聖霊の宮であることを喜ぶこと
特に、詩篇から味わいたいと思います。
ご聖霊の内住の奇跡が毎日起こっていることを確認し、また感じています。静的ではなく、この恵みを毎日、動的に覚えながら祈っていきたいです。

罪人のかしらである私の心に聖霊が毎日内住してくださることは驚きであり、奇跡です。あり得ないことが毎日起こっています!

さて、毎日、毎回お祈りするときに、聖霊の内住の恵みがどんなものであるか考え、いろいろ確認しています。今晩は、その一つに注目したいと思います。それは、1コリント6章19‐20節にありますように、聖霊が内住され、私たちの心は、今聖霊の宮となっているという恵みです。

この恵みについて、最近、詩篇からいろいろ教えられました。よく知られている詩篇の一つに、23篇6節の「私はいつまでも、主の家に住まいます」があります。
他にもいろいろあります。調べてみますと、詩篇には少なくとも、「宮」に関する歌(うた)が10回あります。5篇7節では、宮に向かってひれ伏し、礼拝しています。27篇4節は宮の素晴らしさの理由が詠われています。その中心に麗しい主がおられるからです。ここに住むことこそ私たちの唯一の願いです。どの詩もどの詩も、アーメン!と叫びたくなるような内容です。

最後に興味深い詩を引用します。122篇1節にこうあります。「さあ 主の家に行こう。」人々が私にそう言ったとき、私は喜んだ。

本当に、主の家は「喜び」です。なぜなら、そこに私たちが求めている「主」がおられるからです。

皆さん、これは、旧約時代のことです。人々は、神様に渇き、求めて、神の幕屋、神の神殿、神の家に行ったのです。
しかし今は、違います。神様の方から、ご聖霊のほうから、エデンの東に住む私たちのところに、罪人のかしらである私たちの心に来てくださり、私たちのこころを神の宮、聖霊の宮とされたのです。

私たちから行くのではなく、神様が来てくださり、宮とされたのです。これは、現代の、毎日毎日の奇跡ですね。そう思います。

内住のご聖霊が心におられ、心を宮としていて下さる奇跡に、おどろき、恐れましょう!ハレルヤ!
2023-11-10 19:43:04[投稿番号:345]

月曜日から水曜日まで韓国に行ってきました!
ソウルではなく、田舎のテアンに行きました
バスターミナルからバスで3時間以上かかりましたが、初めて、韓国の田舎に行ってきました。近くには、マリポという海岸がきれいで場所もありました。夏には、ソウルなどからたくさんの人々が集まって来るようですが、今は、とても静かでした。

以前、韓国のクリスチャン人口は4分の1位だと聞いていましたが、今は、1割くらいかもしれません。特に、コロナの後、教会に来られる人々の数はかなり減って来ているようです。また、ソウルのような大都会では世俗化が進んでいます。

ただ、バスでソウルからテアンの田舎まで来ましたが、バスの窓から多くの、しかも堂々とした建物の教会堂を見かけました。これは、田舎に来ても変わることがなく驚きました。この点では、北米に似ているかもしれません。韓国では、まず一般の人々(庶民)にキリストの福音が広がったと言えるかもしれません。

韓国の教会も、コロナ期、コロナ後…同じような経験をして、これからどのように再出発していくかという、大きな課題に直面しているのを感じました。

これは、宣伝ですが、11月1日から、韓国のオリュン教会主催の「ダニエル祈祷会」が始まっています。ぜひ、皆さん、視聴してみてください。夜の7時頃から10時頃まで集会が毎晩もたれています。ユーチューブで、「2033ダニエル祈祷会」と検索し、生放送三日目(11月3日なら)を選んでみてください。21日まで、毎夜、つづきます。講師や証し者は非常に多様で、日本語通訳もありますので、自由に聴くことができます。

これらの集会も、コロナ後の再出発として用いられることを願っています。ハレルヤ!
2023-11-03 20:40:23[投稿番号:344]

最近、考えていること…現代の奇跡
さらに、聖霊の内住について
御子の受肉や復活は、2000年前の奇跡です。これは事実であると信じています。そしてその結果としての恵みは永遠のもので、今も続いています。

しかし、聖霊の内住について考えてみますと、これは、現在の継続的な奇跡であると言えるのではないでしょうか。
内住は永続的で、信じたときからずっと今に至るまで継続しています。ということは、昨日も、聖霊の内住をいただき、きょうも聖霊の内住をいただいて、生きていることになります。

ということは、聖霊の内住は、きのうも、きょうも、明日も、継続する、または起こり続ける「現代の奇跡」であるといえるのではないでしょうか。当たり前のことではありません。

実際、私は「罪の人のかしら」であり、その私が、聖なる御霊をきょうも受けることは、正に奇跡としか言いようがありません。このような奇跡が、きょうも、明日も起こるのです。

私は、少し視点を変えてお話していますが、これほどの偉大で、嬉しい、あり得ない、現代の奇跡は他にないのではないでしょうか。
あらためて、今、聖霊の内住の恵みを覚えています。

この恵みに立って、前回書きましたように、神の子どもであること、聖霊の宮であること、内的に聖霊主義で神様の真の律法(愛の律法)を全うするものとされていること、内住の聖霊は、パラクレートスで、真理の御霊であることです。

ハレルヤ、ハレルヤ!
2023-10-27 19:48:43[投稿番号:343]

聖霊の「内住」が意味すること?
子とされること、聖霊の宮・・・
これまで、聖霊の「内住」に関して、特に、二つのことについて考えてきました。一つは、子とされることの恵み。内住の御霊は、内側から「アバ父」と叫んでくださることからも分かるように、私たちを「子」とし、子として自覚させ、子として歩んでいくことを助けてくださると言えます。

もう一つは、「聖霊の宮」とされることの恵み。この恵みの事実と大きさについて、どんな言葉を用いて表現したらよいでしょうか。まだまだ、不十分さを感じています。聖霊の内住のゆえに、罪人のかしらが聖霊の宮とされるのです。神様の栄光を表す宮としておられるのです!

第三に、御霊は、内住によって、私たちが内側(心)から、キリストの愛の律法を全うできるように、働いてくださることを意味しています。これは、律法主義ではなく、キリストの愛と恵みに基づいた、聖霊主義を示しています。律法は、聖霊によって全うする道が与えられています。ローマ8:4、ガラテヤ5:16‐23、エゼキエル36:26‐27 正に、御霊に満たされて歩むことを通して、愛の律法が全うされていきます。

第四に、今、ヨハネ書の聖霊の学びが終わりましたが、14‐16章で繰り返し語られていることです。それは、「もう一人のパラクレートス」として、「真理の御霊」として、私達の心に、御霊は来られるのです。ここには、聖霊との交わり、真理に導く聖霊の働き(御父の御心へ、御子イエス様へ)が語られています。これも、内住の聖霊の働きであると言えます。

とにかく、聖霊の内住なので、内側から、内側から働いていて下さいます。立ち止まって、何度でも、御声を聞くことができますように。ハレルヤ!
2023-10-20 18:05:25[投稿番号:342]

聖霊の内住と神の神殿、聖霊の宮
最近、考え味わっていること
以前から、聖霊の内住と私たちが神の子どもであることの関係についてお話してきました。実際に、内住の御霊は、ガラテヤ4章6節、ローマ8章15節にありますように、御父に向かって私たちの内から「アバ父」と叫んでくださるからです。

さらに、御霊は、私たちが子どもとして歩んでいくために、歩みつづけていくために、必要な全てを整え、全てを導いてくださると言えます。救いそのもの時から、最後の栄化に至るまで、です。

今はさらに、聖霊の内住のもう一つの面について考えています。それは、聖霊の内住そのものは、私たち自身を神の神殿、聖霊の宮にしているということです。この背景には、もちろん、これまでのユダヤ人たちの歩み、旧約の歴史があります。

聖霊が、私たち(個人と教会)に内住していてくださるので(1コリント3:16、6:19‐20)、個人も、教会も、神の神殿、聖霊の宮とされているのです。
この恵み、この幸いをどのように表現したらいいでしょうか。この事実に関して、聖書的にいくつかの重要な意味が含まれていますが、なんと言っても重要なことは、神ご自身(聖霊において)が内住していてくださるということです。「もの」ではなく、聖なる愛の神ご自身が、聖霊において、内住していてくださるのです。ある意味で、「共にいて下さる、インマヌエル」の恵み以上だと言ってもよいでしょう。

これからもいろいろ考えさせていただきたいと思っていますが、今最も大切なことは、内住の聖霊によって、本当に、私たちが聖霊の宮、神の神殿にしていただいていることを信じることです。

私の神様が、真に「遍在」の神様である事実に直面し、味わっている時、時々、「ドキッ」とすることがあります。それは、本当に、聖なる愛の神様がここに(私の前に)おられることを意味するから
です。
まして、私の神様が、聖霊なる神様を通して、内住しておられるとしたら(事実、そうですが)、これは、大変なことになるのではないかでしょうか。

これからも、この事実に直面しながら、色々考え、祈り、味わい、瞑想していきたいと思います。ハレルヤ!
2023-10-13 19:42:00[投稿番号:341]

ヨハネの聖霊について
ヨハネの福音書における「時」の意識
あらためて、ヨハネの福音書について考えています。きっかけは、ヨハネの聖霊についての学びですが、これまで以上に、特にヨハネの「時間」について関心をもつようになりました。

これまで、ヨハネ書の目的は二つあって、一つは伝道的で、もう一つは牧会的なものと考えていました。前者は、20章31節にある通りで、後者は、特に14?16章を読んでいて、そう確信するようになりました。

しかし、最近、もう一つのことを考えるようになりました。それは、神学的なことで、この福音書の記者ヨハネ自身の「意識」のようなものです。イエス様ご自身もそのように語り、教えておられることですが、ヨハネも、そのような意識で、ヨハネ書全体を書き、まとめていると言えます。

それは、御子の終わりの時であり、御霊の始めの時であると考えます。御子の終わりの時は、たとえば、7章39節にあるように、「御子が栄光を受けられるとき」で、御霊の始めの時は、その直後39節の最後や20章22節ですが聖霊が来られるときです。16章7節にも御子の終わりの時と御霊の始めの時が並んでいます。御子と御霊の関係は、まさにコインの裏表のようなものに見えます。

ルカ書と使徒の働きにも、「時の意識」を感じますが、ヨハネ書は特にそう思うのです。
つまり、ヨハネ書の目的に関して、もう一つのことが浮かんで来ます。それは、これまでになかった全く新しい時代(終わりの時代)が来るので、これによく備えるようにと読者に教えているということです。この新しい時代は、御子は天に戻られ、御霊が御子に代わって私たちの所に来られ、私たちを導いてくださるということです。また、この時こそ、弟子たちが、永遠のいのちに生きる時代であり、真理の御霊と助け主パラクレートスによって導かれていく時代であると言えます。とにかく、この新しい時代(終わりの時代)と聖霊の臨在と働きは密接です!

ヨハネの福音書からは、教えられることが多いですね。今でも、色々と発見することがあります。ハレルヤ!
2023-10-06 21:11:51[投稿番号:340]

ヨハネの
 
2023-10-06 20:43:15[投稿番号:339]