ディボーションで教えられたこと | エゼキエル14章から | まず、エゼキエル14章全体を読んでいただくとよいと思いますが、特に、7節と8節に注目したいと思います。「イスラエルの家の者でも、イスラエルに寄留している者でも、だれでもわたしから離れ、心の中に偶像を秘めて、自分を不義に引き込むものを顔の前に置きながら、わたしに尋ねようと預言者のところに来る者には、【主】であるわたし自身が答える。わたしはそのような者に敵対してわたしの顔を向け、彼をしるしとし、語りぐさとして、わたしの民の間から絶ち滅ぼす。そのときあなたがたは、わたしが【主】であることを知る。」
神様を求め、みこころを聞こうと預言者の所に来るわけですから、霊的に模範的に見えます。しかし実際には、心の中は、全くそうではなく、神様から離れ、偶像を心にもち、不義に引き込むものを顔の前に置いているとあるのです。
これらの人々は、二心であり、神様も、預言者たちも、自分の利益のために利用しようとしていたのかもしれません。
自分の心の中の「悪」に気づかず、平気で、神の預言者のところに求めて来たのかもしれません。
あらためて、この個所を読みながら、自分の献身を点検しました。本当に献身しているのか。献身のフリをしているだけなのか。また、フリをしながら、結局は、神様をも自分のために利用しようとしていないか、と。
神様を求めています。預言者をたずねています。そのように見えます。しかしそれは、すべて、自分のためにしようとしていないか。自分の王国を建て上げるために、自分がそこで王になるために、祈ったり、礼拝したり、みことばを学んだりしていないか、ということです。
以前、ブログでも触れましたように、「献身した」と言っても、献身はゴールではなく、出発です。自分の献身を色々な形で点検し、吟味していかないと、献身のズレに気づかないままになってしまいます。不完全な献身はたくさんあります。
へりくだって、きょうも、神様が神様であることを心から告白し、表明して、進んで行きたいと願っています。ご聖霊も、みことばを用いて、これからも教え、導いて下さることを感謝します。「献身している!」と言っても、神様のみ思いから、ズレてしまいませんように。ハレルヤ! | 2022-07-01 17:39:40[投稿番号:268] |
きょうのディボーションから | エレミヤ7章16節から「祈るな!」から | 毎日のディボーションでは、ここしばらく、新約の手紙をずっと読んできましたので、最近、預言書に移りました。今、「預言者と聖霊」について考えているので、ちょうどいいのではと思ったからです。
今朝は、エレミヤ7章16節の「祈ってはならない。とりなしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないから」に注目しました。類似したみ言葉は、他にも二カ所あります。
神様は、なぜ、わざわざ、エレミヤにこんなことまで言われたのでしょうか。いろいろ考えました。第一に、神様は、エレミヤ(私達)の祈りに耳を傾け、答えて下さる方なので(答えなければならないので)、前もってこれを止めておられる。第二に、神様は、すでに、エレミヤ(私達)が今考え、祈ろうとしていることを知っておられるが、その通りにはならず、別のご計画を決めておられるから。
また、この出来事から、あらためて、神様が、祈るエレミヤ(私達)を大切に扱っておられることが分かりました。わざわざ、神様は「いのるな!」とまで言っておられるのです。また、そこまで言っておられる神様は、私たちが祈るいのりを本当に聞いて、答えて下さるお方であることが分かります。そうでなければ、どうしてわざわざ、エレミヤの祈りを止められる必要があったでしょうか。
このみことばを味わいながら、私として、信仰をもって祈り続けることの足りなさや問題に気づきました。また、神様のみ心でないことを祈っても意味がありませんが(聞かれないので)、しかししばしば、それが神様のみ心かどうか分からないという問題もあります。こんなときは、神様が、「祈るな、祈り必要がない」と教えてくださるまで、いのりつづけていいことも教えられました。
時々、今、自分が祈っていることは御心に沿ったものなのかどうか、分からず、迷うことがあります。しかし、神様が、エレミヤに対するように、私(たち)にも、このことを教えてくださることを信じ、その時まで、祈り続けることを教えられました。
祈ることが沢山あります。迷うことはありますが、分かる時まで、信じて、期待して祈り続けましょう。。。ハレルヤ! | 2022-06-24 18:06:45[投稿番号:267] |
もう一度、使徒の働き19章1節について | 「何人かの弟子たち」とは? | 最近、旧約時代の聖霊とその働きについて、ずっと学び、考えています。そしてその流れ(感覚)で、新約の聖霊について考えることを試みています。こうすることで、これまで分からなかったこと、また気づかなかったことについて、新しい視点で聖書を読めるようになって来たかもしれません。
その一つとして、今度の礼拝メッセージの箇所である、使徒の働き19章1?7節について、今、いろいろ考えています。これは、新約的な「救い」のための聖霊の受容なのか、それとも、旧約からの続きで、ある種の「業・働き」のための聖霊の受容なのか、さらにこれらのどちらも含むものなのか。
また、1節の「何人かの弟子たち」の意味ですが、「何人かの」でなく、「ある」と訳し、「弟子たち」は、クリスチャン(イエスキリストの弟子)ではなく、バプテスマのヨハネの弟子を指している可能性についても考えるようになりました。
この個所については、何十年も前に、この「弟子たち」はキリストの弟子たちのことであるという結論を出してから、ずっとそのままでした。
しかし、言語的に、冠詞がなく「ある」という不特定な意味をもつ形容詞が、「弟子たち」を修飾していると考えますと、この弟子たちは、イエス様の弟子としないで、3節から、バプテスマのヨハネの弟子たちを意味している可能性も出て来ます。このように考えますと、文脈的に、2節以下の文をよりスムースに理解できるように思います。
この解釈が正しいとしますと、この個所の出来事は、10章にあるカイザリアの出来事に非常に類似していることになります。
そしてこの個所も、イエス様を信じて、聖霊をいただいて、信仰生活、また御霊に導かれた奉仕が始まることを教えていることになります。
確信をもって歩んでいくことは必要だし、よいと思いますが、時には、自分の長年の聖書解釈を変えなければならない場合も出て来ることに気づきました。
心を開いて柔らかく、これからもみ言葉と御霊によって教えられながら、変えられていきたいと願っています。
今週も、御子を信じて救われ、御霊に導かれていくという信仰生活は変わりませんね。感謝いたします。ハレルヤ! | 2022-06-17 20:19:39[投稿番号:266] |
風邪を引いてしまって… | 2コリント1章3‐4節 | 最後に風邪を引いたのはいつだったでしょうか。思い出せません。少なくとも、3年以上前のことであることは確かです。
今週は、風邪を引いてしまい、全ての予定を断念し、ひたすら休んでおりました。いつ回復し、土日の奉仕に間に合うだろうかという心配もありました。
しかし全ての予定を諦めた瞬間から、短い言葉で(言葉にならない時も)、思いつくたびに、神様とお話しし、お祈りをすることができるようになりました。本当に久しぶりの感じでした。
こんなに神様とお話しながら、交わりたかったはずでしたのに、普段はできなかったことが、突然できるようになったのです!
もちろん、元気な妻がいてくれたおかげで、私は、衣食住をほとんど考えずに休むことに専念し、近所のクリニックにも行くことができました。
きょうは、ほとんど平熱に戻り、礼拝説教の準備も進めることができました。ブログも書くことができました。それから、10日締切の「舟の右側」の原稿も送ることができます(この後で)。
2コリント1章3節と4節のみことばをおもいだしました。
「私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」
私も、御父と御子と御霊の慰めで、少しでもそのような人になれますように。ハレルヤ! | 2022-06-10 20:08:03[投稿番号:265] |
もう一度、献身について | 献身と聖霊 | 最近、あらためて「(再)献身」について教えられた。いつの間にか、自分は献身しているから大丈夫と、「献身」をそのままにしていたようだ。
今週、講壇交換があって、創世記12章1-5節から、ある教会で「75歳で献身」というテーマでメッセージをさせていただいた。説教のテーマが「献身」なので、ただ語るだけでなく、説教者である自分自身も本当に献身しているか、あらためて自分の献身を点検してみた。
お祈りをしながら、気づいたことがいろいろ出て来た。何よりも、自分は「献身している」と思っていても、本来の献身とその恵みから、ズレていることがよくあるということだ。本当に、「献身」は、大切なので、繰り返し、繰り返し、点検する必要がある。すぐにズレとしまい、間違いを犯すからだ。自分自身がそうであった!
献身からズレているのに、自分は献身していると思い込んでいることほど、悲しい、残念な、愚かなことはないと言っていい。
また、この機会に、いろいろ「献身」について考えてみた。確かに、献身は目標ではなく、最低ラインだということだ。ここから、初めてクリスチャンとしての歩みが始まる。お祈りするにしても、礼拝するにしても、聖書を読むにしても、他の兄姉と交わるにしても、献身は目標ではなく、それらの土台、出発点であると言える。それでこそ、真に祈れる、礼拝できる、交わることができる道である。なぜなら、まず何よりも、三位一体の神様ご自身が、私達のために愛の献身をしていてくださるからである!
献身は出発点であるとすると、この後、どのように私たちは歩んでいったらよいか。一つは、献身から献身である。最後まで、続けていく事。特に、点検は不可欠になる。
そして、さらに、みことばとみたまによって、また兄姉との交わりの中で、自分の献身が点検され、チェックされ、変えられて行く必要がある。献身なしに、クリスチャン成長はない!
また、献身と「聖霊に満たされて歩むこと」は一つである。献身なしに、聖霊に満たされることはない。献身があって、初めて聖霊に満たされることが始まるだろう。
ただし、自分が献身していると思っていても、じつはそうではない場合もある。つまり、ズレている自分が、真に見えていないということもある。この場合は、やはり、みことばと御霊によって、また、兄姉との交わりの中で、点検されて行く必要がある。
自分自身の献身を点検し、悔い改めて祈った時、重荷は消え、「自分が自分が」という思いは静まり、神様との交わりの「清々しさ」が戻って来たように感じた。
また、同じ失敗をしそうであるが、それでもまた、献身を繰り返し点検しながら、御霊に満たされて、歩んでいきたいと願っている。ハレルヤ! | 2022-06-03 18:13:40[投稿番号:264] |
つづけて「旧約聖書のご聖霊」について | …旧約のみことば一つひとつに注目しながら | つづけて、旧約聖書のご聖霊について、最近教えられていることなどに触れてみたいと思います。
前にも、ブログで書きましたように、旧約の聖霊については、一回位にまとめて、すぐに新約に移ろうと考えていました。しかし、一つひとつ調べていきますと、本当に新約や今の私たちの歩みにも関係してくるようなみことばの教えに出会います。そんなことで、もうしばらくじっくりと、旧約の聖霊について学んでいきたいと思っています。
ある程度までですが、「旧約時代の聖霊の内住」の可能性について考えがまとまって来ましたので、今は、旧約のリーダーたちに注がれた聖霊とその役割について考えています。モーセやヨシュアたちもいれば、士師たち、サウル王、ダビデ王などもいます。
リーダーシップの御霊を受ければ、そのリーダーは失敗しないというわけではありません。モーセも、サウルも、ダビデも、いろいろな失敗もしています。しかし、神様は、大切な神の民、契約の民を、荒野やカナンの地で守り、導くために、相応しいリーダーたちを立て、さらに彼らに御霊を注がれたのです。ここにも、神様の愛のケアのみ心を知ることができます。
私が、今注目しているのはヨシュアです。民数記27章18節で、任命される前の彼のことについて、「神の霊が宿っている人…彼の内に神の霊がいる人」と書かれているのですが、その後で、もう一度、申命記の最後、34章9節で、「ヨシュアは知恵の霊に満たされていた。モーセがかつて彼に手を置いたから」とあるからです。これは、民数記27章で彼が任命された時のことを指していると思います。
つまり、任命される前に、すでに聖霊を受けていたと考えられるヨシュアですが、また、任命されたときに、リーダーとしての知恵の御霊を受けたことになります。ここで、面白いと思ったことは、二重に、また必要なら、何重(何回)でも(?)、聖霊を受けることがありうると思ったからです。新約の聖霊について考えている時にも、同じようなことを発見しました。
旧約にも、このようなこと(恵み、現象)が起こったことを知り(私の読み方が間違っていなければ)、嬉しくなりました。神様は、必要があれば、このようなこともして下さるのです。また、ヨシュアの場合、民数記27章以前に受けていた聖霊の役割と27章の最後に、任命される時に受けた聖霊の役割は、少し異なっていたと考えてもよいかもしれません。後者は、先に触れましたように、リーダーとして奉仕をするための御霊で、前者は、もっと広い意味で、「御霊の人」として歩むための聖霊に与っていたかもしれません。
とにかく、旧約のみことばを丁寧に読んでいきますと、あらためて、ご聖霊について考えさせられ、発見させられることも出て来ます。これらのことは、それこそ、ご聖霊ご自身のことなので、ご聖霊がこの学びを助け、導いてくださるように願っています。
私も、牧師として、ある意味でリーダーとされていると言えます。この奉仕をつづけ、全うできるように、御霊によって新たに(再度)助けていただきたいと思います。ハレルヤ! | 2022-05-27 18:20:26[投稿番号:263] |
オンギジャンイのことを中心に | 教会の活動も少しずつ… | 今度の日曜日(22日)、夜7時からオンギジャンイ(韓国の賛美チーム)のライブコンサートがあります。ぜひ、皆さん、ユーチューブでお聴きください。https://youtu.be/_3-kdXcUjQM
あらためて、オンギジャンイとの関係について振り返ってみました。出発点は、カナダ時代に牧会をしていた時、教会に韓国人や中国人、台湾人など兄姉たちも来ておられ、よい交わりがあったことです。そのことから、少しずつ、アジアの諸教会について関心をもつようになり、帰国後も、その思いは変わりませんでした。そんな時、岩倉教会時代ですが、韓国の賛美チーム「オンギジャンイ」のことを聞き、私たちの教会にもお招きしました。とても素晴らしい賛美と証しをしてくださいました。
それから、オンギジャンイの東海地区委員会にも入れていただき、考えてみると、もう20年以上になりました。稲沢教会にも来ていただき、賛美宣教の働きをしていただきました。
コロナの感染問題は、少しずつ落ち着いて来たのでしょうか(?)、今後のオンギジャンイの活動について考えるようになりました。まずは、ユーチューブを使ってのライブコンサートですが、日本全国に向けてできるようになりました。いつ、対面の形でやれるようになるか分かりませんが、オンギジャンイをご存じでなければ、ぜひ、この日曜日(22日)のコンサートをお聴きください。
今も、車の運転中は、たいてい、オンギジャンイの賛美を聴いています。
「ゼロコロナ」ではありませんが、「ウィズコロナ」で教会の活動について少しずつ考えるようになり、一歩を踏み出すことになりました。役員全員で考えました。もちろん気をつけながらですが、交わり、小グループ、賛美チーム、伝道チームを始めつつあります。2年半前まで、教会に来て下さっていた方々にも声をかけてみたいと思います。
まだまだ、周りで陽性者が出ていますので、本当に注意が必要ですね。これからも、祈り、考え、少しずつ行動していきたいと思います。
6月5日はペンテコステですね。今回は、御子と御霊の関係から教えられたいと願っています。私たちの信仰生活には、御子と御霊の両方が共にいてくださり、それぞれが、無くてはならない導きと助けを与えていて下さることを感謝いたします。ハレルヤ! | 2022-05-20 18:04:25[投稿番号:262] |
きょうは孫の誕生日!ハレルヤ! | 旧約時代の信仰者と聖霊の内住?私の願い? | きょうは、孫の誕生日!…いつも、ニコニコしている子なので、本当に「慰めの子(バルナバ?)」です。確かに、自分の子を見る目と、孫を見る目とは違いますね。時々、来てくれるので、それだけで感謝、嬉しいです!
最近は、ずっと旧約時代のご聖霊のことばかり、やっています。今でも、いろいろ発見し教えられることがあります。今回は、締切日に、原稿(旧約の聖霊:パート3)を送ることができ、ホットしています。
そして、いろいろ調べている時に、旧約時代の聖霊の働きの一つとして、旧約時代の信者に「聖霊の内住」はあったかどうか、色々議論されていることが分かりました。今、その論文などを読んでいます。これまでに4本読みましたので、あと1?2本読んでから、自分なりの見解をまとめたいと思います。これも、次回の「ちょうどいいかげんな聖霊神学」の原稿内容になると思います。また、この問題は、旧約時代の救済論(救いとは何か)とも絡んできます。ぜひ、皆さん、『舟の右側』を読んでください。
旧約時代のご聖霊の働きを考えますと、いろいろ分からないことが出て来ますね。その一つ一つと向き合い、整理していきたいと思います。
それから、今、少しずつ祈り初めていることがあります。来年度から、「私塾:ワーダン・スピリット」を開講すべきかどうか、考えています。すべてズームですが、時々、「オフ会」のようなものをします。受講料はもちろん、無料です。これまで、神学校で担当させていただいたものを中心にクラスを開講できればと思っています。「聖霊論、ギリシャ語1,2と新約釈義、ヘブル語1,2と旧約釈義、終末論、牧会学、小預言書、霊性」などです。他に、教会論、説教学、解釈学、聖書の各書研究も可能性としてあります。信徒のためのクラスもありますし、牧師の継続教育というクラスもあります。
まだ、どうなるか分かりませんが、まず神様のみ心、導きを求めています。まだお約束はできませんし、自分の健康、体力的なことなども考える必要があります。
皆さんのほうで、なにか考えておられること、願っておられることがありましたら、教えてください。ワーダン・スピリットの会も、ソロソロまとめていかなければならないと感じています。
神様の御国に入れていただく前に、これまで沢山の方々の愛の献身によって助けられ、導かれて来ましたので、感謝をもってお返しをしたいと思っています。それが、最初に私を召して下さった神様への最後の応答ではないかと考えています。「人間を捕る漁師にしよう」と言われた神様から、私は、「直接の漁師」(伝道者)というよりも、たぶん、賜物として、直接の漁師さんを励まし、お支えする働きに召されているかもしれないなあと思っております。
何年続けられるか全く分かりません。1年間か、5年間か分かりませんが、最後に、少しでもそのような働きができましたら、大感謝です。み名を賛美いたします。ハレルヤ! | 2022-05-14 07:24:26[投稿番号:261] |
私の花壇にも春が来ました! | …つづけて、旧約時代の聖霊の臨在と働き | 私は花壇を三つ持っています。室内(メダカの上)、ベランダ、玄関の両サイドにある小さな空地です。ベランダのものは、冬が近くなりますと室内に移動します。
さて、今、室内には、ゴムの木、ガジュマル、ジャカランタ、そしてパイン(の木)が三本あります。見ているだけで、少し(亜)熱帯(沖縄?)気分になれます。だからいいんです。
玄関の両サイドの空き地には、台湾レンギョウ、ハイビスカス、ブーゲンビリアがあります。今年初めて、冬の寒さ除けのカバーなしで、冬が越せるかどうか、試してみました。
なんと、台湾レンギョウはもちろん、ハイビスカスの2本(黄色とピンク?)からも芽が出てきて、最近、あきらめかけていましたブーゲンビリア2本からも、なんと芽が出てきているのを発見しました(あと2本ありますので、これも要観察です)。
本当に嬉しかったです。大喜びです。この夏は、ブーゲンビリアも、ハイビスカスも、台湾レンギョウも、沢山の花を咲かせてくれるでしょう!
今も、旧約時代のご聖霊の臨在と働きについて、聖書を読み直し、学び、調べ、まとめています。以前、ブログで書きましたように、
はじめは、簡単に一回でまとめて、その原稿を『舟の右側』に送るつもりでした。しかし、いろいろ調べたり、旧約聖書を読み直していくうちに、旧約時代の聖霊のお働きも簡単に扱えないことが分かって来ました。
現在、旧約時代に、個々の信者のために聖霊の再生や内住があったかどうかについて、いくつかの論文を読みながら、考えているところです。いろいろな立場の専門家の見解がある中で、「ちょうどいいかげん」なところを、求めていきたいとねがっております。
いろいろ学び、調べていくうちに、ご聖霊の臨在と働きが、旧約時代にも豊かにあったことを、ますます感じるようになりました。もちろん、今もそうです!感謝いたします。ハレルヤ! | 2022-05-05 19:59:26[投稿番号:260] |
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