最近、考えていること…現代の奇跡 | さらに、聖霊の内住について | 御子の受肉や復活は、2000年前の奇跡です。これは事実であると信じています。そしてその結果としての恵みは永遠のもので、今も続いています。
しかし、聖霊の内住について考えてみますと、これは、現在の継続的な奇跡であると言えるのではないでしょうか。
内住は永続的で、信じたときからずっと今に至るまで継続しています。ということは、昨日も、聖霊の内住をいただき、きょうも聖霊の内住をいただいて、生きていることになります。
ということは、聖霊の内住は、きのうも、きょうも、明日も、継続する、または起こり続ける「現代の奇跡」であるといえるのではないでしょうか。当たり前のことではありません。
実際、私は「罪の人のかしら」であり、その私が、聖なる御霊をきょうも受けることは、正に奇跡としか言いようがありません。このような奇跡が、きょうも、明日も起こるのです。
私は、少し視点を変えてお話していますが、これほどの偉大で、嬉しい、あり得ない、現代の奇跡は他にないのではないでしょうか。
あらためて、今、聖霊の内住の恵みを覚えています。
この恵みに立って、前回書きましたように、神の子どもであること、聖霊の宮であること、内的に聖霊主義で神様の真の律法(愛の律法)を全うするものとされていること、内住の聖霊は、パラクレートスで、真理の御霊であることです。
ハレルヤ、ハレルヤ! | 2023-10-27 19:48:43[投稿番号:343] |
聖霊の「内住」が意味すること? | 子とされること、聖霊の宮・・・ | これまで、聖霊の「内住」に関して、特に、二つのことについて考えてきました。一つは、子とされることの恵み。内住の御霊は、内側から「アバ父」と叫んでくださることからも分かるように、私たちを「子」とし、子として自覚させ、子として歩んでいくことを助けてくださると言えます。
もう一つは、「聖霊の宮」とされることの恵み。この恵みの事実と大きさについて、どんな言葉を用いて表現したらよいでしょうか。まだまだ、不十分さを感じています。聖霊の内住のゆえに、罪人のかしらが聖霊の宮とされるのです。神様の栄光を表す宮としておられるのです!
第三に、御霊は、内住によって、私たちが内側(心)から、キリストの愛の律法を全うできるように、働いてくださることを意味しています。これは、律法主義ではなく、キリストの愛と恵みに基づいた、聖霊主義を示しています。律法は、聖霊によって全うする道が与えられています。ローマ8:4、ガラテヤ5:16‐23、エゼキエル36:26‐27 正に、御霊に満たされて歩むことを通して、愛の律法が全うされていきます。
第四に、今、ヨハネ書の聖霊の学びが終わりましたが、14‐16章で繰り返し語られていることです。それは、「もう一人のパラクレートス」として、「真理の御霊」として、私達の心に、御霊は来られるのです。ここには、聖霊との交わり、真理に導く聖霊の働き(御父の御心へ、御子イエス様へ)が語られています。これも、内住の聖霊の働きであると言えます。
とにかく、聖霊の内住なので、内側から、内側から働いていて下さいます。立ち止まって、何度でも、御声を聞くことができますように。ハレルヤ! | 2023-10-20 18:05:25[投稿番号:342] |
聖霊の内住と神の神殿、聖霊の宮 | 最近、考え味わっていること | 以前から、聖霊の内住と私たちが神の子どもであることの関係についてお話してきました。実際に、内住の御霊は、ガラテヤ4章6節、ローマ8章15節にありますように、御父に向かって私たちの内から「アバ父」と叫んでくださるからです。
さらに、御霊は、私たちが子どもとして歩んでいくために、歩みつづけていくために、必要な全てを整え、全てを導いてくださると言えます。救いそのもの時から、最後の栄化に至るまで、です。
今はさらに、聖霊の内住のもう一つの面について考えています。それは、聖霊の内住そのものは、私たち自身を神の神殿、聖霊の宮にしているということです。この背景には、もちろん、これまでのユダヤ人たちの歩み、旧約の歴史があります。
聖霊が、私たち(個人と教会)に内住していてくださるので(1コリント3:16、6:19‐20)、個人も、教会も、神の神殿、聖霊の宮とされているのです。
この恵み、この幸いをどのように表現したらいいでしょうか。この事実に関して、聖書的にいくつかの重要な意味が含まれていますが、なんと言っても重要なことは、神ご自身(聖霊において)が内住していてくださるということです。「もの」ではなく、聖なる愛の神ご自身が、聖霊において、内住していてくださるのです。ある意味で、「共にいて下さる、インマヌエル」の恵み以上だと言ってもよいでしょう。
これからもいろいろ考えさせていただきたいと思っていますが、今最も大切なことは、内住の聖霊によって、本当に、私たちが聖霊の宮、神の神殿にしていただいていることを信じることです。
私の神様が、真に「遍在」の神様である事実に直面し、味わっている時、時々、「ドキッ」とすることがあります。それは、本当に、聖なる愛の神様がここに(私の前に)おられることを意味するから
です。
まして、私の神様が、聖霊なる神様を通して、内住しておられるとしたら(事実、そうですが)、これは、大変なことになるのではないかでしょうか。
これからも、この事実に直面しながら、色々考え、祈り、味わい、瞑想していきたいと思います。ハレルヤ! | 2023-10-13 19:42:00[投稿番号:341] |
ヨハネの聖霊について | ヨハネの福音書における「時」の意識 | あらためて、ヨハネの福音書について考えています。きっかけは、ヨハネの聖霊についての学びですが、これまで以上に、特にヨハネの「時間」について関心をもつようになりました。
これまで、ヨハネ書の目的は二つあって、一つは伝道的で、もう一つは牧会的なものと考えていました。前者は、20章31節にある通りで、後者は、特に14?16章を読んでいて、そう確信するようになりました。
しかし、最近、もう一つのことを考えるようになりました。それは、神学的なことで、この福音書の記者ヨハネ自身の「意識」のようなものです。イエス様ご自身もそのように語り、教えておられることですが、ヨハネも、そのような意識で、ヨハネ書全体を書き、まとめていると言えます。
それは、御子の終わりの時であり、御霊の始めの時であると考えます。御子の終わりの時は、たとえば、7章39節にあるように、「御子が栄光を受けられるとき」で、御霊の始めの時は、その直後39節の最後や20章22節ですが聖霊が来られるときです。16章7節にも御子の終わりの時と御霊の始めの時が並んでいます。御子と御霊の関係は、まさにコインの裏表のようなものに見えます。
ルカ書と使徒の働きにも、「時の意識」を感じますが、ヨハネ書は特にそう思うのです。
つまり、ヨハネ書の目的に関して、もう一つのことが浮かんで来ます。それは、これまでになかった全く新しい時代(終わりの時代)が来るので、これによく備えるようにと読者に教えているということです。この新しい時代は、御子は天に戻られ、御霊が御子に代わって私たちの所に来られ、私たちを導いてくださるということです。また、この時こそ、弟子たちが、永遠のいのちに生きる時代であり、真理の御霊と助け主パラクレートスによって導かれていく時代であると言えます。とにかく、この新しい時代(終わりの時代)と聖霊の臨在と働きは密接です!
ヨハネの福音書からは、教えられることが多いですね。今でも、色々と発見することがあります。ハレルヤ! | 2023-10-06 21:11:51[投稿番号:340] |
ヨハネの | | | 2023-10-06 20:43:15[投稿番号:339] |
「聖霊のバプテスマ」 | ルカ2章とヨハネ1章 | 日本伝道会議が開催された岐阜の長良から帰ってきてました。研修内容と交わりの豊かさに圧倒されています。毎日、会場までの車での往復は非常に疲れましたが、それ以上の素晴らしい恵みをいただき、新しい世代の躍動を感じて、神様にある清々しさも覚えています。すべてにおいて感謝いたします!
9月15日に『舟の右側』の原稿を送ることができました。内容は、使徒の働きにおけるご聖霊についてのまとめとヨハネの福音書1章から3章までの聖霊についてのコメントです。
今回、学び直して、あらためて教えられたことや発見したことがいろいろありました。その中で特に重要だと思っていることは、使徒2章とヨハネの1章において共通のテーマで、「聖霊のバプテスマ」のことです。
あらためて、よりはっきりと、聖霊のバプテスマの意味の大きさ、偉大さを感じています。言い換えますと、これまでの「聖霊のバプテスマ」理解は、個人的な意味だけで(それも重要な要素ですが)、もっともっと大きな意味があることを見過ごして来たのではないかと思っています。
イエス様がその全生涯においてなさったことも、ある意味で、「聖霊のバプテスマ」の準備にもなるということです。実際に、バプテスマのヨハネも、イエス様ご自身も、「聖霊のバプテスマ」を予告しておられます(その準備をしておられるとも言えます)。
すでに「舟の右側」に送らせていただきました原稿の一部を引用させていただきたいと思います。少しでも、聖霊のバプテスマの意味の大きさを感じていただければと思います。
…ここから教えられることは、上記の「使徒の働きにおける聖霊のまとめ(ペンテコステの意味)」で触れたことに繋がります。御子が「聖霊によって(の中に)バプティゾーされる」ことには、非常に大きな意味があります。単に個人的なレベルでの救い、きよめや力の体験に留まらず、もっと大きな次元のことを指し示しているということです。まとめますと次のようになります。
?新たな次元で、聖霊の時代が始まるということです。このことは、救い主イエス様が人となって私たちの所に来られたことに匹敵する出来事です。(御子の到来と共に)新たに終わりの時代が始まるのです。?旧約時代以降、神様にある働き人たちに聖霊が注がれ、その働きが遂行されていったように、(再び)新たなかたちとレベルで、御子にある者たち(教会)が用いられる時代が来るということです。このことは、使徒の働き28章までにおいて例証されています(そして今も、継続中です)。?新たな救いの出来事が御子と御霊によって始まるということです。ある意味で、入口は個人的な入信に見えますが、同時にキリストのからだ(一つの神の民、キリストにある一つの教会)に導き入れられるという救いです。?使徒の働きにおいて明らかにされたこととして、この聖霊は、キリストのからだなる教会を建て上げ、最後まで導かれるということです。こうして個々の教会の交わりも増大していきます。?またこの後、ヨハネ書の後半やパウロの手紙などの学びにおいて明らかにされていくことですが、聖霊によって救われた者たちはさらに聖霊によって導かれ歩んでいくということです。つまり一人ひとりが、教会と同じように、建て上げられていくと言ってもよいでしょう(この後、ヨハネ書においては、約束の助け主の到来と働き、永遠のいのちの御霊の働きなどについて学ぶことになります)。…
以上です。今、私たちがいるのは、この「聖霊のバプテスマ」によって始まった「終わりの新しい聖霊の時代」であると言えます。ハレルヤ! | 2023-09-22 20:06:38[投稿番号:338] |
「信仰、信じること」について | 説教準備の中で教えられたこと | 「信仰、信じること」って随分、曖昧な言葉になって来たのではないかと考えています。
確かに、一方で、いっさいの人間的な方法を排除するいみで、救われるためには、「信じるだけ」でいいのですと言います。間違っていません。
しかし他方で、「信じること」が簡単(イージー)なものに思われるとしたら、それは誤りだとも言えます。知的障がいをもった方々や子どもたちにとっての「信仰」と、大人の信仰とは同じではありません(もちろん、大人と言ってもいろいろな違いがありますが)。子どもたちに大人の信仰を求めることはできません。これらのことについては、誰よりも、神様がご存知です。
「信じる」とは、とても人格的で深いもの、重いものです。そう考えます。つまり、その信仰、信頼のゆえに、すぐに、また少しずつ、私たち自身が変えられていくものだからです。私たちの生き方、人生観や世界観、死生観が変わります。それほどに、根本的で大きな影響を与えるはずのものです。
ただ、神様がおられることを信じるというだけなら不十分でしょう。また、聖書の教えのいくつかについて、知的に同意するということでも足りません。
神様が私たちを死ぬほどに愛してくださったように、私たちも、神様からのこの愛を信じて、献身の愛をもって応答していくほどのことが「信じる」ことの中に含まれていると思います。信じる(信頼する)とは、それほどのことだと思います。
以前、まず初めに、「神様を信じる事だけ」を強調して、その後の信仰成長についてはほとんど考えないケースがあったように思います。よく言えば、初めにちゃんと信じて救われれば、放っておいても、信仰成長していくからと言えるかもしれません。
しかし多くの場合は、そうではなく、その後の信仰成長を考えない、またこれに繋がらない、口先だけの信仰に満足してしまっているという問題があります。
どうしたらいいでしょうか。あらためて入信における「信仰」について考える必要がありますし、信仰生活の中で「自分の信仰」の在り方について吟味することになります。
神様は信じるとは、以前神様を信じたし、今信じ続けているし、最後にその信仰を全うされることになるということです。ですから、過去のある時に、神様を信じたから終わりではなく、今信じ続け、後にその信仰が全うされる時が来るまで歩み続けることです。
かつて信じたことと今信じていることは分けられませんし、その信仰が完成に導かれることも分けることができません。
同じご聖霊がすべてのステップを導かれるので、私たちは勝手に分けることはできません。
以前、私は信じたことがあったからこれでいいのではなく、今信じ続け、応答していることは重大です。
最後に、神様は、私たちを、愛する御子を十字架につけるほどに愛していてくださるので、私たちも、そのような神様の献身の愛に応答して、献身を新しくしていきたいのです。それが、「愛の信仰」であり、それ以下のものはないでしょう。ハレルヤ! | 2023-09-15 20:53:06[投稿番号:337] |
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