『ジャンルを大切にして聖書を読む』その2 | 拙著の中心的な強調点、特徴など? | 前回のブログでは、ゴードン・フィー/ダグラス・スチュワート著『聖書を正しく読むために』と比較してみました。今回は、拙著の強調点、特徴、ゴールなどについて触れさせていただきたいと思います(前回のブログ内容と重なる部分もあります)。
1)一番の願いは、私たちの聖書の読み方が、これまでの「シンプルリーディング」からもう少し豊かなものに導かれることです。「シンプルリーディング」は、私たちが聖書を読むときにいつも欠かすことのできないあり方です。ただし、それだけでいいんだと言われると、私は少し心配になってきます。本当の「シンプルリーディング」とは、柔軟、従順な心で神様の御心を求め続けていく心で、オープンな面がそこにあると思うからです。
「ディボーショナル(霊的)な読み方」と私たちが言うとき、それは何を意味しているのでしょうか。広く、「聖霊的な読み方」という意味なら大賛成ですが、狭くて硬くて、聖書の客観的な読み方(知的な読み方?・・・いい言葉が見当たりません)まで否定したり、排除したりするとしたら、賛成できません。本来の聖霊的なあり方、また聖霊的な聖書の読み方は、聖書の客観的な読み方とも統合されていく読み方のことではないかと考えています。本書においては、この二つの読み方の統合を求めています。
また、これまでの私たちの「シンプルリーディング」の実際は、「プルーフ・テキスト(テキスティング)」と言って、どちらかと言いますと、聖書の文脈はあまり考えないで、自分の好きな御言葉の部分だけを切り取っていく聖書の読み方ではなかったかと思います。ですから、本書では、歴史的文化的な文脈と字義的な文脈で聖書箇所を読むことを強調しています。
また、これまでの「シンプルリーディング」は、「聖書」という一つのジャンル理解だけで、聖書を読んできたきらかがあります。つまり、「聖書」は、律法的で命令的で、ほとんどすべてが普遍的内容で、ほとんどすべて文字通りに読んで自分自身に当てはめていく、というものです。しかし本当は、本屋さんに、いろいろなジャンルの本が売られているように、聖書の中には、手紙、伝記、物語(歴史的ナラティブ)、黙示文学、知恵、詩、律法などという多様なジャンルが含まれているのです。それぞれのジャンルにふさわしく、聖書の各ジャンルの書を読んでいくことが、本来の聖書にふさわしい読み方であると考えます。
ご聖霊は、豊かな神様の豊かな御心を文字化(霊感・・・聖書化)するときに、当時の様々な文化、歴史、習慣、言語を私たちに寄り添って用いてくださったように、当時の文学的ジャンルをも豊かに用いてくださったと言えます。ですから、私たちも、画一的に、単一的に、表面的に聖書を読まないで、またはこのような読み方に注意して、聖書を豊かに読んでいきたいのです。
2)他の特徴としましては、できるかぎり、実際的、霊的、中立的に書いたつもりでしたが、各章の後半において、より専門的なことになってきますと自分なりの「神学的視点」からの見解も述べさせていただきました。
また、「霊的」に関してですが、本来、聖書的な「霊的」とは「聖霊的」と理解し、これを強調していますので、各章の内容の中には、できるだけ、聖霊論的な視点からの説明も加えております。三位一体的に、よりバランスのとれたものになるように考えました。
さらに、これはフィー先生の強調でもありますが、解釈は解釈で終わらないで、適用まで行くのが、神様のみことばとして、本来のみことばの目的ですから、本書においても、最終的なゴールはディボーションであり、ディボーション・プラスを強調しております。
本書の『まえがき』でもふれましたように、本書を読み進まれる前に、ぜひ付録(1?4)までお読みいただき、ディボーションをしながら、本書を少しずつ、ゆっくり読んでいただけましたら、幸いでございます。生涯かけて、ゆっくり読んでいただけましたら、こんな嬉しいことはありません。
最後のお願い:私たちは何か興味あったり、大切なことだと思ったりすることがありますと、これについてチャンと時間を作って一所懸命学んだり、インターネットで調べたり、するものです。ぜひ、ゆっくり、じっくり、聖書を学ぶための時間も作ってください。毎日はむずかしくても、週末とか、祝日などをつかってみたらどうでしょうか。
お読みくださり感謝します。ハレルヤ! | 2020-12-22 10:28:25[投稿番号:174] |
拙著『ジャンルを大切にして聖書を読む』 | 『聖書を正しく読むために』との違い | 『ジャンルを大切にして聖書を読む』は、720頁もありますので当然ですが、
高額(5000円+税)になり、少し心配しながら、宣伝しているところです。ただ、本書の発刊に関係して、いろいろな方々とお交わりが与えられ、励ましていただき、本当に神様にあるネットワーク(交わり)の素晴らしさを感じています。コロナ禍で冷たくなっていた心を温めていただいたと本当に思っております。
今回は、ある方が、拙著とゴードン・フィー/ダグラス・スチュワート著『聖書を正しく読むために』との違いについて質問してくださったので、お返事の内容に少し加筆して以下のように説明させていただきたいと思います。
著者の一人であるゴードン・フィー先生は、私のカナダ・リジェント大学時代の恩師で、特に、聖書解釈と聖霊論に関して大きな影響を受けました。生涯の中で、神学的に一番影響を受けた人と言っても過言ではありません。ですから、出版した本の内容に関しても非常に類似したものになっていると言えるでしょう。
フィー先生(+スチュワート先生)の本は、長い間、私の“バイブル?”のようなものでした。
フィー先生の著書との違いは、まず想定されている読者が違います。フィー先生のものは、欧米の(かなり知的な)信徒、神学生などを対象に考えていますので、ある程度の知的、聖書的レベルが求められると思います。また、学者的な微妙な言い回しが多く、日本の多くの信徒の方々には難しい箇所が多くあると思います。
私は今回、日本の信徒の方々に聖書解釈の基本から知っていただき、その応用として、聖書全体を、其々のジャンルを大切にしながら読んでもらえるように考えました。
例外として、最後の「黙示文学」は難しいでしょう…(この部分は、金山の聖書神学塾の「終末論」のテキストに使用しています)。また、各章(ジャンル)の最後の部分にあります「より専門的なこと」だけは、神学生の方々を意識した内容になっています。少し難しいかもしれません。
また、本書は、信徒の方々のディボーションや個人的な聖書研究が豊かにされ、狭い意味での「シンプルリーディング」から、聖書の客観的な読み方も含めて、聖書により相応しい読み方になっていくことを求めています。
「シンプルで従順な心」で聖書を読むことは不可欠ですが、それだけでよいとは思いません。聖書の客観的な読み方と聖書のディボーショナルな読み方は相反するものではなく、少しずつ調和していくものであると考えています。本書では、これを求めています。そして、できるだけ実際的に、(聖)霊的に、神学的に書きました。少しでも、ディボーションやその中での個人的な聖書研究が豊かなものにされていくことが一番の願いです。
豊かな神様が、私たち人間の様々な文化、習慣、歴史、ジャンルなどを豊かに用いて、ご自身の御心を豊かに表してくださいました。ですから、私たちも、いのちの書である聖書のみことばを豊かに読ませていただきたいのです。これこそ、正にご聖霊の働き、ご聖霊の御業です。ハレルヤ! | 2020-12-14 17:38:01[投稿番号:173] |
きょう、考えさせられたこと | 詩篇68章3-4節:御前で喜び踊れ! | 最近のディボーションの聖書箇所は詩篇である。今朝は、詩篇68篇前半。特に、注目した個所は3-4節、「神の御前で喜び楽しむ。。。その御前で喜び踊れ。」
*本当にうれしいとき、その源である神様の前で喜び、踊る。
*神様は、私たちといつも共におられるので、その神様と共に喜ぶ。
*神様を喜ぶだけでなく、神様の前で、互いに喜び合う時でもある。
*神様を意識しながら、共に喜び合う。これは、共に、喜び賛美することに似ている。神様を意識しながら、しかし共に喜び合うことである。
こんなことを考えていたら、個人的に神様を喜び感謝することはあっても、
神様の前で、兄姉と共に喜び合う、喜び踊ることはないなあ?と感じた。
コロナ禍にあって、特に少なくなったとも言えるが、家庭内でも、夫婦の間でも、教会の小グループにおいてでも、共に神様を見上げ、また、この恵みの源である神様にあって、互いに喜び合いたい、踊りたいと思った。
(夜)共に喜び、踊るために、まず、きょう一日の恵みを数えてみた!・・・第一に、今朝の聖書研究祈祷会に来られた兄姉とみことばの恵みを分かち合っていたが、ある方を証しを聴きながら、本当に変わられた、本当に成長されたなあ?と思った(感謝!)。第二に、午後は、何人かの方々に、感謝(クリスマスプレゼント)として、新刊の『ジャンルを大切にして聖書を読む』をお贈(送)りした。これまでのお交わりの素晴らしさを、より深く思い起こすことができた。
神様の御前で、これらの恵みと感謝を共に喜び、共に踊りたい。ハレルヤ! | 2020-12-10 21:06:49[投稿番号:172] |
最近のディボーションから | 「ディボーション・プラス」運動のすすめ | 最近のディボーションで変わってきていることがいくつかあります。
第一は、毎日、10時、2時、5時、8時にお祈りをしていますが、少し図々しくなって、何かの途中でも、できるだけ時間を止めて、祈るようになりました。
誰かと話をしているときでも、テレビを見ているときでも、できるだけ…。
第二は、10月18日の礼拝メッセージでお話しをしたと思いますが、祈りの目的は「祈り」ではなく、「神様を意識し、神様と交わり、歩み続けていく」準備です。ですから、できるだけ、「お勤め」としての祈りではなく、「祈り」と「祈り」の間も、神様と共に歩むことができるように、準備の色合いが強くなってきたように思います。
第三は、以下にあるように、「ディボーション・プラス」運動のための「祈りのしおり」を、もう一度思い起こしながら、始めています。これは、本当にお祈りを助けてくれますね。皆さんも、参考にして、祈ってみてください。おすすめします。ハレルヤ!
祈りを助ける「祈りのしおり」」
第一:朝のディボーションで教えられたことを思い出します(忘れている場合は、聖書を開いて確認します)。
第二:三位一体の神様の三重の愛と恵みで導かれていることを黙想し味わいます(これは永遠のいのちの恵みです)。
第三:それまでに起こったことを、神様の御手から受けとり、感謝します(祈りと祈りの間に起こったことです)。
第四:大きなことも小さなことも神様と相談し、父なる神様が喜んでくださることを選びます(また、神様のみ心を求めて待ちつづけますが、委ねられていることも多いので、どちらなのか確認していきます)。
第五:瞬間の祈りを断続的にします(いつでもどこでも、短くても、神様が「アバ父」であることを覚え、御父と交わり、祈りつづけることを確認します)。
第六:神様のみ心は、私たちが神様を愛し、隣人を愛することです(マルコ12章29-31節)。神様に従って行かないと神様の臨在感は薄れていきます(瞑想やお祈りが終わったら、愛(御心)の実践が不可欠です)。
第七:御霊に満たされ、導かれて歩むことを確認します(御霊の満たしと導きなしに、愛を実践することはできません。「子とする御霊」が内住しておられることを確認し、御父の栄光を表す神の子どもとして出て行きます)。 | 2020-12-03 18:20:35[投稿番号:171] |
最近、教えられていることから | 礼拝メッセージから教えられる(つづき) | 11月16日にブログを更新したつもりでしたが、ここに出てないので、少しびっくりしました。振り返るとともに、最近教えられていることも付け加えたいと思います。
11月8日の礼拝メッセージから、説教者として特に教えられたことがあります(ルカ11:29?36)。この時点で御子は、はっきりとご自分のことを「この時代のためのしるしとなる」(30節)と表明されたことに注目しました。「しるし」の意味は、この場合、多くの奇跡のわざではなく、「十字架と復活」のことです。イエス様は、ご自身に対する不信仰で反抗的な人々に向かってこのように語っておられるのです。「十字架と復活」は一方で本当に信仰の要るしるしですが、またここに、十字架と復活に向かっていかれる御子の愛と献身の姿を見ることができます。御子の愛の献身がしるしなのです!
11月15日の礼拝メッセージから説教者としてとくにおしえられたことは(ルカ11::33?54)、私自身も、パリサイ人たちと共に御子の教えを聞かなければならないということでした。ややもすると、御子や弟子たちと一緒になって、律法主義的な人々の問題を責めてしまうところでしたが、自分にも、同じ問題があることに気づかされ、御子の教えに聴き従うことを教えられました。律法主義には、成長はありません。律法主義者たちを教師にするのではなく、御子を教師にするように導かれていることに感謝しました。
11月22日の礼拝メッセージから説教者として特に教えられたことは(ルカ12:1?12)、自分も本当に怖がり(ビビり)で、「恐れ」から解放され続けていく必要を教えられました。私たちを愛して守っていてくださる神様に、心の奥底に隠れている恐れも含めて、お委ねすること、そして、真に恐れるべき神様を恐れることが、間違った恐怖から解放される道であることを教えられました。人を恐れる者から、人を愛する者に変え続けてくださるようにいのりました。
最近、ずっとディボーションでは、詩篇を読んでいるのですが、52篇8節から教えられました。「しかし私は、神の家に生い茂るオリーブの木。私は世々限りなく、神の恵みにより頼む。」
実は、私の書斎の机から2?3メールの所(窓のすぐ外)に、オリーブの木が茂っているのです。1か月前に、苦労しながら、生い茂っていたオリーブをカッティング(剪定?)をしました。一年前にもキレイにカッティングしたのに、またこんなに伸びたんだと、その生命力に驚き、呟いたのですが、そのことを8節を読みながら思い出しました。
皆さん、オリーブの木の生命力は凄いです!一年で、「倍」とは言いませんが、凄く成長します。このオリーブの木を考えながら、今回は、「私は世々限りなく、神の恵みにより頼む」という詩篇の記者の凄い意気込み、やる気、力強い告白を覚えました。
「霊性」というと、まず静かで、ゆっくりと、へりくだって主に従い、主と交わっている姿を思いますが、ここからは、むしろ、力強い、忍耐強い、生命力のある「霊性」の姿を感じます。ハレルヤ! | 2020-11-25 20:27:50[投稿番号:170] |
最近、教えられていることから | 礼拝メッセージから教えられる | 最近、礼拝メッセージの準備をしながら、また実際にメッセージを語りながら、また、メッセージの後、小グループで、みことばや礼拝メッセージで教えられたことなどを分かち合いながら、よく教えられるのです。。。
教会に来ておられる兄弟姉妹は、たいてい、礼拝メッセージとそのみことばから教えられるのですが、説教者は、礼拝メッセージをしながら教えられていきます。本当にそうです。メッセージの奉仕をしながら、教えられ、礼拝を捧げていくのです。
最近、教えられていることとして、例えば、10月18日と25日のメッセージからは、神様との交わり(縦の基軸)と神様にある互いの交わり(横の基軸)の大切さについてお話ししました。そして、横の基軸を大切にしていくと、これがまた、縦の基軸とその祝福に戻っていくことを教えられました。ですから、縦の基軸がもっと恵まれる方法は、横の基軸を大切にするということです。
10月25日のメッセージ箇所は、1ペテロ4:7?11からでしたので、あらためて、神様が私たちに委ねれている「賜物」についてお話ししました。第一コリント書などから私たちは、特定の賜物だけを「賜物」として考えがちですが、ローマ12章からは、「賜物」がもっと広く使われていることが分かります。そして今回は、もっと広く、私たち一人が、それぞれ最高の形で、神様の前に「賜物」であることを学びました。「賜物」の原意は、恵みであり、その表れが「賜物」です。私たち一人ひとりは、豊かに、神にある「賜物」として育てられ、導かれ、今があるし、これからがあるのです。そう、思わされました。
11月1日のメッセージ箇所は、もう一度、ルカの福音書11章14節以下に戻りました。ここは、霊的な戦いについて書かれているところで、準備する前から、ここは難しい、大変だぞ、と思っていました。しかし箇所に書かれているままをまとめ、お話しすることができました。「霊の戦い」、「霊的戦い」と言いますと、すぐさま、戦いそのものに目が行ってしまいますが、霊的戦いのイエス様にこそ目を向ける必要があります。御子がすでに、御霊によって霊的戦いの勝利者であることが強調されています。これまでも、これからも、そして神様の霊的ご計画の完成においても、すでに御子が勝利者であることを信じ信頼して、従っていくことの大切さを教えられます。霊的戦いよりも、すでに勝利が与えられているので、御子を信頼してついていくことの大切さが分かります。
ほとんど毎週、礼拝メッセージの奉仕が与えられています。大変ですし、いろいろな意味でチャレンジです。あまりに大変なので、礼拝メッセージの準備期間を、1週間ではなく、2週間に変えました。それから、安心できるようになりました。緊張感が減り、じっくり、ゆっくり考え、祈り、準備できるようになりました。もっとも昔から、若い時からこのようにすればよかったと思っています。
とにかく、礼拝メッセージの奉仕が与えられていることは大感謝です。準備しながら、語りながら、振り返り、分かち合いながら、教えられます。ハレルヤ! | 2020-11-09 15:58:22[投稿番号:169] |
「Word」an「Spirit」の一つの実として | 今後の働きについて | きょう、編集者から印刷会社に送られたデータを受け取りました。いよいよ、『ジャンルを大切にして聖書を読む』の最終段階に入りました。ただお祈りしていることは、この本が少しでも用いられ、私たちの歩みが聖書のみことばに近づき、神様の御心に沿った歩みに導かれていくことです。毎日のディボーションが豊かに導かれ、これをもとにして、神様との交わりが祝福されたものになっていくことです。
2001年に「ワーダン・スピリットの会」を公にしましたが、その働きの一つの実として、特に「ワード(みことば)」に関する働きの一つのまとめになるかもしれないと考えております。
これからは、オンラインを利用して、出版される本の読書会を開くことを考えています。たぶん、毎週定期的に、継続していきたいので、本が出版されたら、「読書会」の計画を公にしたいと思っています。ご希望の方は、またブログなどでお知らせしたいと思いますので、メールでお申し込みください(たぶん、先着順で、20名位からスタート予定)。
また、現在、オンラインで、主に牧師さんたちと、二週間おきにある本を使っての読書会(月)、またHDYK(ヘブル語で伝道者の書を読む会)をやっていますが(これは月一回、月曜日)、「ワーダン・スピリット」の「スピリット」のほうを共にオンラインで学ぶ、「聖霊について学ぶ会(みことばから、また何かふさわしい本を使用して:SMK)」も始めたいと考えております。関心のある方、この会に関して要望のある方はご連絡ください。例えば、聖霊に関するテーマ、聖書箇所、推薦し共に読みたい著作など(まずメールでお願いします)。後で、ラインなどを使った情報交換も考えております。
とにかく、コロナ禍を通してですが、これほどにオンラインでの活動(主にZoom)が広まり、利用できるとは思いもよりませんでしたが、WordanSpiritの会も、この機会に、「Word」に関して、また「Spirit」に関しても、互いに学び、分かち合う機会を作っていきたいと考えております。いろいろなアイデアをお待ちしております。よろしくお願いいたします。
なお、「キリストのピスティス」の第三回の原稿を編集者に送りました。これで最後の原稿になりますが、『舟の右側』(10月、11月、12月号)をお読みください。コロナ禍で戦っておられるキリスト教文書活動を続けておられる方々をお支えください。
今回もお読みくださり、感謝いたします。ハレルヤ! | 2020-11-03 15:53:23[投稿番号:168] |
あらためて、「祈り」について | 最近、教えられていること | 「祈り」についての本が、私の書棚に20冊以上あります。全部読んだわけではありませんが、大部分は読んできたと思います。またある本は、繰り返し何度も何度も読んだものもあります。
その中で「一番教えられたと思う「祈りの本」を言って!」と言われたら、私は、ヤンシーの『祈り』を挙げるでしょう。550頁ほどありますが、皆さんにお薦めしたい「祈りの本」です。訳者の山本氏がこの貴重で長い本をよく訳されたと感謝したいと思っています。
ヤンシーとは、もう30年位前からのお付き合いです(一度も会ったことはありませんが)。英語のもの、日本語のもの・・・とにかく、これらの書によって、育ててもらったなあって思っています。J.I.パッカーの本を読んで(また講義を聴いて)、スピリチュアリティを感じますが、ヤンシーの本を読みながらも、スピリチュアリティを感じます。・・・両者とも、スピリチュアリティの領域の専門家ではありませんし、彼らの著書もちょっと違う分野に属していますが。
最近、ヤンシーの『祈り』の結論にあたる22章のある一部を読んで感じたことがあります。「この訳は正しいだろうか。ヤンシーの結論がちゃんと表れていないのではないか。」それで、自分なりに、英文のオリジナルは知らなかったのですが、ここは、こんな訳になるのではないかと、推測しながら、その訳文の脇にメモ書きをしておきました。そして、できるだけ安い値段で、中古の英文のオリジナルを注文しました。そして先週、それが届いたのです。
オリジナルを見て確認しました。やはり、私が想像していたような英文の内容でした。少し説明も加えながら、訳し直した箇所は、以下の通りです。
ヤンシーの『祈り』から:22章(512-513頁)について:
…マルシアという画家の話を聞きながら、私は、どんなに安易に自分の生活を、区切っているかということに気づいた。
私は、祈りというものが、霊的な行動として、自分の生活の祈り以外の部分とは不釣り合いで関係しないもののように考えて来た。
私は義務感から時間をとって、時に喜び、時にそうでなく。それから、一日の実際の仕事に向かって行ったものであった。
(しかし)それ以来、私は、祈りがあることをする前のウォーミング・アップの運動のようなものとして見るようになった。
つまり、祈り自体が目的ではなく、他のすべての時間において、神様を意識することを増大させるという目的のための手段として考えるようになった。
(途切れなく)
私は、二つの祈りの違いについて、今学んでいるところである。一つの祈りは行動としての祈りである。もう一つは、より深い魂の姿勢のことで、私たちの思い(the mind)を神様に向かせる祈りのことである。
この意味で、祈ることは、雪かきからコンピューターのハードディスクを最適化(デフラグ)することまで、すべての行動(活動)を、新しいものに変えることができる。
どうして、そんなにここにこだわるのかと言われるかもしれませんが、私は、そしてヤンシーも(本書の結論?)、祈りと祈り以外の時間とが、相互に緊密な関係にあることを強調したいと思うからです。
「祈り」とは、神様との交わりであり、神様との交わりとは祈りであるからです。ですから、ヤンシーが言っているように、いのりは目的ではなく、祈りのゴールは、祈り以外の時間も神様と共に交わり歩んで行くことであると信じるからです。
もっともっと「祈り」が変えられていくことを願っています。ハレルヤ! | 2020-10-21 18:05:17[投稿番号:167] |
私の「隣人」は? | 最近、考えていること! | マルコの福音書12章に大切なみことばがある。「あなたは、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。・・あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(30-31節)
毎朝のディボーションで繰り返し確認し、御霊によって実行できるように祈っているみことばである。これは、正に「霊性・スピリチュアリティ」のゴールであると言ってよいから、これからもずっと大切にしていきたいと願っている。
以前、G.フィーが、「スピリチュアリティ(霊性)」の意味について説明の中で、これは「According word」だと言っていた。つまり、ここに空気をどれだけ入れるかで、その意味もいろいろ変わってくるということだ。
「隣人」も、正にアコーディオン・ワード」である。きょう、一日、どれくらいの人々と出会ったか、どんな人々のことについて考えたか、祈ったか、によって、「隣人」の中身が変わって来るからだ。大きくなったり、狭くなったり・・
ほとんどいつもいる人は、妻である。まさに「隣人の中の隣人!」そして、朝のディボーションの時に、きょう一日、どんな人と会うか、会うことになっているか、考えながら祈る。時には、その中にオンライで会うことになっている人々もいる。また朝考えなかった人が、、突然、電話やメール、ラインなどでやってくる場合もある。
とにかく、どんな形であるにせよ、神様が送ってくださった「隣人」を大切にして応答したいと願っている。しかしいつも、うまくいくとは限らない。大失敗することもある。奉仕(仕事)などに追われ焦っていて、チャンと対応できない人々もいる。セールスの電話は大変!?
あとでがっかりして、悔い改めることもある。いつも愛をこめて、「自分自身のように隣人を愛することは大変。」愛する父なる神様が大切に思っておられる隣人なので、少しでも大切に応答していきたいと願っている。
コロナ禍で実際にお会いする人々の数は減っている。ただ、人数が少なくても、出会いを大切にしていきたい。昨晩、アマゾンの荷物をブラジル人らしい人が運んできてくれた。しかし、「パス・デ・セニョール(主の平安)」と挨拶し、感謝することを忘れてしまった!
私が愛している父なる神様は、どんなものよりも、「隣人」を大切にしておられる。だから、その子どもとされている私も、「隣人」を大切にしていきたい。失敗しても、失敗しても。。。ハレルヤ! | 2020-10-09 18:33:53[投稿番号:166] |
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