みことばと御霊によって
1テサロニケ2章1?12節「母のように、父のように」
 最近、ディボーションでテサロニケ人への手紙第一を読んでいます。「聖霊・御霊」の使用は少ないのですが(4回)、聖霊と御言葉の緊密さについて、あらためて教えられています。特に、1章5節では、福音が語られる時の聖霊の働き、6節では、その福音を信じて受け入れる時の聖霊の働きが語られています。みことば、また、福音宣教と聖霊の働きは一つであることがはっきり分かります。まさに、ここから、テサロニケの人々が成長していったことを感じます。また、2章13節でも、聖霊という言葉はありませんが、確かに、ここにも、豊かで確かな聖霊の働きがあったことを覚えます。「事実その通り神のことばとして受け入れてくれた」「この神のことばは、信じているあなた方のうちで働いています」とある通りです。

2章1?12節を読んでいた時に、私自身の牧会が「母のよう」ではないなあ、「父のよう」ではないなあ、と思いました。また、同時に、聖霊の促しを感じました。コロナ禍にあっても、聖霊とみことばによって導かれていくことの大切さを教えられました。

さらに、信仰をもってから50年以上になりますが、神様(ご聖霊)は、これまで、確かにみことばによって養い、導き続けてくださったことを、もう一度、振り返ることができました。これからも、「ワーダン・スピリット」(みことばと御霊)によって歩ませていただきたいと思います。・・・これしかないですね。

昨日、「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動を求めて」の原稿を『舟の右側』に送ることができました。今回は、久しぶりに、超自然的賜物が聖書時代のあと、どうなっていたのか、歴史的アプローチで確認してみました。資料がたくさんありすぎて、省略し、まとめるのが大変でしたが、なんとか終えることができました。今扱っているテーマが長くなってしまいましたが、大切なので、次回まで続けることにしました。

お祈りを感謝いたします。ハレルヤ!
2022-02-11 18:08:02[投稿番号:247]

誕生日を迎え、ついに70歳になりました。
たくさんのお祈り、助け、交わりを感謝いたします
70年前、未熟児で生まれ、その時の体重が約1800グラム(?)だったとか(もっと少なかったかも)。もちろん、保育器もなく、ただ、火鉢一つしかない部屋に寝かされ、まもなく、百日風邪にも罹ったそうです。…もう死ぬ、もう死ぬと思われていましたが、予想に反して、生き残り、70年間生かしていただきました。

このことを考える時、『私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ1:21)というみことばを思います。ほとんど死にそうで、命をいただき、さらにもう一つのいのちである「永遠のいのち」まで、いただいて生かされて、ここまで来れたことのゆえに、神様のみ名をほめたたえます。

先ほど、夕食の後、誕生会をしてもらいましたが、たくさんの交わりの恵みが与えられているなあと思います。「裸で帰ろう」としているのに、これほどまでに、「交わり」で着飾っていただいているなあと思います。こんな私なのに、ありがたいことです!

少しずつ、「着替え」の時が近づいて来て、身体のいろいろな部位が痛んで来ました。しかし「着替え」の後には、新しい聖霊的な身体が待っているのです。感謝します!

最近、1コリント16章7節が気になっています。その中の短い言葉で、「主が許されるなら」です。原文の語順では、最後に置かれている言葉です。「私は、…したいです。もし主が許されるなら。」となっています。乱用される可能性もありますが、自分がいろいろ考え、計画し、行動しようとするとき、しばらく、膝まずいて祈り、それが神のみこころかどうか、かんがえたいですね。また、いつでも、「もし主が許されるなら」を忘れないようにしたいです。

『舟の右側』3月号の「ちょうどいいかげん…」の原稿ができつづあります。しばらくぶりの、歴史的アプローチでしたので、時間がかかりました。「もし主が許されるなら」、さいごまで、「聖霊神学と聖霊運動」についてのテーマを全うしたいと考えております。お祈りを感謝いたします。ハレルヤ!
2022-02-04 21:18:48[投稿番号:246]

CessationismとNon-cessationismの続き
超自然的賜物のいくえ…聖霊論も変わる!
オミクロン株の感染が大変な状態になっています!また、しばらく、様々な活動を留めて、様子を見ていく必要がありますね。神様は、これらの問題を通して、何を教えようとしておられるのでしょうか。

今週は、26‐27日まで、お休みを取りました。少し休めるかなと思い、いろいろな計画を立てましたが、駄目でした。家内の携帯が故障し、名古屋に修理してもらいに行きました。次の日は、娘夫婦の家を初めて訪問しました。今日は、礼拝準備と新年度の準備(教会と教団)をして、終わろうとしています。『舟の右側』の今月号のテーマは、「牧師の安息日」なので、読んでみたいと思います。

そしてこの三日間、つづけて準備していたことは、「ちょうどいいかげん…」の連載の原稿準備です。ブログの1月7日にも書きましたように、今は、「超自然的たまもののいくえ」についてまとめています。3月号で、歴史的アプローチをする予定でしたが、分量がありすぎてまとめるのが大変でした。限られた字数の中におさめるのが難しいですね。結局、次の次の4月号で、CessationismとNon-cessationismの総まとめをするということで、なんとか、3月号の全体像も見えてきました。ヤレヤレ…ホットしています!

この問題は、これまでにも触れましたように、本当に、私たちの生き方、考え方、祈り方、行動の仕方に大きな影響を与えるものであることが分かってきました。

さらに当然ですが、聖霊論そのものについての捉え方まで変わってきます。なぜなら、「超自然的賜物」の継続性を認めるということは、その背後にある、聖霊の現在性、現在的臨在と働きを、よりはっきりと意識し、より深く思い、交わり、期待するようになるからです。

聖霊をただ知的にだけ考え、満足するのではなく、全人格的に思うことになります。ただし、これは、感情と間違った理解による熱狂主義を意味しないでしょう。また、終末論的に「すでに」の恵みと「まだ」の恵みの的確なバランスが求められると思います。それが、聖書のバランスだからです。

とにかく、最近気づかされたことは、超自然的賜物の継続性を認めることは、また、「聖霊理解」に大きな影響を与えるということです。

賜物だけでなく、その背後におられるキリストの御霊を崇め、交わり、満たされ続けていきたいと願っています。皆さんに、1コリント6章11節のみ言葉を送りたいと思います。ハレルヤ!
2022-01-28 20:32:33[投稿番号:245]

オミクロン株が蔓延しています!
After Covid-19, With Covid-19 but With the Spirit!
東京も、大阪も、名古屋も、日本中でオミクロン株が蔓延、増大していますね。神様の特別なお守りがありますように。神学校も、ズームに切り替えて、クラスを続けています。教会の礼拝後の「交わり」も中止を考えています。

今、礼拝メッセージでは、「使徒の働き」を続けていますが、ルカは、テオピロに何を語ろうとしていたのか、考えています。8章から、サマリア人の救い、エチオピアの宦官の救い、パウロの救い、そして異邦人コルネリオとその家族・友人たちの救いがつづきます。色々なタイプの救いの経験がありますし、その時の、聖霊の関わりも様々です。御子を信じ、御霊に導かれ(御霊を受け)救われていったことは同じでも、本当にいろいろありますね。

宦官の救いの経験における聖霊について、ある人は、可視的な何かが起こったが省略されていると言い、また別の人は、書かれている通り、特別な聖霊体験はなかったので、書かれていないのではないかと言います。

私は、今回の学びを通して思いましたのは、もちろん、宦官の救いのために聖霊は深く関わって下さいましたが、他のケースのような、可視的な、または特別な出来事はなかったのではないかということでした。もし、それがあったのなら、ルカはそれを書いたに違いないと思うようになりました。ここで問題になっているのは、「救いの真正」です。ある場合には、可視的な聖霊経験が必要でしたが、宦官の場合は、要らなかったと考えます。救われたことは確かであったから(他の人に説明する必要もなかった)、ということです。
これからも、礼拝メッセージの準備をしながら、使徒の働きにおける聖霊について、あらためて考え、教えられていきたいと思います。

今、していることは、教会に関しては、新年度の準備です。「御霊に満たされ続けなさい」(エペソ5:18)。『舟の右側』の連載については、3月号の準備をしています。ただ、限られた字数ですので、
セセーショニズムについての歴史的アプローチと言っても、たくさんの情報がありすぎて、それらを省略しながらまとめています。これが大変です。詳しくは、拙著『歴史の中の預言』をお読みください。歴史的に、預言などの超自然的賜物がどのようになっていったか、30年前に調べ、まとめたものです。これを使って、書いています。

後は、2月23日にあります教団主催の学び会『ジャンルを大切にして聖書を読む』から「福音書と使徒の働き」の学びをします。今から、少しずつ、準備をしています。

いろいろDoingが多くなりますと、「御霊にある」という恵みを忘れてしまいます。これから静まってお祈りします。ハレルヤ!神様のお守りがございますように。
 
2022-01-21 21:00:28[投稿番号:244]

新しい年度にむかって!
教会の新年度と「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動を求めて…」の3月号準備
先週から今週にかけて、牧会と説教準備、教団の学び会(第三回:律法、預言書)と「ちょうどいいかげん」(2月号)の原稿準備が重なり、また神学校の準備もあって、非常に忙しかったように思います。あとで大変にならないように、学び会と原稿の準備を早目に始めたつもりでしたが、それでもギリギリになり、大変でした。今は、なんとか終えることができ、ホットしています。(…いつも、同じようなことをブログに書いているかもしれませんね。)

「律法」の学びをしていて、「安息日律法」の大切な中身として、「休むこと、休ませること」があることに目が留まりました。ここに普遍的な意味、規範的な意味があるなら、従う必要があります。いつの間にか、また月曜と火曜日を忙しくさせていることに気づきました。少し時間がかかっても、今、手の中に入れて握り締めているものを一つずつ、手放し、神様の御手をお返ししていかなければならないことを、これまで以上に強く感じています。

教会の新年度の中心テーマと御言葉は、エペソ5章18節の「御霊に満たされなさい」することを役員会でお話ししています。前年度は、信仰生活の土台的なこととして、「みことばを読み、解釈し、教えられ、みことばによって歩んでいくこと」を大切にし、ディボーションとディボーション後の生活を強調しました。

新年度は、直球勝負で、一番大切だと思うことを一番おすすめしていきたいと思います。礼拝メッセージも「使徒の働き」からなので、丁度よいのではないかと考えています。私自身も、毎日毎日、「聖霊に満たされて歩むこと」を確認していますが、これからも、大切にしていきたいと願っています。…それなしに、信仰生活も教会生活も全うすることができないと思っているからです。

「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動を求めて」の2月号の原稿を送りましたので、早速、この内容のつづき(パート2)として、3月号は、歴史的なアプローチで、超自然的な聖霊の賜物の継続性について考えていきたいと考えています。2月号では、釈義的なアプローチで考えましたので、さらに、この2000年の間はどうであったか、歴史的に考えるものです。以前、少し読んでいましたが、また読み始めている本があります。賜物の継続性について取り上げている本は少ないので、この本は珍しい本と言えます。一ヶ月かけて読んでいきたいと思っています。Jon Ruthven著『On the Cessation of the Charismata』です。また、次回以降で、内容の説明をしたいと思います。

まだまだ、寒い日々が続きます。オミクロン株も広がっています。心身ともに守られますように。ハレルヤ!
2022-01-14 18:25:25[投稿番号:243]

新しい一年に向かって!
+超自然的賜物は継続しているか?
新年、明けましておめでとうございます。

ホンの少しの間だったかもしれませんが、コロナ問題が落ち着いて来たので、ホットしていましたが、今、名古屋地区でもオミクロン株が増大する気配です。どこまでいくのでしょうか。
新年度の総会を控え、また新年度の歩みについて考えているところでしたので、またストップがかかりそうです。

教会の礼拝直後の交わり会(新年の分かち合い)でお話ししたことです。今年は、これまでギュッと握りしめて来たものを識別して、何を握り続け、何を手放すか、または神様の御手にお返しし、お委ねするか、祈り、考えていかなければならない一年になると思います。これは、本当に難しい判断になります。祈りになります。

2月で70歳になりますので、いつまでも、すべてのことを握り締めていくことはできませんね。50年ちょっと前に召してくださった神様と相談しながら、決めていかなければなりません。良い判断、相応しい再献身ができるようにお祈りください。70歳になっての、再献身に厳しいもののあります。感謝いたします。

さて、『舟の右側』の連載の2月号の原稿もほぼ出来上がりました。
その一部をご紹介します。これは、超自然的賜物が今も継続していると採るか、採らないかで、信仰生活、教会生活のいろいろな面に大きな影響を与えるということです。

その一例として、「神のみ心を求め方について」考えてみました。

 以前、奉仕していた教会で、「神様のみこころの求め方」について、六回の学び会を開いたことがありましたが、その時、気づいたことがあります。当然と言えば当然のことですが、聖霊の超自然的賜物の継続性についての理解と、神様のみこころの求め方とには「関係」があるということです。一般的にですが、聖霊派は奇跡的にみ心が示されることを求め、これを喜びとしますが、改革派・長老派、ディスペンセーション主義は理性的な熟慮や判断を重視します。そして福音派の多くは、両者の間にあって、超自然的にみことばが与えられることを期待しこれを求めたり、祈りながら心の中の平安、うなずきや導きを大切にしたりしますが、他方で、状況をよく見るように、時間をかけてじっくり考えるようにすすめると共に、考えていることが聖書の基本的な教えから外れていないか吟味するように助言します。

ぜひ、「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動を求めて」2月号をお読みください。感謝いたします。

また、この一年も、宜しくお願いいたします。ハレルヤ!
2022-01-07 18:44:32[投稿番号:242]

2021年の最後の日を迎えました!
この一年、ワーダン・スピリットの会を覚えて下さり感謝します
 会のブログは、週に一回、だいたい金曜日の夜に書くようにしています。それが、今年最後の日になりました。ご聖霊のことで、一年を振り返ってみますと、どんなことが言えるでしょうか。

前半のことはあまり覚えていませんが、後半では、第一に、東海聖書神学塾のリトリートで、最後の説教も入れて、ご聖霊について五回の集会の奉仕をさせていただきました。久しぶりの機会で、少しチャレンジでしたが、久しぶりにまとめ直すこともでき、いろいろ再発見することもありました。これからも、さらに学びつづけていきたいと願っています(特に、ローマ書の聖霊、コリント第一、第二の聖霊、エペソ書の聖霊など)。

第二に、これも東海神学塾で担当しておりますクラスの一つですが、聖霊論のクラスを4月から2月までの予定でつづけています。いろいろ大切な質問や応答をいただく事が出来ましたので、クラスの皆さんと一緒に考えながら、ここまで来ることができました。ロイドジョンズの聖霊理解(聖霊のバプテスマ)についても、長い間そのままにしていましたが、やっと真正面から学ぶことができました(書評を準備しましたのお読みください)。

第三に、『舟の右側』の連載(あなたのディボーションのために)が、この12月で終わりましたので、来年の1月から、新しい連載を始めることが許されました。いろいろ悩んで、祈りながら、ここまで来ましたが、ついに、「時」が来たかな、と思っております。前回、前々回のブログをご覧ください。今は、2月号の連載準備をつづけております。奇跡的な賜物が継続しているかどうかに関して、準備しながら感じたことですが、このテーマの重要性、影響力の大きさが、ますます分かって来ました。

第四に、以前、一応、フィーの本の翻訳(要約、抄訳)が終わっていましたが、もっと分かりやすいものにしようと、再びやり直していましたが、いくつかの箇所を残して、ついに終えることができました(いくつかの箇所とは、フィーの神学の分かる人で、ネイティブの人に質問して翻訳をチェックしなければならないと思っている箇所のことです)。

最後に、フィーがパウロの聖霊論のまとめとして書いている所を読みながら、ジーンと来てしまいました。また、今、フィー先生は、アルツハイマーで療養しておられると聞いていますので、神様に祈らずにはおれませんでした。

七項目で纏められていました。第一に、パウロ神学における聖霊理解の重大性。中心はキリストであるが、無くてはならない役割をもっておられる。特に、クリスチャン生活、経験の領域において。第二に、「まだとすでに」というパウロの終末論的枠組みにおける聖霊の臨在と働きの中心性。第三に、個人的にも、教会的にも、救われたあとの継続的歩みにおける聖霊のダイナミックな経験的性質の意義。第四に、神ご自身が、神の民の中に、間に、臨在して下さる方法として聖霊がおられること。ひとり一人において、また教会において、神は御霊として人格的に内在されること。第五に、パウロの三位一体論的理解における聖霊の人格性や、御父と御子との関係。第六に、救いそのもののために御父は御子を送り、その後の信仰生活のために、御父は御霊を送っておられること。第七に、クリスチャン生活全体における聖霊の絶対不可欠性など。

新しい一年も、御父と御子と御霊の交わりの中に入れていただいて、永遠の命の恵みと交わりで生かしていただけますことを感謝いたします。皆さんのこれまでのお祈りとお交わりを感謝いたします。ご聖霊のことは、最後までなしつづけていくべき「ライフワーク」と思っております。神様のお許しのある限り、続けていきたいと願っておりますので、今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。 
皆さん、お一人お一人の上に、三位一体の神様の確かな臨在と豊かな導きがございますように。共にこの恵みに応答していきましょう! ハレルヤ!
2021-12-31 20:42:24[投稿番号:241]

クリスマスおめでとうございます!
クリスマスイブのプログラム紹介です。
 今週もいろいろと忙しい毎日が続きました。少し疲れています。たぶん、私よりも忙しく、疲れているのは教会の青年たちでしょう。
現在、クリスマスイブのプログラム準備中で、特に、今週の日曜日から明日まで、仕事をしながら、夜に教会に集まって(時には、早朝まで)プログラム制作に集中しています。一緒に、朝と夜、食事をしています。とにかく、明日24日の夜7時から、ユーチューブで配信する予定です。お時間がとれましたら、ぜひご覧ください。7時から8時頃まで、伝道的なクリスマスになります。

昨年は、メッセージと賛美とサンドアートという感じでしたが、今回は、メッセージを中心にしながら、これに賛美、切り絵?を加え、さらに「映画仕立て」になっています。伝道のために用いていただけましたら、感謝です。
あとは、最後まで準備が守られ、無事に配信できることを願っています。お祈り下さい。

今週は、あまり進みませんでしたが、フィーの本の翻訳、教団学び会の準備、『ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動」を求めて、の第二回原稿準備をしています。

今年も、あと1週間となりました。『慰めに満ちておられる神様』を礼拝します。皆様の上に、クリスマスの祝福が豊かにございますように。感謝いたします!ハレルヤ!
2021-12-23 18:40:49[投稿番号:240]

「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動」を求めて
少しずつ、2月号の準備を始めました!
 後で時間がなくなるといけませんので、2月号の準備を少しずつしています。テーマは、セセーショニズムとノン・セセーショニズム(超自然的な賜物はおわったのか、今も継続しているのか)です。

これは、福音主義においても、意見が二つに分かれる重要な課題です。「福音派」の多くは、その間で、右に行ったり、左に行ったりしているのが現状でしょう。この問題を、釈義的に、歴史的に、2月号で扱って、3月号から、聖書神学的に、旧約の聖霊、ヨハネの聖霊、ルカの聖霊、パウロの聖霊という感じで、進めて行きたいと考えています。

今の段階としては、これからのだいたいの流れを考えているだけで、実際に、このテーマをどのように展開していくか、まだ分からないところがいろいろあります。お祈りしながら、また曖昧なところは更に学んで加えていきたいと願っています。
神さまがお許しくださるなら、最後に、「聖霊運動」にまで、たどり着くことができればと思っています。とにかく、聖書にこだわり、福音主義的な「ちょうどいいかげん」を求めていきたいと思います。また、少しでも分かりやすいものを心がけていきたいと願っています。覚えて、お祈りください。
ここまで来るまでに、本当に多くの方々から助けていただき、導いていただいたなあ…と心からそう思っております!

ゴードン・フィーの本の要約は一度、終わったのですが、少しでも読みやすいものにしようと訳し直しています。今は、最後の16章「どこからどこへ行くのか。パウロの聖霊論の関連性」を訳しなおしています。時に、本当に翻訳の壁(難しさ)にぶつかってしまいます。
それから、来年1月10日(祝日)に予定しています「教団役員会主催の学び会:第三回:律法と預言書の学び方」の準備も始めています。ますます、「律法」の重大さを感じています。

あと、CBSの神学校のクラスも来週で、秋学期終了です。また、牧師さんたちとの「伝道者の書」の学び会も20日で、10章が終わる予定です。1か月に1回のペースでやってきましたが、いよいよ、伝道者の書の結論である11章?12章に入ります。コロナ前に始めましたので、随分、時間がかかりましたが、これもやっと先が見えてきました。感謝します!ハレルヤ!
2021-12-17 19:55:27[投稿番号:239]