G.フィーとM.ロイドジョンズ
今、少しずつまとめています。
 今、ロイドジョンズの『栄えに満ちた喜び』とフィーの『神の力ある臨在』をまとめています。前者は、一回読み終え、甘辛「書評」を準備しましたが、もう一度、もう少し分かりやすく、また短くしようとしているところです。後者は、全体の英訳(抄訳)を終わりましたので、これも、少し短く要約しているところです。

毎日とはいきませんが、今、この二書を、少しずつ、ほとんど同時に、まとめ直していますので、どうしても比較してしまいます。二人とも福音主義ですが、非常に似ている所と全く違う所があって面白いです。
ロイドジョンズは、福音派に属しますが、聖霊のバプテスマ理解に関して、聖霊派寄りです(聖霊派と異なる理解もいくつかありますが)。フィーは、聖霊派ですが、ある種の聖霊のバプテスマ理解は福音派に近いものがあります。両者とも、聖霊を強調し、聖霊の働きと臨在を求めています。

ロイドジョンズは、入信後の聖霊の特別な経験(聖霊のバプテスマと呼んでいる)を強調し、本書で一貫してこれを教えていますが、フィーは、入信時における聖霊の特別な経験に基づく入信後の聖霊生活を強調しています。

前者は、日本語訳で460頁位あり、聖書の解釈と歴史的実例に基づいたメッセージ集ですが、後者は、英語で900頁以上あって、聖書(パウロ書簡)を厳密に釈義しそれを統合する試み(神学)をしています。

二書とも、神様がよしとし下されば、9月末頃までには完成できると思います。前者は、神学塾の聖霊論のクラスの資料として使用したいと思い、この夏、特に集中して読み、まとめて来たものです。後者は、2004年から翻訳を始めたものです。途中、10年ほどそのままにしていましたが、昨年、また再開しました。これも、私のライフワークの一つと思ってきましたが、ついに完成できることは大きな喜びです。著者のフィー先生に感謝するとともに、今も闘病中であると聞いていますので、フィー先生とご家族のために祈ります。
2021-08-27 18:36:39[投稿番号:222]

祈祷会の聖書箇所から教えられたこと
創世記24章「イサクの花嫁探し」から
 木曜日の聖書研究祈祷会では、このところ、創世記から共に読み、学び、分かち合っています。1ステップは、「大切だと思った箇所」の分かち合い。2ステップは、大切だと思った箇所について、「なぜ」という質問を作る。3ステップは、その「なぜ」という自分で考えた質問の答えを考え、分かち合う(少し時間をかけます)。4ステップは、その答えをもとにして、聖書の普遍的な教えを自分でまとめて分かち合う。5ステップは、その普遍的な教えを、今度は自分自身の生活に当てはめ、分かち合う。

きょうの箇所は、表は、イサクの花嫁探しですが、それを超えて、内的に教えられることとして、神様のみこころがどのように明らかにされていくのか。またそのみこころをアブラハムから遣わされたしもべや他の人々がどのように知って、それに応答していくのか、いろいろ考えさせられ、共に分かち合うことができました。

私が注目したのは、26節の「礼拝した」という箇所と52節の「礼拝した」という箇所の流れです。このしもべは、26節で神様のみ心を確信して、礼拝したのですが、そのあとも、慎重に、慌てないで、神様のみこころをもとめていったのです。ですから、実際に、49節で、「それによって、右が左に向かうことになる」とも言っています。神様のみ心を確信しても、なお、慎重に、求め続け、確認し続けていく、このしもべのへりくだり、慎重さ、御心を求めて歩んで行くあり方について教えられました。

今朝の祈祷会の参加者は、多くありませんでしたが、本当に、こころから神様のみことばに集中し、親しみ、感動し、その恵みを分かち合うことができました。私は、24章を読みながら、涙が出そうになりました(出たかも?)。本当に素晴らしい聖書箇所で、御言葉にかなった分かち合いができました。感謝いたします。

今、『栄えに満ちた喜び』の書評準備は、思ったより、早く進んでいます。このままでしたら、8月末に終わるかもしれません。今は、16章まで来ました。賛成できないこともイロイロありますが、面白いです。感謝します。ハレルヤ!
2021-08-19 18:23:34[投稿番号:221]

最近のこと、いろいろ
『栄えに満ちた喜び」の書評準備を始めました
 最近、びっくり喜んだことがあります。それは、パインの水耕栽培をしていたら、本当に根が出てきたのです。以前一度試したことがありましたが、失敗して諦めていました。おまけに、うまくいったとしても、食べられるまでに2~3年位かかると言われていましたから。しかし最近、少し高かったのですが、軸まで食べられるパインを見つけて思い切って買ったのです。食べた後、捨てるのが惜しくなり、水につけていたら、根が出て来たのです。本当にびっくりです!

 今我が家には、パインだけでなく、いろいろな動植物がいます(あります)。家の中には、コーヒーの木、ガジュマル、ジャカランタなど。ウサギ(ネザーランド)、メダカの子ども(黒、シルバー、橙)。外には、ハイビスカス(ピンクと黄)、ブーゲンビリア、台湾レンギョウ、ブルースターなど。とにかく、にぎやかです。

昨日、『舟の右側』用の「あなたのディボーションのために」の原稿を送りました。原稿を送り出すと、少しほっとできます。この連載もあとわずかで終わります。

それから、ロイドジョンズの『栄えに満ちた喜び』の書評の準備を始めました。聖書説教者、解釈者として著名な人の本ですから、簡単にさっと読むことはできません。これまでも部分的に何度か読みましたが、今回は、徹底的に読んで分析したいと願っています。今、2章が終わりました。24章まで(450頁以上)ありますので、いつ終わるか分からなくなりました。8月末は無理でしょう。9月末までには終わりたいのですが。あらためて、いろいろ考えさせられる本です。慎重に読んでいきたいと思っています。

最後に、今は、ディボーションで2歴代誌を読んでいます。毎朝、本当にイロイロ大切なことを教えられ、感謝です。レハブアム王、アビヤ王、アサ王、そして今、ヨシャパテ王まで来ました。初め、弱くて神様に頼っていても、晩年に強くなって神様から離れてしまう例がいくつもあります。本当に残念です!
最後の最後まで、神様を求めて、神様とともに歩ませていただき、与えられた生涯を全うさせていただきたいと心から願っております。ハレルヤ!
2021-08-12 20:47:30[投稿番号:220]

先週、家族10人がそろいました!
・・・子どもたちに遺したいもの?
 先週、家族10人が揃いました。まだ二か月の孫も含め、アメリカからやっと一時帰国できた息子一家4人も集まりました。短い時間でしたが、楽しい時でした。神様の憐みによって、家族全員が神様を信じ、それぞれの所で神様の子どもとして歩んでいること。・・・こんな嬉しいことはありません。

最後の晩に、輪になって手を取ってみんなでお祈りしました!・・・私の第一の願いは、子どもたちも孫たちも、神様との交わりを喜んで、それぞれの所で神様に仕えながら成長していくことです。

あと半年で70歳を迎えますが、若い時や壮年時代には見えなかったことが少し見えてきました。また何が大切なことか、少しわかってきました。年をとると、身体的に弱くなり、故障が増え、知的には頭が固くなり、忘れることも激しくなってきていますが、今まで見えていなかったことや分からなかったことが、少しずつ見えてくることは、何と感謝なことでしょうか。

毎日、毎日、子どもたちと孫たちの霊的成長のために祈り続けています。ハレルヤ!本当にハレルヤです!

今していること:ゴードン・フィーの本(抄訳)はほとんど終わりましたので、もう一度(二度?)読み直して、分かりやすく、読みやすい「要約」を準備していきたいと思います。
また、『舟の右側』連載用の原稿を準備しています(締め切りは10日まで)。ロイドジョンズの『栄えに満ちた喜び』の書評の準備を始めたいと思います。まだまだ、聖霊論に関して、やるべきことがたくさん残っているように思います。いつまでできるかわかりませんが、私のライフワークとして続けていきたいと思います。ハレルヤ!
2021-08-06 20:38:48[投稿番号:219]

最近、教えられていること+アルファ
普通ではない神様の臨在!
 ディボーションの中で、1歴代誌を読んできましたが、今週、2歴代誌に変わりました。きょうは、6章の前半で、建て上げられた神殿について、ソロモンが献堂の祈りをしているところです。18節にあるように、永遠、無限の神様を、人間の手で作られた家の中にお迎えすることができるでしょうか。ソロモンが言っている通りです。「天も、天の天もお入れすることはできない」

しかし神様は敢えて、そこにご自身の「み名」を置くと言われたのです!神様の臨在にあずかるということは、当然のこと、当たり前のことではありません。私たちが、神様の偉大な、異常な、臨在に慣れませんように。ありえないことがおこったのです。無限の神が、この地球にやって来られ、人間が作った家(神様から見ればマッチ箱のような家)に敢えて住んでくださったのです。いや、喜んでご自分の住処とされたのです。

このことを考えていると、今の時代において、神様が二重にありえないことをなさったことを思い起こしました。1コリント3章と6章にあります。第一に、私たちの間(教会)に御霊によって臨在してくださった。第二に、私たち一人ひとりの心に御霊によって臨在してくださった。

こうして、驚くべき、ありえない、異常な臨在が、神様にあって、御霊によってなされていることに驚きます。ハレルヤ!

ゴードン・フィーの本に関して、です。最後の付録まで翻訳が終わりました。今は、もう一度、読みやすい日本語に直しているところです。これから、部分的に、また全体的に、さらに分かりやすく、読みやすくしていくことになります。
8月末までには完成させたいと思っています。お祈りください。

また、8月には、ロイドジョンズの『栄えに満ちた喜び』の書評をあらためて書きたいと思っています。
2021-07-30 22:32:40[投稿番号:218]

ゴードン・フィーの本の翻訳(つづき)
今でも教えられ、発見させられることあり!
 前回のブログ(ゴードン・フィーの本)の続きになります。
今は、最後の結び(16章:ここからどこへ行くか。パウロの聖霊論と現代の関係)の訳が終わり、付録を訳しています(パウロの前にあったもの:旧約聖書における聖霊や中間時代の展開)。

難しいところがあり、壁にぶつかりながら、なんとか訳を進めています。16章は、三つに分けられ、第一は、これまで扱ってきたパウロの聖霊論の中心的要約、第二は、パウロの教会の聖霊と現代の状況の対比、第三は、パウロの時代と今の時代のギャップをどのように埋めていくのかについての提案からできています。

教えられることがたくさんあって、今でもいろいろな発見をすることができます。聖霊論に関して、古くて新しい本という感じです。以下に、見本として、一部ですが、第一の区分けの要点1を紹介します。

「第一:最も明らかなことは、全体に渡って何度も繰り返してきたことであるが、パウロのクリスチャンとしての経験において、そしてそれゆえに、彼の福音理解において、御霊は絶対的に無くてはならない役割を果たして来られたことである。最終的には、彼の神学のどの面においても(少なくとも彼の神学の根本となる部分において)、聖霊が主役でないものはない。確かに御霊は、パウロの中心ではない。キリストがずっといつも中心である。しかし御霊は、真のクリスチャン生活と経験の全てで無くてはならない要素として、その中心に非常に近いところにおられる。この理由から、パウロの神学を再考する際には、今まで以上に、聖霊は、もっと決定的な役割を果たしておられるはずである。」

パウロの聖霊論はもちろん、聖書の聖霊論であり、これに含まれると言えます。パウロの神学の中心にキリストとその御業があります。しかし、御子のすぐ側で、また私たちのすぐ側で、真のクリスチャン生活を導いておられる御子の御霊を強調したいと思います。

まだまだ、不十分な訳ですが、少しでも読みやすくまとめていきたい。「付録」が終われば、もう一度、12章から16章まで読み、再度、訳語や訳文を直していくことになります(時間がかかります??)。こうして最後に、1章から16章まで全体を一つにまとめてみたい。
パウロ神学(聖霊)に関して、これほどの書が今私の手元にあることに心から感謝します。ハレルヤ!
2021-07-23 21:22:32[投稿番号:217]

最近教えられたこと・・・1歴代誌から
ゴードン・フィーの書の翻訳について
 ディボーションで学ぶ聖書箇所が、出エジプト記から1歴代誌になりました。旧約のナラティブらしいナラティブから教えられたいと思ったからです。

今日の箇所は、あの有名な、ウザが打たれ死んだ出来事のある13章でした。ダビデを初め、他の多くのユダヤ人たちが大喜びして、神の箱をダビデの町に移そうとしていた時でした。牛が神の箱をひっくり返しそうになったので、レビ人ではないウザが思わず神の箱に触れてしまったのです。こうしてウザは、神様の怒りを引き起こしたのです。

この箇所に関して、いろいろな質問や議論がありますが、私が今朝、あらためて教えられたことは、神の箱(神様の臨在)の祝福(13?14)と聖さです。神の箱、つまり神様の臨在には二重の意味がいつもあるのです。絶対的な聖さと絶対的な祝福です。大喜びにふさわしい神様の臨在ですが、同時に、絶対に忘れてはいけない、軽視してはいけないことがあります。それは、神様の聖なる臨在です。どちらか一方ではなく、両方です!

前回のブログでは、出エジプト記33章で教えられた神の臨在の不可欠性について触れましたが、ここでは、神様の臨在の二重性を忘れてはいけないことについて教えられました。二つは、どちらも大切であり、聖さがあって、本当の祝福があるとも言えます。

1コリント3章と6章の二つの臨在の教えともつながってきますが、私の内におられる神様(内住の聖霊)の臨在に関しても、この二重性を忘れてはいけないことを教えられます。

今、前回も触れましたように、ゴードン・フィーの本を訳し続けています。結びは903頁です(+付録として、旧約の聖霊についての小論が11頁ありますが)。今、荒っぽい日本語訳ですが、901頁まで来ました。2004年に本書の翻訳(要約)を始め、なんとか2010年まで続けました(?約800頁まで)。しかし牧会とともに、新会堂建築、教団の奉仕に集中しなければならない時期もあり、ほとんど中断したときもありました。こうしてやっと最後が少し見えてきました。

本当に多くのことを教えられてきた書と言えます。翻訳しながら、今も教えられています。この本がなければ、聖霊論に関して、今の自分はどこにいるだろうかと思わされるほどの重大な書です。約900頁を時間をかけて、翻訳する価値が十分ある書です。
終わりが近づいて来て思いますのは、これほどの書を書かれたG.フィー先生のことです。おそらく、今も、アルツハイマー病で入院が続いているのではないかと思います。時々、翻訳しながら、先生のことを思い、祈ります。病の床におられる先生とご家族のことを思わずにはいられません。

本当に、大きな大きな感謝を神様と先生に捧げます。ハレルヤ!
2021-07-16 21:26:20[投稿番号:216]

最近教えられていること…出エジプト記から
最近やっていることなど
 最近はずっと出エジプト記を読んでいます。特に心に残っているのは、モーセのこの言葉です。「もしあなたのご臨在(直訳は、顔)がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください」(33:15)。
モーセの迫力が伝わってくるようです。どうしても、神様の臨在は不可欠であり、それによって、「はじめて他の民との違いが明らかになる、神様の特別な取扱いが現れる」と言っているのです(16節)。34章9節でも「どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように」となお訴えています。・・・これは、神様の臨在の偉大さや素晴らしさを本当に知り、その必然性を経験してきているモーセの言葉であると言えます。
私たちは、結構、気軽に「神様はともにいてくださる!」と言ってしまいますが、私たちの罪や不従順から言えば、決して当然の恵みではないことが分かります。それなのに、聖なる神様は、御子と御霊によって(喜んで)臨在していてくださるのです。当たり前の恵みではなく、ありえないことが起こっていることに驚き、おののき、これを繰り返し確認しながら、この恵みに応答させていただきたいと思います。臨在と内住の恵みを、きょうも意識して歩ませていただきたいです。
 ゴードン・フィーの『God’Empowering Presence』の翻訳(要約)がかなり進んできています。なんとか、この夏の終わりまでにまとめてしまえるかもしれません。読んでも読んでも、教えられることの多い本です。感謝します。英語でどうしても翻訳の難しい箇所は、息子が一時帰国しますので、確認したいと思っています。
また、聖霊神学や聖霊運動に関して、「足らなかったり、行き過ぎたり」と言う問題がいつもありますが、この問題についての小論文を書き始めています。果たしてこのようなことを書く資格が自分自身にあるのか問いながら、神様の「時」を待ちたいと思っています。「足らない部分」については、いろいろ出てくるのですが、「行き過ぎの部分」に関しては、どんな物差しを使うことがふさわしいのかなお考えています。もちろん、聖書が唯一の規準ですが、聖書も解釈する人によって違いが出てきてしまいます。今も、いろいろ迷いながら、考えつづけています。よいアドバイスがありましたら、お教えてください。神様にあるお交わりを感謝いたします。ハレルヤ!
2021-07-10 10:47:11[投稿番号:215]

最近考えていること・・・
「安息日、主日」の使い方
 これまでにもブログで書きましたように(また、ワーダン・スピリットの会会報16号でも)、ケン・シゲマツ著の2冊はお薦めです。どちらにも、「安息日」とその使い方について書かれています。とても重要な教えと実践の勧めがあります。ケンさんは、「心身の休み」を強調しています。真に遊ぶこともすすめています。

私も、自分自身の霊的なあり方を点検したり、養ったり支えたりするために、これまでにも安息日の実践を何度も試みました。しかし、どうも、うまくいきません。続かないのです。火曜日はセミナリーデイ(神学校奉仕)なので、準備も必要になります。そんなことで、午前だけ休むとか、午後だけ、夜だけ休むとか、考え実践しましたが、それでも難しいのです。

そんなことで、あらためて「牧師にとっての安息日・主日とは?」について考えました。言い訳がましいのですが、ケンさんのおすすめと実践は、かなりカナダ的(北米的)かもしれないなあ?と考えるようになりました。

もう一度、安息日の教えについて聖書に戻って確認してみようと思いました。拙著『ジャンルを大切にして・・・』の169頁以下、204頁以下にも簡単に触れています。

まだ、安息日に関して結論にはなっていませんが、現在はこんな感じです。
一つ:日曜日(主日)に、奉仕や役割は違いますが、私も礼拝説教をしながら、兄姉と共に礼拝を捧げ、主日を守っています。
二つ:今はコロナ禍で十分できませんが、礼拝後、主にある兄姉と交わりの時をもちます。また、今はできませんが、兄姉の霊的成長のために何らかの奉仕(Doing)をします。
三つ:月曜日の使い方ですが、やはり心身の休みが必要です(一日中ではないかもしれませんが)。
四つ:これが重大です。どこまでどれだけできるかは難しいのですが、神様の前に静まり、自分の霊的なあり方を点検したり、神様との関係(交わり)を整えていただく必要があります。・・・日曜日から月曜日にかけて、これは、どうしたらいいでしょうか。これが課題です!
五つ:家族との交わりを大切にする。今は、子どもたちは一緒にいませんから、家内とゆっくり時間をとることも大切です。必要です。

ちなみに、今週の月曜日は、久しぶりに「リトルワールド」に行ってきました。折角買った安いチケットの期限が迫って来ていたこともありますが、家内とゆっくりしようと出かけました。人は少なかったです。「リトルワールド」もかなり古くなったなあ?という感じです。家内と、以前、何度もここに来たことがあったので、それらを思い出したりする時となりました(歳ですね。。。笑)。

今回、思い切って「ワニのバーガーとピラルクのフライ」を食べました!ピラルクは美味しかった!ワニはふつう!・・・この日はなんと、久ぶりに、13000歩歩けました!ハレルヤ!

牧師(わたし)にとっての安息日(日曜日から月曜日)の使い方について、さらに教えられ、考え、実践していきたいと思います!
2021-06-30 18:40:17[投稿番号:212]