感謝します!無事に春学期が終わろうとしています。 | | 聖霊論2について | 聖霊論1は、いろいろな行事などがあって少し遅れましたが、来週と再来週で、全て終わることができると思います。残されているのは、ルカの聖霊とパウロの聖霊です。
とにかく、私塾の春学期の他の三つのクラス(聖書解釈1(新約)、終末論、霊性)は無事に終わることができ、感謝しています。また、ホットしています。
そして今は、夏学期の準備をしています。神様が、7月4日から始まる夏学期も豊かに導いて下さいますように。
つづけて、前回も書きましたように、聖霊論2について考えています。やり残したこととしては、次のことがあります。聖書神学的なアプローチで出て来たものを統合すること。また、三位一体論における聖霊の位置づけ、特に聖霊論とキリスト論の関係、他にも、救済論、教会論、終末論、聖書論などとの関係もあります。また、聖霊問題(歴史的、現在的)について、これまで学んできた聖書的な聖霊論を適用し、考えていく必要があると思います。
セセーショニズムについてさらに考える必要、これまでの聖霊運動(預言運動)について、よく吟味する必要もあるでしょう。また、基盤的なこととして、内在的三一論と経綸的三一論の関係について確認しておく必要もあります。
とにかく、残っているこれらの諸問題をそのままにはできないと思っています。お祈りをしながら、最後の判断をしたいと思います。
『舟の右側』では、ルカの福音書の聖霊と、共観福音書における聖霊のまとめをしました。これからは、使徒の働きの聖霊、ヨハネの聖霊になり、ますます教えられていきたいと思っています。
最近、あらためて注目しているみことばは、ルカ11章13節です。父なる神様は、求める子どもたちに、最善最高のギフトとして、聖霊を備えていてくださるということです。そして、この約束(予告)は、実際に、ペンテコステと、それ以降に御子を信じるすべてのクリスチャンに恵みとして与えられました。このギフトは、今も変わることがありません。ハレルヤ!
さて、前回につづいて、聖霊論2について考えています。 | | 2023-06-16 20:13:39[投稿番号:324] |
つづき、へブル書に関して:十分な神学と十分すぎる神学 | | 夏学期の募集を始めています。 | あっという間の一週間でした。いよいよ、来週の火曜日で、三つのクラスの春学期が終わります。これまで守られ、なんとかここまで来ることができました。いろいろ反省することがありますが、参加してくださった皆さんが、一所懸命聴いて、応答してくださったのが何よりも励ましでした。感謝いたします!
また、7月から夏学期が始まります。今、迷っているのは、「聖霊論2」をやるかどうかです。これまでは、どちらかというと聖書神学的に取り上げて来ましたので、今度は、組織神学的なまとめの必要と、これに基づきながら、実際的な応用や、さらに神学的な考察などを進めていく必要を感じています。材料はいろいろありますが、これまで神学校でやって来なかったことが多いので、果たして十分な準備ができるかという問題があります。もう少し、祈り、考えたいと思います。
前回のブログでも触れましたように、へブル書の神学(特にキリスト論と聖霊論)とパウロの神学(キリスト論と聖霊論)を対比しながら、ずっと考えて来ました。
へブルの記者は、パウロの神学に立ちながら、へブル書を書いていたのか、それとも、へブル書にはへブル書独自の神学があるとみるべきなのか。確かに、へブル書も三位一体的で、聖霊のことについても触れられています。しかし、私が問題にしているのは、迫害や試練に直面しているキリスト者たちとその倫理(生き方や行動)に関して、へブルの記者は、(どうも)キリスト論的なすすめだけをしているように見えるのです。パウロでしたら、キリスト論的に、聖霊論的に取り扱っているに違いないと思います。
これは、暫定的な結論ですが、へブル書の記者の神学は、十分な神学(二位一体)で、パウロの神学は十分すぎる神学(三位一体)ではないか。変な言い方になりますが、今、考えていることを表現するとしたら、こうなりました。
5月から6月にかけて、コロナ禍が終わろうとしている中で、いくつかの教会や団体からご招待をいただき、奉仕をさせていただきました。霊性に関すること、聖霊に関すること…正に、ワーダン・スピリットの働きをさせていただけるので、本当に感謝です。
あとどれくらい、ご奉仕をさせていただけるか分かりませんが、稲沢教会の牧会伝道を中心にしながら、神様から預かっている恵みを、他の皆さんにお返しできればと願っております。すべてにおいて、神様のみ名が崇められますように。ハレルヤ! | | 2023-06-09 19:58:33[投稿番号:323] |
夏期塾生募集中!…6月を迎えて春期私塾もあとわずか。感謝します! | | ディボーションで、へブル書を今朝終わりました! | 皆さん、お祈り感謝いたします。水曜日と木曜日に北海道でのご奉仕が与えられ、今までお会いすることがなかった兄姉の皆さんとお会いし、ペンテコステのお祝いをすることができました。
都会ではなく、田舎で何十年も伝道牧会をつづけて来られた牧師先生と、信徒の皆さん、関係者の皆さんとの神様にある自由な交わりは本当に大きな励ましとなりました。また、神様の前に、尊い働きが続けられているのをこの目で見せていただき、感動しました。ハレルヤ!
さて、今朝のディボーションにおいて、へブル書の学びが終わりました。注目したのは、へブル書も、他のパウロ書簡と同様に、三位一体的ですが、厳しい試練の中での終末的な生き方に対する記者の勧めは、徹底的にキリスト中心に書かれていることでした。一つくらい聖霊的な勧めがあるかもしれないと思いましたが、ことごとくキリスト論的でした。
これをどのように考えたらよいか、いろいろ考えています。パウロ書の場合、クリスチャンの倫理的な教えに関しては、キリスト論的な面と聖霊論的な面があります。In ChristとBy the Spiritです。また、時には、非常に聖霊的であるとも言えます。
ですから、へブル書の倫理的な教えとパウロの手紙の倫理的な教えを」どのように考えたらいいのでしょうか。
第一の方法は、へブル書の倫理的な教えについて、パウロ的に読むということです。第二は、へブル書とパウロ書とを並置して、読んで行く方法です。両方の独自性を認め、へブル書はへブル書で読んで行くということです。4章には御座におられる大祭司イエス様を覚え、必要があれば、御座に行くということです。また、12章以降にありますように、「信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さない」ということです。その他に関しても、ほとんど御子中心(+御父)です。
これは、最近考えていることです。1ヨハネの手紙における信者の倫理は何か(御子と御霊の関係において)。また、ペテロの手紙においては、どうか。そして今、へブル書における信者の倫理的教えについて考えています。つまり、新約全体における信者の倫理的教えにおける、御霊と御子の関係について考えているということでもあります。
旧約の終末預言における信者の倫理については、「御霊によって」は中心的であったと言えます。福音書における御子の倫理(歩み)に関しても、「御霊によって、御霊と共に)と言えます。では、新約全体においては、最終的にどのようにまとめることができるのでしょうか。さらに、考えつづけていきたいと思います。
感謝いたします。渡辺睦夫 ハレルヤ! | | 2023-06-02 18:22:48[投稿番号:322] |
夏季(7-9月)、私塾の募集を始めます。 | | 隠れておられる方は御父ではないか。 | 最近、三位一体の神様について考えていて、思ったことがあります。
普通、ご聖霊のことを、「隠れた」神とみなす傾向がありますが、むしろ、隠れておられるのはご聖霊ではなく、父なる神様のことではないかと考えるのです。もちろん、三位一体の神様について考える視点にもよりますが、ご聖霊が関わっていてくださる個人的、また教会的な働きについて考えるとき、御子と共に、ご聖霊こそ私たちの内に外に豊かに働いておられる神様であると言わざる得ないのです。
パウロの手紙において、御子に関しては、しばしば「御子にあって」と言われているように、御霊については「御霊によって」と言われています。つまり、御子が導き、備えて下さったことに基づいて、御霊は実際的に、様々な働きを進めておられるのです。
例えば、エペソ2章18節から22節で、訳として、「キリストにあって」は2回、「聖霊によって」も2回あります。ギリシャ語としては、どちらも前置詞「エン」で同じですが、理解としては、2017訳のようでよいと思います。キリストはより根源的で、御霊はより実践的な働きを分担しておられるとも言えます。
今、いろいろと、御子と御霊の「役割分担」についても考えています。ですから、当然、三位一体について考えるようになります。私は、ますます「フィリオクエ」ではなく、エイレナエウスが言ったように、御父の両手としてのみ子と御霊を考えることの方がよりふさわしいのではないかと考えます(二等辺三角形のように)。もちろん、ある場面や視点から見ると、「逆さの二等辺三角形」を考える場合もありますが。
御父の偉大さ、栄光、栄誉を考えますと、御父こそ、何よりも隠れたお方であると言わざるをえません。そこから、御子と御霊が遣わされておられるのです。私たちの所に、また私たちの心に。
ペンテコステが近くなりました。いずれにしても、ご聖霊が私たちの所に、何よりも、私たちに心に来ていて下さることを歓迎し、ほめたたえたいと思います。
この私の心にも来ていている下さる憐れみを感謝し、内住の聖霊を歓迎いたします。ペンテコステおめでとうございます!ハレルヤ! | | 2023-05-26 18:48:19[投稿番号:321] |
ヨハネの福音書における聖霊と永遠のいのちについて | | ゴードン・フィーの本(要約:264000字)が会員資料室に入りました! | ゴードン・フィーの本(要約)をやっと「会員資料室」に入れることができ、本当にホットしています。とにかく、20年以上かかりました。ワーダン・スピリットの会の働きにとっても、非常に価値のある本だと思っています。お祈りと励ましを感謝いたします。
また、HPの最初のページにある「はじめに」も新しくなりましたので、これもお読みください。
さて今は、特にヨハネの福音書における聖霊と永遠の命の関係について考えています。どちらも、確かに、ヨハネにおいて重要なテーマです。永遠のいのちは、ヨハネ書の中心目的であり、聖霊も、イエス様ご自身の働きにとっても、のちの弟子たちの歩みと働きにおいても不可欠なお方です。さらに、今考えていることですが、永遠のいのちと聖霊とは密接な関係にあることに気づきました。
もっと早く気付くべきでしたが、最近、やっと考えるようになりました。3章5?8節、4章14節、6章63節、7章37-39節などです。
御子イエス様のことも含めて、短くまとめるとこんな風です。私たちは、御子を信じると救われて、御霊によって永遠のいのちが備えられる、ということです。御子は永遠のいのちの基ですが、御霊はそのいのちを実際に私たちに与えて下さるお方であると言えます。
また、こんな風に言ってもよいでしょう。信じて救われるとこれまでに味わったことのない「喜び」が与えられます。これは、聖霊による「永遠の命」の喜びのことでしょう。神様との交わりや兄姉との交わりにおける喜びも、永遠のいのちの喜びなので、この喜びも聖霊から来ていると言えます。7章38節の「生ける水の川が流れ出る」はまさに、聖霊による永遠のいのちの祝福を表現していると思います。4章14節の「その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出る」もほとんど同じです。
聖霊に満たされている喜びも、ほとんど、実質的に永遠のいのちの喜びであると言ってもいいでしょう。。。今、そんなことを考えています。とにかく、聖霊と永遠のいのちの関係が少しだけ見えて来ましたので、感謝しています。ハレルヤ!
来週の土曜日は2回に渡って「聖書にこだわる聖霊」(奥多摩福音の家、ウェブセミナー)ということでお話をすることになっています。このように、いつでもどこでも、ご聖霊についてお話できる機会が与えられていることに感謝します。ハレルヤ! | | 2023-05-19 18:12:58[投稿番号:320] |
最近は、会堂内をグルグル回るのが増えてきました! | | 最近の様子など | 寒い冬を越して、玄関の「花」たちの芽が出て来てホットしています。ひょっとして寒さにやられてしまったかなと心配しておりました。ブーゲンビリア、台湾レンギョウ、そしてついに、ハイビスカスの芽も出てきました。感謝!
それから、冬に何も食べないで約3?4か月冬眠していたメダカたちも元気でまた泳いでいます。次々に卵を産んで困ってしまう程です。これも感謝!
最近は、調子が悪かったり、迷ったりすることがあると、すぐに部屋から会堂に移動して、グルグル回りながら祈るようにしています。すぐそばに、会堂があるので、黙想したり、おしゃべりしたり、祈ったりできるのは本当にありがたいです。朝のお祈り散歩だけでなく、いろいろ黙想しながら祈ることが増えてきているように思います。
さて、ゴードン・フィーの例の本の「前書き」もほとんど終わりました。あとは、HPの刷新に合わせて、データを「会員資料室」に入れたいと思いますので、関心のある方はぜひお読みください。900頁以上の本でしたが、約20年位かけて、やっと(ようやく)要約ができました。「完訳」とまではいきませんし、拙い訳ですが、フィー先生の本の内容は確かで、価値のあるものなので、ぜひお読みください。
全体で、285600字あります。『舟の右側』の原稿は通常1回分で「7000字」(4頁)なので、これで換算しますと、約40回分になります。つまり、3年3か月分に相当します。感謝いたします。
現在は、「孤独のすすめと交わりのすすめ」というテーマで、来週開かれる教団泉会でのお話の準備と、再来週のウェブセミナーの「聖書にこだわる聖霊論」の準備をしています。また、来週の15日が、『舟の右側』の原稿の締め切りです。いろいろ重なっていますね。。。
いろいろありますが、感謝もいろいろあります。ハレルヤ! | | 2023-05-12 21:05:47[投稿番号:319] |
昨日、対面の私塾交わり会を開きました! | | 最近の状況について | 昨日、対面で「私塾:交わり食事会」を開くことができました。自己紹介、昼食と交わり、質問タイムなどを持ちましたが、あっという間に時間が経ってしまいました(11時から2時まで)。
クラスがみな同じではなく、初めてお会いする兄姉もおられ、しかも、参加者が属しておられる教団、教会はいろいろ。普段、経験できない交わりの素晴らしさを共に味合うことができました。これこそ、み言葉と御霊に基づく(ワーダン・スピリット)の交わりになったと言えます。感謝します!
私塾のそれぞれのクラスは、四回目、五回目を迎え、これから後半に入っていきます。上記のように対面の交わり会も開き、また、「若手?牧師会」も第一回を持つことができました。希望として、10人までを考えておりましたが、ちょうど参加者は10人でした。これから、毎月、第四月曜日に「若手?牧師会」を開くことになります。
5月の後半になりますと、夏学期(7月から9月まで)の準備が始まります。参加希望の皆さんは、準備しておいてください。
フィー先生の本は翻訳が終わりましたので、「前書き」ができ次第、ワーダン・スピリットの会のHPをリニューしていきたいと考えています。
今は、「御霊に対する罪は赦されない」というマルコ、マタイ、ルカの福音書にある御言葉について考え、奮闘しております。なんとか、次回の『舟の右側』に間に合うように原稿を準備したいと考えています。
それから、5月27日(土)の午後、奥多摩福音の家主催のウェブセミナーで、『聖書にこだわる聖霊論』という題で、お話することになっています。ペンテコステ礼拝の直前です。関心のあられる方は、奥多摩福音の家にお申込みください。
毎回のことですが、5月の連休には、あれをしよう、これをしようと考えておりましたが、どうも思うようにはいきませんでした。どれも、大切なことなので、焦らないで、神様の前にお委ねしながら、相談しながら、進めていきたいと思います。
きょう、結婚して43年の記念日を迎え、家内と共に神様に感謝をお捧げしました。また、新しい一年に向かって再出発です。ハレルヤ!
ここまで、お読みくださり、感謝いたします。ハレルヤ! | | 2023-05-05 19:50:29[投稿番号:318] |
キリストの交わり、聖霊の交わり | | 最近の状況について | 今、特に気なっていることがあります。それは、「キリストの交わり(コイノニア)」、「聖霊の交わり(コイノニア)」です。ギリシャ語で言いますと、名詞コイノニアにキリストや聖霊が属格でかかっている場合に、「の」をどのように理解するかということで、仮にこの「の」の意味が対格的属格であるとすると、「キリストとの交わり、聖霊との交わり」ということになって、この場合、真の意味は何かということになります。
実際に聖書では、たとえば、1コリント1章9節(キリストとの交わり)や2コリント13章13節(聖霊との交わり)にあります。
実は、今から約46年前に、当時の聖書神学舎(今の聖書宣教会)を卒業しましたが、その時の卒論のタイトルが、『コイノニア…Genitive用法を手掛かりにして、「キリストの交わり」、「聖霊の交わり」を考える』でした。昔の卒論が、手もとにあるので、今、少し読んでチェックをしています。
果たして、実際の生活の中で、「キリストとの交わり、聖霊との交わり」とはどういうことになるのでしょうか。臨在を感じることでしょうか。心を静めて、できるだけ対話的に祈ることでしょうか。御子や御霊の愛を感じながら、神様を愛し、隣人を愛することでしょうか。毎朝しているように、散歩しながら、神様とお喋りすることでしょうか。瞑想や黙想をすることでしょうか。
また、あらためて考えていることは、キリストとの交わりと聖霊との交わりの類似点と相違点です。イエス様との交わりはすんなり入ってくるのですが、聖霊との交わりはどういうものでしょうか。聖霊に満たされ、聖霊に導かれて歩むことでしょうか。
とにかく、最近、これらのことについて考えているところです。答えはまだですが、さらに考え、求めていきたいと思います。
最近の状況については、フィー先生の本(要約、抄訳)について、現在は、前書きの準備中です。私塾は、三週目、四週目を迎えました。お祈りを感謝いたします。延べて24人の兄姉が参加していて下さるので感謝です。また、若手?牧師会も今週、始まりました。これから、月の第4月曜に続けていくことになりました。これも、感謝です。
関西でのご奉仕も守られて感謝でした。牧師先生たちのと交わりも楽しかったです。なつかしい先生がたともお会いすることができました。5月は、同盟福音の「泉会」での「交わり」についてお話しし、ペンテコステ直前の土曜日には、「聖書にこだわる聖霊論」ということで、二回のセミナーでご聖霊についてお話する予定です。
いろいろ特別なご奉仕も与えられつつあります。
大きな感謝とともに。すべてにおいて神様のみ名があがめられますように。ハレルヤ! | | 2023-04-28 21:21:13[投稿番号:317] |
1ペテロ1章から教えられたこと | | …最近していること | 最近、ディボーションにおいて、1ペテロの手紙を読んでいます。1章を読んでいて、教えられたことがあります。13-16節は、再臨のキリストを覚えながら、聖なる神様に倣って「聖なる者であれ」と言われているところです。
私は、ここを読みながら、何か足りないものを感じました。それは、「聖なる者となりなさい」(15節)とありますが、自分の力や思い、決心でそれができるはずはありません。どうしたら、このみことばに応答できるのか、考えました。こじつけではありませんが、ここにもやはり、ご聖霊の助けと導きが必要ではないかと考えました。
そうしたら、なんと、聖さに関しても「聖霊についての言及」が、この手紙にあることが分かったのです(パウロの手紙まで行かなくてよかったのです)。それは、1章2節に「御霊による聖別によって」とあったのです。第二版の訳は、「御霊による聖めによって」とあります。NIV訳は、たぶん、私が期待していた訳になっていました。それは、「through the sanctifying work of the Spirit 」です。ギリシャ語では、名詞なので、このように動詞的に訳すことができるか疑問が残りますが、その後に、「イエスキリストに従うように」とありますので、救われたときだけの「聖別」ではなく、信仰生涯全体に渡る聖さ、つまり、「the sanctifying work of the Spirit 」と考えてよいと思われます。
こうして、1章15節の「聖なる者となりなさい」は、1章2節から、「聖霊がきよめて下さる、その働きに従って」聖なる者となりなさいと解釈できるのではないでしょうか。
私は、このような理解を最初から求めていたわけではありませんが、結果的に、この箇所も、聖霊的に解釈することができました(一つ、増えた感じです)。パウロで言えば、ここはまた、2コリント3:18に繋がって来ます。
これからも、キリスト論的に、聖霊論的に、聖書を読み続けていきたいと思います。
私塾も守られています。感謝します。また、月一回の「若手?牧師会」も始まろうとしています。また、今度の主日礼拝の後、ご奉仕のために関西に行くことになります。
いろいろDoingが増えてきましたが、神様の御もとでしずまるBeingも大切にしていきたいと思います。
お祈りを感謝いたします。ハレルヤ! | | 2023-04-21 18:17:24[投稿番号:316] |
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