先週、家族10人がそろいました! | | ・・・子どもたちに遺したいもの? | 先週、家族10人が揃いました。まだ二か月の孫も含め、アメリカからやっと一時帰国できた息子一家4人も集まりました。短い時間でしたが、楽しい時でした。神様の憐みによって、家族全員が神様を信じ、それぞれの所で神様の子どもとして歩んでいること。・・・こんな嬉しいことはありません。
最後の晩に、輪になって手を取ってみんなでお祈りしました!・・・私の第一の願いは、子どもたちも孫たちも、神様との交わりを喜んで、それぞれの所で神様に仕えながら成長していくことです。
あと半年で70歳を迎えますが、若い時や壮年時代には見えなかったことが少し見えてきました。また何が大切なことか、少しわかってきました。年をとると、身体的に弱くなり、故障が増え、知的には頭が固くなり、忘れることも激しくなってきていますが、今まで見えていなかったことや分からなかったことが、少しずつ見えてくることは、何と感謝なことでしょうか。
毎日、毎日、子どもたちと孫たちの霊的成長のために祈り続けています。ハレルヤ!本当にハレルヤです!
今していること:ゴードン・フィーの本(抄訳)はほとんど終わりましたので、もう一度(二度?)読み直して、分かりやすく、読みやすい「要約」を準備していきたいと思います。
また、『舟の右側』連載用の原稿を準備しています(締め切りは10日まで)。ロイドジョンズの『栄えに満ちた喜び』の書評の準備を始めたいと思います。まだまだ、聖霊論に関して、やるべきことがたくさん残っているように思います。いつまでできるかわかりませんが、私のライフワークとして続けていきたいと思います。ハレルヤ! | | 2021-08-06 20:38:48[投稿番号:219] |
最近、教えられていること+アルファ | | 普通ではない神様の臨在! | ディボーションの中で、1歴代誌を読んできましたが、今週、2歴代誌に変わりました。きょうは、6章の前半で、建て上げられた神殿について、ソロモンが献堂の祈りをしているところです。18節にあるように、永遠、無限の神様を、人間の手で作られた家の中にお迎えすることができるでしょうか。ソロモンが言っている通りです。「天も、天の天もお入れすることはできない」
しかし神様は敢えて、そこにご自身の「み名」を置くと言われたのです!神様の臨在にあずかるということは、当然のこと、当たり前のことではありません。私たちが、神様の偉大な、異常な、臨在に慣れませんように。ありえないことがおこったのです。無限の神が、この地球にやって来られ、人間が作った家(神様から見ればマッチ箱のような家)に敢えて住んでくださったのです。いや、喜んでご自分の住処とされたのです。
このことを考えていると、今の時代において、神様が二重にありえないことをなさったことを思い起こしました。1コリント3章と6章にあります。第一に、私たちの間(教会)に御霊によって臨在してくださった。第二に、私たち一人ひとりの心に御霊によって臨在してくださった。
こうして、驚くべき、ありえない、異常な臨在が、神様にあって、御霊によってなされていることに驚きます。ハレルヤ!
ゴードン・フィーの本に関して、です。最後の付録まで翻訳が終わりました。今は、もう一度、読みやすい日本語に直しているところです。これから、部分的に、また全体的に、さらに分かりやすく、読みやすくしていくことになります。
8月末までには完成させたいと思っています。お祈りください。
また、8月には、ロイドジョンズの『栄えに満ちた喜び』の書評をあらためて書きたいと思っています。 | | 2021-07-30 22:32:40[投稿番号:218] |
ゴードン・フィーの本の翻訳(つづき) | | 今でも教えられ、発見させられることあり! | 前回のブログ(ゴードン・フィーの本)の続きになります。
今は、最後の結び(16章:ここからどこへ行くか。パウロの聖霊論と現代の関係)の訳が終わり、付録を訳しています(パウロの前にあったもの:旧約聖書における聖霊や中間時代の展開)。
難しいところがあり、壁にぶつかりながら、なんとか訳を進めています。16章は、三つに分けられ、第一は、これまで扱ってきたパウロの聖霊論の中心的要約、第二は、パウロの教会の聖霊と現代の状況の対比、第三は、パウロの時代と今の時代のギャップをどのように埋めていくのかについての提案からできています。
教えられることがたくさんあって、今でもいろいろな発見をすることができます。聖霊論に関して、古くて新しい本という感じです。以下に、見本として、一部ですが、第一の区分けの要点1を紹介します。
「第一:最も明らかなことは、全体に渡って何度も繰り返してきたことであるが、パウロのクリスチャンとしての経験において、そしてそれゆえに、彼の福音理解において、御霊は絶対的に無くてはならない役割を果たして来られたことである。最終的には、彼の神学のどの面においても(少なくとも彼の神学の根本となる部分において)、聖霊が主役でないものはない。確かに御霊は、パウロの中心ではない。キリストがずっといつも中心である。しかし御霊は、真のクリスチャン生活と経験の全てで無くてはならない要素として、その中心に非常に近いところにおられる。この理由から、パウロの神学を再考する際には、今まで以上に、聖霊は、もっと決定的な役割を果たしておられるはずである。」
パウロの聖霊論はもちろん、聖書の聖霊論であり、これに含まれると言えます。パウロの神学の中心にキリストとその御業があります。しかし、御子のすぐ側で、また私たちのすぐ側で、真のクリスチャン生活を導いておられる御子の御霊を強調したいと思います。
まだまだ、不十分な訳ですが、少しでも読みやすくまとめていきたい。「付録」が終われば、もう一度、12章から16章まで読み、再度、訳語や訳文を直していくことになります(時間がかかります??)。こうして最後に、1章から16章まで全体を一つにまとめてみたい。
パウロ神学(聖霊)に関して、これほどの書が今私の手元にあることに心から感謝します。ハレルヤ! | | 2021-07-23 21:22:32[投稿番号:217] |
最近教えられたこと・・・1歴代誌から | | ゴードン・フィーの書の翻訳について | ディボーションで学ぶ聖書箇所が、出エジプト記から1歴代誌になりました。旧約のナラティブらしいナラティブから教えられたいと思ったからです。
今日の箇所は、あの有名な、ウザが打たれ死んだ出来事のある13章でした。ダビデを初め、他の多くのユダヤ人たちが大喜びして、神の箱をダビデの町に移そうとしていた時でした。牛が神の箱をひっくり返しそうになったので、レビ人ではないウザが思わず神の箱に触れてしまったのです。こうしてウザは、神様の怒りを引き起こしたのです。
この箇所に関して、いろいろな質問や議論がありますが、私が今朝、あらためて教えられたことは、神の箱(神様の臨在)の祝福(13?14)と聖さです。神の箱、つまり神様の臨在には二重の意味がいつもあるのです。絶対的な聖さと絶対的な祝福です。大喜びにふさわしい神様の臨在ですが、同時に、絶対に忘れてはいけない、軽視してはいけないことがあります。それは、神様の聖なる臨在です。どちらか一方ではなく、両方です!
前回のブログでは、出エジプト記33章で教えられた神の臨在の不可欠性について触れましたが、ここでは、神様の臨在の二重性を忘れてはいけないことについて教えられました。二つは、どちらも大切であり、聖さがあって、本当の祝福があるとも言えます。
1コリント3章と6章の二つの臨在の教えともつながってきますが、私の内におられる神様(内住の聖霊)の臨在に関しても、この二重性を忘れてはいけないことを教えられます。
今、前回も触れましたように、ゴードン・フィーの本を訳し続けています。結びは903頁です(+付録として、旧約の聖霊についての小論が11頁ありますが)。今、荒っぽい日本語訳ですが、901頁まで来ました。2004年に本書の翻訳(要約)を始め、なんとか2010年まで続けました(?約800頁まで)。しかし牧会とともに、新会堂建築、教団の奉仕に集中しなければならない時期もあり、ほとんど中断したときもありました。こうしてやっと最後が少し見えてきました。
本当に多くのことを教えられてきた書と言えます。翻訳しながら、今も教えられています。この本がなければ、聖霊論に関して、今の自分はどこにいるだろうかと思わされるほどの重大な書です。約900頁を時間をかけて、翻訳する価値が十分ある書です。
終わりが近づいて来て思いますのは、これほどの書を書かれたG.フィー先生のことです。おそらく、今も、アルツハイマー病で入院が続いているのではないかと思います。時々、翻訳しながら、先生のことを思い、祈ります。病の床におられる先生とご家族のことを思わずにはいられません。
本当に、大きな大きな感謝を神様と先生に捧げます。ハレルヤ! | | 2021-07-16 21:26:20[投稿番号:216] |
最近教えられていること…出エジプト記から | | 最近やっていることなど | 最近はずっと出エジプト記を読んでいます。特に心に残っているのは、モーセのこの言葉です。「もしあなたのご臨在(直訳は、顔)がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください」(33:15)。
モーセの迫力が伝わってくるようです。どうしても、神様の臨在は不可欠であり、それによって、「はじめて他の民との違いが明らかになる、神様の特別な取扱いが現れる」と言っているのです(16節)。34章9節でも「どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように」となお訴えています。・・・これは、神様の臨在の偉大さや素晴らしさを本当に知り、その必然性を経験してきているモーセの言葉であると言えます。
私たちは、結構、気軽に「神様はともにいてくださる!」と言ってしまいますが、私たちの罪や不従順から言えば、決して当然の恵みではないことが分かります。それなのに、聖なる神様は、御子と御霊によって(喜んで)臨在していてくださるのです。当たり前の恵みではなく、ありえないことが起こっていることに驚き、おののき、これを繰り返し確認しながら、この恵みに応答させていただきたいと思います。臨在と内住の恵みを、きょうも意識して歩ませていただきたいです。
ゴードン・フィーの『God’Empowering Presence』の翻訳(要約)がかなり進んできています。なんとか、この夏の終わりまでにまとめてしまえるかもしれません。読んでも読んでも、教えられることの多い本です。感謝します。英語でどうしても翻訳の難しい箇所は、息子が一時帰国しますので、確認したいと思っています。
また、聖霊神学や聖霊運動に関して、「足らなかったり、行き過ぎたり」と言う問題がいつもありますが、この問題についての小論文を書き始めています。果たしてこのようなことを書く資格が自分自身にあるのか問いながら、神様の「時」を待ちたいと思っています。「足らない部分」については、いろいろ出てくるのですが、「行き過ぎの部分」に関しては、どんな物差しを使うことがふさわしいのかなお考えています。もちろん、聖書が唯一の規準ですが、聖書も解釈する人によって違いが出てきてしまいます。今も、いろいろ迷いながら、考えつづけています。よいアドバイスがありましたら、お教えてください。神様にあるお交わりを感謝いたします。ハレルヤ! | | 2021-07-10 10:47:11[投稿番号:215] |
最近考えていること・・・ | | 「安息日、主日」の使い方 | これまでにもブログで書きましたように(また、ワーダン・スピリットの会会報16号でも)、ケン・シゲマツ著の2冊はお薦めです。どちらにも、「安息日」とその使い方について書かれています。とても重要な教えと実践の勧めがあります。ケンさんは、「心身の休み」を強調しています。真に遊ぶこともすすめています。
私も、自分自身の霊的なあり方を点検したり、養ったり支えたりするために、これまでにも安息日の実践を何度も試みました。しかし、どうも、うまくいきません。続かないのです。火曜日はセミナリーデイ(神学校奉仕)なので、準備も必要になります。そんなことで、午前だけ休むとか、午後だけ、夜だけ休むとか、考え実践しましたが、それでも難しいのです。
そんなことで、あらためて「牧師にとっての安息日・主日とは?」について考えました。言い訳がましいのですが、ケンさんのおすすめと実践は、かなりカナダ的(北米的)かもしれないなあ?と考えるようになりました。
もう一度、安息日の教えについて聖書に戻って確認してみようと思いました。拙著『ジャンルを大切にして・・・』の169頁以下、204頁以下にも簡単に触れています。
まだ、安息日に関して結論にはなっていませんが、現在はこんな感じです。
一つ:日曜日(主日)に、奉仕や役割は違いますが、私も礼拝説教をしながら、兄姉と共に礼拝を捧げ、主日を守っています。
二つ:今はコロナ禍で十分できませんが、礼拝後、主にある兄姉と交わりの時をもちます。また、今はできませんが、兄姉の霊的成長のために何らかの奉仕(Doing)をします。
三つ:月曜日の使い方ですが、やはり心身の休みが必要です(一日中ではないかもしれませんが)。
四つ:これが重大です。どこまでどれだけできるかは難しいのですが、神様の前に静まり、自分の霊的なあり方を点検したり、神様との関係(交わり)を整えていただく必要があります。・・・日曜日から月曜日にかけて、これは、どうしたらいいでしょうか。これが課題です!
五つ:家族との交わりを大切にする。今は、子どもたちは一緒にいませんから、家内とゆっくり時間をとることも大切です。必要です。
ちなみに、今週の月曜日は、久しぶりに「リトルワールド」に行ってきました。折角買った安いチケットの期限が迫って来ていたこともありますが、家内とゆっくりしようと出かけました。人は少なかったです。「リトルワールド」もかなり古くなったなあ?という感じです。家内と、以前、何度もここに来たことがあったので、それらを思い出したりする時となりました(歳ですね。。。笑)。
今回、思い切って「ワニのバーガーとピラルクのフライ」を食べました!ピラルクは美味しかった!ワニはふつう!・・・この日はなんと、久ぶりに、13000歩歩けました!ハレルヤ!
牧師(わたし)にとっての安息日(日曜日から月曜日)の使い方について、さらに教えられ、考え、実践していきたいと思います! | | 2021-06-30 18:40:17[投稿番号:212] |
前回のつづき・・・イロイロ | | 私とともに、私たちとともに! | 本当に忙しい一週間が過ぎ、すこしホッとしています。前回のブログで書きましたように、二つの神学校で合わせて三つのクラスがあり、また教団の教役者研修会で四回のご奉仕がありました。いずれも、オンラインでした。
忙しかったのですが、それでも、私たちの間にご臨在していてくださるご聖霊をできる限り意識しながら、奉仕し、歩ませていただきました。結果としては、本当に感謝で、いろいろな発見ができたと言えるでしょう。まだ、私にとって未知の領域ですが、これからも、教会(私たち)の間に臨在(内住)していてくださるご聖霊を意識し、再発見していきたいと思います。
そしてもちろん、サイズはいろいろですが、いろいろであっても、クリスチャンの交わりの中で共にいてくださるご聖霊を覚えていきたいと思います。クリスチャンの交わり、また教会は、一方ではとても人間的ですが、他方で確かに聖霊的です。この霊的事実を見つめていきたいと思います。
まだまだ、頭で考え、悟ったつもりでいて、実はまだよく分かっていなかったことってありますね。。。これからも教えられていきたいですね。
きょうは、DVD「(一日ディボーション研修):全三巻」をダビングして、6人分準備しました。ラベル印刷はできるだろうかと少し心配でしたが、印刷機がよくやってくれました。少し大変になった時、途中でお祈りしました。
そして感謝ですね。お祈りしていたら、このDVDの真の目的が思い起こされ、交わりの間に内住していてくださるご聖霊の助けを感じました。
大変だ、大変だ、ではなく、感謝しながら、すべて終えることができました。
「あなたのディボーションのために」の連載の8月号用の原稿準備を始めました。それから、次の連載(?)を考えていますので、そのテーマについて考えていることを少し書き出してみました。
コロナ禍にありますが、毎月一回やっていますHDYK(ヘブル語で伝道者の書を読む会)を他の牧師さんたちと楽しくやることができました。
いろいろ忙しい毎日ですが、神様とともにおれることを感謝いたします。ハレルヤ! | | 2021-06-21 20:39:26[投稿番号:211] |
最近教えられ、考えていること! | | 教会に内住・臨在される聖霊 | ペンテコステ礼拝がまだ続いています。来週で5回目になる予定です。クリスマスも一か月かけて準備し、レントからイースターも45日かけますから、ペンテコステも一か月位かけてもいいのではないでしょうか。
先週までは、どちらかというと「聖霊と私・・・内住の聖霊を意識する!」というテーマでした。しかし今週と来週は、「聖霊と私たち・・・教会に内住しておられる聖霊を意識する!」です。
準備をしながら強く感じさせられたことがあります。それは、個人的に私の心に内住していてくださるご聖霊を思うことが素晴らしいなら、私たち教会に臨在し、内住していてくださるご聖霊を思うことも素晴らしいのではないか、ということです。
これまで、なんどもこのことについては学び、考え、語ってきましたが、今回はそれ以上です。私の心におられるご聖霊を意識するのと同じように、教会のただなかにおられる聖霊を意識し続けていきたいと思っています。
例えば、1コリント3:16、12:13などを読んで確認してみてください。
今週は、オンラインで神学校の三つのクラスがありました(月と火)。そしてまた、きょうからオンラインですが、教団の教役者会プラス研修会があります。それを経験しながら、交わりの規模はいろいろですが、どの交わりも、ある意味で教会であり、聖霊はこの中に、間に、臨在し、内住していてくださるということです。
まだまだ、「意識する!」ことは小さく、不十分であると思いますが、それぞれの場で、間におられる内住の御霊を意識するようにしています。何か、特別な変化はありませんが、それでも、恐れとか、聖さとか、喜び、平安を感じます。
クリスチャンたちが二人か三人、イエス様のみ名で集まるところにイエス様がおられるとありますが、実は、ご聖霊も、そこに内住していてくださるのです。これを思うと大きな励ましになります。
「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数が増えて行った」(使徒9:31)。
パラクレートス(助け主)である聖霊は、教会と共におられて、教会をいつも、パラクレーシス(励まし、慰め、導き、助け、教え・・・)していてくださいます。ハレルヤ! | | 2021-06-15 21:44:36[投稿番号:210] |
最近読んだ本から・・・ | | ケン・シゲマツ著『魂のサバイバルガイド」 | 最近は書いたりすることが多くなり、なかなか本を注文して読む時がありませんでしたが、ケン・シゲマツ著『魂のサバイバルガイド』を読むことができました。とてもよい本で、教えられることがたくさんありました。皆さんにも、お薦めしたいと思います。
本書は、ある意味で、同著者の『賢者の生活リズム』の続きのようで、現代社会のただ中でどのようにスピリチュアルな生活を始め、また築いて行ったらよいのかについて、多くの知恵や模範やストーリーから学ぶことができます。
『賢者の生活リズム』はどちらかというと、より広く、重要なほとんどの関係をもう一度点検し、スピリチュアルな成長に向かって不可欠な「トレリス」を教えていると言えますが、本書は、私たちの心や人生にある二つのアダム(達成を求めるアダムと魂を求めるアダム)を対比させたり、並置させたり、またさらに、両者のふさわしい統合を求めたりしながら、真にバランスのとれた霊性を追求し、私たちに真の霊性を教えていると言えます。
最終的に、あなたは何を求めて生きていきたいのか、それは本当に神様の前に、また自分自身にとって、ふさわしい道なのか。土台は何か、ゴールは何か。真にスピリチュアルに生きる生き方が問われる書であると言えます。
教えられたことの一つは、今週の礼拝メッセージでも引用しましたが、自分の子どもに何を求めるかということに関して、著者は、「創造者である神と親しい関係に目覚めることができるかどうかです」(245頁)と書いています。
これは、私も、非常に共鳴した個所です。もちろん私も、自分の子どもたちが、また孫たちが、元気で育っていくことを願っています。また、この社会で、世界で、与えられている賜物を用いて、それなりの生活をしていくことを願っています。もちろん、神様を信じる信仰をもちつづけてくれることを祈っています。しかし、それだけでは満足しないし、私の究極の祈りではないと言えます。子どもたちが、どこに行こうと、何をしようと、自分が神様によって造られ、生かされていることを知り、この愛のお方との交わりの素晴らしさを発見し、感じつつ、歩んでもらいたい。これが、私の究極の遺言でもあると言えるでしょう。
本書をおすすめします。ハレルヤ! | | 2021-06-10 21:04:54[投稿番号:209] |
|