会報16号の準備中!
11年ぶりに『会報』を発行します
 先週の月曜日にTEF(東海福音フェローシップ)の総会があり、出席しました。
コロナ禍で心配しましたが、約50名ほどの牧師さんたちが集まって来られました(TEFは、東海地区で奉仕している福音派(福音主義)の牧師さんたちの交わりですが、この交わりが中心となって、2023年に東海地区(岐阜市)で開催予定の日本伝道会議の準備をしています)。久しぶりにお会いした牧師さんたちや、初めてお会いする牧師さんたちとの対面での交わりの素晴らしさを味わいました。

良い機会でしたので、許可をいただき、「ワーダン・スピリットの会」の宣伝をしたり、『ジャンルを大切にして・・・』や『使徒の働き解釈学』の販売をしたりしました。本当に、小さな働きですが、ワーダン・スピリットの会の働きを続けております。

今、11年ぶりに会報16号の準備をしています。たぶん、5月の中ごろには、発刊できるのではないかと思っています。内容は次の通りですが、一部、変更するかもしれません。

1)ゴードン・フィーのGod’s Empowering Presence: The Holy Spirit in the Letters of Paul (統合の部のつづき):
2)「フィリオクエ問題を基にして」(その8):つづき
3)Karel Blei著『Oepke Noordmans: Theologian of the Holy Spirit』
4)ケン・シゲマツ著『賢者の生活リズム』
5)秋元パウロ著『預言ーその実際と運用ー』

皆さん、また連絡いたします。11年ぶりの会報ですが、よろしくお願いいたします。感謝いたします。ハレルヤ!
2021-04-26 08:16:19[投稿番号:202]

先週から神学校が始まりました!
・・・これも牧会ですね。
 先週から、キリスト聖書学園(CBS)と東海聖書神学塾(TBTS)の授業がはじまりました。CBSはヘブル語1で、TBTSはヘブル語1と聖霊論です。今回少し変わったのは、CBSのヘブル語をいつもでしたら、火曜日の午前9時から12時20分まで、3時間20分の長?いクラスをもっていましたが、今回から火曜日と木曜日の二回に分けたことです(2時間と1時間20分)。文法ばかりを一度に、3時間20分かけてやるのは、神学生にとってあまりにも大変だからです(教える私も大変です!)。教会から特別許可をいただいて、木曜日の夕方に、神学校のために時間をとることができるようになりました。

それでも毎回そうですが、火曜日の午前はCBSで、午後はTBTSで、火曜日の最後のクラスである「聖霊論」のクラスになると、本当に「ヘロヘロ」になってしまいます。それでも、不思議ですが、ご聖霊について皆さんにお話しをしていると心身ともに新しくされ、燃えるものを感じます。ハレルヤ!

CBSのクラスは、今回初めてかもしれませんが、聴講の方を入れて神学生は12人です。こんなに多いのは初めてかも。しかも、オンラインなので、四苦八苦しながら、できるかぎり、手をとるようなイメージで、ヘブル語文法の説明をしています。昨年は、Zoomに慣れませんでしたが、そんなこと、言ってはおれませんでした。今は、随分慣れました。

さて、CBSでもTBTSでも、今学期は、神学生の皆さんにヘブル語を教えていますが、ただ文法を教えるだけでは足らないと思っています。はっきり言うと、文法を教えながら、牧会しているという感じです。例えば、CBSでは、これから一年間、ヘブル語1、2(購読)、3(釈義)を教え、来年また(このままいけば)、ギリシャ語を一年間、ギリシャ語1、2、3を教えることになります。ですからオンラインですが、2年間の付き合いになります。交わりが与えられ、牧会をさせていただく感じになります。そして最後に、神様にある献身者として、神学生たちを、この日本に、世界に送り出すのです。

教会の牧会とともに、神学校におけるこのような牧会の場が与えられていることは大きな恵みであり、特権であると思います。いつまでやれるか分かりませんが、これからもしばらく、牧会をつづけていきたいと思います。ハレルヤ!
2021-04-16 17:54:27[投稿番号:201]

イースターおめでとうございます!
お休みをいただいたので…
 約40年日本で宣教師として奉仕してくださった先生が、いよいよ本帰国されることになり(私たちの教会のためにも、16年間ご奉仕してくだっさった)、4日の礼拝奉仕などをお願いすることができたので、先週(受難週であったが)お休みをいただくことができた。
「休み」と言っても、コロナ禍でどこかに出かけることもできないので、これまでやり残してきたことを集中的にやることにした。第一は、パウロ秋元著『預言』の甘辛書評の準備と、これまでずっと書いてきた「(個人預言、聖霊運動などを)見分ける神学」という小論をまとめることであった。かなりできたが、たぶん、もう一か月位かかるだろう。第二は、G.Feeの『God’sEmpowering Presence』の訳(抄訳、要約)を進めること。これももう少しかかるだろう。あと、40頁位。
第三は、新しくCBS神学校の教師になられたRichard Brash先生から、最近ご自身が出版された『Knowing me, Knowing God』の推薦文を書くように頼まれたので、これを読んで、推薦文の準備をした。今、奥様(日本人)が翻訳の準備をしておられるので、翻訳が終われば、たぶん日本語でも出版されることになるだろう。・・・そんなことで、先週の一週間のお休みもあっという間に終わりました。非常に良い本なので、ぜひ出版された読まれることをお薦めします。(下に、プラッシュ先生に送りました推薦文をそのまま載せたいと思います。お読みください)
昨日から、神学校のクラスが始まりました。いろいろな意味で、チャレンジですが、新しい力をいただいて進めていきたいと思います。神学校のクラスでの働きも、「牧会」だなあ、と思っています。(クラスのことについては、次回のブログで書きたいと思います)
推薦文: ?心から本書を推薦する。血の通った組織神学入門である。「組織神学」と聞くだけで何か近寄りがたさを感じてしまう多くの書の中で本書は違う。内容として、神ご自身と聖書に内在する「聖さ」(イザヤ6:5)に対する恐れはあるが、様々な面で読者中心の入門書である。組織神学「入門」に惹かれ、読んで失望する類ではない。もちろん、組織神学の世界に入るためのある種の通過儀礼(多くの専門用語と緻密なロジックに慣れること)は必要であるが、著者はBig Wordsの説明を忘れず、また議論だけで先走らないように様々な工夫をしている。構造は驚くほど明快。相反しているように見える二つの聖書的神学概念が対置され(これが一対で合せて三対ある)、読者は全体を見ながら個々の議論を読むことができる。聖書的には、みことばの解釈と引用は適切で慎重。引用は多彩で、見逃せない神学的知恵が含まれる。日本文化に関わる引用もあって、著者が日本の読者の近くにいることが分かる。
 ?本書は、聖書的に「神学する」ことを教え、励ますだけでなく、「何について、どのように神学するのか」という方向づけやあり方も明らかにしている。著者が近くにいることを感じさせる組織神学の稀な入門書である。教会では、各章の最後に準備されている神学的質問を用いて、話し合い、分かち合うことができる。すでに神学しながら歩んでいる私たちを、より良く神学する教会へと導くだろう。また、毎日個人的に、帰納法的に聖書を読んでいるのなら、聖書全体から聖書を読むために本書を読まれることもすすめたい。一本一本の木を見るだけでなく、森全体を見ることも必要だから。ここに、心から本書を推薦する。
2021-04-07 16:04:34[投稿番号:200]

士師記を読んで
霊的リーダー(Spiritual Leader)を求めて
 最近、ディーボーションで、ずっと士師記を読んできた。士師記を読むたびに感じるのは、これはいったい何という時代か、ということである。まさに、戦国時代、霊的混乱の時代、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた』時代である(17:6、21:25)。解釈的に言えば、士師記のどこでどのような模範を見つけて、現代の私たちの歩みに適用したらいいか分からなくなってしまう。

最後の21章を読み終えたとき、本当に「霊的なリーダー」が必要であることを痛感した。当時で言えば、モーセのような、ヨシュアのようなリーダーが再び起こされることである。ただ「力」があるだけでは足りない。ペリシテや他の民たちをやつけるだけでなく、本当に、民を霊的に育て、助け、導くリーダーが必要である。

確かに、一人一人が十分に自立し、成長していくなら、かつてのようなリーダーは不要かもしれない。余分かもしれない。しかし私は、やはり、どの時代においても、「民」には、「よい霊的リーダー」が必要なのではないかと、より強く考えるようになった。時代とともに、「霊的リーダー」のやることは少しずつ変わっていくかもしれない。しかし、どれだけ、民主的な国や町や教会ができても、「霊的リーダー」は不可欠であると思う。

コロナ禍にあって、なかなか伝道も進まない。牧会も、行動的な面から言うとなかなか思ったようにいかない。片肺飛行を続けているような感じである。こうして、ほとんど一年が過ぎ、さらにこのまま、しばらく続きそうである。

そん中ではあるが、士師記全体から今回教えられたことがある。それは、全く足りない存在であるが、少しでも「霊的リーダー」になることを求めていくということである。偉そうなことは全く言えない。それは分かっている。

伝道牧会において、なかなか計画を立て実行していくというようなことはできない中で、「霊的リーダー」になれるように、求めていくことを考えるようになった。図々しいことであるが、コロナ禍にあって、何よりも、求めていくあり方はこれかもしれなと思うようになった。この時代に置かれ、生かされているわけであるから、その中で、混乱した士師記の時代になるのではなく、少しでも、神様の前によろこんでいただけるような時代をもとめていきたい。ハレルヤ!
2021-03-30 19:16:27[投稿番号:195]

きょうですべての神学校のクラスが終了!
感謝とともに、ホットしています!
 名古屋のCBSは三学期制、金山の東海聖書神学塾は二学期制ですが、きょうですべてが終わりました。感謝します。この一年(昨年4月から今年3月まで)CBSではギリシャ語1、2、3(新約釈義)、神学塾では旧約釈義と終末論を担当させていただきました。

 CBSでは、4月からのギリシャ語1(聖書のギリシャ語文法)の学び、9月からのギリシャ語2(ギリシャ語での新約購読)、そしてこれらのまとめとして、今年の1月からギリシャ語3(新約釈義)がありましたが、今回は特に、「釈義から説教へ」ということで、説教の準備にも力を入れました。そのため、あっという間に、毎回の3時間20分が終わってしまった感じです。すべてが終わると体力的にクタクタになってしまうのですが、ギリシャ語から始めて、解釈的なことをいろいろ考え、最後に説教準備までできるのは、本当にうれしい時間となりました。
 やはり、聖書やギリシャ語の学びは、最後の適用(説教など)まで行かないと違和感のようなものが残るのを感じます。そういう意味で、今回は、適用までともに考え、学ぶことができたことは、本当に感謝で、神様の恵みを豊かに感じる時となりました。
 
 拙著『ジャンルを大切にして・・・』の28ページで、「聖書釈義(解釈)」の究極の目的は「適用」にある、というG.フィーの言葉を引用しましたが、本当にそうであると確認させていただけたクラスだったと思い、感謝しています。

今年の4月からCBSでは、ヘブル語1(文法)が始まり、神学塾では、ヘブル語1と聖霊論が始まりますが、また長い一年の旅が始まります。「適用」を心がけていきたいと願っています。こんな大切で、恵まれて奉仕が与えられていることを、神様に感謝いたします。ハレルヤ!
2021-03-23 20:36:26[投稿番号:194]

50周年の記念礼拝に招かれて!
3年ぶりに懐かしい岩倉教会に行ってきました
 ちょうど26年前、3月28日にカナダから「岩倉」という町に来ました。岩倉教会のメンバーで知っていたのは、その時名古屋のCLCで働いておられたご夫妻だけ、あとは全く、誰も知りませんでした。本当に、何も知らないでカナンの地に出かけたアブラハムのようでした!

 こうして、新たなご奉仕が始まりました。4人の子どもたちは、初め、住居と教会が一つの場所にあることに慣れず、日曜日の夕方になると、子どもたちと一緒に、近所を一回りして家(教会)に帰ったこともありました(カナダ時代には、住居と教会が、車で1時間位離れていました)。こうして、少しずつですが、町に慣れ、教会の兄弟姉妹たちとの交わりが導かれていきました。

教会の皆さんには、一つだけお願いしたことがありました。「「今まではこうでした」と言わないで、「ゼロ」からのつもりで、一緒に伝道と教会形成をしていきましょう。」こうして神様は、少しずつですが、教会を建て上げ導いてくださいました。

あっという間の23年間でした。「65歳になったら、それまで牧会伝道をして来た教会から離れなければならない」という教団ルールについては、素直に従えない思いもありましたが、その時、私はその教団の代表をしており、「代表」がルールを破ることはできず、すべて捧げて従いました。

今週、3年ぶりに、懐かしい岩倉教会の礼拝に行かせていただき、礼拝メッセージをさせていただきました。コロナ禍でお会いできなかった何人かの兄姉がおられましたが、ほとんどの兄姉が礼拝に来ておられ、心から神様に感謝しました。また、新しい方々が来ておられることも見て、本当にうれしく思いました!

牧師先生がよくまとめて教会を導いておられることを見ることができ、感謝しました。神様のみ名を賛美しました。年の進んだ信徒と若い信徒がうまく混ざり合っているのを見ることができたのも感謝でした。
そして、あの教団ルールでよかった。従わせていただいてよかったと思っています。稲沢教会に戻り、待っていた家内にたくさんの「お土産話」をすることができました!

これからも、岩倉の地で主の教会が用いられ、イエス様の福音が豊かに語られていく拠点の一つとなりますように。ハレルヤ!
2021-03-20 20:42:57[投稿番号:193]

小さな喜び!
ジャカランダが咲き始めています!
 2017年5月にイスラエルに行ったのですが、現地でしばしば見かけたのは、「紫色の桜のような花」でした。「あれはなんですか?」と周りの人に尋ねたのですが、なかなか分からず。やっと分かったのは、「ジャカランダ」だと言うことでした。

イスラエルから帰ってからも、その花のことが忘れられず。アマゾンで探したら、5000円位で売っていました。少々高かったのですが、思い切って買ってしまいました。ずっと水やりを続け、何回か冬を越したのですが、全く、花が咲く気配はありませんでした。しかし・・・なんと!

今年、3月の初めに、いくつかの花芽を見つけました。よく見るとその先端が紫っぽい色をしていました。「ジャカランタの花の芽だ!」私は、思わず叫び、家内にも伝えました。

今、少しずつこの花芽が大きくなり、紫色の花が咲こうとしています。
もう少し、もう少し、待ちたいと思います。あまりに嬉しくて、ブログに書いてしまいました。すみません。ハレルヤ!
2021-03-12 17:35:43[投稿番号:192]

会報「ワーダン・スピリットの会」復刊のお知らせ
前回の預言運動とも関連しています
 最近、また「ワーダン・スピリットの会」会報の復刊を考えるようになりました。最後の会報(15号)を出してから、約11年が経ってしまいました。このHPの「会報」の一番初めに、「会報16号」の内容予告があります。以下のとおりです。

?ゴードン・フィーのGod’s Empowering Presence: The Holy Spirit in the Letters of Paul (つづき)
?「フィリオクエ問題を基にして」(その8):つづき
?Karel Blei著『Oepke Noordmans: Theologian of the Holy Spirit』
?ケン・シゲマツ著『賢者の生活リズム』

内容は少し変わりますが、上記の?と?は準備ができていますし、?は半分くらいできています。また、前回ブログに書きました『預言』(パウロ秋元著)も甘辛文献紹介に入れたいと考え、今読み直しております。「(預言を)見分ける神学をめざして」の最後のまとめもしたいと思います。

そんなことで、もう一度、『会報16号』を出したいと考えております。どうぞ、覚えてお祈りください。限られた時間の中での作業ですので、実際の発刊まで時間がかかるかもしれません。よろしくお願いいたします。

これからもご聖霊について教えられていきたいと思います。ご聖霊の御業の素晴らしさがさらに伝えられますように。ハレルヤ!
2021-03-05 21:04:36[投稿番号:191]

現代の預言(者)運動について
『舟の右側』3月号もお読みください
 最近、ある出来事がきっかけで、「現代の預言(者)運動」について考えるようになりました。もし、奇跡的なこと(言葉も業も)が2000年前にすべて終わったと考えておられましたら、以下でお話しすることは意味がないと思います。
 私は、今から33年前にカナダに行き、そこで最初に学び、書いた小論文のテーマの一つが「奇跡的な賜物(預言、癒し、奇跡)」は終わったか、でした。提出した先生は、J.I.パッカー先生でした。

以来、私の理解は、「ノン・セセーショニズム」(これらは、現在も継続していて終わっていない」の立場です。ただし、北米において、当時様々な預言運動(つまり、超自然的な言葉の奇跡的現象)が流行っていましたが、「これは、本物だ」と思える預言と出会うことはありませんでした。あまりにも、偽預言(者)が多かったのです。

カナダで生活している間、そして卒業後も、時々、カナダやアメリカで学びを続けていましたので、さらに10年間ぐらいは、北米における預言者運動やこれに準ずる運動に関心をもち、資料を集めたり、学んだりすることができました。
 ですから、2002年1月号「ワーダン・スピリットの会」会報から2007年4月号「ワーダン・スピリットの会」会報まで、ずっと「(預言を)見分けることについての神学をめざして」を連載して来ました。

しかし2005年頃から北米で学ばなくなり、だんだん北米の教会状況、預言運動の状況などについては分からないことが多くなり、「第三の波」の影響の衰退とともに、預言運動も沈下して行ったと考えるようになりました。

ところがです。北米でも、そしてなんと日本でも、以前と全く変わらないような、(新)預言運動が流行っていたのです。例えば、『舟の右側』3月号をお読みください。「ジェレマイア・ジョンソン(預言者?)の公式謝罪」が載っています。このようなことは、北米の預言者運動の歴史を見れば、これまでにも繰り返し起こっていたことです。

それで、さっそく、以前書いていました『(預言を)見分けることについての神学をめざして』をもう一度読むことにしました。これは、当時、『預言をすることばかり(神学?)』が流行っていて、それを真剣に吟味することがなおざりになっていることを知り、逆に「(預言を)見分けていくことの大切さとその神学と実際」について書いたものです。
まだ、完成していませんので、ぜひとも、早いうちに「最後の結び」を書き終えたいと思います。関心をお持ちの方はご連絡ください。

神様を喜び、ほめたたえて歩んで行くとともに、このような問題については逃げないで、直面して吟味していくことも、この世で生かされている神の子どもたちの仕事でしょうか。今、こんなことを考えています。ハレルヤ!
2021-02-27 18:01:50[投稿番号:190]