神様との交わりについて想うこと | | 三つの一つの不思議で豊かな神様 | 明日、予定がありますので、一日早く書くことにしました。
最近、ずっと考え、これが、信仰生活の秘訣(極意?)ではないかと思うことがあります。それは、一言で言えば、「神様との交わり」です。
私たちは、イエス様を信じて、「永遠の命」を受け、「神様の子ども」として歩み出しました。「永遠の命」は、クリスチャン生活において、実際には「神様との交わり」として現れるでしょう。「神の子ども」としての歩みの核(泉)になるものは、神様との交わり(また、同時に、兄姉との交わり)です。
神様との交わりは、毎日の生活において、私たちの力、守り、助け、導き、喜び、励まし、導きです。神様を愛し、隣人を愛して歩むための愛の力の泉になります。嬉しい時、悲しい時、苦しい時の居場所です。恐れを感じる時、心配な時、感謝の時、いずれの時も、私たちがおるべき「場」であると言えます。
こここそ、礼拝の場、再献身の場、賛美の場、正直に叫び祈る場、重荷を全て下す場です。私たち自身が変えられていく場、点検し、点検され、吟味し、吟味される場です。悔い改めて、再献身する場、再出発する場です。
ここでこそ、本当の決断ができます。また、しずまり、ずっと待つ場でもあります。ある意味で、孤独ですが、孤独ではありません。
自由におしゃべりし、とりなし祈る場です。御言葉に従い、応答していく場です。ここでこそ、自由でありながら、力を受け、み言葉に従う思い、力や喜びにあずかる場です。…書いたらキリはないでしょう。
とにかく、神秘主義ではなく、本当に、御霊の内住の恵みによって神の子どもとされ、「アバ父よ」と叫び、祈り、交わる恵みをいただく「泉」です。
三位一体的に考えます。私たちは、御子と御霊を通して神の子どもとされましたので、無限、絶対、永遠、完全、聖なる神様に向かって、「アバ父よ」と叫び、祈り、交わることができます。
御子について、聖書は、ナラティブを通して、人として歩まれた御子とその生涯における姿を私たちに物語っています。ですから、御子は分かり易く、近づきやすく、イメージしやすいお方なので、近づき、交わり易いお方であるとも言えます。
また、ナラティブだけでなく、他の、御子に関する様々な命題的な教えや命令に関しても、すでにナラティブで造られたイメージがありますので、応答しやすいものになっていると思います。
では、聖霊はどうでしょうか。御子と違って、御霊については、その人格的情報は限られており、いざ、御霊と交わろうと思っても難しいのではないでしょうか。辛うじて、ガラテヤ書、ローマ書、使徒の働きやヨハネ書などに、より詳しい、聖霊についての説明があります。ですから、これらを覚え、これらを頼りにして、ある程度まで交わることができるかもしれません。
しかし、御父や御子と同じようにはいかないでしょう。御霊は、むしろ、私たちと御父、私たちと御子との交わりを内側から助け、導く働きをしておられるからです。無理して、御霊と交わろうとする必要はないかもしれません。むしろ、聖霊の様々な働き(多くは内的働き)について、聖書は教えているので、それを信じて応答していくことが、聖霊との交わりと考えてもいいのかもしれません。
「神様との交わり」について、まだ分からないことがいろいろありますが、聖書をもとにしながら、さらに考えていきたいと思っています。
今、「信仰生活の秘訣は何ですか」、と聞かれたら、私は、毎日、神様と交わり、歩むこと、と答えるでしょう。
きょうも、明日も、内住の聖霊を意識しながら、御霊に助けていただき、導かれて、神様との交わりを味わっていきたいと思います。ハレルヤ! | | 2023-07-20 21:11:27[投稿番号:329] |
パウロは「聖霊の内住」だけか? | | ヨハネ(手紙)の「相互内住」との比較? | 今、ヨハネの手紙における2種類の「内住」とパウロの「聖霊の内住」について比較しながら、いろいろ考えています。
ヨハネの2種類の内住とは、聖霊だけでなく、御父と御子が同時に内住されることが語られていることと、相互内住と言えるものが繰り返し語られていることです。
きょうは、パウロはどれくらい「聖霊の内住」を語っているのか、確認していく一環として、「御子(御父)の内住」について少し考えてみたいと思います。
例えば、?ローマ8:10では、「キリストがあなたがたのうちにおられるなら」と言っています。他に、?ガラテヤ2:20に「キリストが私のうちに生きておられる」、?エペソ3:17「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住ませてくださいますように」、?コロサイ1:27「あなたがたの中におられるキリスト」などがあります。
まず言えることがあります。たとえ、聖霊が内住しておられるとしても、三位「一体」的に言うならば、同時に、御父も御子も、内住しておられると言っても誤りではないということです。
では、上記の節における「御子が私たちの内におられる」の意味は何でしょうか。
?について、私は、「キリストが」は、「キリスト(の御霊)が」の省略形ではないかと考えます。実際に、9節から11節までにおいて、圧倒的に「御霊の内住」が繰り返されているからです。また、ここは、ただ表現として「神の御霊」→「キリストの御霊」→「キリスト」→「イエスを死者の中からよみがえらされた方(御父)の御霊」→「あなたがたのうちに住んでおられるご自分(御父)の御霊」のように、パウロは、ここで、敢えて多様に表現を駆使しながら、聖霊のことを語っているとも言えるでしょう。
?について、ここは、客観的に「キリストの内住」を語っている箇所ではなく、比喩的に、霊的に表現している箇所です。つまり、20節の初めに「もはや私はいきているのではなく」とあるように、パウロは、比喩的に、「自分は死んでいる」と言っています。その流れで、「キリストは、(死んでいる)私の内で生きている」と言っているのです。パウロ自身は死に、キリストが生きているということです。これは、律法との関係において、根源的に、生死が語られています。
?ここは、三位一体的な祈りがささげられているところです。その中で、17節において、「信仰によって(通して)」、キリストが心に住まれるようにという祈りがささげられています。ここは、第一に、今すでに「キリストの内住」があるといっているのではありません。これを求めています。第二に、これは、「信仰による」もの、つまり、信仰の働きをとおして、キリストが心に住まれるようにという祈りであり、すでに事実として、聖霊が内住しておられることと矛盾することではありません。
?ここは、ギリシャ語をそのまま訳すと「それは、あなたがたにある(内にある)キリストである」となります。ここは、非常に多様に解釈できる箇所で、「キリストの内住」のことを言っているのではなく、例えば、「あなたがたが信じているキリスト」「あなたがたの信仰の基であるキリスト」などのように、キリストと「あなた方」との関係の深さを教えていると言えます。
纏めたいと思います。三位「一体」的に言えば、キリストが私たちの心に「内住」しておられると言っても、少しも間違っていないと言えます。ただ、上記で挙げた4つの箇所では、特別に「キリストの内住」を教えているとまでは言えないのではないかと考えますが、どうでしょうか。
たぶん、次回は、ヨハネ福音書や手紙において、内住、またはそれに近い表現などを見て、さらに、聖霊の内住について考えたいと思います。ここまで、お読みくださり、感謝いたします。
聖霊は、私達の心に内住しておられます。また、この聖霊の内住において(通して)、私達の心に御父と御子も内住しておられると言えます。
ハレルヤ! | | 2023-07-14 20:41:13[投稿番号:328] |
いのちの御霊に仕える務め:2コリント3章前半 | | 夏学期が始まりました! | 夏学期の「聖霊論2」の準備をしながら、教えられたことがあります。それは、2コリント3章前半に書かれていることです。一言でまとめるなら、私達は今、「いのちの御霊に仕える務め」にあずかっているということです。
これまで、どちらかというと、内住の御霊は個々人の信仰生活にとってどんな意味があるのか、どんな益があるか、いろいろ考えてきたと言えるでしょう。しかし、2コリント3章に来た時、私の思いは新しくされたように思います。かつてのモーセの務めと比較しながら、パウロが「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました」(6節)と書いているように、私達には、人々を真に生かす「いのちの御霊」の働きに仕える務めが与えられていることに気づきました。
もちろん、私たちは、「和解の務め」を受けている「キリストに代わる使節」でもあります(5章)。ですから、私たちは、繰り返し、キリストに代わって、「和解のことば」を語り続けていきます。
しかし同時に、人々に神様にある永遠のいのちを与える聖霊に仕えていると言えます。なんとありがたい、光栄ある奉仕でしょうか。
時々、伝道牧会の壁にぶつかってしまいますが、あらためて、私自身が、(残りの時間は限られていますが)、永遠の命を与える働きをつづけておられるご聖霊に仕えていけることの特権を知り、喜びを感じることができます。ハレルヤ!
夏学期が始まり、クラスの数は少なくなりましたが、聖霊論2において、参加していてくださる塾生の皆さんと共に、いろいろ考えながら、今まで考えてきたこと、学んできたことを統合していきたいと願っています。感謝します! | | 2023-07-07 17:54:42[投稿番号:327] |
A.M.Stibbs & J.I.Packer著『The Spirit Withing You』から | | 感謝:私塾の春学期が終わりました! | 感謝いたします。昨日、私塾の春学期(最後のクラス:聖霊論)が終わりました!y
少し時間がとれましたので、久しぶりに夫婦でミニ旅行をしました。車では時間がかかり疲れるので、今回は、電車で行くことにしました。電車の中では本が読めるので持っていた本が、『The Spirit Within You』という、55年以上前に、A.M.スティブスとJ.I.パッカーが書いた本でした。
半世紀も前の本で、たぶん、カナダ時代に、古本屋さんで見つけたものでしたが、ここで言われていることは変わっていない、聖書の重要な真理の一つだと思わされました。
私の本棚に、たぶん30年間位、眠っていたと思われますが、本の題名がよかったのと、著者の一人が、パッカー先生だったので、読むことにしました。
その一部を紹介します。
「一般の小教区の教会に出席する、あるいは多くの教会を1年の間、訪ねて来る人について想像してみなさい。その期間が終わるまでに、その人は、神の民の内に住まわれる聖霊の賜物が、教会としても個人としても、福音書が明らかにしている至高で最高の祝福であることを十分に確信できたと思うか。それは疑わしい?イエス・キリストの位置と働き、悔い改めと赦しの道、教会の必要性、クリスチャンの業については多くを学んだかもしれない。しかし、そのような中でさえ、聖霊について多くのことを聞いたと言えるだろうか。聖霊の内住の真の意味を理解し、聖霊の力の全体を体験するようにクリスチャンを導く、聖霊に関する明確な教えは、今の時代には悲しいほど稀なものであることを率直に認める必要がある。
しかし聖書は、聖霊の与えられることとその働きを、神の寛大さの真のクライマックスとして、また、この福音時代の最高の栄光として表明しているのである。」
時々、ご聖霊のことばかり、語っていて大丈夫だろうか、間違った方向に行っていないだろうか。御子イエス様とのバランスは大丈夫だろうかなど、考えることがあります。
しかし本書のことばは、50年以上前の、スティブスとパッカーのものですが、なお、今の時代にも意味があると考えます。
これからも、与えられるあらゆる機会に、内住のご聖霊のことを語り続けていきたいと思わされます。感謝します!
ハレルヤ! | | 2023-06-30 18:27:38[投稿番号:326] |
今、ヤコブ書を読んでいます。 | | 聖霊論2をやります。 | 最近は、いろいろ聖霊論や夏学期のことを多く書いて来ましたので、少し内容を変えてみたいと思います。
我が家のベランダには、名前の分からない2本の木があります。花屋さんでも見たことがなく、珍しいそうなのでそのまま水をやって様子をみています。50センチ近くあるでしょうか。
それから、前にブログでも書きました、ジャカランタの木があります。イスラエルに行った時に、見つけた木で大事にしています。一昨年は花が咲きましたが、昨年はダメでした。今年こそと期待しています。
それから、パインの株(?)が10株ありまして、あるものはすでに一年以上経っています。あと、1?2年位で、パイナップルができるはずですが。ショッピングで、安くて美味しそうなパインを見つけると買ってきて、食べた後、ほとんどいつも、頭の緑の部分だけ残し、水につけておくのです。すると、根が出て来ます。時間がかかりすぎますが、実ができるまで、(枯れなければ)待ちたいと思います。忍耐のテストです。
玄関の両側には、ブーゲンビリア、ブルースター、台湾レンギョウ、ハイビスカスなどがあります。なんとか、寒い冬を今年も乗り切ってくれました。本当に感謝しています!
今、ヤコブ書をディボーションで読んでいますが、つくづく、これは、新約の知恵の書だなあって思っています。今朝は、3章1?12節でしたが、「舌を制御することの難しさ、大切さ」を学びました。しかし、適用まで来て考えました。これは、「舌」の問題ではなく、「心」の問題であると。
こうして、いつものとおり、心に内住していてくださる御霊に頼り、導かれ、満たされて歩んでいかないと、真に「舌」の制御はできないことを知りました。さらに、「心」を守るというよりも、もっと積極的に、御霊によって神様を愛し、隣人を愛する者へと変えられていく必要を教えられました。アーメン!
聖霊論2を、私塾でやることにしました。どうなるか、分かりませんが、これからもよろしくお願いいたします。ハレルヤ! | | 2023-06-23 18:10:23[投稿番号:325] |
感謝します!無事に春学期が終わろうとしています。 | | 聖霊論2について | 聖霊論1は、いろいろな行事などがあって少し遅れましたが、来週と再来週で、全て終わることができると思います。残されているのは、ルカの聖霊とパウロの聖霊です。
とにかく、私塾の春学期の他の三つのクラス(聖書解釈1(新約)、終末論、霊性)は無事に終わることができ、感謝しています。また、ホットしています。
そして今は、夏学期の準備をしています。神様が、7月4日から始まる夏学期も豊かに導いて下さいますように。
つづけて、前回も書きましたように、聖霊論2について考えています。やり残したこととしては、次のことがあります。聖書神学的なアプローチで出て来たものを統合すること。また、三位一体論における聖霊の位置づけ、特に聖霊論とキリスト論の関係、他にも、救済論、教会論、終末論、聖書論などとの関係もあります。また、聖霊問題(歴史的、現在的)について、これまで学んできた聖書的な聖霊論を適用し、考えていく必要があると思います。
セセーショニズムについてさらに考える必要、これまでの聖霊運動(預言運動)について、よく吟味する必要もあるでしょう。また、基盤的なこととして、内在的三一論と経綸的三一論の関係について確認しておく必要もあります。
とにかく、残っているこれらの諸問題をそのままにはできないと思っています。お祈りをしながら、最後の判断をしたいと思います。
『舟の右側』では、ルカの福音書の聖霊と、共観福音書における聖霊のまとめをしました。これからは、使徒の働きの聖霊、ヨハネの聖霊になり、ますます教えられていきたいと思っています。
最近、あらためて注目しているみことばは、ルカ11章13節です。父なる神様は、求める子どもたちに、最善最高のギフトとして、聖霊を備えていてくださるということです。そして、この約束(予告)は、実際に、ペンテコステと、それ以降に御子を信じるすべてのクリスチャンに恵みとして与えられました。このギフトは、今も変わることがありません。ハレルヤ!
さて、前回につづいて、聖霊論2について考えています。 | | 2023-06-16 20:13:39[投稿番号:324] |
つづき、へブル書に関して:十分な神学と十分すぎる神学 | | 夏学期の募集を始めています。 | あっという間の一週間でした。いよいよ、来週の火曜日で、三つのクラスの春学期が終わります。これまで守られ、なんとかここまで来ることができました。いろいろ反省することがありますが、参加してくださった皆さんが、一所懸命聴いて、応答してくださったのが何よりも励ましでした。感謝いたします!
また、7月から夏学期が始まります。今、迷っているのは、「聖霊論2」をやるかどうかです。これまでは、どちらかというと聖書神学的に取り上げて来ましたので、今度は、組織神学的なまとめの必要と、これに基づきながら、実際的な応用や、さらに神学的な考察などを進めていく必要を感じています。材料はいろいろありますが、これまで神学校でやって来なかったことが多いので、果たして十分な準備ができるかという問題があります。もう少し、祈り、考えたいと思います。
前回のブログでも触れましたように、へブル書の神学(特にキリスト論と聖霊論)とパウロの神学(キリスト論と聖霊論)を対比しながら、ずっと考えて来ました。
へブルの記者は、パウロの神学に立ちながら、へブル書を書いていたのか、それとも、へブル書にはへブル書独自の神学があるとみるべきなのか。確かに、へブル書も三位一体的で、聖霊のことについても触れられています。しかし、私が問題にしているのは、迫害や試練に直面しているキリスト者たちとその倫理(生き方や行動)に関して、へブルの記者は、(どうも)キリスト論的なすすめだけをしているように見えるのです。パウロでしたら、キリスト論的に、聖霊論的に取り扱っているに違いないと思います。
これは、暫定的な結論ですが、へブル書の記者の神学は、十分な神学(二位一体)で、パウロの神学は十分すぎる神学(三位一体)ではないか。変な言い方になりますが、今、考えていることを表現するとしたら、こうなりました。
5月から6月にかけて、コロナ禍が終わろうとしている中で、いくつかの教会や団体からご招待をいただき、奉仕をさせていただきました。霊性に関すること、聖霊に関すること…正に、ワーダン・スピリットの働きをさせていただけるので、本当に感謝です。
あとどれくらい、ご奉仕をさせていただけるか分かりませんが、稲沢教会の牧会伝道を中心にしながら、神様から預かっている恵みを、他の皆さんにお返しできればと願っております。すべてにおいて、神様のみ名が崇められますように。ハレルヤ! | | 2023-06-09 19:58:33[投稿番号:323] |
夏期塾生募集中!…6月を迎えて春期私塾もあとわずか。感謝します! | | ディボーションで、へブル書を今朝終わりました! | 皆さん、お祈り感謝いたします。水曜日と木曜日に北海道でのご奉仕が与えられ、今までお会いすることがなかった兄姉の皆さんとお会いし、ペンテコステのお祝いをすることができました。
都会ではなく、田舎で何十年も伝道牧会をつづけて来られた牧師先生と、信徒の皆さん、関係者の皆さんとの神様にある自由な交わりは本当に大きな励ましとなりました。また、神様の前に、尊い働きが続けられているのをこの目で見せていただき、感動しました。ハレルヤ!
さて、今朝のディボーションにおいて、へブル書の学びが終わりました。注目したのは、へブル書も、他のパウロ書簡と同様に、三位一体的ですが、厳しい試練の中での終末的な生き方に対する記者の勧めは、徹底的にキリスト中心に書かれていることでした。一つくらい聖霊的な勧めがあるかもしれないと思いましたが、ことごとくキリスト論的でした。
これをどのように考えたらよいか、いろいろ考えています。パウロ書の場合、クリスチャンの倫理的な教えに関しては、キリスト論的な面と聖霊論的な面があります。In ChristとBy the Spiritです。また、時には、非常に聖霊的であるとも言えます。
ですから、へブル書の倫理的な教えとパウロの手紙の倫理的な教えを」どのように考えたらいいのでしょうか。
第一の方法は、へブル書の倫理的な教えについて、パウロ的に読むということです。第二は、へブル書とパウロ書とを並置して、読んで行く方法です。両方の独自性を認め、へブル書はへブル書で読んで行くということです。4章には御座におられる大祭司イエス様を覚え、必要があれば、御座に行くということです。また、12章以降にありますように、「信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さない」ということです。その他に関しても、ほとんど御子中心(+御父)です。
これは、最近考えていることです。1ヨハネの手紙における信者の倫理は何か(御子と御霊の関係において)。また、ペテロの手紙においては、どうか。そして今、へブル書における信者の倫理的教えについて考えています。つまり、新約全体における信者の倫理的教えにおける、御霊と御子の関係について考えているということでもあります。
旧約の終末預言における信者の倫理については、「御霊によって」は中心的であったと言えます。福音書における御子の倫理(歩み)に関しても、「御霊によって、御霊と共に)と言えます。では、新約全体においては、最終的にどのようにまとめることができるのでしょうか。さらに、考えつづけていきたいと思います。
感謝いたします。渡辺睦夫 ハレルヤ! | | 2023-06-02 18:22:48[投稿番号:322] |
夏季(7-9月)、私塾の募集を始めます。 | | 隠れておられる方は御父ではないか。 | 最近、三位一体の神様について考えていて、思ったことがあります。
普通、ご聖霊のことを、「隠れた」神とみなす傾向がありますが、むしろ、隠れておられるのはご聖霊ではなく、父なる神様のことではないかと考えるのです。もちろん、三位一体の神様について考える視点にもよりますが、ご聖霊が関わっていてくださる個人的、また教会的な働きについて考えるとき、御子と共に、ご聖霊こそ私たちの内に外に豊かに働いておられる神様であると言わざる得ないのです。
パウロの手紙において、御子に関しては、しばしば「御子にあって」と言われているように、御霊については「御霊によって」と言われています。つまり、御子が導き、備えて下さったことに基づいて、御霊は実際的に、様々な働きを進めておられるのです。
例えば、エペソ2章18節から22節で、訳として、「キリストにあって」は2回、「聖霊によって」も2回あります。ギリシャ語としては、どちらも前置詞「エン」で同じですが、理解としては、2017訳のようでよいと思います。キリストはより根源的で、御霊はより実践的な働きを分担しておられるとも言えます。
今、いろいろと、御子と御霊の「役割分担」についても考えています。ですから、当然、三位一体について考えるようになります。私は、ますます「フィリオクエ」ではなく、エイレナエウスが言ったように、御父の両手としてのみ子と御霊を考えることの方がよりふさわしいのではないかと考えます(二等辺三角形のように)。もちろん、ある場面や視点から見ると、「逆さの二等辺三角形」を考える場合もありますが。
御父の偉大さ、栄光、栄誉を考えますと、御父こそ、何よりも隠れたお方であると言わざるをえません。そこから、御子と御霊が遣わされておられるのです。私たちの所に、また私たちの心に。
ペンテコステが近くなりました。いずれにしても、ご聖霊が私たちの所に、何よりも、私たちに心に来ていて下さることを歓迎し、ほめたたえたいと思います。
この私の心にも来ていている下さる憐れみを感謝し、内住の聖霊を歓迎いたします。ペンテコステおめでとうございます!ハレルヤ! | | 2023-05-26 18:48:19[投稿番号:321] |
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