パウロ神学のゴールとヨハネ神学のゴール
神の子とされ、子として歩むことと永遠のいのちを受けて歩むこと
パウロ神学においていろいろ重要な要素がありますが、何と言っても、パウロの救済論において「子とされること、子として歩むこと」は、パウロ神学のゴール(の一つ)と言ってよいと思います。

私たちは御子によって罪が贖われ、信仰によって義とされ、神の子どもとされます。こうして、今、最後の完成に至るまで、御子のゆえに、御霊によって神の子どもとして歩み続ける恵みの中にいます。聖書にあります。「ガラテヤ 3:26:あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。」また、ローマ書の中心になる8章でも繰り返し語られている通りです(他に、1ヨハネ3:1?3でも)。

ヨハネ神学においてもいろいろ重要な要素がありますが、何と言っても、ヨハネの救済論において、「永遠のいのち、永遠のいのちにあずかること」は、ヨハネ神学のゴールと言えます。実際に、ヨハネの福音書は、私たちが御子を信じて「永遠のいのち」を受けるために書かれていますし、1ヨハネの手紙において、手紙が書かれたのは、「永遠のいのちを持っていることを、分からせるため」とあるとおりです(5:13)。また、パウロも、「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(6:23)と言っている通りです。

パウロ神学のゴールとヨハネ神学のゴールとの関係は非常に密接であると言えます。なぜなら、「永遠のいのち」の意味は、私たちが神様を知り、神様との交わりに生きることで、まさに、私たちが、神様を父と知り、父と呼び、子として交わり、生きることだからです。ヨハネ10章14?15節と21章17節をお読みください。「…わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

この一年(3月から)、ヨハネの福音書をあらためて学び、礼拝で説教させていただきましたが、ここからたくさんのことを教えられました。何よりも、永遠のいのちの中心性、広さ、素晴らしさについて学びました。そして、このことと、それ以前に学んで来たパウロの神学とが豊かに一体的であることを確認しています。これは、大きな感謝です!

この一年、お読みくださり、感謝いたします。新しい一年も、主にあって宜しくお願いいたします。ハレルヤ!
2024-12-27 17:25:42[投稿番号:407]

聖霊に対する祈り
…色々な議論がありますが…
きょうは、少し「聖霊に対する祈り」について考えてみたいと思います。私はたいてい、御父に向かってお祈りしますが、時にイエス様、さらに御霊に祈ることもあります。

特に、聖霊が担っておられること(聖書の教えに従って)に関係して祈るときは、御父に、また聖霊に向かって祈ります。例えば、十字架はイエス様が担っておられたことですが、御霊が担っておられることもいろいろあります。

例えば、?福音宣教の拡大や深化、?救いの実現そのもの、?私たちの心に内住しておられること、?私達を「子としてくださること、子として歩ませてくださること」、?信仰生活全体における成熟、聖化のための導きに、?教会の働きや交わりに内在しておられること、?私たちの祈りを助け、導かれることなど ・・・いろいろ上げることができます。これらについては、私達は祈ることができると思います。

三位一体の枠組み、聖書のみことば、御子の救いの愛と恵みなどにしっかり根差していないと、私達はすぐに「自己満足的な神秘主義」に陥ってしまいますので十分注意する必要がありますが、御父に、御子に、御霊に、三位一体的に祈る恵みが与えられていると思います。

最後に、恩師の一人であるJ.I.パッカー先生の言葉を引用します!

御霊に祈ることは適切であるか?聖書のどこにもそのような例はないが、御霊は神であるから、正当な理由があれば、御霊を呼び求め、御霊に語りかけることは間違いではない。
新約聖書においては、父なる神への祈りが普通であるが(それはイエスご自身が実践し、教えられた祈り方だからである)、イエスへの祈りもまた適切である(パウロが癒し主イエスに三度祈ったようにである、2コリント12、8-10)。

そして、私たちが御霊に求めるものが、イエスとのより親密なコミュニケーションであり、私たちの人生においてイエスの似姿に導かれることであるなら、御霊への祈りも同様に適切である。
2024-12-20 18:04:21[投稿番号:406]

ディボーションで教えられたこと
詩篇92篇…92歳の年老いた記者の詩
きょうのディボーションで教えられたことです。きょうは、詩篇92篇を読み、しばらくいろいろと思い巡らしました。特に、目が留まった箇所は、その中の13節と14節でした。

「彼らは【主】の家に植えられ、私たちの神の大庭で花を咲かせます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ青々と生い茂ります。」

以下は、ここでいろいろ考えたことの一部です…「年老いて実を実らせる、青々と生い茂る」とはどういうことか。これは、あり得ないこと。しかし、確かに「年老いてもなお」とある。老年期になって、外的に、人間的に実を結ぶことがあるだろうか。これは、内的なこと、霊的なことを言っているのか。

身体的にいろいろな問題が出て来ると、自分中心に、人間的に、その問題のことばかり考えてしまう。しかし、この箇所の主語(彼ら)は、「主の家に植えられている、神の大庭にいる!」とある。これが、老年期の秘訣かもしれない!

老年期に何が必要か、あらためて教えられる。それは、「主の家にいること、神の大庭にいる」こと。これこそ、老年期に不可欠なことであると言える。ここから、感謝や賛美が生まれて来る。

私は、92篇を書いた記者も、老年期を迎えていたのではないかと勝手に考えるようになりました。そしてその視点で、92篇を読んでみると、確かにそのように読めるような気がしました。

こうして、全く勝手な判断ですが、この詩篇の記者を92歳の記者であると決めることにしました(笑)!ハレルヤ!
2024-12-13 17:38:33[投稿番号:405]

ヨハネの手紙から黙示録へ
聖霊についての学び
『舟の右側』に連載させていただいて丸三年になります。あともう少しで、聖書の聖霊についての学びが終わります。今は、ヨハネの手紙第一の聖霊で、このあと、黙示録の聖霊に入ります。12月末までに終えることができればと考えています。

ヨハネの手紙第一の聖霊について学んでいて、興味深いことがあります。すでに学んだことですが、ヨハネの福音書における聖霊は、現在的な面と未来的な面がありました。現在的な面は、イエス様と聖霊の関係です。未来的な面は弟子たち(教会)と聖霊の関係です。

イエス様は、弟子たちに、やがて来られる聖霊について何度も教え約束しておられます。また、福音書を書いたヨハネ自身も、福音書の中で未来的な聖霊に触れています。ただし、ヨハネ自身が福音書を書いている時には、その未来的な聖霊は現実になっていました(7:39)!!

さて、今、同じヨハネが書いた手紙を読んでいますが、この手紙に出て来る聖霊について非常に興味深いところがあります。なぜなら、福音書において、未来的なお方として書かれていた聖霊が、手紙では、現在的なお方として書かれているからです。

第一ヨハネの手紙3章24節にこうあります。「神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。」聖霊は、ヨハネやヨハネの教会にとって、現在的なお方になっておられるということです。
さらに、4章13節でもはっきりしています。「神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。」神様が聖霊を与えて下さったとありますが、動詞は完了形なので、ヨハネたちにとって聖霊が現在的なお方として臨在し、働いておられることが分かります。さらに、5章6節にもあります。

このようにして、ヨハネの福音書の聖霊と第一ヨハネの手紙の聖霊を比較するとき、聖霊について新しいことを発見し、教えられます!

あともう少しですが、最後の書であり、最後のことを語っている黙示録からも、聖霊について教えられたいと思っています。ハレルヤ!
2024-12-06 19:40:38[投稿番号:404]

ヨハネの手紙から黙示録へ
聖霊についての学び
 
2024-12-06 19:19:24[投稿番号:403]

詩篇69篇2節「足がかり」
救われる前の「救い」を思い出して
最近は、ディボーションで詩篇を読んでいますが、今週、詩篇69篇2節を読んだ時に、「ハッ」とさせられました。珍しい言葉が使われていました。「足がかり」…詩篇の記者は、今の自分の苦しみについて、「私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。」と叫んでいました。

この言葉を読んだ瞬間、以前、クリスチャンになる前、たぶん、中学生?の頃の一つの体験を思い出しました。一度、家の前の川(揖斐川)を泳いで横断したいと思っておりましたが、ある日、夏でかなり川の水が減って来た時を狙って横断を試みることにしました。

川に飛び込み(?)、泳ぎ始めました。真ん中位まで来た時でした。そのあたりの水は渦を巻いていて、泳いでも泳いでも、前進できないのです。そのうち、水は飲むし、パニック状態になりました。「あーー!もうダメだ!」と思って川底に向かって沈んでいく瞬間、なんと私の片足が、三メートル以上の深さがあるはずの川底に触れたのです。実は、川底のその場所だけが、不思議にもせり上がって、いわば「足がかり」のようなものができていたのです!…私は、そこで一息つくことができ、そこから、無我夢中で泳いで渡り切ることができました。

長くなりました。詩篇の記者は、自分には苦しみの中で「足がかりもない」と言っていますが、私には、神様を信じる前だったと思いますが、神様によって「足がかり」が備えられていたのです。揖斐川の真ん中どころにだったと思います。神様の守りは不思議ですね。。。

信じた後もそうですが、信じる前にも、何度か危機的な経験をしましたが、神様の「足がかり」によって助けられ、守られ、ここまでくることができたことを神様に感謝しました。

皆さんにも、これまで、様々なかたちで神様が備えられた「足がかり」があったと思います。これからもあると思います。

あとどれくらい、神様の召しに応答しながら、歩ませていただけるか分かりませんが、このような憐れみ深い神様にあって、最後の最後までついて行きたいと思います。お祈りを感謝いたします。ハレルヤ!
2024-11-29 17:25:43[投稿番号:402]

永遠のいのちの交わりについて
毎日の祈りの一つとして・・・
毎日のお祈りの中で大切にしていることがあります。

項目としては、「瞬間の祈りを断続的にします(いつでもどこでも、短くても、神様が『アバ父』であることを覚え、御父との交わり、話(おしゃべりし)し、祈りつづけることを確認します)。聖なる方、恐るべき方が「アバ父」です。

ただ、いつからか、この祈りは、「永遠のいのちの交わり」として考えるようになり、「瞬間の祈りを断続的にすること」よりも、「永遠の祈りの交わり」の中に自分自身が置かれていることを意識するようになりました。瞬間の祈りと対立するわけではありませんが、意識していてもいなくても、継続的に神様との交わりの中にあることを考えるようになりました。

「瞬間の祈り」を何回したかではなく、ずっと永遠の命の交わりの中にあって、時に神様を意識し、時に他の人(兄姉)を意識するものとして、継続的に考えるようになりました。時には、より深く、より浅く、時にはより広く、また狭く、また豊かに。

もちろん、このような祈り、永遠のいのちの交わりの中心は、神様ご自身と交わること、神様の御顔を慕い求めることにあると思いますが、時に、この神様にあって、他の兄姉との交わりが与えられることも、永遠の命の交わりであり、その恵みの一つであると思います。

変なことを書いたかもしれませんが、兄姉との様々な交わりも、永遠のいのちの一つの現れと考えるようになりました。また、その恵みとして感謝するようになりました。

これからも、御父と御子と御霊にあって、永遠の命の交わりを喜び、時に、個人的でより深く、時に他の兄姉とより広く、歩ませていただきたいと願っています。感謝します!
2024-11-22 17:27:47[投稿番号:401]

使徒の働きにおける「祈り」
使徒6:4「祈りとみことばの奉仕」
前回も書きましたように、私塾で「霊性?:祈り」の学びを10月からしています。これまでは、福音書から、「イエス様の祈りの教えや祈りの模範」などから学びましたが、次回は、使徒の働きにおける「祈り」について学ぶ予定です。そのため、あらためて使徒の働き全体を「祈りの視点」で読んでみました。

いろいろなことを発見し、教えられたのですが、何よりも、心に残っている重要なことがあります。それは、初代教会のリーダーたちが、問題・課題に直面して、「私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念する」(6:4)と言っているところです。

「みことばの奉仕」は分かるのですが、リーダーたちがここで言っている「祈り」に専念するとは何か、ということです。

これは、今まで、全く注目しなかったことです。しかも、注意しなければならないことは、忙しさの中でも、リーダーたちが大切にしていかなければならないこととして、「祈り」を挙げていたということです。

では、この祈りは何でしょうか。何が考えられていたのでしょうか。たぶん、リーダーたちの奉仕にも関係しているはずです。使徒の働き全体を、この視点で確認してみて分かることがいくつかあります。

リーダーたちの祈りの奉仕(働き)として具体的に使徒の働きから挙げたいと思います。?癒しの祈り、?信仰を確認するために祈ると、聖霊が降られたこと(これは、救いとも関係があると思います)、?これは、?とも関係がありますが、福音宣教に関係した祈り、?神様との様々な交わりの中で、新たな導きを得ること、御心を知ること、?これは、?とも関係がありますが、毎日、神様と交わりながら歩んで行くことです。

あるものは、特にリーダーだけのことではありませんが、?から?までのことが、使徒の働きにありましたので、挙げてみました。

他に何かあるでしょうか。これは、次にやる予定の「パウロの手紙」などに見られる「パウロの祈りの教え、勧め、模範」などから推測できることでもあります。?当時の人々は、毎日、三回祈っていたと思われますので、これを率先して行い、また人々にも教え、勧めていた可能性があります。?リーダーとして、教会の兄姉のために、とりなしの祈りをしていたと思われます。?また、教会のこれからの歩みについて、また、直面する様々な問題や課題について、神様と交わり、話をし、祈っていたと思われます。

今回、使徒の働きの祈りを見て、直接、間接に、非常にたくさんの祈りの例があることが分かりました。祈りは、非常に日常的なものでした。また、「祈り」という言葉が無くても、そこに、祈りがあったことが推測できたり、何よりも、神様との交わりがベースになっていたに違いないと思われる例が多くありました。

皆さんも、こんな感じで、使徒の働きを読んでみてください。恵まれると思います!ハレルヤ!
2024-11-15 19:31:25[投稿番号:400]

「御霊によって祈る」とは?
エペソ6章18節を中心に
二つのことがきっかけで、「御霊に祈ること」とは何か、考えています。一つは、『舟の右側』の原稿の締め切りが来たので、あらためて、エペソ書の聖霊について確認し、その中に(6章18節)、「御霊によって祈りなさい」というパウロの命令がありました。これは、霊的な戦いにおける武具の一つです。
もう一つは、今週、私塾の「霊性?:祈り」の学びで、イエス様の生涯における祈りに注目し、教えられたことがありました。

後者から始めますと、御子の生涯は祈りの生涯で、どんな時も御父と交わり歩んで来られたと言えます。誕生から、また特に、ヨルダン川での洗礼から十字架まで、御父と交わり、祈りつづけておられました。そしてここに、もう一つ重大な要素があります。絶対に忘れてはいけないことですが、しばしば、陰に隠れてしまう可能性のあることです。それは、御霊によって祈り、御霊によって御父と交わり続けて来られたということです。これは、イザヤ42章1節、61章1節の成就であり、ヨルダン川での聖霊体験から明らかです。纏めますと、私達の信仰生活の模範、祈りの生活の模範である御子は、当然のこととして、当たり前のこととして、御霊に導かれて祈りの生活を続けられたと言えます。御霊によって祈ることは、普通のことです。

前者についても、触れてみたいと思います(これは、『舟の右側』の原稿の一部になりますが簡単にまとめます)。…「御霊によって祈る」とは何か。これは、様々な聖霊的武具の中で理解することが最も難しい武具の一つです。「祈り」だけには武具の比喩がありません。ひょっとしたら、「祈り」の多様な働きのゆえに、何か特定の武具に喩えることができなかったのかもしれません。実際に「祈り」には、様々な修飾語がかかっています。17節は、文法的に、動詞はなく現在分詞ですが、これまでの命令形(13節:武具を取りなさい、14節:堅く立ちなさい、16節:信仰の盾を取りなさい、17節:救いのかぶとをかぶりなさい、御霊の剣を(取りなさい))に基づき、命令として考えることができるでしょう(「御霊によって祈りなさい」)。
  
様々な修飾語が、18節の「祈りなさい」にかかっています。18節の前半と後半は並行文で、後半はより詳細な内容になっています。では、「御霊によって祈る」とは何でしょうか。前後に明確な説明がありませんが、その概略について聖書全体から考えてみたいと思います。

第一に、内住の御霊に満たされていることが前提になります。第二に、御霊は、御父と御子、そのみこころと一つなので、聖書のみことば(教え)に基づいて祈ることが不可欠です。聖書のみことばは聖霊のことばだからです。第三に、御子の模範から教えられます。御子こそ、生涯の初めから終わりまで、御霊によって御父と交わり、祈り続けておられた方です(ルカ3・21―22)。第五に、ローマ8章26‐27節にある「御霊のうめきのとりなし」を信じ、期待することができます。第六に(これが一つの結論です)、「御霊によって祈る」ことについて、私たちは何か特殊な祈りを想像するかもしれません。しかし上記のように、聖書は、むしろ「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも‥‥‥目を覚まして、忍耐の限りを尽くして」祈るものであることを教えています。聖書から分かる範囲ですが、これらが「御霊による祈り」の基本的要素、あり方であると思われます。

私自身への適用です。私は、お祈りしているとき、御霊のことを意識することはほとんどなかったと思います。6章18節の命令に基づき、御霊の臨在と導きを信じ、また助けを意識して、祈っていきたいと思います。ここにも、御霊の助けがあることを信じ、感謝します。ハレルヤ!
2024-11-08 18:28:22[投稿番号:399]