私にとっての喜びの二つの源!
あなたにとっての喜びの源は何か?
今週、ある時に、ハッと気づいたことがあります。それは、私には喜びの源が二つある!ということです。

だれでも、喜びの源を一つ持っています。それは、この世に属しているもので、家族だったり、友人たちだったり、仕事や学びの中に、趣味や「推し」に関係するものだったり、です。

かつて、野球が大好きであった時(巨人ファンでした!)、巨人が試合に勝つと嬉しくて嬉しくて、その夜、またその後の一日ぐらいは喜びが続いていたと思います。しかし、巨人だけでなく、そのほか、どんなことでも・・・この世のすべてのものには限りがあって、残念ながら、長続きするものではありません。少し時間が経ったり、状況が変化したり、いろいろな要因はありますが、この世に属しているものを源にしている喜びは、しばらくするとドンドン小さくなっていきます。

もちろん、だからと言って、この世の喜びを否定しているのではありません。これらも、神様が与えてくださっている恵みの一つであると思っています。ただし、残念ながら、先ほども言いましたように、それは、私(たち)が願っているようには続かないのです。

今週、はっきりと、私は、喜びのためのもう一つの源を持っている!与えられている!と思いました。それは、永遠のいのちという喜びです。神様を知り、知られるという神様との交わりで、これは永遠に続くものです。いつでも、どこでも、ただ、これに気づけばいいのです。

これは、上記でお話したこの世に属するものではなく、神様に属するものです。ただ、どんな時でも、どんな状況でも、これに気づけば、喜びが湧いて来るのです。たとえ、この世に属することから来る喜びがなくても、すでに与えられている永遠のいのちに心を向けると、すぐに、私(たち)のこころは、永遠のいのちの喜びに満たされるのです。

これは、いいですね。この素晴らしさ、豊かさ、永続性に、あらためて気づきました。私には、二種類の喜び(の源)が与えられているのです。
喜びのないときでも、このいのちに目を向けると、喜びが湧いてくるのです。本当に、ありがたいことです。私達には、二つの喜び(の源)が与えられています。皆さんはお持ちでしょうか。永遠のいのちにある喜びに気づいておられるでしょうか。
2025-06-13 20:29:35[投稿番号:441]

『舟の右側」「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動を求めて」
第43号の原稿を書き終えて…
今週、『舟の右側』の編集者の谷口さんに43回目の原稿を送りました。黙示録における聖霊の「まとめ」(1000字位)が残っていますが、これで新約の聖霊のほとんどに触れ、終えることになります。最後は、「新約の聖霊」についてまとめたいと思います。これまでに3年半かかりました。谷口さんや読者の皆さんに支えられ、ここまで来ることができました。あらためて感謝し、神様のみ名を賛美いたします!

こんなに大変で、また時間がかかるとは思いませんでしたが、聖書からたくさんの発見をし、教えられたことが多くありました。以前、『聖書神学事典』で「聖霊」について書かせていただいた時、聖霊についてこのようにまとめました。「聖霊は、キリスト者にとって長くて、広くて、深くて近いお方である。」

このことは、「聖霊」について今も変わることのない、私自身の告白です。聖霊は、第一に、天地創造の時から再臨の時まで、ずっと私たちと共にいてくださる「長い」お方です。
第二に、聖霊の臨在と働きは、神様がお造りになった全世界のすべての者たちに及ぶものであると言えます。ですから御霊は、「広い」お方です。
第三に、聖霊は、誰よりも何よりも、私たちに深くて近いお方です。神(御父)の深みに及び、また私たちに内住して私たちの深みに及び、呻きをもって執り成して下さるお方です。この意味で、聖霊は、「深くて近い」お方であると言えます。

また、聖霊は、本当に豊かなお方です。個人的であると同時に、教会的であり、終末論的なお方です。花嫁なる教会とともに、再臨のイエス様に向かって「来てください」と叫ばれるお方です。また、ご聖霊は、表に出られるというよりも、多くの場合、「私たちの側」におられ、私たちに内住し、私たちの思いや行動と共に、臨在し、また働かれるお方です。

明後日は、ペンテコステ礼拝です。私たちのために、助け主、真理の御霊としてお出で下さったご聖霊を思い、歓迎し、特に聖霊の内住の恵みを分かち合いましょう。ハレルヤ!
2025-06-06 19:57:30[投稿番号:440]

最近教えられたことです!
モーセを用いられた神様について
今週、礼拝メッセージで出エジプト記32?34章から説教させていただきました。存続の危機に直面していたイスラエルのために、モーセは命がけのとりなしをしました。結果として、モーセのとりなしを通して、イスラエルはこの後も神様の臨在と導きを失うことなく歩めるようになりました。

一方で、聖なる神様の厳命(怒りやさばき)と、憐れみを求めてとりなすモーセの献身を対比して見ることができますが、神様がこのようなモーセをあえて用いてご自身に向かって語らせておられると取れないことはないと考えました。

神様は、全知全能の方であり、聖であり義であるとともに、怒るのに遅く、愛と憐れみに富んだお方なので(これらは、すべて神様の本性に属すること)、このような導きは、真の神様においてありうると思ったからです。

また実際に、神様は、似たようなこと(さらにそれ以上のこと)を、御子イエス様の十字架を通してやって来られたのです。神様は、一方で義なるお方、聖なるお方です。このことは変わることがありません。しかし同時に、愛と憐れみに富んだお方として、御子ご自身のいのちを通して、このことを表しておられると言えます。

人間にはできませんが、神様にはできます。ある意味で、自己矛盾になると言えるかもしれませんが、神様は、ご自身の本性の二つの面を同時に表すために、御子イエス様、ご聖霊、そしてまた、ここでは、モーセを用いて、ご自身の、時には二つの相反するような本性を表し、実行しておられると言えるのではないでしょうか。

このことを考えますと、モーセのいのちがけのとりなしの凄さからも教えられますが、その裏で、このようなモーセを敢えて用いて、ご自身のもう一つのみこころ(愛や憐れみのご性質)をも全うしていかれる神様の凄さに圧倒されてしまいます。

義なる神様は、ここまでして、イスラエルを赦し、また私たちをも贖い、赦しておられると言えます。讃美歌262番に「十字架のもとぞ、いと安けき、神の義と愛の会えるところ」とありますが、まさに、十字架の上で、神様ご自身の義と、御子の愛の裏側になる神様(御父)の愛がぶつかっていると言えるでしょう。ハレルヤ!
2025-05-30 18:30:20[投稿番号:439]

最近考え続けていること…聖霊論と救済論・教会論の関係
・・・まだまだ時間がかかりそう?
組織神学的な聖霊論について考えていることは、以前から書いている通りです。聖霊論を基軸にすると見える来るものがあります。それは、個人的な「救済論」や「教会論」との緊密性です。また、もちろん、これらは、終末論とも繋がっています。

聖霊論の中に「個人的な救済論」と「教会論」が含まれていると言ってもよいでしょう。よく知られているエリクソンの組織神学書でみますと、確かに、聖霊論の中で個人的な救済論が部分的に扱われていたり、教会論の一部として(聖霊の宮)、教会と聖霊の関係が簡潔にまとめて書かれています。そういういみでは、これらの間に緊密な関係があることは事実です。しかし、エリクソンの取り扱い方に関して言いますと、あまりにも、区別しすぎていて、救済論においても、教会論においても、それらと聖霊論の関係の扱いは非常に少ないと思えてしかたがありません。

言いたいことは、個別的に、救済論や教会論を扱うにしても、もっともっと聖霊論との有機的な関係がより深く、より広いのではないかということです。

この点で、今まで調べている組織神学書の中では、S.Grenzの組織神学書は、私にとっては理想的、理想に近いと思っています。以前にもふれましたのように、聖霊論の中で、聖書論を扱っているだけでなく、救済論も扱っているからです。
また、教会論は、別ものとして区別されていますが、実際に読んでみますと、教会論の中で、聖霊との関係が、より深く扱われていることが分かります。

他にもあるかもしれませんが、今まで調べている中では、グレンツのもの(構造と取り扱い方)は、組織神学的に聖霊を考え、整理していく上で重要な指針を与えてくれていると思います。

まだまだ、聖霊論を基軸にした組織神学の全体的構造を考えている段階です。これまでに読んできたいろいろな本を書庫から取り出して確認したりしているところです。まとめるのは、本当に大変ですね…思ったよりも、時間がかかりそうです。

ただこれまで、せっかく聖書論的に、旧約から新約までご聖霊について学んで来たので、これらの「よこのもの」をなんとか「たてのもの」にしてみたいと思っています。覚えて、お祈りください。感謝いたします。
2025-05-23 18:04:42[投稿番号:438]

神様が約束された全ての良いことが一つもたがわず実現した!
ヨシュア記23章14節から
最近のディボーション箇所は、ヨシュア記から士師記になっています。
ヨシュア23章14節を読んでいた時、その聖書箇所のすぐ上に、小さな字で「92、5月、イビの山で」と書き込まれていることに気づきました。

いろいろ考えていると大切なことが思い出されて来ました。なんと、92年5月は、カナダに行って丸4年が経ち、娘が生まれたこともあるので、日本の両親に娘(2歳直前)を見せようと、思い切って一時帰国した時のことでした。たぶん、2週間くらい日本にいたと思いますが、ある日、子ども達を連れて、思い出の揖斐の山に登りました(途中まで車で)。そして、その山の上にある「秘密?の場所」まで行き、(確か)皆で祈りました!

そこは、私が、5年前にここで祈っていた時に神様から声をかけられ(今でもそう思っていますが)、留学のきっかけになった場所で、私にとっても、家族全員にとっても、人生の方向を大きく変えられた、忘れられない祈りの山でした。

ヨシュア記23章14節を実際にいつ開いて読んだのか覚えていませんが、ここにある文言のとおりになっていることに気づき、思わずメモを書き込んだものと思います。

1988年に、私たちは(その時は5人で、後でカナダでもう一人生まれて6人になりました)、神様を信じて、思い切って、カナダに向かって出発しましたが、その時に考え、また期待していた通りに、いや期待以上に、守られ、導かれて来たことを覚えることができました。

今は、この時からさらに33年が経ちました。以前、子どもたちが帰省して来た時、質問したことがありました。「お父さんは揖斐の山で祈って、神様に導かれてカナダに行ったけど、あなたたちの人生にとって、このことは良かったかなあ?」子どもたちは、何も言いませんでしたが、それぞれが、カナダの経験を活かすような生活や仕事をしているようなので、神様は、私や妻にとってだけでなく、子ども達にとっても「益」としてくださったのでは?と思っております。

「…知りなさい。あなたがたの神、主があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを」

最近は神学的なことばかりお話していましたので、今回は止め、最近教えられたことを書いてみました。ハレルヤ!
2025-05-16 18:28:42[投稿番号:437]

組織神学的な聖霊論の試み(その2)
聖霊論的教会論について
最近、頭の中でずっと考えていることがあります。それは、「教会」とは何か、その目的は何か、です。理由があります。聖霊が「救済(論)」に深く関わっておられ、「教会(論)」にも同じように関わっておられるので、聖霊論の中で救済論と教会論を取り扱えないか、と考えているからです。ですから、あらためて、教会(論)とはなにか、考えています。

例えば、日本でもよく読まれていると思いますが(訳されているので)、エリクソンの神学書では、「・・・救い(Salvation)、教会(The Church)・・・」と区分されています。しかし、一般的にはそうですが、誤解されやすい分け方だとおもいます。なぜなら、「救い」と「教会」は実際には非常に近い概念だと思うからです。敢えて「救い」を言い換えますと、「個人の救いと、救われてから栄化前までの信仰生活(個人として信仰成長していくこと)」のことです。「教会」も敢えて言い換えますと、「救い」の直後に「家族・民・共にある者たち」とされ、栄化前までの教会生活(共に信仰成長していくこと)のことです。

敢えて、「教会」という言葉を避けましたが(いろいろなイメージがついて来るので)、基本的には、神様にある個人と集団ということで、両者に共通する多くのことがあります。例えば、一人で祈り、共に祈り、一人で証し、共に証しし、一人で聖書を学び、共に聖書を学ぶ。一人で礼拝し、共に礼拝する。いろいろ挙げることができます。

もし、「個人」だけにはないが、「集団」にあるものを挙げるとすると、「共に」ということでしょうか。「共にある者たち」として、どのように共に愛し合い、共に助け合い、共に交わっていくかを考えることになります。また、個人だけではできないが、集団的にすることができることもあります。

神様にある「集団」は、単に「個人」の寄せ集めではありません。個人的に神様を崇め、またともに集まって共に神様を崇め礼拝します。

色々書きましたが、まとめたいと思います。聖霊論的個人(個人的な救い、活動と成長)があるように、聖霊論的集団(活動と交わり、成長)があるということです。

これまで、一般になされて来た神学的区分として、(個人的な)救済論、教会論という分け方がありますが、私たちが思っている以上に、聖霊論的に、両者の内容は近似しているということです。

聖霊論に関して、組織神学的な区分のしかたについて、今のいろいろ迷っているところがあります。忍耐してお読みくださり、感謝いたします。

最後に、我が家のパイナップルは、今、5つが、げんこつ大以上に育っています!夏が楽しみです。カラスが来て食べませんように!
2025-05-09 19:33:04[投稿番号:436]

組織神学的な聖霊論の試み
聖霊論的聖書論について(旧約から)
これまでの聖書神学的な聖霊論から、少しずつ、組織神学的な聖霊論の試みを始めています。どうなるか分かりませんが、「試み」なので、いいでしょうと自分に言い聞かせています。

まず、一つの重要な科目として、「聖霊論的聖書論」があります。これは、私自身が始めたことではなく、S.グレンツのものです。いろいろ考え調べたのですが、これは非常に有効で、支持できるものではないかと思っています。以下の通りです。


 *聖書(論)を「アプリオリ」なものとして、全ての組織神学的試みの前提にしている組織神学書があるが、私は、なんと言っても、これを聖霊論の中で取り扱っていきたい。これが、神学であり、よりふさわしい形であると思う。
 
 *まず旧約に注目したい。神様(御父)と御霊と預言者(祭司)の基本的な関係は明らかですが(2歴代誌24章20節、エゼキエル1章3節以下、ミカ3章8節、ゼカリヤ7章12節)、特に、御霊と預言者の関係は密接です(1列王記18章12節、2列王記2章15節、エゼキエル11章5節)。神様(御父)の啓示は御霊を通して預言者などに与えられますが、神様のことばである聖書に関しても、預言者だけとは言えませんが、全ての書き手に対して、類似した流れを持っていると言えます(御父から御霊を通して預言者、聖書の書き手へ)。

 *他にも、聖霊と預言者の関係について注目すべき箇所がある:イザヤ48・16、34・16、ゼカリヤ7章12節。

 *御霊による「霊感」の働きについて(啓示、霊感、照明は一つで分けられない!):特に、「神様が書き記せ」、と言っておられるところに聖霊の霊感の働きがある、または隠されていると言えるだろう。

 *この後は、新約からどんなことが分かるか、さらに調べ、考えてみたい。


今、特に考えていることは、聖霊論的救済論と聖霊論的教会論の関係です。教会論は、聖霊論的救済論に含まれるかどうか。また、これは、聖霊論的救済論プラスアルファかどうか。今後も、聖霊論を中心にいろいろ学び、考えていきたいと思います。お読みくださり、感謝いたします。
2025-05-02 19:11:05[投稿番号:435]

パウロの聖霊から:パート5
神様が御顔を隠されるとは?
今、あらためて旧約の救済論(救い)と新約の救済論(救い)を比較しながらいろいろ考えています。両者の間にある連続性と非連続性は何か、考えています。詩篇の記者や預言者イザヤは次のように祈り、叫んでいます。「詩 69:17 あなたのしもべに御顔を隠さないでください。私は苦しんでいます。早く私に答えてください。」、「イザ 8:17 私は【主】を待ち望む。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みを置く。」他にも、申命記31章17-18節、32章20節など。

出エジプト記32章から34章において、大事件が起きました。その結果、イスラエルの民の大罪のゆえに、神様がもうイスラエルと共に行かれないと言っておられるのです。モーセは自分の全てをかけてとりなし、この大問題が起こることを阻んだことが記されています。

私は、神様がイスラエルから完全に撤退されることと「御顔を隠される」こととの間には、たぶん、違いがあるだろうと推測しています。後者は、ある意味で、ある期間、イスラエルから退かれるが、完全ではないということ、回復の希望が残っているということです。

新約時代(以降)に関して、聖霊論的に考えますと、新しい契約に基づき、イエス様の贖いは完全(動物による贖いではない!)です。そして、新しい契約の時代に、まさに御霊は私達のうちに内住されて、私達を回心から完成に至るまで導かれます。では、このような恵みの時代において、神様が御顔を隠されるような、これに匹敵するようなことが起こる可能性があるでしょうか。

聖霊論的に、これに近いことがあるとしたら、エペソ3章30節の「神の聖霊を悲しませること」、1テサロニケ5章19節の「御霊を消すこと」になるでしょうか。

答えは、なかなか見つかりませんが、私たちの自由を誰よりも尊重して共にいてくださる内住の御霊ご自身を信じ、認め、満たされ、従い、導かれていかないと、事実上、「御霊を消し続けている」状態になることは否定できないでしょう。ただし、少なくとも、最後の最後まで、御霊は私たちを待っておられると言えます!


?教会論的聖霊(これは、上記?の回心において、またその直後に、教会論的聖霊の働きが始まる):
  *聖霊と教会の関係について:
  *御霊は、上記のように個人的に働かれますが、同時に教会的に働かれる方でもあります(ガラテヤ5・6、13-26、6・1?10)。しかししばしば、両者を区別することは簡単ではありません(@聖霊として一つの働きだから)。

  *聖霊的な教会論のために基軸となる二つのみことばがあります。一つは、1コリント書3章16節にある、「あなたがたは知らないのですか。あなたがたは神の宮であり、神の御霊はあなたがたのうちに住んでおられるのです。」(私訳)で、キリストのからだなる教会への聖霊の内住(内在)を教えています。もう一つは、1コリント書12章13節で、パウロは、私たちがイエス様を信じた時に起こったことを教会論的に語っています。「私たちはみな、一つの御霊の中にバプティゾー(浸)され、一つの御霊を飲み、一つのからだとされました」(私訳)。表現は同じではありませんが、これらには旧約との連続性があります。

  *御霊は、教会の初めから終わり(キリストの再臨)までともにおられ、キリストの教会を導き続けておられます(ナラティブとして:使徒の2章から。また、ガラテヤ3章、1テサロニケ1章から。命題的には、例えば、1コリント12章13節から)。教会の初めについては、使徒の働き2章にある通りですが、個別的にも、聖霊は、教会を始め、建て上げ、導いておられます(上記?と?参照。1テサロニケ1・5?6、ガラテヤ3・1?5)。こうして、御霊が、最後の完成まで教会とともにおられ、導かれることは明らかです(ローマ8・23、エペソ2・18?22。黙示22・17参)。

  *聖霊と教会生活(交わりと奉仕など)について:
  *多様な私たちは、そのままでは罪のゆえに分離や分裂しかありませんが、一つの御霊にあって(の中で)一つとされ、「キリストのからだ」の一員にされています。

  *御霊は、教会(何よりもその交わり)に内住され、多様な私たちを、神様のみこころにふさわしく整え、「一つの神の国の民、一つの神の家族、主にある聖なる宮、神の御住まい」(エペソ2・18?22)として導いて下さいます。パウロは、次の箇所からも、聖霊と教会(生活)について語っています(ローマ14・17「神の国は御霊による義と平和と喜び」、1コリント12・4-11「多様な賜物は一つの御霊の現れ」、ガラテヤ5・16-6・10「御霊によって歩み、互いに愛し合うこと」、エペソ4・1?6「御霊による一致を熱心に保ち続けること」、ピリピ2・1?4「キリストにある交わり、御霊との交わり」、コロサイ1・8「交わりにおける御霊による愛」)。

  *一つの御霊にある様々な賜物(奉仕)は、キリストのからだなる教会の交わりや活動のために与えられ、最終的には教会を建て上げ、「イエス・キリストを通して神があがめられる」(1コリント14・12。1ペテロ4・7?11参)ためです。賜物を主に行使する「場」は教会(特にその交わりや活動)においてですが、パウロは、様々な賜物とそれを用いる奉仕について具体的に取り上げています。例えば、(永遠のいのちのために)御霊に仕える奉仕(2コリント3・6?11)、礼拝などにおける様々な賜物とその使用(「知恵のことば、知識のことば、信仰、癒やし、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、種々の異言、異言を解き明かす力」1コリント12・4-11、「使徒たち、預言者たち、力あるわざ、癒しの賜物、援助、管理、種々の異言」27?28。他に、ローマ12・3?8、エペソ5・18?21など)、また賜物の中で、特に「預言(の賜物)」は特に重要です(1コリント14・1、39、1テサロニケ5・19?22、1テモテ1・18)。@預言の定義(76頁:2024年2月号)

  *「御霊の人」(ガラテヤ6・1)は、御霊に満たされ、導かれて歩む人のことですが、ガラテヤ書の文脈から、その人が行動的で教会的であることが分かります(参照1コリント14・37)。

  *教会論における御子と御霊について
  *御霊は、御子とともに、教会に豊かに関わっておられます。教会は「キリストのからだ」ですが、御霊は、この教会に内住(内在)しておられます(1コリント3・16)。詳しくは、エペソ書などで取り上げています(本シリーズ第35回73頁以下参照)。

  *教会は、御子にあって、御霊によって建て上げられていく神を信じる者たちの群れです(エペソ2・17-22)。御子と御霊の臨在と働きを区別することは簡単ではありませんが、基本的には、御子が備えてくださったことに基づいて、御霊が、より直接的に、キリストの教会を導いておられると言えます。これを、「御子にあって」、「御霊によって」と適切に表現できるでしょう。

?終末論的聖霊(「すでに」と「まだ」に関わる聖霊の臨在と働き):
  *パウロの聖霊理解は、旧約の聖霊理解(旧約の終末預言とその成就)と約束の聖霊の到来、御霊の現在的な臨在と働きの経験から、旧約の聖霊理解のゆえに、いつも終末論的であると言えます。つまり約束通り、御子と御霊が来られたことによって終わりの時代が始まり、私たちは今、御子にあって御霊によって、終わりの完成に向かって歩んでいるということです。

  *パウロが、「保証」としての御霊(2コリント1・21-22、5・5、エペソ1・13-14、4・30)について語るとき、ここに、より明確に、二重の意味(「すでに」と「まだ」)があることを教えています。御霊は、「すでに」与えられている救いのしるし(証拠)であり、「まだ」実現していない最後の救いの完成の保証(手付金)です(エペソ4・30の「証印」も、文脈から終末的な意味があることが分かります)。

  *またパウロが、「御霊の初穂(御霊という初穂)」と言うとき(ローマ8・23)、これも、キリストの復活の場合と同じように(1コリント15・20?23「御子の復活は、終わりの時の、キリストにある者たちの復活」の初穂)、終わりの時の、神の子どもとしての完成(からだの贖い)の保証になっていると思われます。

  *教会的にも(個々の教会とそのすべての教会)、個人的にも、聖霊は、「終わりの初めの御霊」(旧約における終末的な聖霊預言の成就)であり、「終わりの完成の御霊」です(ローマ8・23「初穂」、2コリント1・21?22、ガラテヤ3・1?5など)。また、これらの二つの間で、私たちを「完成に向かって導く御霊」です(ローマ8・14?17、23?28、2コリント3・18、ガラテヤ5・5、6・8。黙示録22・17参照)。
2025-04-25 18:34:41[投稿番号:434]

パウロの聖霊から:パート4
神様と神様の国を相続する恵み!
ローマ8章17節では、「私たちは…キリストとともに共同相続人である」とありますが、これまであまり「相続人」であることに注目しませんでした。しかし、文脈的に(ここでは、特にガラテヤ3章終わりから4章にかけての文脈ですが)、私(たち)が、真の子どもとして相続人であることの当然さ、また素晴らしさについて考えた時に、相続人であることも、真の子どもとして重要な姿、要素であることがわかりました。

それ以来、私自身が子どもであることは、御国の相続人、さらにイエス様との共同相続人であることの偉大さを意識するようになりました。

最近あったことです。旧約聖書をよく読むようになっているのですが、突然、「レビ族」のことが心に浮かびました(私もある種のレビ族だ!)。それは、彼らが、他の兄弟達(部族)と違って、約束の地を相続するのではなく、「神様」ご自身を相続する者であるということです。

私自身のことになりますが、今後の行方について祈り、考えています。時に、心配したり、焦ったりすることもありますが、「私も(ある種の)ユダ族だから」と思う時、大きな安心が与えられます。なぜなら、一番よいところ(神ご自身と神の国)を相続できるのですからです。


*内住の御霊への応答
  *御霊が内住していてくださるので、私たちは内住の御霊とその恵みを覚え、応答して歩んでいきます。この応答のあり方や行動についてパウロは教えています。最も基本的な命令は、「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5・16、18)です。
  *「御霊による心の割礼(者)」(ローマ2・29)は、新しい契約の時代に生き、内住の御霊によって愛の律法を全うする者たちのことです(ローマ7・6、2コリント3・6、ガラテヤ5・16-26)。
  *「御霊に蒔く」(ガラテヤ6・8)という比喩的表現は、ガラテヤ書のほとんど最後において、これまで語られてきた内住の御霊の恵みによって歩んでいくことの全てを一語にまとめて表現していると思われます。具体的には、御霊によって、愛し合い、助け合い、善を行っていくことです。
  *「聖霊に満たされ続けなさい」(エペ5・18-21)。これは、個人的、教会論的勧めですが、聖霊の内住が前提にあることは明白です。「内住の聖霊に満たされ続けない」と言えます。
  *ローマ書12章1?2節に、「変えられつづけていきなさい」(2017訳「自分を変えていただきなさい」)とあります。ここに、御霊(の内住)の直接的言及はありませんが、内住の御霊の働きなしに何も語ることはできないでしょう(2コリント3・18「変えられていきます」、エペソ4・23「新しくされ続け」)。
  *「御霊を消してはいけません」(1テサロニケ5・19-22)や「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エペ4・30、イザヤ60・30)も御霊の内住が前提で、御霊の導きに対する献身と積極的な応答を教えています。
  *また、パウロ書簡にある様々な勧めも、すべて内住の御霊とその働きが前提になっていると言えるでしょう。霊的な戦い(御霊の剣、御霊の祈り:エペ6・17-18)も、御霊によって吟味をすることも(1コリント12・3、1テサロニケ5・19?22。1ヨハネ4・1?6参照)、また、「いのり」(ローマ8・26、エペソ6・18)、「礼拝」(ピリピ3・3)、「仕えること」(ローマ7・6、2コリント3・6)など、信仰生活、教会生活に属するあらゆることが含まれます。

*御霊について、内住だけに限定できない恵みもある。
  *聖書の聖霊は、内住の御霊であるだけではありません。時々区別することはできませんが、(ある意味で)外から私たちをとり囲み、導いてくださるお方でもあります。例えば、エペソ書1章17節に「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」とあります。これは、より広く一般的に、聖霊のことが意識されているように思いますが、旧約の聖霊理解をそのまま引き継いでいると言えるでしょう(例えば、本シリーズ第6回43頁以下、第13回38頁参照)。
2025-04-18 17:10:47[投稿番号:433]