つづけて、聖霊と教会について
御子にあって、御霊によって
私塾の夏学期もあとわずかで終わります。今は、秋学期の「聖霊4」の準備をしているところです。

また、前回もお話ししましたように、聖霊と教会の関係について学び続けています。御子と教会はこれまで注目されてきたかもしれませんが、御霊と教会はそれほど多くありません。

あらためて学び直し、その上で、教会論における「御子にあって、御霊によって」を考えたいと思っています。この点で、カギになるみことばの一つは、エペソ2章21?22節です。
「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」


今、聖書研究祈祷会で学んでいることを紹介します(前回の続きです!)。

*聖霊による教会の始まり:
  *御子を信じ、御霊によって個人的な救いの道が始まったように、教会自体も聖霊によって始まり、教会生活も御霊によって始まったと言える。
  *ペンテコステによって教会が始まる(ナラティブ:使徒2章、パウロの手紙:1コリント12:12?13節にある)
  *個々の教会も御霊によって実際に始まり、教会生活も御霊によって始まったと言える(ガラテヤ、テサロニケ)

*聖霊と教会生活(?礼拝、?交わり、?奉仕など)の関係:
  *「教会生活全体に不可欠な聖霊」:聖霊と教会生活の関係を表す代表的なみことばの一つは、エペソ5章18節(私訳「むしろ、御霊に満たされ続けなさい」)から21節までにある通り。また、この命令は、個人的であると同時に、教会的です。文脈は、教会生活についての教えですが、実際には、教会のひとり一人がまず御霊に満たされ、その恵みが、教会の礼拝や交わりにおいて分かち合われ、教会生活や信仰生活、家庭生活全体に及んでいくと言える。

  *?「御霊と礼拝、聖礼典など」:御霊は、礼拝や聖礼典などにどのように関わるのか。このことを直接教える聖書箇所は多くない。ここでもまず注目できる箇所はエペソ5章18?21節である(礼拝、賛美、交わりなど教会生活全体と聖霊が重要な関係にあることを教える)。他にも、御霊による礼拝(ヨハネ4・23?24、ピリピ3・3)や御霊による祈り(エペソ6・18)もある。御霊と説教(みことば、聖礼典「経験するみことば」)も御霊の臨在と働きに結びついている。

  *?「御霊と教会の交わり」:御霊は、教会(何よりもその交わり)に内住され、多様な私たちを、神様のみこころにふさわしく整え、「一つの神の国の民、一つの神の家族、主にある聖なる宮、神の御住まい」(エペソ2・18?22)として導いて下さる。パウロは、次の箇所からも、聖霊と教会(生活)について語っている(ローマ14・17「神の国は御霊による義と平和と喜び」、1コリント12・4-11「多様な賜物は一つの御霊の現れ」、ガラテヤ5・16-6・10「御霊によって歩み、互いに愛し合うこと」、エペソ4・1?6「御霊による一致を熱心に保ち続けること」、ピリピ2・1?11「キリストにある交わり、御霊との交わり」、コロサイ1・8「交わりにおける御霊による愛」)。
  *「御霊にある多様性と一つ性:調和と一致」:多様な私たちは、そのままでは罪のゆえに分離や分裂しかないが、一つの御霊にあって(の中で)一つとされ、「キリストのからだ」の一員にされている。多様性も一つ性も、どちらも御霊から来ている(1コリント12・4?13)。

  *?「御霊の賜物の行使、奉仕:一つの御霊にある様々な賜物(奉仕)は、キリストのからだなる教会の交わりや活動のために与えられ、最終的には教会を建て上げ、「イエス・キリストを通して神があがめられる」(1コリント14・12。1ペテロ4・7?11参)ためである。賜物をおもに行使する「場」は教会(特にその交わりや活動)であるが、パウロは、様々な賜物とそれを用いる奉仕について具体的に取り上げている。例えば、(永遠のいのちのために)御霊に仕える奉仕(2コリント3・6?11)、礼拝などにおける様々な賜物とその使用(「知恵のことば、知識のことば、信仰、癒やし、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、種々の異言、異言を解き明かす力」1コリント12・4-11、「使徒たち、預言者たち、力あるわざ、癒しの賜物、援助、管理、種々の異言」27?28。
  *他に、ローマ12・3?8、エペソ5・18?21など)、また賜物の中で、特に「預言(の賜物)」は重要である(1コリント14・1、39、1テサロニケ5・19?22、1テモテ1・18)。

 次回は、もう少し、教会論に御子と御霊がどのように関わっておられるのか、その類似点や相違点に注目してまとめたいと思いますが…どうなるでしょうか。かなりのむずかしさを感じています。

 聖霊の個人的な内住を実感しますが、同じように今度は、聖霊の教会的な内住の実感について考え、求めていきたいと思います。細かなところまで、色々お読みくださり、感謝いたします。ハレルヤ!
2025-09-26 17:54:23[投稿番号:456]

聖霊論的教会論を求めて
御子にあって、御霊によって
今週の聖書研究祈祷会から、パウロの聖霊論の学びが、(個人的な)救済論から、教会論になりました。

これまで、分かりにくかった「教会論」が、聖霊論的に考えるとき、少し分かり易くなって来た感じです。神学的にも、実践的にも。

どうしてでしょうか。
御子と教会論のつながりは当然緊密(前提)ですが、現在的、未来的な教会論を考える時、御霊と教会(論)の関係は、具体的で、聖霊的で、動的なように感じます。

まだまだ、このあたりの鍵を開けたばかりなので、分からないことばかりで、試論が多いのですが、以下のことは、イントロになると思います。
今週の「聖書研究祈祷会」で使った資料の一部です。


教会論的聖霊(回心時、またその直後に教会論的聖霊の働きが始まる・・・個人的な救済論的聖霊論とも重なる)

☆聖霊にある個人と聖霊にある教会の関係は、実際には、緊密で一体的で分けることは難しい!

 *御霊は、個人的に働かれますが、(ほとんど)同時に教会的に働かれ(使徒2・41-42、ガラテヤ5・13-26、6・1?10、エペソ5:18?21)、両者を区別することはしばしば簡単ではない(@聖霊として一つの働きだから。また、広い意味で、両方とも救済論的な働きであり、どちらも終末論と切り離せないから)。

*以下はその具体例である。
  *一人でみことばを学び、みことばに従う恵み。ともにみことばを学び、ともにみことばに従う恵み(コロサイ2・6?7、ヤコブ1・22-27、詩篇119・9)。
  *一人で祈る恵み、ともに祈る恵み(マタイ6・6、9-15、18・19-20)。*一人で礼拝する恵み、ともに礼拝する恵み(へブル10・25、ヨハネ4・24、ローマ12・1?2)。
  *一人で証しし、宣教する恵み。ともに証しし、宣教する恵み(マタイ28・18-20、マルコ5・19-20)。
  *一人で仕え働く(奉仕する)恵み。ともに仕え働く(奉仕する)恵み(1コリント16・2,2コリント9・6-7、ピリピ1・1-9、1ペテロ4・10-11)。

*教会から個人に流れる御霊の臨在と働きの恵み:
 ともに交わり(使徒4・32-35、エペソ4・1-16、ピリピ2・1?5)、ともに聖餐にあずかり(使徒2・41-42、1コリント11・23-32)、ともに苦しみ、ともに信仰の戦いをしていく恵み(使徒4・29-30、12・5、14・22、1ペテロ1・6-8、へブル10:19-39)。これらは、教会における聖霊の臨在と働きにあずかることを通して(またその中で)、これらに参与している私たちひとり一人が個人的に聖霊に導かれていくとも言える。
 「ともに交わること」(使徒2・42、エペソ5・18-20、ピリピ2・1?2)・・・それぞれの状況にもよるが、「交わり」における教会的な聖霊の臨在と働きの恵みが、さらに参加するひとり一人に個人的に及んでいくと言える。

*個人から教会に流れる御霊の臨在と働きの恵み:
 例えば、「御霊に満たされなさい」(エペソ5・18)は、まず何よりも個人的な出来事(体験)に関係しているが、それは、さらに合わせられ、教会的な出来事(体験)に導かれる恵みである。

まだまだ始まったばかりですが、神学的に、実践的に考えながら、教えられていきたい。聖霊様、教えてください!
2025-09-19 18:12:09[投稿番号:455]

1列王記17章から・・・5つの奇跡を求めて
最近のディボーションから教えられて
毎日のディボーションで、旧約のナラティブをずっと読み、学んでいます。最近、列王記に入り、17章まで来ました。ここは、皆さんもご存知のエリヤが登場して来るところです。アハブ王が来ると、エリヤが出てきます。

そして、次々に神様の奇跡が描かれています。カラスによって養われたこと。カメの粉も壺の油も尽きず。最後に、やもめの大切な息子が死んだのに生き返っています。

私は、これらの出来事を読みながら、自分自身の約47年間の生涯を思い起こしました。「死んだのに生き返った」経験はありませんでしたが、確かに、「カラス(?)」によって養われ、「カメの粉(?)や油(?)」は尽きなかったと言えます。

神学生の時だけでなく、生涯において、何度か、経済危機がありましたが、神様の奇跡によってここまで来ることができたことを、もう一度思い起こし、膝まづいて神様に感謝しました。経済危機だけは、「他言無用」の哲学で生きて来ました。

お祈りしながら、自分の信仰があまりにも常識的になってしまっていたことに気づきました。そして、あらためて、生涯の最後までに、ということで、「5つの奇跡」をお願いしました。神様を試してはいけませんし、それなら、全く意味がありませんが、神様との交わりの中で、5つのことを最後まで求め、祈りつづけていくことにしました。

神様は、いつ、どのようにして、5つの奇跡を起こしてくださるでしょうか。ひょっとしたら、天に召された後で実現することもあるかもしれません。いずれにしても、これらのことを楽しみながら、歩ませていただきたいと思います。

「5つのこと」って何?…とお訊ねになりたいと思いますが、これは、私と神様との間のことです。

どうぞ、カレブのように、最後の最後まで、「従い通していくことができますように」!ハレルヤ!
2025-09-12 18:08:42[投稿番号:454]

救済論における御子と御霊について
ここも、御子にあって、御霊によって、か?
これまで、約10回に渡って、聖書研究祈祷会の前半で、聖霊論の学びを続けています。ある程度まで、救済論(私達の救いと信仰生活)における聖霊の臨在と働きについての学びが終わりましたので、最後のまとめとして、救済論における御子と御霊について、またその中での御子と御霊の相互関係について考えています。

当然、難しいことが含まれますが、大切なことなので、少しだけ取り上げさせていただきたいと思います。

1)信仰の初め(回心・入信)において:
 *御子と御子の十字架のみわざを信じて救われ(罪の贖い、赦し)、御霊によって救いの恵みにあずかる(救いの適用:例えば、テトス3:4?6)。
 *御子を信じて永遠のいのちを受けるが(ヨハネ6:40、47、51)、実際にいのちを与えるのは御霊である(ヨハネ6:63、4:14と7:38-39)。

2)三位一体の神様と私たちの関係について:
 *御子の復活・昇天、ペンテコステ後の三位一体の神様を空間(場所)的に見分けると…(これは表なので記載が難しく、省略しました)

三位一体の神様(御父…御子…御霊)
天の御座(無限の空間)と私たちの世界(被造世界)と私たちの教会と私たちの心(内住)

 *三位一体の神様(御父、御子、御霊)は、私たちとともにおられる。
   *御父:旧約において繰り返し語られている(例:詩46:11、申命20:1、マタイ1:23)
   *御子:マタイ28:20「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
   *御霊:御霊が、イスラエル(私たち)とともにおられるという明確な表現は少ない(ヨハネ14:17、ローマ8:16。ただし、類似表現は非常に多い)

 *三位一体の神様(御父、御子、御霊)との交わりについて(@交わりの定義…相互的で自由な交際、交流)
   *御父:明確な表現はないが、交わりを意味する様々な形や内容の事例は多い。
   *御子:「1コリント1:9:神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」他にも、福音書には人となられた御子と弟子たちの交わりがある。
   *御霊:「2コリント13:13「御霊(と)の交わり」、ピリピ2:1「御霊(と)の交わり」(別解釈あり)」「御霊との交わり」を表す聖書的事例はないかも(上記の「交わり」の定義に立てば、御霊の場合はほとんど一方的なもの)。ただし、それでも御霊の「人格性」を考慮すると、「御霊との交わり」は否定できないだろう。

*三位一体の神様と「内住」について(御父と御子の内住に関して、微妙な箇所があるが否定できないだろう):
   *御父の内住の可能性について:下記のヨハネ14:23には、御父と御子の内住の可能性がある。
   *御子の内住の可能性について:「ヨハネ14:23:イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」また、三位一体的に考えるなら、御父と御子の内住も否定できないだろう。

以上は、今週学んだことですが、たぶん、続きは、次回になると思います。

今の私達の信仰生活における、御子の現在性、御霊の現在性について考えています。三位一体的には変わりはないと思いますが、それでも、御子は「御子にあって」、御霊は「御霊によって」、現在的に私達に関わっていてくださるのかな?と思っています。

きょうも、三重に、豊かに、御父と御子と御霊との交わりの中に入れられていることを感謝します!ハレルヤ!
2025-09-05 18:28:28[投稿番号:453]

聖霊の働きにおける救済論と教会論
今、特に感じていること
つづけて、「ちょうどいいかげんな組織神学的聖霊論」について考えている中で、これまで私が考えていた以上に、聖霊の臨在と働きにおいて、(個人的な)救済論と教会論が密接であることが分かってきました。

簡単に言えば、ご聖霊は、個人的にも、共同体(教会)的にも、ほとんど同時に、また、類似した働きを、両方の領域で合わせて続けておられるということです。したがって、あまりに個人的な面だけを強調するのも(現代)、聖霊の真の働きから外れるし、教会的な面だけを強調するのも(かつて、特にカトリック教会の時代)、間違っていると言えるでしょう。

聖霊の、広い意味での、救済論的な働きには、個人的な面と共同体的な面が共存しているという感じです。またこれは、旧約時代からずっと、新約時代も、今も継続しています。こうして、御国の完成においても、確かに、この両面が一つとして完成(回復)していると言えます。
どちらかでは、決してありません。

最近、妻と私は一体で、二人で「一人前」なんだと考えるようになりました。やっと考えられるようになったと言ったほうがいいかもしれません。
私の側は不明ですが、妻がしていることを考えると、私個人では絶対できないことをしていて、しかも、それが、結果的に、(私も含めて)私たちがやったことになっているということです。二人は一体だからです。ありがたい、というか、感謝なことです。

考えてみますと、このようなことはたくさんあります。子育てもそうです。子どもたちが今、一所懸命子育て(孫育て)をしているのを見ていると、本当に子育ては大変なんだとつくづく感じます。妻は、それをずっとやってきたのです(四人の子ども)。
しかし、四人の子育ても、本当は妻がほとんどをやってきたので、私も含めて、二人がやってきたことになっています。

なんで、こんなお話をしたかと言いますと、「二人で一人前」ということは、ある意味で、教会にも、その中のスモールグループにも、教団にも・・・当てはめることができると思ったからです。

教会は、それこそ、色々なタイプや賜物の人たちの集まりですが、バラバラではなく、それで、神様の前に「一人前(一つのからだ)」になるからです。それで、稲沢教会という一つの群れになるのです。

飛躍するかもしれませんが、個人性と教会性(共同体)は、神様の前では、私たちが思っているほど、別個のものではなく、御子にあって、御霊によって一つのからだ(一人前)であると考えられるのではないでしょうか。

最近、感じていることを、忘れないうちに、ちょっとだけ触れてみました。ハレルヤ!
2025-08-30 16:47:43[投稿番号:452]

お祈り感謝いたします!
生検の検査結果が出ました。
皆さん、お祈り感謝いたします。

生検の検査結果が出て、昨年は問題があってステージ1という診断でしたが、今回は何もなかった(!)ということでした。

結果を聞くために、昨日病院に行きました。進行しているかもしれないし、同じかもしれないし、ひょっとしたらなくなっているかもしれないと思っておりましたが、答えは、何も見つからなかったということでした。
思わず、お医者さんの前で「感謝!」と叫んでしまいました。もちろん、生検で全て分かった訳ではありませんので、これからも、3か月ごとに経過観察していくことになります。

いずれにしても、お祈りを感謝いたします。ちょうど、子ども達も帰ってきておりましたので、皆で、感謝を分かち合いました。

ちょうど木曜日の朝は、2サムエル記7章を読みました。神様がダビデに対して溢れるばかりの恵みと憐れみをもって語られました。ダビデは、この神様に対して心からの感謝を捧げている箇所でした。18節にこうあります。

「ダビデ王は【主】の前に出て、座して言った。「【神】、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。」

病院に行く前も、まさにこのみことばを心に留め、祈りました。
「私は何者でしょうか、私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。」

神様は、これからどのように導かれるか分かりません。ただ、「人間をとる漁師にしてくださった」ので、この召しを最後まで全うさせていただきたいと思います。

感謝とともに、また再出発させていただきます。
2025-08-22 18:08:42[投稿番号:451]

「ちょうどいいかげんな組織神学的聖霊論」を求めて
今朝、訂正した最終稿を送りました!
今朝、校正していただいた最終稿をチェックして再送しました。これで、全て終わりました。神様と出版社の谷口さんたちに感謝し、お祈りしました。

以前触れましたように、現在は、「ちょうどいいかげんな聖霊神学的聖霊論」に基づいて、「ちょうどいいかげんな組織神学的聖霊論」の準備をしています。10月から始まる秋学期のクラス準備(私塾:聖霊論IV)であり、また導かれれば、また『舟の右側』用の原稿として再執筆することになるかもしれません。どのようであっても、神様のみこころなら、そうなるし、そうでなければ、そうならないでしょう。

「組織神学的な聖霊論」の準備の中で、あらためて、聖霊論が、神学の世界でも、実際の牧会やクリスチャン生活でも、なぜ「後回し」になってしまったのか理由を考え、整理しています。

確かに、御子イエス様が中心であり、「それでいいではないか」という意見もあります。ただし、キリスト中心だけで本当にいいのか、また、御子と御霊中心はいけないのかを考えながら、聖霊論をやりつづけています。この質問は、私の心の中で、たぶんずっと続いていくと思います。

私としては、確かにキリスト中心であるが、キリストの御霊も色々な面で、私達の領域で重大であることを確認したり、訴えたり、実践したりしていきたいと願っています。これが、私自身のささやかな「聖霊運動」です!

さて、少しだけ、ご聖霊のことが「第三のお方」になるだけでなく、実際的に、なぜ「後回し」になってしまったか、理由をいくつか挙げてみたいと思います。これらは、歴史的、神的的、実際的理由です。

第一:「フィリオクエ」の問題があります。私としては、これが、最大の歴史的神学的問題で、現在の私達にも、ここからの影響が続いていると考えます。また、いつか詳細に触れたいと思います。

第二:第一とつながっていますが、これを受け継いだカトリック教会(ギリシャ正教と分離)では、例外があるかもしれませんが、聖霊はあまり重視されず、むしろ、「教会」が重視され、聖霊(の働き)は、「恵み」ということば置き換えられていったと思われます。

第三:このカトリック教会の傾向を、この後、出て来るプロテスタント教会(プロテスタントの初期のリーダーたちはいずれも、元カトリック教徒)も受け継いだと思われます。もし例外を上げると、カルヴァンは、彼が書いたよく知られている「キリスト教綱要」の中でご聖霊のことを非常によく取り上げています(後の改革派に大きな影響を与えている)。

第四:その後出て来るリベラルな神学者たちにとって、また、クリスチャンでない多くの人々にとって、三位一体論もそうですが、ご聖霊のことについては、一番理解しにくい問題の一つであったと思われます。ヨハネ14章17節にあるとおりです。聖霊は、目で見ることができず(その働きの結果は見えても)、一番信仰が必要なお方、教えであると言えます。

第五:第四の続きですが、クリスチャンたちにとっても、ご聖霊ほど信仰の要るお方はいないからです。体験もありますが、基本的には、聖霊についての聖書のみことばを信じるだけだからです。変な言い方ですが、みことば信仰が必要です!

第六:「灯台下暗し」という問題もあります。ご聖霊は、私(たち)ひとり一人のあまりにも近くで、ともにいて(内住)、ともに導いてくださるので、聖霊の臨在と働きに気づかない、気づけないという問題があると思います。

最後にもう一つだけ触れておきましよう。
第七:20世紀に入って、第一、第二、第三の聖霊の波が起こりました。そして、そのたびに、キリスト教界に様々な混乱や問題が起こりました。そんなことで、他の教会(聖霊派ではない福音派)の多くが、そのような問題に直面し、また見聞きして、ある種の聖霊運動だけでなく、ご聖霊ご自身からも「引いてしまう」という問題が起こりました。実際にあったし、今もあると思います。

また、それぞれについて、機会が与えられれば、より詳しくお話ができれば感謝です!ここまで、お読みくださり、感謝します! 猛暑の中も、守られますように。
2025-08-15 18:17:58[投稿番号:450]

2泊3日の入院から戻りました!
お祈りを感謝いたします。
昨日、退院したのですが、本当に疲れてしまいました。一年前にも、生検のための入院をしたのですが、今回は特に大変でした。しかし、戻ることができ、きょうはだいぶ元気になれました。お祈りを感謝いたします。

入院中は、他の、入院しておられたり、治療中の兄姉の大変さを感じたり、目がさえている時には、教会の兄姉やその他の方々のこと、ひとり一人を思いながら、お祈りしました。第一日目は、たくさん本を読みましたが、二日目は全くなにもできませんでした。

今度の礼拝に、ゲストスピーカーをお願いしています。本当によかったです。神様が、豊かに語ってくださいますように。

すみません。短いですが、きょうはここまでです。感謝いたします。
2025-08-08 20:04:27[投稿番号:449]

サムエル記からも教えられています!
いよいよ、『舟の右側」の原稿も最後になりました
8月に入りましたので、『舟の右側」の原稿(第45回用)も最後になりました。これまで、三年半以上、「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動を求めて」の連載をさせていただきましたが、最終回を迎えました。

このような機会をいただかなければ、決して考えることがなかったであろう、ご聖霊についての様々な学びと発見があります。最近のことで言えば、聖霊論のゆえに、(個人的な)救済論と教会論の近似性があります。ご聖霊の働きから見れば、両者はほとんど同時で、ほとんど一つで、相互に親密な関係があることが分かります。現代的には、個人性と教会性を必要以上に区分してしまいそうですが、聖霊の働きから言えば一つです。

かつて、「教会性」を非常に強調していた時代(また考え方)がありましたが、たいていそういう場合には、教会は聖霊を飲んでいたと思われます。今、あらためて、個人と教会の緊密な関係を聖霊論的視点から見直したいと思っています。

今は、私塾の秋学期のために、上記の続きとして、「ちょうどいいかげんな組織神学的な聖霊論をもとめて」を準備しています。これまでの聖書神学的な聖霊論を組織神学的なものにまとめられれば幸いです。

今年の1月16日から創世記のディボーションを始め、モーセ五書の後は、ヨシャア記、士師記、ルツ記、歴代誌、エズラ、ネヘミヤ、エステル記に来ました。ここからどこに行こうかと迷いましたが、もう一つの歴史である、サムエル記、列王記に戻ることにしました。

今は、サムエル記11章まで来ましたが、サムエル記に戻って本当によかったと思っています。ハンナの献身、預言者サムエルの働き、不思議な王サウルなどから、また新しく教えられるからです。忘れることが多いので、新鮮な思いで、みことばに向き合い、新しく教えられる恵みは格別です!
これからも、少しずつ少しずつ、教えられていきたいですね。。ハレルヤ!
2025-08-01 20:32:13[投稿番号:448]