使徒の働きとパウロの手紙の聖霊
聖書的な統合を求めて
使徒の働きにおける聖霊について、あらためていろいろなことを教えられて来ましたが、これから、さらにヨハネの聖霊、パウロの聖霊に移っていきたいと思っています。

以前は(今は分かりませんが)、聖霊派は使徒の働きにおける聖霊を考え、聖霊派ではない福音派(両者はともに福音主義!)はパウロの聖霊を考えていると言われていましたが、それでとどまるのではなく、両者の統合が聖書的であると考えます。そんなことで、使徒の働きにおける聖霊の学びが終わりつつあるとき、ルカの聖霊とパウロの聖霊の統合について今考えていることを書かせていただきたいと思います。

 福音書では、人となられた御子がナラティブで四重に描かれています(共観福音書+ヨハネ書)。こうして、私たちは御子の生涯を辿りながら、御子のことについて記憶し、思いめぐらすことができます。では、使徒の働きにおいて、聖霊のことがナラティブで描かれている意味(意義)はなんでしょうか。

一つは、御子のようにはいきませんが、それでも、私たちは、一つの重要な時期において、時間的に、空間的に、臨在し、働かれた聖霊について想うことができるということです。
みことばを手掛かりに私たちの信仰と想像力を働かせて、目で見ることのできない聖霊をある程度まで想うことができます。もっとももっと、全人格的に(視覚的、聴覚的、触覚的、臭覚的に)、聖霊とその臨在と働きについて知ることができればと願っています。

使徒の働きというナラティブの特徴(目的や状況も含めて)のゆえに、聖霊について知ることのできない面や要素があることも確かです(パウロの手紙にも同じように個別的な目的や状況があります)。
いろいろ積極的な面もありますが、そうではない面や難しさもあります。また、現代の私たちにとって不可欠な普遍的(さらに規範的)な教えを見つけようとする場合、特に解釈上の注意点などがあります。
当然のことですが、聖書にあるからと言って、それがすべて普遍的なこと(教え)になるわけではありません。まして、規範的になるとは言えません。徹底的に考察し、吟味していく必要があると思います。

パウロの手紙においては、どちらかというと、内的、内面的で、倫理的な面における聖霊の臨在や働きが描かれていると言えます、使徒の働きにおいては、外面的な取り扱いが中心で、内的な、内面的な聖霊の働きについての言及や描写が限られています。
また、それがあっても、非常に簡潔な表現になっています。かなり限定的で、聖霊論に関係して牧会的要素は少なく、圧倒的に宣教的、伝道的であると言えます。また、護教的な面があるかもしれません。とにかく、これらのことは、使徒の働きの目的などともリンクしてきます(テオフィロのために書いているので)。

こうして、これらのことを踏まえて、パウロの手紙などにおける聖霊についての教えと使徒の働きにおける実際的な臨在と働きとを統合していくことになります。
また、両者があまりにも違うので(違いが多いので)、それゆえに、私としては、ここにこそ、聖書的な統合の積極的な理由と必要を感じるのです。統合すべきであると思います。

ジャンルの違いとともに、それぞれが明らかにしている聖霊論にかなりの違いがあるからです。もちろん、無理やりに、表面的な統合については注意しなければなりませんが、これだけの差異があるので、両者の聖霊論をそのままにすべきではなく、聖書的にも、統合を求めていく必要があると考えます。

ここまで、お読みくださり、感謝いたします。
これから、ヨハネの聖霊とも、パウロの聖霊とも、統合を求めていきたいと思います。ご聖霊は一つで分けられません!ハレルヤ!
2023-08-18 19:59:27[投稿番号:333]

「使徒の働き」に書かれていない聖霊
前回のつづき
前回は、使徒の働きにおける「聖霊の働き」の多様性について簡単に紹介しましたが、きょうは、他の書にはあるが、使徒の働きに書かれていない聖霊のいくつかの面に触れてみたいと思います。

どうしてそんなことをするかと言いますと、やがて、ルカの聖霊は、他の旧約の聖霊、共観福音書の聖霊、ヨハネの聖霊、パウロの聖霊と統合していくことになるからです。

以前は、聖霊派はルカの聖霊に立ち、福音派はパウロの聖霊に立つと言われていたことがありましたので(今は、分かりませんが)、そのままではいけないし、聖書的であるとも思いませんので、統合を試みていくための準備をしたいと考えています。

第一に、使徒の働きはナラティブ(物語)なので、どちらかというと、歴史的な流れ(物語の筋道)に沿って、起こった出来事を描写していくことが主になります。ですから、どうしても、一人ひとりの心の中に起こったことについて、細かく描写することはないか、あっても簡単に触れるだけになってしまいます。

第二に、聖書のナラティブには多くのスペーチが含まれていますが、そのスピーチについても限界があるように思います。上記の流れ(その枠組み)の中でスピーチが機能しているので、内面的な描写はどうしても限られてくるように思います。

では、実際に、使徒の働きに書かれていない聖霊について取り上げてみたいと思います。思いつくままなので、順番はバラバラです。

第一に、回心の時に実際に働かれる救いの御霊の働きについてはほとんど何も書かれていません。ただ、聖霊が来て、救いが起こり、また、救いが起こったことのしるしとして聖霊の到来が語られています。

第二に、信者の信仰成長に関しても、詳しくは書かれていません。多少ヒントになるものは、「聖霊のみたされていた」という表現くらいになると思います。バルナバ、ステパノたちの生き方を見よ、ということでしょうか。

第三に、使徒の働きにおける聖霊の働きの中心は、福音宣教を導かれることですが、その時に弟子たちが直面する恐れや弱さなどについても、ほとんど何も見ることはできません。あるとしたら、18章9節、23章11節、27章24節などになりますが、これらの時のパウロの心情についての説明はほとんどありません。私たちは、これらについては、パウロの手紙からよく知ることができます。

第四に、福音宣教の結果として、救われる人々が起こされ、集められ、キリストの群れ(教会)としての教会活動が始まりますが、これらに関係した聖霊の働きはありますが、詳細についてはほとんど知ることはできません。これらについても、手紙から見ることになります。

このように、使徒の働きにおける聖霊とその働きについて考えますと、特にパウロの手紙で取り上げられている聖霊の働きの領域と内容に関して、随分、違いがあることが分かります。
それは、目的と宛先(テオピロ)の必要が異なっているからです。また、ジャンルの違いもあります。もちろん、どんなナラティブかによっても違います。

簡単に触れただけですが、今回の試みから分かったことは、使徒の働きの特徴(特殊性)であり、そこに描かれている聖霊論の特徴(特殊性)です。こうして、最終的には、聖書全体において豊かに(多様に)描かれている聖霊の統合の必要性です。

なんとか、其々の違いや特徴を大切にしながら、聖書的な統合を試みていきたいと願っています。

ここまでお読みくださり、感謝いたします。豊かな聖書的聖霊を感謝いたします。ハレルヤ!
2023-08-11 20:34:28[投稿番号:332]

使徒の働きにおける聖霊
いろいろ考えていることなど
今、使徒の働き(後半:10章以下)の聖霊についてまとめているところです(『舟の右側』用の原稿準備として)。今回、いろいろと教えられることがありましたが、それは、前以上に、旧約や福音書、パウロ書簡などと合わせて、使徒の働きを読むことができるようになったからだと思います。

特に、きょう触れてみたいことは、聖霊の働きの多様性(豊かさ)についてです。旧約の聖霊についての学びの中でも感じましたが、使徒の働きにおける聖霊の学びにおいても、ますますそのように思っています。

中心になるのは、もちろん、ご聖霊が、弟子たち(教会)を用いて、福音宣教を世界大に導いておられることです。しかし、それだけかというとそうではありません。

聖霊は救いの御霊でもあります。救いの備えをし、救いを与え、救いの事実を明らかにしておられます。また、5章では、宣教と関係がありますが、弟子たち(教会)の祈りが聞かれたことのしるしとして聖霊が現れておられるのではないかと思います。

また、個人的な救いを導かれるだけでなく、教会全体の働きや増大のために聖霊は働かれたり、20章では、長老たちを群れの監督に立てられたのが聖霊であると言われています。

また、個々のクリスチャンが聖霊に満たされたり、聖霊に満たされた人として歩んでいます。聖霊は、「力」だけでなく、知恵、信仰、喜びの源でもあります。

おそらく、聖霊は、私たちクリスチャンの行動だけでなく、生き方、在り方にも関係しておられると言えるでしょう。

多くの場合、聖霊は「陰」の存在のように見えますが、必要な時には、「表」に出て来て、強制的に導かれた例もありました。個人的に、内的に働かれたり、グループ(各個教会)に働かれたり、いろいろなケースを見つけることができます。

旧約や福音書に書かれている聖霊の働き、パウロの手紙などに書かれている聖霊の働きなど…これらを合わせると、本当に聖霊の豊かな働きに驚かされるのではないでしょうか。

きょうも、今週も、実は、いろいろなところで、豊かに働いていてくださる御父と御子と御霊の臨在と働きを信じて、感謝し、崇めましょう!ハレルヤ!
2023-08-05 20:26:13[投稿番号:331]

J.I.Packerの『Life in the Spirit』から
…特に注目したこと、教えられたことなど…
きょうは、子どもたちのキャンプ場に行ってきましたが、車で片道2時間ほどかかり、かなり疲れてしまいました。

そんなことで、何か新しいことを書こうと机に向かったのですが、何にも出て来ませんでした。そんなことで、先週の土曜日、50年ぶりの同窓会参加で東京に行ったのですが、新幹線の中で読んだ本から、少し紹介させてください(きょうは、それだけになりそうです。すみません)。

J.I.Packer先生の本からの引用です(多少、意訳しています)。

 *私は、幻や印象、預言が稀に来ること、しかし、ある信者たちには全く来ないことを、信じている。(15頁)
 *ただ聖霊だけが、私達のうちに、私達の救い主に対する愛というものを創ることがおできになる。しかもそれは、ご自身の民への心からの同情と実際的な助けへとあふれ出る愛である。(40頁)
 *クリスチャンの交わりは、愛と謙遜の表現で、助けたいという願いと助けられたいという願いから生まれる;
クリスチャンたちが、それぞれ学んできたことを互いに分かち合うことを通して、神様をよりよく知ろうとする共同体的な探求である。 交わりは恵みの手段である。交わりは私達が生きていくことのテストである。交わりは神様からの贈り物である。…聖霊こそが、私たちが交わることができるように導くお方である。(97頁以下)
 *聖霊こそ、御子との個人的な交わりを導く方、聖霊こそ、御子に似る者へと造りかえるお方、聖霊こそ、私たちが愛され、贖われ、神の家族に入れられているという確信を与えて下さる方。(112頁)
 *リバイバルの特徴:神様が来られる! 福音が、かつてなかったほどに愛される! 悔い改めが深化する! 聖霊の働きが速い!(123頁以下)

お忙しい中、ここまで読んでくださり、感謝いたします。
2023-07-28 19:36:09[投稿番号:330]

神様との交わりについて想うこと
三つの一つの不思議で豊かな神様
明日、予定がありますので、一日早く書くことにしました。
最近、ずっと考え、これが、信仰生活の秘訣(極意?)ではないかと思うことがあります。それは、一言で言えば、「神様との交わり」です。

私たちは、イエス様を信じて、「永遠の命」を受け、「神様の子ども」として歩み出しました。「永遠の命」は、クリスチャン生活において、実際には「神様との交わり」として現れるでしょう。「神の子ども」としての歩みの核(泉)になるものは、神様との交わり(また、同時に、兄姉との交わり)です。

神様との交わりは、毎日の生活において、私たちの力、守り、助け、導き、喜び、励まし、導きです。神様を愛し、隣人を愛して歩むための愛の力の泉になります。嬉しい時、悲しい時、苦しい時の居場所です。恐れを感じる時、心配な時、感謝の時、いずれの時も、私たちがおるべき「場」であると言えます。

こここそ、礼拝の場、再献身の場、賛美の場、正直に叫び祈る場、重荷を全て下す場です。私たち自身が変えられていく場、点検し、点検され、吟味し、吟味される場です。悔い改めて、再献身する場、再出発する場です。

ここでこそ、本当の決断ができます。また、しずまり、ずっと待つ場でもあります。ある意味で、孤独ですが、孤独ではありません。
自由におしゃべりし、とりなし祈る場です。御言葉に従い、応答していく場です。ここでこそ、自由でありながら、力を受け、み言葉に従う思い、力や喜びにあずかる場です。…書いたらキリはないでしょう。

とにかく、神秘主義ではなく、本当に、御霊の内住の恵みによって神の子どもとされ、「アバ父よ」と叫び、祈り、交わる恵みをいただく「泉」です。

三位一体的に考えます。私たちは、御子と御霊を通して神の子どもとされましたので、無限、絶対、永遠、完全、聖なる神様に向かって、「アバ父よ」と叫び、祈り、交わることができます。

御子について、聖書は、ナラティブを通して、人として歩まれた御子とその生涯における姿を私たちに物語っています。ですから、御子は分かり易く、近づきやすく、イメージしやすいお方なので、近づき、交わり易いお方であるとも言えます。
また、ナラティブだけでなく、他の、御子に関する様々な命題的な教えや命令に関しても、すでにナラティブで造られたイメージがありますので、応答しやすいものになっていると思います。

では、聖霊はどうでしょうか。御子と違って、御霊については、その人格的情報は限られており、いざ、御霊と交わろうと思っても難しいのではないでしょうか。辛うじて、ガラテヤ書、ローマ書、使徒の働きやヨハネ書などに、より詳しい、聖霊についての説明があります。ですから、これらを覚え、これらを頼りにして、ある程度まで交わることができるかもしれません。

しかし、御父や御子と同じようにはいかないでしょう。御霊は、むしろ、私たちと御父、私たちと御子との交わりを内側から助け、導く働きをしておられるからです。無理して、御霊と交わろうとする必要はないかもしれません。むしろ、聖霊の様々な働き(多くは内的働き)について、聖書は教えているので、それを信じて応答していくことが、聖霊との交わりと考えてもいいのかもしれません。

「神様との交わり」について、まだ分からないことがいろいろありますが、聖書をもとにしながら、さらに考えていきたいと思っています。

今、「信仰生活の秘訣は何ですか」、と聞かれたら、私は、毎日、神様と交わり、歩むこと、と答えるでしょう。
きょうも、明日も、内住の聖霊を意識しながら、御霊に助けていただき、導かれて、神様との交わりを味わっていきたいと思います。ハレルヤ!
2023-07-20 21:11:27[投稿番号:329]

パウロは「聖霊の内住」だけか?
ヨハネ(手紙)の「相互内住」との比較?
今、ヨハネの手紙における2種類の「内住」とパウロの「聖霊の内住」について比較しながら、いろいろ考えています。

ヨハネの2種類の内住とは、聖霊だけでなく、御父と御子が同時に内住されることが語られていることと、相互内住と言えるものが繰り返し語られていることです。

きょうは、パウロはどれくらい「聖霊の内住」を語っているのか、確認していく一環として、「御子(御父)の内住」について少し考えてみたいと思います。

例えば、?ローマ8:10では、「キリストがあなたがたのうちにおられるなら」と言っています。他に、?ガラテヤ2:20に「キリストが私のうちに生きておられる」、?エペソ3:17「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住ませてくださいますように」、?コロサイ1:27「あなたがたの中におられるキリスト」などがあります。

まず言えることがあります。たとえ、聖霊が内住しておられるとしても、三位「一体」的に言うならば、同時に、御父も御子も、内住しておられると言っても誤りではないということです。

では、上記の節における「御子が私たちの内におられる」の意味は何でしょうか。
?について、私は、「キリストが」は、「キリスト(の御霊)が」の省略形ではないかと考えます。実際に、9節から11節までにおいて、圧倒的に「御霊の内住」が繰り返されているからです。また、ここは、ただ表現として「神の御霊」→「キリストの御霊」→「キリスト」→「イエスを死者の中からよみがえらされた方(御父)の御霊」→「あなたがたのうちに住んでおられるご自分(御父)の御霊」のように、パウロは、ここで、敢えて多様に表現を駆使しながら、聖霊のことを語っているとも言えるでしょう。

?について、ここは、客観的に「キリストの内住」を語っている箇所ではなく、比喩的に、霊的に表現している箇所です。つまり、20節の初めに「もはや私はいきているのではなく」とあるように、パウロは、比喩的に、「自分は死んでいる」と言っています。その流れで、「キリストは、(死んでいる)私の内で生きている」と言っているのです。パウロ自身は死に、キリストが生きているということです。これは、律法との関係において、根源的に、生死が語られています。

?ここは、三位一体的な祈りがささげられているところです。その中で、17節において、「信仰によって(通して)」、キリストが心に住まれるようにという祈りがささげられています。ここは、第一に、今すでに「キリストの内住」があるといっているのではありません。これを求めています。第二に、これは、「信仰による」もの、つまり、信仰の働きをとおして、キリストが心に住まれるようにという祈りであり、すでに事実として、聖霊が内住しておられることと矛盾することではありません。

?ここは、ギリシャ語をそのまま訳すと「それは、あなたがたにある(内にある)キリストである」となります。ここは、非常に多様に解釈できる箇所で、「キリストの内住」のことを言っているのではなく、例えば、「あなたがたが信じているキリスト」「あなたがたの信仰の基であるキリスト」などのように、キリストと「あなた方」との関係の深さを教えていると言えます。

纏めたいと思います。三位「一体」的に言えば、キリストが私たちの心に「内住」しておられると言っても、少しも間違っていないと言えます。ただ、上記で挙げた4つの箇所では、特別に「キリストの内住」を教えているとまでは言えないのではないかと考えますが、どうでしょうか。

たぶん、次回は、ヨハネ福音書や手紙において、内住、またはそれに近い表現などを見て、さらに、聖霊の内住について考えたいと思います。ここまで、お読みくださり、感謝いたします。

聖霊は、私達の心に内住しておられます。また、この聖霊の内住において(通して)、私達の心に御父と御子も内住しておられると言えます。
ハレルヤ!
2023-07-14 20:41:13[投稿番号:328]

いのちの御霊に仕える務め:2コリント3章前半
夏学期が始まりました!
夏学期の「聖霊論2」の準備をしながら、教えられたことがあります。それは、2コリント3章前半に書かれていることです。一言でまとめるなら、私達は今、「いのちの御霊に仕える務め」にあずかっているということです。

これまで、どちらかというと、内住の御霊は個々人の信仰生活にとってどんな意味があるのか、どんな益があるか、いろいろ考えてきたと言えるでしょう。しかし、2コリント3章に来た時、私の思いは新しくされたように思います。かつてのモーセの務めと比較しながら、パウロが「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました」(6節)と書いているように、私達には、人々を真に生かす「いのちの御霊」の働きに仕える務めが与えられていることに気づきました。

もちろん、私たちは、「和解の務め」を受けている「キリストに代わる使節」でもあります(5章)。ですから、私たちは、繰り返し、キリストに代わって、「和解のことば」を語り続けていきます。
しかし同時に、人々に神様にある永遠のいのちを与える聖霊に仕えていると言えます。なんとありがたい、光栄ある奉仕でしょうか。

時々、伝道牧会の壁にぶつかってしまいますが、あらためて、私自身が、(残りの時間は限られていますが)、永遠の命を与える働きをつづけておられるご聖霊に仕えていけることの特権を知り、喜びを感じることができます。ハレルヤ!

夏学期が始まり、クラスの数は少なくなりましたが、聖霊論2において、参加していてくださる塾生の皆さんと共に、いろいろ考えながら、今まで考えてきたこと、学んできたことを統合していきたいと願っています。感謝します!
2023-07-07 17:54:42[投稿番号:327]

A.M.Stibbs & J.I.Packer著『The Spirit Withing You』から
感謝:私塾の春学期が終わりました!
感謝いたします。昨日、私塾の春学期(最後のクラス:聖霊論)が終わりました!y

少し時間がとれましたので、久しぶりに夫婦でミニ旅行をしました。車では時間がかかり疲れるので、今回は、電車で行くことにしました。電車の中では本が読めるので持っていた本が、『The Spirit Within You』という、55年以上前に、A.M.スティブスとJ.I.パッカーが書いた本でした。

半世紀も前の本で、たぶん、カナダ時代に、古本屋さんで見つけたものでしたが、ここで言われていることは変わっていない、聖書の重要な真理の一つだと思わされました。
私の本棚に、たぶん30年間位、眠っていたと思われますが、本の題名がよかったのと、著者の一人が、パッカー先生だったので、読むことにしました。

その一部を紹介します。

「一般の小教区の教会に出席する、あるいは多くの教会を1年の間、訪ねて来る人について想像してみなさい。その期間が終わるまでに、その人は、神の民の内に住まわれる聖霊の賜物が、教会としても個人としても、福音書が明らかにしている至高で最高の祝福であることを十分に確信できたと思うか。それは疑わしい?イエス・キリストの位置と働き、悔い改めと赦しの道、教会の必要性、クリスチャンの業については多くを学んだかもしれない。しかし、そのような中でさえ、聖霊について多くのことを聞いたと言えるだろうか。聖霊の内住の真の意味を理解し、聖霊の力の全体を体験するようにクリスチャンを導く、聖霊に関する明確な教えは、今の時代には悲しいほど稀なものであることを率直に認める必要がある。
しかし聖書は、聖霊の与えられることとその働きを、神の寛大さの真のクライマックスとして、また、この福音時代の最高の栄光として表明しているのである。」

時々、ご聖霊のことばかり、語っていて大丈夫だろうか、間違った方向に行っていないだろうか。御子イエス様とのバランスは大丈夫だろうかなど、考えることがあります。

しかし本書のことばは、50年以上前の、スティブスとパッカーのものですが、なお、今の時代にも意味があると考えます。
これからも、与えられるあらゆる機会に、内住のご聖霊のことを語り続けていきたいと思わされます。感謝します!
ハレルヤ!
2023-06-30 18:27:38[投稿番号:326]

今、ヤコブ書を読んでいます。
聖霊論2をやります。
最近は、いろいろ聖霊論や夏学期のことを多く書いて来ましたので、少し内容を変えてみたいと思います。

我が家のベランダには、名前の分からない2本の木があります。花屋さんでも見たことがなく、珍しいそうなのでそのまま水をやって様子をみています。50センチ近くあるでしょうか。
それから、前にブログでも書きました、ジャカランタの木があります。イスラエルに行った時に、見つけた木で大事にしています。一昨年は花が咲きましたが、昨年はダメでした。今年こそと期待しています。

それから、パインの株(?)が10株ありまして、あるものはすでに一年以上経っています。あと、1?2年位で、パイナップルができるはずですが。ショッピングで、安くて美味しそうなパインを見つけると買ってきて、食べた後、ほとんどいつも、頭の緑の部分だけ残し、水につけておくのです。すると、根が出て来ます。時間がかかりすぎますが、実ができるまで、(枯れなければ)待ちたいと思います。忍耐のテストです。

玄関の両側には、ブーゲンビリア、ブルースター、台湾レンギョウ、ハイビスカスなどがあります。なんとか、寒い冬を今年も乗り切ってくれました。本当に感謝しています!

今、ヤコブ書をディボーションで読んでいますが、つくづく、これは、新約の知恵の書だなあって思っています。今朝は、3章1?12節でしたが、「舌を制御することの難しさ、大切さ」を学びました。しかし、適用まで来て考えました。これは、「舌」の問題ではなく、「心」の問題であると。
こうして、いつものとおり、心に内住していてくださる御霊に頼り、導かれ、満たされて歩んでいかないと、真に「舌」の制御はできないことを知りました。さらに、「心」を守るというよりも、もっと積極的に、御霊によって神様を愛し、隣人を愛する者へと変えられていく必要を教えられました。アーメン!

聖霊論2を、私塾でやることにしました。どうなるか、分かりませんが、これからもよろしくお願いいたします。ハレルヤ!
2023-06-23 18:10:23[投稿番号:325]