礼拝の後に「交わり会」を始めました! | 「交わり」とは? | 今週の礼拝から、1時間の短縮礼拝の直後に「交わり会」を始めました。やっと、神様にある横の交わりが与えられるようになり、ホットしていますし、喜んでいます。
内容は、これからいろいろ考えていきたいと思っていますが、何よりも、聖書的な交わりを考え、求めて、実践していきたいです。今回は、ある姉妹がブラジルに帰国されることもあって、交わり会の大部分は、歓送会になりましが、それでも、主にあるふさわしい交わりを求めながら、進めることができました。
特に、取り入れましたのは、ロザリンド・リンカーの祈りの本で以前学んだことがあります、「一文の祈り」を皆さんに、おすすめし、することができました。初めは、大丈夫かなと不安がありましたが、皆さん、うまく、「一文の祈り」に加わってくださいました。
来週の礼拝後の交わりには、誕生会とクリスチャンの「喜怒哀楽」を加えてみたいと考えています。どうなるか分かりませんが、祈りつつ、よりふさわしい交わりを求めていきたいと思います。
交わりの中で、今特に考えていることは、「教会にも内住しておられる聖霊」(1コリント3:16)を意識して、交わりを進めていくことです。個々のクリスチャンにも聖霊が内住しておられるので、これを意識することをおすすめしていますが、さらに、兄弟姉妹との交わりの間にも、ご聖霊が内住しておられるので、このことも意識しながら、交わりを進めていきたいと願っています。
今していることは、ゴードン・フィーの本の要約(15章に入りました)、「あなたのディボーションのために」の原稿準備、そして、11月23日の祝日に持つ予定の教団役員会主催の「学び会第二回」の準備などです。『ジャンルを大切にして聖書を読む』の第二章、三章を、それぞれ2時間かけて学ぶことになっていますので、学び会が少しでも分かりやすくなるように準備しています。
毎日の牧会時間とは別に時間をとってこれらの準備をしていますので、とても忙しいです。おまけに昨晩は、夜中に蚊が二匹現れ、大変でした。きょうは、少し寝不足です。それでも、ハレルヤ! | 2021-10-29 17:57:01[投稿番号:231] |
ついに、パイプオルガンが来ました! | …音の風に包まれている感じ | 待ちに待ったパイプオルガンが、日曜日の夜9時過ぎに稲沢教会に到着しました! 礼拝直後、教会の兄姉6人と、静岡で待っていた人たちも加えて、清水教会に行ってきました。重さは、たぶん200キロ位あったようですが、献品していただいた世界最小(?)のパイプオルガン(パイプの数は168本)をトヨエース(バン)に積み込み、稲沢まで帰って来ました。
また、稲沢教会で夜遅くまで待っていてくださった10人位の方々と一緒に会堂に運び込むことができました。当初は、二階まで持って行く予定でしたが、重量が重いのと階段から運び上げることは難しいということで、急きょ一階の会堂に置くことにしました。
その後の調律も大変だったようです。長時間かけて運んで来たので、いろいろな歪みが生じて、たぶん、全部のパイプを確認する必要があったようです。全部で、調律のために丸二日半、早朝から夜9時半までかけて、徹底的に調律してくださいました。大感謝!
調律の後、パイプオルガンを目の前にしながら、家内にいくつか弾いてもらいました。パイプオルガンが凄いと分かっていたつもりでしたが、「音の風」を全身で感じながらの音楽は凄まじいものとなりました。今まで、音楽は、耳で聴くものとして、耳で聴いていましたが、この時は、全身で、肌でも、聴いたようでした。
創世記1章2節(神の御霊、神の風)、エゼキエル37章1節以下(神の霊、いのちの息、風)、使徒の働き2章1‐4節(全身的な聖霊経験)のみことばを思い起こしました。 ハレルヤ!
今やっていること:ロイドジョンズ著「栄えに満ちた喜び」の書評(4頁)は出来上がりました。神学校の聖霊論のクラスで使用しましたら、あとで、「会員資料室」に入れますので、お読みください。
『舟の右側』の「あなたのディボーションのために」の最終稿の準備(12月号用)を始めました。G.フィーの本の要約も少し休んでいましたが、最後の確認を再開しました。もうすぐ、15章に入ります。終われば、プリントパックで印刷したいと願っています。また、来週、お会いしましょう!ハレルヤ! | 2021-10-21 19:45:45[投稿番号:230] |
コロナ感染者数が減って来ましたが… | 注意しながらクリスマスに向かっていきます! | 今していることを中心に書かせていただきます。
コロナ感染者数もかなり減って来たこともあって、教会堂に来られる兄姉の数がいくらか増えて来ているようです。そんなことで、今までは、10時半から11時半までの短縮礼拝でしたが、礼拝後、約30分間、「交わり」の時間を加えることを考え、準備しています。
「交わり」の重要性と素晴らしさを感じていますが、あらためて聖書的な交わりとは何か考えています。ある意味で、「交わり」ほど分かっているようで、クリスチャンに分かっていないものはないと言えるのではないでしょうか。
「交わり」ならずっとやって来たので、分かっていますと言いたいのですが、本当に、クリスチャンの、クリスチャンによる、クリスチャンのための交わりについてよく考え、ふさわしく実行してみたいのです。
以前、ロイジョジョンズの『栄えに満ちた喜び』の書評を準備しました。最初に準備したものはあまりにも長くて、20頁以上になってしまったので、もう少し短いものをと、頑張って縮約版を準備しましたが、結局17頁になってしまいました。
これでは、短時間に何が良くて、何が問題か分かりにくいので、思い切って、5頁の書評を今準備しています。これなら、たぶん、分かりやすいだろうと思います。
今週、『舟の右側』の「あなたのディボーションのために」の原稿を出版社に送りました。これで、11回です。あと1回で終了です。このような機会が与えられ、あらためて、歴史的に、また命題的に、ディボーションについてまとめる事が出来て感謝しています。昔のことを思い出すのに大変なこともありましたが、本当にありがたい経験でした。少しでも、用いられれば、なお感謝です。
では、最後に、前回の続きになりますが、神学校のリトリートでお話しした「パウロの聖霊」の付録です。以下にありますので、関心のある方はお読みください。パウロの聖霊をまとめながら、いくつかの点で、なお調べて学ぶべきポイントがあるのを発見しました。もしできれば、これらについても、学びつづけていきたいと思っております。
その他のパウロの手紙における聖霊について、特に注目したい5つのことがある:
第一(ローマ書):ローマ書の聖霊は、ガラテヤ書の聖霊といくつかの点で類似している(この二つの手紙が書かれた時期が非常に近かったということも理由の一つかもしれない:律法と聖霊、内住の御霊、子とする御霊など)。ローマ書における聖霊は、他の章に「聖霊」の言及が全くないわけではないが、8章に集中している(全体で約40回「プニューマ」があるが、その半分が8章にある)。8章には、ローマ書の教えの結論があると言ってよいが、ここに聖霊の働きに関する重要な教えが記されている。確かに、ローマ書では、御子についての教えと御霊についての教えの区別が意識されていると言える。
ローマ書の聖霊に関して:特に御霊の内住、子とする御霊、弱い私たちをとりなす御霊、律法を全うする聖霊、終末論的聖霊などについて詳しい説明がある。
特に、注目したいことは、御子(その働き)と御霊(その働き)の間に緊密な関係があるが(8:3‐4、9)、それだけではなく、御霊と私たちクリスチャンの親密な交わり(例えば、8:14、16、23、26など)とそれゆえに御霊の特有の役割が詳しく明記されていることである(8:13?16、26‐27)。
*「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」(8:14?16)。
*「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」(8:26)。
第二(1コリント書):1コリント書における「プニューマ(霊)」は約40回使用され、大部分は「聖霊」のこと。また「プニューマの形容詞(プニューマティコス)」の使用も多く、注目できる。パウロは、自分の奉仕が御霊の啓示や力によって導かれたことを強調しているほか、何よりも、12章から14章にかけて、御霊は一つであるが、その賜物は多様であることが詳しく説明される。また15章でパウロが、復活後に与る新しいからだについて、「プニューマティコス」(聖霊に属する「からだ」)を多用しているのは注目に値する。
1コリント書の聖霊に関して:パウロの奉仕における聖霊の働き、回心の聖霊と内住の聖霊(教会と個々人を「神殿・宮」とする)、復活後の聖霊に属する新しいからだ(この場合、名詞ではなく形容詞)、そして一つの御霊と多様な聖霊の賜物とその用い方について。
特に注目したいことは、一つの御霊と聖霊の賜物の多様性の関係について、一つの御霊にふさわしい、調和のある用い方が強調されていることである。また、直接的な教えではないが、愛をもって賜物を用いることが教えられている13章は、「賜物の継続性」に関する議論で、よく用いられる聖書箇所である(8‐13節)。私は、ここから、「賜物の継続性(non-cessationism)」支持するようになった。
*「愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」(13:8?12)。
第三(2コリント書):2コリント書の聖霊(プニューマ)について、約10回(聖霊の意味)使用されているが、大部分は、前半、特に3章に集中している。ここでパウロは、自分自身の使徒性を疑う人々を意識して、自分が続けて来ている奉仕がどういうものであるか説明している。その中で強調していることは、パウロは、旧い契約ではなく新しい契約に仕える者とされ、御霊によって義とし、いのちを与える務めに与っているということである。
特に注目したいことは、新しい契約の時代における聖霊による回心、聖化、奉仕の働きが、旧い契約の時代と対比して語られていることである。他に、13章13節の三位一体的な最後の祈りは、この後の三位一体論形成の大切な手がかりとなったみ言葉の一つである(「聖霊との交わり」を考えている。
*「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます」(3:6?8)。
*「しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(3:16?18)。
*「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」(13:13)。
第四(エペソ書):エペソ書の聖霊(プニューマ)について、それほど頻度は多くないが(約15回)、注目できる教えが含まれている。それは、個々のクリスチャンを導く御霊の働きは前提であるが、エペソ書全体で、教会に臨在し教会を導く御霊のことが教えられていることである。5章18節の「御霊に満たされなさい」も、文脈的には教会論的な教えであると言える。
エペソ書の聖霊に関して:聖霊の証印(回心における聖霊)、保証の御霊、教会の交わりにおける御霊の一致、聖霊の悲しみ、聖霊に満たされよという命令など
特に注目したいことは、5章18節の「御霊に満たされなさい」が命令になっていること。しかも、この命令は、一つの長文(ギリシャ語)の中心動詞になっていることである。
*「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。 詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」(エペソ5:18?21)。
第五(その他の書):ピリピ2:1「御霊の交わり」、3:3「御霊によって礼拝する」、コロサイ1:8「御霊によるあなたがたの愛」、1テサロニケ1:5、6「力と聖霊と強い確信を伴って」福音が語られ、「聖霊による喜びをもって」み言葉が受け入れられたこと、19?21「御霊は消してならない、預言を軽んじない、全てのことを見分ける」、2テサロニケ2:13「御霊の聖めによる回心」、2テモテ1:6?7「神の賜物である聖霊をうけた。力と愛と慎みの霊」、テトス3:4?6「回心の聖霊を受けた」などに注目できる。
以上です。パウロの聖霊についてはもっと学び、まとめていく必要を感じています。また、G.Feeのものと比較しながら、確認していきたいと願っております。大きな感謝とともに。ハレルヤ! | 2021-10-15 20:37:43[投稿番号:229] |
神学塾リトリート終わりました! | お祈り感謝いたします | 朝のディボーションで読んでいた申命記が、ちょうど今朝で終わりました。本当にいろいろなことを豊かに教えられたと思っています。申命記は素晴らしいですね。大感謝!明日から、聖書のどこから個人聖研をしようか迷っています。
さて、東海聖書神学塾でのリトリートが終わりました。感謝とともに、ホットしているところです。この一、二週間は、ここ半年の中で一番忙しかったかもしれません。できるだけ、テーマを絞って、お話しするようにしました。少しでも用いられて、聞いて下さった神学生の皆さんの信仰生活、教会生活に霊的によい励ましとチャレンジになることを願っています。
また、今回準備をしながら、どこをもう少し学んだらよいかも、分かって来ましたので、それらについても、突き詰めていきたいと願っています(ローマ書8章と第二コリント3章など)。いずれにしても、ガラテヤ書の聖霊のように、他のローマ書、コリント書、エペソ書などの聖霊について学びつづけていきたいと考えております。
ご聖霊についてお話しさせていただくと、私自身もまた、励ましとなり、とても感謝です。つづけていきたいと願っております。
では、前回、、前々回につづいて、パウロの聖霊の中のガラテヤ書の聖霊についてまとめたものを載せたいと思います。次回は、ガラテヤ書以外のパウロ書簡の聖霊について載せたいと思います。よろしくお願いいたします。
ガラテヤ書の聖霊について、特に注目したい5つのことがある:
第一:聖霊の現在性(3:1‐5)と終末性:?パウロにとっても、ガラテヤ教会の人々にとっても、聖霊は現在的なお方である(3:1‐5、使徒9:17?19)。この御霊の現在性こそが、パウロがガラテヤの人々に手紙を書いていることの基盤になっていると言える。3章13-14節の意味について異なった解釈はあるが、聖霊とその現在的な喜びが「アブラハムへの祝福」の内容になっているのではないか。?この現在的な御霊は、また終末的な御霊でもある。私たちは、この御霊によって最後の完成に向かって(3:3)、また「義の実現」を待望しながら、歩む者とされている(5:5)。
*「あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか」(3:3)。
*「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(6:8)。
第二:聖霊は救いの御霊である(3:1‐5):私たちは聖霊をいつ受けるのかという議論は、主に使徒の働きにおける聖霊の様々な出来事や体験などの記録をもとにしてなされているが、ガラテヤ3章1?5節で語られていることは、使徒8章、19章の出来事より、10章に酷似していると言える(おそらく、使徒9章にあるパウロの聖霊経験も)。もちろん、聖霊の様々な経験は、信仰を持った後も、いろいろ与えられていくと思われるが(使徒4:31)、ガラテヤ教会の聖霊の出来事は、まず何よりも、救いと同時に起こったと考えて間違いはない。これは、新約の他の聖霊理解に大きな影響を与えることになるのではないか。
*「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか」(3:1?2)。
第三:信仰を持った後の信仰生活、教会生活において聖霊は重大である(3:1‐5):クリスチャン生活の個人的な面と教会的な面における聖霊の不可欠性が、ガラテヤの手紙全体を通して明らかになっている。?聖霊は個人的な御霊であり、ひとり一人の信仰者を教え、導かれるお方である。5章1節から6章2節までのみ言葉の多くが、このことを説明していると言える。「御霊によって歩みなさい。御霊によって進もうではありませんか」などがそうである。こうして、パウロが強調する真の自由は、、律法主義的な方法ではなく、聖霊的な生き方によって全うされることが分かる。「御霊の実」(5:22?23)と「御霊の人」の行動は、正にこのことを表しているし、これが、パウロの教える「聖化」の道であると言えるだろう。?同時に、聖霊は、教会的な御霊である。パウロの意識はずっと教会全体に向けられ、教会が、御霊に導かれ、互いに愛し合い、助け合うことを求めている(5:6、13?26、6:1?10)。「御霊の人」としての行動は、正しく聖霊が教会的な御霊であることを明らかにしている(6:1‐2)。
*「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」(5:16)。
*「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか」(5:22?25)。
*「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」(6:1)。
第四:聖霊が内住の御霊であることが詳しく分かる(4:4?7)。私たちの信仰生活と聖霊について考える時、最も重大で中心的なことの一つは、「内住の御霊」のことである。しかもその御霊が、御子の御霊、子とする御霊であることは注目に値する。?「御子の御霊」であるという表現は、ガラテヤ書特有のものである。これは、御子と御霊の親密な関係を表しているが、区別も明らかである(例えば、4:4「御子」と4:6「御霊」の区別あり)。?また聖霊は、「子とする御霊」である。内住の御霊の重大な働きの一つが、私たちを「子とすること」と言える。この御霊が、御父を通して、私たちの心に遣わされたのである(4:4?7)。こうして私たちは、神の子どもとして歩み、生きることができるように備えられている(このことについては、ローマ8章14?17節とも合せて見ることが出来る)。
*「そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました」(4:6)。
*「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」(ローマ8:14?16)。
第五:御霊は、神のみ心である律法を真に全うするように導くお方である。これは、人間中心的な律法主義ではなく、神中心の聖霊主義的な生き方を教えるもので、おそらく、パウロが他の間違った教師から批判されていたであろう「無律法主義者」ではなく、「聖霊主義者」こそ、真に律法を全うし、教会において実践して行くことを教えていると言える(5章全体、参考:2コリント3:1?18、エゼキエル36:26?28)。
ありがとうございました。
今晩も、約束の聖霊が内住してくださり、今週末も導いて下さることを感謝いたします。 ハレルヤ! | 2021-10-08 20:05:27[投稿番号:228] |
だいぶまとまって来ました! | 10月3‐4日の神学塾のリトリートのために | ご聖霊についてお話しをさせていただけることは本当に感謝なことです。その度、新しいことに気がついたり、教えられることがあります。また、何とか、この日本にも、聖霊論に関して、実際的にも、教会的にも、学術的にも、重荷をもっておられる方々が次々と起こされることを願うようになりました。私も、あともう少しで70歳になりますので、バトンタッチをする必要を感じています。関心のある方は、、ぜひ、お声をかけてください。
前回のつづきになります。きょうは、ルカの聖霊のまとめです。お読みください。
ルカの聖霊について、特に注目したい5つのことがある:
☆ルカの福音書から二つ:
第一:聖霊は御子を生涯に渡って導かれたお方である。
ご自身を遣わされた御父のみ心に従って、この世界に来られた人としての御子を、全生涯にわたり、導き続けておられたと言える。このような御子とその生涯、またその御業と御教えによって備えられた救いの完成(救いの福音:ヨベルの年)こそ、ルカの福音書の中心的枠組みと言える。このような御子イエス様とその歩みは、私たちの模範になっていると言える(3:21‐22、4:1?2、14、16‐21)。
第二:聖霊は、やがて御父と御子によって、来られることになっているお方である。御子についてのバプテスマのヨハネの予告(聖霊と火でバプティゾーされる方、3:16‐17)は、復活の御子の約束である「力なる御霊の到来、24:49」や使徒1章5節や8節の「聖霊や聖霊によるバプテスマの予告」に繋がっている。また、11章1?13節にある聖霊が憐み深い御父から豊かに与えられるという約束も、これらに繋がっている可能性がある(私としては、このことを信じる
ことができる)。
☆使徒の働きから三つ:
第三:聖霊は、宣教の御霊であり、救いの御霊であり、異邦人が救われたことのしるしになっておられる。御子に代わって来られた約束の聖霊とその時代は、まさにキリストの福音の宣教とこれによって救われた人々の教会形成、教会増大を明らかにしていると言える。
第四:聖霊によるバプテスマにはいろいろな意味が含まれている。
?それは、御子イエス様の御業を受け継がれ、力ある聖霊の時代が始まったことを表す(1:8、2章以降)。
?それは、聖霊が、弟子たち(教会)とともに、力をもって働かれ、福音宣教、教会形成と増大が導かれて行ったことを表す(使徒の働き全体)。
?それは、個人的な聖霊経験であるとともに(パウロの回心)集団的な聖霊経験であることが分かる(10:44?47)。
?それは、一度限りのことではなく、様々な形で、繰り返し継続していくものとして語られていると思われる。
第五:いわゆる「聖霊のバプテスマ」経験とともに異言が必ず与えられる(受けなければならない)という聖霊派の教理があるが、これは、聖書的に正しいとは思われない。使徒の働きにおいて、それらは、聖霊の特別な働きに伴う現象の一つであって、全てではないことが分かる。しかも、使徒の働きの異言現象は、解釈的には、外国語の異言であったと考えるのが普通である。また、入信後のある時期に「聖霊のバプテスマ」が与えられるという教理もしばしば聖霊派などにおいて強調されるが、これもまた、これまで触れて来たように、救済論的に聖霊論的に、過渡的な時代に起こった現象(8章<サマリア>や19章<エペソ>で起こった)をもとにして、「聖霊のバプテスマ」という教理を作ることには無理があると思われる。
つづけて、お祈り感謝いたします。ハレルヤ! | 2021-10-01 21:29:01[投稿番号:227] |
感謝な学びと準備が続いています。 | 23日の学び会と、10月3‐4日のリトリート | 23日(木曜日)の学び会が無事終わりました。お祈りを感謝いたします。ご夫妻で参加された方々もおられましたので、20?25人以上の兄姉が関心をもって参加されたと思います。すべて、オンラインでしたが、それでも、よい交わりが与えられ、少し疲れましたが、感謝な一日でした。終わってからも、励ましや感謝なメールをいただきました。
前回書きましたように、先々週からずっと、神学校のリトリートのために、ご聖霊についての講義と説教の準備をつづけています。本当に感謝な時ですし、私にとっても、学びの時になります。
考えて見ますと、23日の学び会は、「聖書の解釈」についてで、今度の10月3,4日は、「ご聖霊」についてです。実は、この二つは、私のライフワークそのものです。その二つについて、お話しできることは、なんと感謝な時でしょうか。お話しを聞いて下さった兄姉に、私もこれまでそうでありましたように、すこしでも届いて、信仰生活の助けや励ましになればと願っています。
それでは、前回は、「旧約の聖霊」ということで、お話しする予定の5ポイントを書きましたが、ここでは、「ヨハネの聖霊」ということで、5ポイント挙げたいと思います。「ルカの聖霊」については、すみません、来週にしたいと思います。
ヨハネの聖霊について、特に注目したい5つのことがある:
第一:聖霊は、公生涯の初めに御子に降られ、それ以後、御子とともにおられ、御子とともに御父のみ心を全うして行かれたお方である(3:34、6:63)。例は多くはないが、御子に留まり、御子の働き(教えること、いのちを与えること)を導かれた。
第二:聖霊は、御子に降り、御子とともにおられただけでなく、弟子たちのためにやがて来られるお方として御子によって予告されている(聖霊によるバプテスマ、1:33)。また御霊の到来だけでなく御霊の働きについても語られている。
例えば、それは、?救い(永遠のいのちの豊かな祝福、3:5?8、7:37?39)の働き、?真理を教え、真理に導く働き(?????章)、?御子を証し、御子の栄光を表される働き(?????章)、?正に「パラクレートス」として、励まし、慰め、教え、弁護し、守り、導き、助けてくださる(下記の「パラクレートス」の定義参照、?????章)。
第三:聖霊の人格と神性は明白である(??‐??章)。
?神だけが持っておられる力と属性を持っておられる、?御霊を代名詞で受ける時、男性形が使用されている、?パラクレートスは1ヨハネ2:1からも明らかなように、人格的な存在を表す、?「知・情・意」のうち、少なくとも「知・意」はあきらか。?御父との関係、御子との関係から。
第四:天に戻られる御子が、次に聖霊が来られることを繰り返し、より詳しく予告され、この方が来られることは弟子たちにとって「益」であると言っておられることは注目に値する(16:7)。「益」の意味として考えられること。?御子の御霊として、御子とほとんど同じことをされる。?御子は、人として来られたので時間的空間的限定をもっておられたが、御子は遍在のお方としてその働きをされる。??と関係しているが、御霊は、永続的な内住の恵みをもって弟子たちと共にいて導かれる(この点では御子と異なる)。
第五:御子によって紹介されている聖霊の名として、「パラクレートス(助け主など)」として繰り返し紹介されていることは重大である(??‐??章)。豊かな語であると言え、一語で訳せない問題がある。私の定義は上記のとおりである。
以上です。大きな感謝とともに。ハレルヤ! | 2021-09-24 18:00:57[投稿番号:226] |
神学校のリトリートのために準備しています! | 四つの聖霊論と説教の予定 | 先週から今週にかけて、いろいろな準備をしています。礼拝の説教準備はもちろんですが、9月23日の祝日に、教団役員会主催の「学び会」がありますので、その準備をしています。午前と午後2時間ずつありまして、午前は、『ジャンルを大切にして聖書を読む』のイントロ(特に、ディボーションと個人聖研のすすめ)、午後は、第一章「聖書解釈の基本」をやりますので、限られた時間内に分かりやすく進められるようにお話の準備をしています。
また、前回のブログで触れましたように、10月3日(日曜日夜)と4日(月曜日)に、合わせて4回の聖霊論の講義と、最後に「ご聖霊についての説教」をさせていただくので、これも準備を続けています。限られた時間内に、旧約の聖霊、ヨハネの聖霊、ルカの聖霊、パウロの聖霊から・・・大切だと思われることをお話ししなければなりません。ご聖霊についてお話しさせていただけることは光栄ですし、嬉しいことですが、準備が大変です。重要な部分を選ぶ必要があります。
「旧約の聖霊」については準備が進んでいますので、その5つのポイントを紹介させていただきます。
第一:聖霊は、御父と御子とともに、創造の御霊、いのちの御霊である。なんと言っても、聖書の最初のページの最初(本文)の節(創1:1をタイトルとすると)に神の御霊(と創造の働き)」が来ていることを軽んじることはできない(ヨブ33:4、詩篇104:30、イザヤ32:15?20など)
第二:聖霊は、旧約の民(契約の民)とともにおられ、導き、助け、最後まで刷新し続けておられるお方である。言及箇所は少ないが、神の臨在を否定することはできない。御霊は、イスラエルの民とともに、また様々なタイプのリーダーたちとともにいて、神様にある、無くてはならない働きを導き、進めて来られたと言える(ハガイ2:5、イザヤ63:10‐14)。
第三:聖霊の働きとして、預言(啓示、霊感、知恵、解き明かし)などとの繋がりが顕著で、注目できる。聖霊の色々な働きがある中で、注目できる働きとして挙げられるのではないか(民数記11:25、ダニエル4:8?9、18、5:11、14、ヨエル2:28?29、エゼキエル11:5、2:2、3:24)。
第四:新しい時代に向けて、聖霊に関する重大な預言がある。?終わりの時代に聖霊が来られること(万人預言者…万人祭司)、?メシア(しもべ)預言とともに聖霊預言がある(少なくとも三回)、?新しい契約の時代を導く聖霊 ?は、使徒2章16節以下(「終わりの日」)にあるとおりである(ヨエル2:28?32「その後」)。?は、メシア(しもべ)預言はよく知られているが、これらの聖霊預言はあまりしられていない。しかし、類似した預言が三回も繰り返されている。つまり、約束のメシアは、御霊によって行動されるということである(イザヤ42:1、61:1、11:2)。?これは御霊の預言の中で、また旧約と新約の関係について考える上で、最も大切で、注目すべき預言(群)であると言える。新しい契約の時代が来るという預言とともに聖霊の到来と働きが預言されている(エゼキエル36:26‐27「エレミヤ31:31?34、ヘブル8:6以下」)。
第五:神(ヤーウェ)と御霊(ルアッハ)の間に区別の暗示がある。
ほどんどの例は、神と御霊を一体的である。しかしそれでも、その中のいくつかは、旧約聖書における三位一体の神様についての暗示(しるし)と言えるかもしれない(1列王22:21‐22、イザヤ63:11、詩篇51:11…上記参照)。
次回のブログには、「ヨハネの聖霊とルカの聖霊」のポイントを紹介させていただきます。よろしくお願いいたします。
これらの準備も自分の力で全うしようとすると、神様にある平安を失ってしまいます。焦らないで、委ねながら、祈りながら、準備していくことを教えられています。いや、教えられ続けています。ハレルヤ! | 2021-09-17 21:38:20[投稿番号:225] |
ディボーションで最近、教えられていること | 最近の出来事なども | 最近のディボーションでは、朝は申命記、夜は箴言というふうに、旧約聖書ばかり読んでいます。違ったジャンルをディボーションで読んで、実際にどんなことを教えられるか、知りたくなったからです。これはまた、今もっている読書会や学び会の資料になるかもしれないと思っております。
申命記5章3節を読んでびっくり。ヘブル語で読むともっとすごいのですが、かつてシナイ山で契約を結んだことでなく、40年後(?)、今のイスラエルと契約を結んだ(結ぶ)ことが非常に強調されているのです。実際に、この時、契約を結んだようには見えませんが(29章以下につながっているようです)。29章15節には、ここにいない者たちとも契約を結ぶと、将来のことも含めて語られています。おそらく、契約(の儀式)としては、出エジプト記にあるもので、一度限り。しかし、それ以来、ユダヤ人たちは契約を「きょう」として更新していると考えてもよいかもしれません。
私たちの契約は、新しくイエス様の十字架を通して備えられたものでありますが、新しい民の一員として、シナイ山での契約に含まれると言ってよいかもしれません。
特に教えられたことは契約の現在性ということです。神様との契約とその関係は、遠い昔のことではなく、今のものであり、また更新し続けていくものであることを教えられました。そして神様は、今の私たちとの契約の神様です。
最近は、家内の肩こりがひどいので、解消のために、○○で、一緒にバドミントンをするようになりました。少しでも、楽になってくれればと、続けています。
ロイドジョンズの本の書評は、最初、20頁のものができましたが、長すぎるので、17頁にまとまめました。しかし、神学校のクラスで使うためには、もっと短くまとめなければならないかもしれません。今、考え中です。フィーの本の要約は継続中です。
また、10月3?4日に、神学塾のリトリートでご奉仕をさせていただくことになっています。テーマは、「聖書的な聖霊論をめざして」です。ご聖霊のことでしたら、いつでも大歓迎です。ということで、旧約の聖霊、ヨハネの聖霊、ルカの聖霊、パウロの聖霊、そして適用として、「私たちと聖霊」というタイトルで、メッセージをさせていただくことになっています。少しずつ、準備を進めているところです。お祈りください。ハレルヤ! | 2021-09-10 18:26:04[投稿番号:224] |
夜のお祈りについて | …最近、内容を少し変えました! | 以前、夜の祈りを、就寝直前にしていましたが、疲れすぎて、また眠たくて集中できなくなり、夜の8時にするようにしました。朝のディボーションだけでなく、たいてい、10時と2時と5時にお祈りしていますので、夜の8時のお祈りが短くなってきていました。ただし、また8時のお祈りのときに、時々、意識が朦朧とするようなことがありました。
そんなことで、最近、夜のお祈りの刷新を考えるようになり、夜のお祈りの前にも、聖書の学び(観察ーなぜー考えるーまとめー適用)をするようになりました。感謝なことに、みことばの学びで教えられたことをもとにして、夜のお祈りに入ることができるようになり、夜のお祈りそのものも変わってきたのです。
さらにいいことがあります。それは、夜のお祈りの恵みが次の朝のお祈りにつながるのです。当たり前のことかもしれませんが、夜のお祈りが少し変わることによって、次の朝の祈りによい影響が来るようになったのです。
以前、夜のお祈りの時も、聖書を開いて個人的な聖書研究をしていたと思いますが、また再開することができ、とてもよかったと思っています。皆さんにも、おすすめしたいと思います。
今週も、ロイドジョンズとフィーのまとめを継続しています。感謝いたします。ハレルヤ! | 2021-09-03 17:07:28[投稿番号:223] |
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