『ワーダン・スピリットの会:会報:創刊号(300円)』

*もし何かの目的で引用されたりされる時は、その前にご一報下さい。なお、“ギリシャ語フォントGRAECA”がインストールされていないパソコンでは、正しく表示されない部分があります。PDF版をご利用下さい。

 W&S「会報」・創刊号の目次

1)*「創刊の言葉」に代えて:「忘れられない二つの出来事」      … 2頁〜

  *一般向き、 **牧師、伝道者向き

2)**釈義的アプローチ:「超自然的賜物」は終わったのか?      … 5頁〜

3)*「聖霊論」の歴史的概観(その1):宗教改革まで         …11頁〜

4)**歴史に見る預言現象と預言運動(その1):第一世紀       …16頁〜

5)甘辛文献紹介(その1

 @*「21世紀への対話:福音派とペンテコステ・カリスマ派の明日」内田和彦、万代栄嗣著                                    竹田亮一    …20頁〜

 A*「聖霊の?がわかる本」万代栄嗣著     渡辺睦夫       …23頁〜
  
 B**「混迷の中のキリスト教(櫻井圀郎 訳):
    Charismatic Chaos
John MacArthur著    渡辺睦夫       …24頁〜

C*「全うされて一つとなる」山本杉広著    渡辺睦夫      …28頁〜

D**「使徒の働き解釈学(渡辺睦夫 訳):

Interpreting the Book of ActsWalter L. Liefeld著 渡辺睦夫    …29頁〜

6)ワーダン・スピリットの会(Word & Spirit [W&S])の説明とご案内

…34頁〜
7)ワーダン・スピリットの会(Word & Spirit [W&S])の方針(抜粋):2001:9                          …35頁〜

8)主宰者、協力者の紹介                       …38頁〜         















(*)創刊の言葉に代えて:「忘れられない二つの出来事」

 

第一の出来事:

1977年に神学校を卒業し、岐阜県で牧会伝道をするようになりました。スイスからの宣教師夫妻によって開拓された教会を受け継いで数年間奉仕をさせていただき、1982年に教会の長年の祈りの結果として、それまでの教会(約40人の活動会員)を二つに分け(地理的に)、二つの教会として新たに出発するように導かれました。ところが、二つの教会の活動が始まって間もなく、主日礼拝の初めに、ある方の掛け声とともに、6―7人の兄弟姉妹(求道者も)が突然立ち上がり、教会堂から出ていってしまわれたのでした。彼らは伝道熱心で主を愛している兄弟姉妹たちでしたし、教会の再出発にはどうしても必要な核となる存在だと思っておりましたので、そのショックは本当に言葉に表せないものでした。とにかく、その日の礼拝は、残された兄弟姉妹たちと祈りつつなんとか守ることができました。その後しばらくして、出ていった兄弟姉妹たちがペンテコステ・カリスマ運動に影響を受け、隣町で集会を始めていることを知りました。それまでの彼らの動向について、全く無知であった自分自身を責めたり、彼ら自身というよりも、彼らに「悪」影響を与えたであろうペンテコステ・カリスマ運動を憎く思ったものでした。手に入れることの出来たペンテコステ・カリスマ運動に関する資料は多くはありませんでしたが、それらを読みながら、ますます自らの(また自分たちの)神学的立場(反ペンテコステ・カリスマ)をつくり上げていきました。出て行かれた兄弟姉妹の集まりは、その後二つに分裂し、更に一方のグループ(教会)は無くなってしまったようです。・・・今の私としては、彼らが今どこに住んでおられようと、その信仰が守られ、神の子どもとして歩み続けて行かれることを心から願っております。

 

 

第二の出来事:

いつから、留学のことを考えるようになったか、また聖霊論の学びをもっとしたいと思うようになったか、はっきりしたことは覚えていません。ただ、どうして聖霊論の学びに関心をもつようになったのか、その理由をいくつかあげることが出来ます。第一に、上記の苦しい経験をきっかけにして、私はご聖霊に関する様々な学びをするようになりました。最初は、ただ自分の立場を正当化するために学んでいたのかも知れませんが、学び続けていく中で、ご聖霊についての関心が大きくなっていったと思われます。第二に、これは第一の理由とつながっていますが、ご聖霊や聖霊論に関する資料は、日本で非常に限られており、証しと体験だけか、昔から少しも変わっていないような(堅くて古臭い)神学的説明ばかりでした。こうして、自分なりにもう一度聖書からご聖霊について学びなおしたいと強く思うようになりました。第三に、礼拝メッセージに関して、私は神学校卒業以来ずっと連続講解説教を続けておりました。しかし、そのような中でもっとも難しかったのが「使徒の働き」の説教でした。使徒の働きの中で起こっていること、体験されていることをどのように解釈し今の時代にどのように適用したらいいのかという問題がありました。

さて、1987年3月末、自らが牧会する教会の新しい一年の歩みに備えて近くの山に登り祈っておりました。そのような中で、神様は私に「あなたの祈りは聞かれた!」と言って下さいました。それが「声(?)」だったのか、インプレッションのようなものであったのかよく分かりませんが、とにかく、突然私の心の中に、この言葉(インプレッション?)が飛び込んで来たのです。「あなたの祈りは聞かれた!」―――それが何を意味しているのか、その時の私にはすぐ分かりました。それは私が長い間祈り続けていた「留学の道」を神様が開いて下さるということでした。このことのために山に登り祈っていたのでは全くないのですが・・・。しかしその時、私は思わず神様にこう叫んでしまいました。「神様、待って下さい。それはありえないことです!」そして、私は神様に向かって私の祈りが聞かれるはずがないという理由をいくつも挙げたのです。第一に、二番目の息子が重い心臓病であると共に他にもいろいろな健康的問題があること、第二に、これまで十年牧会伝道を続けて来た自分の教会から離れられないこと、第三に、留学に必要なお金がないこと、第四に、英語の準備が出来ていないことなどです。

しかしこれに続く一年の間に、神様は不思議な方法ですべての準備を整えて下さり、1988年4月に、カナダのバンクーバーに出発したのです。その時、バンクーバーにはほとんど知り合いもなく、どのようにバンクーバーで生活してよいか分かりませんでした。しかし幸い、義兄(大和カルバリーチャペルの大川縦道牧師)の紹介で、竹田亮一先生(当時、カリスマ派のホワイトロック・コミュニティチャーチの牧師:教育担当)がわざわざ飛行場まで迎えに来てくださったのです。それから竹田先生を通して、先生の教会のメンバーの家に一ヶ月半ホームステイをさせていただき、そこで毎週開かれるスモールグループなどに参加するようになりました。またもちろん、主日礼拝にも出席させていただきました。不思議なことですが、日本においてあれほどペンテコステ・カリスマ問題で苦しんできた私でしたが、今度はカナダで一年半以上に渡って「カリスマづけ」にあったのです。更に子供たちも、カナダにいた七年間、この教会の学校に通いました。また竹田先生を初め、ホワイトロック教会の沢山のメンバーと知り合い、多くの友を得ることが出来たことは神様の恵みでした。しかも私が学んでおりましたリジェント・カレッジは、様々な背景を持つ教師たちの集まりで、ペンテコステ・カリスマ派の神学者としてよく知られている人たちもいました。Gordon Fee(新約)、Michael Green(新約、伝道学)、Peter Davids(講師:新約)などがそうです。教師たちがそれぞれの違いを超えて、神のみことばを基に一つとなっている姿は学生たちにも大きな影響を与えていたと言えるでしょう(私もその一人です)。第二の出来事がずいぶん長くなってしまいましたが、とにかく、竹田先生を初めとして、ペンテコステ・カリスマ派(第三の波も含めて)の兄弟姉妹との主にある交わりを通して、多くの良いものを実際に体験させていただくことが出来ました(カナダでの学びや生活を通して受けた恵みについては、別の形でもっと詳しくお証し出来ればと思っております)。

 

 

まとめ:

第一の忘れられない出来事はペンテコステ・カリスマ問題であり、私にとって苦くてつらい経験でした。そしてその時は分かりませんでしたが、これが、少なくとも、次のステップのための大きなきっかけになったことは間違いないでしょう。そして第二の忘れられない出来事の多くもペンテコステ・カリマスに関わっていて、それは癒しの時、回復の時であり、交わりと発見、そして学びの時でした。この様な形で、二つの相反する(?)経験をされた方はそれほど多くはおられないのではないでしょうか。それだからこそ、この二つの経験にあずかってきた者として、どちらの経験も主からのものとして受け止め、この恵みを皆さんにお分かちさせていただければと思っております。 主の御名を賛美します!

                                        渡辺 睦夫

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(**)釈義的アプローチ:「超自然的賜物(例えば預言の賜物)」は終わったのか?

 

1)1コリント13:8―13を釈義する[1]

「超自然的賜物」が廃れてしまったのかどうかに関わると思われる聖書のみことばは多くはない。この点で最も重要な聖書個所は1コリント13:8―13であると思われる。[2]

 

@12431節と13章1―7節の文脈

12:4―31の文脈:ここでパウロは14章における彼の結論に向かって新しいステップに入って行く。聖霊の賜物の源が一つであることを教えると共に、それ故に賜物の多様性と調和の必要性を強調している。31節の前半で、パウロはコリント教会の人々に「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と勧めている。それは何よりも、人々が預言の賜物を求めることを意味している(14:1を見よ)。そして31節の後半では、13章で示される「さらにまさる道」に人々を備えている。

13:1―7の文脈:パウロはここで、彼の中心的な主題から脱線しているように見えるかもしれない。しかしこの個所は、パウロのこれまでの教えの流れと完全に一致しており、聖霊の賜物についての彼の取扱い(12章1節―14章40節)の重要な局面を示していると言える。なぜなら、パウロはここで、聖霊の賜物を用いる時にどうしても必要な「愛」の必要を人々に訴えているからである。この愛による「さらにまさる道」と、例えば、預言の賜物による「よりすぐれた賜物」とは対立しているのではない。パウロは前半で、愛の必要を訴え(1―3節)、愛の特徴を列挙している(4―7節)。そして最後に、愛の永遠性を説いている(8―13節)。

 

 A8節について:

138節: @H ajgavph oujdevpote pivptei::パウロは、4章21節、8章1節をのぞいて、これまでにajgavphという言葉を用いて来なかったが、13章に入って突然、ajgavphを繰り返し使っている(13:1、2、3、4、4、8、13節)。確かにパウロはここで愛の必要性を強調し、真の愛は何かを語り、コリントの人々の心に愛の卓越性を示している(12章31節、13章全体、14章1節)。しかしパウロはこの章において、単に、愛そのものの素晴らしさを語っているのではない。彼には別の目的がある。つまり13章で、コリントの人々に愛をもってふさわしく聖霊の賜物を用いるように教えているのである。

ei[te de; profhtei'ai, katarghqhvsontai: ei[te glw'ssai, pauvsontai: ei[te gnw'si", katarghqhvsetai. パウロは、接続詞(ei[te)を用いて三つの賜物を列挙している。そのうちの第一と第三の賜物には動詞(katargew)来ていて(未来形、受動態)、その意味は「終了する、亡くなる」などである。第二の賜物にはpausontai(未来形、中態)が来ている。それゆえに、ある人々はこの動詞pausontaiが中態になっていることに着目して、第二の賜物である異言は預言や知識(第一、第三の賜物)よりも早くすたれると主張する。[3]しかしながら、D.A.カーソンが的確に指摘しているように、そのような見方の根拠はほとんどないといえる。つまり新約聖書全体において、この動詞はいつも中態で用いられており、「自分で、ひとりでに終る」という意味はない。[4] パウロがこの動詞pausontaiを使う時、何か特別な意図があったとは思われない。

 

B13章9−13節について:

9節の初めに「理由のga;r(なぜなら)」があって、それ以下で8節の賜物が廃れる(やむ)ことの理由を説明している。つまり、10節でその直接的理由を示し、9節は、10節の準備をしていると言えるでしょう。

ejk mevrou" ga;r ginwvskomen kai; ejk mevrou" profhteuvomen:  o{tan de; e[lqh/  to;  tevleion, to; ejk mevrou" katarghqhvsetai.mevrou"には、主に二つの使い方がある。第一に、それは「全体の中の部分」を示すか、「全体と対比して、その一部」を示している(ルカ11:36;エペソ4:16)。第二に、それは「全体に対する意識が弱くなっているか、全くなくなっている状態での、ある部分」を示している(2コリント3:10;ローマ15:24)。910節においては、「全体とその一部」という意識がパウロによってはっきり示されていると言える。つまり、to; tevleionは、(to ejk mevrou"に対比されている。また10節の ejk mevrou" の意味は、Grudemが適切に論じているように、新約聖書の他の個所の用例と同様に、質的ではなく量的に理解することが出来る。こうして「部分的な知識や預言」の意味を、「完全なもの」に対する「不完全なもの、曖昧なもの」というのではなく、「部分であること(in-part-ness[5]」と理解するのがよりふさわしいと思われる。 また、9節と10節は一つになっているので、10節のmerou"も、9節のように理解することが望ましいと言える。

 

 C「完全なもの」とは?

to; tevleion「完全なもの」は、この段落において最も重要である。実際に、聖霊の賜物の継続に関する議論の中心は、この言葉をどのように理解するかにかかっていると言っても過言ではない。従って、この言葉の意味に関しては詳しく取り扱う必要があると思われる。

この節(この言葉)の解釈(理解)には、だいたい四つの可能性がある。[6]第一に、「この節は賜物がいつ終るかは何も示していない」という理解で、ここでパウロは、完全な何かが来ると不完全なものはいらなくなるという「一般的な真理」をただ語っているに過ぎないというのである。[7] この解釈に立つ人々は、e[lqh/ (仮定法、アオリスト)は格言、真理のアオリストであり、また katarghqhvsetaiの訳は「すたれる」ではなく「不要になる、力がなくなる、無効になる」とすべきであると考える。しかし、ここで重要なカギになるのは文脈である。果たして、10節を一般的な真理を語るものとして解釈できうるのか。しかしこのところの文脈は、「一般的」というよりも「非常に具体的である(specific)」と言わざるをえない。ここでパウロは、巧みにartitote (現在形と未来形)の対比を繰り返している。またさらに、「部分的に知っている」と「完全に知っている」、「完全なものが現われる」と「完全でないもの(部分的なもの)が消える」という明白な対比を用いながら、パウロは10節から11節までにおいて不完全なもの(部分的なもの)が消えること、また12節では完全なものの出現とともに起こる変化を明らかにしているのである。従って、完全なものが現われることと不完全なもの(部分的なもの)が消えることは、非常に具体的である(specific)と言えるのではないか。

第二の解釈は、「完全なもの」とは「教会の成熟、または一人一人のクリスチャンたちの成熟」をさしているというものである。[8] 確かに、新約聖書におけるこの言葉の用法は、しばしばクリスチャンの成熟に関連して用いられている。しかしすべての場合がそうであるわけではない(例えば、ローマ12:2)。またこの段落のどの節も、この解釈を支持しているようには見えない。11節でさえも(後の13章11節で取扱うように)、実際にはこの解釈を示してはいない。[9] 更に(to; ejk mevrou" は、to; tevleionと対比されながら「量的な意味」で用いられているので(新約聖書において、「未熟」の意味もない)、この点でもto; tevleionを「質的な成熟」の意味で考えることは難しい。

第三は、「完全なもの」とは、「新約聖書そのもの、またそれを通してあらわされている啓示全体のこと」であるという解釈である。[10]こうして、正典そのものが完結した時に聖霊の(超自然的)賜物はすべて終わると考える。これはキリスト教界全体に今でもかなりの影響を与えている見解にもかかわらず、釈義的には他の解釈と比べても、受け入れるのに最も困難な解釈であると言えるだろう。確かに、文脈から言っても、この「完全なもの」が「新約聖書を通して表わされた啓示の全体」を意味するというような暗示は少しもない。この点で、G.Fee教授は的確に次のように述べている。「パウロもコリントの人々もどちらも理解出来なかったようなことが、その個所の意味になることはほとんどない」[11]

では、「完全なるもの」とは何か。最後の解釈の可能性は、to; tevleionが「キリストの再臨」をさしているということである。[12]つまり、キリストが再び来られた時に、聖霊の賜物が終わるということである。確かにこの段落全体の文脈は、この重要な見方を支持していると思われる。第一に、11節にある例が示しているように、それまでの状態が完全になくなってしまうのである(それまでのものが消失することは、確かに再臨に結びついている)。第二に、私たちが「完全に知るようになる時」、「完全に知られる時」と言ったら一つしかなく(12節)、それは再臨を指し示していると言える。 第三に、「顔と顔とを合わせて」とは、私たちが再臨の時、イエスキリストを個人的に人格的に知ることを示しているのではないか。Carsonの次の言葉を受け入れることが出来る。「この言葉は、七十人訳聖書において、神の顕現を表すほとんど定式的な言葉で、それゆえに、ほとんど確かに、再臨において起こる新しい状態を指しているといえる。」[13]こうして釈義的には、最後の解釈を受け入れることが出来る。

 

 D131112節について:

13.11 o{te h[mhn nhvpio", ejlavloun wJ" nhvpio", ejfrovnoun wJ" nhvpio", ejlogizovmhn wJ" nhvpio": o{te gevgona ajnhvr, kathvrghka ta; tou' nhpivou. パウロはここで、二つの節(o{te「であった時」に導かれた節)を用いながら、それまでの状況の完全な消失を例証している。この場合文脈から言って、「こどもである」とか「大人である」とかを強調する必要はない。

13.12 blevpomen ga;r a[rti diV ejsovptrou ejn aijnivgmati, tovte de; provswpon pro;" provswpon: a[rti ginwvskw ejk mevrou", tovte de; ejpignwvsomai kaqw;" kai; ejpegnwvsqhn.パウロは、toteartiという対比的な表現を用いながら、もう一つの例を挙げている。しかし彼の強調は、11節のそれとは少し違っている。パウロは別の角度から見ているのである。つまり今、私たちはぼんやりと鏡を通してみているようであるが、その時には顔と顔とを合わせるように見ることが出来るのである。また今、私たちは部分的に知っているが、その時には完全に知ることが出来るのである。この句(provswpon pro;" provswpon「顔と顔とを合わせて」)の用法は、新約聖書にはないが七十人訳聖書から見て、主を個人的に見ること、また完全なものを経験することであると思われる。とにかく、パウロはここで今知っていることと、後で知ることとの違いを明らかにしているのである。

13:13:(省略)

 

2)1コリント13:8−13:釈義的アプローチのまとめ:

1コリント13章はパウロの脱線ではない。そのように見えるけれども、彼は別の観点から聖霊の賜物を扱っているのである。つまり、パウロは愛をもって教会(信者たち)が賜物を用いることを教えているのである。

8節において、彼はそれまで語ってきたこと(12:31;13:1−7、特に7節の「すべてを耐え忍ぶ」)と、これから語ろうとしていること(13:9−14:1、特に13節の「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」)とを結び付けながら、愛と聖霊の賜物の継続性を対比させている。また9節と10節において、パウロはなぜ聖霊の賜物がすたれるのか、その理由を示している。それは、再臨において完全なものが来るので、部分的なもの(in-part-ness)である賜物は要らなくなるからである。11節から12節において、彼は不完全なもの(部分的なもの)が廃れることと、再臨において私たちが完全なものにあずかることを例証する。確かに、これらの賜物は神様についての完全な知識ではなく、その一部を私達に与えるにすぎない。そういう意味において、賜物は「部分的なもの」である。また、やがて来る完全なものに比べたら、賜物を通して受ける知識は、ぼんやりと鏡を通してみているようなものであると言えるだろう。更に、賜物の継続期間に関しては、イエスキリストの再臨の時がポイントになっていると思われる。つまりその時、私たちは完全に知られるように、私たちも「顔と顔を合わせて」完全に知るようになるのである。私たちはもはやこれらの賜物を必要とはしない。最後の節のnuni de (時間の句ではない) は、この段落全体を一つの結論に導いている。ここで、パウロはもう一度、愛の卓越性と永遠性を強調している。この愛こそ(信仰と希望と共に)廃れることなく永遠に残るものである。最後に、彼は8節の初めで語ったことを繰り返し、次の段落の準備をする。確かに、愛の13章は、これに続く14章のパウロの教えに無くてはならないものである。

 

3)結論:「超自然的賜物」は継続している可能性がある!

@釈義的アプローチの結果(超自然的賜物の継続性)を大切にしたい。

*釈義(的アプローチ)がすべてではないが、これは私たちがとりうる最初の重要なステップであるといえる。そういう意味で、上記のアプローチを通して得られた結果を大切にしていく必要がある。また聖書の他の個所からも、釈義的に賜物の継続性を否定する明確な教えを見出すことはほとんど不可能だと思われる。

 *この結果を基にしながら、更に神学的に、歴史神学的に、実際的に議論を進めていく必要がある。これは最重要なテーマの一つであるので、これからもこの会報で継続的に取り扱って行きたい。

 

A1コリント13:8−13から教えられること:

*13:8−13から、私たちは超自然的賜物がすでに終わってしまったのではなく、今も継続している可能性があることを学んだ。そういう意味で私たちは、超自然の賜物に関して、いつも注意深くあるべきであるが、同時にもっとオープンであることも出来るのではないか。

*ただし、超自然的賜物の継続を主張する者たち(Non-cessationists)も忘れてはいけないことがある。パウロがこの所で一番強調していることは、「愛」の素晴らしさと永続性のことである。賜物のことではない。ある種の賜物をもっていることのゆえに、誇り高ぶっているコリントの人々に向かって、パウロは、愛をもって互いのために賜物を用いることを教えているのである。また、賜物の質的、時間的限界を強調しているのである。「あなたがたの賜物は無限のものではない!」つまり、どんなに素晴らしい賜物を持っていても、それは限りがある。誇りにならないということである(13:13)。私たちはこのメッセージを真摯に受け止めなければならない。 

                                    
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(*)「聖霊論」の歴史的概観(その一):宗教改革前まで

 

1:序

 現在をよりよく知る為に私達はしばしば過去を振り返る。この事は当然のことながら、聖霊論の学びにも適用されなければならない。なせなら、現在、ご聖霊に対する関心の高まりと共に、様々な混乱、問題、分裂がキリスト教界の中に起きているからである。確かに、聖霊論に関する歴史的な学びは、今の私達にどうしても必要な事である。この小論文の目的は、ご聖霊に関する様々な信仰と理解を歴史的に概観することである [これはもともと、1990?年に、J.I.パッカー博士に提出した小論文の一つを基にして準備したものである]

 

2:使徒達の時代から宗教改革へ(聖霊の神的人格を確認する)

@使徒達の時代から一世紀の終りまで:「聖霊論の源(seedbed)」

重要な点は、新約聖書の正典が確立されて行く中で、教父達がいかに使徒達の確かで豊かな聖霊信仰と体験を受け継いだかを見ることである。教父達の聖霊に関する直接的言及は、現存する資料からみると多くはないと言わなければならないが、彼らがほとんど無限の遺産を使徒達から受け継いでいたことを否定することは出来ない[14]G. Thomasは、当時の教会生活における聖霊の現実を指し示す明白な証言のいくつかを提示している: もっとも古い形の使徒信条、頌栄やその他の賛美、洗礼の時に用いられる三位一体を表す定式の言葉。[15]更にKaiserは、この時代に父、子、聖霊の神の一致、区別、同等についての理解と信仰がすでに明らかであったことを指摘している。[16]こうして、教父達の聖霊に関する確信と聖霊にある生活(旧約聖書の御言葉や洗礼の時の定式の言葉などと共に[17])が、すぐに来ようとしている神学論争に対する備えとなった。

 

Aニケア会議まで(325年):「聖霊の神的人格の確立に向かう」

聖霊に関する問題が大きくなり、これを明確にしていかなければならなくなった。Marcion(-160)や彼に従う人々をはじめとして、これまで教会が受け継いできたものに対する様々な異端的な考え、反論が現われてきた。このような中で、特に二つの運動、モンタニズムとサベリアリズムに注目する必要があるだろう。例えば、サベリアリズムのゆえに教会は聖霊の神的人格(そして、三位一体)についての明確な教理を形作って行くように導かれたと言って過言ではない。

モンタニズム(2世紀後半):この運動は、形骸化、形式化しつつある傾向の教会に対して、もう一度聖霊の臨在と力を強調していこうとするところから出てきたものと思われる。モンタニストたちは使徒達から与えられた超自然の賜物の回復を主張したり、[18]聖霊の導きを求める代わりに人間的なリーダーシップに教会が依存していることを問題にしたと言われている。[19]しかしながら、後にこの運動は極端な道に走るようになり、健全な聖書解釈を失ってしまった。最後に、コンスタンチノープル会議(381年)において、教会はモンタニスト達は異端であると宣言している。[20] Smeatonは、モンタニズムに対する当時の教会側の反論を次のようにまとめている。

 

    神の御霊からの更なる啓示を期待することは性急であり保証されるべきものではない。直接的啓示は光 の天使に化けた敵から出てきたものとみるべきである。教会自体の問題、不信仰のゆえに、教会は奇跡的な賜物を失ったとする主張するが、超自然の賜物は正典の完結の後も続けて与えられる恒久的遺産として教会に約束されてはいなかった。[21]

 

     モンタニズムは極端に走り異端となってしまったが、彼らが教会に対して投げかけた問題は、その後もしばしば繰り返され続けているといえるだろう(カルヴァンとリベルタンのグループ、[22]ピューリタンとクウェーカー、また敬虔主義者たちによって、ペンテコステ、カリスマ派によって):教会の組織化や教理の形成と人間の情緒面での満足、満たしや神様との直接的交わりへの渇きの関係、[23]また聖霊と聖書の関係、更には、聖書の正典が完結した後、教会は他の何らかの直接的啓示や預言的現象を期待すべきであるかなどである。[24]A.V.G.Allenは、次のように述べている。「フルギヤの妙な預言者は、すべての時代に関わる永遠の疑問を投げかけた。それは、18世紀経っても、なおより偉大な、または、最終的な調整(答え)を待っている。」[25]

サベリアリズム(200年頃):どういう意味で三つの神が一つであるのか。どういう意味で三つの神が区別されるのか。更に、どういう意味で三つの神は同等であるのか。教会は三つの神の一致、区別、そして同等を信じていたが、三位一体の神(聖霊の神的人格も含めて)についてのこれらの質問に、なお答える必要があった。こうして、教会教父達(特に、殉教者ユスチヌス、アイレナイウス、テルトゥリアヌス)は、三位一体の教理形成の難しさにおいて起こった混乱や分裂の中でこれらの問題と取り組んだ。[26]

教会に対するもっとも大きな反論の一つはモナキアニズム(特に、サベリアニズム、又は、様態的モナキアニズム)であった。これは歴史的に最初の反三位一体論で三位一体の神秘を、一人の神がいろいろな様態に表れたという考え、または、神ご自身においては、単なる様態的な区別があるだけに過ぎないという考えによって説明づけようとするものであった。[27]この主張に対して、特にテルトゥリアヌス(160年―225年推定)は問題解決の為の基礎をすえた。彼は論じている。「御子は父の次の方であるが、まことの神である。この方は(テルトゥリアヌスの言い方で)神からの神である。同じように聖霊も、父と子に対して第三のお方である。しかし、彼もまことの神である。こうして、父は神であり、子は神であり、聖霊は神であり、お一人お一人は神である」 テルトゥリアヌスは、同じ実体であるが、区別された人格を持つという概念から三位一体の基本的な特徴を確立した。父、子、聖霊は実態において一つであるが、数と順序において三つである。三つの神は区別されるが、相互に関係する人格のお方である。更に、三つの神の共通の本性のゆえに、その区別は三つの神の実体の分裂を引き起こすことはない。[28]アレスデア・ヘロンが言っているように、テルトゥリアヌスの考えには、なお、第一位格優越主義の強い傾向があるが、彼の働きは西方三位一体論形成に多大な影響を与えたことは事実であり、教会を次の神学論争に備えさせたといえる。また、trinitas, substantia, personaといったテルトゥリアヌスの言葉も急速に広まり、標準的な用語として用いられるようになった。[29]

 

Bニケア会議(325年)とコンスタンチノープル会議(381年)の間:「聖霊の神的人格の確立」

ニケア会議におけるアタナシウスとアリウスの論争の中心は、御子と御父の関係についてであって、聖霊に関する問題はまだ十分に提起されてはいなかった。それゆえ、会議においてただ簡潔に次のような言葉を用いて聖霊に対する信仰を表明するだけであった:「そして聖霊を(信ずる)」[30] しかしながら、会議の後、キリスト論に関する論争の継続と共に、聖霊の神的人格の問題も、当然のことながら問題にされるようになった。

第一に、アリウス(250ー336年)は、サベリアニズムの限界を認識し、今度はそれとは反対の観点から三位一体の神秘を取扱おうとした。つまり、彼や彼に従う人々は、三つの神の人格的な区別や同等性を否定し、第二、第三位格が、第一位格と全く等しい実体ではなく、従属的であることを強調することによって三位一体の一致性を破棄しようとした。確かに、三つの神の働きに関して言うなら、教会の教師たちはこれを認めなければならなかった。[31]第二に、マケドニウス(推定362年死亡)たち(セミ・アリウス主義)は、聖霊は父と御子に従う被造物であり、天使と同等のしもべであると主張した。[32]

以上の異端に対して、教会は沈黙してはいなかった。アタナシウス(296年―373年)、バジル(330年―379年)、Gregory Nazianzen (329年―389年)Gregory Nyssen(329年―389年)たちは、御子の神性を確立した同じやり方で聖霊の神性を明らかにした。聖霊の神的威厳、全能、偏在、全知を示す聖書の言葉や、何よりも、洗礼の時に三位一体の定式の言葉を用いた。[33]こうして、380年にGregory Nzianzenが、5つの神学的演説を通して、聖霊についての正統的な立場を表明した。[34]翌年彼の主張は、コンスタンチノープル会議において正式に受け入れられ、ニケア会議の信条に、聖霊に関して次のような付加がなされた:「(我は聖霊を信ずる。この方は) 主であり、いのちの与え主であり、父から発出された方、[35]また、父と子と共に礼拝されあがめられるお方、そして預言者達を通して語られたお方である。」[36]

 

Cヒッポのアウグスチヌスの時代において(354年―430年):「人間の全的堕落と聖霊の働きの必要」

50年以上前にイエスキリストの神性が確認されたように、今度は聖霊の神的人格に関する問題は一掃された。しかしながら、西方教会において、Pelagius (推定360年から)や、MarseillesCassian(推定360年―435年)たちから、新しい問題が起された。それは人間の救いに関することであった。人はどのように救われるのか。神の力(聖霊の働き)によってだけで救われるのか。あるいは救いの過程で人間の意志が働く場所があるのか。

第一に、ペラギウス主義者たち(5世紀の初め頃)は、聖霊の助け無しに、自由意志の力によって人間は神に回心、つまり、福音を信じることも、心から神の律法に従うことも、そして、罪の赦しと永遠のいのちを獲得することも出来ると主張していた。確かに、Pelagiusは聖霊の神性、三位一体を信じていたけれども、聖霊が人間の心に働かれるお方であるという理解は持っていなかったようである。[37]

第二に、セミ・ペラギウス主義が420年頃に現われてきた。そのリーダーであるCassianusは、人間の意志と神の御心が救いにおいて共同の働きをするという妥協的な見方を示すようになり、すべての人間は堕落によって罪深いものとなっており、人間の意志は完全には腐敗していないが弱まってしまっていると考えた。それ故に、彼は人間の自由意志は、救いの過程において神の恵みと共同に働くものであると主張した。[38]

しかしながらこれらの考えに対して、自ら、罪の泥沼の中からの救いを経験しているアウグスチヌスは、人間の完全な堕落と、救いやその他の宗教的な行為に対する神の恵みの絶対的な必要を強調した。こうして彼は、当然のことながら、人間の心に対する聖霊の内的働きかけの必要性を認識し、回心への第一歩は人間の力で踏み出すことが出来ると考えたセミ・ペラギウス主義に対して、「それこそ、一番難しいことを人間に、より難しくないことを聖霊に委ねていることになる」と反論している。[39]こうして、ペラギウス主義者(セミ・ペラギウス主義者)たちの考えは教会によって否認された。

 

D結論

この期間において、聖霊に関して、主に三つの注目すべきことが現われている。第一に、聖霊の神格(三位一体の神)の確立。第二に、救い(と信仰生活)における聖霊の働きの必要性。第三に、モンタニストによって提示された問題である。第一の点は、まさに、聖霊論の土台であり、後のプロテスタント、カトリック、ギリシャ正教の共通の土台になっている。第二の点は、この後の宗教改革で起こる聖霊論に関する重要な発展の土台となっている。第三の点は、教会史上にしばしば現われてきて教会にチャレンジを与えるものである。

                                                              
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(**)歴史にみる預言現象と預言運動(その一:第一世紀)

 

1)はじめに:[40]

預言現象、預言運動についての歴史的概観を通して、私達は次のことを考えていくことになる。新約聖書の預言はどのように次の世代に受け継がれていったのか。預言の賜物やその他の奇跡的な賜物は、歴史的に見て、どうなったのか。 もしあるとしたら、預言現象のどういうものが実際に起こり、それらについて人々はどのように考えたのか。それらの中に、現代の預言運動、預言現象と共通することがあるのか [この小論文は、1992年に修士論文の一部として準備したものを基にしている。]

 

2)第一世紀における二つの書

新約聖書と共に、第一世紀に書かれたと思われる二つの書から、私達は初代教会における活発な預言の働きと教会が抱えていた問題を見ることが出来る。二つの書とは、Didache (The Teaching of the Twelve Apostles) First Epistle to the Corinthians (Clement of Rome) である。

@ディダケー(Didach)は、第一世紀後半に記されたもので当時の状況を知る上で非常に価値のある書である。 [41]

著者は、洗礼や聖餐の教えの後で、使徒たちや預言者たちをどのようにもてなすべきかについて、いくつかの実際的な指示を与えている。[42]確かに、預言者(そして、使徒)の取扱いは重要なテーマとなっており、真の預言者に対して特別な敬意が払われているといえる。[43]またこの事は、当時の読者たちの教会の内外で求められてきたことであると思われる。

Didacheは、第一に、主の御名によって来るすべての人々、特に、使徒達、預言者達、教師たち(11:1、4; 12:1)[44]を受け入れるように教えている。この時、その人々は教えの内容、またその教えに対する彼らの行動と態度に基づいてテストされる。[45]また、著者は、真の預言者をどのようにふさわしくもてなすべきかについて実際的なすすめをしている。[46]

この書から、第一世紀後半において活発な巡回預言者(その他の人々も)の活動を推測することは難しいことではない。[47]同時に、私達は偽預言者や偽預言によってもたらされる様々な危険や問題についても推測することが出来る。さらに、預言者を見分ける時のテストの内容は非常に実際的であるが、しかしまた、新約聖書の教えとのつながりを見ることが出来る。[48]またこの書は、巡回預言者達 (ある預言者達は後に一つのところにとどまるようになった)と、教会を牧する監督たち(episkopoi)や執事たち(diakonoi)との間の調和を強調している。この事は、ひょっとしたら、当時すでに両者の間に混乱や問題が起こり、それが広まりつつあったので、両者の間にふさわしい関係が築かれることを訴えているのかもしれない。最後に著者が、この書において、profhtai,  apostoloi,  didaskaloiの用語をしばしば、ほとんど交換可能な形で(区別が全くないということではないが)用いていることは興味深いことである。[49]

私達はディダケーから超自然的な現象としての預言の具体例、また霊的な賜物の一つとして預言を理解する為のヒントのようなものを見出すことは出来ない。しかしこの書から、私達は預言運動に関する生き生きとした、また貴重な資料を得ることが出来る。こうして私達は、少なくとも一世紀の終り(又は、二世紀のはじめ)頃までは、教会が巡回預言者による活発で重要な活動を経験していたと結論づけることが出来るであろう。確かに、預言の賜物が様々な預言運動と共に、教会を建て上げるために使用されていたことを十分に推測することが出来る。[50]

 

A第一世紀の終りに記されたもう一つの書は、ローマのクレメンスによるコリント人への第一の手紙である。

この手紙は伝統的にローマの第三代監督のClementのものとされている。[51]彼はこの手紙をローマ教会の名前で公式の手紙として書いたと思われる。この手紙の目的は、コリント教会の中の混乱や争いを治め、恵みある秩序を教会内に回復することであった。

37章において、クレメンスは教会において互いが互いを必要としていることを強調して書いている。「大きな者は小さな者なしに存在することは出来ないし、小さな者は大きな者なしに存在できない。すべてのものの中にこのような混合があり、それによって相互の長所が表されるのである。」[52]彼はパウロのように人間のからだを例に用いて(ローマ12:4―5; 1コリント12:12―26)、「すべては、共に調和をもって働くもので、からだ全体を守るという一つの共通原理の下にある」と読者たちに訴えている。[53]こうして38章で、クレメンスはこの大切な真理の実際的適用を読者に求めている。また、へりくだって互いに仕えあうように励ましている。

クレメンスの手紙の中で特に注目出来ることは、次の言葉である。「イエスキリストにあって私達のからだ全体を守っていただきましょう。そしてすべての者たちは、それぞれに与えられている特別な賜物にしたがって自分の隣人に従いましょう (38章)。」[54]確かに、この「特別な賜物 kaqw" eteqh en tw/ carismati autou))」とは、文脈からみても、聖霊の賜物をさしている。特に、特別な賜物によって、隣人に従うということの意味は、賜物についてのパウロのすすめに呼応しているといえる。聖霊の賜物に関して、この言葉以外に何も見出すことは出来ないが、ローマやコリントの教会の内外において、少なくとも、パウロの教える霊的な賜物についての理解があったことを十分に推測することが出来ると思われる。

Didacheと比較すると、この手紙には預言的な活動の暗示は見出されない。しかし聖霊に関する第一世紀終りの教会の理解に関する貴重な資料を見出すことが出来る。この事は、まさに、聖霊の賜物と無関係ではない。クレメンスによれば、聖霊は、それまでの新約、旧約時代のように、その当時も働いておられたのである。ご聖霊のそれまでの働きについての言及は、2、16、42、45、47章にあり、またクレメンスの時代に働いておられたご聖霊については、22、46、58、63章に言及されている。確かに聖霊の臨在と働き(そして、その現われも)は、クレメンスやその当時の教会にとって、過去のことではなく、現在のことであり、彼らはこの方を十分に経験していたことが分かる。

The Subapostolic Ageにおいて、[55]聖霊や預言現象、預言運動の言及は少ない。しかしこのことから、「聖霊の働きの減少」と決め付けることは出来ない。実際に聖霊の働きが減少したのではなく、当時の文学的資料が少なかったともいえる。次の時代と比較して、この時代の教会は聖霊の現実や働きについての自分たちの理解や経験を文章化する必要をほとんど感じていなかったのかもしれない。ただし、使徒後教父達が無限の霊的遺産を保ち、聖霊(その現われも含めて)の働きを経験したことは否定できない。G. Thomasは当時の教会生活における神の御霊の現実についての明確な証しを証拠づけるものとして次のものを提示している。使徒信条の最も初期のもの、頌栄とその他の賛美、洗礼の時の三一論的表現などである。[56]

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甘辛文献紹介1:2001:9

 

@(*)内田和彦、万代栄嗣著 
  『
21世紀への対話:福音派とペンテコステ・カリスマ派の明日 
  (いのちのことば社、2000年、213頁、1200円)

    竹田亮一(ワシントン州ブレイン市:ブレイン・コミュニティチャーチ牧師)

 

評者自身は、高校生の頃に福音派の教会でクリスチャンとなり、20代中頃からカリスマ派のなかで信仰生活を送るようになった。過去25年間は、カナダとアメリカにおいてカリスマ派の教会において牧会に携わってきた。このような背景もあり、長い間福音派とペンテコステ・カリスマ派間の対話を願って来ており、この本を勧められた時にかなりの興味と期待感を持って読み始めた。

北米において、福音派とペンテコステ・カリスマ派の間のギャップは、個人的な違和感あるいは偏見を持っている人はいるとしても、最近、教会全体的には対立する雰囲気はなくなってお互いに受け入れあっていると言って良いと思う。カリスマ派の自由な表現を礼拝等に取り入れようとしている福音派の教会も多くなってきており、ペンテコステ・カリスマ派は福音派の神学的な堅実さをもっと取り入れなければという姿勢を見せて来ている。このような点について、日本はどうなのか知りたいという興味も持って本書を読んだ。

本書の対話は、全体的に、万代氏自身の「修正ペンテコステ主義」という表現にも伺えるように、ペンテコステ・カリスマ派が自分達の経験や主張をもっと神学的に考えるという意味で、あるいは主張を修正する意志を示すと言う意味で、かなり福音派に歩み寄る姿勢を示しておられ、内田氏も多少安心されたという印象を受けた。この点については万代氏の前向きな態度を評価したい。確かに北米においても若手のペンテコステ・カリスマ派の牧師たちの中では同じような考えを持っている人が増えてきている。このような傾向が現在の日本のペンテコステ・カリスマ派を代表した考え方であるかどうか知りたいものである。

万代氏が、「(ペンテコステ・カリスマ派は、)クリスチャン達が共通の言語として用いてきた神学的な土壌で語らなければならない」と言っておられるが、これが一番大きな課題の一つだと思う。これができればギャップは縮まると思う。例えば「聖霊のバプテスマ」あるいは「預言」などの言葉もペンテコステ派とそうでない者たちの間でそれぞれに違った定義をしている。しかし、もし双方が同じ定義を持った上で神学的に対話をしていけばお互いの理解は深まり、ギャップは狭まると思う。そのためにも本書の後半で語られる神学教育の問題が大切になってくると思う。

相互にかなりの敬意を持ってここにあるいくつかの課題について対話しておられが、ある面においてはもう少し突っ込んだ率直な対話をして欲しかった。とくに福音派とペンテコステ・カリスマ派の間には神学的に同意できないものがかなりあると思うが、そういう点についての神学的な対話が少ないのが残念である。なかでも啓示論と聖書の権威については重大な問題を持つものであると思う。福音派とペンテコステ・カリスマ派は双方共に聖書の権威とそれに関わる啓示論については同じような信仰告白を持っていると思うが、それらが実際の教会生活の中でどのよう反映されているかはそれぞれのグループの中でかなり違うものがあると思う。トロント・ブレッシングや預言(個人的預言)(「個人預言に見る現代の教会の姿」の章)を語るときに不可欠な問題点だと思う。実は、ここに両派の一番大きな相違の原因があると思うが、このような事について対話がなかったのは残念である。

万代氏が教会の分裂分派を宗教革命にさかのぼるプロテスタント教会が持つ本質として正当化しておられるように聞こえるのが多少気になる。この論は以前にもカリスマ派の牧師たちから聞いた事があるが、宗教革命当時のルターやカルヴィン達を動かしたものと現代のわたしたちの主張を本質的には同じだと言えても同等のものとする事は出来ないでしょう。実際に多くの分裂などを見てきたが、本質は未熟で、高慢な自己中心的な態度にあると思う。イエス・キリストの祈りは今も教会の一致だと思う。

後半の「福音と日本文化」という章において、いま、どの文化の中にある教会にとっても課題になっているいわゆるコンテクスチュライゼイションについて両氏が語っておられ励まされた。クリスチャンになったら日本人をやめなければならないというような以前からの考え方を改めなければという両氏の意見を歓迎したい。ただ古代の教会がやったからと言って、ただ単に日本の中にある文化・宗教習慣を教会行事に取り入れるのには疑問がある(p.123−7)。今の日本のキリスト教をまずディコンテクスチュライズして、つまり現在の日本のキリスト教から脱皮して聖書的キリスト教に戻り、その上で日本の現在の文化の中に福音をコンテクスチュライズする努力をする必要があると思う。それでもその段階においていかにシンクレティズム(混合)を防ぐかは大きなチャレンジであると思う。このコンテクスチュライゼイションのチャレンジはアメリカやカナダの教会も抱えている課題である。両氏とも、欧米の教会がキリスト教国の教会であり、一般の人の聖書の知識にしてもかなり有るように考えておられるが、今わたしたちが一番困っている問題のひとつは、現代の北米の文化の中における聖書に関する無知識の問題である。そういうポスト・モダンの文化の中で福音を効果的に伝えていくためには、わたしたちもコンテクスチュライゼイションを考えなければならない。

最後に、「教会のありかた、牧師と信徒」の章における万代氏の牧師のリーダーシップに頼る教会観については非常に残念だと思った。この問題はアメリカの教会と日本の教会の土壌の違いの問題ではなく、むしろ聖書的教会観の問題であると思う。牧師のレベルアップという観点からの「プロの牧師」という意図はよくわかるが、それによって教会内に、牧師と信徒の地位の差ができるのが心配されるし、教会員が(牧師の働きは)プロ級の働きでなくてはだめだと思ってしまい、いよいよ牧師に依存してしまうのではないだろうか。この点においては内田氏の考え方にもっと注目すべきであろう。教会は神の民の集まりであって、一人一人がそれぞれの役割を果たすところにはじめて存在する。これはパウロがしつこく何度も言っている事でもあると思う。

内田氏と万代氏がどこまで両派の意見をそれぞれに代表しておられるか、見解は分かれるであろうが、両氏双方、建設的に気持ちよく対話しておられ、それぞれに日本の教会のきょうと将来を考えておられる事を示す本である。多くの人(とくに牧師の方たちや指導者の方たち)にこの対話を読んでもらいお互いを理解すると共に、両者の間の共通点を知り、日本の教会の一致に希望を持っていただきたい。そのために本書の対話を皆さんにお勧めする。

 

ブレイン・クリスチャンフェローシップ

竹田亮一

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A(*)万代栄嗣著 聖霊の?(はてな)がわかる本 
   日本伝道出版、1999年、166頁、1200円

 

 

@もし私がペンテコステ派教会の牧師であったら、真っ先に、この本を信徒の方々にお勧めしたことでしょう!

これまで牧師の子どもとして、また牧会者として体験して来られたことと聖書そのものから学んで来られたことをバランスよく混ぜ合わせておられる良書である。個人的に言えば、ペンテコステ派でなくても、ほとんどの個所に納得がいくと言ってもよいだろう。

著者が奉仕しておられる教会の信徒の方々のために、平易に熱情込めて、教えておられることが伝わってくる。特別目新しい教えはないが(なくていい)、必要なこと、重要なことがよくまとめられている。特に、これまでの様々な経験(苦く厳しい経験も)を踏まえて、聖書のみ言葉の大切さ、三位一体的バランスの必要性、ご聖霊と教会(のからだ)との非分離性などが強調されている。

本書は六章からなり次のようである。約束の聖霊、聖霊の力、もう一人の助け主、聖霊が働かれる時のしるし、「アバ、父よ」と呼べる御霊、御霊の賜物と教会。特に、お勧めしたいのは第6章である。

A少し理解の違うところ??

すべてを取り上げることは出来ませんが、そのうちに幾つかを例に挙げたいと思います。

本書30頁以降で、使徒の働き1章後半における弟子たちの「弱さ」が強調され、それと対比的に、使徒の働き2章の聖霊降臨によって弟子たちが「強くされた」かのように説明されている。果たして使徒の働き1章の弟子たちは本当に「弱かった」と言えるのでしょうか。少なくとも、ルカの意図において、そのような明確な対比があったとは思えません。

本書63頁以降の三一の神の説明を読みながら(他のところからも)、やや様態論的なニュアンスを感じてしまいます。これは、評者が三一の神について考える時に、まず「一」から「三」ではなく、「三」から「一」に入っていくので、そのように思ってしまうのかもしれません。

本書125頁以降で、「御霊による祈り」と「御霊の祈り」が区別されて扱われていますが、果たして著者の言われるような明確な区別が当時のクリスチャンたちの間で意識されていたのでしょうか。牧会者として、信徒の方々のために便宜的に区別して、このように説明することはありえるかもしれませんが、文法的に見ても、神学的に言っても、これらの二つの祈りは同じか、ほとんど同じであると言ってもいいのではないでしょうか。まして、「御霊の祈り(その多く)が異言である(になる)」という説明には、少なくとも聖書的な根拠はないと思います。

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B     (**)ジョン・F・マッカーサー、Jr.著、 櫻井圀郎訳 
      混迷の中のキリスト教 日本長老教会文書出版委員会、
                 1997年、287頁、2500円

 

 

原書の題名はCharismatic Chaos(1992年、Zondervan)であるが、これと共に、1978年にすでに出版された同著者によるThe Charismatics:A Doctrinal PerspectiveZodervan)にもふれてみたい。

@ The Charismatics:A Doctrinal Perspectiveについて:

本書は17の質問に答える形で出来ている。例えば、「聖書の意味をどのように知ることが出来るのか?」「経験は神のみことば以上に重要なのか?」「奇蹟は規範となるのか?」「本物と偽物をどのように区別するのか?」「聖書は異言について何といっているか?」「聖霊に満たされるには?」などである。著者は、この時アメリカの内外で急速に広まりつつあったカリスマ運動(1960―70年代)について聖書に基づきながら再吟味を試みている。「経験が聖書の真理をテストするのではない。聖書の真理こそが経験を吟味する最終のものになる(14頁)」とあるが、まことにその通りで、私たちのW&Sもこれに立つこと無しに存在意義はないと思っている。そしてもう一つ。それが本当に「聖書の真理」なのか、ただ「聖書の真理と思っている」だけなのか。この事についても吟味され続けていく必要があるだろう。

Charismatic Chaosは、内容的に、その前に出版されたThe Charismatics:A Doctrinal Perspectiveをほとんどカバーしていると言えるが、17章の「What Can We Learn from the Charismatic Movement?」は特に興味深いかもしれない。マッカーサーはこの中で、福音派がカリスマ運動から学ぶべき9つの点を挙げているからである。例えば、「死せる正統主義は温かさのある命あふれる神との交わりの代わりには決してならない」「聖書は生きて働いている」「感情は真理によって導かれるべきであるが、同時に真理は感情を抑圧してはいけない」「私たちは礼拝に積極的に参与する必要がある」などがある。どうしてこれらのことがCharismatic Chaosには含まれなかったのか理由は記されていないが(結びとして、「カリスマ運動への対処」について簡潔に記しているが)、この15年間に、著者自身が想像していた以上にCharismatic Chaosが蔓延し危機感を抱くようになったからかもしれない。

 

A Charismatic Chaos, John MacArthur,Jr.,櫻井圀郎訳『混迷の中のキリスト教』について:

前の書(The Charismatics:A Doctrinal Perspective)との違い:前の書が出版されてから15年間に、更にカリスマティックな様々な運動(これらのすべてをカリスマ運動と言えないが)が起こったり広がったりしたので、マッカーサーは、前の書で明らかにしたことを用いつつ、更に「現代の預言運動、第三の波、Word of Faith運動など」についても詳細に取り扱っている。

本書の「タイトル」について:これは、カリスマ運動を中心として広く福音派内に蔓延している神学的、霊的混迷状況を示しているようである。

初めに:本書を一読して明らかなことは、これは典型的なディスペンセーション神学(Progressive Dispensationalismと同じではない)に基づくセセーショニスト(Cessationist)としての論究である。

 

1章「体験と真理」:「体験ではなく、聖書のみことばこそが真理を測る土台になる」ことをマッカーサーはまず強調している。このことは福音派のほとんどが認め賛成する最も重要な原理の一つであり、福音派そのものの骨格であるとも言える。本書では、しばしばこの原理に反対する者たちとしてカリスマ派の見解が引用されているが、実際にはカリスマ派の多く(ペンテコステ派のほとんども)も、これを原則的に認めるに違いない(少なくとも日本のカリスマ派はそうではないか?)。ただし、マッカーサーの引用した例や議論の進め方には満足しないだろう。また、1章で提示されている原理は、これに続く各章の方法論的基盤として、まず初めに確認していると言ってもいい。もしこの章において、不十分な点があるとしたら、少なくとも次の二点を指摘出来るだろう。第一に、2ペテロ1章16節以下の解釈、適用の問題(31頁以下)がある。マッカーサーは、特に19節を、「体験とみことば」に当てはめ、しかも体験に対するみことばという風に両者を対比的に解釈しようとしている。しかし文脈から見て、この両者を対比ではなく並置して理解するほうがふさわしいのではないか(例えば、Richard Bauckham, Jude, 2 Peter, WBCを見よ)。また著者がここで試みている適用も果たして適切であろうか。第二に、第一章だけではないが、ここで引用されているいくつかの例は、極端で批判しやすいものばかりが選ばれていると思わざるをえない。

2章「神の啓示と現代」:聖書の啓示のユニークネス、また唯一性と完結性がはっきりと論じられている。この事に関しても、多くのカリスマ派(ほとんどのペンテコステ派)や福音派のほとんどに異議はないはずである。評者もマッカーサーの論点の多くを支持するものである。ただし、ここで少なくとも三つのことを指摘したい。第一に、黙示22:18―19の解釈と適用に問題を感じる。それは、実際にここで黙示録を記していたヨハネが、黙示録だけでなく、新約の他のすべての書を意識しながらこのように書いたとは思えないからである。第二に、ユダの手紙3節に関する解釈と適用に問題があると思われる(55頁以下)。マッカーサーは、3節の「ひとたび伝えられた救い」のことを、「その信仰」、さらに「聖書を通して与えられた信仰、教理の体系」と考えたいようである。また、「ユダ3節は聖書の完全性について大切な聖句だ。・・・この聖句は新約聖書の完成前にユダが書いたのだが、全正典の完成を予想している」と記しているが、ユダ自身は本当にここまで意識していたのであろうか。ここにも解釈と適用に無理を感じる(先のBauckhamは、3節について詳細で適切な注解を与えている)。第三に、私たちは聖書の啓示と同等の啓示を認めないが、聖霊のある種の導き、うながしまでもが、2000年前に使徒たちと共に終わったと言い切ることが出来るだろうか。それほどの明確な証拠はないのではないか。この点は福音派(改革派神学やディスペンセーションの立場に属さない)中に、「啓示」という言葉は使用しないが、聖霊のある種の導き、示し、うながしを認める立場はあると思う。

5章「今日の奇跡」、9章「今日の癒し」、10章「異言の賜物」:第一にマッカーサーは、今日的な啓示を否定するように、今日的な奇跡の類(癒しや異言も)をも否定しているようである(明確でない言い方をしているところもあるが)。これらの章においては、まさに典型的なセセーショニストの議論が繰り返されている。聖書の時代にも奇跡が起こった時代と起こらなかった時代があったが、使徒たちの時代の終わりと共に、奇跡的な時代は終わったとマッカーサーは考える(例えば、104頁以下)。しかし問題は、それほど画一的に説明できるかということである。確かにある意味で、聖書のある時代には、他の時代よりも、より多くの奇跡が集中していたように見えるケースもある。しかし、それらはあくまでも聖書に記載されていることからの判断であり、またその他の時代でも全くそのような奇跡がなかったとは言えないだろう。また更に、使徒たちと奇跡を結び付けて論じられるが(113頁以下)、そのような奇跡のわざを使徒たちだけに結び付けることが出来るだろうか。この点に関しては多くの議論があることは確かである。評者は、どうしてもマッカーサーの議論の進め方の中に、ある種のリダクショニスティックなものをしばしば感じてしまう。つまり聖書が実際に語っていることを、より小さくしてしまう問題である(たとえば、賜物について188頁以下を見よ)。第二に、別の小論文で詳しく扱っているが、1コリント13章のマッカーサーの解釈にも不十分な点があると言わなければならないだろう(創刊号・小論文:「釈義的アプローチ:超自然的賜物は終わったのか?」も見よ)。

8章「初代教会の出来事」:マッカーサーは、ペンテコステ・カリスマ派における使徒の働きの読み方、またこれによって導き出されたいわゆる「Doctrine of Subsequence」の問題を明らかにしている。彼の主張の多くに賛成するが、賛成できない点もあるのでその中の二つを例としてあげてみたい。第一に、使徒の働きの読み方である。これはジョン・ストットなどと同じで、ナラティブを二次的なものとして扱っている(162頁以下)。確かに、命題的なものとの比較と調和は不可欠であるが、ナラティブそのものにも重要なメッセージがあることを否定することは出来ない。この点については、Liefeld著の「使徒の働き解釈学(訳者あとがきも)」なども参照していただきたい。第二に、聖霊のバプテスマの教理に関して、評者自身も、使徒の働き2章のペンテコステの出来事はマッカーサー(福音派の多くの理解でもある)が言っているように、「一度限りの出来事」であり、これを「全時代の全キリスト者の規範(170頁)」とすることは出来ないと思っている。その理由として、使徒の働きを記した著者の意図(目的)にそのようなものがあるとは思えないからである。もしあるなら、使徒8章、10章、19章でも、それにふさわしい(それを明らかにする)書き方があったに違いないと思われる。これらは一見類似しているように見えるが、よく見ると様々な相違もあることが分かる。

 

Bまとめて:第一に、マッカーサーの本は非常にInformativeであり、引用も厳密に的確になされていると思われる。この点でいい加減ではないので、更に詳しく学びたいなら、本書で用いられている資料などを調べると大きな助けになると思われる。ただし、引用されているものの中には極端なものもあるので注意深く取り扱う必要があるだろう。第二に、第一と関連しているが、著者の議論の進め方があまりにも断定的であるので、多くの読者(特に、カリスマ・ペンテコステ派)の受ける反応が否定的にならざるをえないと思われる。こうして、著者がもともと本書の準備の際に持っていた目的(281頁)が達成されるかと言えばはなはだ心配である。途中で投げ出してしまう読者もいるだろう。つまり、逆効果になりうる可能性がある。(ただし覚えいただきたいこともある。マッカーサーはカリスマ派だけに対してこのような厳しいとり扱いをしているのではない。彼の他の著書、論文を見ると明らかなように、心理学・カウンセリングの問題や「Faith Alone」の問題についても、マッカーサーは同じような取り扱いをしていると言えるだろう)。第三に、本書はカリスマ・ペンテコステ派の一部(極端なグループ)の問題を扱っているに過ぎないとして見過ごしにされてしまう可能性がある。しかし、ここで扱われている問題のほとんどは実際に起こった(ている)ことであり、これらの問題や課題を真摯に受け止める必要がある。学ぶべきところは学び、吟味するところは吟味し、批判するところは批判すべきであろう。

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C     (*)山本杉広著 全うされて一つとなる 
    オリーブ社、1996年、97頁、700円

 

 

本書の初めに、高木慶太師・テモテ・シスク師共著の「今日における奇蹟・いやし・預言」についての感想を記しておられる。

@こんなアプローチの本がもっと出るといい!

著者は、本書の8頁以下でこのように書いておられる。「反論の本は書き安いのです。書く側に結論があって、その結論にもっていくのに有利な箇所を相手の本から選び出し、自説を述べて、それを支持する聖句を付けます。すると読んだ人は「なるほど」と思うのです。どちらの側が書いても初めから結論ありきで、反論し合ってもけっきょく水掛け論です。多くの人は聖霊派の本を読んでも「なるほど」と思い、反聖霊派の本を読んでも「なるほど」と思います。…聖霊派の本は、聖霊派の人が読めば喜びますが、反聖霊派の人が読めば反発を感じます。同様に、反聖霊派の本も反聖霊派の人は喜んで読み、聖霊派の人が読むとカッカときます。…さて、今回は、反論ではなく、【今日における奇蹟・いやし・預言】の中から共鳴出来る部分を探してみました。」

評者は、このようなアプローチで、聖霊派も、反聖霊派も、お互いの本を読むことが出来るようになれば何と幸いかと思うのです。しかし少なくとも、これまでにはこのような本はほとんどなかったと言わざるを得ません。そういう意味で、本書をその先駈けとして紹介させていただきました。

私自身の甘辛文献紹介も、反聖霊派、聖霊派を超えて、良いところは良い、そうでないところはそうでないと言えるものでありたいと思います。

A著者に更にお願いしたいこと:

10頁以下で、著者は、共鳴できる部分として「第六章:まとめの福音派が学べる事柄」から引用され(1:リバイバルへの渇望 2:神の力 3:聖霊 4:生き生きとした賛美 5:祈り 6:賜物に応じた信徒の動員)、更にその後で、「リバイバルへの渇望」や「生き生きとして賛美」についてより詳しく語っておられます。著者は、高木慶太師と二十数年来の友人と言っておられるので(7頁)、なおさら、私としてお願いしたいことがあるのです(遅いかもしれませんが)。それは、著者が主にある友情に立ちながら、他の章の他の課題についても、共鳴できる部分を積極的に探していただけたらと思うのです。また更に、互いに意見の異なる部分についても、主にある相応しい分かち合いをしていただき、それを記事にしていただけたらどうでしょうか。読者は、これらについても期待しているのではないでしょうか。

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D     (**)ウォルター・L・ライフェルト著、 渡辺睦夫訳
   使徒の働き解釈学   ワーダン・スピリットの会出版、
   2001年、157頁、1800円 
Walter L. LiefeldInterpreting the Book of ActsBaker Books, 1995

 

 

『使徒の働き解釈学』の最後にある「訳者あとがき」を基に、本書に対するいくらかの批評を付け加えました。

@ナラティブにはナラティブの神学がある。何よりも大切にすべきことは、その著者の神学的意図(また目的)である。

はじめに:1975年にInterVarsity Pressから出版された著書Baptism and Fullness: The Work of the Holy Spirit Today「今日における聖霊の働き:聖霊のバプテスマと満たし(邦訳:いのちのことば社:1978年」の中で、著者のJohn Stottは、次のように記している(また初版は、The Baptism and Fullness of the Holy Spiritという書名で、1964年に出版されているが、ここでも簡潔な形であるが、75年版と同じ趣旨のことが記されている)。「聖書における神の計画の啓示は、主として、聖書の“叙述的”部分にではなく、“教訓的”部分の中に求められなければならない。さらに正確に言うなら、われわれはそれを使徒による働きの純粋な叙述的な部分の中にではなく、むしろ、イエスの教えや、使徒たちの説教や著作の中に求めるべきである。聖書において他の人々に起こったことは、必ずしもわれわれにも起こるはずのことではない。…私が言っていることは、誤解されやすいであろう。私は聖書の叙述的部分は価値がないと言っているの“ではない”。…私が言わんと“している”ことは、叙述的な部分は、教訓的な部分によって解釈されてのみ価値がある、ということである(邦訳:17―18頁引用)。」

この説明は、当時の多くの福音派教会(日本も含めて)のナラティブ理解の状況を表していたし、またそれ以降にも、大きな影響を与えてきたに違いないと思われる。John Stottの上記のことばの中にも、今日の私たちが耳を傾けなければならない重要な示唆が含まれていることは確かであるが、しかしその後、福音派教会のナラティブ理解と解釈は、格段に進歩して来たと言えるだろう。福音派の中で、特に、大きな影響を与えた専門家の一人が、本書でもふれられていたGordon Fee訳者のRegent College時代の恩師の一人である。Fee教授はDouglas Stuartと共に、一般向けの書として、1982年にHow to Read the Bible for All Its WorthZondervanを出版し、ナラティブは二次的なものではなく、ナラティブはナラティブとして、それに相応しく解釈することを強調している。最近の福音派の多くの専門家たちがこの流れに従い、Fee(もちろん、彼だけではないが)の理解はすでに定着して来ていると言っても過言でないだろう。

ナラティブにはナラティブの神学がある。また、著者の神学的意図(それはご聖霊の意図でもある[これはFee教授の確言]!)がある。これこそ、今日の私たちが真摯に学び、教えられるべき重要なメッセージである。もちろん、現在、その神学は何か、その著者の神学的意図は何か、ということで様々な議論があることは事実である。しかしその前に、どうしても確認しておかなければならないことがある。それは、どのようにルカの神学(また、ルカの神学的意図)を見出すことが出来るかということである。ルカの神学(神学的意図)に関して、自分の理解は正しいのか、その方向に向っているのか問いかける必要がある。そういう意味でも、本書は、上記のGordon Feeの理解に立ちながら、更に神学的に、解釈学的に、実際的に、使徒の働きの神学(ルカの神学、又神学的意図)をどのように学び、どのように見出し、どのように適用していったらよいかを教える希な書であると言える。

 

本書(特長など)について:本書は、Guides to New Testament Exegesisシリーズの一つであり、他にもIntroducing New Testament InterpretationInterpreting the Synoptic GospelsInterpreting the Gospel of JohnInterpreting the Pauline EpistlesInterpreting the Book of HebrewsInterpreting the Book of Revelationがある。編集者のScot McKnightが言っているように、各々著者は、牧師や神学生が聖書の各書のジャンル(文学的型)に対応する釈義のセンスを高めるための「釈義マニュアル」を提供している。したがって私たちは、これらの書から、特定のジャンルに関する知識と、そのジャンルに適切な釈義のための原理と実際を学ぶことになる(ただし、第一巻のIntroducing New Testament Interpretationには、新約釈義全般に必要な基本原理と方法が記されている)。

Liefeld博士(訳者の牧会学博士過程における論文の指導教授)も、このシリーズの目的に沿って、牧師や神学生のために使徒の働きを釈義するための解釈学的ガイドブックを準備している。博士がここで最も強調していることは、新約聖書における使徒の働きの特異性、そして、その背後に確かにあるルカ神学である。また、この「ナラティブ」に含まれているいくつかの重要な特徴が精査されている。こうして、読者がナラティブとしての使徒の働きを釈義するために必要な基本的原理と実際が十分に提供されていると言える。

本書には次の七章が含まれている。目的、構造、神学としてのナラティブ、スピーチ、主要テーマ、背景。そして最後に、著者は、釈義から適用に至る解釈学的過程において、神学的に、実際的に考慮すべき事柄を例示している。各章における著者のアプローチは、いつも一貫しているとは言えないが、ほとんどすべての章において含まれている要素はある。本書において、絶えず強調され読者に求められていることは、聖書が実際に何と言っているかを読者自身が自分で読んで明らかにするということである。Liefeld教授は、出来る限り帰納的に使徒の働きの目的やテーマを取り扱っているので、使徒の働きを学ぼうとする初心者にとっても分かりやすいと思われる。ただし同時に、著者は注意深くバランスを計り、必要とあらば、これまでの、また、現代の専門家たちによる他の重要な、または有効な見解を提示したり精査している。とにかく、自らの見解を一方的に押しつけるという手法ではなく、読者が使徒の働きそのものをもっと実際に読むためにも、一つ一つのテーマに関して公平な立場をとろうとしている。また、Liefeld教授は、本書の目的を知っているので、使徒の働きを釈義しようする者たちのために、原理的にも実際的にも有益な釈義的、解釈学的助け(一般的な実例、使徒の働きからの適例、要約など)を与えている。

本書の特長でもあるが、特に推薦したい点は次のようである。第一に、これは使徒の働きをより正しく釈義(解釈)することを願っている牧師や神学生のために書かれている。ただし、使徒の働きを解釈する上での歴史的、現代的課題や問題に関する重要な議論を棚上げにしないと同時に、本書が実践的な性格を持った書であることを忘れてはいない。第二に、これまでの、また、現代の専門家たちの議論を踏まえた上で、著者は使徒の働きの神学的、解釈学的問題を取り扱っている。そういう意味で、スペースの許す範囲であるが、必要な学問的レベルを保っていると言える。特に、使徒の働きの文学的ジャンルの特質に対する理解とそれに対応する的確な釈義と解釈学的プロセスを強調している。第三に、Liefeld教授は、上記でも述べたように、出来る限り、学問的公平性を保ち続けていると言える。つまり、他の見解を扱う時でも、自らの理解に従わせようと一方的に議論を進めていくやり方をとっていない。こうして、何よりも読者が、ある特定のテーマや課題に関して、聖書のみことばそのものをまず自分でよく読んで学ぶように仕向けていると思われる。第四に、最も重要な特長の一つだと思われるが、著者はこれまで扱ってきた釈義的手続きに立って、幾つかの実例を用いながら、解釈学的、適用的指針をも提示していてくれる。特に、3章の「ナラティブ神学」、7章の「機能を決定する:ノーマティブ(規範的)対ディスクリプティブ(描写的、叙述的)」は、特に重要であり有益である。

 

読者のために(本書と聖霊論、解釈学):本書の目的は、使徒の働きを解釈するために必要な解釈学的ガイドラインを牧師や神学生に備えることである。それゆえにこの書が、日本の聖霊論の神学的発展のために寄与出来ることがあるとしても、ほんのわずかであると言わなければならないかもしれない。ただし、私たちが“聖書的”聖霊論を構築しようと願うなら、それはまず、健全な“聖書的”解釈学を抜きにしては有り得ないことを認めなければならない。これまでに私たちの多くは、聖霊(論)的な関心、課題や問題を通して、使徒の働きに特別な関心を寄せて来たにもかかわらず、残念ながら、使徒の働きの健全な釈義、解釈については、あまりにも注意を払って来なかったのではないか。そういう意味で、私たちは使徒の働きを解釈学的にも十分に留意して取り扱うべきである。こうして、より的確な釈義、解釈を通して与えられた聖霊論に関わるデータを基に“聖書的”聖霊論を求めていきたいのである。

第一に本書は、使徒の働きを、釈義そのものからやり直して、もう一度読み直したいと願っておられる読者にふさわしいと言える。第二に、本書は、使徒の働きを解釈するための希有なガイドブックであるが、同時に、実際的に、また学究的にバランスが取れ、本格的な入門書の一つと言っても過言ではない。第三に、聖霊(論)に関する教えは使徒の働きにおいて、不可欠な要素として含まれているが、著者は健全な解釈学的観点から、使徒の働きにおける聖霊(論的)問題を注意深く扱っている。従って、本書は、使徒の働きの健全な解釈に基づいた“聖書的”聖霊論のための有益かつ重要な示唆を含んでいると言える。

1998年に、Gordon FeeNew Testament Exegesis: A Handbook for Students and Pastors (改訂版:Westminster/John Knox)や、S. E. PorterIdioms of the Greek New Testament (JSOT)が翻訳され、それぞれ教文館、ナザレ企画から出版されたことは、日本の釈義、解釈のために必要な道具が少しづつ備えられてきていると言えるかもしれない。しかしながら、文献的に言うならば、日本における解釈学の現状はなお遅れたままであると言えるだろう。例えば、聖書図書刊行会から翻訳出版されているBernard Ramm(バーナード・ラム)の「聖書解釈学概論(邦訳初版:1963)」は、解釈学のテキストとして、神学校や教会で長い間用いられてきた。確かに今でもなお読む価値はあるものの、現代の解釈学的発展の状況から見るならば、ほとんど時代遅れの感は否めない。このような日本の現状において、本書のようなタイプのものが牧師や神学生のために出版されることはそれなりに意味のあることではないかと思われる。本書を通して、少しでも、ナラティブとしての使徒の働き(聖書にある他のジャンルも)の釈義、解釈が更に進展することを期待したい。

 

書名:「使徒の働き解釈学」に関して:「釈義」と言っても読者の理解が異なっている可能性がある。特に今はそうである。したがって、まず本書(訳者も)の理解を確認していこう。「釈義」とは、聖書本文が記された時点で、著者(記者)は何を言っていたのか、何を言おうとしていたのかを明らかにすることである。そして、その釈義的な意味が、今日の私たちにどのような意味を持つかについて考え、取り扱うのが「適用」である。更に「解釈学」には、これらの「釈義」から「適用」に至るまでの解釈学的プロセスの全般が含まれていると言える。

本書の大部分には、実際に、釈義的原理とその方法が記されているが、最後の7章では、使徒の働きからの釈義的結果を、どのように相応しく「適用」していくべきかについても注意深く論じられており、解釈者にとって有益な示唆が多く含まれている。そういう意味で、やや大袈裟ではあったが、本書のタイトルを、「使徒の働きをどのように釈義するか?」、「使徒の働きをどのように解釈するか?」、「使徒の働きの解釈」でもなく、「使徒の働き解釈学」とさせていただいた。

 

A本書についてのいくらかの批評(1章、2章、4章

1章「使徒の働きの目的」:1章において、どのようにして使徒の働きの「目的」を見出したらいいかという実際的すすめ、また「目的」に関するいくつかの見解が吟味されているが、読者のためにもう更に付け加えていただきたいことがある。それはナラティブを解釈する上で「目的」を見出すことがどんなに重要であるかということである。本書で全く扱われていないということではないが、「目的」、またそれを見出そうとすることがどんなに重要、かつ有益であるか、その動機づけのためにも、更に詳しい説明を求めたい。

2章「使徒の働きの構造」:2章において、使徒の働きの構造に関するいくつかの見解の紹介と分析が簡潔になされている。特に、二つのコメントを記したい。この中でLiefeld教授は、「地の果て(1:8)」と「ローマ」を別のものとして扱っておられるが、「ローマ」を「地の果て」に含まれるものとして考えられないのか。こうして、1:8のイエスキリストのことばは、一先ず使徒の働き28章で成就したということになる。それとも、ある意味で、使徒の働きがこれからも継続され、「ローマ」が拠点となって、文字どおりの「地の果て」宣教がこれから始まることを読者に暗示しているのか。更に、読者がこの「地の果て」宣教に参与することも求めているのか。確かに、この世界宣教の時代は再臨の時まで続くのである(1:11)。またLiefeld教授は、13の「要約的説明」を取り上げておられる。しかしながら、他にも「要約的説明」の範疇に入る可能性のものがあると思われる。例えば、8:25、40などである。逆に、教授が「要約的説明」として取り上げておられるものの中にも問題が無いわけではない。「要約的説明」とは一体何かについての説明も必要であろう。

4章「使徒の働きにおけるスピーチ」:4章において、スピーチの特徴、その歴史的価値、そして、スピーチをどの観点から分析していったら良いのかについて取り扱われているが、ここで取り上げられていないが特に重要であると思われるスピーチに言及したい。それは、弟子たちが直面したいくつかの危機的状況下で、神(父なる神、御子キリスト、聖霊、御使い)からの直接的なスピーチ(語りかけ)があったということである。これらの「神的スピーチ」は文脈的に見ても特に意義があり注目に値すると思われる。例えば、1:6―11;9:4―6;10:9―16;13:2;18:9―10;23:11;27:23―26などである。

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[1] Mutsuo Watanabe,”An Examination of the Phenomena of Pentecostal and Charismatic Prophecy and the Claims made for it” (Th.M. thesis, Regent College, 1993) . これは、初め、1989年?にJ.I.パッカー教授に提出した小論文の一つで、その後、卒論の一部(13頁から23頁)として使用したものである。日本語訳にする際に少し読み易くしている。また脚注に関しては、最低限必要なものだけを残したのでご了承ください。  

[2] この事に関して、他に言及される聖書個所は次の通りである。黙示録22:18―19;エペソ2:20;4:11―12など。ただし、これらが相応しいかどうかについては議論の余地がある。

[3] 例えば、次の人々を上げることが出来る。MacArthur, Corinthians, 359;

Robert L. Thomas, Understanding Spiritual Gifts:The Christian’s Special Gifts in the Light of 1Corinthians 12-14 (Chicago: Moody, 1978), 105.

[4] Carson, Spirit, 66-67, and Exegetical Fallacies (Grand Rapids:Baker, 1984), 77-79; Fee, Corinthians, 643-4. 例えば、ルカ8:24において、嵐がとまった時(epausanto)、それは、嵐がひとりでに自分で止まったということではない。イエス様によって嵐が治まったのである。他に、使徒20:1、ヘブル10:2を見よ。

[5] Carsonは、to; ejk mevrou"を注意深く、「in-part-ness」と訳している(Spirit, 68)。新共同訳では、「部分的なもの」と訳されている。

[6] その他に、to; tevleionは「愛そのもの」をさしているという説もある(この説に対する反論は、卒論(渡辺)、15頁、脚注66を見よ)。

[7] Richard B.Gaffin, Perspectives on Pentecost  (Phillipsburg, NJ.: Presbyterian & Reformed, 1979), 109-11.

[8] R.L.Thomas, “Tongues...will Cease,” Journal of the Evangelical Theological Society 17(1974), 81-89.

[9] つまり、11節において、パウロは「成熟、未熟」について書いているのではない。

[10] B.B.Warfield, Counterfeit Miracles (London:The Banner of Truth Trust, 1972), 25-28. また、Warfieldは、特に超自然的な賜物と使徒たちの結びつきを強調している(2頁以下で)。しかしこの問題をWarfieldは、釈義的には扱っていない。John F, Walvoord, The Holy Spirit( Grand Rapids, Michigan: Zondervan/ A Dunham Publication, 1958), 163-88をみよ。

[11] FeeCorinthians, 645.

[12] MacArthurCorinthians,365)は、「完全なるもの」は中性形(ギリシャ語)であるので、それが「人」をさす可能性を否定している。しかし、to; tevleionの性を強調する必要はない。なぜなら第一に、to; tevleion(中性)は、910節において、to; ejk mevrou"(中性)に呼応しているにすぎない。またCarsonが言っているように、to; tevleionは,再臨の到来によって起こるある状態を示しているかもしれない(Spirit, 69)。内田和彦先生は「終末における救いの完成」と考えておられる。なおRichard Gaffinも「完全なもの」を「再臨」と考えているが、ここでパウロが強調したいのは、「預言(者自身)」のことではなく、預言を通して受けた信者側の「部分的な知識」のことであると主張する。こうして、この部分的な知識が再臨において不要になるのであり、パウロの関心は預言(の賜物)が最後まで継続するかどうかではないとみる。しかし8―12節までのテーマは、本当に「(信者たちの)知識」であるのか。第一に、8―12節までの構造からも明らかなように、8節全体がこのところの主題で(つまり、知識だけでない)、9―12節はその理由、そして13節は結論である。第二に、1コリント12―13章で、特に問題になっていたこと(これはコリント教会の問題の一つ)は、「知識」のことよりも異言と預言のことであった。

[13] Spirit,71.

[14] H.B.Swete, The Holy Spirit in the Ancient Church (London: Macmillan & Co., 1912), 31. W.H.G.Thomas, The Holy Spirit (Michigan: Kregel, 1986), 78,82.

[15] G.Thomas, The Holy Spirit, 82.

[16] C.B.Kaiser, The Doctrine of God (Philadelphia: Westminster, 1970), 55. Kaiserは、5つの例を次のように上げている。(Clement of Rome, To the Corinthians 46:6; 58:2, Ignatius, To the Magnesians 13:1,2, The Martyrdom of Plycarp 14:3

[17] G.Smeaton, The Doctrine of the Holy Spirit (Pennsylvania: The Banner of Truth Trust, 1980), 292.

[18] Ibid., 300-1.

[19] Earle Cairns, Christianity through the Centuries (Michigan: Zondervan, 1967), 110.

[20] Ibid., 110-1.

[21] G.Smeaton, The Holy Spirit, 303.

[22] Calvin: Institutes of the Christian Religion, I.9.T (J.T.McNeill, ed., Philadelphia: Westminster ,n.d.)

[23] Cairns, Christianity, 111.

[24] G.Smeaton, The Holy Spirit, 302.

[25] Christian Institutions, 102, quoted by G.Thomas, The Holy Spirit, 80-1.

[26] Kaiser, The Doctrine of God, 55.

[27] Smeaton, The Holy Spirit, 304.

[28] Kaiser, The Doctrine of God, 57,65-6; Against Praxeas, 7:15,6:13.

[29] A.I.C.Heron, The Holy Spirit (Philadelphia: Westminster, 1983), 68.

[30] H.Bettenson, Documents of the Christian Church (London: Oxford University Press, 1963), 35.

[31] Smeaton, The Holy Spirit, 307.

[32] Cairns, Christianity, 145.

[33] Smeaton, The Holy Spirit, 309-10.

[34] Kaiser, The Doctrine of God, 60.

[35] 聖霊の発出の教理については、Smeaton, The Holy Spiritの317頁以下を見よ。

[36] Bettenson, Documents, 37.

[37] Smeaton, The Holy Spirit, 332,334.

[38] Cairns, Christianity, 149.

[39] Smeaton, The Holy Spirit, 339.

[40] この小論文は、これまでの歴史(1世紀―19世紀まで)において、特に重要だと思われる預言現象、預言運動を扱っている。

[41] 内的証拠から、この書は第一世紀のものであると思われる。年代、執筆場所については、JBLightfootThe Apostolic Fathers Grand RapidsBaker、1974)、121―2頁を見よ。また、Ronald A.N. Kyddが、この書は「地理的にかなり広い範囲の人々に対して語っている」と指摘していることは内容的に可能である Charismatic Gifts in the Early Church [Burlington, Ontario: Welch Publishing Company, 1991],7頁)。

[42] 著者は、これらのテーマを扱う時に、その初めに, peri de を用いている。

[43] 特に、11:7; 11:2 dekasqe auton o" kurion);11:4 decqetw o" kurio");13:17をみよ。

[44] Didache  11―12、AnteNicene Fathers Grand RapidsEerdmans、1976),7:380―1.

[45] Ibid., 11:2-12; 12: 1-5, ANF, 7: 380-1.

[46] Ibid., 13, ANF, 7: 381.

[47] 使徒11:27―8; 21:10―11; ヘブル13:2; 2ヨハネ7―11; 3ヨハネ5―8。

[48] 特に、この表現 all ean ece tou" tropou" kuriou [11:8])から、真の預言者のしるしとして主に似ることが求められていたことが分かる。マタイ7:15―23; 2ペテロ2:1―3をみよ。また、預言者をテストすることに関して、本書はキリスト論的基準(1コリント12:3;1ヨハネ1―3章)や霊を見分ける賜物(1コリント12:10)を提示してはいない。それ故にH.B.Sweteは、この霊を見分ける賜物はディダケーの読者たちの教会からは消滅していたようであると言っている The Holy Spirit in the Ancient Church [London: Macmillan, 1912], 21)が、それは性急な結論かもしれない。

[49] David E. Auneは、これらの用語の違いを区別しようとして次のように言っている:預言者を見分けることは使徒達や教師たちを見分けるよりももっと厳しかった Prophecy in Early Christianity [Grand Rapids; Eerdmans, 1983], 225-6)。しかしH.A. Guyの取扱いを見よ New Testament Prophecy [London: The Epworth Press, 1947], 174-5)。参照:使徒13:1。

[50] Victor Budgenは次のように書いている。「ディダケーは、その反対のことではなく、真正な預言の賜物の現象、又は消滅さえも示している。聖書が語っていることと次のディダケーの言葉との明らかな対比を見よ。御霊によって語る預言者をテストしたり、調べたりしてはならない。(The Charismatic and the Word of God [Darlington, England: Evangelical Press, 1989], 114)」しかしこの主張は決定的ではない。これまで見てきたように、逆に、本書はある種の活発な預言運動 (多分、偽預言の活動も含まれているが)を示しているし、著者は真の預言者を尊敬を持って扱うことを強調している。

[51] この手紙は、96年頃に書かれたとみられている。この手紙についての簡潔な紹介に関しては、The Oxford Dictionary of the Christian Church, 2nd ed., eds. F.L. Cross & E.A. Livingstone (Oxford: Oxford University, 1974), 299-300を見よ。またこの著者については、L.W. BarnardStudies in the Apostolic Fathers and Their Background (Oxford: Basil Blackwell, 1966), 12.

[52] The First Epistle of Clement 37, ANF, 1: 15.

[53] Ibid.

[54] Ibid. 38, ANF, 1:15. Kirsopp Lakeは、この所を「According to the position granted to him」と訳している(“The First Epistle of Clement to the Corinthians,” in The Apostolic Fathers[Harvard University Press: Cambridge; Massachusetts, 1975], 72-3)。しかし文脈からみても、この訳はありそうもない。ANFは、欄外に直訳を載せている。「According as he has been placed in his charism

[55] この用語は、第一世紀最後の三分の一について用いられている Raymond E.BrownThe Churches the Apostles Left Behind (New York, NJ.: Paulist, 1984), 13-30.

[56] The Holy Spirit Grand RapidsKregel1986,82                              戻る