「信仰、信じること」について
説教準備の中で教えられたこと
「信仰、信じること」って随分、曖昧な言葉になって来たのではないかと考えています。
確かに、一方で、いっさいの人間的な方法を排除するいみで、救われるためには、「信じるだけ」でいいのですと言います。間違っていません。

しかし他方で、「信じること」が簡単(イージー)なものに思われるとしたら、それは誤りだとも言えます。知的障がいをもった方々や子どもたちにとっての「信仰」と、大人の信仰とは同じではありません(もちろん、大人と言ってもいろいろな違いがありますが)。子どもたちに大人の信仰を求めることはできません。これらのことについては、誰よりも、神様がご存知です。

「信じる」とは、とても人格的で深いもの、重いものです。そう考えます。つまり、その信仰、信頼のゆえに、すぐに、また少しずつ、私たち自身が変えられていくものだからです。私たちの生き方、人生観や世界観、死生観が変わります。それほどに、根本的で大きな影響を与えるはずのものです。

ただ、神様がおられることを信じるというだけなら不十分でしょう。また、聖書の教えのいくつかについて、知的に同意するということでも足りません。

神様が私たちを死ぬほどに愛してくださったように、私たちも、神様からのこの愛を信じて、献身の愛をもって応答していくほどのことが「信じる」ことの中に含まれていると思います。信じる(信頼する)とは、それほどのことだと思います。

以前、まず初めに、「神様を信じる事だけ」を強調して、その後の信仰成長についてはほとんど考えないケースがあったように思います。よく言えば、初めにちゃんと信じて救われれば、放っておいても、信仰成長していくからと言えるかもしれません。

しかし多くの場合は、そうではなく、その後の信仰成長を考えない、またこれに繋がらない、口先だけの信仰に満足してしまっているという問題があります。

どうしたらいいでしょうか。あらためて入信における「信仰」について考える必要がありますし、信仰生活の中で「自分の信仰」の在り方について吟味することになります。

神様は信じるとは、以前神様を信じたし、今信じ続けているし、最後にその信仰を全うされることになるということです。ですから、過去のある時に、神様を信じたから終わりではなく、今信じ続け、後にその信仰が全うされる時が来るまで歩み続けることです。
かつて信じたことと今信じていることは分けられませんし、その信仰が完成に導かれることも分けることができません。

同じご聖霊がすべてのステップを導かれるので、私たちは勝手に分けることはできません。
以前、私は信じたことがあったからこれでいいのではなく、今信じ続け、応答していることは重大です。

最後に、神様は、私たちを、愛する御子を十字架につけるほどに愛していてくださるので、私たちも、そのような神様の献身の愛に応答して、献身を新しくしていきたいのです。それが、「愛の信仰」であり、それ以下のものはないでしょう。ハレルヤ!
2023-09-15 20:53:06[投稿番号:337]

前回のつづき(2)
「思い起すこと」について
先週、「思い起こすこと」についてお話しましたが、今週もずっと「思い起こすこと」について考えて来ました。前回も書きましたが、言葉としては普通のことばのようですが、これは、重要な霊的な言葉、神学的な言葉であることが分かります。

時には、これがないと、これをしないと、致命的なことになってしまうでしょう。自分として、どこで、どのように「思い起こす」か(思い起こしているか、思い起すべきか)確認してみるとよいと思います。本当に、おすすめしたいと思います。
なぜなら、これこそ、クリスチャンが元気になる「時・場」であるからです。

前回も触れましたように、本当によく忘れてしまいます。ますます、そうです。他のほとんどについてそうですが、聖霊的なことについても同じようなことが起こります。

「何」を忘れるか。だから、「何」を思い起こすべきか…例えば、永遠のいのちの恵みとか、三位一体の神様の聖なる臨在とか、イエス様の溢れる愛とか、聖霊の内住の恵みとか…知的には十分に分かっていますが、生き生きとした知識(交わり)を持ち続けていきたいですね。

「どのように思い起こすか」…前回、お話した通りです。主日礼拝、個人礼拝(ディボーション)、兄姉との交わり、賛美…などいろいろありますが、大切なことは、これらは実際に行っていても、時々(しばしば)マンネリ化して、真に「生き生きとした知識」にならないのです。これらをしていれば、自動的にそうなるとは限らないということです。

では、どうしたらいいのでしょうか。つまり、真に思い起こすためにどうしたらいいのでしょうか。
まずは、これまでお話してきたことに気づいていただきたいということです。正直に、直面して、この問題に点検したいと思います。そして、真に「思い起こす」ことの必要を覚えたい(?!)と思います。

その上で、私として今大切にしていることをお話します。すべての人に間に合うかどうか分かりませんが、参考にしていただければと思います。
第一に、神様と交わることですが、その中で特に、神様とリアルに、正直に、おしゃべりすることです。私は今、おしゃべりする散歩を大切にしています。これで、だいぶ、リアルに思い起すことができます。もちろん、これもマンネリの危険があります。
慌てて、急いでやったらダメですね。

第二に、一日の中で、祈ったり、おしゃべりする回数を増やすことですね。10秒でも、20秒でもいいと思います。

第三に、暗唱聖句をすることですね。これは、たぶん、ご聖霊が、リアルに助けて、導いてくださる「場」になると思います。

第四に、これは、私はあまりやっていませんが、賛美を覚えて、口ずさむこともよいと思います。ただし、これも、マンネリ化します。

第五に、もう一つ、今試みていることがありますが、不十分、不完全なので、まだ公表しないでおきましょう。うまくいったら、お話させてください。

皆さん、リアルなことを、リアルに思い出しましょう。みことばと聖霊が助けてくださいますように。ハレルヤ!
2023-09-08 18:19:08[投稿番号:336]

最近考えていることから
「思い起こさせる」ことについて
最近、ディボーションで2ペテロ書を読み、考えるようになったことがあります。それは、「思い起こさせること」「思い起こすこと」の大切さについてです。

実は、2ペテロ書に「思い起こさせる」こととこれに類似した表現が多いことに気づきました。1章12節、13節、15節、3章2節にあります。また、他に、これに準ずる表現もあります。

コンコルダンスで調べると、これは新約で約25回位使用されていますが、私が思っている以上に重要なことばとして使われていることが分かり驚いています。皆さんも、欄外注などで調べてみてください。

初め、2ペテロを読みながら、「思い起こす」ことの重大さに気づいいていませんでした。ただ、忘れやすい読者たちを意識して、ペテロが、ある意味で、普通のことを言っているようにしか思えませんでした。

しかし、「思い起こす」ことは、すべてのクリスチャン(特に忘れやすい老年期の私に)に必要なこととして語られていることが分かってきました。また、「思い起こす」ことも、聖霊の働きの一つであり、これは、普通のことばではなく、重要な神学用語ではないかとさえ思えるようになりました。

朝起きると、すぐに口から「神様(感謝します!)」と祈りのことばが出て来る時はよいのですが、「眠たいなあ、疲れたなあ、起きなきゃあ」などという思いでいっぱいになる時があります。

私は、朝目覚めたときの自分の最初の思いや考えを(スマホのアラームで起きますが)、自分で決めることはできません。初めは、かなりボーっとしています。。。目覚めた瞬間、いつも、「神様、おはようございます!」と叫びたいのですが、なかなか、でそうはいかないのです。

ですから勝負は、その後の準備(洗顔など)、お祈り散歩、神様とのおしゃべり、個人聖研などを通して、ボーっとしている状態から、また、マンネリやマンネリになりそうなディボーションから、どのように信仰を新たにさせられて、一日を歩み出すかということです。

ここで重要なことは、先にお話しをさせていただいた「思い起こす」ことです。生き生きと、三位一体の神様の臨在や導きを思い起こすこと、生き生きと、みことばやお祈りを通して、神様を思い起こすことです。

悔い改めや再献身を通して、あるべき信仰生活を思い起こして歩んでいくことは何と大切なことでしょうか。

「思い起こす」ことは神様からの恵みであり、私たちの側からの応答の姿でもあります。聖霊のはたらきそのものです。

主日礼拝やその中での説教は、皆さんに、「思い起こしてもらう」時であり、その後の交わりや証しや賛美もそのように用いられる恵みの助けです!

礼拝に参加すれば、「思い起こしになる」とは言えませんが、毎朝、ディボーションしていれば「思い起こしになる」とは言えませんが、それらは、確かに、真に思い起こすための恵みの場として与えられていることは確かです。

さらに、本当の意味で「思い起す場」となっているのか、もう一度よく考えるべきことでもあります。

最近、私の信仰生活において、たくさんの恵みをいただいていても、忘れやすいので(一日で変わってしまうので)、「思い起こす」ことの大切さについて考えるようになりました。どんなにすばらしい体験をしても、明日が来ると、その多くを忘れてしまっている可能性があります。

そんな時、その上で、自分としては、どのように現実的に、日常的に「思い起こし」をするとよいのか、考えるようになりました。
今回は、そんなことで、このテーマで書かせていただきました。

皆さん、お読みくださり、感謝いたします。ハレルヤ!
2023-09-01 20:55:08[投稿番号:335]

ヨハネ1章33節「聖霊によるバプテスマ」とは?
「その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である」
最近、少しずつ、ヨハネの福音書における「聖霊」について学び直しているところです。
その中で、まず注目したのは、1章33節です。ここには、バプテスマのヨハネのを遣わされた神の言葉が記されています。「その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。」

ここを読んであらためて、「聖霊によってバプテスマを授けること(聖霊の中にバプティゾーされること)」の偉大さ、特別さを感じました。なぜなら、ここで、神様は御子のことをこのように紹介しておられるからです。

いろいろと「聖霊によるバプテスマ(聖霊の中へのバプティゾー)」について考えました。

「聖霊によるバプテスマ」とは何でしょうか。これまで学んで来た範囲で言いますと、使徒の働き2章で起こった出来事(合わせて10章で起こった出来事も含めて)を指していると言えます。

では、その意味は何でしょうか。第一に、新たな意味で、次元で、聖霊の時代が始まったということです。このことは、救い主イエス様が人となって私たちの所に来られたことに匹敵します。新しい終わりの時代が始まったのです。
第二に、旧約時代以降、神様の働きを全うするように神様にある働き人たちに聖霊が注がれたように、新たなかたちで、レベルで、神にある働き人たちが用いられる時代が来たということです。これは、使徒の働き28章までにおいて例証されているとおりです(今も、継続中!)。
第三に、また、新たな救いの出来事が始まったということです。ある意味で、入口は個人的に信じて救われるが、キリストのからだ(神の民、教会)に全世界の人々が導き入れられるということです。
第四に、使徒の働きにおいて分かることとして、この聖霊は、キリストのからだなる教会を建て上げ、導かれてい行かれるということです。
第五に、この事は、使徒の働きではあまり明確ではありませんでしたが、ヨハネやパウロにおいて明らかにされていく事として、聖霊によって救われた者たちが、聖霊に導かれて成長していくということです(教会と同じように、建て上げられていくということです(→、約束の助け主、永遠のいのち、律法を全うしていく…)。

「聖霊によるバプテスマ(聖霊の中にバプティゾーされる)」時代の特別さをあらためて感じさせられています。

御父は、御子について、ここで、「聖霊によってバプテスマを授ける方(聖霊の中にバプティゾーする方)」と証言しておられます!
これは、偉大なことです。ハレルヤ!
2023-08-25 18:11:13[投稿番号:334]

使徒の働きとパウロの手紙の聖霊
聖書的な統合を求めて
使徒の働きにおける聖霊について、あらためていろいろなことを教えられて来ましたが、これから、さらにヨハネの聖霊、パウロの聖霊に移っていきたいと思っています。

以前は(今は分かりませんが)、聖霊派は使徒の働きにおける聖霊を考え、聖霊派ではない福音派(両者はともに福音主義!)はパウロの聖霊を考えていると言われていましたが、それでとどまるのではなく、両者の統合が聖書的であると考えます。そんなことで、使徒の働きにおける聖霊の学びが終わりつつあるとき、ルカの聖霊とパウロの聖霊の統合について今考えていることを書かせていただきたいと思います。

 福音書では、人となられた御子がナラティブで四重に描かれています(共観福音書+ヨハネ書)。こうして、私たちは御子の生涯を辿りながら、御子のことについて記憶し、思いめぐらすことができます。では、使徒の働きにおいて、聖霊のことがナラティブで描かれている意味(意義)はなんでしょうか。

一つは、御子のようにはいきませんが、それでも、私たちは、一つの重要な時期において、時間的に、空間的に、臨在し、働かれた聖霊について想うことができるということです。
みことばを手掛かりに私たちの信仰と想像力を働かせて、目で見ることのできない聖霊をある程度まで想うことができます。もっとももっと、全人格的に(視覚的、聴覚的、触覚的、臭覚的に)、聖霊とその臨在と働きについて知ることができればと願っています。

使徒の働きというナラティブの特徴(目的や状況も含めて)のゆえに、聖霊について知ることのできない面や要素があることも確かです(パウロの手紙にも同じように個別的な目的や状況があります)。
いろいろ積極的な面もありますが、そうではない面や難しさもあります。また、現代の私たちにとって不可欠な普遍的(さらに規範的)な教えを見つけようとする場合、特に解釈上の注意点などがあります。
当然のことですが、聖書にあるからと言って、それがすべて普遍的なこと(教え)になるわけではありません。まして、規範的になるとは言えません。徹底的に考察し、吟味していく必要があると思います。

パウロの手紙においては、どちらかというと、内的、内面的で、倫理的な面における聖霊の臨在や働きが描かれていると言えます、使徒の働きにおいては、外面的な取り扱いが中心で、内的な、内面的な聖霊の働きについての言及や描写が限られています。
また、それがあっても、非常に簡潔な表現になっています。かなり限定的で、聖霊論に関係して牧会的要素は少なく、圧倒的に宣教的、伝道的であると言えます。また、護教的な面があるかもしれません。とにかく、これらのことは、使徒の働きの目的などともリンクしてきます(テオフィロのために書いているので)。

こうして、これらのことを踏まえて、パウロの手紙などにおける聖霊についての教えと使徒の働きにおける実際的な臨在と働きとを統合していくことになります。
また、両者があまりにも違うので(違いが多いので)、それゆえに、私としては、ここにこそ、聖書的な統合の積極的な理由と必要を感じるのです。統合すべきであると思います。

ジャンルの違いとともに、それぞれが明らかにしている聖霊論にかなりの違いがあるからです。もちろん、無理やりに、表面的な統合については注意しなければなりませんが、これだけの差異があるので、両者の聖霊論をそのままにすべきではなく、聖書的にも、統合を求めていく必要があると考えます。

ここまで、お読みくださり、感謝いたします。
これから、ヨハネの聖霊とも、パウロの聖霊とも、統合を求めていきたいと思います。ご聖霊は一つで分けられません!ハレルヤ!
2023-08-18 19:59:27[投稿番号:333]

「使徒の働き」に書かれていない聖霊
前回のつづき
前回は、使徒の働きにおける「聖霊の働き」の多様性について簡単に紹介しましたが、きょうは、他の書にはあるが、使徒の働きに書かれていない聖霊のいくつかの面に触れてみたいと思います。

どうしてそんなことをするかと言いますと、やがて、ルカの聖霊は、他の旧約の聖霊、共観福音書の聖霊、ヨハネの聖霊、パウロの聖霊と統合していくことになるからです。

以前は、聖霊派はルカの聖霊に立ち、福音派はパウロの聖霊に立つと言われていたことがありましたので(今は、分かりませんが)、そのままではいけないし、聖書的であるとも思いませんので、統合を試みていくための準備をしたいと考えています。

第一に、使徒の働きはナラティブ(物語)なので、どちらかというと、歴史的な流れ(物語の筋道)に沿って、起こった出来事を描写していくことが主になります。ですから、どうしても、一人ひとりの心の中に起こったことについて、細かく描写することはないか、あっても簡単に触れるだけになってしまいます。

第二に、聖書のナラティブには多くのスペーチが含まれていますが、そのスピーチについても限界があるように思います。上記の流れ(その枠組み)の中でスピーチが機能しているので、内面的な描写はどうしても限られてくるように思います。

では、実際に、使徒の働きに書かれていない聖霊について取り上げてみたいと思います。思いつくままなので、順番はバラバラです。

第一に、回心の時に実際に働かれる救いの御霊の働きについてはほとんど何も書かれていません。ただ、聖霊が来て、救いが起こり、また、救いが起こったことのしるしとして聖霊の到来が語られています。

第二に、信者の信仰成長に関しても、詳しくは書かれていません。多少ヒントになるものは、「聖霊のみたされていた」という表現くらいになると思います。バルナバ、ステパノたちの生き方を見よ、ということでしょうか。

第三に、使徒の働きにおける聖霊の働きの中心は、福音宣教を導かれることですが、その時に弟子たちが直面する恐れや弱さなどについても、ほとんど何も見ることはできません。あるとしたら、18章9節、23章11節、27章24節などになりますが、これらの時のパウロの心情についての説明はほとんどありません。私たちは、これらについては、パウロの手紙からよく知ることができます。

第四に、福音宣教の結果として、救われる人々が起こされ、集められ、キリストの群れ(教会)としての教会活動が始まりますが、これらに関係した聖霊の働きはありますが、詳細についてはほとんど知ることはできません。これらについても、手紙から見ることになります。

このように、使徒の働きにおける聖霊とその働きについて考えますと、特にパウロの手紙で取り上げられている聖霊の働きの領域と内容に関して、随分、違いがあることが分かります。
それは、目的と宛先(テオピロ)の必要が異なっているからです。また、ジャンルの違いもあります。もちろん、どんなナラティブかによっても違います。

簡単に触れただけですが、今回の試みから分かったことは、使徒の働きの特徴(特殊性)であり、そこに描かれている聖霊論の特徴(特殊性)です。こうして、最終的には、聖書全体において豊かに(多様に)描かれている聖霊の統合の必要性です。

なんとか、其々の違いや特徴を大切にしながら、聖書的な統合を試みていきたいと願っています。

ここまでお読みくださり、感謝いたします。豊かな聖書的聖霊を感謝いたします。ハレルヤ!
2023-08-11 20:34:28[投稿番号:332]

使徒の働きにおける聖霊
いろいろ考えていることなど
今、使徒の働き(後半:10章以下)の聖霊についてまとめているところです(『舟の右側』用の原稿準備として)。今回、いろいろと教えられることがありましたが、それは、前以上に、旧約や福音書、パウロ書簡などと合わせて、使徒の働きを読むことができるようになったからだと思います。

特に、きょう触れてみたいことは、聖霊の働きの多様性(豊かさ)についてです。旧約の聖霊についての学びの中でも感じましたが、使徒の働きにおける聖霊の学びにおいても、ますますそのように思っています。

中心になるのは、もちろん、ご聖霊が、弟子たち(教会)を用いて、福音宣教を世界大に導いておられることです。しかし、それだけかというとそうではありません。

聖霊は救いの御霊でもあります。救いの備えをし、救いを与え、救いの事実を明らかにしておられます。また、5章では、宣教と関係がありますが、弟子たち(教会)の祈りが聞かれたことのしるしとして聖霊が現れておられるのではないかと思います。

また、個人的な救いを導かれるだけでなく、教会全体の働きや増大のために聖霊は働かれたり、20章では、長老たちを群れの監督に立てられたのが聖霊であると言われています。

また、個々のクリスチャンが聖霊に満たされたり、聖霊に満たされた人として歩んでいます。聖霊は、「力」だけでなく、知恵、信仰、喜びの源でもあります。

おそらく、聖霊は、私たちクリスチャンの行動だけでなく、生き方、在り方にも関係しておられると言えるでしょう。

多くの場合、聖霊は「陰」の存在のように見えますが、必要な時には、「表」に出て来て、強制的に導かれた例もありました。個人的に、内的に働かれたり、グループ(各個教会)に働かれたり、いろいろなケースを見つけることができます。

旧約や福音書に書かれている聖霊の働き、パウロの手紙などに書かれている聖霊の働きなど…これらを合わせると、本当に聖霊の豊かな働きに驚かされるのではないでしょうか。

きょうも、今週も、実は、いろいろなところで、豊かに働いていてくださる御父と御子と御霊の臨在と働きを信じて、感謝し、崇めましょう!ハレルヤ!
2023-08-05 20:26:13[投稿番号:331]