前回のつづき(2) | 「思い起すこと」について | 先週、「思い起こすこと」についてお話しましたが、今週もずっと「思い起こすこと」について考えて来ました。前回も書きましたが、言葉としては普通のことばのようですが、これは、重要な霊的な言葉、神学的な言葉であることが分かります。
時には、これがないと、これをしないと、致命的なことになってしまうでしょう。自分として、どこで、どのように「思い起こす」か(思い起こしているか、思い起すべきか)確認してみるとよいと思います。本当に、おすすめしたいと思います。
なぜなら、これこそ、クリスチャンが元気になる「時・場」であるからです。
前回も触れましたように、本当によく忘れてしまいます。ますます、そうです。他のほとんどについてそうですが、聖霊的なことについても同じようなことが起こります。
「何」を忘れるか。だから、「何」を思い起こすべきか…例えば、永遠のいのちの恵みとか、三位一体の神様の聖なる臨在とか、イエス様の溢れる愛とか、聖霊の内住の恵みとか…知的には十分に分かっていますが、生き生きとした知識(交わり)を持ち続けていきたいですね。
「どのように思い起こすか」…前回、お話した通りです。主日礼拝、個人礼拝(ディボーション)、兄姉との交わり、賛美…などいろいろありますが、大切なことは、これらは実際に行っていても、時々(しばしば)マンネリ化して、真に「生き生きとした知識」にならないのです。これらをしていれば、自動的にそうなるとは限らないということです。
では、どうしたらいいのでしょうか。つまり、真に思い起こすためにどうしたらいいのでしょうか。
まずは、これまでお話してきたことに気づいていただきたいということです。正直に、直面して、この問題に点検したいと思います。そして、真に「思い起こす」ことの必要を覚えたい(?!)と思います。
その上で、私として今大切にしていることをお話します。すべての人に間に合うかどうか分かりませんが、参考にしていただければと思います。
第一に、神様と交わることですが、その中で特に、神様とリアルに、正直に、おしゃべりすることです。私は今、おしゃべりする散歩を大切にしています。これで、だいぶ、リアルに思い起すことができます。もちろん、これもマンネリの危険があります。
慌てて、急いでやったらダメですね。
第二に、一日の中で、祈ったり、おしゃべりする回数を増やすことですね。10秒でも、20秒でもいいと思います。
第三に、暗唱聖句をすることですね。これは、たぶん、ご聖霊が、リアルに助けて、導いてくださる「場」になると思います。
第四に、これは、私はあまりやっていませんが、賛美を覚えて、口ずさむこともよいと思います。ただし、これも、マンネリ化します。
第五に、もう一つ、今試みていることがありますが、不十分、不完全なので、まだ公表しないでおきましょう。うまくいったら、お話させてください。
皆さん、リアルなことを、リアルに思い出しましょう。みことばと聖霊が助けてくださいますように。ハレルヤ! | 2023-09-08 18:19:08[投稿番号:336] |
最近考えていることから | 「思い起こさせる」ことについて | 最近、ディボーションで2ペテロ書を読み、考えるようになったことがあります。それは、「思い起こさせること」「思い起こすこと」の大切さについてです。
実は、2ペテロ書に「思い起こさせる」こととこれに類似した表現が多いことに気づきました。1章12節、13節、15節、3章2節にあります。また、他に、これに準ずる表現もあります。
コンコルダンスで調べると、これは新約で約25回位使用されていますが、私が思っている以上に重要なことばとして使われていることが分かり驚いています。皆さんも、欄外注などで調べてみてください。
初め、2ペテロを読みながら、「思い起こす」ことの重大さに気づいいていませんでした。ただ、忘れやすい読者たちを意識して、ペテロが、ある意味で、普通のことを言っているようにしか思えませんでした。
しかし、「思い起こす」ことは、すべてのクリスチャン(特に忘れやすい老年期の私に)に必要なこととして語られていることが分かってきました。また、「思い起こす」ことも、聖霊の働きの一つであり、これは、普通のことばではなく、重要な神学用語ではないかとさえ思えるようになりました。
朝起きると、すぐに口から「神様(感謝します!)」と祈りのことばが出て来る時はよいのですが、「眠たいなあ、疲れたなあ、起きなきゃあ」などという思いでいっぱいになる時があります。
私は、朝目覚めたときの自分の最初の思いや考えを(スマホのアラームで起きますが)、自分で決めることはできません。初めは、かなりボーっとしています。。。目覚めた瞬間、いつも、「神様、おはようございます!」と叫びたいのですが、なかなか、でそうはいかないのです。
ですから勝負は、その後の準備(洗顔など)、お祈り散歩、神様とのおしゃべり、個人聖研などを通して、ボーっとしている状態から、また、マンネリやマンネリになりそうなディボーションから、どのように信仰を新たにさせられて、一日を歩み出すかということです。
ここで重要なことは、先にお話しをさせていただいた「思い起こす」ことです。生き生きと、三位一体の神様の臨在や導きを思い起こすこと、生き生きと、みことばやお祈りを通して、神様を思い起こすことです。
悔い改めや再献身を通して、あるべき信仰生活を思い起こして歩んでいくことは何と大切なことでしょうか。
「思い起こす」ことは神様からの恵みであり、私たちの側からの応答の姿でもあります。聖霊のはたらきそのものです。
主日礼拝やその中での説教は、皆さんに、「思い起こしてもらう」時であり、その後の交わりや証しや賛美もそのように用いられる恵みの助けです!
礼拝に参加すれば、「思い起こしになる」とは言えませんが、毎朝、ディボーションしていれば「思い起こしになる」とは言えませんが、それらは、確かに、真に思い起こすための恵みの場として与えられていることは確かです。
さらに、本当の意味で「思い起す場」となっているのか、もう一度よく考えるべきことでもあります。
最近、私の信仰生活において、たくさんの恵みをいただいていても、忘れやすいので(一日で変わってしまうので)、「思い起こす」ことの大切さについて考えるようになりました。どんなにすばらしい体験をしても、明日が来ると、その多くを忘れてしまっている可能性があります。
そんな時、その上で、自分としては、どのように現実的に、日常的に「思い起こし」をするとよいのか、考えるようになりました。
今回は、そんなことで、このテーマで書かせていただきました。
皆さん、お読みくださり、感謝いたします。ハレルヤ! | 2023-09-01 20:55:08[投稿番号:335] |
ヨハネ1章33節「聖霊によるバプテスマ」とは? | 「その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である」 | 最近、少しずつ、ヨハネの福音書における「聖霊」について学び直しているところです。
その中で、まず注目したのは、1章33節です。ここには、バプテスマのヨハネのを遣わされた神の言葉が記されています。「その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。」
ここを読んであらためて、「聖霊によってバプテスマを授けること(聖霊の中にバプティゾーされること)」の偉大さ、特別さを感じました。なぜなら、ここで、神様は御子のことをこのように紹介しておられるからです。
いろいろと「聖霊によるバプテスマ(聖霊の中へのバプティゾー)」について考えました。
「聖霊によるバプテスマ」とは何でしょうか。これまで学んで来た範囲で言いますと、使徒の働き2章で起こった出来事(合わせて10章で起こった出来事も含めて)を指していると言えます。
では、その意味は何でしょうか。第一に、新たな意味で、次元で、聖霊の時代が始まったということです。このことは、救い主イエス様が人となって私たちの所に来られたことに匹敵します。新しい終わりの時代が始まったのです。
第二に、旧約時代以降、神様の働きを全うするように神様にある働き人たちに聖霊が注がれたように、新たなかたちで、レベルで、神にある働き人たちが用いられる時代が来たということです。これは、使徒の働き28章までにおいて例証されているとおりです(今も、継続中!)。
第三に、また、新たな救いの出来事が始まったということです。ある意味で、入口は個人的に信じて救われるが、キリストのからだ(神の民、教会)に全世界の人々が導き入れられるということです。
第四に、使徒の働きにおいて分かることとして、この聖霊は、キリストのからだなる教会を建て上げ、導かれてい行かれるということです。
第五に、この事は、使徒の働きではあまり明確ではありませんでしたが、ヨハネやパウロにおいて明らかにされていく事として、聖霊によって救われた者たちが、聖霊に導かれて成長していくということです(教会と同じように、建て上げられていくということです(→、約束の助け主、永遠のいのち、律法を全うしていく…)。
「聖霊によるバプテスマ(聖霊の中にバプティゾーされる)」時代の特別さをあらためて感じさせられています。
御父は、御子について、ここで、「聖霊によってバプテスマを授ける方(聖霊の中にバプティゾーする方)」と証言しておられます!
これは、偉大なことです。ハレルヤ! | 2023-08-25 18:11:13[投稿番号:334] |
使徒の働きとパウロの手紙の聖霊 | 聖書的な統合を求めて | 使徒の働きにおける聖霊について、あらためていろいろなことを教えられて来ましたが、これから、さらにヨハネの聖霊、パウロの聖霊に移っていきたいと思っています。
以前は(今は分かりませんが)、聖霊派は使徒の働きにおける聖霊を考え、聖霊派ではない福音派(両者はともに福音主義!)はパウロの聖霊を考えていると言われていましたが、それでとどまるのではなく、両者の統合が聖書的であると考えます。そんなことで、使徒の働きにおける聖霊の学びが終わりつつあるとき、ルカの聖霊とパウロの聖霊の統合について今考えていることを書かせていただきたいと思います。
福音書では、人となられた御子がナラティブで四重に描かれています(共観福音書+ヨハネ書)。こうして、私たちは御子の生涯を辿りながら、御子のことについて記憶し、思いめぐらすことができます。では、使徒の働きにおいて、聖霊のことがナラティブで描かれている意味(意義)はなんでしょうか。
一つは、御子のようにはいきませんが、それでも、私たちは、一つの重要な時期において、時間的に、空間的に、臨在し、働かれた聖霊について想うことができるということです。
みことばを手掛かりに私たちの信仰と想像力を働かせて、目で見ることのできない聖霊をある程度まで想うことができます。もっとももっと、全人格的に(視覚的、聴覚的、触覚的、臭覚的に)、聖霊とその臨在と働きについて知ることができればと願っています。
使徒の働きというナラティブの特徴(目的や状況も含めて)のゆえに、聖霊について知ることのできない面や要素があることも確かです(パウロの手紙にも同じように個別的な目的や状況があります)。
いろいろ積極的な面もありますが、そうではない面や難しさもあります。また、現代の私たちにとって不可欠な普遍的(さらに規範的)な教えを見つけようとする場合、特に解釈上の注意点などがあります。
当然のことですが、聖書にあるからと言って、それがすべて普遍的なこと(教え)になるわけではありません。まして、規範的になるとは言えません。徹底的に考察し、吟味していく必要があると思います。
パウロの手紙においては、どちらかというと、内的、内面的で、倫理的な面における聖霊の臨在や働きが描かれていると言えます、使徒の働きにおいては、外面的な取り扱いが中心で、内的な、内面的な聖霊の働きについての言及や描写が限られています。
また、それがあっても、非常に簡潔な表現になっています。かなり限定的で、聖霊論に関係して牧会的要素は少なく、圧倒的に宣教的、伝道的であると言えます。また、護教的な面があるかもしれません。とにかく、これらのことは、使徒の働きの目的などともリンクしてきます(テオフィロのために書いているので)。
こうして、これらのことを踏まえて、パウロの手紙などにおける聖霊についての教えと使徒の働きにおける実際的な臨在と働きとを統合していくことになります。
また、両者があまりにも違うので(違いが多いので)、それゆえに、私としては、ここにこそ、聖書的な統合の積極的な理由と必要を感じるのです。統合すべきであると思います。
ジャンルの違いとともに、それぞれが明らかにしている聖霊論にかなりの違いがあるからです。もちろん、無理やりに、表面的な統合については注意しなければなりませんが、これだけの差異があるので、両者の聖霊論をそのままにすべきではなく、聖書的にも、統合を求めていく必要があると考えます。
ここまで、お読みくださり、感謝いたします。
これから、ヨハネの聖霊とも、パウロの聖霊とも、統合を求めていきたいと思います。ご聖霊は一つで分けられません!ハレルヤ! | 2023-08-18 19:59:27[投稿番号:333] |
「使徒の働き」に書かれていない聖霊 | 前回のつづき | 前回は、使徒の働きにおける「聖霊の働き」の多様性について簡単に紹介しましたが、きょうは、他の書にはあるが、使徒の働きに書かれていない聖霊のいくつかの面に触れてみたいと思います。
どうしてそんなことをするかと言いますと、やがて、ルカの聖霊は、他の旧約の聖霊、共観福音書の聖霊、ヨハネの聖霊、パウロの聖霊と統合していくことになるからです。
以前は、聖霊派はルカの聖霊に立ち、福音派はパウロの聖霊に立つと言われていたことがありましたので(今は、分かりませんが)、そのままではいけないし、聖書的であるとも思いませんので、統合を試みていくための準備をしたいと考えています。
第一に、使徒の働きはナラティブ(物語)なので、どちらかというと、歴史的な流れ(物語の筋道)に沿って、起こった出来事を描写していくことが主になります。ですから、どうしても、一人ひとりの心の中に起こったことについて、細かく描写することはないか、あっても簡単に触れるだけになってしまいます。
第二に、聖書のナラティブには多くのスペーチが含まれていますが、そのスピーチについても限界があるように思います。上記の流れ(その枠組み)の中でスピーチが機能しているので、内面的な描写はどうしても限られてくるように思います。
では、実際に、使徒の働きに書かれていない聖霊について取り上げてみたいと思います。思いつくままなので、順番はバラバラです。
第一に、回心の時に実際に働かれる救いの御霊の働きについてはほとんど何も書かれていません。ただ、聖霊が来て、救いが起こり、また、救いが起こったことのしるしとして聖霊の到来が語られています。
第二に、信者の信仰成長に関しても、詳しくは書かれていません。多少ヒントになるものは、「聖霊のみたされていた」という表現くらいになると思います。バルナバ、ステパノたちの生き方を見よ、ということでしょうか。
第三に、使徒の働きにおける聖霊の働きの中心は、福音宣教を導かれることですが、その時に弟子たちが直面する恐れや弱さなどについても、ほとんど何も見ることはできません。あるとしたら、18章9節、23章11節、27章24節などになりますが、これらの時のパウロの心情についての説明はほとんどありません。私たちは、これらについては、パウロの手紙からよく知ることができます。
第四に、福音宣教の結果として、救われる人々が起こされ、集められ、キリストの群れ(教会)としての教会活動が始まりますが、これらに関係した聖霊の働きはありますが、詳細についてはほとんど知ることはできません。これらについても、手紙から見ることになります。
このように、使徒の働きにおける聖霊とその働きについて考えますと、特にパウロの手紙で取り上げられている聖霊の働きの領域と内容に関して、随分、違いがあることが分かります。
それは、目的と宛先(テオピロ)の必要が異なっているからです。また、ジャンルの違いもあります。もちろん、どんなナラティブかによっても違います。
簡単に触れただけですが、今回の試みから分かったことは、使徒の働きの特徴(特殊性)であり、そこに描かれている聖霊論の特徴(特殊性)です。こうして、最終的には、聖書全体において豊かに(多様に)描かれている聖霊の統合の必要性です。
なんとか、其々の違いや特徴を大切にしながら、聖書的な統合を試みていきたいと願っています。
ここまでお読みくださり、感謝いたします。豊かな聖書的聖霊を感謝いたします。ハレルヤ! | 2023-08-11 20:34:28[投稿番号:332] |
使徒の働きにおける聖霊 | いろいろ考えていることなど | 今、使徒の働き(後半:10章以下)の聖霊についてまとめているところです(『舟の右側』用の原稿準備として)。今回、いろいろと教えられることがありましたが、それは、前以上に、旧約や福音書、パウロ書簡などと合わせて、使徒の働きを読むことができるようになったからだと思います。
特に、きょう触れてみたいことは、聖霊の働きの多様性(豊かさ)についてです。旧約の聖霊についての学びの中でも感じましたが、使徒の働きにおける聖霊の学びにおいても、ますますそのように思っています。
中心になるのは、もちろん、ご聖霊が、弟子たち(教会)を用いて、福音宣教を世界大に導いておられることです。しかし、それだけかというとそうではありません。
聖霊は救いの御霊でもあります。救いの備えをし、救いを与え、救いの事実を明らかにしておられます。また、5章では、宣教と関係がありますが、弟子たち(教会)の祈りが聞かれたことのしるしとして聖霊が現れておられるのではないかと思います。
また、個人的な救いを導かれるだけでなく、教会全体の働きや増大のために聖霊は働かれたり、20章では、長老たちを群れの監督に立てられたのが聖霊であると言われています。
また、個々のクリスチャンが聖霊に満たされたり、聖霊に満たされた人として歩んでいます。聖霊は、「力」だけでなく、知恵、信仰、喜びの源でもあります。
おそらく、聖霊は、私たちクリスチャンの行動だけでなく、生き方、在り方にも関係しておられると言えるでしょう。
多くの場合、聖霊は「陰」の存在のように見えますが、必要な時には、「表」に出て来て、強制的に導かれた例もありました。個人的に、内的に働かれたり、グループ(各個教会)に働かれたり、いろいろなケースを見つけることができます。
旧約や福音書に書かれている聖霊の働き、パウロの手紙などに書かれている聖霊の働きなど…これらを合わせると、本当に聖霊の豊かな働きに驚かされるのではないでしょうか。
きょうも、今週も、実は、いろいろなところで、豊かに働いていてくださる御父と御子と御霊の臨在と働きを信じて、感謝し、崇めましょう!ハレルヤ! | 2023-08-05 20:26:13[投稿番号:331] |
J.I.Packerの『Life in the Spirit』から | …特に注目したこと、教えられたことなど… | きょうは、子どもたちのキャンプ場に行ってきましたが、車で片道2時間ほどかかり、かなり疲れてしまいました。
そんなことで、何か新しいことを書こうと机に向かったのですが、何にも出て来ませんでした。そんなことで、先週の土曜日、50年ぶりの同窓会参加で東京に行ったのですが、新幹線の中で読んだ本から、少し紹介させてください(きょうは、それだけになりそうです。すみません)。
J.I.Packer先生の本からの引用です(多少、意訳しています)。
*私は、幻や印象、預言が稀に来ること、しかし、ある信者たちには全く来ないことを、信じている。(15頁)
*ただ聖霊だけが、私達のうちに、私達の救い主に対する愛というものを創ることがおできになる。しかもそれは、ご自身の民への心からの同情と実際的な助けへとあふれ出る愛である。(40頁)
*クリスチャンの交わりは、愛と謙遜の表現で、助けたいという願いと助けられたいという願いから生まれる;
クリスチャンたちが、それぞれ学んできたことを互いに分かち合うことを通して、神様をよりよく知ろうとする共同体的な探求である。 交わりは恵みの手段である。交わりは私達が生きていくことのテストである。交わりは神様からの贈り物である。…聖霊こそが、私たちが交わることができるように導くお方である。(97頁以下)
*聖霊こそ、御子との個人的な交わりを導く方、聖霊こそ、御子に似る者へと造りかえるお方、聖霊こそ、私たちが愛され、贖われ、神の家族に入れられているという確信を与えて下さる方。(112頁)
*リバイバルの特徴:神様が来られる! 福音が、かつてなかったほどに愛される! 悔い改めが深化する! 聖霊の働きが速い!(123頁以下)
お忙しい中、ここまで読んでくださり、感謝いたします。 | 2023-07-28 19:36:09[投稿番号:330] |
神様との交わりについて想うこと | 三つの一つの不思議で豊かな神様 | 明日、予定がありますので、一日早く書くことにしました。
最近、ずっと考え、これが、信仰生活の秘訣(極意?)ではないかと思うことがあります。それは、一言で言えば、「神様との交わり」です。
私たちは、イエス様を信じて、「永遠の命」を受け、「神様の子ども」として歩み出しました。「永遠の命」は、クリスチャン生活において、実際には「神様との交わり」として現れるでしょう。「神の子ども」としての歩みの核(泉)になるものは、神様との交わり(また、同時に、兄姉との交わり)です。
神様との交わりは、毎日の生活において、私たちの力、守り、助け、導き、喜び、励まし、導きです。神様を愛し、隣人を愛して歩むための愛の力の泉になります。嬉しい時、悲しい時、苦しい時の居場所です。恐れを感じる時、心配な時、感謝の時、いずれの時も、私たちがおるべき「場」であると言えます。
こここそ、礼拝の場、再献身の場、賛美の場、正直に叫び祈る場、重荷を全て下す場です。私たち自身が変えられていく場、点検し、点検され、吟味し、吟味される場です。悔い改めて、再献身する場、再出発する場です。
ここでこそ、本当の決断ができます。また、しずまり、ずっと待つ場でもあります。ある意味で、孤独ですが、孤独ではありません。
自由におしゃべりし、とりなし祈る場です。御言葉に従い、応答していく場です。ここでこそ、自由でありながら、力を受け、み言葉に従う思い、力や喜びにあずかる場です。…書いたらキリはないでしょう。
とにかく、神秘主義ではなく、本当に、御霊の内住の恵みによって神の子どもとされ、「アバ父よ」と叫び、祈り、交わる恵みをいただく「泉」です。
三位一体的に考えます。私たちは、御子と御霊を通して神の子どもとされましたので、無限、絶対、永遠、完全、聖なる神様に向かって、「アバ父よ」と叫び、祈り、交わることができます。
御子について、聖書は、ナラティブを通して、人として歩まれた御子とその生涯における姿を私たちに物語っています。ですから、御子は分かり易く、近づきやすく、イメージしやすいお方なので、近づき、交わり易いお方であるとも言えます。
また、ナラティブだけでなく、他の、御子に関する様々な命題的な教えや命令に関しても、すでにナラティブで造られたイメージがありますので、応答しやすいものになっていると思います。
では、聖霊はどうでしょうか。御子と違って、御霊については、その人格的情報は限られており、いざ、御霊と交わろうと思っても難しいのではないでしょうか。辛うじて、ガラテヤ書、ローマ書、使徒の働きやヨハネ書などに、より詳しい、聖霊についての説明があります。ですから、これらを覚え、これらを頼りにして、ある程度まで交わることができるかもしれません。
しかし、御父や御子と同じようにはいかないでしょう。御霊は、むしろ、私たちと御父、私たちと御子との交わりを内側から助け、導く働きをしておられるからです。無理して、御霊と交わろうとする必要はないかもしれません。むしろ、聖霊の様々な働き(多くは内的働き)について、聖書は教えているので、それを信じて応答していくことが、聖霊との交わりと考えてもいいのかもしれません。
「神様との交わり」について、まだ分からないことがいろいろありますが、聖書をもとにしながら、さらに考えていきたいと思っています。
今、「信仰生活の秘訣は何ですか」、と聞かれたら、私は、毎日、神様と交わり、歩むこと、と答えるでしょう。
きょうも、明日も、内住の聖霊を意識しながら、御霊に助けていただき、導かれて、神様との交わりを味わっていきたいと思います。ハレルヤ! | 2023-07-20 21:11:27[投稿番号:329] |
パウロは「聖霊の内住」だけか? | ヨハネ(手紙)の「相互内住」との比較? | 今、ヨハネの手紙における2種類の「内住」とパウロの「聖霊の内住」について比較しながら、いろいろ考えています。
ヨハネの2種類の内住とは、聖霊だけでなく、御父と御子が同時に内住されることが語られていることと、相互内住と言えるものが繰り返し語られていることです。
きょうは、パウロはどれくらい「聖霊の内住」を語っているのか、確認していく一環として、「御子(御父)の内住」について少し考えてみたいと思います。
例えば、?ローマ8:10では、「キリストがあなたがたのうちにおられるなら」と言っています。他に、?ガラテヤ2:20に「キリストが私のうちに生きておられる」、?エペソ3:17「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住ませてくださいますように」、?コロサイ1:27「あなたがたの中におられるキリスト」などがあります。
まず言えることがあります。たとえ、聖霊が内住しておられるとしても、三位「一体」的に言うならば、同時に、御父も御子も、内住しておられると言っても誤りではないということです。
では、上記の節における「御子が私たちの内におられる」の意味は何でしょうか。
?について、私は、「キリストが」は、「キリスト(の御霊)が」の省略形ではないかと考えます。実際に、9節から11節までにおいて、圧倒的に「御霊の内住」が繰り返されているからです。また、ここは、ただ表現として「神の御霊」→「キリストの御霊」→「キリスト」→「イエスを死者の中からよみがえらされた方(御父)の御霊」→「あなたがたのうちに住んでおられるご自分(御父)の御霊」のように、パウロは、ここで、敢えて多様に表現を駆使しながら、聖霊のことを語っているとも言えるでしょう。
?について、ここは、客観的に「キリストの内住」を語っている箇所ではなく、比喩的に、霊的に表現している箇所です。つまり、20節の初めに「もはや私はいきているのではなく」とあるように、パウロは、比喩的に、「自分は死んでいる」と言っています。その流れで、「キリストは、(死んでいる)私の内で生きている」と言っているのです。パウロ自身は死に、キリストが生きているということです。これは、律法との関係において、根源的に、生死が語られています。
?ここは、三位一体的な祈りがささげられているところです。その中で、17節において、「信仰によって(通して)」、キリストが心に住まれるようにという祈りがささげられています。ここは、第一に、今すでに「キリストの内住」があるといっているのではありません。これを求めています。第二に、これは、「信仰による」もの、つまり、信仰の働きをとおして、キリストが心に住まれるようにという祈りであり、すでに事実として、聖霊が内住しておられることと矛盾することではありません。
?ここは、ギリシャ語をそのまま訳すと「それは、あなたがたにある(内にある)キリストである」となります。ここは、非常に多様に解釈できる箇所で、「キリストの内住」のことを言っているのではなく、例えば、「あなたがたが信じているキリスト」「あなたがたの信仰の基であるキリスト」などのように、キリストと「あなた方」との関係の深さを教えていると言えます。
纏めたいと思います。三位「一体」的に言えば、キリストが私たちの心に「内住」しておられると言っても、少しも間違っていないと言えます。ただ、上記で挙げた4つの箇所では、特別に「キリストの内住」を教えているとまでは言えないのではないかと考えますが、どうでしょうか。
たぶん、次回は、ヨハネ福音書や手紙において、内住、またはそれに近い表現などを見て、さらに、聖霊の内住について考えたいと思います。ここまで、お読みくださり、感謝いたします。
聖霊は、私達の心に内住しておられます。また、この聖霊の内住において(通して)、私達の心に御父と御子も内住しておられると言えます。
ハレルヤ! | 2023-07-14 20:41:13[投稿番号:328] |
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