旧約の聖霊から
どれくらい詳しくやるか、やらないか
 これまでのブログの中で、「旧約の聖霊」について、『舟の右側』用の原稿を準備していると書きました。今も、イロイロ考えながら、準備しています。ただ、どこまで詳しく書いたらいいのか、迷っています。
初めは、簡単に一回位(7000字)で纏めようとしていたのですが、原稿を書きながら、内容がドンドン増えて、これは、パート2やパート3が必要になるのではないかと考えるようになってきました。

聖書の箇所ごとに詳しく調べていきますと、さらに発見したり、教えられたりしながら、恵まれることが多くなっていきます。「創造の御霊」について、「共にいてくださる御霊」について教えられることがいろいろあります。…ですから、どこまで詳しく書くか、今迷っているのです。
原稿の締め切りが近づいて来ていますので、すぐに決断しなければなりません。

特に教えられているみことばを引用してみたいと思います。詩篇104篇29?30節、139篇7節、143篇10節、そしてハガイ2章5節です。ハガイ書にはこのようにあります。「あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている。恐れるな。」

神様は、イスラエルが出エジプトをして、その後、彼らと契約を結ばれましたが、このことのゆえに(このこと以来)、神の御霊はイスラエルと共におられたと書かれています。もちろん、この間、イスラエルは神様に逆らい、罪を犯し続けて来ました。しかしそれでも、御霊は、契約のゆえに、契約の時より、ずっとイスラエルと共におられたのです。そのように、ハガイを通して神様は語っておられます。

神様が、ご聖霊が、教会とともに、私達ひとり一人と共におられることは、新約的な恵みではなく、すでに旧約時代から与えられていたことが分かります。神の臨在、御霊の臨在こそ、神の民のしるしであると言っていいでしょう。 ハレルヤ!
2022-04-08 20:50:52[投稿番号:256]

旧約の聖霊と新約の聖霊
連続性と非連続性について
 最近は、『舟の右側』の連載で、「聖霊神学」に入りましたので、旧約聖書における聖霊について、いろいろ考えています。これまでも、新約の聖霊→旧約の聖霊→新約の聖霊というふうに学んで来ましたが、もう一度、旧約の聖霊について学び直しています。そしていろいろな発見をしています。

その中で一番大きな発見の一つは、旧約の聖霊と新約の聖霊の連続性です。どちらかと言いますが、これまで、連続性よりも非連続性のほうが強調されてきたのではないかと思いますが、もっともっと旧約と新約の連続性を強調してもいいのではないかと考えるようになっています。

たとえば、旧約の聖霊は、「いのち」に深く関わっておられますが、新約においても、聖霊は、私たちの(永遠の)いのちに関わっておられます(ヨハネ6:63、7:37‐39)。
また旧約の聖霊は、神の民と共におられましたが(ハガイ2:5)、新約においても、聖霊は神の民と共におられます(1コリント3:16)。
旧約時代には、特定の働き人に聖霊は知恵や力、能力を注がれましたが、新約の教会に特別な賜物を与えておられます。
旧約の御霊は、民を刷新し、また聖めるお方ですが、新約時代にも、同様の働きをつづけておられると言えます。

旧約から新約に向かって、あらためてご聖霊について教えられていきたいと願っていますが、旧約と新約の関係を睨みながら、いろいろ考え、そして現在にも継続して与えられている聖霊の恵みについて教えられていきたいと願っています。

聖霊論に関して、新約時代になって新たにされた面は確かにありますが、これからも、両面を大切にながら、学びたいと考えています。

これらの学びが、今の時代を生きる私たちにとって何らかの助けになるように願っています。感謝します。ハレルヤ!
2022-04-01 20:16:08[投稿番号:255]

大切なトライアングルを考えて
最近、考えて教えられていること
 最近、二つのトライアングル(三角形)を考えるようにしています。一つは、三位一体の神様「御父と御子と御霊」の交わりに囲まれて歩んでいることです。これは、絶対のトライアングルで、この交わりの中には誰も入ることができません。私だけです。また、これは、聖書的です。ヨハネ14章17節と23節から来ているからです。またこれは、永遠のいのちの交わりそのものと言えます(ヨハネ17章3節)。

もう一つのトライアングルがあります。それは、「内住のご聖霊」と「私」ときょうお会いする「誰か」です。この誰かが複数になる場合もあれば、きょう経験する出来事になるかもしれませんし、教会全体の場合もあります。

このようにイメージして祈ったり、一日の準備をしたり、また何かしようとしている時、誰かとお会いしようとしている時、まずこのトライアングルの中に「その人」や「その出来事」を迎えるのです。

一日の歩みの中で出来事がいろいろつづくと、直ぐに神様を忘れてしまう私ですが、いつも共にいて下さる神様を、私の方からも意識しようとしています。
ぜひ、毎日に生活の色々な場面で、二つの三角形を思い起こしてみてください。おすすめしたいと思います。

さて、今は、旧約の聖霊についての原稿を準備しています。学び直しながら、いろいろと発見することがあって、喜んでいます。旧約時代のご聖霊はまた、今も、内住していて下さるお方ですから。

今週の21日に教団の学び会をもちました。午前2時間、午後2時間で、『ジャンルを大切にして…』を使いながら、知恵文学と詩篇の学びをしました。これであと一回の学び会となりました。黙示文学・黙示録をみなさんと、どのように4時間かけて、学んでいくかは本当にチャレンジです。少しでも、参加して下さる兄姉の皆さんの益になるように願って、いろいろ考えながら、準備しています。

大袈裟な言い方ですが、パウロ書簡のどの書を読んでも、終末論的だと思います。そして今の時代も、しばらく前以上に、終末的な時代になってきたと思います。そういう意味でも、黙示録から教えられていきたいとねがっています。ポイントは、「信仰と忍耐と希望」です。

神様の豊かなお守りがございますように。感謝いたします。ハレルヤ!
2022-03-25 21:00:12[投稿番号:254]

旧約の聖霊から
今の時代に必要な聖霊神学を求めて
 『舟の右側』5月号から、「聖霊神学」というテーマに変わります。準備を始めたところです。最終的には、今の時代に生きる私たちにどのように関係して来るかという視点でも、考えたいと思っています。
また、当然ですが、三位一体的に、特にキリスト論と聖霊論の関係についても触れていく予定です。そうしないと、最終的に、聖書的な聖霊論にならないと思うからです。ぜひ、よろしくお願いいたします。

前々回のブログでもお話ししましたように、ディボーションで、今、パウロ書簡を読んでいますが、その中でも、できるだけ、聖霊論とキリスト論の関係を考えるようにしています。重なっている面もありますが、ある種の棲み分け(役割の分担)もあるし、そのように意識されていると思える箇所もあります。

こうして、御父にあって、私たちは、御子と御霊による信仰生涯を歩んでいると言えます。より相応しく、より聖書的に、御子と御霊によって、今を歩ませていただきたいと考えています。

今、私たちは、真っ暗な闇の中に突入しようとしています。そんな危険が毎日あると言っていいでしょう。このような中で神様の福音をどのようなお分かちしていったらいいのか考えさせられます。
しばらくすると、「いや、私たちは今、目の前にある問題をどうするかだけでいっぱい!生きることで精いっぱいなんです!」と言う時代が来るかもしれません。

しかし、聖書の時代は、もっと暗闇であり、もっと大変な時代であり、聖書の福音は、そのような時代に生まれ、もっと恐ろしい暗闇を通って来た、育って来たと言えるのではないでしょうか。
神様は、そのような大迫害という暗闇の中で、例えば、ヘブル書、ペテロ書、黙示録などを通して、「信仰と忍耐」(黙示13:10、14:12)を教えられたと言えます。

コロナ前よりも、今のほうが、「現実」なのかもしれません。なぜなら、今は、エデンの東であり、パラダイスではないからです。
もっともっと、「信仰と忍耐」を強調して、共に歩んでいくことを教えられて行く必要があるかもしれません。

このように考えます時、私たちには、御子と御霊がおられ、三位一体の神様が取り囲んでいて下さることの憐みを深く感じるのです。
暗闇がより濃くなっても、その中で生きる信仰、教会、牧会を求めていきたいと思います。ハレルヤ!
2022-03-18 18:30:02[投稿番号:253]

旧約の聖霊について
…今の時代に必要な聖霊神学
 
2022-03-18 17:52:54[投稿番号:252]

後の雨運動?
ずっと気になっていたことのひとつ
 やっと、『舟の右側』4月号「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動をもとめて」の原稿を編集者に送ることができました。いつも、内容だけではなく、限られたスペース(7000字)にどうまとめるか、日本語の問題も含めて悩んでいます。

今回は、セセーショニズムとノン・セセーショニズムの最後(パート3)になりました。やっとのことで、この課題に関していろいろ考えて来たことをまとめることができました。私の立場は、修正ノン・セセーショニズムです。詳しくは、舟の右側をお読みください。

今回、どうしても取り上げたかったのは、「後の雨運動」の方々が強調して来られた独特のノン・セセーショニズムについてです。「後の雨運動」に出会ったのは、言葉としては、たぶん、40年以上前ですが、実際には、カナダで神学校で学んでいる時に知るようになったと言えます。

特徴の一部ですが、新約聖書にあった「使徒、預言者…」という5職務は、御子の再臨前に回復するというもので、1980年代に預言者が回復し、1990年代に使徒が回復すると言われていました。

私としましては、このような考え方には違和感を感じていますので、今回も、その一部ですが、釈義的に、また歴史的に取り上げました。教会の牧師たち、リーダーたちが、権威を振りかざして、聖書の解釈や適用まで支配することの弊害について触れました。

私自身に対しても、これは果たして、聖書的かどうか、絶えず、みことばによって点検して行かなければならないと思っています。どこまで聖書ははっきりと教えていると言えるのか、どの辺は、自分の推測、想像なのか自覚して行く必要があります。時々、グレーゾーンがあって難しいです。

今やっています三つの読書会で(4月には教団の学び会でも)、黙示録の学びをしていますが、ここでも、どこまでが自分の解釈、推測か意識しながら、皆さんとともに学んでいく必要があることを感じています。慎重に、恐れをもって、また喜んで、黙示録の学びをみなさんとしていきたいと思っています。

お読みくださり、感謝します。ハレルヤ!
2022-03-11 20:56:03[投稿番号:251]

御子と御霊の関係について考える
コロサイ書を読んで・・・
 最近、御子と御霊についてよく考えることがあります。御霊を強調すればするほど、御子のことについても考えるようにしています。御霊を強調すれば、ますます御子との関係についてもしっかりと確認しておく必要があるからです。

神学校の聖霊論のクラスで、今回は学びが非常に進んで、ほとんど初めてになるかもしれませんが、「フィリオクエ論・発出論」についてお話しすることができました。

以前かなり時間をかけて、このことについて学び、考えましたのでクラスでも紹介することができました。問題は、御子と御霊の関係です。また、私たちの救いや信仰成長における御子と御霊の働きです。御霊は、御子とは違って、どのように働き、導かれるのか。御子は、御霊と違って、どのように関わり、働いていてくださるのか、です。
御子と御霊は、重なっておられる面もありますが、独自の役割をもって、私たちの救いとその後の成長を導いていてくださる面もあります。

最近、久しぶりに、ディボーションで「コロサイ書」を読んでいます。ご聖霊についての言及が皆無ではありませんが(1章8節、他にも関連個所あり)、コロサイ書は特別です。非常に、内容がキリスト論的です。例えば、2章6-7節をご覧ください。「・・・このように主キリストイエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」とある通りです。

私は、何か、わざと聖霊論的に書くの止め、キリスト論的に書いているのかもしれないと思ってしまうほどです。たぶん、それほどに、コロサイの教会では、キリスト論的問題が勃発していたのだろうと推測しています(1-3章)。

さて、もとに戻ります。今、私たちの救いのために、またその後の信仰の成長のために、御子も御霊も、2重に、より深く関わり、導いていて下さることは何とありがたいことでしょうか。

許されれば、以前やっていた学びを再開し、聖書全体で、御子と御霊がどのように区別され、どのように関係づけられているか、考えていきたいと願っています。それが、あって初めて、聖霊論が聖霊論になるのではないでしょうか。

今は、『舟の右側』で連載させていただいております、セセーショニズムとノン・セセーショニズムについての問題をまとめているところです。もう少しで終わります。終われば、いよいよ、聖書の中のご聖霊についてまとめていくことになります。

今週の礼拝後、新年度総会をもちました。オミクロン株が流行っていますので、心配していましたが、なんとか守られて、終わることができました。本当に感謝です。御霊に満たされ、導かれながら、もう一度、初めから、教会形成のための土台作りをさせていただきたいと願っています。お祈りを感謝いたします。ハレルヤ!
2022-03-04 19:04:23[投稿番号:250]

神様にあって「ゆっくり」と
…早朝、夢の中で思ったこと
 朝起きる直前に変な夢をみました。いろんな要素が混じり合っていて説明できませんが、とにかく、夢の中で、あるギリシャ教父(名前は覚えていません)のことを考えていました。そして夢の終わりに、「ゆっくり」という言葉が心に残りました。

私は、別に「夢」を信じるタイプではありませんが、これまで走って来たことにブレーキをかけ、「ゆっくり」するようにということかなあと思いました。
実際にも、昨年度のように、忙しすぎるやり方は止め、今年度は、神学校で教える予定のクラスを一つ減らし、また、来年予定していた「ヘブル語」クラスも辞退することにしました。

『ジャンルを大切にして聖書を読む』の中で、「安息日律法」について簡単にまとめた箇所があります(170頁)。第一に、安息日は休む日ですが、またそれは、他の弱いものたちを「休ませ、息をつかせる日」でもあります。第二に、安息日は神の民のしるしです。第三に、安息日は聖なる会合の日で、ここで、神様を礼拝し交わるのです。また、神様の救いを想う日です。

なぜ、こんなことを書いたかと言いますと、最近、ゆっくりと神様と交わり、休む時間を少なくしてしまったことに気づいたからです。
これが十分ないと、礼拝メッセージも含めて、私自身が行っている全てのことが薄っぺらなものになってしまうのです。
何をしていても、何を準備していても、神様と話し合い、交わり、神様の前で考え、祈っていないと、やっていることのすべてが、機械的なものになってしまいます。

新しい年度を迎えようとしています。今度の日曜日午後は、新年度の総会でもあります。新年度のみことばは、エペソ5:18にある「御霊に満たされつづけなさい」です。多くのことをやるというよりも、一番大切なことを一番大切にして、ゆっくり、じっくり、進めていきたいと思います。

牧会も、教会形成や伝道も、神様にあって「ゆっくり、じっくり」を大切にしていきたいと思います。時々、何を止めるのか、何を止めないのか迷うことがあります。この迷いも、神様にお話しして、ゆっくり、じっくり話し合っていきたいと思います。新年度もよろしくお願いいたします。感謝いたします。ハレルヤ!
2022-02-25 20:30:53[投稿番号:249]

神学塾の「聖霊論」のクラスが終わりました!
いつでも、御子と御霊、御言葉と御霊
 今週、一年間続きました、神学校の「聖霊論」のクラスが終わりました。今年度は、50分×30回のスケジュールでしたが、本当に楽しいクラスでした。午前は、CBSで3時間20分のクラス、午後は東海聖書神学塾での毎回100分のクラスの直後の「聖霊論」でしたから、心身ともに、フラフラ状態でしたが、聖霊論のクラスになると俄然、新しい力に満たされて、楽しいクラスになっていきました。三人の神学生の皆さんも、「ご聖霊」に関心をもち、これまでにも、様々な形で経験してこられたこともあって、時には、質問が続いて、気が付くと、クラス時間がなくなっていたこともありました。とにかく、聖霊なる神様に感謝いたします。
 また、これまで、約25年ほど(だいたい隔年で)、聖霊論のクラスを担当して来ましたが、これほど、聖霊論の学びが充実したクラスはなかったかもしれません。『ロイドジョンズ』の聖霊論についても、いろいろ分かち合いながら学ぶことができました。また、最後には、資料はあったのですが、やったことがほとんどなかった、「フィリオクウェ」問題についても、取り上げることができました。イロイロ忘れていたことがありましたが、思い出すことができました!

牧会以外に、現在していることは、特に、二つあります。一つは、来週23日の祝日に、教団主催の、午前2時間、午後2時間、『ジャンルを大切にして・・・』を使っての、福音書と使徒の働きの学び会をしますので、その準備を少しずつして来ました。
もう一つは、『舟の右側』の次の原稿(4月号)の書き始めています。今回は、超自然的賜物の継続性に関連して、「レストレーショニズム(後の雨運動)」について原稿を準備し、これまでの総まとめをしたいと考えています。

賜物の継続性(また、聖霊の現在性)の問題は大切ですね。今の私たちの歩みに大きな影響を与えますから。関心のある方は、今度発行される3月号に書きましたので、お読みください。感謝いたします。ハレルヤ!
2022-02-18 19:24:05[投稿番号:248]