Walter L. Liefeld著:Interpreting the Book of Actsの全訳(Baker Booksから特別許可を得、限定300冊出版) 「編集者の序、(著者の)序、訳者あとがき」から使徒の働き解釈学:「使徒の働きをどう解釈するか」 |
信徒の方々にも読んで利用していただくために「解説書」を準備しました(2002年3月出版) 「最初の3頁」から 「使徒の働き解釈学」の解説: 渡辺 睦夫 Walter L.Liefeld: Interpreting the Book of Acts. Grand Rapids: Baker Books, 1995 「ワーダン・スピリットの会」出版 |
@ 「預言」についての様々な質問
A 論文の目的
2) 第一世紀における二つの書 5
@ディダケー(Didache)
Aローマのクレメンスによるコリント人への第一の手紙
3) 第二世紀における預言 8
@イグナティウス(Ignatius)の手紙
Aヘルマスの牧者(The Shepherd of Hermas)
とDialogue with Trypho (殉教者ユスティノス:Justin Martyr)
Bイレナェウス(Irenaeus)のAgainst Heresies
Cモンタニズム
4) 第三世紀における預言 21
@テルトゥリアヌス(Tertullian)
Aオリゲネス(Origen)
Bキプリアヌス(Cyprian)
Cノバティアヌス(Novatian)
5) 第四・五世紀における預言 28
@はじめに
Aアタナシウス、ディデュモス、エピファニウス、バシリウス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオス(Athanasius、Didymus the Blind、Epiphanius、Basil、Gregory of Nazianzus、Gregory of Nyssa)
Bクリソストムス(Chrysostom)
Cアウグスティヌス(Augustine)
Dこれまでのまとめ
6) 宗教改革者たちと預言 36
@はじめに
Aルター(Martin Luther)
Bカルヴィン(John Calvin)
7) 第十七世紀における預言 41
@ピューリタン(Puritans)
Aクェーカー(Quakers)
8) 第十八世紀における預言 44
@敬虔主義(Pietism)
Aメソジズム(Methodism)
9) 第十九世紀における預言 47
@19世紀について
Aプリマス・ブレザレン(Plymouth Brethren「創設者:ダービー:J.N.Darby」)
Bチャールズ・フィニー(Charles G. Finney)
Cドワイト・ムーディー(Dwight L. Moody)
Dメソジズムとホーリネス運動(Methodism;Holiness)
10)第二十世紀の聖霊運動(預言運動を中心に) 52
@ペンテコステ運動における預言
*
ペンテコステ運動のはじめ
*
20世紀初期の預言
*
20世紀中期の預言
*
現在の預言
*
まとめ
Aカリスマ運動における預言
*
カリスマ運動のはじめ
*
初期のカリスマ運動における預言
*
ウィルカーソン(David Wilkerson)の幻
*
現在の預言
B「新」カリスマ運動における預言
*
The Word of Faith/Positive
Confession運動(またはFaith-Formula神学)における預言
*
The Present-truth運動における預言
*
第三の波における預言
*
まとめ
11)結び 75
@ウォーフィールド(Warfield)の見解に対して
Aペンテコステ派(カリスマ派)・その他の見解に関して
Bさいごに
歴史の中の預言(預言現象・預言運動と預言の理解)
1)はじめに:[1]
@「預言」[2]についての様々な質問:
*ヘブル人への手紙は次のみことばで始まっている。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」「預言者」は、旧新約聖書時代に確かに存在し、神のみこころを人々に明らかにするという重要な役割を担っていた。では、それ以後の2000年の歴史において、預言(者)はどうなったのか。預言運動や預言現象のすべては消滅したのか。そのすべての役割は全うされたのか(例えば、新約聖書の完結とともに)。または、その内容と働きになんらかの変化が起こったのか。預言の賜物とともに、その他の奇跡的な賜物は、歴史的にどのようになったのか。さらに、これまでのキリスト教会の歴史の中で、「(ある種の)預言現象」が起こったと言われている例があるが、それはどのようなものであったのか。当時の人々はそれについてどのように考えたのか。またそこに、現代の、いわゆる預言運動、預言現象と共通するものがあるのか。かつての預言運動や現象から、現代の私たちは何を学ぶことができるのか。
*これらの質問は、ある一部の人たちの単なる興味本位の言葉ではない。これらは、非常に重要な課題や問題を含んでいて、多面的で注意深い取り扱いが求められると言えるだろう。「聖霊の超自然的賜物の消滅?」に関して、すでに、W&Sの会報(創刊号:「釈義的アプローチ:『超自然的賜物』は終わったのか?」)で釈義的な考察をしたが、今回は歴史的なアプローチで上記の質問について考えてみたいと思う。どうしても概観的で表面的な取り組みになり、質問のすべてに十分触れることはできないが、少しでも参考にしていただければ幸いである。
A論文の目的:
*この論文を準備するに当たり、筆者の念頭に二つの著述があったことをまず記しておきたい。それは、George H. WilliamsとEdith
Waldvogelの論文[3]と、B.B.WarfieldのCounterfeit Miracles(W&S会報6号参照せよ)[4]である。前者は、主に、異言の賜物について歴史的に取り扱ったものであるが、その詳細で学究的な取り組み(約50頁以上)から教えられることが多かった。しかし当時、自分なりに調べたところ、預言の賜物に関して上記に匹敵するようなまとまったものは他に見当たらなかった(あとで、David PytchesによってProphecy in the Local Church:A
Practical Handbook and Historical Overviewが出版されたが[5])。WilliamsとWaldvogelの論文のレベルにはほど遠いが、少しでもこれに近いものを準備したいと思った次第である。また後者に関しては(本論文の目的に直接関わっていることであるが)、Warfieldの他の多くの重要な著作の中にあって、少なくとも、本書の主張(「[超自然の] 賜物や奇跡は十二弟子たちの「使徒性」を証しするもので、あくまでも彼らに属するものである。したがってそれらは使徒時代とともに間もなく消滅した。ただし実際には、使徒たちによって特別に按手された人々が奇跡を行なったり賜物を行使すること [可能性] もあったので、賜物と奇跡の時代は第2世紀前半まで継続した」)についていろいろと問題を感じ、その真偽を歴史的に確認する必要を覚えたわけである。[6]
*本論文の目的は主に二つある。一つは、上記のようにWarfieldの見解を歴史的に吟味すること、もう一つは、2000年の歴史における預言活動や預言現象(と呼ばれるもの)を実際に概観することによって、ペンテコステ派(カリスマ派)・その他の専門家たちの間でも二つに分かれている見解(「賜物は一度完全に消滅したがキリストの再臨直前にもう一度回復する」、「賜物は時代によって増減するが基本的には全時代の教会とその成長にとって不可欠であり、この2000年の間存続している」)について、どちらが歴史的にふさわしいかを確認することである。
[1] これまでの歴史(1世紀―20世紀まで)において、特に重要だと思われる預言現象・運動(「預言」と呼ばれた、また、主張されたものも含めて)と預言理解、その他を扱っている。この小論文は、もともと1992年に提出した修士論文の一部として考えていたものであったが、論文の規定枚数を大幅に超えてしまうことになったため、第20世紀分のみを残して割愛した部分である(Mutsuo Watanabe, “An Examination of the
Phenomena of Pentecostal and Charismatic Prophecy and the Claims made for it,”
Th.M. Thesis, Regent College, 1992)。これまで、拙論の「1世紀―19世紀分」を翻訳して、ワーダン・スピリットの会会報1−11号(7号をのぞく)に、また「20世紀分」を会報8・9・10号の「『見分けることについての神学』をめざして」に掲載したが、これらをすべてひとつにまとめ、加筆修正した。なお、人名や地名などは、一部のよく知られているものを除き、ほとんどは英語のままにした(日本語名は、現在様々な表記がなされているが、ここでは『図説:キリスト教史 [園部不二夫著] 』などを参照した)。
[2] 最終的なものではないが、筆者の「預言」理解をCecil M. Robeck, Jr.のものを利用して述べておきたい。「預言は、次のいずれかの意味として説明されてきている:@聖霊によって一方的に(spontaneously)霊感され(促され導かれ)、ある特定の状況に対して語られた神のことばのこと;A聖書のみことばに基づいて語られたある種の講解説教のこと;B社会に対する、道徳的、倫理的性質をもった公的表明のこと。また時々、預言と言うと、将来の出来事に関する予測・予知的能力と考えられがちであるが、聖書の預言については、あくまでも『forthtelling(神のメッセージが明らかにされる)』が強調される。」筆者としては、上記の三つの意味のいずれかに限定できるとは考えていない(より広い理解をもっている)。Aは、現代において非常に重要な要素であると考えているが、預言を「(講解)説教」だけに絞るつもりはなく、一般信徒の間でも預言的な賜物の行使は、意識的に無意識的に、存在しうると考える。また、何よりも、@にあった「spontaneous」な面も重視したい(参考:”Gift of
Prophecy,” in Dictionary of Pnetecostal
and Charismatic Movements, Stanley M. Burgess and Gary B. McGee, eds.,
(Grand Rapids, Zondervan: 1988, 728-40)。
[3] “A History of Speaking in Tongues and
Related Gifts,” in Michael Pollock
[4] Counterfeit
Miracles (Edinburgh: The Banner of Truth, 1986)
[5] 本書は、1993年に出版され(London, Sydney, Auckland: Hodder and
Stoughton)、内容的にはより一般的なものになっているが、本論文で扱っていないこと(特に、16−17世紀のフランス、ドイツ、イギリスなどで起こった預言運動?)も含まれており参照されるとよい(歴史の部分は約70頁)。
[6] この問題については、当時、筆者の指導教授であったJ.I.Packer教授にも意見を求めたが、(筆者の記憶が正しければ)、筆者と同じ見解であったように思う。
目次
1)
この考察の重要性について: 2
2)聖書における「積極的な意味」のSelf-loveについて: 3
@
Self-loveやSelf-esteemは、Self-centredness やSelf-worshipと
同意語的に用いることができるのか。
3
A
聖書に「積極的な意味の」Self-loveがあるのか? 5
A:マタイ22章39節について:
B:エペソ5章28節について:
C:その他の聖書箇所から:
D:結論:
3)
「積極的な意味」のSelf-loveの聖書的な枠組みについて: 9
@
聖書的なSelf-loveの源と土台は、神とその愛である。 9
A
聖書的なSelf-loveはキリスト中心である。 11
B
Self-loveは聖霊の働きと密接であり、分けることができない。 12
C
Self-loveは、何よりも教会生活の枠組みの中で理解される必要がある。 12
D
Self-loveは終末的な恵みと望みの中に位置づける必要がある。 13
E
Self-loveはゴールではない。 14
F
私たちは、Self-loveの様々な危険に注意する必要がある。 14
G
Self-loveは、神の子どもたちの歩みに有益であり助けとなる。 15
A:私たちのSelf-loveは、Self-surrenderやSelf-commitmentと
共存するものである。
B:Self-loveと罪との関係について
C:神の子どもたちの歩みにおけるSelf-loveについて
H
ひとつの結論: 16
4)
Self-loveやSelf-esteemに関するいくつかの文献を批評する。 17
@
Jay E. Adams: The Biblical View of Self-esteem, Self-love and
Self-image (Eugene, Oregon: Harvest House Publishers, 1986) 17
A
Walter Trobisch: Love Yourself
(
Intervarsity Press, 1976)
19
B
John MacArthur: “Counseling and the Sinfulness of Humanity,”
in Introduction
to Biblical Counseling (Dallas: Word, 1994) 20
C
David A. Seamands: Healing for Damaged Emotions (
Victor Books, 1989)
21
D
Martin and Deidre Bobgan: Psychoheresy:
The Psychological Seduction
of Christianity (Santa Barbara: Eastgate
Publishers, 1987) 22
E
James Dobson: Hide or Seek
(Grand Rapids: Fleming H. Revell, 1979)
24
5)結び:セルフ・ラブ(Self-love)の聖書的統合を求めて 25
セルフ・ラブ(Self-love)の聖書的統合を求めて[1]
渡辺 睦夫
1)この考察の重要性について:
セルフ・ラブ(Self-love、Self-esteem、Self-acceptance、Self-actualization、Self-fulfillment、Self-realization、Self-confidenceなども)は、現代の私たちにとって重大な関心事の一つであり、日本においても、北米においても、様々な領域に大きな影響を与えている、見過ごしにできない課題であると思われる。10年以上前になるが、カナダのブリティッシュ・コロンビア州である出来事が起こった。それは、あるクリスチャンたちが、教育省から出されたYear 2000: A Framework of Learning(教育指導要綱)[2]の内容に反対して、子どもたちを公立学校から引き上げさせたのである。彼らによると、教育省が学校側に求めた教育方針の中に、Self-esteem(自己尊重)の過度な強調があったということである。例えば、その文書の3頁にはこのように記されている。
「…Self-esteemは、学校教育において絶えず育んでいかなければならないことである。両親や教師たちは、子どもたちが肯定的に自分自身を考えること(Self-concept)ができるように助けを与えるというさらにより良い働きをする必要がある。こうして彼らは、より多くの機会を通して自分たちの潜在能力に気づくようになるのである。」[3]
また、生徒たちやその両親たちに報告する成績に関して、教師たちに次のように求めている。「同じ教師が教えている他の生徒たちと比較して、その生徒の成績内容を明らかにすることは、それがあったとしても、できるかぎり避けなければならない。」(11頁)。学校教育におけるこのような強調は、果たして本当に意味のあるものなのか。現代社会におけるある種の倫理的向上のために本当に役立つものなのか。[4]また、このような教育や社会は、私たちクリスチャンの伝道や証しにどのような影響を与えるのか。
Self-loveやSelf-esteemについてどのように考えるかに関して、クリスチャンたちの間でも意見が分かれ、将来的にも解決が与えられる見込みもない。まさしく、McGrath夫妻が「多くのクリスチャンたちは、ジレンマに直面している」と述べている通りである。さらに続けて、彼らは語っている。
「人々は、自分自身についてはっきりと積極的に見るように促すクリスチャン文章家たちのグループと、自分自身について否定的に見るように求める別のグループに直面している。しかしどちらが正しいのか。」[5]
今日、牧師や教会のリーダーたちが、Self-loveやSelf-esteemなどについて、聖書的に、神学的に、学ぶことは重要なことであろう。また、このことは、カウンセリングを求めて来る人々に対して適切に応答するための良い備えにもなると思われる。
初めに、私たちはSelf-love(Self-esteemやその他の類似概念)についての聖書的、神学的考察を試みる。そのあとで、この理解に基づきながら、Self-loveやSelf-esteemなどについて取り扱っている文献のいくつかを批評してみたい。
[1] この小論文は、1994年にTrinity International University(D.Min.)の「An Integration of Theology and Psychology」というクラスで、Warren J.
Heard博士に提出したもの(“In Search of a Genuinely Christian Integration of
Self-Love: A Biblical View of Self-Love”)を翻訳し(論文そのものは、あくまでも北米のコンテキストの中で準備したものであり、一応、英文に沿った翻訳でありますので、文章のぎこちないところはご了解下さい)、これにいくらか加筆したものである。福音主義神学33号の特集テーマが「牧会カウンセリング」ということでもあり、合わせて参考にしていただければと思った次第である(『福音主義神学会:中部部会会報4号』に掲載させていただいたものに、目次と表紙をつけ、ワーダン・スピリットの会から出版させていただいた)。
[2] 本書は、ブリティッシュ・コロンビア州の教育省が出しているもので、州内の学校、その他の教育関係者が、州の定める教育原理を理解し、それを実行するように準備されたガイドラインである。
[3] Year 2000: A Framework for Learning
(Victoria, Canada: Ministry of Education, 1990), 3.
[4] Paul C. Vitzは、学校教育におけるSelf-esteemの強調に関わる問題を取り上げている(Psychology as Religion: The Cult of Self-Worship [
[5] Joanna and Alister McGrath, The Dilemma
of Self-Esteem: The Cross and Christian Confidence (Wheaton: Crossway
Books, 1992), 10.