望みがある
イザヤ書を読みながら・・・
エレミヤ書のあと、ディボーションで少しずつ、イザヤ書を読んでいます。本当に、エゼキエル書、エレミヤ書、イザヤ書・・・いずれも、大預言書と呼ばれるものですが、それぞれ特徴があります。

イザヤ書は、これまでのところ、あまり構造らしいものを見つけることができません。突然、いろいろなタイプの預言が始まります。基本となっている預言は、当時のイスラエルに対するさばきです。

しかし、今、11章まで来ていますが、読みながら感じたことを書きたいと思います。実は、さばきばかりが目に留まる預言の中に、三種類の「希望」の預言を見つけました。希望があるのです。

イザヤは神様によって召された時(再召命?)、絶望的な使命を受けました。6章9節以下にあるとおりです。「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな」(さらにつづく)。イザヤが語って、人々が聴いて悔い改め、神様に立ち返るのではありません。逆なのです。人々が増々心を頑なにするために語っていくようです。こんな望みの薄い奉仕があるでしょうか。。。

しかし、イザヤ書を読んでいきますと、イザヤの時代に成就しませんが、少なくとも、三種類の希望を語る預言者とされています。第一は、やがてイスラエル(全世界)に完全な平和が来ること、第二に、やがて神のメシアが来られること、第三に、イスラエルの民は全て裁かれて滅びるのではなく、「残りの民」が備えられること。

イザヤという預言者は、自分が語った「のぞみ」を実際に体験することはなかったと思いますが、これらの三つの望みは実現していくのです。すでにメシアは来られました。残りの民(レムナント)は確かにいました。いつの時代も、レムナントは存在していると言えるでしょう。そして、最後の完成のときはまだです。

今の時代、これからの時代について、ますます神様の救いに遠い、福音を聞いても悟れない、悟らない人々が増大していきそうな気配です。果たして、次の時代はどのような時代になるでしょうか。

私は、いろいろ心配して、ネガティブにもなるのですが、イザヤが預言したように、三種類の希望を大切にしながら、これからも歩んでいきたいと思います。今の時代に、神様の前にやるべきことをすることができますように。祈り!
2024-05-10 19:49:48[投稿番号:372]

エレミヤ書のつづき
特に、45章5節から
ずっとエレミヤ書を読んで来て、「哀歌」に移ったところです。エレミヤ書から教えられたことの中から一つを選んで、終わりにしたいと思います。

エレミヤ45章5節にこうあります。
「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──【主】のことば──。しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。』」

バルクという人は、エレミヤのことばを実際に書き記した、そして、このエレミヤ書を私たちに残した重要な人でしたが、ある日、たぶん、エルサレムの陥落直前の頃に、神様は、エレミヤではなく、彼の側にいたバルクに語られました。

一つは、「自分のために大きなことを求めるな」で、もう一つは、「あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える」です。

少し、推測しながら考えなければなりませんが、第一の意味は、バルクはこれまでも、エレミヤのために重要な働きをして、彼をサポートしてきましたが、個人的に、またイスラエルに関して、さらに、より偉大なことをしようと願い、祈っていたと思われます。しかし、神様の答えは、そうではありませんでした。たぶん、今、与えられている仕事(最後まで、エレミヤを支え、エレミヤ書の準備すること)をつづけ、全うすることを神様は命じておられるようです。

第二の意味は、たいてい「戦利品」(分捕りもの)は、戦いに勝った兵士たちが負けた兵士たちやその地から奪い取って、持ち帰る物品を指していますが、ここで神様が彼に与えると約束しておられる「戦利品」はただ一つのものでした。つまり、それは彼のいのち(だけ)です。これは、何を意味しているかと言いますと、たぶん、戦いには敗れますが、いのちだけは失われず、助けられるという意味であると考えます。

これは、今から2600年ほど前の話ですが、この箇所を読んだときに教えられることがありました。若い時には、私も、神様のために(ひょっとしたら、じぶんのために?)大きなことをしようと考えていました。伝道者ピリー・グラハムのように神様に用いられる人になろうと思ったこともありました。

47年間、牧師をさせていただきましたが、今でも、「神様のため」と言いながら、じつは、「自分のために」大きなことをしようとしていないか、考えさせられています。
体力も知力も、衰えて来ていますが、自分の「肉の力」はまだ強く、居残っているようです。

ただ、神様のみこころのままに、最後まで歩んでいくことができますように。キリストのゆえに、御霊によって進んでいけますように。神様が、最後の最後に、「戦利品として、あなたに永遠のいのちを与えます」と言ってくださいますように。ハレルヤ!
2024-05-03 18:31:30[投稿番号:371]

エレミヤ書のつづき
教えられたことなど・・・
前回につづいて、エレミヤ書から教えられたことなどをいくつか上げてみたいと思います。

14:17…「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。」

 神様は、わざわざエレミヤに言われました。「ユダ・エルサレム」のために祈ってはならない。これは、神様が本当に私たちの祈りに耳を傾け、祈りに答えてくださることを表しています。エレミヤも祈ることについて真剣ですが、神様も祈りに答えることに真実です。ですから、「祈るな!」と言っておられるのです。ユダやエルサレムに対する神様のみこころが定まっていたからです。

16:19-20「【主】よ、私の力、私の砦、苦難の日の私の逃れ場よ。あなたのもとに、諸国の民が地の果てから来て言うでしょう。『私たちの父祖が受け継いだものは、ただ偽りのもの、何の役にも立たない空しいものばかり。人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではない』と。」

これは、エレミヤ自身の言葉ですが、本当にいつか、日本も含めて、「諸国の民」が神様のもとに来て、このように言うことができますように。この日はいつ来るでしょうか。本当にこの時が来ることを願っています。

29:7「わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』

これは、ユダの民が神様のさばきをうけ、連れて行かれたバビロンの地ですべきことが語られています。それは、「その地のシャロームの為に祈れ」ということです。初めここを読んで信じられませんでしたが、しかし神様は、捕らわれの地バビロンでのユダの民のことを考えてこのように言っておられる事が分かります。これは、おどろきの言葉です。彼らは、裁かれて、バビロンの地に行く(行った)のです。

42:5?6「彼らはエレミヤに言った。「【主】が、私たちの間で真実で確かな証人であられますように。私たちは必ず、あなたの神、【主】が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、【主】の御声に聞き従います。私たちの神、【主】の御声に聞き従って幸せを得るためです。」

ユダの人々は、このように言って神様の御心を求めたのです。「良くても悪くても・・・聞き従います」・・・しかし、実際には、どうであったかというと、彼らは、エレミヤを通して神様のみこころを聞くことができたのに、「よくなった」ので、従わなかったです。

本当に残念なことがここに書かれています。このことを、私自身に当てはめてみたいと思います。「神様。私の目に善(よい)と見えても、悪(悪い)と見えても、最後の最後まで、あなたに従っていくことができますように。」

いろいろなことを教えられる預言書です。感謝します。あと少しで、エレミヤ書が終わります。恵まれたゴールデン・ウィークとなりますように。
2024-04-26 17:56:18[投稿番号:370]

最近読んでいるエレミヤ書から
時代に生きていた預言者!
最近は、ディボーションにおいてずっと預言書を読んでいます。今は、エレミヤ書27章まで来ました。
読んでいていろいろ気づいたこと、教えられたことがあります。

第一に、エレミヤ書は他の預言書に比べて非常に読みやすいことです。ぜひ、皆さんも読んでみてください。

第二に、エレミヤ書には、神様とエレミヤの間の対話が多く含まれています。預言者エレミヤは、しばしば神様に向かって問いかけています。叫んでいます。いろいろな感情をぶつけています。預言書によっては、神様から受けた言葉(メッセージ)をそのまま語っているだけのものもありますが、エレミヤ書は違います。ですから面白いです。エレミヤは真剣ですが…私は、エレミヤが神様と対話している箇所(ことば)と神様からの言葉を受けて、そのまま語っている箇所を、色分けしています(サインペンを使っています)。これもおすすめします。

第三に、第二と繋がっていますが、ですから、エレミヤ書には、神様とエレミヤ個人とのいろいろな交わりを見ることができます。ある意味で、うらやましいくらいです。そう感じます。

第四に、これは、第三の背景でもありますが、エレミヤの時代は最悪です。彼の生涯のたぶん、初めから終わりまで、時代的に言うなら、イスラエルの歴史の中でも、本当に恐ろしい、悲しい、苦しい時代になっています。彼は、このような時代を預言者として生き、働き、歩み続けています。彼の生涯において、何らかの希望的な展開は実際になかったのではないかと思います。正確に、どのような状況であったか分かりませんが、彼は、最後に、エジプトで亡くなったと考えられます。

第五に、ただし、現実には非常に悲劇的なことが多かったかもしれませんが、彼が語り、また残したエレミヤ書には、終わりの時代の真の希望についての預言があります。それが、部分的には、新約時代に成就しています。

私は、預言者エレミヤについて考えながら、「今の時代」について考えています。信仰をいただいて55年になりますが、今の時代は、一番「希望」の少ない時代かもしれないと思っています。ある部分において、エレミヤの時代に似ているかもしれません。

しかし、どんな時代であっても、神様とエレミヤの羨ましい関係(交わり、祈り、対話、叫び)は、今の私や私たちに与えられていることは確かです。この恵みをもっともっと味わい、大切にしながら、「今」という時代を歩んでいきたいと思います。預言者にはなれないかもしれませんが、神様と交わることが許されている一人の子どもとして。ハレルヤ!
2024-04-19 17:54:06[投稿番号:369]

最近あった二つのこと
大阪旅行とローマ8章5節
最近あった二つのことの間に特別な関係はありません。。。

たぶん、生まれて初めてだと思いますが、妻と一緒に一泊二日で大阪旅行をしました。ご奉仕や何かの用で大阪に行ったり、通ったりは何度もありましたが、今回は、「大阪旅行」をしてみました。今まで、東京方面のことは頭にあったのですが、初めて(?)大阪・関西のことを考えました(大阪の方、ごめんなさい)。

その前に日帰りで東京に行ってかなり疲れてしまい、あまり疲れないと思われる旅行先としての大阪を選択しました。これが当たりでした。東京と違って、どこに行っても(行ったところは僅かでしたが)、庶民的で、電車に乗っていてもそれを感じました。

宿泊先は、「鶴橋」で、鶴橋のコリアンタウンに行きたかったのです。安価な宿も駅の近くで見つけました。鶴橋の駅を降りてびっくり。そこは正に、私が行きたいと思っていたコリアンの市場のど真ん中でした。近くにある(徒歩で10-15分)と言われていたコリアンタウンに行かなくても、近所はほとんどコリアンの市場で埋め尽くされていた感じ。

コロナ前には、ほとんど毎年一回韓国に行っていましたが、鶴橋に行けば、もう韓国に行かなくてもいいかも、と思うほどでした。

後は、例の道頓堀近くの「グリコの絵」の下で写真を撮り、たこ焼きを食べ、大阪港近くの海遊館にも行きました。
とにかく、近鉄特急で約2時間ちょっとで大阪(鶴橋)に行くことができ、コロナ後、久しぶりの旅行を楽しむことができました。大感謝!

4月に一度、一緒に「旅行する」という約束を妻としていましたが、一泊二日の旅でしたが、久しぶりに本当の「旅行」ができた気分です。また、気軽に「大阪旅行」をしたいと思っています。

次は、全く違うテーマですが、ローマ8章5節の大切さについて書かせていただきます。関心のある方はお読みください。

『舟の右側』の編集者にガラテヤ書(前半)の聖霊について原稿を送ったところですが、個人的には今、次のローマ書全体の聖霊について学んでいるところです。これまでにも、時々、気になっていた聖書箇所の一つがローマ8章5節です。たぶん、多くの方々にはあまり注目されない箇所かもしれませんが、今回、学びながら、この箇所の重要性を強く感じましたので少し説明させていただきます。

「 肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。」8章5節

限られた範囲(3?6節)の中に4回も「御霊」が使用されているので注目できます。まさに、聖霊のことが書かれていると言えます。
 3?6節では、その前の1?2節にあることをさらに詳しく説明しています。
 3節ではキリスト論的に、4?6節では、聖霊論的に、「罪と死の原理」から解放され、「いのち(と平安)の原理」に導かれていることについて語っています。

パウロは、これまで、当時のある種の律法主義の誤りを明らかにするとともに、真の律法が神様のものであることを語ってきましたが(7・12、14)、ここに来て、真の律法を真の方法で全うしていく道(在り方)を教えています。それが、パウロが教える聖霊主義です(4節:「律法の要求(律法の義)が満たされる」)。

さらにパウロの聖霊主義的な生き方がどういうものか説明しています。それは、5節の「御霊に従う者は御霊に属することを考えます」に端的に表現されていると言えます。

このあたりのことは、使用されている表現の多くは異なっていますが、意味において、ガラテヤ5章と類似していると言えます。
  「御霊に属することを考える(考えつづけています、生きていく、歩んでいく):φρονο?σιν」とは、一つは、「御霊の思い(φρ?νημα)はいのちと平安です」とあるように(「肉の思いは死です」と対比)、「いのちと平安」に関係しています(今も後も)。また、「肉の思いは神に敵対する」ことと逆で、神様に喜ばれる在り方と行動です(9節)。

 とにかく、「御霊に属することを考えつづける」ことは、まさに、神様を信じ、キリストのものとされている者たちの生き方全体を網羅する重大な言葉であると考えます。中心は「御霊」ですが、「御霊に関すること」は御霊に関係するすべてのことになります(肉とは全く反対のもの)。
 まさに、これこそが、御霊に従って歩んでいくこと、御霊の実を結んでいくこと、こうして、真(愛)の律法を全うする道であると言えます。

長くなってしまいました。今、ローマ書8章の聖霊について学び直しております。いろいろな発見をします。ローマ書の中心とも言える8章において、聖霊のことが繰り返し語られていて、ここから、聖霊について教えられることは何と幸いでしょうか。ハレルヤ!
2024-04-12 19:53:15[投稿番号:368]

イースターを迎えて!
使徒2:24を中心に
「使 2:24 しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。」…イースターを迎えて、「この方が死につながれていることなどあり得ない」から、少し考えてみました。

御子が死者の中から復活されたことの積極的な理由がいろいろあります。第一に、すでに旧約において預言されていたからです。つまり、それが、御父のみこころであったということです(使徒2章24節以下、13章後半もお読みください)。御子の復活が御父のみこころであることは新約においても明らかにされているとおりです。
 第二に、御子も、ご自分が復活されること(その意志)を明らかにしておられました(例えば、ヨハネ2:19、10:18)。
 第三に、御子は生ける神の御子であるから復活される、とも言えるでしょう(例えば、ローマ1:4)。
 第四に、今回もう一つのことを知っていただくために書いています。それは、御子が「罪を知らない(罪のない)人」であったという視点から、御子の復活を考えたいということです。

 御子はその生涯の初めから終わりまで「罪のない、罪を知らないお方」として歩まれました(2コリント5:21)。つまり、この点だけを考えるとしますと、御子は「罪の結果」としての死と永遠の裁きのない存在として生涯を歩んでおられたと言えるかもしれません。
 では、なぜ、十字架で死なれたのでしょうか。それは、御子が私たちの罪の全てと一つになり、正に「罪人」になってくださったからです。このことは、十字架上だけのことではなく、その生涯全体にも影響が及んでいるとも言えるかもしれません。

 では、なぜ、御子は死者の中から復活されたのでしょうか。それは、御子自身の十字架を通して、すべての罪の贖いを完成されたからです。ですから、まず、その代表として、最初のしるしとして、御子が復活され、そのあと私たちも復活するのです。
 御子は、ご自身のために十字架にかかられたわけではなく、すべて私たちのためです。しかし、贖いを全うされたということは、その贖いの恵みがまずは御子ご自身に反映し、最初の復活者(初穂)として死者の中からよみがえられたと言えないでしょうか。

私は今、御子は「全能の神の御子」なので、死を打ち破り復活されたという面ではなく、御子が罪のない人として歩まれた面から、御子の復活を考えています。繰り返しになりますが、御子は罪のない人でしたが、私達の罪を負い、罪と一つになられることによって有罪とされ、死なれました(死ぬことができました)。しかし、ご自身の死(身代わりの贖い)を通して、罪の結果としての「死と永遠の滅び」に勝利されたので、御子は、その勝利のしるしとして、また実際に、ご自身のいのちをもって贖いを全うされたので、永遠のいのちを回復され、その表れとして復活されたということです。

私達は、このような御子によって、御子のように、やがて復活の時を迎えることになります。今、すでに御子をとおして、永遠のいのちが与えられ、永遠のいのちが働いています。ハレルヤ!
2024-04-05 20:39:39[投稿番号:367]

復活の向こうにあるもの?
受難週から復活へ
当然のことですが、先週から今週にかけて、イエス様の十字架と復活についていろいろ考えて来ました。今度の礼拝もイースター礼拝ですし、午後2時から、稲沢市内にある三教会合同のイースタ―祝会も予定しています。これは初めての試みで、コロナ前までは、稲沢公園でイースターの早天礼拝をもっていましたが、参加者が増やされるのを願って、午後にやることになりました。

今の私たちにとってイースターの意味は何か、考えてみました。確かに、イエス様の十字架と復活は、信仰者のすべてにとってなくてはならない出来事と言えます。これなしには、私たちの救いもいのちも何もないからです。

では、イースターを通して教えられることで、今の私たちに最も大切なことは何であると言えるでしょうか。最後の時に、私たちが復活することでしょうか。再臨の主とお会いすることでしょうか。また、再臨の主にあって、他の兄姉とお会いすることでしょうか。私たちは、もう死んで終わらないということでしょうか。

私にとって何だろうと考えたんです。それは、簡単に言えば、御子の十字架の贖いを通して備えられ、御子の復活によって実証されたことで、私の内にも「永遠のいのちが与えられている」ということです。このいのちがあるので、私はまた、終わりの時に復活することができ、さらに神様と交わりつづけることができ、神様にあって兄姉と交わり、ともに生きることができるということです。

イースターのめぐみ、そのゴールとは何でしょうか。罪の贖いによって神様からの真の救いをいただいているというだけではありません。その次が重要です。それは、神の子どもとして、永遠のいのちをもって生きることができることです。この中心的な部分にいつも深く、豊かに関わって導いていてくださるのが聖霊です。

今週の残された歩みも、イースターに向かって十字架の道を歩めることを感謝します。ハレルヤ!
2024-03-29 18:26:11[投稿番号:366]