私塾:冬期(1?3月)について
1月の第二週から、私塾がまた始まりました。今回は、三つのクラス(牧会学、聖霊論1,ヨハネの福音書)を始めることができました。
聖霊論1は、昨年と同じですが、牧会学とヨハネの福音書は初めての試みです。きょうは、牧会学とヨハネの福音書の様子について書かせていただきたいと思います。

牧会学に関しては、これまでに、実際に牧会をしておられる牧師さんたちのために担当したことがありますし、現在も、「若手?牧師会」の中で、いろいろ牧会についてお話をさせていただいています。しかし、今回は、これから牧会などの奉仕に入ろうとしておられる神学生の皆さんのための牧会学なので、内容についても、前もっていろいろ考えなければなりません。まだ一回しかやっていませんが、実践的な教会論に基づく牧会学になればと考えています。

主に、アメリカのトリニティ神学校で学んだことと、牧師になって約47年になりますので、この間教えられたことなどを混ぜ合わせています。参加者のひとり一人が、自分なりの「牧会像」(牧会哲学)を描いていくための助けになればと願っています。

もう一つのクラスは、ヨハネの福音書です。資料がいろいろありますので、これを使いながら、クラスを進めているところです。参加者の皆さんに、どうしてヨハネの福音書の学びを選ばれたか、お聞きしたのですが、大部分の兄姉は、新約27巻の中でヨハネの福音書が大好きであると言っておられました。私も好きですが、びっくりしました。

学び方としては、顕微鏡的に細かく読むことと同時に、望遠鏡的(?)に全体を見ながら読むことを大切にしていきたいと思っています。また、単なる学びで終わらないで、これも神様のみことばの一つなので、解釈と適用も、強調したいと思っています。

今回、ヨハネの福音書のクラスの中で教えられたことがあります。ある方の質問を通して確認できたことですが、ヨハネには、他の共観福音書のように、イエス様のヨルダン川での経験が書かれていないということです。これを前提にして、1章29節から、ただバプテスマのヨハネの証言が書かれているということです。他の共観福音書とヨハネの福音書の違いと言えばそうなのですが、ここにも、記者ヨハネの神学的強調があるように思いました。

もう一つは、2章13節以下の記事です。これもある方の質問が契機となりましたが、ここにはすでに、記者ヨハネによって、御子の十字架と復活のメッセージが含められていることが分かりました。ヨハネの福音書においては、まだ2章ですが、すでにここに、御子の生涯の終わりに起こる十字架と復活についての言及があるのです!!これが、ヨハネの手法であるとも言えます。ヨハネはいつも、今のイエス様と終わりの時のイエス様を見ていると言えるでしょう。

牧会学もヨハネ書も、ある意味で、私にとっても初めてクラス経験ですが、いろいろ考えながら、教えられながら、進めていきたいと思っています。ハレルヤ!
2024-01-19 20:33:32[投稿番号:355]

聖霊の交わり(2コリント13:13)
ピリピ2:1(御霊の交わり)、その他
2コリント13章13節の「聖霊の交わり」における「の」の意味について。
47年前の卒論のテーマは、「コイノニア:キリストの交わり、聖霊の交わり」でした。可能性として、キリストが与えて下さった交わり、聖霊が与えて下さった交わりもありましたが、結論は、いずれも、キリストとの交わり、聖霊との交わりでした。

これを思い出しながら、あらためて「聖霊の交わり」について考えておりました。キリストとの交わりは、まだ想像しやすいのですが、聖霊との交わりは具体的になんだろうか。

ちょうど、今朝のディボーション箇所が、ローマ8章26-30節で、これまでの文脈を大切にしながら読んで行きました。すると、これまで、何度も読んで来た箇所ですが、これまで以上に文脈的に読むことができ、しかも、あらためて、26節を味わうことができました。非常に苦しい今の時代において、弱い私たちを助けて下さる聖霊、祈りをも助けて、うめいていてくださることを改めて考えました。

私達の為に、または私達の代わりに、とりなし、うめいていてくださることを知りました。そうして、この御霊の執成しの祈りと導きによって、どんなことが起こるのかについても知ることができました。それが、28節以下にあるとおりです。

分かったことは、ここに正に、聖霊との交わりの具体的な内容があるということです。弱い私達の為にとりなしてくださる。祈りを助け、呻いておられる。私達のために、私達の代わりに。

8章15-16節にも、すこし、聖霊との交わりの内容がありますが、26節以下にもあることを知りました。もう少し、厳密に注意しながら、26?30節までを学んでみたいと思います。

御霊との交わりがあることを信じます。とりなし、呻いていて下さるお方が内住していてくださいます。ハレルヤ!
2024-01-12 17:55:27[投稿番号:354]

病気とスピリチュアリティ(霊性)
コロナに感染しました!
クリスマス前にインフルエンザに罹りましたが、今週、またコロナであることが分かりました。この約4年間、コロナとインフルエンザから守られてきましたが、年末年始、一挙に、二つの病気がまとめて、やって来た感じです。

病気になると普段考えないことをイロイロ考えますね。ちゃんと考えていることか、悪夢か区別がつかない場合もあります。これから書かせていただきますのは、そのつづきかもしれません。

病気になって分かったことは、私のスピリチュアリティは随分、応答的で、行動的であるということでした。病気になり、熱で苦しんでいる時、当然ですが、何もできませんでした。私にとっての理想的な霊性(そういうあり方)を実行する事が全くできなくなりました。ほとんど毎日つづけている個人聖研もストップしました。お祈り散歩もできませんでした。

考えたことは、「熱?」のことや熱で「苦しんでいる自分」のことばかり。時に、この苦しみに終わりはないかもしれないと恐れることもありました。「神様助けて下さい」と祈っても、ちゃんとした祈りになっていません。いつも祈っている祈りの言葉を発しても、途中で切れてしまいます。

やっと熱が下がってきて落ち着いてきた時、病気と霊性について考えてみました。考えられるようになりました。もしあるとしたら、病気の時の霊性とは、三位一体の神様が全て、私の応答なしに、取り囲んでいてくださること、ただこれを信じること、委ねることと言えるでしょう。私がどうであるか、何をしているか、どれだけ応答しているかではありません。
全く、一方的に、天的に共いて、取り囲んでいてくださるというめぐみです。それだけです。それがすべてではないでしょうか。

特別なことは書けませんでした。
熱が下がって来て、次のステップは、いつ、どのようにして、いつもの応答的、行動的霊性に切り替えていくかでした。
果たして、真の霊性とは何でしょうか。病気であっても、病気でなくても。あらためて、神様との交わりを大切にしながら生きているとはどういうことか、考えています。これからも、考え続けていくことになりそうです。

新しい一年、どうぞよろしくお願いいたします。ハレルヤ!
2024-01-05 19:39:04[投稿番号:353]

今年もあと二日です。
御子と御霊について
2023年もあとわずかになりました。『舟の右側』の連載も、パウロの聖霊になったこともあって、より正しく、より詳細に学びを進めることになりました。これまで、パウロ書簡の学びは難しい箇所が多くあったので、後回しにしてきた箇所もいろいろあったように思います。今回は、詳細に解釈しながら、聖霊について学びたいと思っています。たぶん、これが、最後の学びになるだろうと思っています。

さて、最近読んだ聖書箇所(2コリント書)から、御子と御霊の関係について考えることがありましたので、以下に書かせていただきたいと思います。私にとって、パウロにおける御子と御霊の関係は重大なことです。

聖書箇所は、2コリント5章4節以下です。「確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって?み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。」

パウロは、今の生活と後の天的な生活を比較しています。やがて始まる天的な生活を切望しながら、今の生活において「うめいている」と言っています。

ここで注目したいのは、このような状況において、御子と御霊のことがどのように語られているかです。パウロによれば、御霊は、天的な保証として今、自分たちに与えられているので、「いつも心強い」と言っています。

しかし、パウロと御子の関係については、今の状況において「主から離れている」(6節)と告白しているのです。しかも、続けて、7節で、「信仰によって歩んでいる」と語っています。

つまり、御霊は、今の地上のうめきの生活をしているパウロたち(の心)に来ておられるが(内住)、御子は、天におられて「離れておられる」と言っているのです。しかし、「信仰によって歩んでいる」と言い、だからまた、「心強い」とも言っています(8節)。

ここは、さらに詳細に学ぶ必要がありますが、パウロには、二重の意味で「心強い」と言っているようです。一つは、確かに今、聖霊は保証として来ておられるからです(聖霊の内住の恵み)。もう一つは、御子は、天におられて、今の自分たちからは、物理的に離れておられるのであるが(これを知り、認めている)、それでも信仰によって歩むことによって、心強いというのです。

御霊については、今の自分たちと共におられる(内住)と言えますが、御子については、物理的には、今の自分たちと離れておられますが、信仰によって歩むことができると言っています。

私たちは、間もなく、新しい年を迎えますが、御子と御霊によって、二重の「心強さ」をいただいて歩むことができるです。一体、新しい一年はどんな年になるでしょうか。平和の改善がみられるでしょうか。もっと恐ろしい時代になるでしょうか。

どちらであっても、私たちには、御子と御霊のゆえに、二重の励ましをいただいて歩むことが許されていると言えます。
新しい年も、変わることのない神様とそのみことばによって歩ませていただきましょう。皆さん、この一年、お読みくださり感謝いたします。ハレルヤ!
2023-12-29 18:04:20[投稿番号:352]

今年もあとわずか。
クリスマスのこころ
先週は、インフルエンザ(A)にかかってブログを書くことができませんでした。ほとんど三年間、コロナやインフルエンザから守られて来ましたが、「まさか」、ついにインフルエンザにかかってしまいました。39度以上の熱が続きましたので、熱が下がった後も、体力的にガクンと落ちてしまった感じです。

今週の礼拝メッセージは、まだ感染の可能性が残っていましたので、「声」だけで、メッセージをさせていただきました。目の前に教会の兄弟姉妹がおられないので大丈夫かな?と思いましたが、結局、メッセージ時間はいつもと変わらなかったようです。聴いて下さった皆さんは大変だったと思います。
とにかく、やっと回復することができ、感謝いたします。

今週の火曜日で、この秋期の私塾が終わり、新年度の私塾の準備が始まりました。一応、火曜日の午前に「牧会学+牧会道」、火曜日の夜に「聖霊論1」、そして木曜日の夜に「ヨハネの福音書」の三つのクラスを始める予定です。

今回は、特に、クラスとしては、初めてのクラスが二つありますので、早めに準備を進めていく必要があると思います。「聖霊論1」はこれまでのクラス内容とあまり変わらないかもしれませんが、「牧会学+牧会道」は、アメリカのトリニティ神学校で学んだことと、これまでの牧会経験を混ぜ合わせてクラスを進めていきたいと思っています。また、「ヨハネの福音書」の学びは、?知り、理解すること、?解釈すること、?適用することを大切にしたいと思っています。ややもすると、これまでの聖書の学び(各書)は、?だけを強調したり、あっても、?と?だけで終わってしまうことがありましたので、?も大切にしながら、共に教えられていきたいと思っています。少し、スピリチュアルな学びになるのではと期待しております。覚えておいのりください。

いよいよ、明後日は、クリスマス礼拝と祝会があります。いろいろ考えましたが、今回は、クリスマスの出来事に表されている神様の深いみこころを知り、分かち合うことを大切にしていきたいと考えています。少しでも、クリスマスにおける神様の愛のみこころを、参加して下さる方々に届けることができればと願っております。

皆さん、メリークリスマス!
2023-12-22 17:22:43[投稿番号:351]

聖霊の内住を動的に考える
毎日、毎回の祈りの中で
イエス様が十字架にかかられたことはイエス様だけの出来事(御業)です。もちろん、三位一体的に、そこに、御父と御霊が共におられたと言えます。

では、聖霊(だけ)の御業と言えるものがあるでしょうか。やはり、聖書から出て来ることの第一は、私達の心に内住しておられることです。ここから、私としましては、聖霊の内住神学(内住の御霊神学)を考えるようになっています。
確かに、聖霊が私達の心に住んでおられることは事実であり、クリスチャン生活や教会生活においてなくてはならない、最重要な出来事(恵み)であると思います。

イエス様が心におられる(内住しておられる)ことについての言及が聖書ないわけではありませんが、これは、私達の「信仰」の結果、「信仰」によることだと考えます。もちろん、三位一体的に言えば、間違いではありません。例えば、ヨハネ14:23(ただし、この場合は、御子と御父がともに住む)とあります。ローマ8:10(これは、前後から、「キリストの御霊」の略かもしれないと考えます)、エペソ3:17(これは、祈りであり、「信仰によって」とあるとおり。正に、信仰の出来事です」、)

聖霊の内住の場合は、変な言い方になるかもしれませんが、事実通り、私達の心に住んでおられるということです。しかも、毎日毎日住んでおられるということです。動的に言いますと、毎日(毎朝)、私達の心に来て、住んでくださるという奇跡が起こっているということです。静的なことではなく、そういう内住という状態が続いているというだけではなく、動的に、聖霊の内住が起こっているということです。

最近は、このような聖霊の内住の奇跡(毎日)の恵みを感じて、喜んでいます。ハレルヤ!
2023-12-08 18:04:13[投稿番号:350]

聖霊の内住のめぐみ(つづき)
永遠のいのちの御霊
10月20日のブログから、内住の聖霊のめぐみについて、教えられていること、今、考えていることなど、書いて来ました。

今回も、このテーマの一つを取り上げたいと思います。内住の聖霊の名前(呼び名)は、聖書の中にいろいろ出てきます。もう一人の助け主(パラクレートス)、真理の御霊、子とする御霊、力の御霊などありますが、さらにもう一つ、ヨハネの福音書4章と7章からの「永遠のいのちの御霊」を加えたいと思います。これも、本当に教えられますし、大きな恵みになります。

4章にこうあります。「 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」13?14節

7章にこうあります。「「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」37?39節

4章と7章で言われていることの内容はほぼ同じと考えてよいと思います。「水」はやがて来られる約束の御霊であり、その御霊が来られることによって、私たちの心は「永遠のいのちの泉」となり、「川」となるということです。聖霊と永遠のいのちと私達の心の厳密な相互関係は分かりませんが、おそらく、私達の心に聖霊が来られることによって永遠のいのちが生み出される(始まる)ということではないでしょうか。しかも、「泉」と「川」はその祝福の豊かさを表現しているのではないかと考えます。

内住の聖霊は、私達の心の中で、永遠のいのちの源となり、私達の心を永遠のいのちで満たし、溢れさせてくださると考えます。
正に、これは、「真に渇くことのない水」を表していると言えます。つまり、永遠のいのちの現実(御父との、御子との交わりの祝福)が、私たちのこころにあって(始まって)溢れていくということです。

これも、聖霊の内住のめぐみの一つと言えます。ハレルヤ!
2023-12-02 16:35:03[投稿番号:349]