最近読んでいるエレミヤ書から
時代に生きていた預言者!
最近は、ディボーションにおいてずっと預言書を読んでいます。今は、エレミヤ書27章まで来ました。
読んでいていろいろ気づいたこと、教えられたことがあります。

第一に、エレミヤ書は他の預言書に比べて非常に読みやすいことです。ぜひ、皆さんも読んでみてください。

第二に、エレミヤ書には、神様とエレミヤの間の対話が多く含まれています。預言者エレミヤは、しばしば神様に向かって問いかけています。叫んでいます。いろいろな感情をぶつけています。預言書によっては、神様から受けた言葉(メッセージ)をそのまま語っているだけのものもありますが、エレミヤ書は違います。ですから面白いです。エレミヤは真剣ですが…私は、エレミヤが神様と対話している箇所(ことば)と神様からの言葉を受けて、そのまま語っている箇所を、色分けしています(サインペンを使っています)。これもおすすめします。

第三に、第二と繋がっていますが、ですから、エレミヤ書には、神様とエレミヤ個人とのいろいろな交わりを見ることができます。ある意味で、うらやましいくらいです。そう感じます。

第四に、これは、第三の背景でもありますが、エレミヤの時代は最悪です。彼の生涯のたぶん、初めから終わりまで、時代的に言うなら、イスラエルの歴史の中でも、本当に恐ろしい、悲しい、苦しい時代になっています。彼は、このような時代を預言者として生き、働き、歩み続けています。彼の生涯において、何らかの希望的な展開は実際になかったのではないかと思います。正確に、どのような状況であったか分かりませんが、彼は、最後に、エジプトで亡くなったと考えられます。

第五に、ただし、現実には非常に悲劇的なことが多かったかもしれませんが、彼が語り、また残したエレミヤ書には、終わりの時代の真の希望についての預言があります。それが、部分的には、新約時代に成就しています。

私は、預言者エレミヤについて考えながら、「今の時代」について考えています。信仰をいただいて55年になりますが、今の時代は、一番「希望」の少ない時代かもしれないと思っています。ある部分において、エレミヤの時代に似ているかもしれません。

しかし、どんな時代であっても、神様とエレミヤの羨ましい関係(交わり、祈り、対話、叫び)は、今の私や私たちに与えられていることは確かです。この恵みをもっともっと味わい、大切にしながら、「今」という時代を歩んでいきたいと思います。預言者にはなれないかもしれませんが、神様と交わることが許されている一人の子どもとして。ハレルヤ!
2024-04-19 17:54:06[投稿番号:369]

最近あった二つのこと
大阪旅行とローマ8章5節
最近あった二つのことの間に特別な関係はありません。。。

たぶん、生まれて初めてだと思いますが、妻と一緒に一泊二日で大阪旅行をしました。ご奉仕や何かの用で大阪に行ったり、通ったりは何度もありましたが、今回は、「大阪旅行」をしてみました。今まで、東京方面のことは頭にあったのですが、初めて(?)大阪・関西のことを考えました(大阪の方、ごめんなさい)。

その前に日帰りで東京に行ってかなり疲れてしまい、あまり疲れないと思われる旅行先としての大阪を選択しました。これが当たりでした。東京と違って、どこに行っても(行ったところは僅かでしたが)、庶民的で、電車に乗っていてもそれを感じました。

宿泊先は、「鶴橋」で、鶴橋のコリアンタウンに行きたかったのです。安価な宿も駅の近くで見つけました。鶴橋の駅を降りてびっくり。そこは正に、私が行きたいと思っていたコリアンの市場のど真ん中でした。近くにある(徒歩で10-15分)と言われていたコリアンタウンに行かなくても、近所はほとんどコリアンの市場で埋め尽くされていた感じ。

コロナ前には、ほとんど毎年一回韓国に行っていましたが、鶴橋に行けば、もう韓国に行かなくてもいいかも、と思うほどでした。

後は、例の道頓堀近くの「グリコの絵」の下で写真を撮り、たこ焼きを食べ、大阪港近くの海遊館にも行きました。
とにかく、近鉄特急で約2時間ちょっとで大阪(鶴橋)に行くことができ、コロナ後、久しぶりの旅行を楽しむことができました。大感謝!

4月に一度、一緒に「旅行する」という約束を妻としていましたが、一泊二日の旅でしたが、久しぶりに本当の「旅行」ができた気分です。また、気軽に「大阪旅行」をしたいと思っています。

次は、全く違うテーマですが、ローマ8章5節の大切さについて書かせていただきます。関心のある方はお読みください。

『舟の右側』の編集者にガラテヤ書(前半)の聖霊について原稿を送ったところですが、個人的には今、次のローマ書全体の聖霊について学んでいるところです。これまでにも、時々、気になっていた聖書箇所の一つがローマ8章5節です。たぶん、多くの方々にはあまり注目されない箇所かもしれませんが、今回、学びながら、この箇所の重要性を強く感じましたので少し説明させていただきます。

「 肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。」8章5節

限られた範囲(3?6節)の中に4回も「御霊」が使用されているので注目できます。まさに、聖霊のことが書かれていると言えます。
 3?6節では、その前の1?2節にあることをさらに詳しく説明しています。
 3節ではキリスト論的に、4?6節では、聖霊論的に、「罪と死の原理」から解放され、「いのち(と平安)の原理」に導かれていることについて語っています。

パウロは、これまで、当時のある種の律法主義の誤りを明らかにするとともに、真の律法が神様のものであることを語ってきましたが(7・12、14)、ここに来て、真の律法を真の方法で全うしていく道(在り方)を教えています。それが、パウロが教える聖霊主義です(4節:「律法の要求(律法の義)が満たされる」)。

さらにパウロの聖霊主義的な生き方がどういうものか説明しています。それは、5節の「御霊に従う者は御霊に属することを考えます」に端的に表現されていると言えます。

このあたりのことは、使用されている表現の多くは異なっていますが、意味において、ガラテヤ5章と類似していると言えます。
  「御霊に属することを考える(考えつづけています、生きていく、歩んでいく):φρονο?σιν」とは、一つは、「御霊の思い(φρ?νημα)はいのちと平安です」とあるように(「肉の思いは死です」と対比)、「いのちと平安」に関係しています(今も後も)。また、「肉の思いは神に敵対する」ことと逆で、神様に喜ばれる在り方と行動です(9節)。

 とにかく、「御霊に属することを考えつづける」ことは、まさに、神様を信じ、キリストのものとされている者たちの生き方全体を網羅する重大な言葉であると考えます。中心は「御霊」ですが、「御霊に関すること」は御霊に関係するすべてのことになります(肉とは全く反対のもの)。
 まさに、これこそが、御霊に従って歩んでいくこと、御霊の実を結んでいくこと、こうして、真(愛)の律法を全うする道であると言えます。

長くなってしまいました。今、ローマ書8章の聖霊について学び直しております。いろいろな発見をします。ローマ書の中心とも言える8章において、聖霊のことが繰り返し語られていて、ここから、聖霊について教えられることは何と幸いでしょうか。ハレルヤ!
2024-04-12 19:53:15[投稿番号:368]

イースターを迎えて!
使徒2:24を中心に
「使 2:24 しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。」…イースターを迎えて、「この方が死につながれていることなどあり得ない」から、少し考えてみました。

御子が死者の中から復活されたことの積極的な理由がいろいろあります。第一に、すでに旧約において預言されていたからです。つまり、それが、御父のみこころであったということです(使徒2章24節以下、13章後半もお読みください)。御子の復活が御父のみこころであることは新約においても明らかにされているとおりです。
 第二に、御子も、ご自分が復活されること(その意志)を明らかにしておられました(例えば、ヨハネ2:19、10:18)。
 第三に、御子は生ける神の御子であるから復活される、とも言えるでしょう(例えば、ローマ1:4)。
 第四に、今回もう一つのことを知っていただくために書いています。それは、御子が「罪を知らない(罪のない)人」であったという視点から、御子の復活を考えたいということです。

 御子はその生涯の初めから終わりまで「罪のない、罪を知らないお方」として歩まれました(2コリント5:21)。つまり、この点だけを考えるとしますと、御子は「罪の結果」としての死と永遠の裁きのない存在として生涯を歩んでおられたと言えるかもしれません。
 では、なぜ、十字架で死なれたのでしょうか。それは、御子が私たちの罪の全てと一つになり、正に「罪人」になってくださったからです。このことは、十字架上だけのことではなく、その生涯全体にも影響が及んでいるとも言えるかもしれません。

 では、なぜ、御子は死者の中から復活されたのでしょうか。それは、御子自身の十字架を通して、すべての罪の贖いを完成されたからです。ですから、まず、その代表として、最初のしるしとして、御子が復活され、そのあと私たちも復活するのです。
 御子は、ご自身のために十字架にかかられたわけではなく、すべて私たちのためです。しかし、贖いを全うされたということは、その贖いの恵みがまずは御子ご自身に反映し、最初の復活者(初穂)として死者の中からよみがえられたと言えないでしょうか。

私は今、御子は「全能の神の御子」なので、死を打ち破り復活されたという面ではなく、御子が罪のない人として歩まれた面から、御子の復活を考えています。繰り返しになりますが、御子は罪のない人でしたが、私達の罪を負い、罪と一つになられることによって有罪とされ、死なれました(死ぬことができました)。しかし、ご自身の死(身代わりの贖い)を通して、罪の結果としての「死と永遠の滅び」に勝利されたので、御子は、その勝利のしるしとして、また実際に、ご自身のいのちをもって贖いを全うされたので、永遠のいのちを回復され、その表れとして復活されたということです。

私達は、このような御子によって、御子のように、やがて復活の時を迎えることになります。今、すでに御子をとおして、永遠のいのちが与えられ、永遠のいのちが働いています。ハレルヤ!
2024-04-05 20:39:39[投稿番号:367]

復活の向こうにあるもの?
受難週から復活へ
当然のことですが、先週から今週にかけて、イエス様の十字架と復活についていろいろ考えて来ました。今度の礼拝もイースター礼拝ですし、午後2時から、稲沢市内にある三教会合同のイースタ―祝会も予定しています。これは初めての試みで、コロナ前までは、稲沢公園でイースターの早天礼拝をもっていましたが、参加者が増やされるのを願って、午後にやることになりました。

今の私たちにとってイースターの意味は何か、考えてみました。確かに、イエス様の十字架と復活は、信仰者のすべてにとってなくてはならない出来事と言えます。これなしには、私たちの救いもいのちも何もないからです。

では、イースターを通して教えられることで、今の私たちに最も大切なことは何であると言えるでしょうか。最後の時に、私たちが復活することでしょうか。再臨の主とお会いすることでしょうか。また、再臨の主にあって、他の兄姉とお会いすることでしょうか。私たちは、もう死んで終わらないということでしょうか。

私にとって何だろうと考えたんです。それは、簡単に言えば、御子の十字架の贖いを通して備えられ、御子の復活によって実証されたことで、私の内にも「永遠のいのちが与えられている」ということです。このいのちがあるので、私はまた、終わりの時に復活することができ、さらに神様と交わりつづけることができ、神様にあって兄姉と交わり、ともに生きることができるということです。

イースターのめぐみ、そのゴールとは何でしょうか。罪の贖いによって神様からの真の救いをいただいているというだけではありません。その次が重要です。それは、神の子どもとして、永遠のいのちをもって生きることができることです。この中心的な部分にいつも深く、豊かに関わって導いていてくださるのが聖霊です。

今週の残された歩みも、イースターに向かって十字架の道を歩めることを感謝します。ハレルヤ!
2024-03-29 18:26:11[投稿番号:366]

祈りの神学?
とりなしの祈りとは?
以前、カナダにいた時に、「祈りの神学」という名称のクラスがありました。大変興味があって取ろうとしましたが、何かの理由で、取れなくて諦めたことがありました。

考えてみますと、「祈り」について、聖書はいろいろと教えています。模範もあるし(祈りや祈り手)、祈りの教えや命令、祈りの励ましや約束もあります。教えは非常に多様なので、聖書全体から学び、考える価値のあるテーマであると思います。また、この2000年の間にも、さまざまな祈りの教えや証しがありますし、たくさんの祈り手が現れています。

私は、最近、「とりなしの祈り」について考えています。どのように考え、どのように実行することが、ふさわしいとりなしの祈りといえるのでしょうか。
私は、毎日、(たぶん)多くの兄姉の名前を挙げて祈っていますが、祈りの中で、何が一番ふさわしい、よりよい「とりなしの祈り」と言えるのか、いろいろ考えることがあります。

ただ、名前を挙げればいいということでもないでしょう。いろいろと想像力を高めながら、祈ることもできるでしょう。教会の皆さんから、祈りの課題をいただいていますが、ただそれを読み上げればよいとは言えないでしょう。

何が一番ふさわしい「とりなしの祈り」でしょうか。これも、一種の「願いの祈り」の一つなので、神様に向かってどのように、他の兄姉に関した「願いの祈り」を捧げたらよいでしょうか。

最近、時々、試みている「とりなしの祈り、願いの祈り」あります。早く慌てて、その願い、とりなしをしないことです。まず何よりも大切にしたいことは、神様との交わりです。神様との交わりを深めることです。その流れの中で、とりなしの祈りや願いの祈りをするのです。確かに、このようにお祈りすると、とりなしの言葉も、願いの言葉も変わっていきます。率直になりますし、多くのことばが要らなくなるでしょう。

神様との豊かな交わりの中で、これを味わいながら、とりなしや願いをするのです。もう一度言いますが、願い事を早く言い過ぎると、その祈りは、ただ願い事を言うだけの祈りになってしまいやすいと思います。

皆さん、ぜひやってみてください。もちろん、緊急に、「助けてください!」と、叫び祈ることを止めましょうと言っているのではありません。

皆さんのいのりと祈りの生活が豊かに導かれますように。感謝!
2024-03-22 17:55:47[投稿番号:365]

オバデヤ書を読んで
神様のえこひいき!
ディボーションで、旧約の小預言書を読んで行くことは時々、簡単なことではありません。内容的に、理解することが難しい箇所があります。背景を理解しようとしても限界があります。また、その多くは、イスラエルに対するさばきです。

さて、今朝のディボーションでは、「オバデヤ書」を読みました。ご存知かもしれませんが、ほとんどが、「エドム」に対する裁きの預言です。しかし、最後に少しだけ、イスラエルに対する赦しの預言、回復の預言があります。

私は、この預言書を読みながら、思わず、これは「神様のえこひいき」だ!と言ってしまいました。「シオンの山には、逃れの者がいるようになる」(17節)。

確かに、聖書には、しばしば、イスラエルに対する神様のえこひいきと思われるような箇所があります。しかも、多くの場合、その理由は明記されていません。奥義です。。。

イスラエルに対する「神様のえいこひいき」についていろいろ考えていたとき、ハッとしました。それは、私自身も、神様からのえこひいきをいろいろいただいて、ここまで来ることができたことが分かったからです。

救われた時も(その救われた方も)、その時からずっと50年の間、振り返ってみると、「神様のえこひいき」で導かれて来た人生だったと言わざるを得ませんでした。

神様の「えこひいき」は、威張るものではなく、ただへりくだるものですね。感謝いたします。ハレルヤ!
2024-03-15 17:24:23[投稿番号:364]

小預言書(ホセア書)を読みながら
…神様の愛の苦悩…
ディボーションで、エゼキエル書からダニエル書、そして今は、ホセア書からヨエル書を読んでいます。特に、ホセア書を読みながら、感じたことがあります。

主に、北イスラエルの裁きについての預言が続いていますが、これを読みながら、ある意味ですが、神様の混乱(預言者の混乱かも?)、苦しみ、悲しみを見ます。また、毅然とした裁き、滅びの宣言があります。しかしまた、神様の愛と憐れみ、赦しのことばがあります。回復の約束もあります。これらが、時々、繰り返されています。・・・ですから、ホセア書には構造はほとんどないかもしれないと思うほどです。

北イスラエルに対する神様の愛がなければ、これほどの苦悩はなかったのではないかと考えます。愛し、憐れんでくださるからこそ、神様は苦しんでおられます。そして、じっと、イスラエルが、悔い改めて神様のもとに戻って来るのを待っておられます。

神様の裁きは懲らしめであり、悔い改めて戻ってくるための最後の手段ではないでしょうか。親は、子どもに対して愛するがゆえに、似たような苦しみを経験します。それは、神様が全能、全知だと言っても同じでしょう。ここには、愛のゆえに苦しむ神様が描かれています。また、ホセア書の文言の背後に、神様の愛の苦しみを読みとることができます。

今、日本でも、世界でも様々な苦しみが蔓延しています。人々は苦しみ、泣いています。しかし本当は、その背後で、神様の愛の苦しみをもって悲しんでおられることを忘れてはいけないと思います。苦しみは、人間だけでなく、被造物全体だけでなく、神様も「産みの苦しみ」をしておられます。

それは、そのような悲しみや苦しみを許された神様が、私たちが悔い改めて、神様のもとに戻ってくるためでしょう。神様は、「今」を終末的な最後の日(エスカトン)としてすべての時代を終わりにすることもお出来になりますが、なお、待ち続けておられると言えます。

日本の多くの同胞は、残念ながら、苦しみのただ中で神様を見上げることができず、誰に向かって祈り求め、また悔い改めるのかを知りません。このままでいいだろうか、と考えています。

毎朝、「上に立つ権威」(ローマ13:1以下)のために祈り続けています。北朝鮮、中国、ミヤンマー、アフガニスタン、パレスチナ、ウクライナ、これらに関わるリーダーたちのために祈っています。

御父の愛の苦悩、御座での御子のとりなし、内住の御霊のうめきを覚えながら、神様の最善を求めて、祈り続けていきたいと思います。
2024-03-08 17:30:18[投稿番号:363]