しても。。。ハレルヤ!
2020-10-09 18:33:53[投稿番号:166]

ワーダン・スピリット(みことばと御霊)
先週と今週は忙しかった!
 先週と今週は特に忙しかった。出版社の「地引網出版」から、著者としてチェックするための最後の資料が届いたからだ。ほとんど「本」に近い版組で、合わせて700頁ほどあって、びっくりした。慄いた。確かに考えてみれば、以前、5年半の間連載させていただいたものを集めたわけであるから、それくらいになるはずである。

毎日、この700頁のものを最終チェックしたが、いろいろな問題が出てきて、書き直したり、訂正をお願いするのに相当な時間がかかった。出版準備していてくださる方々には相当な迷惑をかけ、たくさんのご苦労をお願いしていることになる。とにかく、申し訳ない気持ちである。

しかしまた、神様に対して大きな感謝が湧いていることも確かである。「ワーダン・スピリットの会」の活動を初めて19年になるが、やっとこの活動の半分である「ワード」についての学びをまとめることができるからだ。書名は、『ジャンルを大切にして聖書を読む』で、いよいよ出版の時が見えてきた。
もちろん、「ワード」と「スピリット」はいつも一つなので、本書の中にも、いろいろな形でご聖霊のことについて書いている。

これからは、さらに「スピリット」に関しては、学んできたこと、学びつづけていることをまとめていきたい。こうして、「ワーダン・スピリットの会」の働きを全うしていくことができればと考えている。

なお、『舟の右側』(10月、11月、12月)で、「ガラテヤ書における”キリストのピスティス”」について書かせていただいている。興味のある方は、ぜひ、お読みください。このような「叩き台」のような働きであるが、神様の憐みのゆえに、御国の働きの中に加えていただけたら本望である。ハレルヤ!
2020-10-01 21:24:00[投稿番号:165]

コロナ禍を生きる
「忍耐をもって歩む」
 「コロナ禍をどう生きるか」・・・これは、私の心にいつもある質問である。先週の礼拝メッセージのテーマも「コロナ禍を生きる?御父と御子と御霊によって歩む」であった。他の人たちに語るためだけでなく、自分自身がこれからも生きていくために必要な質問である。

最近、ディボーションでは、パウロの手紙が終わって、その後、ヘブル書、ヤコブ書、ペテロ書などを読んできた。特に、ヘブル書やペテロ書の背景には、最も激しい迫害があったことを強く思わされる。そのような中で、聖書記者は読者に何と教えているか。また、神様は、聖書記者を通して、何と語っておられるのか。現代の私たち(私)が期待しているような「完全な解答」では、ある意味、ないことに驚かされる。聖書記者も神様もそのようには語っておられないのだ。繰り返し教えていることは、「忍耐をもって歩む」ことである。

例えば、ヘブル12:1「・・・忍耐をもって走りつづけようではありませんか」、12:7「訓練と思って耐え忍びなさい」、ヤコブ1:3?4「信仰がためされると忍耐が生じる・・・その忍耐を完全に働かせなさい」、5:7?11「主が来られるまで耐え忍びなさい・・・あなたがたも耐え忍びなさい。」、1ペテロ2:19?20「善をおこなっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」

忍耐の裏側には、もちろん信仰がある。忍耐と信仰は聖書において一つである。そしてこの信仰は、私たちのために愛をもって耐え忍ばれた御子イエス様を覚えることである。聖書の記者たちは、ただ単に、終わりの時の完成を待望して、「耐え忍ぶように」と言っているだけではない。この待望は、また再び、今の忍耐の歩みに帰ってきて、今、置かれた時代を生きるための力、喜び、知恵になるのである。

最近、ポール・マーシャル著『わが故郷、天にあらず』を読んでいる。『今の世界をどのように生きていくのか』という、非常に大切なテーマを徹底的に、また分かりやすく実際的に取り扱っている稀有な書である。これを読んでいて驚いた。この本の最後に近いところに、『耐え忍ぶ』章があったのだ。やはり、ここにも、大切で不可欠なポイントが語られている。

イエス様が人となって来られたことの意味に関して、最近考えるようになったことがある。御子が「人」となられた瞬間から十字架の死まで(いや、今も天の御座で)、私たち人間が経験する「すべて」のことを負われ、味わわれたのだ。地震も津波も、飢饉も、戦争も、疫病(コロナ)も、病気(癌)も、とにかく、ありとあらゆることを身において、私たちの代表として、耐え忍んでくださったのだ。最近、このように考えるようになった。つまり、後の時代に起こるすべての問題も、地球の端っこで起こったすべての問題もである。これが、御子の受肉であり、生涯であり、十字架であると考える。

だから今の私たちの時代のコロナ禍も、御子はご存じで、共に負っていてくださり、共に忍耐していてくださると言える。私たちだけが、この問題を負って忍耐しているのではない。ハレルヤ!
2020-09-14 20:56:07[投稿番号:164]

8月の休暇から
四つの目標
 今週、休みをいただいてゆっくり過ごしている(?)。コロナ禍で長期間の旅行はできないが、休暇の間にやるべき(やりたい)四つの目標を立てた。

第一は、読みかけの本を読了すること・・・ダラス・ウィラードの『心の刷新を求めて』である。月曜日の私の安息日ごとにこの本を少しずつ読んでいたが、きょう、なんとか読み終えることができた。分量も内容もあって集中して読むのが大変だった。何回も繰り返して読んでいい本である。

第二は、地引網出版からほとんど最後の部の校正されたデータが届いたので、これを確認にして送ること・・・これも、すべて確認し、直すべきところを直して送り返すことができた。

第三は、家内が一番願っていることを実行すること・・・家内は海を見に行きたいと言うので、家族四人で知多の海まで出かけた。暑くて暑くて、熱中症になりそうだったが、一緒に食事をして帰ってくることができた。エビが美味しかった。

第四は、オンラインで、ハングルの学びを集中的にすること・・・娘が韓国人の兄弟と結婚したので、ハングルの学びをするための強い動機が与えられた。それで、オンラインを使って学びをするようになった。今回、自分の発音がどれほど駄目で、また聞くことに問題があることがよく分かった。

休暇もあっという間に終わろうとしている。
神様との交わりで教えられたことは、本当に正直に神様の前に出て、神様と交わり、祈ることであった。いつの間にか、神様との間にオブラートがかかったような感じになっていることに気づいた。あらためて神様に祈り、交わりを整えていただき、再出発することができた。
これがすべて、再出発するための「原点」ですね。ハレルヤ!
2020-08-28 15:23:15[投稿番号:163]