永遠のいのちの交わりの継続… | 先週のつづき? | 今週は、月曜日から水曜日まで、掛川市のつま恋で、4団体(福音自由、聖契、聖約、同盟福音)の牧師たちの研修会・交わり会がありました。14年ぶりに開催され、約120人の牧師たち、宣教師たちが集まりました。
参加を決心する前にはいろいろ迷いましたが、最後の交わりになるかもしれないと思い、行くことにしました。できるだけ知らない人とも交わりたいと思っていましたが、それだけではなく、何十年ぶりにお会いできた懐かしい方々もいました。
時々、何かの集会の案内があっても、参加しないほうを選んでしまいがちでしたが、今回は、思い切って出て行ってよかったと思いました。確かに、私と同年代の方々は少なく、私よりも先輩の牧師たちは僅かでしたが、教えられました。身体的に弱さをもっておられるにもかかわらず、頑張って交わりに入って来られていました。私の何年か先を見ているようでした。いろいろな交わりがありましたが、どれも感謝です。神様にある永遠のいのちの交わりの素晴らしさを感じました!
二日目の午後には自由時間があり(自由な分科会とスポーツ)、私は、この時間を使って、「聖霊について」のお話をさせていただきました。ほとんど準備しないで、参加者の皆さんとの「座談会」風のものを考えておりましたが、たぶん、そんな感じの分科会になったようです。15人位の方々が参加してくださいました。ご聖霊のことについて、そこまで学べたことは初めてでした、という牧師さんもおられました。予定の時間は、1時間半でしたが、なんと、3時間続きました。いろいろ、質問やコメントをしてくださった皆さんに感謝いたします。これからも、御父と御子と御霊の枠組みのなかでの、ご聖霊の臨在と働き(役割)についてさらに考え、求めていきたいと思います。ハレルヤ! | 2025-06-27 19:47:39[投稿番号:443] |
神様にある永遠のいのちの交わり | 今週、一週間は凄かったです。 | 永遠のいのちの交わりには、二つの面があります。神様との交わりと、神様にある兄姉との交わりです。今週の月曜日から、毎日、神様にあるいろいろな永遠のいのちの交わりが与えられました。正に、豊かな「永遠のいのち」の交わりの一週間でした。
月曜日の午前は、毎月一回やっている「若手?牧師会」の交わりで、牧会において直面する様々な問題について話し合いました。午後には、久しぶりに、中部地区の神学会の総会に出かけました。久しぶりの方々ばかりでしたが、よい交わりの中で、中部地区神学会の今後のあり方についても話し合いました。
火曜日の午前、午後には、母教会が同じで、現在も牧師として奉仕をつづけておられる方と、たぶん、50年ぶり(?)にお会いしました。また、息子さんも一緒に来られ、留学から一時帰国しておられたので、これからの学び(論文)などについてもいろいろお聞きすることができました。50年ぶりにもかかわらず、全く、それを感じさせない親しい交わりが与えられ、たくさんの励ましをいただきました。
水曜日の午後は、祖父江教会で市内牧師会がありましたが、しばらく前から、岩倉地区(古知野や北名古屋も)の牧師たちも参加されるようになりましたので、約10人で交わり、祈り合うことができました。毎月一回持っていますが、直面している問題や課題、感謝の証しなど自由に分かち合いました。
木曜日の午前には、聖書研究祈祷会がありましたが、今回は、前任の牧師(ベルンス宣教師夫妻)も参加してくださり、全部で、16人で、聖書の学び、分ち合い、祈り、そして歓迎の感謝会を開きました。ベルンス先生夫妻からは、現在の北ドイツやヨーロッパの宣教状況について詳しくお聞きすることができました。懐かしい交わりの時になりましたが、宣教師夫妻もお元気そうで、すぐに、より深い交わりに導かれました。
きょう(金曜日)は、旅行から無事に戻って来た娘一家との交わりが与えられています。疲れもあると思いますが、元気で守られ、感謝しました。
永遠のいのちの交わりは凄いですね。毎日、毎週、同じ神様にあって、様々なタイプの永遠のいのちの交わりが与えられます。この交わりは、アコーディオンのように、広がったり、小さくなったり、深められたり、本当に多様ですが、豊かです。同じ神様にあるので、恵まれ、励まされます。そして、毎日、毎週、妻との交わりがずっと与えられ続けています。不思議ですが、凄いですね。み名を賛美いたします!
神様にあるこのような永遠のいのちの交わりを感謝します。 | 2025-06-20 20:19:52[投稿番号:442] |
私にとっての喜びの二つの源! | あなたにとっての喜びの源は何か? | 今週、ある時に、ハッと気づいたことがあります。それは、私には喜びの源が二つある!ということです。
だれでも、喜びの源を一つ持っています。それは、この世に属しているもので、家族だったり、友人たちだったり、仕事や学びの中に、趣味や「推し」に関係するものだったり、です。
かつて、野球が大好きであった時(巨人ファンでした!)、巨人が試合に勝つと嬉しくて嬉しくて、その夜、またその後の一日ぐらいは喜びが続いていたと思います。しかし、巨人だけでなく、そのほか、どんなことでも・・・この世のすべてのものには限りがあって、残念ながら、長続きするものではありません。少し時間が経ったり、状況が変化したり、いろいろな要因はありますが、この世に属しているものを源にしている喜びは、しばらくするとドンドン小さくなっていきます。
もちろん、だからと言って、この世の喜びを否定しているのではありません。これらも、神様が与えてくださっている恵みの一つであると思っています。ただし、残念ながら、先ほども言いましたように、それは、私(たち)が願っているようには続かないのです。
今週、はっきりと、私は、喜びのためのもう一つの源を持っている!与えられている!と思いました。それは、永遠のいのちという喜びです。神様を知り、知られるという神様との交わりで、これは永遠に続くものです。いつでも、どこでも、ただ、これに気づけばいいのです。
これは、上記でお話したこの世に属するものではなく、神様に属するものです。ただ、どんな時でも、どんな状況でも、これに気づけば、喜びが湧いて来るのです。たとえ、この世に属することから来る喜びがなくても、すでに与えられている永遠のいのちに心を向けると、すぐに、私(たち)のこころは、永遠のいのちの喜びに満たされるのです。
これは、いいですね。この素晴らしさ、豊かさ、永続性に、あらためて気づきました。私には、二種類の喜び(の源)が与えられているのです。
喜びのないときでも、このいのちに目を向けると、喜びが湧いてくるのです。本当に、ありがたいことです。私達には、二つの喜び(の源)が与えられています。皆さんはお持ちでしょうか。永遠のいのちにある喜びに気づいておられるでしょうか。 | 2025-06-13 20:29:35[投稿番号:441] |
『舟の右側」「ちょうどいいかげんな聖霊神学と聖霊運動を求めて」 | 第43号の原稿を書き終えて… | 今週、『舟の右側』の編集者の谷口さんに43回目の原稿を送りました。黙示録における聖霊の「まとめ」(1000字位)が残っていますが、これで新約の聖霊のほとんどに触れ、終えることになります。最後は、「新約の聖霊」についてまとめたいと思います。これまでに3年半かかりました。谷口さんや読者の皆さんに支えられ、ここまで来ることができました。あらためて感謝し、神様のみ名を賛美いたします!
こんなに大変で、また時間がかかるとは思いませんでしたが、聖書からたくさんの発見をし、教えられたことが多くありました。以前、『聖書神学事典』で「聖霊」について書かせていただいた時、聖霊についてこのようにまとめました。「聖霊は、キリスト者にとって長くて、広くて、深くて近いお方である。」
このことは、「聖霊」について今も変わることのない、私自身の告白です。聖霊は、第一に、天地創造の時から再臨の時まで、ずっと私たちと共にいてくださる「長い」お方です。
第二に、聖霊の臨在と働きは、神様がお造りになった全世界のすべての者たちに及ぶものであると言えます。ですから御霊は、「広い」お方です。
第三に、聖霊は、誰よりも何よりも、私たちに深くて近いお方です。神(御父)の深みに及び、また私たちに内住して私たちの深みに及び、呻きをもって執り成して下さるお方です。この意味で、聖霊は、「深くて近い」お方であると言えます。
また、聖霊は、本当に豊かなお方です。個人的であると同時に、教会的であり、終末論的なお方です。花嫁なる教会とともに、再臨のイエス様に向かって「来てください」と叫ばれるお方です。また、ご聖霊は、表に出られるというよりも、多くの場合、「私たちの側」におられ、私たちに内住し、私たちの思いや行動と共に、臨在し、また働かれるお方です。
明後日は、ペンテコステ礼拝です。私たちのために、助け主、真理の御霊としてお出で下さったご聖霊を思い、歓迎し、特に聖霊の内住の恵みを分かち合いましょう。ハレルヤ! | 2025-06-06 19:57:30[投稿番号:440] |
最近教えられたことです! | モーセを用いられた神様について | 今週、礼拝メッセージで出エジプト記32?34章から説教させていただきました。存続の危機に直面していたイスラエルのために、モーセは命がけのとりなしをしました。結果として、モーセのとりなしを通して、イスラエルはこの後も神様の臨在と導きを失うことなく歩めるようになりました。
一方で、聖なる神様の厳命(怒りやさばき)と、憐れみを求めてとりなすモーセの献身を対比して見ることができますが、神様がこのようなモーセをあえて用いてご自身に向かって語らせておられると取れないことはないと考えました。
神様は、全知全能の方であり、聖であり義であるとともに、怒るのに遅く、愛と憐れみに富んだお方なので(これらは、すべて神様の本性に属すること)、このような導きは、真の神様においてありうると思ったからです。
また実際に、神様は、似たようなこと(さらにそれ以上のこと)を、御子イエス様の十字架を通してやって来られたのです。神様は、一方で義なるお方、聖なるお方です。このことは変わることがありません。しかし同時に、愛と憐れみに富んだお方として、御子ご自身のいのちを通して、このことを表しておられると言えます。
人間にはできませんが、神様にはできます。ある意味で、自己矛盾になると言えるかもしれませんが、神様は、ご自身の本性の二つの面を同時に表すために、御子イエス様、ご聖霊、そしてまた、ここでは、モーセを用いて、ご自身の、時には二つの相反するような本性を表し、実行しておられると言えるのではないでしょうか。
このことを考えますと、モーセのいのちがけのとりなしの凄さからも教えられますが、その裏で、このようなモーセを敢えて用いて、ご自身のもう一つのみこころ(愛や憐れみのご性質)をも全うしていかれる神様の凄さに圧倒されてしまいます。
義なる神様は、ここまでして、イスラエルを赦し、また私たちをも贖い、赦しておられると言えます。讃美歌262番に「十字架のもとぞ、いと安けき、神の義と愛の会えるところ」とありますが、まさに、十字架の上で、神様ご自身の義と、御子の愛の裏側になる神様(御父)の愛がぶつかっていると言えるでしょう。ハレルヤ! | 2025-05-30 18:30:20[投稿番号:439] |
最近考え続けていること…聖霊論と救済論・教会論の関係 | ・・・まだまだ時間がかかりそう? | 組織神学的な聖霊論について考えていることは、以前から書いている通りです。聖霊論を基軸にすると見える来るものがあります。それは、個人的な「救済論」や「教会論」との緊密性です。また、もちろん、これらは、終末論とも繋がっています。
聖霊論の中に「個人的な救済論」と「教会論」が含まれていると言ってもよいでしょう。よく知られているエリクソンの組織神学書でみますと、確かに、聖霊論の中で個人的な救済論が部分的に扱われていたり、教会論の一部として(聖霊の宮)、教会と聖霊の関係が簡潔にまとめて書かれています。そういういみでは、これらの間に緊密な関係があることは事実です。しかし、エリクソンの取り扱い方に関して言いますと、あまりにも、区別しすぎていて、救済論においても、教会論においても、それらと聖霊論の関係の扱いは非常に少ないと思えてしかたがありません。
言いたいことは、個別的に、救済論や教会論を扱うにしても、もっともっと聖霊論との有機的な関係がより深く、より広いのではないかということです。
この点で、今まで調べている組織神学書の中では、S.Grenzの組織神学書は、私にとっては理想的、理想に近いと思っています。以前にもふれましたのように、聖霊論の中で、聖書論を扱っているだけでなく、救済論も扱っているからです。
また、教会論は、別ものとして区別されていますが、実際に読んでみますと、教会論の中で、聖霊との関係が、より深く扱われていることが分かります。
他にもあるかもしれませんが、今まで調べている中では、グレンツのもの(構造と取り扱い方)は、組織神学的に聖霊を考え、整理していく上で重要な指針を与えてくれていると思います。
まだまだ、聖霊論を基軸にした組織神学の全体的構造を考えている段階です。これまでに読んできたいろいろな本を書庫から取り出して確認したりしているところです。まとめるのは、本当に大変ですね…思ったよりも、時間がかかりそうです。
ただこれまで、せっかく聖書論的に、旧約から新約までご聖霊について学んで来たので、これらの「よこのもの」をなんとか「たてのもの」にしてみたいと思っています。覚えて、お祈りください。感謝いたします。 | 2025-05-23 18:04:42[投稿番号:438] |
神様が約束された全ての良いことが一つもたがわず実現した! | ヨシュア記23章14節から | 最近のディボーション箇所は、ヨシュア記から士師記になっています。
ヨシュア23章14節を読んでいた時、その聖書箇所のすぐ上に、小さな字で「92、5月、イビの山で」と書き込まれていることに気づきました。
いろいろ考えていると大切なことが思い出されて来ました。なんと、92年5月は、カナダに行って丸4年が経ち、娘が生まれたこともあるので、日本の両親に娘(2歳直前)を見せようと、思い切って一時帰国した時のことでした。たぶん、2週間くらい日本にいたと思いますが、ある日、子ども達を連れて、思い出の揖斐の山に登りました(途中まで車で)。そして、その山の上にある「秘密?の場所」まで行き、(確か)皆で祈りました!
そこは、私が、5年前にここで祈っていた時に神様から声をかけられ(今でもそう思っていますが)、留学のきっかけになった場所で、私にとっても、家族全員にとっても、人生の方向を大きく変えられた、忘れられない祈りの山でした。
ヨシュア記23章14節を実際にいつ開いて読んだのか覚えていませんが、ここにある文言のとおりになっていることに気づき、思わずメモを書き込んだものと思います。
1988年に、私たちは(その時は5人で、後でカナダでもう一人生まれて6人になりました)、神様を信じて、思い切って、カナダに向かって出発しましたが、その時に考え、また期待していた通りに、いや期待以上に、守られ、導かれて来たことを覚えることができました。
今は、この時からさらに33年が経ちました。以前、子どもたちが帰省して来た時、質問したことがありました。「お父さんは揖斐の山で祈って、神様に導かれてカナダに行ったけど、あなたたちの人生にとって、このことは良かったかなあ?」子どもたちは、何も言いませんでしたが、それぞれが、カナダの経験を活かすような生活や仕事をしているようなので、神様は、私や妻にとってだけでなく、子ども達にとっても「益」としてくださったのでは?と思っております。
「…知りなさい。あなたがたの神、主があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを」
最近は神学的なことばかりお話していましたので、今回は止め、最近教えられたことを書いてみました。ハレルヤ! | 2025-05-16 18:28:42[投稿番号:437] |
組織神学的な聖霊論の試み(その2) | 聖霊論的教会論について | 最近、頭の中でずっと考えていることがあります。それは、「教会」とは何か、その目的は何か、です。理由があります。聖霊が「救済(論)」に深く関わっておられ、「教会(論)」にも同じように関わっておられるので、聖霊論の中で救済論と教会論を取り扱えないか、と考えているからです。ですから、あらためて、教会(論)とはなにか、考えています。
例えば、日本でもよく読まれていると思いますが(訳されているので)、エリクソンの神学書では、「・・・救い(Salvation)、教会(The Church)・・・」と区分されています。しかし、一般的にはそうですが、誤解されやすい分け方だとおもいます。なぜなら、「救い」と「教会」は実際には非常に近い概念だと思うからです。敢えて「救い」を言い換えますと、「個人の救いと、救われてから栄化前までの信仰生活(個人として信仰成長していくこと)」のことです。「教会」も敢えて言い換えますと、「救い」の直後に「家族・民・共にある者たち」とされ、栄化前までの教会生活(共に信仰成長していくこと)のことです。
敢えて、「教会」という言葉を避けましたが(いろいろなイメージがついて来るので)、基本的には、神様にある個人と集団ということで、両者に共通する多くのことがあります。例えば、一人で祈り、共に祈り、一人で証し、共に証しし、一人で聖書を学び、共に聖書を学ぶ。一人で礼拝し、共に礼拝する。いろいろ挙げることができます。
もし、「個人」だけにはないが、「集団」にあるものを挙げるとすると、「共に」ということでしょうか。「共にある者たち」として、どのように共に愛し合い、共に助け合い、共に交わっていくかを考えることになります。また、個人だけではできないが、集団的にすることができることもあります。
神様にある「集団」は、単に「個人」の寄せ集めではありません。個人的に神様を崇め、またともに集まって共に神様を崇め礼拝します。
色々書きましたが、まとめたいと思います。聖霊論的個人(個人的な救い、活動と成長)があるように、聖霊論的集団(活動と交わり、成長)があるということです。
これまで、一般になされて来た神学的区分として、(個人的な)救済論、教会論という分け方がありますが、私たちが思っている以上に、聖霊論的に、両者の内容は近似しているということです。
聖霊論に関して、組織神学的な区分のしかたについて、今のいろいろ迷っているところがあります。忍耐してお読みくださり、感謝いたします。
最後に、我が家のパイナップルは、今、5つが、げんこつ大以上に育っています!夏が楽しみです。カラスが来て食べませんように! | 2025-05-09 19:33:04[投稿番号:436] |
組織神学的な聖霊論の試み | 聖霊論的聖書論について(旧約から) | これまでの聖書神学的な聖霊論から、少しずつ、組織神学的な聖霊論の試みを始めています。どうなるか分かりませんが、「試み」なので、いいでしょうと自分に言い聞かせています。
まず、一つの重要な科目として、「聖霊論的聖書論」があります。これは、私自身が始めたことではなく、S.グレンツのものです。いろいろ考え調べたのですが、これは非常に有効で、支持できるものではないかと思っています。以下の通りです。
*聖書(論)を「アプリオリ」なものとして、全ての組織神学的試みの前提にしている組織神学書があるが、私は、なんと言っても、これを聖霊論の中で取り扱っていきたい。これが、神学であり、よりふさわしい形であると思う。
*まず旧約に注目したい。神様(御父)と御霊と預言者(祭司)の基本的な関係は明らかですが(2歴代誌24章20節、エゼキエル1章3節以下、ミカ3章8節、ゼカリヤ7章12節)、特に、御霊と預言者の関係は密接です(1列王記18章12節、2列王記2章15節、エゼキエル11章5節)。神様(御父)の啓示は御霊を通して預言者などに与えられますが、神様のことばである聖書に関しても、預言者だけとは言えませんが、全ての書き手に対して、類似した流れを持っていると言えます(御父から御霊を通して預言者、聖書の書き手へ)。
*他にも、聖霊と預言者の関係について注目すべき箇所がある:イザヤ48・16、34・16、ゼカリヤ7章12節。
*御霊による「霊感」の働きについて(啓示、霊感、照明は一つで分けられない!):特に、「神様が書き記せ」、と言っておられるところに聖霊の霊感の働きがある、または隠されていると言えるだろう。
*この後は、新約からどんなことが分かるか、さらに調べ、考えてみたい。
今、特に考えていることは、聖霊論的救済論と聖霊論的教会論の関係です。教会論は、聖霊論的救済論に含まれるかどうか。また、これは、聖霊論的救済論プラスアルファかどうか。今後も、聖霊論を中心にいろいろ学び、考えていきたいと思います。お読みくださり、感謝いたします。 | 2025-05-02 19:11:05[投稿番号:435] |
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