TopPageに戻る

<ワーダン・スピリットの会出版案内>

 ※ 注文は、 E-mail:wordanspirit@nifty.comまで。

『出版案内』


『見分けることについての神学』――現在的な預言運動を考える――
まえがき
1章:「見分けることについて」の神学をめざして:概観                       (4頁)
2章:「見分けることについて」の神学をめざして:見分けることの難しさ               (7頁)
  *「見分けるため」の基準の実際的問題について: 
3章:「見分けることについての神学」をめざして:その他の基準                   (9頁)
  *「見分けるため」のその他の基準: 
4章:「見分けることについての神学」をめざして:詳説(聖書の不思議なバランス)           (10頁)
  *聖書の驚くべきバランス感覚を発見する! 
5章:「見分けることについての神学」をめざして:吟味の実際(システム)を考える(1:聖書の時代から)(14頁)
6章:「見分けることについての神学」をめざして:吟味の実際(システム)を考える(2:初代教会から) (17頁)
7章:「見分けることについての神学」をめざして:吟味の実際(システム)を考える(3:現代の教会の中で):
     「現代の聖霊運動(預言運動)について(その1):20世紀初期」              (20頁)
8章:「見分けることについての神学」をめざして:吟味の実際(システム)を考える(4:現代の教会の中で:
     カリスマ運動)「現代の聖霊運動(預言運動)について(その2):20世紀中期以降」     (24頁)
9章:「見分けることについての神学」をめざして:吟味の実際(システム)を考える(5:現代の教会の中で:
     カリスマ運動):「現代の聖霊運動(預言運動)について(その3):20世紀後半」       (27頁)
10章:「見分けることについての神学」をめざして:Jonathan Edwardsの「真の霊性のしるし」について考える(36頁) 結びに代えて(最近の一つの預言運動について考える)                      (42頁)
 付録1:釈義的アプローチ:「超自然的賜物(例えば預言の賜物)」は終わったのか?
                 (44頁)
 付録2:アレックス・ブキャナン著、『預言』 マルコーシュ・パブリケーション、1996年(Alex Buchanan: Prophecy, Sovereign World, 1991)                                     (48頁)
 付録3:George M. Marsden, Jonathan Edwards: a Life, Yale University, 2003            (49頁)
 付録4:ジョナサン・エドワーズ著、訳:渡部謙一(葡萄の実・翻訳ミニストリー)『宗教感情論』(Jonathan Edwards: The Religious Affections, The Banner of Truth Trust, 1746)                    (58頁)
 付録5:ビル・ハモン著、クリスチャン・インターナショナル・アジア翻訳委員会訳『預言者と個人的預言』クリスチャン・インターナショナル・アジア、1996年(Bill Hamon: Prophets and Personal Prophecy: God’s Prophetic Voice Today, Destiny Image, 1987)  (74頁)
 付録6:秋元パウロ著『預言―その実際と運用―』雲の間にある虹出版、1999年            (78頁)


「ジャンルを大切にして聖書を読む」




「黙示録の読み方と実際」(増補B5版):400円(全57頁)
    パート1:黙示録の読み方(3-35頁):ジャンルとしての「黙示文学・黙示録」の読み方
     1 ジャンルとしての「黙示文学・黙示録」を理解しましょう!(3-4頁)
     2 ジャンルとしての「黙示文学・黙示録」を定義する。   (4-5頁)
     3 「黙示録」の解釈原理と実際:
        六つの解釈ルールをもとに黙示録を読む。      (5-13頁)
     4 ジャンルとしての「黙示文学・黙示録」の解釈原理と実際:
        「黙示録」の特徴をもとに黙示録を読む。      (13-18頁)
     5 ジャンルとしての「黙示文学・黙示録」:その他のコメント:
       @四つの解釈的立場  A解釈グループと「千年王国・携挙」理解  
       B二つのなぜ  C黙示録の構造について  D黙示録の「天の御座」について
       E御父・御子・御霊について…黙示録から三位一体の神様について分かること
       F黙示録のいろいろな読み方(解釈)について思うこと (18-35頁)
      パート2:黙示録の実際(36-57頁):黙示録1章から22章まで
        (22回分のディボーションのための解説)       



「黙示録の読み方と実際」:300円(全40頁)
 *パート1:黙示録の読み方(『ジャンル別新聖書解釈入門』から基本的なものを選んで載せました。)
 *パート2:黙示録の実際(ディボーションガイド『マナ』の原稿を少し直して載せました。黙示録1−22章、22回分の解説が含まれています)

福音トラクト「ファイブ・ステージ:永遠のいのちへの道」:(無料、送料のみ)
   6枚の写真(絵)と簡単な説明やみことばからできています。

 *A:A7サイズ(最も小さく使いやすいタイプ、8頁)(印刷準備中)
 *B:A4サイズ(簡単なガイドつきで、Aの写真、簡単な説明とみことばについてさらに説明を加えています)
 *C:A4サイズ(Aの各ステージに関して、「1000字」以内の短いメッセージがついています)
 *D:CDで、これを聴くことによって背後にある教えについて、より豊かに理解し、「ファイブ・ステージ」を使う時の助けになります。
 *E:CDで語られたメッセージ内容(一部、変更しています)を読むことができるようにしたものです。
(なお、最後の「絵」については、作家から直接許可をいただいて掲載しています)。


DVD(三巻)『ディボーション一日研修』:(1500円→1100円)
*第一巻「ディボーション」のすすめ
*第二巻「ディボーション」+アルファーのすすめ
*第三巻「個人聖書研究」のすすめ
  講師:渡辺睦夫、制作:Origin Spirit Project 発行:ワーダン・スピリットの会


@『使徒の働き解釈学』(A5:全157頁):1800円→1000円(+送料)になりました!
  



Walter L. Liefeld著:Interpreting the Book of Actsの全訳(Baker Booksから特別許可を得、限定300冊出版)

 「編集者の序、(著者の)序、訳者あとがき」から使徒の働き解釈学:「使徒の働きをどう解釈するか」

編集者の序

 新約聖書には四つの文学的タイプ(ジャンル)がある。すなわち、福音書、使徒の働き、手紙、黙示文学である。各ジャンルは明白である。そして今日、各ジャンルを解釈するためには、そのジャンルにふさわしい対応のし方、原則、方法が必要になることが専門家たちの研究によって十分に明らかにされて来ている。ジャンルが異なっているのに、いつも同じ方法を当てはめようとすることは、しばしば重大な誤解を招くことになる。したがって、学ぶ者たちには、各ジャンル特有の性質とそれを釈義するための根本的原則、この両方を取扱うマニュアルが必要になる。
 「新約聖書釈義のガイドシリーズ[Guides to New Testament Exegesis]」は、特に、この必要のために企画されたもので、専門家のためではなく、大学で聖書を専攻している学生、神学生、牧師、少なくとも一年間、ギリシャ語を学んだことのある人々のために準備されている。方法や原則は変わるかもしれないが、新約聖書の言語は同じである。神はギリシャ語で人々に語ることを選ばれた。新約聖書を真剣に学ぶ者は、神のみことばをもっと的確に理解するためにこの言語を愛するようにならなければならない。
 これらのガイドブックには、実際的な目的がある。特定の問題に関して専門家の様々な見方が提示されているが、究極の目的は、新約聖書を解釈するための方法と原則を示すことである。専門的な議論に関しては、それにふさわしい場が他にあり、このシリーズの目的ではない。新約聖書本文の学びに具体的に適用されることが目的である。新約聖書のある特定の分野を専門とする研究者たちが、新約聖書の各ジャンルを解釈するために自らの方法と原則を提供している。このような多様性によって、学ぶ者たちの視野がもっと広げられることになる。各書の最後には、更に学びを進めていくために必要な参考文献が載せられている。
ジャンルが異なる時、釈義の方法と原則も違って来るはずであるが、どのジャンルにも適用可能な釈義の基本もまた重要である。それゆえ、このシリーズの「導入書[第一巻]」では、すべてのジャンルに適用される一般的な方法と原則が扱われている。そして、その後のガイドブックでは、各ジャンルに必要な特別な方法が提示される。
 このシリーズを企画する願いは、Gordon Feeが書いた新約聖書釈義のための入門書[永田竹司訳『新約聖書の釈義』教文館、1998年]から与えられた。Feeが新約聖書研究に多大な貢献を果たしてきたことを十分に踏まえるとともに、このシリーズが、新約聖書の各ジャンルのための釈義的ガイドブックを準備することによって、Feeが提示してきたことを更に前進させていると言える。
 最後に、これまでに私たちに関わってくれた教師や学生たちに、感謝と希望をもってこのシリーズを捧げたい。神が御自身の民を真理と愛と平和に導くためにこれらの書を用いて下さるように祈る者である。
Scot McKnight




 本書の序文を書いているホテルの部屋から、コロラドスプリングスのすぐ西にそびえるパイクス峠の素晴らしい光景が見えている。長いすそ野が見える広大な景色は、これまで一週間集中して取り組んで来た聖書本文の厳密さと顕著な対比を表わしている。私はNIV聖書翻訳委員会の一員として、正確さ、現代的明瞭性、忠実さの観点に立ちながら細心の注意を払って聖書本文にあたって来た。大変な労力が求められたが、また喜ばしいこの務めに全てを集中させて来たことは、目に映る壮大な光景との可視的対比だけでなく、聖書研究という、より広大な世界との文学的対比をも表わしている。
 本書は、聖書翻訳と詳細な本文研究から始まり、より大きな解釈上の課題でピークを迎えている。また、使徒の働きの詳細な学びから出て来た釈義的洞察という山々を空から見ることができるようにしている。聖書本文に関する新しい見方(つまり、文学的な特徴、歴史的文化的背景、教理的教え、実際的な適用)が、このガイドブックの読者(専門家でない)に提供されている。しかしながら、聖書翻訳の場合とまさに同じように、聖書本文に対するこれらのアプローチも、私たちが聖書から学んだことを個人的に適用しようとする時、注意深い学び、個人的な献身、聖霊への信頼が要求される。
 本書は、私がグレコ・ローマン文学の学生であった時に始まり、教育や牧会の継続的奉仕を通して熟していった使徒の働きの学びの実である。使徒の働きには興奮させられる。それは、National Geographic誌[大自然やその中で生きる人々の生活を多くの写真で紹介する一般向け雑誌]に匹敵するようなスリルある冒険、善と悪との戦い、生き生きとした旅程、テレビに時々出てくるような人々よりも現実的な登場人物、そして何よりも、聖霊の直接的活動があって、深く感動させられるからである。これらすべてことが、神によって霊感され、歴史的で、しかも個人的な[一人一人に語りかけて来る]一個の文書の中に表わされているのである。使徒の働きが、私に語りかけるように、読者であるあなたにも語りかけるものとなりますように。
 本書を準備し執筆するにあたり、友人たちが特別な役割を果たしてくれたことを喜んで明らかにしたい。私が指導していた博士課程の学生であり、友人であるDouglas S. Huffmanは、本書のために貴重な文献調べをして下さったので、ここに記して更に私の感謝を表わしたい。また、使徒の働きや新約聖書の背景に関する博士課程セミナーの学生たちもまた、私の研究に良き協力と刺激を与えてくれた。
 Christ Church Lake Forestの人々は、私の奉仕の一部としてリサーチや執筆の重要性を認識して下さり、このプロジェクトを完成するための時間を喜んで与えて下さった。
かっての学生であり、同僚であり、このシリーズの編集者であるScot McKnightは、本書を書くように私に勧めて下さった。Baker Book House社のJim WeaverとWells Turnerは、編集の手腕と個人的な励ましを通して、本書の価値に寄与して下さった。
本書の「対象として想定させていただいた読者[implied reader]」である皆さんのことも、私がこれを書く間いつも私の心にあって、この働きを全うするための動機を与えて下さった。本書を通して、私たちが皆、主と主のみことばに対する愛をますます深めさせていただくことが出来ますように。
Walter L. Liefeld

訳者あとがき

 初めに
 1975年にInterVarsity Pressから出版された著書Baptism and Fullness: The Work of the Holy Spirit Today「今日における聖霊の働き:聖霊のバプテスマと満たし(邦訳:いのちのことば社:1978年」の中で、著者のJohn Stottは、次のように記している(また初版は、The Baptism and Fullness of the Holy Spiritという書名で、1964年に出版されているが、ここでも簡潔な形であるが、75年版と同じ趣旨のことが記されている)。「聖書における神の計画の啓示は、主として、聖書の“叙述的”部分にではなく、“教訓的”部分の中に求められなければならない。さらに正確に言うなら、われわれはそれを使徒による働きの純粋な叙述的な部分の中にではなく、むしろ、イエスの教えや、使徒たちの説教や著作の中に求めるべきである。聖書において他の人々に起こったことは、必ずしもわれわれにも起こるはずのことではない。…私が言っていることは、誤解されやすいであろう。私は聖書の叙述的部分は価値がないと言っているの“ではない”。…私が言わんと“している”ことは、叙述的な部分は、教訓的な部分によって解釈されてのみ価値がある、ということである(邦訳:17―18頁引用)。」
 この説明は、当時の多くの福音派教会(日本も含めて)のナラティブ理解の状況を表していたし、またそれ以降にも、大きな影響を与えてきたに違いないと思われる。John Stottの上記のことばの中にも、今日の私たちが耳を傾けなければならない重要な示唆が含まれていることは確かであるが、しかしその後、福音派教会のナラティブ理解と解釈は、格段に進歩して来たと言えるだろう。福音派の中で、特に、大きな影響を与えた専門家の一人が、本書でもふれられていたGordon Fee(訳者のRegent College時代の恩師の一人)である。Fee教授は(Douglas Stuartと共に)、一般向けの書として、1982年にHow to Read the Bible for All Its Worth(Zondervan)を出版し、ナラティブは二次的な書ではなく、ナラティブはナラティブとして、それに相応しく解釈することを強調している。最近の福音派の多くの専門家たちがこの流れに従い、Fee(もちろん、彼だけではないが)の理解はすでに定着して来ていると言っても過言でないだろう。
 ナラティブにはナラティブの神学がある。また、著者の神学的意図(それはご聖霊の意図でもある[これはFee教授の確言]!)がある。これこそ、今日の私たちが真摯に学び、教えられるべき重要なメッセージである。もちろん、現在、その神学は何か、その著者の神学的意図は何か、ということで様々な議論があることは事実である。しかしその前に、どうしても確認しておかなければならないことがある。それは、どのようにルカの神学(また、ルカの神学的意図)を見出すことが出来るかということである。ルカの神学(神学的意図)に関して、自分の理解は正しいのか、その方向に向っているのか問いかける必要がある。そういう意味でも、本書は、上記のGordon Feeの理解に立ちながら、更に、神学的に、解釈学的に、実際的に、使徒の働きの神学(ルカの神学、又神学的意図)をどのように学び、どのように見出し、どのように適用していったらよいかを教える希な書であると言える。
 
 本書(特長など)について
 本書は、Guides to New Testament Exegesisシリーズの一つであり、他にもIntroducing New Testament Interpretation、Interpreting the Synoptic Gospels、Interpreting the Gospel of John、Interpreting the Pauline Epistles、Interpreting the Book of Hebrews、Interpreting the Book of Revelationがある。編集者のScot McKnightが言っているように、各々著者は、牧師や神学生が聖書の各書のジャンル(文学的型)に対応する釈義のセンスを高めるための「釈義マニュアル」を提供している。したがって私たちは、これらの書から、特定のジャンルに関する知識と、そのジャンルに適切な釈義のための原理と実際を学ぶことになる(ただし、第一巻のIntroducing New Testament Interpretationには、新約釈義全般に必要な基本原理と方法が記されている)。
 Liefeld博士(訳者の牧会学博士過程における論文の指導教授)も、このシリーズの目的に沿って、牧師や神学生のために使徒の働きを釈義するための解釈学的ガイドブックを準備している。博士がここで最も強調していることは、新約聖書における使徒の働きの特異性、そして、その背後に確かにあるルカ神学である。また、この「ナラティブ」に含まれているいくつかの重要な特徴が精査されている。こうして、読者がナラティブとしての使徒の働きを釈義するために必要な基本的原理と実際が十分に提供されていると言える。
 本書には次の七章が含まれている。目的、構造、神学としてのナラティブ、スピーチ、主要テーマ、背景。そして最後に、著者は、釈義から適用に至る解釈学的過程において、神学的に、実際的に考慮すべき事柄を例示している。各章における著者のアプローチは、いつも一貫しているとは言えないが、ほとんどすべての章において含まれている要素はある。本書において、絶えず強調され読者に求められていることは、聖書が実際に何と言っているかを読者自身が自分で読んで明らかにするということである。Liefeld教授は、出来る限り帰納的に使徒の働きの目的やテーマを取り扱っているので、使徒の働きを学ぼうとする初心者にとっても分かりやすいと思われる。ただし同時に、著者は注意深くバランスを計り、必要とあらば、これまでの、また、現代の専門家たちによる他の重要な、または有効な見解を提示したり、精査している。とにかく、自らの見解を一方的に押しつけるという手法ではなく、読者が使徒の働きそのものをもっと実際に読むためにも、一つ一つのテーマに関して公平な立場をとろうとしている。また、Liefeld教授は、本書の目的を知っているので、使徒の働きを釈義しようする 者たちのために、原理的にも実際的にも有益な釈義的、解釈学的助け(一般的な実例、使徒の働きからの適例、要約など)を与えている。
 本書の特長でもあるが、特に推薦したい点は次のようである。第一に、これは使徒の働きをより正しく釈義(解釈)することを願っている牧師や神学生のために書かれている。ただし、使徒の働きを解釈する上での歴史的、現代的課題や問題に関する重要な議論を棚上げにしないと同時に、本書が実践的な性格を持った書であることを忘れてはいない。第二に、これまでの、また、現代の専門家たちの議論を踏まえた上で、著者は使徒の働きの神学的、解釈学的問題を取り扱っている。そういう意味で、スペースの許す範囲であるが、必要な学問的レベルを保っていると言える。特に、使徒の働きの文学的ジャンルの特質に対する理解とそれに対応する的確な釈義と解釈学的プロセスを強調している。第三に、Liefeld教授は、上記でも述べたように、出来る限り、学問的公平性を保ち続けていると言える。つまり、他の見解を扱う時でも、自らの理解に従わせようと一方的に議論を進めていくやり方をとっていない。こうして、何よりも読者が、ある特定のテーマや課題に関して、聖書のみことばそのものをまず自分でよく読んで学ぶように仕向けていると思われる。第四に、最も重要な特長の一つだと思わ れるが、著者はこれまで扱ってきた釈義的手続きに立って、幾つかの実例を用いながら、解釈学的、適用的指針をも提示していてくれる。特に、3章の「ナラティブ神学」、7章の「機能を決定する:ノーマティブ(規範的)対ディスクリプティブ(叙述的)」は重要であり有益である。
 
 読者のために(本書と聖霊論、解釈学)
 本書の目的は、使徒の働きを解釈するために必要な解釈学的ガイドラインを牧師や神学生に備えることである。それゆえにこの書が、日本の聖霊論の神学的発展のために寄与出来ることがあるとしても、ほんのわずかであると言わなければならないかもしれない。ただし、私たちが“聖書的”聖霊論を構築しようと願うなら、それはまず、健全な“聖書的”解釈学を抜きにしては有り得ないことを認めなければならない。これまでに私たちの多くは、聖霊(論)的な関心、課題や問題を通して、使徒の働きに特別な関心を寄せて来たにもかかわらず、残念ながら、使徒の働きの健全な釈義、解釈については、あまりにも注意を払って来なかったのではないか。そういう意味で、私たちは使徒の働きを解釈学的にも十分に留意して取り扱うべきである。こうして、より的確な釈義、解釈を通して与えられた聖霊論に関わるデータを基に“聖書的”聖霊論を求めていきたいのである。
 第一に本書は、使徒の働きを、釈義そのものからやり直して、もう一度読み直したいと願っておられる読者にふさわしいと言える。第二に、本書は、使徒の働きを解釈するための希有なガイドブックであるが、同時に、実際的に、また学究的にバランスが取れ、本格的な入門書の一つと言っても過言ではない。第三に、聖霊(論)に関する教えは使徒の働きにおいて、不可欠な要素として含まれているが、著者は健全な解釈学的観点から、使徒の働きにおける聖霊(論的)問題を注意深く扱っている。従って、本書は、使徒の働きの健全な解釈に基づいた“聖書的”聖霊論のための有益かつ重要な示唆を含んでいると言える。
 1998年に、Gordon FeeのNew Testament Exegesis: A Handbook for Students and Pastors (改訂版:Westminster/John Knox)やS. E. PorterのIdioms of the Greek New Testament (JSOT)が翻訳され、それぞれ教文館、ナザレ企画から出版されたことは、日本の釈義、解釈のために必要な道具が少しづつ備えられてきていると言えるかもしれない。しかしながら、文献的に言うならば、日本における解釈学の現状はなお遅れたままであると言えるだろう。例えば、聖書図書刊行会から翻訳出版されているBernard Ramm(バーナード・ラム)の「聖書解釈学概論(邦訳初版:1963)」は、解釈学のテキストとして、神学校や教会で長い間用いられてきた。確かに今でもなお読む価値はあるものの、現代の解釈学的発展の状況から見るならば、ほとんど時代遅れの感は否めない。このような日本の現状において、本書のようなタイプのものが牧師や神学生のために出版されることはそれなりに意味のあることではないかと思われる。本書を通して、少しでも、ナラティブとしての使徒の働き(聖書にある他のジャンルも)の釈義、解釈が更に進展することを期待したい。
 
 書名:「使徒の働き解釈学」に関して
 「釈義」と言っても読者の理解が異なっている可能性がある。特に今はそうである。したがって、まず本書(訳者も)の理解を確認していこう。「釈義」とは、聖書本文が記された時点で、著者(記者)は何を言っていたのか、何を言おうとしていたのかを明らかにすることである。そして、その釈義的な意味が、今日の私たちにどのような意味を持つかについて考え、取り扱うのが「適用」である。更に「解釈学」には、これらの「釈義」から「適用」に至るまでの解釈学的プロセスの全般が含まれていると言える。
 本書の大部分には、実際に、釈義的原理とその方法が記されているが、最後の7章では、使徒の働きからの釈義的結果を、どのように相応しく「適用」していくべきかについても注意深く論じられており、解釈者にとって有益な示唆が多く含まれている。そういう意味で、やや大袈裟ではあったが、本書のタイトルを、「使徒の働きをどのように釈義するか?」、「使徒の働きをどのように解釈するか?」、「使徒の働きの解釈」でもなく、「使徒の働き解釈学」とさせていただいた。

 翻訳に関して
 これは、訳者自身にとっても初めての経験であり、翻訳の難しさ、大変さをいやというほど知らされて来ている。途中で何度もやめようとしたが、本書の翻訳は、上記にあるように、それなりの意義があり、また家族(家内:多恵子、子どもたち:有基、大基、公基、恵里沙)と教会の兄弟姉妹(岩倉キリスト教会)、友人知人の励ましと祈りによってここまで導かれたと言える。
 次の同労者の皆さんからの励ましと貴重な助言をいただいた。もう一度、ここに記して感謝を表したい。家族(家内:多恵子、子ども:有基、大基、公基、恵里沙)、教会(岩倉キリスト教会の兄弟姉妹)、千代崎秀雄牧師(綾瀬ホーリネス教会)、隈上正敏牧師(一宮キリスト教会)、小林剛男牧師(東海キリスト教会)、野田喜裕牧師(祖父江キリスト教会)、鎌野善三牧師(池田中央教会)、小山大三牧師(岐阜純福音教会)、竹田亮一牧師(Blaine Christian Fellowship)、末松隆太郎牧師(栄聖書教会)、安西幸男牧師(揖斐キリスト教会)、立石尚志牧師(鴨居聖書教会)、Keith Hyde兄(特に最後のお二人は、まさに全頁の監訳の労を喜んで引き受けて下さった。お二人を通して多くの誤訳が正されたことを感謝をもってここに記したい)。また表紙のデザインは、森下育衛兄によるものである。
 なお更に、より正しい、より分かりやすい翻訳を求めておりますので、お気づきの点がありましたらご指摘いただければ幸いでございます。

 翻訳に関する注意事項
 牧師ならびに神学生を意識しながら、出来るだけ分かりやすい翻訳を試みた。したがって、説明がもう少し必要であると思われたところに関しては、[ ]印をつけ、訳者自身の説明などを挿入した。また、固有名詞(人名など)に関しては、よく知られていると判断したもの以外は、すべて英語のまま記している。更に、原文でイタリック体が使用されている個所について、翻訳においては“ ”を使用した。なお、「ナラティブ」の訳語に関しては、一様、「物語(文)」として訳されるようになって来ているが、本書ではそのまま「ナラティブ」とさせていただいた。
 
 最後に
 私の牧会学博士論文(プロジェクト)のアドバイザーを引き受けて、本当に心からの励ましを与えて下さった本書の著者でもあるWalter L. Liefeld博士と、論文のために貴重な助言を与え続けて下さったHarold Netland博士に心から感謝を表したいと思う。また、特別な許可を与えて翻訳を可能にして下さったBaker Books(担当:Ms. Suzanna Breems)に感謝したいと思う。  PRAISE  THE  LORD !





A『「使徒の働き解釈学」の解説』(A5サイズ:全26頁):200円→会員資料室からダウンロードできます(会員の方は無料です)。

   






信徒の方々にも読んで利用していただくために「解説書」を準備しました(2002年3月出版)
「最初の3頁」から
   
「使徒の働き解釈学」の解説: 渡辺 睦夫
 Walter L.Liefeld: Interpreting the Book of Acts. Grand Rapids: Baker Books, 1995
 「ワーダン・スピリットの会」出版

はじめに
「使徒の働き解釈学」をもっと理解し用いていただくために「解説(書)」を準備することにしました。本書は、専門書というよりも神学教育用のテキストとして作られていますが、これまでの神学的解釈学的分野における様々な研究を踏まえて準備されていますので、これらの進展状況からどちらかというと隔絶されたところにいた私たち日本の読者には理解しにくい部分もあったのではないかと思います。このようなことを覚えながら、一般読者のために、背景になっている神学的解釈学的状況や専門用語などの解説を試みたいと思います。


1) 本書をお読みになる前にまずしていただきたいこと
*「使徒の働き」は、一続きのナラティブ(物語)として準備されたものですので、章や節で区切らないで、まず「ひとつのナラティブ」として使徒の働きを読んでいただきたいと思います。また使徒の働きの前編にあたる「ルカの福音書」も一緒に読めたら読んでください。


2) 初めに、本書の「編集者の序(4頁)、著者の序(6頁)、訳者のあとがき(145頁)」を読んでください。
*聖書をより正確に読もう(解釈しよう)とすることはとても大切なことです。その文書が重要であればあるほど正しい解釈が求められます。例えば、契約書に記されている文書や法律関係の文書などは特にそうです(実際にこれらの文書は、誤解のないように、間違った解釈、別の解釈が出来ないように厳密に記されています)。

*さて聖書の中にも、いろいろなジャンル(文学的タイプ)があることにお気づきでしょうか。詩(詩篇や預言書)もあれば、物語・ナラティブ、手紙、知恵の言葉などがそうです。細かく分ければさらにたくさん挙げることが出来るでしょう(たとえ話、スピーチ、説教?)。では、これらのジャンルのものを読む時、わたしたちは同じ読み方をしているでしょうか。そうではないと思います。例えば、漫画を読んでいる時、雑誌を読んでいる時、処方箋を読んでいる時、教科書を読んでいる時、六法全書を読んでいる時、わたしたちはそれぞれ、ジャンルにふさわしい読み方を(無意識?的に)しているのではないでしょうか。「ふさわしい」読み方とは、わたしたちが生まれてからずっと、長い時間をかけて、無意識的に、意識的に、学んできた読み方であると言っていいでしょう。新聞を読む時と漫画を読む時と聖書を読む時、それぞれ読み方には共通点と相違点があります。どんな種類の文書に対しても、私たちはいつも同じ読み方をしているわけではありません。漫画を読む時のようなやり方で聖書を読むわけではありません。そういう意味で、わたしたちは聖書を読む時も、聖書の中のジャンルを 大切にして、それにふさわしく読んでいく必要があります。詩は詩として、詩にふさわしく読(詠)み、手紙は手紙として、ナラティブ(物語)はナラティブとして読むのです。このことはとても重要なことです。普通の生活においてジャンルごとに読み方を(部分的に)変えているのに、聖書の場合にはそうしないということはおかしいと思います。
*更に付け加えると、聖書記者が手紙を書いている時、読者が自分の書いたものを「手紙」として読んでくれることを前提にしているのです。そうでなかったら大変なことになりますね。知恵の言葉として書いているのに、読者が「律法」として読んだらどうでしょうか。記者に叱られてしまいます。また神様は、ご自身の御心をわたしたちにお語りになる時に、わたしたちの言語や様々な文学ジャンル、文学様式をお用いになりました。言語とは、何か神秘的なものではなく、当時の人々が毎日の生活で使用していた普通の言語(へブル語やギリシャ語で、その背後に人間の歴史や文化があります)です。また文学ジャンルとは、当時の人々が利用していた「詩、物語、知恵、手紙」などのことです。

*さて本書には、「ナラティブ」というジャンルについての説明「ナラティブとは何か?」や、ナラティブとしての「使徒の働き」をよりふさわしく読むための原則や方法、またそれをする時の助けとなる資料が含まれています。それらが「目的、構造、神学、スピーチ、主要テーマ、背景、釈義から適用へ」などです。

*「訳者あとがき」の初めに記したことは、長い間「ナラティブ」は、聖書の命題的な部分(教訓的箇所)と比較すると、重要性から言って、二次的な文書のように扱われてきた傾向があります。具体的にいうと、使徒の働きにあることよりも、パウロの手紙などで教えられていることのほうが重要であるとされてきたのです。しかし、ライフェルト教授も言っていますように、ナラティブにはナラティブとしての特徴があり、手紙などにあるような命題的、教訓的な教えに劣ることのないメッセージ(普遍的教訓)がナラティブにもあることが確認されるのです。これは、使徒の働きでいうと、ルカの神学、またルカの神学的意図と呼ばれるものです。ですから、使徒の働きを読むわたしたちは、どうしてもこのルカの神学(神学的意図)を明らかにする必要があります。本書の中心的目的はこれです!!





B『歴史の中の預言(預言現象・預言運動と預言の理解)』(B5サイズ:全78頁):500円→会員資料室からダウンロードできます(会員の方は無料です)。

目次
1) はじめに                            3

 @ 「預言」についての様々な質問

 A 論文の目的

2) 第一世紀における二つの書                    5

 @ディダケー(Didache

Aローマのクレメンスによるコリント人への第一の手紙

3) 第二世紀における預言                      8

 @イグナティウス(Ignatius)の手紙

 Aヘルマスの牧者(The Shepherd of Hermas

Dialogue with Trypho (殉教者ユスティノス:Justin Martyr)

 Bイレナェウス(Irenaeus)のAgainst Heresies

 Cモンタニズム

4) 第三世紀における預言                      21 

 @テルトゥリアヌス(Tertullian

 Aオリゲネス(Origen

 Bキプリアヌス(Cyprian

 Cノバティアヌス(Novatian

5) 第四・五世紀における預言                    28

 @はじめに

 Aアタナシウス、ディデュモス、エピファニウス、バシリウス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオス(AthanasiusDidymus the BlindEpiphaniusBasilGregory of NazianzusGregory of Nyssa

 Bクリソストムス(Chrysostom

 Cアウグスティヌス(Augustine

 Dこれまでのまとめ

6) 宗教改革者たちと預言                      36

 @はじめに

 Aルター(Martin Luther

 Bカルヴィン(John Calvin

7) 第十七世紀における預言                     41

 @ピューリタン(Puritans

 Aクェーカー(Quakers)

8) 第十八世紀における預言                     44

 @敬虔主義(Pietism

 Aメソジズム(Methodism

9) 第十九世紀における預言                       47

 @19世紀について

 Aプリマス・ブレザレン(Plymouth Brethren「創設者:ダービー:J.N.Darby」)

Bチャールズ・フィニー(Charles G. Finney

 Cドワイト・ムーディー(Dwight L. Moody

 Dメソジズムとホーリネス運動(MethodismHoliness

10)第二十世紀の聖霊運動(預言運動を中心に)              52

 @ペンテコステ運動における預言

     ペンテコステ運動のはじめ

     20世紀初期の預言

     20世紀中期の預言

     現在の預言

     まとめ

 Aカリスマ運動における預言

     カリスマ運動のはじめ

     初期のカリスマ運動における預言

     ウィルカーソン(David Wilkerson)の幻

     現在の預言

 B「新」カリスマ運動における預言

     The Word of Faith/Positive Confession運動(またはFaith-Formula神学)における預言

     The Present-truth運動における預言

     第三の波における預言

     まとめ

11)結び                                75

 @ウォーフィールド(Warfield)の見解に対して

 Aペンテコステ派(カリスマ派)・その他の見解に関して

 Bさいごに

歴史の中の預言(預言現象・預言運動と預言の理解)

1)はじめに:[1]

@「預言」[2]についての様々な質問:

*ヘブル人への手紙は次のみことばで始まっている。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」「預言者」は、旧新約聖書時代に確かに存在し、神のみこころを人々に明らかにするという重要な役割を担っていた。では、それ以後の2000年の歴史において、預言(者)はどうなったのか。預言運動や預言現象のすべては消滅したのか。そのすべての役割は全うされたのか(例えば、新約聖書の完結とともに)。または、その内容と働きになんらかの変化が起こったのか。預言の賜物とともに、その他の奇跡的な賜物は、歴史的にどのようになったのか。さらに、これまでのキリスト教会の歴史の中で、「(ある種の)預言現象」が起こったと言われている例があるが、それはどのようなものであったのか。当時の人々はそれについてどのように考えたのか。またそこに、現代の、いわゆる預言運動、預言現象と共通するものがあるのか。かつての預言運動や現象から、現代の私たちは何を学ぶことができるのか。

*これらの質問は、ある一部の人たちの単なる興味本位の言葉ではない。これらは、非常に重要な課題や問題を含んでいて、多面的で注意深い取り扱いが求められると言えるだろう。「聖霊の超自然的賜物の消滅?」に関して、すでに、W&Sの会報(創刊号:「釈義的アプローチ:『超自然的賜物』は終わったのか?」)で釈義的な考察をしたが、今回は歴史的なアプローチで上記の質問について考えてみたいと思う。どうしても概観的で表面的な取り組みになり、質問のすべてに十分触れることはできないが、少しでも参考にしていただければ幸いである。

A論文の目的:

*この論文を準備するに当たり、筆者の念頭に二つの著述があったことをまず記しておきたい。それは、George H. WilliamsEdith Waldvogelの論文[3]と、B.B.WarfieldCounterfeit Miracles(W&S会報6号参照せよ)[4]である。前者は、主に、異言の賜物について歴史的に取り扱ったものであるが、その詳細で学究的な取り組み(約50頁以上)から教えられることが多かった。しかし当時、自分なりに調べたところ、預言の賜物に関して上記に匹敵するようなまとまったものは他に見当たらなかった(あとで、David PytchesによってProphecy in the Local ChurchA Practical Handbook and Historical Overviewが出版されたが[5])。WilliamsWaldvogelの論文のレベルにはほど遠いが、少しでもこれに近いものを準備したいと思った次第である。また後者に関しては(本論文の目的に直接関わっていることであるが)、Warfieldの他の多くの重要な著作の中にあって、少なくとも、本書の主張(「[超自然の] 賜物や奇跡は十二弟子たちの「使徒性」を証しするもので、あくまでも彼らに属するものである。したがってそれらは使徒時代とともに間もなく消滅した。ただし実際には、使徒たちによって特別に按手された人々が奇跡を行なったり賜物を行使すること [可能性] もあったので、賜物と奇跡の時代は第2世紀前半まで継続した」)についていろいろと問題を感じ、その真偽を歴史的に確認する必要を覚えたわけである。[6]

*本論文の目的は主に二つある。一つは、上記のようにWarfieldの見解を歴史的に吟味すること、もう一つは、2000年の歴史における預言活動や預言現象(と呼ばれるもの)を実際に概観することによって、ペンテコステ派(カリスマ派)・その他の専門家たちの間でも二つに分かれている見解(「賜物は一度完全に消滅したがキリストの再臨直前にもう一度回復する」、「賜物は時代によって増減するが基本的には全時代の教会とその成長にとって不可欠であり、この2000年の間存続している」)について、どちらが歴史的にふさわしいかを確認することである。

 



[1] これまでの歴史(1世紀―20世紀まで)において、特に重要だと思われる預言現象・運動(「預言」と呼ばれた、また、主張されたものも含めて)と預言理解、その他を扱っている。この小論文は、もともと1992年に提出した修士論文の一部として考えていたものであったが、論文の規定枚数を大幅に超えてしまうことになったため、第20世紀分のみを残して割愛した部分である(Mutsuo Watanabe, “An Examination of the Phenomena of Pentecostal and Charismatic Prophecy and the Claims made for it,” Th.M. Thesis, Regent College, 1992)。これまで、拙論の「1世紀―19世紀分」を翻訳して、ワーダン・スピリットの会会報1−11号(7号をのぞく)に、また「20世紀分」を会報8・9・10号の「『見分けることについての神学』をめざして」に掲載したが、これらをすべてひとつにまとめ、加筆修正した。なお、人名や地名などは、一部のよく知られているものを除き、ほとんどは英語のままにした(日本語名は、現在様々な表記がなされているが、ここでは『図説:キリスト教史 [園部不二夫著] 』などを参照した)。

[2] 最終的なものではないが、筆者の「預言」理解をCecil M. Robeck, Jr.のものを利用して述べておきたい。「預言は、次のいずれかの意味として説明されてきている:@聖霊によって一方的に(spontaneously)霊感され(促され導かれ)、ある特定の状況に対して語られた神のことばのこと;A聖書のみことばに基づいて語られたある種の講解説教のこと;B社会に対する、道徳的、倫理的性質をもった公的表明のこと。また時々、預言と言うと、将来の出来事に関する予測・予知的能力と考えられがちであるが、聖書の預言については、あくまでも『forthtelling(神のメッセージが明らかにされる)』が強調される。」筆者としては、上記の三つの意味のいずれかに限定できるとは考えていない(より広い理解をもっている)。Aは、現代において非常に重要な要素であると考えているが、預言を「(講解)説教」だけに絞るつもりはなく、一般信徒の間でも預言的な賜物の行使は、意識的に無意識的に、存在しうると考える。また、何よりも、@にあった「spontaneous」な面も重視したい(参考:”Gift of Prophecy,” in Dictionary of Pnetecostal and Charismatic Movements, Stanley M. Burgess and Gary B. McGee, eds., (Grand Rapids, Zondervan: 1988, 728-40)

[3] “A History of Speaking in Tongues and Related Gifts,” in Michael Pollock Hamilton, ed., The Charismatic Movement (Grand Rapids: Eerdmans, 1975).

[4] Counterfeit Miracles (Edinburgh: The Banner of Truth, 1986)

[5] 本書は、1993年に出版され(London, Sydney, Auckland: Hodder and Stoughton)、内容的にはより一般的なものになっているが、本論文で扱っていないこと(特に、16−17世紀のフランス、ドイツ、イギリスなどで起こった預言運動?)も含まれており参照されるとよい(歴史の部分は約70頁)。

[6] この問題については、当時、筆者の指導教授であったJ.I.Packer教授にも意見を求めたが、(筆者の記憶が正しければ)、筆者と同じ見解であったように思う。




C『セルフ・ラブ(Self-Love)の聖書的統合を求めて』(B5サイズ:全27頁):250円→会員資料室からダウンロードできます(会員の方は無料です)。

目次

1)            この考察の重要性について:                   2 

2)聖書における「積極的な意味」のSelf-loveについて:         3

@     Self-loveSelf-esteemは、Self-centredness Self-worship

同意語的に用いることができるのか。                3

A     聖書に「積極的な意味の」Self-loveがあるのか?           5

 A:マタイ22章39節について:

B:エペソ5章28節について:

C:その他の聖書箇所から:

D:結論:

3)            「積極的な意味」のSelf-loveの聖書的な枠組みについて:             9

@     聖書的なSelf-loveの源と土台は、神とその愛である。                9

A     聖書的なSelf-loveはキリスト中心である。                          11

B     Self-loveは聖霊の働きと密接であり、分けることができない。        12

C     Self-loveは、何よりも教会生活の枠組みの中で理解される必要がある。 12

D     Self-loveは終末的な恵みと望みの中に位置づける必要がある。      13

E     Self-loveはゴールではない。                    14

F     私たちは、Self-loveの様々な危険に注意する必要がある。       14

G     Self-loveは、神の子どもたちの歩みに有益であり助けとなる。     15

 A:私たちのSelf-loveは、Self-surrenderSelf-commitment

共存するものである。

  BSelf-loveと罪との関係について

C:神の子どもたちの歩みにおけるSelf-loveについて

H     ひとつの結論:                          16

4)            Self-loveSelf-esteemに関するいくつかの文献を批評する。          17

@    Jay E. Adams: The Biblical View of Self-esteem, Self-love and

Self-image (Eugene, Oregon: Harvest House Publishers, 1986)      17

A    Walter Trobisch: Love Yourself (Downers Grove, Illinois:

Intervarsity Press, 1976)                                         19

B    John MacArthur: “Counseling and the Sinfulness of Humanity,”

 in Introduction to Biblical Counseling (Dallas: Word, 1994)         20

C    David A. Seamands: Healing for Damaged Emotions (Wheaton:

 Victor Books, 1989)                                             21

D    Martin and Deidre Bobgan: Psychoheresy: The Psychological Seduction

of Christianity (Santa Barbara: Eastgate Publishers, 1987)          22

E    James Dobson: Hide or Seek (Grand Rapids: Fleming H. Revell, 1979)

                                             24                  

5)結び:セルフ・ラブ(Self-love)の聖書的統合を求めて          25

 

セルフ・ラブ(Self-love)の聖書的統合を求めて[1]

渡辺 睦夫

1)この考察の重要性について:

 セルフ・ラブ(Self-loveSelf-esteemSelf-acceptanceSelf-actualizationSelf-fulfillmentSelf-realizationSelf-confidenceなども)は、現代の私たちにとって重大な関心事の一つであり、日本においても、北米においても、様々な領域に大きな影響を与えている、見過ごしにできない課題であると思われる。10年以上前になるが、カナダのブリティッシュ・コロンビア州である出来事が起こった。それは、あるクリスチャンたちが、教育省から出されたYear 2000: A Framework of Learning教育指導要綱)[2]の内容に反対して、子どもたちを公立学校から引き上げさせたのである。彼らによると、教育省が学校側に求めた教育方針の中に、Self-esteem(自己尊重)の過度な強調があったということである。例えば、その文書の3頁にはこのように記されている。

「…Self-esteemは、学校教育において絶えず育んでいかなければならないことである。両親や教師たちは、子どもたちが肯定的に自分自身を考えること(Self-concept)ができるように助けを与えるというさらにより良い働きをする必要がある。こうして彼らは、より多くの機会を通して自分たちの潜在能力に気づくようになるのである。」[3]

また、生徒たちやその両親たちに報告する成績に関して、教師たちに次のように求めている。「同じ教師が教えている他の生徒たちと比較して、その生徒の成績内容を明らかにすることは、それがあったとしても、できるかぎり避けなければならない。」(11頁)。学校教育におけるこのような強調は、果たして本当に意味のあるものなのか。現代社会におけるある種の倫理的向上のために本当に役立つものなのか。[4]また、このような教育や社会は、私たちクリスチャンの伝道や証しにどのような影響を与えるのか。

 Self-loveSelf-esteemについてどのように考えるかに関して、クリスチャンたちの間でも意見が分かれ、将来的にも解決が与えられる見込みもない。まさしく、McGrath夫妻が「多くのクリスチャンたちは、ジレンマに直面している」と述べている通りである。さらに続けて、彼らは語っている。

  「人々は、自分自身についてはっきりと積極的に見るように促すクリスチャン文章家たちのグループと、自分自身について否定的に見るように求める別のグループに直面している。しかしどちらが正しいのか。」[5]

今日、牧師や教会のリーダーたちが、Self-loveSelf-esteemなどについて、聖書的に、神学的に、学ぶことは重要なことであろう。また、このことは、カウンセリングを求めて来る人々に対して適切に応答するための良い備えにもなると思われる。

 初めに、私たちはSelf-loveSelf-esteemやその他の類似概念)についての聖書的、神学的考察を試みる。そのあとで、この理解に基づきながら、Self-loveSelf-esteemなどについて取り扱っている文献のいくつかを批評してみたい。



[1] この小論文は、1994年にTrinity International UniversityD.Min.)の「An Integration of Theology and Psychology」というクラスで、Warren J. Heard博士に提出したもの(“In Search of a Genuinely Christian Integration of Self-Love: A Biblical View of Self-Love”)を翻訳し(論文そのものは、あくまでも北米のコンテキストの中で準備したものであり、一応、英文に沿った翻訳でありますので、文章のぎこちないところはご了解下さい)、これにいくらか加筆したものである。福音主義神学33号の特集テーマが「牧会カウンセリング」ということでもあり、合わせて参考にしていただければと思った次第である(『福音主義神学会:中部部会会報4号』に掲載させていただいたものに、目次と表紙をつけ、ワーダン・スピリットの会から出版させていただいた)。

[2] 本書は、ブリティッシュ・コロンビア州の教育省が出しているもので、州内の学校、その他の教育関係者が、州の定める教育原理を理解し、それを実行するように準備されたガイドラインである。

[3] Year 2000: A Framework for Learning (Victoria, Canada: Ministry of Education, 1990), 3.

[4] Paul C. Vitzは、学校教育におけるSelf-esteemの強調に関わる問題を取り上げている(Psychology as Religion: The Cult of Self-Worship [Grand Rapids: Eerdmans, 1977], 16-20; 68-83)。また次のものを見よ。Jay E. Adams, The Biblical View of Self-Esteem, Self-Love and Self-Image (Eugene, Oregon: Harvest House Publishers, 1986), 7-15. James Dobson, Hide or Seek (Grand Rapids: Fleming H. Revell, 1979), 186.

[5] Joanna and Alister McGrath, The Dilemma of Self-Esteem: The Cross and Christian Confidence (Wheaton: Crossway Books, 1992), 10.


TopPageに戻る