`[ | | | | | 2023-03-24 19:59:25[投稿番号:311] |
私塾の申し込み状況について | | ズームを使っての「新しい牧師会」のご案内 | 今朝、ディボーションで読んだ箇所は、1テモテ4章ですが、気になった御言葉は7節の「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」です。その後、ずっと、この「敬虔」の意味について考えていましたが、正確な意味は分からないままです。いくつか、注解書を調べましたが、答えになるものはありませんでした。英語で言えば、「Godliness」、「イエス様のように」と言ってもいいでしょう。ただ、パウロが、ここで、テモテに、特にどんなことを語ろうとしていたのかはまだ不明です。1テモテ書全体で教えられていることが、「敬虔」でしょうか。とにかく、これからも考え、味わい、求めていきたいと思います。
先週の礼拝メッセージでも触れましたが、ある人によると、「人は皆、一日に300から17000の決断に直面する」そうです。
私は、最近、このような決断のときに(これを意識していないといけませんが)、神様が喜んでくださることを選ぶことにしようと決めました。聖霊に満たされ、余裕がある時は、よいのですが、何かで焦ったりしていると、間違った決断、自己中心の決断をしてしまいます。トホホホ!…内住の御霊を意識し、満たされ、歩んでいないといけません。。。
さて、次に、私塾申し込みの締め切り前日になりましたので、現在の「入塾希望者」の状況をお知らせしたいと思います。
終末論のクラスは4人、霊性のクラスは6人、聖霊論のクラスは7人です。今後、多少変わるかもしれませんが、このように入塾希望者が与えられていることを感謝いたします。また、ドンドン、責任を感じています。
次に、「私塾」の一環として、月曜日午前、月一回の牧師のための「若手牧師会」(1時間半)を企画・準備をしています。交わり、励まし、学び、分かち合いなど、毎回、今必要を感じているテーマ(神学的、聖書的、社会的、牧会的、伝道的、個人的)を出し合って、一回一テーマで、会を進めていきたいと思っています。詳しいことは、来週、HPに載せたいと思います。関心のあられる方は、ぜひ、メールでお知らせください。
また、是非皆さん、お祈りください。お祈りの助けが必要です。よろしくお願いいたします。ハレルヤ! | | 2023-03-17 18:40:34[投稿番号:310] |
今、考えていること | | 私塾の予定ができつつあります。 | 今、いろいろ考えています。朝の「お祈り散歩」の中でも考えています。ご聖霊を強調することの意義は何か。ご聖霊を強調すると、イエス様のことをいくらか軽んじるようになるのか。本来なら、聖霊を強調すればするほど、御父も御子もさらに強調するようになるはずです。御子と御霊は競争関係にはないはずです。
聖書を読みながら、まだ自分で気づいていない重要な箇所があるかもしれない。特に、ご聖霊について隠された教えはないか考えながら、学びつづけています。
最近はずっとパウロ書簡を読んでいますが、ピリピ、コロサイなどは、特にご聖霊についての教えが少ない書です。しかし、表に出て来なくても、背後に聖霊を感じられる字句はあります。それは、パウロの神学において、その救済論(広い意味で)、終末論、教会論、宣教論などにおいて、ご聖霊の臨在と働きは不可欠だからです。
したがって、聖霊に関する直接的な字句がなくても、その背後におられる聖霊ご自身を考えてもよいのではないかと考えるようになっています。
例えば、ピリピ書にある「喜びなさい」という命令も、御子と御霊の事を考えないでは、真に理解することも実践することもできません。
今週の礼拝において、ローマ12章1?2節からメッセージをさせていただきました。ここに、「聖霊」という言葉はありません。しかし、2節の「心の刷新(一新)」について考えるとき、これは、単なる自分だけの力でできるものではなく、内住の聖霊なしにはありえないという結論になりました。
とにかく、あらためて聖書を読み直しております。また、聖書の教えを自分自身に適用し、本当に、自分自身の歩みにおいて、この教えは実践できるものかどうか、確認しようとしているところです。
ご聖霊についての教えの素晴らしさは、すぐに、自分自身とその歩みに関係してくるということです。適用しなければならなくなるということです。
このことについて、さらにいろいろ書かせていただきたいことがありますが、きょうはここまでにしたいと思います。お読みくださり、感謝いたします。ハレルヤ!
私塾の新しい情報を入れましたので、「私塾・ワーダン・スピリット」をお読みください。 | | 2023-03-10 18:34:26[投稿番号:309] |
新約の聖霊について:その1 | | 私塾のクラスが決まりつつあります! | 中間時代の聖霊から、新約(福音書)の聖霊について考えるようになりました。福音書の内容は、ペンテコステ前ですが、聖書記者と読者は、ペンテコステ後であることを忘れてはいけないと思います。
このことを覚えて、福音書を読んでいきますと、聖書で言われていることが、分かり易くなります。例えば、マタイ10章20節、ルカ11章13節、ヨハネ7章37-39節などは特にそうです。
また、ヨハネの福音書の中心テーマは、「永遠のいのち」ですが、最近、ヨハネの福音書を読みながら、この中心テーマとご聖霊の関係が非常に密接であることに気づきました。
気づくのが遅いと言われそうですが、本当にこのことをより深く感じています。このいのちを与えるために(つまり、救いのために)、ご聖霊は、背後で確かに働いておられます(ニコデモとの会話)。また、このいのちのとこしえの祝福のためにも、ご聖霊は働いておられます(7章)。さらに、6章63節で、御子はいわれました。「いのちを与えるのは聖霊である。」
御子を信じると永遠のいのちを受けますが、その時、いのちを私達に与えてくださるのは聖霊です。こんな風に言えると思います。
これからも、永遠のいのちと御霊、御子についてさらに、考え、教えられていきたいと願っています。永遠のいのちについては、特に関心があります。このいのちと、御子と御霊はどのようにかかわっておられるのでしょうか。まだまだ、聖書を学び、教えられていきたいと願っています。
私塾のクラスが決まりつつあります。たぶん、来週にはお知らせできると思います。お祈りを感謝いたします。これからも、よろしくお願いいたします。ハレルヤ! | | 2023-03-03 21:17:48[投稿番号:308] |
教会の新年度に向けて | | ・・・二つの内住の御霊を大切にする | 今、新年度(総会)に向けて、いろいろ考え、準備しています。教団の会計年度は1月からですが、人事面では4月、各教会の総会においては、3月からと言えるでしょう。稲沢教会も26日に総会を開く予定です。
稲沢教会に赴任して2年が終わろうとしていた時に、「コロナ感染問題」が始まり、さらに3年が経ち、やっといろいろな面で、これからの教会の歩みについて、そのための牧会について考えられるようになりました。
どこから手をつけてよいか分からない状態でしたが、まず、次の二つのことを大切にしていこうと考え始めています。第一のみことばは、1コリント3章16節で、第二のみことばは、1コリント6章19-20節です。どちらもよく似ていて、聖霊の内住のゆえに、私たちが神の宮とされているということです。ただし、違うことは、前者は、教会について、後者は個人について、語っているということです。
一人ひとりに聖霊が内住しておられて、神の宮とされていることをより強く意識していましたが、教会も同じように、聖霊の内住のゆえに、神の宮とされていることについてより深く、より強く考えるようになりました。
本気で、このことを信じ、この事に立って牧会し、教会を建て上げていくということは、何を意味するのでしょうか。礼拝において、教会の交わりの中で、教会の活動の中で、聖霊の臨在を意識しながら、歩んでいくことはどういうことでしょうか。今、考えています。
兄弟姉妹一人ひとりのその向こうに、ご聖霊の臨在があることを意識することかもしれません。共に祈るとき、賛美するとき、そこにキリストと御霊がおられることをもっと意識し、認めることかもしれません。
すぐによい答えは出てきませんが、?コリント3章16節をギリシャ語で覚えましたので(?)、時々、思い浮かべながら、黙想していきたいと思います。
よい答えが与えられますように。ハレルヤ! | | 2023-02-24 18:03:13[投稿番号:307] |
中間時代の聖霊から新約へ | | 私塾も少しずつ・・・ | 中間時代の聖霊から新約時代の聖霊に移りました。今は、少しずつ、福音書のデータを確認し、マタイの福音書とマルコの福音書における聖霊について学び始めるところです。
ここで忘れてはいけないことがあります。福音書記者は、イエス様とその生涯の伝記的ナラティブを書いていますが、記者と読者は、ペンテコステ後の人々で、新しい時代の聖霊をよく知っていたということです。このことを意識しながら、学んでいきたいと思います。
中間時代の聖霊については、30年以上前に学んだだけで休んでいましたので、もう一度、この機会にいろいろな文献を読んで、調べることができました。
結論は、中間時代の聖霊について、特別な変化、展開はなかったということです。ただし、いくつかのことについて教えられました。
一つは、多くの専門家たちは、中間時代の聖霊は「預言の御霊」としていましたが、調べていくうちに、もっと多様に見て行ってもいいのではないかと考えるようになりました。
もう一つは、中間時代には、もちろん、ご聖霊の正典的働きはありませんでしたが、しかし、この時代(約400年間)にも、聖霊の様々な働きがあったと考えた方がいいように思うようになりました。
つまり、中間時代は、聖霊の臨在や働きの暗黒時代だとする必要はないということです。
このことが、新約の聖霊の学びに繋がっていくことになります。新約の人々に大きな影響を与えたのは、旧約聖書の聖霊と聖霊の約束、新約時代になってからの特別な聖霊体験、神様からの啓示体験など。そして、最後に、中間時代からつづく文脈です。
しばらく、休んでいた、ゴードン・フィー先生の「パウロの聖霊論」の翻訳(抄訳)もだいぶ進みました。あと少しです!
ただし、また、全体を読み直すと「問題」を発見してしまうので、やり直さなければなりません。覚えて、お祈りください。
「私塾」も、クラスがいくつか可能になってきました。もうしばらくしましたら、「成立したクラスとその時間」を発表したいと思います。感謝いたします。ハレルヤ! | | 2023-02-17 21:59:59[投稿番号:306] |
どうして聖霊到来の描写がないのか? | | 見える御子と見えない御霊? | 前回で最後と思ってましたが、旧約の聖霊についてのまとめの最終のテーマが一つ残り、今書いています。それは、聖霊到来の事実や出来事についての言及は多いのですが、どのように聖霊が来られたのか、その描写が全くないのです。また、聖霊到来の結果についての説明はいろいろありますが、その説明の正確な意味が分かりにくいのです。
その時、人々はどのようにして聖霊の到来を知ったのでしょうか。本人や周りの人々は何を見て、聖霊が来られたことに気づいたのでしょうか。聖書には書かれていませんが、人々は何かをみたのでしょうか。感じたのでしょうか。
おそらく、本人は、少なくとも、内的に感じるものがあったのではないかと思います。一言でいえば、「満たし」です。
話は、もう一度、初めに戻りますが、聖霊の到来(降臨)について、それを語っている聖書記者はどのようにこの事実を知ったのでしょうか(記者の全能性)。
色々考えながら、結論としては、新約も含めて、聖霊ご自身も、その到来も、私たちの目には見えないものだということです。いろいろな比喩はありますが(例えば、イエス様の場合は、鳩のように、ペンテコステの弟子たちの場合は、火のように)、ご聖霊は、根本的に「目に見えないお方」であるという確信(?)を持ちました。だから、聖霊の到来の言及はいろいろあっても、到来の様子は書けないのです。これは、むしろ聖書全体で、一貫して私たちに語られている大切な真理の一つではないかと思うようになりました。
こうして、最近、御子とその働き、御霊とその働きをパラレルに並べて、いろいろ比較したりして考えています。全く、別の働きや分野ありますし、うまく棲み分けができているように見える働きや領域もあります。いろいろ重なっているように見える分野もあります。これは、新約の聖霊の学びで確認したいと思っている分野ですが。。。
さて、結論です。御子イエス様は、何よりも、私たちに見えるお方として来られ、人として最後まで歩み、見えない御父を私達に見せてくださいました。では、御霊は、どうでしょか。それは、御子とは全く反対に、見えないお方として来られ、見えないお方として、私たちの心にも、教会にも来て、臨在(内住)しておられるということです。
私は、このことを御子との対比で考えるとき、積極的な意味で、御霊が見えないお方であり、そのように到来され、そのように臨在しておられることの積極的な意味、恵みを感じるようになりました。
正に、ご聖霊は、私たちの心に内住し、私たちと一つになって下さるお方なので、むしろ、目に見えないことに、目に見えない形で来られたことに大切な意味があるのではないでしょうか。
大昔、FBマイヤーだったでしょうか。彼がこう書いているのを読んで大変感動したことを昨日、思い出しました。「なぜ、御霊には身体がないのか。それは、あなたと一つになるためです!」…こんなようなことを言っていたと思います。
確かにそうかもしれません。とにかく、身体をもって私たちに見えるように来られた御子イエス様の恵みと、身体なしで、私たちに徹底的に見えないように来られ、私たちと一つになってくださった御霊の恵みを覚え、御子と御霊に賛美をおささげしたいと思います。ハレルヤ! | | 2023-02-10 18:25:30[投稿番号:305] |
今読んでいるいくつかの論文から | | 中間時代の聖霊について | 最近は、中間時代(または、少し拡大して、第二神殿時代)の聖霊論に関する論文をいくつか読んでいます。私が気づかないうちに、こんなにもたくさんの論文が書かれていたんだと少し驚いています。
旧約時代の聖霊が終わり、新約時代の聖霊の学びを始める前に、旧約の聖霊理解が中間時代にどうなったのか、またさらに、それが新約時代にどのような影響を与えたか、知りたいところです。この質問に答えてくれそうな論文はすくないのですが、それでも、当時書かれた文献などから、中間時代の聖霊とその働きについていくらか見ることができたことはうれしいことです。
また、これまで、少し考えてきたことと違う見解などの論文も読むことができて感謝しています。一つは、中間時代の聖霊について、これを「預言の御霊」ということがありますが、これは絶対的ではないこと。もう一つは、今のことと関係がありますが、この預言の御霊は、イスラエルから完全に姿を消されたというものですが、調べてみると、確かに正典的な預言の働きは終わりましたが、それでも、聖霊の働きは続いていたと考える材料はあるということです。
ですから、新約の聖霊について考えるとき、聖霊の働きは全く失われていましたが、新約の時代に復活したということではなく、聖霊の働きは、いつでもどこでも継続的にありましたが、その中から、さらに新たに聖霊の働きが始まったということになります。
小さなことに聞こえるかもしれませんが、私にとってはこのほうが、これまでの自分なりの聖霊理解に繋がって来ると考えます。
さて、
4月から「私塾」が始まります。たぶん来週、クリスチャン新聞に公告が載ると思います。神様が、ふさわしく(参加してくださる方の数も適度に)用いて下さり、必要を感じている参加者が起こされますように。
今は、中間時代の聖霊についての学びを続けています(舟の右側の原稿のため)。また、特に、クリスチャンの「成熟」の分野に関わる、御子イエス様とご聖霊の働き(役割)で重なる部分についていろいろ考えています。聖書的な知恵が与えられますように。感謝いたします! きょうは少し休めました!ハレルヤ! | | 2023-02-06 18:04:30[投稿番号:304] |
ゴードン・フィーが召された! | | 今週、1月29日付のクリスチャン新聞から | 昨日届いた「クリスチャン新聞」を読んでいて、びっくりしました。恩師のフィー先生が天に召されたことが記事になっていました。今でも、フィー先生の書かれたものを読んで、何か教えられたことがあると(今でもあります!)、アルツハイマー病で長年治療を受けておられるフィー先生を覚えてお祈りしていました。
寂しい気持ちはありましたが、やっと念願の神様のもとに行かれたことを考え、ホットした気分にもなりました。
カナダ時代に最も影響を受けた人を三人挙げるとしますと、JIパッカー先生(2020年召天)、スタンレー・グレンツ先生(2005召天)、そしてゴードン・フィー先生(2022年召天)になります。いずれも、すでに天に召されています。
この三人の中でも、ゴードン。フィーは特別です。そのように言っていいでしょう。今でも、影響を受けつづけ、そのもとを歩んでいる感じです。これほどに影響を受けた人はいないでしょう。聖書神学的に(特に、聖霊論と聖書解釈の分野において)影響を受けてきました。聖書神学的に影響を受けているということは、私にとっては、これまでと今と、この後の生き方そのものに影響を受けて来たということです。なぜなら、聖書神学は聖書の教えですから、単なる知識でおわりません。生き方にかかわってくるからです。とにかく、感謝いたします!
始めて、フィー先生のクラスをとってびっくりしました。今でも、覚えていますが、学生たちに最も人気のあるクラスの一つでした。最初は、聖書のみことばについて、緻密に、アカデミックに分析し説明していくのですが、途中で、たぶん適用に近づいていくと、叫び出し、火のように燃えて、預言者のようになるのです。
ほとんど毎回、聖書の御言葉に対する怖れと愛、徹底的な熱情を感じさせる講義になっていたと思います。
個人的には、フィー先生から聖書的な聖霊論の存在を教えていただいたと言ってよいでしょう。「聖書的」というのは、徹底した聖書釈義にもとづき、これを信じ、信頼して(そのためにはあらゆる面からの精査を通して点検した上でということですが)、その上で聖書的な聖霊論の構築を目指していくということです。
学者として、分からないことは分からないと率直に語りながら、聖書釈義的に答えを求めていく姿勢はいつも変わることがなかったと言えるでしょう。また、自分がそのようにして見出した聖書の教えに関して(聖書の教えであると信じる限りにおいて)は、それまで一般に受け入れられた来た教えに(たとえ、自分が属してきた教団の教理であっても)そぐわない面が出てきた場合、いろいろとインターアクトしながらですが、自分の釈義を信じ、従っていかれる姿勢からも学ばせていただきました。
自分勝手で、独りよがりな解釈なら問題ですし、この危険をみとめながらですが、神様の真の教えを追及しておられた姿を忘れることができません。聖書解釈者として、本当になくてはならない模範を示してくださいました。
クリスチャン新聞は、アメリカの福音派で読まれている『クリスチャニティ・トゥデイ』誌からの引用として次の一節を紹介していました。「もし、パウロにクリスチャンとは何かと定義を求めたら、『クリスチャンとは、キリストに関するXとYの教義を信じる人です』と言わず、『キリストを知り、御霊の中を歩む人です』と言ったでしょう」とフィーは語った。」とありました。
正に、アーメン、アーメンです。
キリがありませんが、とにかく、今、天の神様のもとにおられるフィー先生に感謝を表したいと思います。
このような出会いを豊かに用いて下さった神様に賛美を捧げます。ハレルヤ! | | 2023-01-27 18:13:41[投稿番号:303] |
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