本当に教えられることの多かった一年でした!
東方教会の聖霊(論)について学び続けています
クリスマスおめでとうございます!
皆さんの教会におきましても、いろいろなクリスマス集会があったと思います。

知っていたはずですが、クリスマス「イブ」の真の意味は、クリスマス「前(夜)」ではなく、クリスマスそのものの夜(なぜなら、ユダヤでは、日没から一日が始まるので)を指していることにあらためて気づかされ、これまで以上に、熱い(?)クリスマスイブ礼拝になったような気がします。

365日の毎日がクリスマスですが、私の心は、すでに、次の28日の「年末感謝礼拝」、1月1日の「元旦礼拝」のメッセージをどうするかに傾いています(さらに、4日の新年礼拝についても)。

そんなことで、チャンと一年をふり返っているわけではありませんが、今回のブログのタイトルにありますように、今年は、本当に、神様から、あらたに、多くの大切なことを教えていただいた年であったなあと強く感じていることは確かです。

聖霊論的にも、聖書神学的アプローチから、組織神学的アプローチに移り、様々な角度から、歴史(通時)的に、また同時(共時)的に、
さらに、総合的に考えるようになり、新たな発見や注目点がいろいろ見つかりました。特に、西方教会と東方教会の比較は有益でした(今も、継続的に学び続けています)。

また、聖霊論的に、救済論も教会論も一つではないかと、より強く考えるようになりました。一つの御霊が個人的にも、教会的にも内住して最後の最後まで、導いておられることを確信しました。これも、大きな恵みの発見となりました。

また、みことばとして、これまでもいろいろと引用して来ましたが、特に第一コリント3章16節、6章19?20節、エペソ5章18節などが、聖霊論的核心になるのではないかと考えるようになりました。

稲沢教会の牧会は、あと一年ですが(2027年3月まで)、これらの御言葉を中心に据えながら、最後の牧会奉仕をさせていただければと願っております。

東方教会の神学(聖霊論)は、西方教会の神学と違うところがあります。理知的により明確に説明することよりも、神秘的、統合的、現実的なアプローチで、三位一体の神様(聖霊)を、表現するというよりも、詠おう(?)としていますので、比較できない(比較にならない)部分があるかもしれません。これからも、いろいろと難しさはありますが、少しでも、理知的に(?)、実際的に教えられていきたいと思います。

次回のブログは、たぶん、1月1日でお休みになると思います。また、1月8日にお会いしたいと思います。これまでの一年、忍耐をもってお読みくださり、感謝いたします

新しい一年も、御父と御子と御霊は変わりませんので、三位一体の神様の豊かな臨在、交わりの中で、歩ませていただきたいと願っております。皆さん、お一人お一人の上に、三位一体の神様との豊かなお交わりがございますように。ハレルヤ!
2025-12-26 17:47:23[投稿番号:468]

感謝します。秋学期が終わりました!
聖霊論4のクラスについて
つづけて、東方教会(ギリシャ正教)における聖霊(論)について学んでいますが、きょうは、昨日終わった「聖霊論4」のクラスについて触れたいと思います。

私塾として、聖霊論1のクラスは約3年前に始まりましたが、今週、聖霊論4(「ちょうどいいかげんな聖霊論的組織神学的試み」)を終えることができ、本当にホッとし、また感謝しています。6人の方々が受講し、積極的に参加してくださったので、新たな発見や学びができただけでなく、クラスの中でも、聖霊の臨在と導きを覚えることができました。

クラスの皆さんにもお話し、おすすめしましたが、聖霊論5は、私も含めて、参加者一人ひとりの「適用」にあたると考えています。様々な神学的項目の中でも、聖霊論は、本当に、今の自分、今の信仰生活と教会生活に直接関わるものであり、適用すべき神学であると思っています。

内住の御霊の事実を、感覚ではなく、ただみことばによって信じること、その恵みに基づいて「聖霊に満たされる(満たされ続ける)こと」、そして、信仰生活・教会生活の中で応答していくこと(つまり、自分に満たされることを止め、御霊に満たされていくこと)…こうして、個人的にも教会的にも、聖霊による成熟に導かれ、御霊の実が結ばれていくことになります。

それぞれ、一人ひとりが遣わされ、置かれているところで、聖霊に満たされ、導かれていく神様の子どもとして歩んでいくことができますように。
本当に、恵み深い、聖霊深いクラスとその交わりが与えられ、感謝でした。ただ、神様に感謝をお捧げします。

来年の冬学期は、少し、牧会者を意識したクラスになるかもしれませんが、神様が、相応しい方々、必要を覚えておられる方々が送られてきますように。  感謝とともに。
それぞれのクリスマスの諸集会が豊かに祝され、用いられますように。
2025-12-19 16:51:23[投稿番号:467]

つづけて、東方教会(ギリシャ正教)における聖霊について
前回のつづき(その1として)
 前回は、東方教会の三位一体論について簡単にまとめさせていただきました。また、これに基づいて、聖霊理解についても少しだけ触れさせていただきました。今回もその続きになります(ただし、手もとにあります、資料や本などのすべてをチェックできないので、次回も、さらに東方教会の聖霊論について取り上げることになると思います)。

東方教会と西方教会を比較して、どうして、西方では、ご聖霊が後回しになってしまったのか、考えつづけています。前にも書いたと思いますが、その大きな理由の一つが、西方のフィリオクエ主義であると思います。ただし、フィリオクエだから、自動的に、聖霊が後回しになるとは言えないと思います。他に、いろいろな要因があったからだと思います(いつか、この点についても整理したいと思います)。

ここでは、「フィリオクエ」付加に反対した東方教会に注目します。つまり、永遠的に「御父と御子から聖霊が発出された」(他にも、これに近似した表現が歴史的にあります)のではなく、東方は、あくまでもこれまでの歴史的告白に従って、永遠的に「御父から、御子は生出し、御霊が発出した」ことを強調し続けています。

すると、ここから何が出て来るかと言いますと、聖書解釈的に正しいかどうかは別にして、三位一体の神様の一致を前提にしつつ、御父と御子と御霊という三位格の区別がよりはっきりしてくる、またこれに基づく、エネルゲイア理解も、これと相互関係にある「経綸的三位一体」理解も、西方に比べて、より明確なかたちであらわれてくる、更に、そのように理解されるだろうと考えます。また、2世紀のアイレナエウスの三位一体理解や、特に4世紀のカパドキア三教父たちの三位一体理解をより直接に引き継ぎ、三位格の区別がより明確なものになっていると思われます(西方の流れは、アンブロシウス→アウグスチヌス、さらにアンセルムス、トマス・アクィナスへ)。

したがって、聖霊の臨在と働きについての理解やその位置づけは、西方のものより、かなり明確であり、また御子との相互関係も明らかです。こうして、御子の生涯における聖霊の働き(例えば、マリアさんが妊娠した時の聖霊の働きから始めている)、また、ペンテコステにおける聖霊に対する御子の働き(御子は、御座から御霊を派遣された)は、重要な例になります。

今の私達の神学的区分として、一般的に、三位一体論、救済論、教会論、終末論などがありますが、東方においては、長い間、このような(概念的)神学の展開はほとんどなく、また、例えば、神学と霊性の区分(乖離)もなく、基本的に、これらは、神秘的で、実践的で、一つのものとされて来たと思われます。

したがって、東方の聖霊論も、20世紀以降に出版されたものの中で、一応、「聖霊論」という項目を設けている神学書はあるが、内容的には、かなり、神秘的、霊性的、実践的、また御子と御霊は、区別とともに相互的な取り扱いが多いと言えるでしょう。

次回、もう少し、つづけさせていただきます。分かりにくい文を読んでくださり、感謝します。なんとか、もう少し、概念的に整理できればと願っております。
2025-12-13 11:01:34[投稿番号:466]

東方教会(ギリシャ正教)と三位一体
カトリックからギリシャ正教へ
前回、お話ししましたように、少しだけですが、東方教会(カトリックは西方教会)であるギリシャ正教における三位一体論について、簡単にまとめておきたいと思います。その上で、次回、東方教会における聖霊論について触れることができればと考えています。

東方教会における三位一体論は、たぶん、私達は、カトリックの神学的影響をより多く受けているので、慣れていない部分もありますが、東方教会の聖霊論を理解するための重要な枠組みになるので、その準備として、まず三位一体論を紹介したいと思います。

三位一体論について:

 西方教会で言う「内在論的三一論と経綸的三位一体論」の内容と関係は、東方教会ではどうなっているか。
  *「内在論(永遠)的三一論」に関しては、まず何よりも、重要なポイントとして、不可知的「神」理解があるので、表現方法としても、いわゆる「否定的に」表現される。簡単に言えば、「神は善である」ではなく、「神は悪ではない」という風に・・・つまり、それほどに神は偉大で、恐れ多く、人間の通常の表現を超越しておられるということ。このことが、徹底的に強調されている。

  *ただし、すべてが分からないとは言えない。第一に、御子の生出と御霊の発出、御父の全ての根源性は、神秘の中でも確かな真理として確認されているから(これは、永遠的三位一体論に属する真理で、聖書の御言葉の啓示から来ている)。第二に、そこから溢れ出ている「エネルゲイア」(永遠・無限、神秘の神様の実際的な働き、現れ)、そしてその歴史的、実際的な枠組みとしての「経綸的三位一体論(御父から、御子を通して御霊の派遣、御子の誕生も)」とその啓示は、永遠的三位一体論と無関係ではなく、神のエネルゲイアに与り、永遠的三位一体論を見ることができるようにされているから。ただし、二つの三一論は、以下でも触れるような、イコールの関係ではない(ここは、西方教会、特にカール・ラーナーの主張とは違う)。

  *上記の第一の理由は、聖書の啓示において明らかなことは永遠的三一論の内容になる(御子の生出、御霊の発出)。その源である御父の源泉性も。ただし、永遠的三位一体論に関する聖書の啓示は限られているので、聖書から永遠的三位一体を「垣間見る」ことになるばかり。しかし西方教会は、より理性的に、より直接的に、より肯定的に、内在論的三位一体について考え、整えている。

  *二つの三一論の関係について、西方では、最終的にトマス・アクイナスにおいて、理性的に明確に識別され、カール・ラーナーにおいては、「前者=後者」とまで明言されている。しかし東方では、ここまで理性的に明記されず、神秘のゆえに(神秘に触れることなので)、礼拝と祈りにおいて、神ご自身(または永遠的三位一体の神)に近づき、参与するものとされていると思われる。

  *御子と御霊の関係については、エネルゲイア(これに基づく経綸的三位一体論)において、より明白に区別されていると言える(永遠的発出、生出の区別はすでにあるので、西方以上に区別しやすいと言えるかも)。西方教会は、聖霊が、御父と御子に隠れやすく、また一般的に(これまで学んで来た歴史に現れているように)、神学と霊性は乖離しやすい状況になっている。
  西方教会は、より積極的に聖書の啓示を受け止め、三位一体の神について整理し、表明していると言えるが、アウグスチヌス以来の聖霊理解(御父と御子の愛の絆)のゆえに、また理性的に一番分かりにくいであろう「(聖)霊」の扱いは、(逆に)後回しに、またより曖昧になったのかもしれない。こうして、御父と御子と教会が前面に出て来ていると言える。
  逆に、東方教会では、聖霊の独自性(位格の区別)は明確なままで、東方教会の神学と霊性の一致(神秘的実践である礼拝と祈りなど)の中で、聖霊についてのより実践的な理解と行使が展開されて来たといえるかもしれない。東方教会においてなくてはならない重要な教えの「神化」についても、聖霊の働きは不可欠なこととして、歴史的に重視されて来たと言える。

こうして、フィリオクエ理解の相違から11世紀に分離した二つの教会(西方と東方)は、それぞれの歴史を歩むことになるが、三位一体理解についても、これに基づく聖霊理解においても、かなり異なる教えと展開を見ることができる。

長々と読んでくださり、感謝します!
2025-12-05 17:23:44[投稿番号:465]

つづけて、カトリック教会と聖霊について
なぜ、聖霊が後回しになったのか
つづけて、西方教会の神学者たちの文書を読んでいます。ヒラリウス、アンブロシウス、アウグスチヌス、アンセルムス、トマス・アクィナスなどの三位一体論、聖霊論などです。

神学者たちは、時代によって多少違うかもしれませんが、一応、ご聖霊の神性、ペルソナ性などを認め、それを明らかにしています。しかしどうして、聖霊が後回しになったのでしょうか。神学の世界と神学の外の世界とは違ったのでしょうか。たとえば、「霊性」の分野では、いくつかの修道会を中心に大きな発展があったと思います。霊性と聖霊は切っても切れない関係にあるはずです。しかし、それが、あまり顕著ではないと思うのです。

問題は、複合的なので、単に、「フィリオクエ」問題だけとは言えないでしょう。フィリオクエも、用い方によっては、ご聖霊を積極的に解釈し適用できると思うからです。やはり、長年の「教会主義」の問題でしょうか。また、アウグスチヌスが強調した、聖霊は「御父と御子の愛の絆」理解の影響でしょうか。

自分としては、これ以上、カトリック教会に入り込まないで、今度は、ギリシャ正教(フィリオクエに反対した東方教会)の聖霊論に移った方がいいかなと思っています。理由は、ただ「時間」の問題です。また、キリがないからです。どうなるでしょう?

友人が送ってくれた鳥巣義文氏(カトリックの修道士)の文から引用させていただきたいと思います。
「第二バチカン会議は、教会の刷新を目指していました。公会議を招集する権限のあるヨハネ23世は、バチカン官僚の反対・サボタージュを心配した側近が、「なぜ公会議を招集されたのですか」という質問に対して、その側近を窓際に連れて行って、窓を開けて言いました。「教会の窓を開けて風を通したいんだ」ギリシャ語で、風・息・霊は同じ単語です。聖霊をお招きして、刷新を願っているということを言われたのです。」

第二バチカン以降のカトリックの事を考えますと、変な言い方かもしれませんが、プロテスタント(御言葉を信じているという福音派)のほうが、聖霊(論)に関して、遅れをとってしまっているかも、と考えさせられます。
私も、しばしば、個人的にも教会的にも、窓を開いてみたいと思います。アーメン!
2025-11-28 18:34:14[投稿番号:464]

カトリック教会と聖霊について
…今、意識して読んだり、学んだりしていること
前回、ロヨラの『霊操』の読後感を書きましたが、その後も、つづけて、カトリック教会の歴史の中での聖霊(理解、信仰)について考えています。1000年以上の歴史と多様性がある中で(宗教改革まで)、ご聖霊のことがどのように理解され、信じられ、生きられて来たか、関心があります。なぜなら、それらが、16世紀以降のプロテスタント教会に受け継がれたと思うからです。聖霊(理解、信仰)についてもそうです。

ルターやカルヴァンと聖霊については、後でまた確認するとして、西方教会の神学者たち、ヒラリウス、アンブロシウス、アウグスチヌス、アンセルムス、トマス・アクィナス、また、『キリストに倣いて』でよく知られているトマス・ア・ケンピスにも、神学者ではありませんが、注目しました。

これまで読んだり、調べた範囲では、アウグスチヌスあたりから、「フィリオクエ(理解)」が明確になっていったようです(アウグスチヌスは、御父からの聖霊の発出についても述べていますが)。また、聖霊が後回しになっていった重要な表現の一つとして、「御霊は、御父と御子の愛である」があります。

他方で、御霊の位格性(ペルソナ)を認めつつも、「愛」という言い方は、後代のカトリックに大きな影響を与えたのではないかと思います。また、彼が書いた『三位一体論」を以前読みましたが、その時感じたことは、三位一体論の「三」と「一」のバランスが「一」に傾いているのではないかということでした。これが事実なら、これも、聖霊が後回しになっていった理由の一つになるのではないかと考えます。

カトリックの歴史において、たくさんの文書があるので、簡単に決定的なことは言えませんが、1054年の東西教会の分裂の原因として、「フィリオクエ問題」が一番に上げられますが、これ以降、増々、御霊は御子の背後に、またカトリック教会に飲まれていったと思われます。

もう少し、他の書を読みながら、確認していきたいと思います。ここまで、お読みくださり、感謝いたします。
2025-11-21 18:04:33[投稿番号:463]

カトリックにおける聖霊
イグナチオ・デ・ロヨラ著『霊操』について
最近、イエズス会の創設者でもあるイグナチオ・デ・ロヨラの『霊操』を読みました。細部まで徹底的に読んだというよりも、限られた時間内に、あるところは少し急いで、あるところは飛ばして、あるところは精読しました。

ロヨラは、15世紀から16世紀頃のカトリックの修道士、また司祭で、『霊操』は、16世紀の中頃に書かれました。これは、後のイエズス会の霊性の重要な指針になったと言われ、カトリックの霊性について考えるとき、なくてはならない重要な書のひとつであると言えます。

読んでみて驚きましたのは、私が想像していた以上に(ア・ケンピスの『キリストに倣いて』とか、他の霊的な書物などと比較して)、非常にカトリック的なものを感じました。そういう意味では、プロテスタント・福音派にとっては、使いづらい、かなりギャップを感じる書でした。

例えば、マリアさんのことや聖人たちのことがしばしば言及されたり、「観想」を強調することはまだ理解できますが、非常に具体的なものを観想し、見ることを勧めています(たとえば、ナザレにある聖母の家を見る、とか、ナザレからベツレヘムまでの道を見るとか、園からアンナスの家までを観想するとか・・・)。

神学的な違いとして、福音派は、いつ、どこで、どのように信じ、救われたかを、かなり強調するのですが、カトリックの救いは、点的ではなく、線的なので、自分が救われたときのこと、救われ、赦された恵みの大きさなどについて振り返ることの祝福については、取り上げられていないように思います。

そして、今回最も大きな驚き(確認でもありました)は、聖霊のことはほとんど取り上げられていないということでした。「霊性」に関して、これは、神学において、救済論に含まれると思いますが、救済論において最も大切で不可欠な聖霊の臨在と働きについての言及がないのです。

驚きましたが、これが、第二バチカン会議(1962?65年)前の、カトリック教会の状況であると言えます。カトリックの歴史において、非常に豊かで、深い、霊性の研究と経験が実行されてきましたが、それは、「聖霊なしの霊性」です。正確に言うと、聖霊の働きはありましたので、「聖霊の働きに気づかない(気づけない)霊性」と呼んでよいと思います。

カトリックの長い歴史の中で、ご聖霊についての気づきや認識、理解があったら、霊性の理解や実践において、また違った展開があったかもしれません。これが、様々な形で、プロテスタントに流れて来たと思われます。

以上は、『霊操』を読んだ一つの感想でした。お読みくださり、感謝いたします!
2025-11-14 18:00:54[投稿番号:462]

三位一体の神様の関係について
お祈り感謝します。回復することができました!
しばらく前にも、三位一体の神様の一体性に関連して、妻と私は「二人で一人前」と書いたことがあったと思いますが、先週、こんなことがありました。

私が病気で休んでいた時、以前から親しい、ある姉妹から突然、電話がありました。詳しくは書くことができませんが、自分のお母さんが突然入院することになり、いつ亡くなる分からない状態、状況ということでした。また、今、意識はあるので、伝道していて、神様に心が開かれている、信仰の準備ができているなら、洗礼を授けてほしいということでした。

突然で私たちもびっくりしましたが、緊急を要することなので、とにかく、すぐに病院に行った方がよいだろうということになりました。ただし、私は、病気で病院に行けないので、妻が病室に行って、その方の信仰を確認し、信仰的にはっきりしていれば、受洗(滴礼)の時の宣言だけは、必要なら、私が、電話を通してすることを確認しました。(→実際にそのように導かれました。感謝いたします!)

どうしてこのようなことをお話したかと言いますと、まさに、この出来事こそ、「二人で一人前(一人分のこと)」をすることができたという例として理解していただければと思ったからです。

三位一体の、三つの位格の関係について、私達人間のレベルのことで説明することはできませんが(ありえないことですが)、それでも、皆さんに、三位一体の神様の関係について、少しでも、よりふさわしく知っていただければと思ったからです。

神様は、私達人間の救いを実現するために、御父だけ、御子だけ、御霊だけでなく、三つの位格の総力をあげ、三位格全員(!)で、出来得る限りのことをして下さいました。「二人で一人前」とは言えませんが、それでも、三位一体の神様は、「三位格(三者)で一つのこと」を徹底的に実行してくださったと言えます。

ある意味で、御父だけでは救いを全うできない(御父は、身代わりになって十字架にかかり、死ぬことはできない)ので、絶対的に一つであられる三位一体の神様の御父が、御子と御霊を通して(御子は人として十字架にかかることができ、御霊は私達の心に内住できる)、私達の救いを実現してくださいました。

私達のために備えられ、実現してくださった「救い」は、三位格の神様の究極の愛そのものを表し、渾身のわざであると言えます。

旧約時代に、神様はご自身の御心を行い、全うするために、敢えてモーセを用い、さらに神様ご自身へのモーセのギロンさえ用いられました。

新約時代に、神様はご自身の御心(救い)を全うするために、御霊を通して御子を用いられ、さらにゲッセマネの園での叫びと十字架上での叫び(「わが神、わが神、どうして?」)さえ、用いられました。

御父は御子と本当に一つで、救いのみわざを実行され、実現されました!

ハレルヤ!
2025-11-07 21:51:45[投稿番号:461]

妻の母の出身地である長崎に行ってきました!
黙示録における聖霊について
今週は、2泊3日で、妻の母の出身地である長崎市に行って来ました。妻の信仰の重要な一つのルーツになります。母が生まれた所、通った小学校、信仰をもった教会などを見て回りました。約50年前に召天していますが、聞けば聞くほど、周りの人たちに大きな影響を与えた信仰の母だったようです(私は会っていません)。若い時に信仰をもったゆえに勘当され、教会堂に住み込んで献身の訓練を受けたと聞いています。

たった二泊三日の旅でしたが、本当に豊かで濃厚な経験、しかも、毎日12000歩以上歩いて、クタクタ・ヘトヘト状態になりました(今も後遺症!)。いろいろな方々との素晴らしい、また不思議な出会いや導きがありました。本当に、神様に感謝します!

(つづき)聖書研究祈祷会での聖霊についての学びは、最後になりました。黙示録の聖霊について以下でまとめたいと思います。

*1章4節:「七つ(七重)の御霊から」
 4節からおそらく8節までが、パウロの手紙などにあるように、手紙の形式に則ったもう一つの「序論」になると思われます(9節から20節は第三の序論)。ここに含まれる「七つ(七重)の御霊から」に関して注目すべきことがあります。それは、私たちがよく知っている手紙の挨拶(祝福の祈りの内容・順序)と異なる部分があることです。「御父(今おられ、昔おられ、やがて来られる方)」の後に、「御座の前におられる七つの御霊」が来ていることです。

*1章10節:「私は御霊に捕らえられた」
 私としては、「御霊に導かれた、満たされた」で十分であると考えます。
*2章7節:「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい」、11節、17節、29節、3章6節、13節、22節もすべて同じ。
 「御霊が語っておられること」の内容は、どこからどこまでを指しているのでしょうか。これは、7節後半だけでなく、2節から7節までのすべてが御霊(と御子)のことばであると考えます。

*3章1節:「神の七つ(七重)の御霊と七つの星を持つ方」
 御子が「神の七つ(七重)の御霊を持ち続けておられる(?χω)」とはどういう意味でしょうか。ここでは、何よりも、御霊と御子の密接な関係が表されていると考えます。

*4章2節:「御霊によって導かれた(満たされた)」+場所や時など(1:10、4:2、17:3、21:10)
 4章2節には、「突然、すぐに」がありますので、より明確に、ヨハネが御霊にある状態になった(御霊に導かれた、満たされた)ことが分かります。しかも、前節に「ここに上れ」とありますので、17章3節や21章10節と同様に、この時のヨハネに、聖霊(と御使い)による空間的移動が生じたと言えます。

*4章5節「七つのともしび」、5章6節「七つの目」
 「七つの火の灯」は、神の七つの御霊を指しています。ここでも、御霊は、1章4節と同様に、御座の前におられます。「七つの火の灯が燃えている「現在分詞」」は、御座の前で神様の栄光を現わす御霊の働きを示唆していると思われます。
 5章6節「(子羊は)七つの角と七つの目を持っている。それら(七つの目)は神の七つの御霊であり、すべての地に遣わされている「完了形」。」「(七つ)目」は、直後にありますように、「(七つ・七重の)御霊」を指し、「知恵」とか、文脈的に、「見守り」などが含意されていると思います。さらに、「すべての地に遣わされている(?πεσταλμ?νοι)」の完了分詞の使用は、御霊の現在的な働きが示唆されていると考えます。つまり、王として着座しておられる御子にあって御霊は、今全世界に遣わされ働いておられるということです。

*11章11節:「いのちの息(御霊)が神から出て」
 「いのちの息(御霊)」も含めて、11節では何が語られているのでしょうか。この箇所の背後に、エゼキエル書37章10節前後の預言があることは確かです(直訳、その御霊(風、息)は彼らの内に入った。そして彼らは生きた。そして自分たちの足で立った。)。10節の「ルアッハ」については、すでに取り上げている通りに多重に理解できます。黙示録11章11節の「プニューマ」も同様です(「御霊、息、風など」)。ただし、実際に「彼ら」を生き返らせたと言えるのは、「息や風」ではなく「いのちの御霊」です。「いのちの息」と訳されても、ここにいのちの御霊の働きがあることは確かです(KJV訳「the Spirit of life from God」(神からのいのちの御霊)」)。

*14章13節:「御霊も言われる」
 9節から12節までは御使いのことばですが、その後に、「天からの声」と「御霊のことば」が続きます。内容的に(11節までには、裁きを受ける者たちの苦しみが語られ、これと対比して)、苦難の中にある聖徒たちに対して、「天からの声」(御子)は、殉教者たちの幸いを約束し、御霊も、殉教者たちに与えられる真の解放と究極の平安を語っておられます。
 注目できることがあります。第一に、14章は黙示録において最も重要な箇所の一つですが(12-13章における霊的戦いに続くエスカトンが描かれる)、ここで御子(天からの声)と御霊は、迫害下にある聖徒たちに対して、殉教の幸いと、その後の真の解放と平安を約束しておられるということです(殉教の可能性が否定されていない)。第二に、多くの場合、直接語っているのは御使いですが(1・1)、ここは、御子と御霊が連続的に語っておられる稀有な箇所です(22・17)。ここでも、必要なときに御霊は語っておられます!

*19章10節:「預言の御霊」
10節全体は次のようにまとめることができます。「御使いも、兄弟たち(ヨハネ)と同じように、神様からのことば、御子からの証し(証言)を受けて語る者たちですから、礼拝の対象にはなりません(拝んではいけない!)。礼拝するのは神様ご自身のみです。なぜなら私たちは、御霊に導かれて預言し(つまり、神のことばを語り)、イエスを証しする者たちであるから。」様々な解釈がある中で、最新のNIV訳は適切であると思います。「 For it is the Spirit of prophecy who bears testimony to Jesus」)。

*22章6節:預言者たちの(御)霊:「直訳:預言者たちの(御)霊「複数形」の神である主は。」
 「πνε?μα」(複数形)について、預言者自身の霊のことか、神的御霊のことかという議論があります。ここも、1コリント書14章32節と同様に、「S/spirit」で理解できると思います。

*22章17節:「御霊と花嫁(教会)が言う」
 第一に、17節を、終末の時代全体(ペンテコステからエスカトンまで)の呼びかけとして理解するとき、聖霊が、今も後も、御子の再臨の時まで教会(のひとり一人)とともにいてくださることが分かります。私たちの信仰生涯の最後までともにいてくださる救済論的御霊は、終末論的にも、最後の完成まで、教会(私たち)とともにいてくださるお方です。
 第二に、第一と重なりますが、御霊は花嫁である教会と一つです。教会は、御霊とともに、最後まで、また最後においても、再臨のキリストに向かって「来てください」と呼びかけることができます。「(御霊と花嫁が)言う」は、文法的に、三人称複数形、現在形の動詞です。第三に、こうして、御子による聖霊の注ぎ(ペンテコステ)で始まった聖霊時代(教会の時代、福音宣教の時代)は、御子の再臨をもって完了することになります!ハレルヤ!

聖霊のことが、聖書の初め(創世記1:2)から、聖書の終わり(黙示録22:17)まで書かれていることが分かりますが、それだけでなく、創造といのちの御霊は、再創造と永遠の命の御霊でもあります。

ここまで、頑張って読んでくださり、感謝します。御父と御子と御霊の三重の、豊かな祝福と導きがございますように。
2025-10-24 17:39:38[投稿番号:460]