御子と御霊の関係について考える | コロサイ書を読んで・・・ | 最近、御子と御霊についてよく考えることがあります。御霊を強調すればするほど、御子のことについても考えるようにしています。御霊を強調すれば、ますます御子との関係についてもしっかりと確認しておく必要があるからです。
神学校の聖霊論のクラスで、今回は学びが非常に進んで、ほとんど初めてになるかもしれませんが、「フィリオクエ論・発出論」についてお話しすることができました。
以前かなり時間をかけて、このことについて学び、考えましたのでクラスでも紹介することができました。問題は、御子と御霊の関係です。また、私たちの救いや信仰成長における御子と御霊の働きです。御霊は、御子とは違って、どのように働き、導かれるのか。御子は、御霊と違って、どのように関わり、働いていてくださるのか、です。
御子と御霊は、重なっておられる面もありますが、独自の役割をもって、私たちの救いとその後の成長を導いていてくださる面もあります。
最近、久しぶりに、ディボーションで「コロサイ書」を読んでいます。ご聖霊についての言及が皆無ではありませんが(1章8節、他にも関連個所あり)、コロサイ書は特別です。非常に、内容がキリスト論的です。例えば、2章6-7節をご覧ください。「・・・このように主キリストイエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」とある通りです。
私は、何か、わざと聖霊論的に書くの止め、キリスト論的に書いているのかもしれないと思ってしまうほどです。たぶん、それほどに、コロサイの教会では、キリスト論的問題が勃発していたのだろうと推測しています(1-3章)。
さて、もとに戻ります。今、私たちの救いのために、またその後の信仰の成長のために、御子も御霊も、2重に、より深く関わり、導いていて下さることは何とありがたいことでしょうか。
許されれば、以前やっていた学びを再開し、聖書全体で、御子と御霊がどのように区別され、どのように関係づけられているか、考えていきたいと願っています。それが、あって初めて、聖霊論が聖霊論になるのではないでしょうか。
今は、『舟の右側』で連載させていただいております、セセーショニズムとノン・セセーショニズムについての問題をまとめているところです。もう少しで終わります。終われば、いよいよ、聖書の中のご聖霊についてまとめていくことになります。
今週の礼拝後、新年度総会をもちました。オミクロン株が流行っていますので、心配していましたが、なんとか守られて、終わることができました。本当に感謝です。御霊に満たされ、導かれながら、もう一度、初めから、教会形成のための土台作りをさせていただきたいと願っています。お祈りを感謝いたします。ハレルヤ! | 2022-03-04 19:04:23[投稿番号:250] |
神様にあって「ゆっくり」と | …早朝、夢の中で思ったこと | 朝起きる直前に変な夢をみました。いろんな要素が混じり合っていて説明できませんが、とにかく、夢の中で、あるギリシャ教父(名前は覚えていません)のことを考えていました。そして夢の終わりに、「ゆっくり」という言葉が心に残りました。
私は、別に「夢」を信じるタイプではありませんが、これまで走って来たことにブレーキをかけ、「ゆっくり」するようにということかなあと思いました。
実際にも、昨年度のように、忙しすぎるやり方は止め、今年度は、神学校で教える予定のクラスを一つ減らし、また、来年予定していた「ヘブル語」クラスも辞退することにしました。
『ジャンルを大切にして聖書を読む』の中で、「安息日律法」について簡単にまとめた箇所があります(170頁)。第一に、安息日は休む日ですが、またそれは、他の弱いものたちを「休ませ、息をつかせる日」でもあります。第二に、安息日は神の民のしるしです。第三に、安息日は聖なる会合の日で、ここで、神様を礼拝し交わるのです。また、神様の救いを想う日です。
なぜ、こんなことを書いたかと言いますと、最近、ゆっくりと神様と交わり、休む時間を少なくしてしまったことに気づいたからです。
これが十分ないと、礼拝メッセージも含めて、私自身が行っている全てのことが薄っぺらなものになってしまうのです。
何をしていても、何を準備していても、神様と話し合い、交わり、神様の前で考え、祈っていないと、やっていることのすべてが、機械的なものになってしまいます。
新しい年度を迎えようとしています。今度の日曜日午後は、新年度の総会でもあります。新年度のみことばは、エペソ5:18にある「御霊に満たされつづけなさい」です。多くのことをやるというよりも、一番大切なことを一番大切にして、ゆっくり、じっくり、進めていきたいと思います。
牧会も、教会形成や伝道も、神様にあって「ゆっくり、じっくり」を大切にしていきたいと思います。時々、何を止めるのか、何を止めないのか迷うことがあります。この迷いも、神様にお話しして、ゆっくり、じっくり話し合っていきたいと思います。新年度もよろしくお願いいたします。感謝いたします。ハレルヤ! | 2022-02-25 20:30:53[投稿番号:249] |
神学塾の「聖霊論」のクラスが終わりました! | いつでも、御子と御霊、御言葉と御霊 | 今週、一年間続きました、神学校の「聖霊論」のクラスが終わりました。今年度は、50分×30回のスケジュールでしたが、本当に楽しいクラスでした。午前は、CBSで3時間20分のクラス、午後は東海聖書神学塾での毎回100分のクラスの直後の「聖霊論」でしたから、心身ともに、フラフラ状態でしたが、聖霊論のクラスになると俄然、新しい力に満たされて、楽しいクラスになっていきました。三人の神学生の皆さんも、「ご聖霊」に関心をもち、これまでにも、様々な形で経験してこられたこともあって、時には、質問が続いて、気が付くと、クラス時間がなくなっていたこともありました。とにかく、聖霊なる神様に感謝いたします。
また、これまで、約25年ほど(だいたい隔年で)、聖霊論のクラスを担当して来ましたが、これほど、聖霊論の学びが充実したクラスはなかったかもしれません。『ロイドジョンズ』の聖霊論についても、いろいろ分かち合いながら学ぶことができました。また、最後には、資料はあったのですが、やったことがほとんどなかった、「フィリオクウェ」問題についても、取り上げることができました。イロイロ忘れていたことがありましたが、思い出すことができました!
牧会以外に、現在していることは、特に、二つあります。一つは、来週23日の祝日に、教団主催の、午前2時間、午後2時間、『ジャンルを大切にして・・・』を使っての、福音書と使徒の働きの学び会をしますので、その準備を少しずつして来ました。
もう一つは、『舟の右側』の次の原稿(4月号)の書き始めています。今回は、超自然的賜物の継続性に関連して、「レストレーショニズム(後の雨運動)」について原稿を準備し、これまでの総まとめをしたいと考えています。
賜物の継続性(また、聖霊の現在性)の問題は大切ですね。今の私たちの歩みに大きな影響を与えますから。関心のある方は、今度発行される3月号に書きましたので、お読みください。感謝いたします。ハレルヤ! | 2022-02-18 19:24:05[投稿番号:248] |
みことばと御霊によって | 1テサロニケ2章1?12節「母のように、父のように」 | 最近、ディボーションでテサロニケ人への手紙第一を読んでいます。「聖霊・御霊」の使用は少ないのですが(4回)、聖霊と御言葉の緊密さについて、あらためて教えられています。特に、1章5節では、福音が語られる時の聖霊の働き、6節では、その福音を信じて受け入れる時の聖霊の働きが語られています。みことば、また、福音宣教と聖霊の働きは一つであることがはっきり分かります。まさに、ここから、テサロニケの人々が成長していったことを感じます。また、2章13節でも、聖霊という言葉はありませんが、確かに、ここにも、豊かで確かな聖霊の働きがあったことを覚えます。「事実その通り神のことばとして受け入れてくれた」「この神のことばは、信じているあなた方のうちで働いています」とある通りです。
2章1?12節を読んでいた時に、私自身の牧会が「母のよう」ではないなあ、「父のよう」ではないなあ、と思いました。また、同時に、聖霊の促しを感じました。コロナ禍にあっても、聖霊とみことばによって導かれていくことの大切さを教えられました。
さらに、信仰をもってから50年以上になりますが、神様(ご聖霊)は、これまで、確かにみことばによって養い、導き続けてくださったことを、もう一度、振り返ることができました。これからも、「ワーダン・スピリット」(みことばと御霊)によって歩ませていただきたいと思います。・・・これしかないですね。
昨日、「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動を求めて」の原稿を『舟の右側』に送ることができました。今回は、久しぶりに、超自然的賜物が聖書時代のあと、どうなっていたのか、歴史的アプローチで確認してみました。資料がたくさんありすぎて、省略し、まとめるのが大変でしたが、なんとか終えることができました。今扱っているテーマが長くなってしまいましたが、大切なので、次回まで続けることにしました。
お祈りを感謝いたします。ハレルヤ! | 2022-02-11 18:08:02[投稿番号:247] |
誕生日を迎え、ついに70歳になりました。 | たくさんのお祈り、助け、交わりを感謝いたします | 70年前、未熟児で生まれ、その時の体重が約1800グラム(?)だったとか(もっと少なかったかも)。もちろん、保育器もなく、ただ、火鉢一つしかない部屋に寝かされ、まもなく、百日風邪にも罹ったそうです。…もう死ぬ、もう死ぬと思われていましたが、予想に反して、生き残り、70年間生かしていただきました。
このことを考える時、『私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ1:21)というみことばを思います。ほとんど死にそうで、命をいただき、さらにもう一つのいのちである「永遠のいのち」まで、いただいて生かされて、ここまで来れたことのゆえに、神様のみ名をほめたたえます。
先ほど、夕食の後、誕生会をしてもらいましたが、たくさんの交わりの恵みが与えられているなあと思います。「裸で帰ろう」としているのに、これほどまでに、「交わり」で着飾っていただいているなあと思います。こんな私なのに、ありがたいことです!
少しずつ、「着替え」の時が近づいて来て、身体のいろいろな部位が痛んで来ました。しかし「着替え」の後には、新しい聖霊的な身体が待っているのです。感謝します!
最近、1コリント16章7節が気になっています。その中の短い言葉で、「主が許されるなら」です。原文の語順では、最後に置かれている言葉です。「私は、…したいです。もし主が許されるなら。」となっています。乱用される可能性もありますが、自分がいろいろ考え、計画し、行動しようとするとき、しばらく、膝まずいて祈り、それが神のみこころかどうか、かんがえたいですね。また、いつでも、「もし主が許されるなら」を忘れないようにしたいです。
『舟の右側』3月号の「ちょうどいいかげん…」の原稿ができつづあります。しばらくぶりの、歴史的アプローチでしたので、時間がかかりました。「もし主が許されるなら」、さいごまで、「聖霊神学と聖霊運動」についてのテーマを全うしたいと考えております。お祈りを感謝いたします。ハレルヤ! | 2022-02-04 21:18:48[投稿番号:246] |
CessationismとNon-cessationismの続き | 超自然的賜物のいくえ…聖霊論も変わる! | オミクロン株の感染が大変な状態になっています!また、しばらく、様々な活動を留めて、様子を見ていく必要がありますね。神様は、これらの問題を通して、何を教えようとしておられるのでしょうか。
今週は、26‐27日まで、お休みを取りました。少し休めるかなと思い、いろいろな計画を立てましたが、駄目でした。家内の携帯が故障し、名古屋に修理してもらいに行きました。次の日は、娘夫婦の家を初めて訪問しました。今日は、礼拝準備と新年度の準備(教会と教団)をして、終わろうとしています。『舟の右側』の今月号のテーマは、「牧師の安息日」なので、読んでみたいと思います。
そしてこの三日間、つづけて準備していたことは、「ちょうどいいかげん…」の連載の原稿準備です。ブログの1月7日にも書きましたように、今は、「超自然的たまもののいくえ」についてまとめています。3月号で、歴史的アプローチをする予定でしたが、分量がありすぎてまとめるのが大変でした。限られた字数の中におさめるのが難しいですね。結局、次の次の4月号で、CessationismとNon-cessationismの総まとめをするということで、なんとか、3月号の全体像も見えてきました。ヤレヤレ…ホットしています!
この問題は、これまでにも触れましたように、本当に、私たちの生き方、考え方、祈り方、行動の仕方に大きな影響を与えるものであることが分かってきました。
さらに当然ですが、聖霊論そのものについての捉え方まで変わってきます。なぜなら、「超自然的賜物」の継続性を認めるということは、その背後にある、聖霊の現在性、現在的臨在と働きを、よりはっきりと意識し、より深く思い、交わり、期待するようになるからです。
聖霊をただ知的にだけ考え、満足するのではなく、全人格的に思うことになります。ただし、これは、感情と間違った理解による熱狂主義を意味しないでしょう。また、終末論的に「すでに」の恵みと「まだ」の恵みの的確なバランスが求められると思います。それが、聖書のバランスだからです。
とにかく、最近気づかされたことは、超自然的賜物の継続性を認めることは、また、「聖霊理解」に大きな影響を与えるということです。
賜物だけでなく、その背後におられるキリストの御霊を崇め、交わり、満たされ続けていきたいと願っています。皆さんに、1コリント6章11節のみ言葉を送りたいと思います。ハレルヤ! | 2022-01-28 20:32:33[投稿番号:245] |
オミクロン株が蔓延しています! | After Covid-19, With Covid-19 but With the Spirit! | 東京も、大阪も、名古屋も、日本中でオミクロン株が蔓延、増大していますね。神様の特別なお守りがありますように。神学校も、ズームに切り替えて、クラスを続けています。教会の礼拝後の「交わり」も中止を考えています。
今、礼拝メッセージでは、「使徒の働き」を続けていますが、ルカは、テオピロに何を語ろうとしていたのか、考えています。8章から、サマリア人の救い、エチオピアの宦官の救い、パウロの救い、そして異邦人コルネリオとその家族・友人たちの救いがつづきます。色々なタイプの救いの経験がありますし、その時の、聖霊の関わりも様々です。御子を信じ、御霊に導かれ(御霊を受け)救われていったことは同じでも、本当にいろいろありますね。
宦官の救いの経験における聖霊について、ある人は、可視的な何かが起こったが省略されていると言い、また別の人は、書かれている通り、特別な聖霊体験はなかったので、書かれていないのではないかと言います。
私は、今回の学びを通して思いましたのは、もちろん、宦官の救いのために聖霊は深く関わって下さいましたが、他のケースのような、可視的な、または特別な出来事はなかったのではないかということでした。もし、それがあったのなら、ルカはそれを書いたに違いないと思うようになりました。ここで問題になっているのは、「救いの真正」です。ある場合には、可視的な聖霊経験が必要でしたが、宦官の場合は、要らなかったと考えます。救われたことは確かであったから(他の人に説明する必要もなかった)、ということです。
これからも、礼拝メッセージの準備をしながら、使徒の働きにおける聖霊について、あらためて考え、教えられていきたいと思います。
今、していることは、教会に関しては、新年度の準備です。「御霊に満たされ続けなさい」(エペソ5:18)。『舟の右側』の連載については、3月号の準備をしています。ただ、限られた字数ですので、
セセーショニズムについての歴史的アプローチと言っても、たくさんの情報がありすぎて、それらを省略しながらまとめています。これが大変です。詳しくは、拙著『歴史の中の預言』をお読みください。歴史的に、預言などの超自然的賜物がどのようになっていったか、30年前に調べ、まとめたものです。これを使って、書いています。
後は、2月23日にあります教団主催の学び会『ジャンルを大切にして聖書を読む』から「福音書と使徒の働き」の学びをします。今から、少しずつ、準備をしています。
いろいろDoingが多くなりますと、「御霊にある」という恵みを忘れてしまいます。これから静まってお祈りします。ハレルヤ!神様のお守りがございますように。
| 2022-01-21 21:00:28[投稿番号:244] |
新しい年度にむかって! | 教会の新年度と「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動を求めて…」の3月号準備 | 先週から今週にかけて、牧会と説教準備、教団の学び会(第三回:律法、預言書)と「ちょうどいいかげん」(2月号)の原稿準備が重なり、また神学校の準備もあって、非常に忙しかったように思います。あとで大変にならないように、学び会と原稿の準備を早目に始めたつもりでしたが、それでもギリギリになり、大変でした。今は、なんとか終えることができ、ホットしています。(…いつも、同じようなことをブログに書いているかもしれませんね。)
「律法」の学びをしていて、「安息日律法」の大切な中身として、「休むこと、休ませること」があることに目が留まりました。ここに普遍的な意味、規範的な意味があるなら、従う必要があります。いつの間にか、また月曜と火曜日を忙しくさせていることに気づきました。少し時間がかかっても、今、手の中に入れて握り締めているものを一つずつ、手放し、神様の御手をお返ししていかなければならないことを、これまで以上に強く感じています。
教会の新年度の中心テーマと御言葉は、エペソ5章18節の「御霊に満たされなさい」することを役員会でお話ししています。前年度は、信仰生活の土台的なこととして、「みことばを読み、解釈し、教えられ、みことばによって歩んでいくこと」を大切にし、ディボーションとディボーション後の生活を強調しました。
新年度は、直球勝負で、一番大切だと思うことを一番おすすめしていきたいと思います。礼拝メッセージも「使徒の働き」からなので、丁度よいのではないかと考えています。私自身も、毎日毎日、「聖霊に満たされて歩むこと」を確認していますが、これからも、大切にしていきたいと願っています。…それなしに、信仰生活も教会生活も全うすることができないと思っているからです。
「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動を求めて」の2月号の原稿を送りましたので、早速、この内容のつづき(パート2)として、3月号は、歴史的なアプローチで、超自然的な聖霊の賜物の継続性について考えていきたいと考えています。2月号では、釈義的なアプローチで考えましたので、さらに、この2000年の間はどうであったか、歴史的に考えるものです。以前、少し読んでいましたが、また読み始めている本があります。賜物の継続性について取り上げている本は少ないので、この本は珍しい本と言えます。一ヶ月かけて読んでいきたいと思っています。Jon Ruthven著『On the Cessation of the Charismata』です。また、次回以降で、内容の説明をしたいと思います。
まだまだ、寒い日々が続きます。オミクロン株も広がっています。心身ともに守られますように。ハレルヤ! | 2022-01-14 18:25:25[投稿番号:243] |
新しい一年に向かって! | +超自然的賜物は継続しているか? | 新年、明けましておめでとうございます。
ホンの少しの間だったかもしれませんが、コロナ問題が落ち着いて来たので、ホットしていましたが、今、名古屋地区でもオミクロン株が増大する気配です。どこまでいくのでしょうか。
新年度の総会を控え、また新年度の歩みについて考えているところでしたので、またストップがかかりそうです。
教会の礼拝直後の交わり会(新年の分かち合い)でお話ししたことです。今年は、これまでギュッと握りしめて来たものを識別して、何を握り続け、何を手放すか、または神様の御手にお返しし、お委ねするか、祈り、考えていかなければならない一年になると思います。これは、本当に難しい判断になります。祈りになります。
2月で70歳になりますので、いつまでも、すべてのことを握り締めていくことはできませんね。50年ちょっと前に召してくださった神様と相談しながら、決めていかなければなりません。良い判断、相応しい再献身ができるようにお祈りください。70歳になっての、再献身に厳しいもののあります。感謝いたします。
さて、『舟の右側』の連載の2月号の原稿もほぼ出来上がりました。
その一部をご紹介します。これは、超自然的賜物が今も継続していると採るか、採らないかで、信仰生活、教会生活のいろいろな面に大きな影響を与えるということです。
その一例として、「神のみ心を求め方について」考えてみました。
以前、奉仕していた教会で、「神様のみこころの求め方」について、六回の学び会を開いたことがありましたが、その時、気づいたことがあります。当然と言えば当然のことですが、聖霊の超自然的賜物の継続性についての理解と、神様のみこころの求め方とには「関係」があるということです。一般的にですが、聖霊派は奇跡的にみ心が示されることを求め、これを喜びとしますが、改革派・長老派、ディスペンセーション主義は理性的な熟慮や判断を重視します。そして福音派の多くは、両者の間にあって、超自然的にみことばが与えられることを期待しこれを求めたり、祈りながら心の中の平安、うなずきや導きを大切にしたりしますが、他方で、状況をよく見るように、時間をかけてじっくり考えるようにすすめると共に、考えていることが聖書の基本的な教えから外れていないか吟味するように助言します。
ぜひ、「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動を求めて」2月号をお読みください。感謝いたします。
また、この一年も、宜しくお願いいたします。ハレルヤ! | 2022-01-07 18:44:32[投稿番号:242] |
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