G.フィー著の『God’s Empowering Presence』
もう一度、本書の翻訳(要約)を再開しました!
 パウロの聖霊論と言えば、ゴードン・フィーの『God’s Empowering Presence』です。ほとんど、この本しかないと言ってもいいです。この本は、あまりにも素晴らしいのですが、問題が一つあります。それは、全体で、約900頁以上あること。日本語に訳したらおそらく、1500頁ほどの書になるでしょう。

そんなことで、思い切って2004年(5月)に本書の翻訳(要約)を始めました。そして2007年12月で、パウロ書簡全体の「分析(パート1、800頁まで)」を終えることができました。最後は、「統合(パート2、800?900頁まで)」が残っていました。少し休んでから、2010年4月に、「統合:12章(約20頁)」も終わることができました。しかし、それからずっと長い間、そのままにしてしまいました。理由は、他のことが忙しくなったことと、13章(20頁)の英文が、私にとっては、内容とともに非常に難しかったからです。

ただ、『ジャンルを大切に聖書を読む』を通して、「ワーダン・スピリット」の「ワード」の部分は少し進んだのに、「スピリット」は止まったままになっていることに気づきました。それではいけない!・・・それで、昨年の11月頃からもう一度、13章の翻訳に挑戦することにしました。少しずつ少しずつ、ある日は一行だけとか、何もできない日もありました。
とにかく、朝か、夜か、月曜か火曜日(一応、お休みの日)の時間を少し使って。・・・やっと最近、13章のほとんどを終えることができました!

本書の「統合部」は、15章まであります(そのあとは、結びと付録)。今は、14章に入っています。「統合」の部は、内容が濃くて、英文も難しいのですが、とにかく皆さんに、フィー先生による「パウロの聖霊論」を知っていただきたくて頑張っています。なんとか春まで、駄目なら、夏までに、本書全体の「要約」をまとめて、読んでいただけたら、と考えています。そうすれば、「ワーダン・スピリットの会」の「スピリット」についての働きも、少しできたことになるでしょうか。偉そうな言い方ですが、もっともっと、「聖書的なご聖霊」について学び、共に教えられていきたいと願っております。時間がかかりますが、翻訳も幸いです。ハレルヤ!
2021-02-05 14:46:50[投稿番号:186]

現代にも奇跡はあるのか?パート2
奇跡か、奇跡的か、偶然か、それとも?
 先週、礼拝メッセージの準備をしていて、あの「例話」をお話ししようと思い立ったのですが、なかなか正確にそのストーリーを思い出すことができませんでした。また、私が長年集めて来た「例話・資料」ボックス(スチールでできていますが、その中にジャンル別の例話や資料が全部で、たぶん、1000以上?あると思います)を調べたのですが見つけることができませんでした(以前も調べたことがありましたが、見つけられませんでした)。

しかしどうしても欲しくて諦められませんでした。以前、『舟の右側』で読んでいた時、その話が紹介されていたことは覚えていました。またその先生の名前(福田充男氏)も覚えていました。ほとんどその先生に電話して、その話についてお尋ねするところでしたが、その前に、インターネットで調べてみました。すると、福田先生が、新しく出版された本(『野生のキリスト教』)について説明しておられる動画が出てきました。内容にも関心がありましたので、その本を注文することにしました。翌日、その本が届きましたので、目次をみて、興味のある箇所を開いてみました。
なんと、その箇所の最初のページに、私が求めていた「あの話」が載っていたのです。びっくりするとともに、また神様に感謝しました!

こうして、先週の礼拝メッセージ(ルカ14章)の中で、「あの話」を紹介することができました。前回といい、今回といい、私は少し驚いています。奇跡ではなく、ただの偶然の繰り返しかもしれません。しかし、これも神様の御手の中にあることとして、神様に感謝をささげました。ハレルヤ!
2021-01-29 21:24:26[投稿番号:179]

現代にも奇跡はあるのか?
奇跡か、奇跡的か、偶然か、それとも?
 今週、突然、使っていた携帯が真っ暗になってしまいました!インターネットで回復の方法を調べ試したのですがだめでした。それですぐに、近くのソフトバンクの店(2軒)に行ってみてもらいました。どちらの店でも、スタッフの人が一所懸命調べてくれたのですが、私の携帯は故障していて、アップルの店に持って行って修理してもらう必要があるという結論でした。

仕方がないと思いつつ、携帯に手を置いてお祈りをしたのですが、(やっぱり?)駄目で、修理前に、携帯のデータをバックアップをする必要があるので、我が家にしばらくぶりで来た娘夫婦にこれを頼みました。私は牧師室にいたのですが、すぐに、牧師館に来るようにと連絡をうけました。何があったのかと思いながら、行ってみると、家内も娘夫婦もニコニコしながら、すべて直った携帯を見せてくれました。私は、しばらく何が起こったか、分かりませんでした。娘婿が、バックアップするために私の携帯の二つのスイッチを押したら、真っ暗だった携帯が突然明るくなり、すべてが回復したと言うのです。ハレルヤ!・・・

これは、本当に神様による奇跡だったのか、奇跡的なことだったのか、それとも、携帯の故障は一過性のものだったのか、よく分かりません。ただ最近、もう一度、まじめに(?)現代の奇跡について考えるようになっていましたので、理由は何であれ、神様の御業に感謝の祈りをささげました。

私は、ずっと「ノン・セセーショニスト」(non-cessationist)です。カナダの神学校で、この課題について小論文を書いた時からずっとそうです。アドバイザーは、J.I.パッカー先生でした。論文を見て、どんな批評をしてくださったか覚えていませんが、論文としてはよい評価をいただきました(もちろん、だからと言って、パッカー先生がノン・セセーショニスト」であるとは言えません)。セセーショニズムについて、ここで長くなる話を書くつもりはありませんが、この時の私自身の結論は、その後、学びつづけていく聖霊理解、また聖書時代の預言、現代の預言理解に大きな影響を与えたことは確かです。

もう一度、現代の奇跡に戻りますが、私は、現代でも、状況によって奇跡が起こると考えています。新約時代に終わったとは思っていません。個人的に、ここで奇跡がほしいと一所懸命祈ったのに、奇跡は起こらなかったり、また、思ってもいない時に奇跡が起こったり、また私の必死の祈りに神様はあわれみによって応え、奇跡を与えてくださったこともあります。ただし、学んで来たことは、奇跡についても、人間中心ではなく、神様が主権者であるということです。

携帯が直ったというだけではありませんが、最近、また「現代の奇跡」について考えるようになりました。奇跡があまりにないと、それが続くと、確かに期待が小さくなってしまいます。ノン・セセーショニストの私でも、すべての奇跡が終わったしまったかのように思うことがあります。しかしまた、「現代の奇跡」を求めて、歩んでいきたいと思います。もちろん、これを決めるのは私ではなく、主権者である神様です!ハレルヤ!
2021-01-21 18:51:53[投稿番号:178]

再献身のめぐみ
お正月から2週間・・・
 お正月からまだ2週間しか経っていませんが、新年のお祝いはずっと前のことだったかのように思ってしまいます。コロナ禍にあって、いろいろな問題がありすぎて、新年のお祝いがどこかに吹っ飛んでしまった感じです。

ただ今でも感謝に思っていることがあります。それは、1月3日の「新年礼拝メッセージ」でもお話ししたことですが、もう一度、自分自身の献身を新しくしたということです。そして、この再献身の恵みがなおも続いているということです。「当たり前でしょ!」って言われそうですが、献身状態をずっと続けていくことは簡単なことではありません。再献身しても、それをすぐに忘れたり、また簡単に、献身状態から外れていくのです。

自分がかかわっている関係、自分が持っているもの、時間、場所や領域など ・・・これらを洗いざらい、もう一度神様にお捧げしました。そして、この恵みで新しい一年を始めました。そして今でも、時々、この再献身の恵みを思い起こしながら(つまり、自分は神様にすべてを捧げた者であることを確認しながら)、歩んでいるのです。

皆さんはどうか分かりませんが、私は、献身してもすぐにそれを忘れたり、すぐにそこからずれてしまいます。再献身は不可欠で、こんなに素晴らしい恵みはないと思っても、こんなに身軽になれることが分かっても、またしばらくすると、献身が曖昧になってしまうのです。

(再)献身は、ゴールではなく、スタートラインです。ここから、私たちの歩みは始まります。なんとかこの一年、少しでも、献身において成長していくことができますように。再々々々・・・献身のめぐみがいつでも備えられていることはなんとありがたいことでしょうか。あわれみでしょうか。いつでも、やり直しができるのです。ハレルヤ!
2021-01-13 19:46:02[投稿番号:177]

最近、特に考えていること
「黙想すること」について
 年末感謝礼拝(12月27日)、元旦礼拝(1月1日)、新年礼拝(1月3日)の三つの礼拝メッセージで触れて来たことがあります。それは「黙想すること」です。最近、特にこのことについて考えるようになっています。

「黙想すること」の大切さについて教えられたのは、J.I.Packer先生の『神について』を読んだ時だったと思います。まだ牧師になりたての頃でしたが、大神学者が「黙想」をすすめていたのです!初めは、少し違和感がありましたが、すぐに納得し、またこのことの大切さを確信しました。あとで読んだ先生の論文のの中で、「神学と霊性の結婚」について語っておられる個所がありましたが、これも、同じ流れの中にあると言えます。

第一ヨハネの手紙3章1-3節における「自分を清くします」の真意について、その前後の文脈から明確に知ることは難しいようです。「互いに愛し合うこと(3:11)、キリストのうちにとどまる(2:28)、善をおこなう(1:29)」も関係しているかもしれません。また、私としては、「自分を清くする」ということに関して、御子に似る者へと変えられていくために、私たちの側から、「恵みの応答として」ですが、御霊とみことばに導かれながら、黙想していくことの大切さを加えたいと思っています。

A.マクグラスが、カンタベリー大司教(ドナルド・ゴーガン」のことばを引用していました。「…コーガン氏は悲しそうに私に語りました。『頭から心への旅は、私たちが知る旅のなかでも最も長く、難しいものである』と。」
私も、この最も長くて難しい道を味わっている一人ですが、みことばと御霊による黙想なしにこの道を進むことはできないだろうと考えています。自分自身のためにも、教会の兄弟姉妹たちのためにも。

最後に、パッカー先生のことばを引用します。「健康なクリスチャンは、必ずしも外向的で元気のよいクリスチャンのことではなく、魂に神の臨在感を刻み込み、神のみことばにおののき、それを絶えず黙想することによって彼自身の内に豊かに住まわせ、そして毎日、みことばに対して自分の生活をテストし、改革している人のことである」

コロナ禍は、これからどうなっていくか分かりませんが、みことばと御霊によって黙想し、そこから遣わされていく者でありたいと強く願っております。ハレルヤ!
2021-01-06 20:32:17[投稿番号:176]

二つのお知らせ
読書会とクリスマス・イブ礼拝
  お知らせ(1)「書きっぱなしにしない!出版しっぱなしにしない!」ということで、オンライン(Zoom)で、『ジャンルを大切にして聖書を読む』の読書会の開催を考えています(関心のある方は、以下の基本方針をお読みくださり、メールで参加希望をお寄せください。wordanspirit@nifty.com)。

基本方針は、今のところ以下のとおりです(後で多少変更するかもしれません)
   *毎週一回、約一時間。日曜日の夜:7時から8時までの予定。
   *信徒の方対象です。必ず牧師の許可を受けてご参加ください。
    また、拙著にある通り、私は聖書を神様の御言葉と信じ、
    また御言葉に従って歩んでいきたいと願っておりますので、
    このことに賛同してくださる方、どうぞご参加ください。
   *学びの内容は、『ジャンルを大切にして聖書を読む』を使って、
     聖書の読み方について、ともに考え、学びたいと思います。
   *参加費は無料、*質問は前もってお出しください(一人一回まで)。
   *読書会は、四回(一ヶ月)で各章の学びを終わるようにしたいです。
   *参加申し込みは、メールでしてくださるようにお願いします。
     (渡辺まで:wordanspirit@nifty.com)。その際、お名前と
    所属教会(教団)などをお書きください。
   *参加者の受付は、先着順でいきたいと思いますが、読書会の性質上、
    人数に制限があります。また、何らかの理由でお断りしなければ
    ならない場合もあると思いますので、その節はどうぞお許しください。
   *あとで追加事項がありましたら、お知らせいたします。

なお、私が牧会しております、同盟福音基督教会の諸教会と稲沢教会に属しておられる兄姉につきましては、別の形で読書会を考えております。準備ができましたらお知らせいたします。

お知らせ(2)12月24日に稲沢教会で行いましたクリスマス・イブ礼拝のプログラムです。初めと終わりの司会、そしてメッセージはライブですが、その他のプログラムは録画です。24日は、これらを合わせて配信しております。お時間がとれましたら、ご覧ください。https://www.youtube.com/channel/UC9tlppQyWj51KdpwWYuP3cw

メリー・クリスマスと新年あけましておめでとうございます。
2021-01-04 20:51:14[投稿番号:175]

『ジャンルを大切にして聖書を読む』その2
拙著の中心的な強調点、特徴など?
 前回のブログでは、ゴードン・フィー/ダグラス・スチュワート著『聖書を正しく読むために』と比較してみました。今回は、拙著の強調点、特徴、ゴールなどについて触れさせていただきたいと思います(前回のブログ内容と重なる部分もあります)。

1)一番の願いは、私たちの聖書の読み方が、これまでの「シンプルリーディング」からもう少し豊かなものに導かれることです。「シンプルリーディング」は、私たちが聖書を読むときにいつも欠かすことのできないあり方です。ただし、それだけでいいんだと言われると、私は少し心配になってきます。本当の「シンプルリーディング」とは、柔軟、従順な心で神様の御心を求め続けていく心で、オープンな面がそこにあると思うからです。

「ディボーショナル(霊的)な読み方」と私たちが言うとき、それは何を意味しているのでしょうか。広く、「聖霊的な読み方」という意味なら大賛成ですが、狭くて硬くて、聖書の客観的な読み方(知的な読み方?・・・いい言葉が見当たりません)まで否定したり、排除したりするとしたら、賛成できません。本来の聖霊的なあり方、また聖霊的な聖書の読み方は、聖書の客観的な読み方とも統合されていく読み方のことではないかと考えています。本書においては、この二つの読み方の統合を求めています。

また、これまでの私たちの「シンプルリーディング」の実際は、「プルーフ・テキスト(テキスティング)」と言って、どちらかと言いますと、聖書の文脈はあまり考えないで、自分の好きな御言葉の部分だけを切り取っていく聖書の読み方ではなかったかと思います。ですから、本書では、歴史的文化的な文脈と字義的な文脈で聖書箇所を読むことを強調しています。

また、これまでの「シンプルリーディング」は、「聖書」という一つのジャンル理解だけで、聖書を読んできたきらかがあります。つまり、「聖書」は、律法的で命令的で、ほとんどすべてが普遍的内容で、ほとんどすべて文字通りに読んで自分自身に当てはめていく、というものです。しかし本当は、本屋さんに、いろいろなジャンルの本が売られているように、聖書の中には、手紙、伝記、物語(歴史的ナラティブ)、黙示文学、知恵、詩、律法などという多様なジャンルが含まれているのです。それぞれのジャンルにふさわしく、聖書の各ジャンルの書を読んでいくことが、本来の聖書にふさわしい読み方であると考えます。

ご聖霊は、豊かな神様の豊かな御心を文字化(霊感・・・聖書化)するときに、当時の様々な文化、歴史、習慣、言語を私たちに寄り添って用いてくださったように、当時の文学的ジャンルをも豊かに用いてくださったと言えます。ですから、私たちも、画一的に、単一的に、表面的に聖書を読まないで、またはこのような読み方に注意して、聖書を豊かに読んでいきたいのです。

2)他の特徴としましては、できるかぎり、実際的、霊的、中立的に書いたつもりでしたが、各章の後半において、より専門的なことになってきますと自分なりの「神学的視点」からの見解も述べさせていただきました。
また、「霊的」に関してですが、本来、聖書的な「霊的」とは「聖霊的」と理解し、これを強調していますので、各章の内容の中には、できるだけ、聖霊論的な視点からの説明も加えております。三位一体的に、よりバランスのとれたものになるように考えました。
さらに、これはフィー先生の強調でもありますが、解釈は解釈で終わらないで、適用まで行くのが、神様のみことばとして、本来のみことばの目的ですから、本書においても、最終的なゴールはディボーションであり、ディボーション・プラスを強調しております。
本書の『まえがき』でもふれましたように、本書を読み進まれる前に、ぜひ付録(1?4)までお読みいただき、ディボーションをしながら、本書を少しずつ、ゆっくり読んでいただけましたら、幸いでございます。生涯かけて、ゆっくり読んでいただけましたら、こんな嬉しいことはありません。

最後のお願い:私たちは何か興味あったり、大切なことだと思ったりすることがありますと、これについてチャンと時間を作って一所懸命学んだり、インターネットで調べたり、するものです。ぜひ、ゆっくり、じっくり、聖書を学ぶための時間も作ってください。毎日はむずかしくても、週末とか、祝日などをつかってみたらどうでしょうか。

お読みくださり感謝します。ハレルヤ!
2020-12-22 10:28:25[投稿番号:174]

拙著『ジャンルを大切にして聖書を読む』
『聖書を正しく読むために』との違い
『ジャンルを大切にして聖書を読む』は、720頁もありますので当然ですが、
高額(5000円+税)になり、少し心配しながら、宣伝しているところです。ただ、本書の発刊に関係して、いろいろな方々とお交わりが与えられ、励ましていただき、本当に神様にあるネットワーク(交わり)の素晴らしさを感じています。コロナ禍で冷たくなっていた心を温めていただいたと本当に思っております。

今回は、ある方が、拙著とゴードン・フィー/ダグラス・スチュワート著『聖書を正しく読むために』との違いについて質問してくださったので、お返事の内容に少し加筆して以下のように説明させていただきたいと思います。

著者の一人であるゴードン・フィー先生は、私のカナダ・リジェント大学時代の恩師で、特に、聖書解釈と聖霊論に関して大きな影響を受けました。生涯の中で、神学的に一番影響を受けた人と言っても過言ではありません。ですから、出版した本の内容に関しても非常に類似したものになっていると言えるでしょう。
フィー先生(+スチュワート先生)の本は、長い間、私の“バイブル?”のようなものでした。

フィー先生の著書との違いは、まず想定されている読者が違います。フィー先生のものは、欧米の(かなり知的な)信徒、神学生などを対象に考えていますので、ある程度の知的、聖書的レベルが求められると思います。また、学者的な微妙な言い回しが多く、日本の多くの信徒の方々には難しい箇所が多くあると思います。

私は今回、日本の信徒の方々に聖書解釈の基本から知っていただき、その応用として、聖書全体を、其々のジャンルを大切にしながら読んでもらえるように考えました。
例外として、最後の「黙示文学」は難しいでしょう…(この部分は、金山の聖書神学塾の「終末論」のテキストに使用しています)。また、各章(ジャンル)の最後の部分にあります「より専門的なこと」だけは、神学生の方々を意識した内容になっています。少し難しいかもしれません。

また、本書は、信徒の方々のディボーションや個人的な聖書研究が豊かにされ、狭い意味での「シンプルリーディング」から、聖書の客観的な読み方も含めて、聖書により相応しい読み方になっていくことを求めています。
「シンプルで従順な心」で聖書を読むことは不可欠ですが、それだけでよいとは思いません。聖書の客観的な読み方と聖書のディボーショナルな読み方は相反するものではなく、少しずつ調和していくものであると考えています。本書では、これを求めています。そして、できるだけ実際的に、(聖)霊的に、神学的に書きました。少しでも、ディボーションやその中での個人的な聖書研究が豊かなものにされていくことが一番の願いです。

豊かな神様が、私たち人間の様々な文化、習慣、歴史、ジャンルなどを豊かに用いて、ご自身の御心を豊かに表してくださいました。ですから、私たちも、いのちの書である聖書のみことばを豊かに読ませていただきたいのです。これこそ、正にご聖霊の働き、ご聖霊の御業です。ハレルヤ!
2020-12-14 17:38:01[投稿番号:173]

きょう、考えさせられたこと
詩篇68章3-4節:御前で喜び踊れ!
 最近のディボーションの聖書箇所は詩篇である。今朝は、詩篇68篇前半。特に、注目した個所は3-4節、「神の御前で喜び楽しむ。。。その御前で喜び踊れ。」

*本当にうれしいとき、その源である神様の前で喜び、踊る。
*神様は、私たちといつも共におられるので、その神様と共に喜ぶ。
*神様を喜ぶだけでなく、神様の前で、互いに喜び合う時でもある。
*神様を意識しながら、共に喜び合う。これは、共に、喜び賛美することに似ている。神様を意識しながら、しかし共に喜び合うことである。

こんなことを考えていたら、個人的に神様を喜び感謝することはあっても、
神様の前で、兄姉と共に喜び合う、喜び踊ることはないなあ?と感じた。

コロナ禍にあって、特に少なくなったとも言えるが、家庭内でも、夫婦の間でも、教会の小グループにおいてでも、共に神様を見上げ、また、この恵みの源である神様にあって、互いに喜び合いたい、踊りたいと思った。

(夜)共に喜び、踊るために、まず、きょう一日の恵みを数えてみた!・・・第一に、今朝の聖書研究祈祷会に来られた兄姉とみことばの恵みを分かち合っていたが、ある方を証しを聴きながら、本当に変わられた、本当に成長されたなあ?と思った(感謝!)。第二に、午後は、何人かの方々に、感謝(クリスマスプレゼント)として、新刊の『ジャンルを大切にして聖書を読む』をお贈(送)りした。これまでのお交わりの素晴らしさを、より深く思い起こすことができた。

神様の御前で、これらの恵みと感謝を共に喜び、共に踊りたい。ハレルヤ!
2020-12-10 21:06:49[投稿番号:172]