「聖霊」のない箇所をどのように聖霊的に読むか
私塾は2週間目に迎えました!
このところ、ずっと「ヨハネの手紙」を読んで来ました。それほど、「御霊(聖霊)」の言及は多いわけではありませんが、聖霊論的に読んでみました。2章の「注ぎの油」も、3章の「神の種」も聖霊、または聖霊に関係する言葉でしょう。また、御子と御霊は一つですが、その御子と密接な関係がある「真理、いのち」とも、御霊は深くかかわっておられます。

ヨハネの福音書と比較して、ヨハネの福音書は、「御霊が与えられること」を予告していますが、ヨハネの手紙では、御霊はすでに与えられたお方として教えられています(4:13)。

最後に、ヨハネの手紙で最も教えられたことの一つは、有名な言葉である5章14節は、その前の13節と「ギリシャ語、カイ(そして)」で繋がっていることです。問題は、どういう意味で繋がっているかです。

「永遠の命」を持っている者は、「神のみこころ」が分かるということではないでしょうか。つまり、そういう交わりにあるということが「永遠のいのち」であると言えます。これは、大きな恵みを表していますね。感謝します!

さて、最近の様子をいくつかお分かちさせてください。

一つは、教会のことです。ほとんど(?)コロナ感染問題が終わり、教会としての新たな歩みが始まった感じです。3年間は、本当に長かったです。奉仕グループの活動が始まり、礼拝直後のスモールグループも始まりました。役員会内での学び会も始まりました。牧師訪問も始めました。やっと牧会が始まった感じで、ほっとしています。感謝しています。

もう一つは、私塾の2週目が終わりました。少し、各クラスと参加していてくださる皆さんに慣れてきた感じです。聖霊論のクラスは一番参加者が多くて、10名になりました。感謝いたします。

ゴードン・フィーの例の本『パウロの聖霊論…神の力ある臨在』の翻訳(要約、抄訳)がやっと終わりました。2004年に始めましたので、なんと19年かかったことになります。900頁の本なので、お許しください。途中、他の奉仕が重なり、止めていた時期もありましたし、翻訳そのものが難しすぎて止めていた時期もありました。しかし、今読んでも、新しく教えられることが出てきます。本当に、フィー先生に感謝を捧げたいと思います。今は、部分的に調整していますが、全てが完成しましたら、皆さんにお知らせいたします。多分、会員資料室に入ると思います。

「若手?牧師会」の案内を、私塾の案内に入れましたので、関心のある方はお読みくださり、ご参加ください。なお、きょう、『舟の右側』の編集者に原稿を送りました。やっと、新約(福音書→マルコ書)の聖霊が始まります。感謝いたします。ハレルヤ!
2023-04-14 20:09:49[投稿番号:315]

敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。
私塾が始まりました!
皆さん、お祈りを感謝いたします。
今週、ついに「私塾」が始まりました。延べにして、20人以上の皆さんが参加してくださいました。クラスの持って行き方について、まだまだ、変えていくべきところがあることが分かりました。とにかく、始めることができて、ホットしています。感謝です!

以前、1テモテ4章7節の「…敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい」の意味について触れたことがありました。この意味は何でしょうか。また、きょうのディボーションで、「…キリストが清い方であるように、自分を清くします」(1ヨハネ3:3)とありました。自分を清くするとはどういうことでしょう。

かなり能動的に聞こえますが、どうすることが求められているのでしょうか。1ヨハネ3章を更に読んで行くと、9節に「神の種が留まっている」とあります。「神の種」の意味については議論がありますが、おそらく、ご聖霊を指している可能性が大きいです(2:20の「注ぎの油も」)。もしご聖霊を指しているなら、「清くする」も聖霊的に考えてよいのではないかと考えるようになりました。

ついでに(?)、先ほどの1テモテ4:7の「敬虔」も、聖霊の実の一つと考えますと、これも、単なる能動的な勧めではなく、「聖霊に導かれて、聖霊に応答して」という意味になるのではないかと考えます。

何でも、かんでも、聖霊的に考えすぎているかもしれませんが、かと言って、聖霊を抜きにして、信仰生活、信仰成長はないと思います…。どうでしょうか。

「若手?牧師会」の案内も掲載したいと思います。よろしくお願いします。また、ゴードン・フィーの本の翻訳も、あとわずかとなり、先が見えてきました。翻訳にはエンドレスなところがありますので、そろそろ、手離そうと考えていまず。本当に、たくさんの時間がかかりました。少しでも、用いられますように。ハレルヤ!
2023-04-07 18:16:42[投稿番号:314]

マルコの福音書の聖霊から
いよいよ私塾が始まります。感謝します!
『舟の右側』の連載のために、やっと、新約聖書における聖霊についての原稿を書き始めることができました。

マルコの福音書の聖霊に関しては、頻度も少なく、内容的にも、他の福音書とほとんど同じで、ほとんど特徴がないように見えます。マルコは、聖霊に関心がないのかなと思ってしまいそうです。実際に、マルコは、イエス様の生涯を(省エネで?)描く目的があったかもしれませんので、聖霊についての言及は限定的であるのは当然であるとも言えるでしょう。

しかし、マルコの福音書を細かく読んでいきますと、他の福音書にない特徴があるのが分かります。微妙にギリシャ語が違うし、表現が異なっている箇所もあります。文脈が違う箇所もあります。これは、使用した資料が違ったからでしょうか。マルコの意図(強調点、神学)でしょうか。広い意味では、マルコの特徴、神学とも言えます。

例えば、1章12節で、御子が誘惑の荒野に行かれる記事がありますが、ここでの主語は、御霊で、動詞には、「エクバロウー」が使われています。この動詞は、直訳すると「外に投げる(投げ出す)」ということで、かなり動的で強い意味が込められているように思います。御子が悪霊を追い出されるときにも使用されている激しい動詞です。他の福音書にある「荒野の誘惑」の書き出しとずいぶん違うのです。

私は、ここからも、御霊が、御子をリードしておられる姿をみることができると思っています。福音書において、他にもあります。ここで言いたいことは、御子の生涯において、御霊は、御子を導いておられたということです。

このことは、案外知られていないことではないでしょうか。人としてのみ子を御霊は導いておられたのです。この点を大切にしながら、これからも福音書を読んでいきたいと思います。

この同じ御霊が、今は、私達に内住して、私達を導いておられるのです。ハレルヤ!

私塾の最終的な情報を更新しましたので、お読みください。ここまで来ました。どうぞ、お覚えておいのりください。すべてにおいて、神様のみ名が崇められますように。
2023-03-31 18:35:30[投稿番号:313]

二つの箇所の「成熟」について
最近していること、フィーの本、私塾
 前回の「敬虔」についてのつづきです。テモテ書における「敬虔」の意味について、つづけて考えています。

一つは、6章11節に注目しています。こうあります。「 しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。」この箇所を読みながら、内容的にも、これは、「御霊の実」と呼んでもいいのではないかと考えました。ガラテヤ5章22-23節は、「御霊の実」としてよく知られていますが、これだけに限定する必要はありません。また、実際に、「実」の内容として、両者は類似しています。私の結論としては、最後の「追い求めなさい」は、御霊に従い、御霊に満たされて歩んでいくことを表しているのではないか、ということです。

もう一つの箇所は、以前からもずっと考えていたところですが、ローマ13章14節です。この箇所も、「成熟」に関係した教えになると思います。こうあります。「主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。」この箇所の意味は何でしょうか。ガラテヤ3章27節では、「(私訳)キリストの中にバプティゾーされたあなたがたは皆、キリストを着たのです」とあります。つまり、ガラテヤ書では、すでにキリストと一つで、キリストを着ているとあるのに、どうして、ローマ13章では、「キリストを着なさい」と言っているのでしょうか。

一つの可能性は、ローマ書13章の文脈で、「武具を身に着けようではありませんか」とありますので、これに倣って、終末的な生き方、成熟にふさわしい生き方を求めて、(もう一度)、強調して、意識的に自覚的に、キリストを着ることを教えていると言えるかもしれません。信仰をもって、自分がキリストに属しているものであることを確認したり、キリストに対する献身を新しくする意味がここにあるのではないかと考えます。

前にも、ブログで触れましたように、広い意味での「救済論」において、御子と御霊がどのように関わるのか知りたくて、学びをつづけていますが、今回の二つの箇所も、注目したい箇所になりました。

成熟を求めて、御子と御霊と共に歩ませていただきたいと思います。

現在、少しずつ続けているゴードン・フィーの本の翻訳も、あともう少しになりました。3月末を目標にしたいのですが、少し過ぎるかもしれません。

私塾に関して、最も新しいデータとしては、火曜日午前(聖書解釈?、3人)、火曜日午後(終末論、4人)、火曜日夜(霊性、7人)、木曜日夜(聖霊論、8人)になりました。それぞれ、クラスが始まる一週間前に、クラス資料を送らせていただく予定です。

「若手?牧師会」につきましては、3月末に詳細を発表したいと思います。

皆さん、お祈りを感謝いたします。ハレルヤ!
2023-03-24 20:37:51[投稿番号:312]

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2023-03-24 19:59:25[投稿番号:311]

私塾の申し込み状況について
ズームを使っての「新しい牧師会」のご案内
 今朝、ディボーションで読んだ箇所は、1テモテ4章ですが、気になった御言葉は7節の「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」です。その後、ずっと、この「敬虔」の意味について考えていましたが、正確な意味は分からないままです。いくつか、注解書を調べましたが、答えになるものはありませんでした。英語で言えば、「Godliness」、「イエス様のように」と言ってもいいでしょう。ただ、パウロが、ここで、テモテに、特にどんなことを語ろうとしていたのかはまだ不明です。1テモテ書全体で教えられていることが、「敬虔」でしょうか。とにかく、これからも考え、味わい、求めていきたいと思います。

先週の礼拝メッセージでも触れましたが、ある人によると、「人は皆、一日に300から17000の決断に直面する」そうです。
私は、最近、このような決断のときに(これを意識していないといけませんが)、神様が喜んでくださることを選ぶことにしようと決めました。聖霊に満たされ、余裕がある時は、よいのですが、何かで焦ったりしていると、間違った決断、自己中心の決断をしてしまいます。トホホホ!…内住の御霊を意識し、満たされ、歩んでいないといけません。。。

さて、次に、私塾申し込みの締め切り前日になりましたので、現在の「入塾希望者」の状況をお知らせしたいと思います。

終末論のクラスは4人、霊性のクラスは6人、聖霊論のクラスは7人です。今後、多少変わるかもしれませんが、このように入塾希望者が与えられていることを感謝いたします。また、ドンドン、責任を感じています。

次に、「私塾」の一環として、月曜日午前、月一回の牧師のための「若手牧師会」(1時間半)を企画・準備をしています。交わり、励まし、学び、分かち合いなど、毎回、今必要を感じているテーマ(神学的、聖書的、社会的、牧会的、伝道的、個人的)を出し合って、一回一テーマで、会を進めていきたいと思っています。詳しいことは、来週、HPに載せたいと思います。関心のあられる方は、ぜひ、メールでお知らせください。

また、是非皆さん、お祈りください。お祈りの助けが必要です。よろしくお願いいたします。ハレルヤ!
2023-03-17 18:40:34[投稿番号:310]

今、考えていること
私塾の予定ができつつあります。
 今、いろいろ考えています。朝の「お祈り散歩」の中でも考えています。ご聖霊を強調することの意義は何か。ご聖霊を強調すると、イエス様のことをいくらか軽んじるようになるのか。本来なら、聖霊を強調すればするほど、御父も御子もさらに強調するようになるはずです。御子と御霊は競争関係にはないはずです。

聖書を読みながら、まだ自分で気づいていない重要な箇所があるかもしれない。特に、ご聖霊について隠された教えはないか考えながら、学びつづけています。

最近はずっとパウロ書簡を読んでいますが、ピリピ、コロサイなどは、特にご聖霊についての教えが少ない書です。しかし、表に出て来なくても、背後に聖霊を感じられる字句はあります。それは、パウロの神学において、その救済論(広い意味で)、終末論、教会論、宣教論などにおいて、ご聖霊の臨在と働きは不可欠だからです。

したがって、聖霊に関する直接的な字句がなくても、その背後におられる聖霊ご自身を考えてもよいのではないかと考えるようになっています。

例えば、ピリピ書にある「喜びなさい」という命令も、御子と御霊の事を考えないでは、真に理解することも実践することもできません。
今週の礼拝において、ローマ12章1?2節からメッセージをさせていただきました。ここに、「聖霊」という言葉はありません。しかし、2節の「心の刷新(一新)」について考えるとき、これは、単なる自分だけの力でできるものではなく、内住の聖霊なしにはありえないという結論になりました。

とにかく、あらためて聖書を読み直しております。また、聖書の教えを自分自身に適用し、本当に、自分自身の歩みにおいて、この教えは実践できるものかどうか、確認しようとしているところです。

ご聖霊についての教えの素晴らしさは、すぐに、自分自身とその歩みに関係してくるということです。適用しなければならなくなるということです。

このことについて、さらにいろいろ書かせていただきたいことがありますが、きょうはここまでにしたいと思います。お読みくださり、感謝いたします。ハレルヤ!

私塾の新しい情報を入れましたので、「私塾・ワーダン・スピリット」をお読みください。
2023-03-10 18:34:26[投稿番号:309]

新約の聖霊について:その1
私塾のクラスが決まりつつあります!
 中間時代の聖霊から、新約(福音書)の聖霊について考えるようになりました。福音書の内容は、ペンテコステ前ですが、聖書記者と読者は、ペンテコステ後であることを忘れてはいけないと思います。

このことを覚えて、福音書を読んでいきますと、聖書で言われていることが、分かり易くなります。例えば、マタイ10章20節、ルカ11章13節、ヨハネ7章37-39節などは特にそうです。

また、ヨハネの福音書の中心テーマは、「永遠のいのち」ですが、最近、ヨハネの福音書を読みながら、この中心テーマとご聖霊の関係が非常に密接であることに気づきました。

気づくのが遅いと言われそうですが、本当にこのことをより深く感じています。このいのちを与えるために(つまり、救いのために)、ご聖霊は、背後で確かに働いておられます(ニコデモとの会話)。また、このいのちのとこしえの祝福のためにも、ご聖霊は働いておられます(7章)。さらに、6章63節で、御子はいわれました。「いのちを与えるのは聖霊である。」
御子を信じると永遠のいのちを受けますが、その時、いのちを私達に与えてくださるのは聖霊です。こんな風に言えると思います。

これからも、永遠のいのちと御霊、御子についてさらに、考え、教えられていきたいと願っています。永遠のいのちについては、特に関心があります。このいのちと、御子と御霊はどのようにかかわっておられるのでしょうか。まだまだ、聖書を学び、教えられていきたいと願っています。

私塾のクラスが決まりつつあります。たぶん、来週にはお知らせできると思います。お祈りを感謝いたします。これからも、よろしくお願いいたします。ハレルヤ!
2023-03-03 21:17:48[投稿番号:308]

教会の新年度に向けて
・・・二つの内住の御霊を大切にする
 今、新年度(総会)に向けて、いろいろ考え、準備しています。教団の会計年度は1月からですが、人事面では4月、各教会の総会においては、3月からと言えるでしょう。稲沢教会も26日に総会を開く予定です。

稲沢教会に赴任して2年が終わろうとしていた時に、「コロナ感染問題」が始まり、さらに3年が経ち、やっといろいろな面で、これからの教会の歩みについて、そのための牧会について考えられるようになりました。

どこから手をつけてよいか分からない状態でしたが、まず、次の二つのことを大切にしていこうと考え始めています。第一のみことばは、1コリント3章16節で、第二のみことばは、1コリント6章19-20節です。どちらもよく似ていて、聖霊の内住のゆえに、私たちが神の宮とされているということです。ただし、違うことは、前者は、教会について、後者は個人について、語っているということです。

一人ひとりに聖霊が内住しておられて、神の宮とされていることをより強く意識していましたが、教会も同じように、聖霊の内住のゆえに、神の宮とされていることについてより深く、より強く考えるようになりました。

本気で、このことを信じ、この事に立って牧会し、教会を建て上げていくということは、何を意味するのでしょうか。礼拝において、教会の交わりの中で、教会の活動の中で、聖霊の臨在を意識しながら、歩んでいくことはどういうことでしょうか。今、考えています。

兄弟姉妹一人ひとりのその向こうに、ご聖霊の臨在があることを意識することかもしれません。共に祈るとき、賛美するとき、そこにキリストと御霊がおられることをもっと意識し、認めることかもしれません。

すぐによい答えは出てきませんが、?コリント3章16節をギリシャ語で覚えましたので(?)、時々、思い浮かべながら、黙想していきたいと思います。

よい答えが与えられますように。ハレルヤ!
2023-02-24 18:03:13[投稿番号:307]