妻の母の出身地である長崎に行ってきました!
黙示録における聖霊について
今週は、2泊3日で、妻の母の出身地である長崎市に行って来ました。妻の信仰の重要な一つのルーツになります。母が生まれた所、通った小学校、信仰をもった教会などを見て回りました。約50年前に召天していますが、聞けば聞くほど、周りの人たちに大きな影響を与えた信仰の母だったようです(私は会っていません)。若い時に信仰をもったゆえに勘当され、教会堂に住み込んで献身の訓練を受けたと聞いています。

たった二泊三日の旅でしたが、本当に豊かで濃厚な経験、しかも、毎日12000歩以上歩いて、クタクタ・ヘトヘト状態になりました(今も後遺症!)。いろいろな方々との素晴らしい、また不思議な出会いや導きがありました。本当に、神様に感謝します!

(つづき)聖書研究祈祷会での聖霊についての学びは、最後になりました。黙示録の聖霊について以下でまとめたいと思います。

*1章4節:「七つ(七重)の御霊から」
 4節からおそらく8節までが、パウロの手紙などにあるように、手紙の形式に則ったもう一つの「序論」になると思われます(9節から20節は第三の序論)。ここに含まれる「七つ(七重)の御霊から」に関して注目すべきことがあります。それは、私たちがよく知っている手紙の挨拶(祝福の祈りの内容・順序)と異なる部分があることです。「御父(今おられ、昔おられ、やがて来られる方)」の後に、「御座の前におられる七つの御霊」が来ていることです。

*1章10節:「私は御霊に捕らえられた」
 私としては、「御霊に導かれた、満たされた」で十分であると考えます。
*2章7節:「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい」、11節、17節、29節、3章6節、13節、22節もすべて同じ。
 「御霊が語っておられること」の内容は、どこからどこまでを指しているのでしょうか。これは、7節後半だけでなく、2節から7節までのすべてが御霊(と御子)のことばであると考えます。

*3章1節:「神の七つ(七重)の御霊と七つの星を持つ方」
 御子が「神の七つ(七重)の御霊を持ち続けておられる(?χω)」とはどういう意味でしょうか。ここでは、何よりも、御霊と御子の密接な関係が表されていると考えます。

*4章2節:「御霊によって導かれた(満たされた)」+場所や時など(1:10、4:2、17:3、21:10)
 4章2節には、「突然、すぐに」がありますので、より明確に、ヨハネが御霊にある状態になった(御霊に導かれた、満たされた)ことが分かります。しかも、前節に「ここに上れ」とありますので、17章3節や21章10節と同様に、この時のヨハネに、聖霊(と御使い)による空間的移動が生じたと言えます。

*4章5節「七つのともしび」、5章6節「七つの目」
 「七つの火の灯」は、神の七つの御霊を指しています。ここでも、御霊は、1章4節と同様に、御座の前におられます。「七つの火の灯が燃えている「現在分詞」」は、御座の前で神様の栄光を現わす御霊の働きを示唆していると思われます。
 5章6節「(子羊は)七つの角と七つの目を持っている。それら(七つの目)は神の七つの御霊であり、すべての地に遣わされている「完了形」。」「(七つ)目」は、直後にありますように、「(七つ・七重の)御霊」を指し、「知恵」とか、文脈的に、「見守り」などが含意されていると思います。さらに、「すべての地に遣わされている(?πεσταλμ?νοι)」の完了分詞の使用は、御霊の現在的な働きが示唆されていると考えます。つまり、王として着座しておられる御子にあって御霊は、今全世界に遣わされ働いておられるということです。

*11章11節:「いのちの息(御霊)が神から出て」
 「いのちの息(御霊)」も含めて、11節では何が語られているのでしょうか。この箇所の背後に、エゼキエル書37章10節前後の預言があることは確かです(直訳、その御霊(風、息)は彼らの内に入った。そして彼らは生きた。そして自分たちの足で立った。)。10節の「ルアッハ」については、すでに取り上げている通りに多重に理解できます。黙示録11章11節の「プニューマ」も同様です(「御霊、息、風など」)。ただし、実際に「彼ら」を生き返らせたと言えるのは、「息や風」ではなく「いのちの御霊」です。「いのちの息」と訳されても、ここにいのちの御霊の働きがあることは確かです(KJV訳「the Spirit of life from God」(神からのいのちの御霊)」)。

*14章13節:「御霊も言われる」
 9節から12節までは御使いのことばですが、その後に、「天からの声」と「御霊のことば」が続きます。内容的に(11節までには、裁きを受ける者たちの苦しみが語られ、これと対比して)、苦難の中にある聖徒たちに対して、「天からの声」(御子)は、殉教者たちの幸いを約束し、御霊も、殉教者たちに与えられる真の解放と究極の平安を語っておられます。
 注目できることがあります。第一に、14章は黙示録において最も重要な箇所の一つですが(12-13章における霊的戦いに続くエスカトンが描かれる)、ここで御子(天からの声)と御霊は、迫害下にある聖徒たちに対して、殉教の幸いと、その後の真の解放と平安を約束しておられるということです(殉教の可能性が否定されていない)。第二に、多くの場合、直接語っているのは御使いですが(1・1)、ここは、御子と御霊が連続的に語っておられる稀有な箇所です(22・17)。ここでも、必要なときに御霊は語っておられます!

*19章10節:「預言の御霊」
10節全体は次のようにまとめることができます。「御使いも、兄弟たち(ヨハネ)と同じように、神様からのことば、御子からの証し(証言)を受けて語る者たちですから、礼拝の対象にはなりません(拝んではいけない!)。礼拝するのは神様ご自身のみです。なぜなら私たちは、御霊に導かれて預言し(つまり、神のことばを語り)、イエスを証しする者たちであるから。」様々な解釈がある中で、最新のNIV訳は適切であると思います。「 For it is the Spirit of prophecy who bears testimony to Jesus」)。

*22章6節:預言者たちの(御)霊:「直訳:預言者たちの(御)霊「複数形」の神である主は。」
 「πνε?μα」(複数形)について、預言者自身の霊のことか、神的御霊のことかという議論があります。ここも、1コリント書14章32節と同様に、「S/spirit」で理解できると思います。

*22章17節:「御霊と花嫁(教会)が言う」
 第一に、17節を、終末の時代全体(ペンテコステからエスカトンまで)の呼びかけとして理解するとき、聖霊が、今も後も、御子の再臨の時まで教会(のひとり一人)とともにいてくださることが分かります。私たちの信仰生涯の最後までともにいてくださる救済論的御霊は、終末論的にも、最後の完成まで、教会(私たち)とともにいてくださるお方です。
 第二に、第一と重なりますが、御霊は花嫁である教会と一つです。教会は、御霊とともに、最後まで、また最後においても、再臨のキリストに向かって「来てください」と呼びかけることができます。「(御霊と花嫁が)言う」は、文法的に、三人称複数形、現在形の動詞です。第三に、こうして、御子による聖霊の注ぎ(ペンテコステ)で始まった聖霊時代(教会の時代、福音宣教の時代)は、御子の再臨をもって完了することになります!ハレルヤ!

聖霊のことが、聖書の初め(創世記1:2)から、聖書の終わり(黙示録22:17)まで書かれていることが分かりますが、それだけでなく、創造といのちの御霊は、再創造と永遠の命の御霊でもあります。

ここまで、頑張って読んでくださり、感謝します。御父と御子と御霊の三重の、豊かな祝福と導きがございますように。
2025-10-24 17:39:38[投稿番号:460]

今、ベランダにメロンが四個くらいできています
(つづき)へブル書以下の聖霊について
以前、4年くらいかけてパインができた話を書きましたが、今度は、ベランダに、ぶどうの木(2本)とメロンの実(ピンポン玉から野球のボール位の大きさ)4個できています。いずれも、いただいたものの種からできました!
これから寒くなるので、果たして大きくなるか心配しています。…「とうごま」を惜しんだヨナの気持ちがよく分かります。

さて、前回のつづきになりますが、パウロの聖霊が終わりましたので、へブル書から第一ヨハネの手紙までのご聖霊に注目してまとめたいと思います。


?へブル人への手紙における聖霊:
*御霊の働き:次世代(2・3)における聖霊の臨在と働きを見ることができます。特別啓示は続いていましたが、後の時代の「聖霊の照明」に繋がる事例があります(3・7、9・8、10・15-17)。

*御霊の人格:聖霊は人格のあるお方です(上記の例とともに、10・29)。
*御霊との交わり:御子との交わりがあるように(1コリント1・9)、聖霊との交わりもあります(6・4、他に2コリント13・13、ピリピ2・1参)。
  「6:4:一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって(聖霊との交わり)。」これは、3:14にある「御子にあずかる者」とほとんど同形です。
*御子と御霊の関係(三位一体):御子は、御霊によってご自身を御父に捧げられました(十字架:9・14)。「9:14:まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」

?ヤコブへの手紙における聖霊
*内住の御霊:文脈から、内住の御霊が私たちを愛し、慕っておられることが分かります(4・5)。「訳の可能性:または、聖書は意味なしに語っているとあなたは思っていますか。(神が)あなたがたのうちに住まわせた御霊は、ねたむほどに(あなたがたを)慕っておられます。」

?Iペテロの手紙における聖霊(ルカ、ヨハネ、パウロではなくペテロ)
*三位一体の神:「父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって(救い)、イエス・キリストに従うように」(1・2)。
*御子と御霊:聖霊は、十字架で死なれた御子を復活に導かれ(3・18)、キリストについて証しされる方です(1・11)。参照「NIV For Christ died for sins once for all, the righteous for the unrighteous, to bring you to God.
He was put to death in the body but made alive by the Spirit,」
*私たちと御霊:終末論的な御霊は、今も後も、キリストの栄光に与る者として私たちを最後まで守り導いてくださいます(4・14)。

?ユダの手紙における聖霊
*聖霊の内住と祈り:「御霊を持っていない(人たち)」(19)から、逆に御霊に属し、その支配や導きの中にいる人たち、また御霊の内住についても考えることができます(「御子を持つ者」1ヨハネ5・12参)。このような者たちは御霊によって祈ります(20。エペソ6・18参)。

?1ヨハネの手紙における聖霊
*聖霊の内住:3章24節と4章13節などから御霊の内住を考えることができます(他に、「注ぎの油」2・20、27。「神の種」3・9も関係があるでしょう)。つまり、聖霊の内住が前提であるということ。
*聖霊の働き:御霊は、私たち(個人、教会)と神様の間の相互内住を明らかにされます(3・24、4・13)。また、真理の御霊として御子ご自身を証しされ(5・6?8「水(ヨルダンでの洗礼)」と「血(十字架)」は合わせて御子の公生涯全体を表す。ヨハネ15・26、16・13?15)、イエス・キリストに対する私たちの告白を導かれます(4・1?3。1コリント12・3参)。

次回は、最後の最後に、黙示録における聖霊について触れさせていただきたいと思います。お読みくださり、感謝します!
2025-10-17 17:19:49[投稿番号:459]

こんどは、聖霊と終末(論)の関係です
聖霊論4が始まりました!
今週の木曜日から、聖霊論4が始まりました。6名の参加者が与えられました。ともに、ご聖霊について学ぶことができることを神様に感謝します!

ご聖霊について知ることは、本当に、色々な意味で「益」(ヨハネ16:7)です。三位一体の豊かな神様が分かります。内住の御霊の恵みが分かり、信仰生活と教会生活において、御霊に導かれていきたいと願うようになります。内住の御霊は、どちらにとっても必須の基軸です。

これまでは、どちらかというと、「御父から、御子にあって」だったかもしれませんが、これからは、さらに「御霊によって」歩むことを教えられ続けていきたいと願っています。

今週の聖書研究研究会は、聖霊論の学びの16回目で、聖霊と終末(論)について学びました。終末論の内容の基本線は、再臨のイエス様を待望しながら生きること、最後に再臨のイエス様はどのように来られるか、来られたら、その前後において、私たちはどうなるか、などですが、この終末の時代を生きる私たちにとって、聖霊はなくてはならないお方です。私たちは、御霊に導かれて、この終わりの時代を歩み、再臨の御子を待望するからです。

以下に、聖書研究祈祷会で使用したレジメのポイントを載せたいと思います。

聖霊論的終末論:パウロが教える終末論の基軸は聖霊である!

*第一に、内住の聖霊のゆえに、「すでに」と「まだ」の恵みがある。この二重の恵みについての言及箇所の一つはエペソ書1章13?14節です。「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」
聖霊は、私たちひとり一人に、また教会に、「すでに」来ておられ、与えられている(「すでに」の恵みがある)。そしてこの恵みは、「まだ」完成してはいないが、再臨のキリストを通して明らかにされる「完成」にあずかる保証になっていてくださることが分かる(「まだ」の恵みがある)。

*第二に、内住の御霊は、天の御国の前味である。第一と結びついている。直接的な言及はほとんどないが、内住の御霊は、「保証、認証」だけでなく、やがて迎える天の御国の「前味」であり、「前味」の源である(ローマ14・17)。具体的には、御霊にある(のゆえの)喜び、平安、愛、力、交わり(賛美・祈り)、聖さの経験など。ひと言で、「永遠のいのち」の祝福、「御国」の祝福である。
礼拝式や聖餐式はその「現場」である。

*第三に、キリストの再臨前後に与えられる恵みがある(1テサロニケ4・16?17:?栄化の恵み、?聖霊に属する新しいからだにあずかること、?復活の保証)。キリストの再臨前後における聖霊の働きについて、直接言及している聖書箇所はほとんどないが、考えてみたい。?栄化の恵み:御霊の確かで重要な働きの一つとして「聖化」があるので(上記の救済論参照)、この後の「栄化」も聖霊の働きとして考えることは間違っていないと思われる(ガラテヤ5・5、ローマ8・30「文脈的に」、1ヨハネ3・2?3)。?聖霊に属するからだに与ること(1コリント15・35?55)。?御霊は復活の保証でもある(ローマ8・11「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって(のゆえに)、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」

*第四に、聖霊的終末論にも、伝道・宣教、奉仕などの働きが含まれる。御霊は、私たち(個人と教会)に委ねられている終末論的使命を全うしていくことができるように私たちを導かれる。これらのほとんどは、これまで学んで来た救済論や教会論とも重なる。最後に、終わりの時代に不可欠な聖霊的な識別についても聖書は教えている(マタイ24:42、1ヨハネ2:18?29、4:1?6など)。私たちは、みことばと御霊によって、様々な出来事や現象、教えなどが神からのものか識別することが求められている(1ヨハネ3・24、4・13)。これも、聖霊論的終末論に含まれるだろう(マタイ24・14「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」。

*第五に、より広い視点から、聖霊は再創造の御霊である。聖霊は、創造の御霊であり(創世1・2)、再創造の御霊である。これは、エゼキエル書36?37章などにある終わりの時代の聖霊預言、イザヤ書(3か所)のメシア預言+聖霊預言、ヨエル書の終わりの日における聖霊預言(たぶん、ローマ8・19?30)などからも明らかである。聖霊は、教会(個々の教会)的にも、個人的にも(私たちひとり一人)、「終わりの新しい時代の御霊」(旧約における終末的な聖霊預言の成就)であり、「終わりの完成の時の御霊」である。また、これらの間で、聖霊は、私たちを「完成に向かって導く御霊」であると言える(ローマ8・14?17、23?30、2コリント3・18、ガラテヤ5・5、6・8。黙示録22・17参照)。
  
*次回は、たぶん、パウロ書の後の、へブル書から黙示録までから分かる聖霊についての教えをまとめたいと思います。

長々とお読みくださり、感謝いたします!
2025-10-10 18:07:22[投稿番号:458]

つづけて、聖霊と教会について
特に、キリストのからだと聖霊の関係
今週で、私塾の夏学期が終わりました。少し、ホッとしていますが、来週から、秋学期が始まります。クラスは結局一つだけで、聖霊論4になりました。集中していきたいと思います。感謝します1

現在手もとになる原稿で、A4で44頁ありますので、聖霊論5まで続くかもしれません。

自分なりに、これまで、約40年かけてご聖霊について学んで来ましたが、その学びの一つのまとめ、くぎりになるかもしれないと思っております。また、初期に学んで来たことの多くを忘れていることに気づき、愕然としましたが、今、少しずつですが、やり直し、思い起こしているところです。

40年の間、ご聖霊について学びつつ、生活や奉仕の中で、確認しながら、歩んで来ました。本当に感謝です!

神様が、40年前に「留学!」を示してくださり、実際に道を開いて下さいましたが、その時から、つづけてきたのが、ご聖霊についての学びでした。ですから、この、ご聖霊についての学びも、決して自分勝手な学びではなく、神様の憐れみと恵みによって与えられた道にちがいないと思うようになりました。

神様が、本当に始めてくださった道であるなら、神様が、この終わりを迎えつつある私の学びの道と、御霊にある生活を、まとめをさせて下さるにちがいないと考えます。また、そのように祈り、期待しているところです。いずれにしても、この、ご聖霊についての学びも、神様の御手にお委ねしつつ、歩ませていただきたいと願っています。

以下は、今週の聖書研究会の学びの一部です。お読みください。感謝いたします。

「教会はキリストのからだ」(コロサイ1・24)である。

*?コロサイ3:15(信じてからだの一員になる):私たちは御子を信じて、キリストのからだの一員とされた。「・・・あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。」・・・私たちは今、御子を信じて、一つのからだの一員(一器官)とされたという事実がある。また、1コリント12:13(「私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」)からも、私たちが御子を信じて、キリストのからだに入れられたことが分かる。⇒しかも、このことは同時に、一つの御霊の中にバプティゾーされ、一つの御霊を飲んだ(飲む者とされた)ことでもある(1つのからだへ、一つの御霊へ)。

*?ローマ12:3?8、1コリント12:4以下(複合的、相互的関係・交わりをもつからだ):比喩的表現であるが、実際には比喩を超えている。兄姉における多様性と一つ性(調和)の有機的交わり(コロサイ1:24、3:15など)。様々な違いを超えて一つにされているいのちの交わりを表す(1コリント12:14?30も)・・・しかも聖霊は、ひとり一人の賜物の多様性と一つ性のみなもとである(1コリント12:13)。

*?エペソ5:28?33(「かしら」なるキリストといのちの関係をもつからだ):教会がキリストのからだというとき、ここに、教会(からだ)に対するキリストの愛と憐れみ、守りの意味、またからだである教会(私たち、またひとり一人)からのかしらなるキリストへの信頼や愛の応答などの意味がある。⇒かしらなるキリストとの交わりや信頼、従順への内住の御霊は私たちを導かれる。

*?エペソ1:23(かしらなるキリストとの交わりの結果):*「キリストの平和(平安)」がある:「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです」(コロサイ3:15)、「キリストの臨在(栄光、祝福)の充満がある「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ1:23)。⇒これも内住の御霊の臨在と働きの結果であると言える。

*?エペソ4:12(成長するからだ):教会はからだのように(キリストに向かって)成長していくことを教えている。「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」4:16:「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります」(エペソ2:21?22、4:11?16)⇒聖霊による教会の内的外的成長、成熟、増大の働きと一つである(使徒9:31、2コリント3:18、エペソ2:21?22など)。

*?ローマ12:3?8、1コリント12:4?11(様々な働きや奉仕を共にするからだ):教会は、キリストのからだとして、からだの内外のためにともに奉仕する者たちのこと。目的は、キリストを通して神があがめられること(1ペテロ4:11)。また、からだなる教会は、世界においてキリストにある「平和の証し」(エペソ2:11?22、コロサイ3:15)。

長い所をお読みくださり、感謝いたします。
2025-10-03 18:04:43[投稿番号:457]

つづけて、聖霊と教会について
御子にあって、御霊によって
私塾の夏学期もあとわずかで終わります。今は、秋学期の「聖霊4」の準備をしているところです。

また、前回もお話ししましたように、聖霊と教会の関係について学び続けています。御子と教会はこれまで注目されてきたかもしれませんが、御霊と教会はそれほど多くありません。

あらためて学び直し、その上で、教会論における「御子にあって、御霊によって」を考えたいと思っています。この点で、カギになるみことばの一つは、エペソ2章21?22節です。
「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」


今、聖書研究祈祷会で学んでいることを紹介します(前回の続きです!)。

*聖霊による教会の始まり:
  *御子を信じ、御霊によって個人的な救いの道が始まったように、教会自体も聖霊によって始まり、教会生活も御霊によって始まったと言える。
  *ペンテコステによって教会が始まる(ナラティブ:使徒2章、パウロの手紙:1コリント12:12?13節にある)
  *個々の教会も御霊によって実際に始まり、教会生活も御霊によって始まったと言える(ガラテヤ、テサロニケ)

*聖霊と教会生活(?礼拝、?交わり、?奉仕など)の関係:
  *「教会生活全体に不可欠な聖霊」:聖霊と教会生活の関係を表す代表的なみことばの一つは、エペソ5章18節(私訳「むしろ、御霊に満たされ続けなさい」)から21節までにある通り。また、この命令は、個人的であると同時に、教会的です。文脈は、教会生活についての教えですが、実際には、教会のひとり一人がまず御霊に満たされ、その恵みが、教会の礼拝や交わりにおいて分かち合われ、教会生活や信仰生活、家庭生活全体に及んでいくと言える。

  *?「御霊と礼拝、聖礼典など」:御霊は、礼拝や聖礼典などにどのように関わるのか。このことを直接教える聖書箇所は多くない。ここでもまず注目できる箇所はエペソ5章18?21節である(礼拝、賛美、交わりなど教会生活全体と聖霊が重要な関係にあることを教える)。他にも、御霊による礼拝(ヨハネ4・23?24、ピリピ3・3)や御霊による祈り(エペソ6・18)もある。御霊と説教(みことば、聖礼典「経験するみことば」)も御霊の臨在と働きに結びついている。

  *?「御霊と教会の交わり」:御霊は、教会(何よりもその交わり)に内住され、多様な私たちを、神様のみこころにふさわしく整え、「一つの神の国の民、一つの神の家族、主にある聖なる宮、神の御住まい」(エペソ2・18?22)として導いて下さる。パウロは、次の箇所からも、聖霊と教会(生活)について語っている(ローマ14・17「神の国は御霊による義と平和と喜び」、1コリント12・4-11「多様な賜物は一つの御霊の現れ」、ガラテヤ5・16-6・10「御霊によって歩み、互いに愛し合うこと」、エペソ4・1?6「御霊による一致を熱心に保ち続けること」、ピリピ2・1?11「キリストにある交わり、御霊との交わり」、コロサイ1・8「交わりにおける御霊による愛」)。
  *「御霊にある多様性と一つ性:調和と一致」:多様な私たちは、そのままでは罪のゆえに分離や分裂しかないが、一つの御霊にあって(の中で)一つとされ、「キリストのからだ」の一員にされている。多様性も一つ性も、どちらも御霊から来ている(1コリント12・4?13)。

  *?「御霊の賜物の行使、奉仕:一つの御霊にある様々な賜物(奉仕)は、キリストのからだなる教会の交わりや活動のために与えられ、最終的には教会を建て上げ、「イエス・キリストを通して神があがめられる」(1コリント14・12。1ペテロ4・7?11参)ためである。賜物をおもに行使する「場」は教会(特にその交わりや活動)であるが、パウロは、様々な賜物とそれを用いる奉仕について具体的に取り上げている。例えば、(永遠のいのちのために)御霊に仕える奉仕(2コリント3・6?11)、礼拝などにおける様々な賜物とその使用(「知恵のことば、知識のことば、信仰、癒やし、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、種々の異言、異言を解き明かす力」1コリント12・4-11、「使徒たち、預言者たち、力あるわざ、癒しの賜物、援助、管理、種々の異言」27?28。
  *他に、ローマ12・3?8、エペソ5・18?21など)、また賜物の中で、特に「預言(の賜物)」は重要である(1コリント14・1、39、1テサロニケ5・19?22、1テモテ1・18)。

 次回は、もう少し、教会論に御子と御霊がどのように関わっておられるのか、その類似点や相違点に注目してまとめたいと思いますが…どうなるでしょうか。かなりのむずかしさを感じています。

 聖霊の個人的な内住を実感しますが、同じように今度は、聖霊の教会的な内住の実感について考え、求めていきたいと思います。細かなところまで、色々お読みくださり、感謝いたします。ハレルヤ!
2025-09-26 17:54:23[投稿番号:456]

聖霊論的教会論を求めて
御子にあって、御霊によって
今週の聖書研究祈祷会から、パウロの聖霊論の学びが、(個人的な)救済論から、教会論になりました。

これまで、分かりにくかった「教会論」が、聖霊論的に考えるとき、少し分かり易くなって来た感じです。神学的にも、実践的にも。

どうしてでしょうか。
御子と教会論のつながりは当然緊密(前提)ですが、現在的、未来的な教会論を考える時、御霊と教会(論)の関係は、具体的で、聖霊的で、動的なように感じます。

まだまだ、このあたりの鍵を開けたばかりなので、分からないことばかりで、試論が多いのですが、以下のことは、イントロになると思います。
今週の「聖書研究祈祷会」で使った資料の一部です。


教会論的聖霊(回心時、またその直後に教会論的聖霊の働きが始まる・・・個人的な救済論的聖霊論とも重なる)

☆聖霊にある個人と聖霊にある教会の関係は、実際には、緊密で一体的で分けることは難しい!

 *御霊は、個人的に働かれますが、(ほとんど)同時に教会的に働かれ(使徒2・41-42、ガラテヤ5・13-26、6・1?10、エペソ5:18?21)、両者を区別することはしばしば簡単ではない(@聖霊として一つの働きだから。また、広い意味で、両方とも救済論的な働きであり、どちらも終末論と切り離せないから)。

*以下はその具体例である。
  *一人でみことばを学び、みことばに従う恵み。ともにみことばを学び、ともにみことばに従う恵み(コロサイ2・6?7、ヤコブ1・22-27、詩篇119・9)。
  *一人で祈る恵み、ともに祈る恵み(マタイ6・6、9-15、18・19-20)。*一人で礼拝する恵み、ともに礼拝する恵み(へブル10・25、ヨハネ4・24、ローマ12・1?2)。
  *一人で証しし、宣教する恵み。ともに証しし、宣教する恵み(マタイ28・18-20、マルコ5・19-20)。
  *一人で仕え働く(奉仕する)恵み。ともに仕え働く(奉仕する)恵み(1コリント16・2,2コリント9・6-7、ピリピ1・1-9、1ペテロ4・10-11)。

*教会から個人に流れる御霊の臨在と働きの恵み:
 ともに交わり(使徒4・32-35、エペソ4・1-16、ピリピ2・1?5)、ともに聖餐にあずかり(使徒2・41-42、1コリント11・23-32)、ともに苦しみ、ともに信仰の戦いをしていく恵み(使徒4・29-30、12・5、14・22、1ペテロ1・6-8、へブル10:19-39)。これらは、教会における聖霊の臨在と働きにあずかることを通して(またその中で)、これらに参与している私たちひとり一人が個人的に聖霊に導かれていくとも言える。
 「ともに交わること」(使徒2・42、エペソ5・18-20、ピリピ2・1?2)・・・それぞれの状況にもよるが、「交わり」における教会的な聖霊の臨在と働きの恵みが、さらに参加するひとり一人に個人的に及んでいくと言える。

*個人から教会に流れる御霊の臨在と働きの恵み:
 例えば、「御霊に満たされなさい」(エペソ5・18)は、まず何よりも個人的な出来事(体験)に関係しているが、それは、さらに合わせられ、教会的な出来事(体験)に導かれる恵みである。

まだまだ始まったばかりですが、神学的に、実践的に考えながら、教えられていきたい。聖霊様、教えてください!
2025-09-19 18:12:09[投稿番号:455]

1列王記17章から・・・5つの奇跡を求めて
最近のディボーションから教えられて
毎日のディボーションで、旧約のナラティブをずっと読み、学んでいます。最近、列王記に入り、17章まで来ました。ここは、皆さんもご存知のエリヤが登場して来るところです。アハブ王が来ると、エリヤが出てきます。

そして、次々に神様の奇跡が描かれています。カラスによって養われたこと。カメの粉も壺の油も尽きず。最後に、やもめの大切な息子が死んだのに生き返っています。

私は、これらの出来事を読みながら、自分自身の約47年間の生涯を思い起こしました。「死んだのに生き返った」経験はありませんでしたが、確かに、「カラス(?)」によって養われ、「カメの粉(?)や油(?)」は尽きなかったと言えます。

神学生の時だけでなく、生涯において、何度か、経済危機がありましたが、神様の奇跡によってここまで来ることができたことを、もう一度思い起こし、膝まづいて神様に感謝しました。経済危機だけは、「他言無用」の哲学で生きて来ました。

お祈りしながら、自分の信仰があまりにも常識的になってしまっていたことに気づきました。そして、あらためて、生涯の最後までに、ということで、「5つの奇跡」をお願いしました。神様を試してはいけませんし、それなら、全く意味がありませんが、神様との交わりの中で、5つのことを最後まで求め、祈りつづけていくことにしました。

神様は、いつ、どのようにして、5つの奇跡を起こしてくださるでしょうか。ひょっとしたら、天に召された後で実現することもあるかもしれません。いずれにしても、これらのことを楽しみながら、歩ませていただきたいと思います。

「5つのこと」って何?…とお訊ねになりたいと思いますが、これは、私と神様との間のことです。

どうぞ、カレブのように、最後の最後まで、「従い通していくことができますように」!ハレルヤ!
2025-09-12 18:08:42[投稿番号:454]

救済論における御子と御霊について
ここも、御子にあって、御霊によって、か?
これまで、約10回に渡って、聖書研究祈祷会の前半で、聖霊論の学びを続けています。ある程度まで、救済論(私達の救いと信仰生活)における聖霊の臨在と働きについての学びが終わりましたので、最後のまとめとして、救済論における御子と御霊について、またその中での御子と御霊の相互関係について考えています。

当然、難しいことが含まれますが、大切なことなので、少しだけ取り上げさせていただきたいと思います。

1)信仰の初め(回心・入信)において:
 *御子と御子の十字架のみわざを信じて救われ(罪の贖い、赦し)、御霊によって救いの恵みにあずかる(救いの適用:例えば、テトス3:4?6)。
 *御子を信じて永遠のいのちを受けるが(ヨハネ6:40、47、51)、実際にいのちを与えるのは御霊である(ヨハネ6:63、4:14と7:38-39)。

2)三位一体の神様と私たちの関係について:
 *御子の復活・昇天、ペンテコステ後の三位一体の神様を空間(場所)的に見分けると…(これは表なので記載が難しく、省略しました)

三位一体の神様(御父…御子…御霊)
天の御座(無限の空間)と私たちの世界(被造世界)と私たちの教会と私たちの心(内住)

 *三位一体の神様(御父、御子、御霊)は、私たちとともにおられる。
   *御父:旧約において繰り返し語られている(例:詩46:11、申命20:1、マタイ1:23)
   *御子:マタイ28:20「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
   *御霊:御霊が、イスラエル(私たち)とともにおられるという明確な表現は少ない(ヨハネ14:17、ローマ8:16。ただし、類似表現は非常に多い)

 *三位一体の神様(御父、御子、御霊)との交わりについて(@交わりの定義…相互的で自由な交際、交流)
   *御父:明確な表現はないが、交わりを意味する様々な形や内容の事例は多い。
   *御子:「1コリント1:9:神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」他にも、福音書には人となられた御子と弟子たちの交わりがある。
   *御霊:「2コリント13:13「御霊(と)の交わり」、ピリピ2:1「御霊(と)の交わり」(別解釈あり)」「御霊との交わり」を表す聖書的事例はないかも(上記の「交わり」の定義に立てば、御霊の場合はほとんど一方的なもの)。ただし、それでも御霊の「人格性」を考慮すると、「御霊との交わり」は否定できないだろう。

*三位一体の神様と「内住」について(御父と御子の内住に関して、微妙な箇所があるが否定できないだろう):
   *御父の内住の可能性について:下記のヨハネ14:23には、御父と御子の内住の可能性がある。
   *御子の内住の可能性について:「ヨハネ14:23:イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」また、三位一体的に考えるなら、御父と御子の内住も否定できないだろう。

以上は、今週学んだことですが、たぶん、続きは、次回になると思います。

今の私達の信仰生活における、御子の現在性、御霊の現在性について考えています。三位一体的には変わりはないと思いますが、それでも、御子は「御子にあって」、御霊は「御霊によって」、現在的に私達に関わっていてくださるのかな?と思っています。

きょうも、三重に、豊かに、御父と御子と御霊との交わりの中に入れられていることを感謝します!ハレルヤ!
2025-09-05 18:28:28[投稿番号:453]

聖霊の働きにおける救済論と教会論
今、特に感じていること
つづけて、「ちょうどいいかげんな組織神学的聖霊論」について考えている中で、これまで私が考えていた以上に、聖霊の臨在と働きにおいて、(個人的な)救済論と教会論が密接であることが分かってきました。

簡単に言えば、ご聖霊は、個人的にも、共同体(教会)的にも、ほとんど同時に、また、類似した働きを、両方の領域で合わせて続けておられるということです。したがって、あまりに個人的な面だけを強調するのも(現代)、聖霊の真の働きから外れるし、教会的な面だけを強調するのも(かつて、特にカトリック教会の時代)、間違っていると言えるでしょう。

聖霊の、広い意味での、救済論的な働きには、個人的な面と共同体的な面が共存しているという感じです。またこれは、旧約時代からずっと、新約時代も、今も継続しています。こうして、御国の完成においても、確かに、この両面が一つとして完成(回復)していると言えます。
どちらかでは、決してありません。

最近、妻と私は一体で、二人で「一人前」なんだと考えるようになりました。やっと考えられるようになったと言ったほうがいいかもしれません。
私の側は不明ですが、妻がしていることを考えると、私個人では絶対できないことをしていて、しかも、それが、結果的に、(私も含めて)私たちがやったことになっているということです。二人は一体だからです。ありがたい、というか、感謝なことです。

考えてみますと、このようなことはたくさんあります。子育てもそうです。子どもたちが今、一所懸命子育て(孫育て)をしているのを見ていると、本当に子育ては大変なんだとつくづく感じます。妻は、それをずっとやってきたのです(四人の子ども)。
しかし、四人の子育ても、本当は妻がほとんどをやってきたので、私も含めて、二人がやってきたことになっています。

なんで、こんなお話をしたかと言いますと、「二人で一人前」ということは、ある意味で、教会にも、その中のスモールグループにも、教団にも・・・当てはめることができると思ったからです。

教会は、それこそ、色々なタイプや賜物の人たちの集まりですが、バラバラではなく、それで、神様の前に「一人前(一つのからだ)」になるからです。それで、稲沢教会という一つの群れになるのです。

飛躍するかもしれませんが、個人性と教会性(共同体)は、神様の前では、私たちが思っているほど、別個のものではなく、御子にあって、御霊によって一つのからだ(一人前)であると考えられるのではないでしょうか。

最近、感じていることを、忘れないうちに、ちょっとだけ触れてみました。ハレルヤ!
2025-08-30 16:47:43[投稿番号:452]