いろいろなことが終わっていきます!
手離すことは、また神様の御手に委ねること
 きょう、昨年9月から祝日を使って続けて来ました教団役員会主催の学び会「ジャンルを大切にして聖書を読む」が終了しました。9月、11月、1月、2月、3月、4月と、祝日全体を使って(午前2時間、午後2時間)、ズームで、ジャンルを大切にしながら聖書の「自炊」をどのようにしたらいいか、各ジャンルの説明も含めて、実践的にお話しをして来ました。

喜びもありました。また責任もありましたが、全て終えることができ、ホットしています。また、神様と参加して下さった皆さんに感謝しました。一緒に学びながら、私自身も教えられ、また足らないところも発見しました。
特に、きょう、一緒に学んだ、「黙示文学・黙示録」は大変でした。4時間で、必要だと思うところを、できるだけ分かりやすく、進める必要がありました。参加者の皆さんも、頑張ってついて来て下さったと思います。感謝します!

また、約1年間、毎週1回のペースで、同じテキストを使って、三種類の読書会を続けて来ましたが、これも、先週と今週、すべて終了しました。止めることは辛く、寂しく思いましたが、すべてを神様にお委ねしました。感謝します。肩の荷もすっと楽になりました。

また、18日には、コロナ前から、約2年半つづけてきました「ヘブル語で伝道者の書を読む会(HDYK)」も終わることができました。最後に、伝道者の書から(伝道)説教するように、参加して下さった牧師先生たちにおねがいしました。

また、しばらく前、CBSで、これも何年も前から続けて来たヘブル語の一年コース(ヘブル語初級、ヘブル語購読、旧約釈義)を22年の3月で止めることを神学校に連絡しました。今、CBSで担当していますギリシャ語の一年コース(ギリシャ語初級、ギリシャ語購読、新約釈義)や神学塾でやっている旧約釈義、10月からスタートする「霊性・スピリチュアリティ」は今後どうするか、今、考えているところです。

私としては、本当にイロイロ止めたし、終わったつもりですが、まだまだ、手で握り締めているものは、手を離し、神様の御手にお委ねしていきたいと思います。時々、難しい場合があります。もう少し、延ばしてもいいのでは、と思う時もあります。

とにかく、一つ一つ点検しながら、どちらにしても、神様にある道を歩ませていただきたいと願っています。感謝いたします。ハレルヤ!
2022-04-29 19:49:42[投稿番号:259]

神の聖霊を悲しませてはいけません。エペソ4:30
最近、考えていること
 前回のブログでも触れましたように、今、旧約の聖霊について原稿を準備しています。第一回が終わりましたので、今は、二回目でで、パート2です。

注目しているみことばの一つはイザヤ63章10節です。こうあります。「彼らは逆らって、主の聖なる御霊を悲しませたので…。」パウロが、エペソ4章30節で、イザヤ63章10節のみことばを直接引用したかどうか議論のあるところですが、私は、「御霊が悲しまれる」という言葉は、珍しい、また注目できる表現なので、パウロが突然思いついた言葉というより、イザヤ書からの引用ではないかと考えます。

いずれにしても、神様(御霊)は、イスラエルの不信仰のゆえに、彼らから離れてしまう方ではありません。「悲しまれる」と言われていることは、御霊が、イスラエルと共にずっとおられることを意味しているのではないかと考えます。共におられることを止められれば、「悲しまれる」ことはないでしょう。民と共におられるので、民の不信仰、不従順について「ただ中で悲しまれる」と考えます。

イザヤ63章7-14節は、神様が、また御霊が、神の民と共におられることを教えている箇所です。旧約に、こんな箇所があるんだとあらためて思わされています。

エペソ4章30節に戻りますが、文脈では、教会の兄姉の交わりについて教えている中で、「神の聖霊を悲しませてはいけません」が引用されています。それくらい、共にいて下さる聖霊にとって、神にある兄姉の交わりはそれほどに重大なのです。神の御霊は悲しまれるほどのことなのです。

今、あらためて聖書にある聖霊関係のみことばを掘り起こし、読み直し、学び直して、教えられているところです。

最近になって、初めて、1コリント6章19-20節を覚えました。何日もかかりました。大切だと思ったみ言葉は、暗記するように頑張っています。でも、毎日一回位は思い起こさないと、すぐに忘れてしまいます。ただ暗記するだけでなく、一日の歩みのどこかで、思い起こし、味わい、歩ませていただきたいです。

この私のからだを、聖霊の宮としていてくださることは驚きです!
今晩もハレルヤ!
2022-04-22 19:45:22[投稿番号:258]

真の生ける望みについて
黙示録などから教えられていること
 先週から今週にかけて、本当に忙しい毎日が続きましたが、やっと、例の「ちょうどいいかげんな聖書神学を求めて」の原稿を書き終え、送り出すことができました。原稿の締め切りをオーバーして送ったのは初めてかもしれません。

 それくらい、「旧約時代のご聖霊」について、細かく、難しくなりすぎてしまいました。ただ、あらためて、旧約時代においても、幅広く、豊かに、多様にご聖霊が働いておられることを確認することができ、少し嬉しくなりました。ご聖霊のことは、ただペンテコステ以降だけの恵みではないからです。

 神の民が生かされていると、そこにご聖霊が来られ、いつでもどこでも、伴っていてくださるのです。全能の神様は、無限のお方なので、この地上には、御霊か、御子か、御使いが用いられていると言っていいでしょう。

 もう一つ、準備をつづけているものがあります。今度の29日の祝日には、午前と午後、4時間かけて、黙示録(黙示文学)の学びをすることになっています。皆さんに、宿題も出して、黙示録の章ごとの要約を書いてもらっています。今、少なくとも、23人の兄姉が準備していてくださいます。何とか、少しでも分かりやすく、黙示録に近づきたいとねがっています。

 黙示録の準備をしながら教えられたことは、黙示録のメッセージの中心は、「励まし」であり、キリストにある確かな望みがあるので、「信仰と忍耐をもって歩みなさい」ということに尽きるのではないでしょうか。13章10節にある通りです。迫害下にあって、増々迫害が狂暴化して行く中で、イロイロ細かなことをゴチャゴゴチャ言っているのではありません。「確かな希望があるので、忍耐と信仰をもって歩みつづけなさい」です。

このことを考えていましたら、確かな希望があるので、「信仰と忍耐をもって」ということは、今の私たちの時代にも必要なメッセージであることが分かって来ました。当たり前のことに聞こえるかもしれませんが、オミクロン感染が継続する中で、ウクライナ戦争がどんどん深刻化して行く中で、今の私たちに対する神様からのメッセージも、確かな希望があるので、忍耐と信仰をもって歩みなさい、です。

私たちの希望は、イエス様の十字架と復活によって、本当に確かなものとなりました。これらは、やがて起こる御子の再臨に繋がっています!希望をもって歩ませていただきましょう。受難週からイースターへ!ハレルヤ!
2022-04-15 21:33:40[投稿番号:257]

旧約の聖霊から
どれくらい詳しくやるか、やらないか
 これまでのブログの中で、「旧約の聖霊」について、『舟の右側』用の原稿を準備していると書きました。今も、イロイロ考えながら、準備しています。ただ、どこまで詳しく書いたらいいのか、迷っています。
初めは、簡単に一回位(7000字)で纏めようとしていたのですが、原稿を書きながら、内容がドンドン増えて、これは、パート2やパート3が必要になるのではないかと考えるようになってきました。

聖書の箇所ごとに詳しく調べていきますと、さらに発見したり、教えられたりしながら、恵まれることが多くなっていきます。「創造の御霊」について、「共にいてくださる御霊」について教えられることがいろいろあります。…ですから、どこまで詳しく書くか、今迷っているのです。
原稿の締め切りが近づいて来ていますので、すぐに決断しなければなりません。

特に教えられているみことばを引用してみたいと思います。詩篇104篇29?30節、139篇7節、143篇10節、そしてハガイ2章5節です。ハガイ書にはこのようにあります。「あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている。恐れるな。」

神様は、イスラエルが出エジプトをして、その後、彼らと契約を結ばれましたが、このことのゆえに(このこと以来)、神の御霊はイスラエルと共におられたと書かれています。もちろん、この間、イスラエルは神様に逆らい、罪を犯し続けて来ました。しかしそれでも、御霊は、契約のゆえに、契約の時より、ずっとイスラエルと共におられたのです。そのように、ハガイを通して神様は語っておられます。

神様が、ご聖霊が、教会とともに、私達ひとり一人と共におられることは、新約的な恵みではなく、すでに旧約時代から与えられていたことが分かります。神の臨在、御霊の臨在こそ、神の民のしるしであると言っていいでしょう。 ハレルヤ!
2022-04-08 20:50:52[投稿番号:256]

旧約の聖霊と新約の聖霊
連続性と非連続性について
 最近は、『舟の右側』の連載で、「聖霊神学」に入りましたので、旧約聖書における聖霊について、いろいろ考えています。これまでも、新約の聖霊→旧約の聖霊→新約の聖霊というふうに学んで来ましたが、もう一度、旧約の聖霊について学び直しています。そしていろいろな発見をしています。

その中で一番大きな発見の一つは、旧約の聖霊と新約の聖霊の連続性です。どちらかと言いますが、これまで、連続性よりも非連続性のほうが強調されてきたのではないかと思いますが、もっともっと旧約と新約の連続性を強調してもいいのではないかと考えるようになっています。

たとえば、旧約の聖霊は、「いのち」に深く関わっておられますが、新約においても、聖霊は、私たちの(永遠の)いのちに関わっておられます(ヨハネ6:63、7:37‐39)。
また旧約の聖霊は、神の民と共におられましたが(ハガイ2:5)、新約においても、聖霊は神の民と共におられます(1コリント3:16)。
旧約時代には、特定の働き人に聖霊は知恵や力、能力を注がれましたが、新約の教会に特別な賜物を与えておられます。
旧約の御霊は、民を刷新し、また聖めるお方ですが、新約時代にも、同様の働きをつづけておられると言えます。

旧約から新約に向かって、あらためてご聖霊について教えられていきたいと願っていますが、旧約と新約の関係を睨みながら、いろいろ考え、そして現在にも継続して与えられている聖霊の恵みについて教えられていきたいと願っています。

聖霊論に関して、新約時代になって新たにされた面は確かにありますが、これからも、両面を大切にながら、学びたいと考えています。

これらの学びが、今の時代を生きる私たちにとって何らかの助けになるように願っています。感謝します。ハレルヤ!
2022-04-01 20:16:08[投稿番号:255]

大切なトライアングルを考えて
最近、考えて教えられていること
 最近、二つのトライアングル(三角形)を考えるようにしています。一つは、三位一体の神様「御父と御子と御霊」の交わりに囲まれて歩んでいることです。これは、絶対のトライアングルで、この交わりの中には誰も入ることができません。私だけです。また、これは、聖書的です。ヨハネ14章17節と23節から来ているからです。またこれは、永遠のいのちの交わりそのものと言えます(ヨハネ17章3節)。

もう一つのトライアングルがあります。それは、「内住のご聖霊」と「私」ときょうお会いする「誰か」です。この誰かが複数になる場合もあれば、きょう経験する出来事になるかもしれませんし、教会全体の場合もあります。

このようにイメージして祈ったり、一日の準備をしたり、また何かしようとしている時、誰かとお会いしようとしている時、まずこのトライアングルの中に「その人」や「その出来事」を迎えるのです。

一日の歩みの中で出来事がいろいろつづくと、直ぐに神様を忘れてしまう私ですが、いつも共にいて下さる神様を、私の方からも意識しようとしています。
ぜひ、毎日に生活の色々な場面で、二つの三角形を思い起こしてみてください。おすすめしたいと思います。

さて、今は、旧約の聖霊についての原稿を準備しています。学び直しながら、いろいろと発見することがあって、喜んでいます。旧約時代のご聖霊はまた、今も、内住していて下さるお方ですから。

今週の21日に教団の学び会をもちました。午前2時間、午後2時間で、『ジャンルを大切にして…』を使いながら、知恵文学と詩篇の学びをしました。これであと一回の学び会となりました。黙示文学・黙示録をみなさんと、どのように4時間かけて、学んでいくかは本当にチャレンジです。少しでも、参加して下さる兄姉の皆さんの益になるように願って、いろいろ考えながら、準備しています。

大袈裟な言い方ですが、パウロ書簡のどの書を読んでも、終末論的だと思います。そして今の時代も、しばらく前以上に、終末的な時代になってきたと思います。そういう意味でも、黙示録から教えられていきたいとねがっています。ポイントは、「信仰と忍耐と希望」です。

神様の豊かなお守りがございますように。感謝いたします。ハレルヤ!
2022-03-25 21:00:12[投稿番号:254]

旧約の聖霊から
今の時代に必要な聖霊神学を求めて
 『舟の右側』5月号から、「聖霊神学」というテーマに変わります。準備を始めたところです。最終的には、今の時代に生きる私たちにどのように関係して来るかという視点でも、考えたいと思っています。
また、当然ですが、三位一体的に、特にキリスト論と聖霊論の関係についても触れていく予定です。そうしないと、最終的に、聖書的な聖霊論にならないと思うからです。ぜひ、よろしくお願いいたします。

前々回のブログでもお話ししましたように、ディボーションで、今、パウロ書簡を読んでいますが、その中でも、できるだけ、聖霊論とキリスト論の関係を考えるようにしています。重なっている面もありますが、ある種の棲み分け(役割の分担)もあるし、そのように意識されていると思える箇所もあります。

こうして、御父にあって、私たちは、御子と御霊による信仰生涯を歩んでいると言えます。より相応しく、より聖書的に、御子と御霊によって、今を歩ませていただきたいと考えています。

今、私たちは、真っ暗な闇の中に突入しようとしています。そんな危険が毎日あると言っていいでしょう。このような中で神様の福音をどのようなお分かちしていったらいいのか考えさせられます。
しばらくすると、「いや、私たちは今、目の前にある問題をどうするかだけでいっぱい!生きることで精いっぱいなんです!」と言う時代が来るかもしれません。

しかし、聖書の時代は、もっと暗闇であり、もっと大変な時代であり、聖書の福音は、そのような時代に生まれ、もっと恐ろしい暗闇を通って来た、育って来たと言えるのではないでしょうか。
神様は、そのような大迫害という暗闇の中で、例えば、ヘブル書、ペテロ書、黙示録などを通して、「信仰と忍耐」(黙示13:10、14:12)を教えられたと言えます。

コロナ前よりも、今のほうが、「現実」なのかもしれません。なぜなら、今は、エデンの東であり、パラダイスではないからです。
もっともっと、「信仰と忍耐」を強調して、共に歩んでいくことを教えられて行く必要があるかもしれません。

このように考えます時、私たちには、御子と御霊がおられ、三位一体の神様が取り囲んでいて下さることの憐みを深く感じるのです。
暗闇がより濃くなっても、その中で生きる信仰、教会、牧会を求めていきたいと思います。ハレルヤ!
2022-03-18 18:30:02[投稿番号:253]

旧約の聖霊について
…今の時代に必要な聖霊神学
 
2022-03-18 17:52:54[投稿番号:252]

後の雨運動?
ずっと気になっていたことのひとつ
 やっと、『舟の右側』4月号「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動をもとめて」の原稿を編集者に送ることができました。いつも、内容だけではなく、限られたスペース(7000字)にどうまとめるか、日本語の問題も含めて悩んでいます。

今回は、セセーショニズムとノン・セセーショニズムの最後(パート3)になりました。やっとのことで、この課題に関していろいろ考えて来たことをまとめることができました。私の立場は、修正ノン・セセーショニズムです。詳しくは、舟の右側をお読みください。

今回、どうしても取り上げたかったのは、「後の雨運動」の方々が強調して来られた独特のノン・セセーショニズムについてです。「後の雨運動」に出会ったのは、言葉としては、たぶん、40年以上前ですが、実際には、カナダで神学校で学んでいる時に知るようになったと言えます。

特徴の一部ですが、新約聖書にあった「使徒、預言者…」という5職務は、御子の再臨前に回復するというもので、1980年代に預言者が回復し、1990年代に使徒が回復すると言われていました。

私としましては、このような考え方には違和感を感じていますので、今回も、その一部ですが、釈義的に、また歴史的に取り上げました。教会の牧師たち、リーダーたちが、権威を振りかざして、聖書の解釈や適用まで支配することの弊害について触れました。

私自身に対しても、これは果たして、聖書的かどうか、絶えず、みことばによって点検して行かなければならないと思っています。どこまで聖書ははっきりと教えていると言えるのか、どの辺は、自分の推測、想像なのか自覚して行く必要があります。時々、グレーゾーンがあって難しいです。

今やっています三つの読書会で(4月には教団の学び会でも)、黙示録の学びをしていますが、ここでも、どこまでが自分の解釈、推測か意識しながら、皆さんとともに学んでいく必要があることを感じています。慎重に、恐れをもって、また喜んで、黙示録の学びをみなさんとしていきたいと思っています。

お読みくださり、感謝します。ハレルヤ!
2022-03-11 20:56:03[投稿番号:251]